キモくて金のないおっさん、kkoとも言われるが、彼らは救いが与えられないこと、救いを与えられうるものとして自身らが社会的に認知されていないことに対して不平や嘆きの声を上げる。
しかし彼らは救われるべきか?
社会的にゴミだから野垂れ死ねばいいとか、そういう暴論で〆るつもりはない。
努力してもしなくても苦しくない人は沢山いる。努力しなかったから今苦しい目に遭っている、などという因果関係を人間の否定に安易に使っていいなんて、疑いなく言える時代は終わりつつある。
ではどのように考えようか。
僕の人間救われ論では、ある程度の理由を持って不幸である人間は、その理由がどれだけ自分に帰責されるかによらず、理由なく救われることはないと思っている。
だから、キモくて金のないおっさんが理由なく救われる(社会の視点が変わって、彼らに優しくなるなど)ことはないと思っているし、そんな世界であるべきだとも思わない。
だから、キモくて金のないおっさん側の変化が必要であると思う。
一つに、キモくて金のないおっさんは、キモくなくて金があれば幸せになれるのかということから疑いたい。
おそらく、最も穏当な結論は「一概に言えない」だろう。
幸せになる奴もいる、でもなれない奴もいる。
そいつにとっての幸せがどういうものなのか、そいつが関わってる仕事、業界、趣味の世界、または家族、同僚、趣味仲間、友人などがどういうものなのか、などで、幸せになれるかどうかが変わってくるだろう。
「金より容貌よりも、性質の良さや他者への配慮、感謝、愛があれば…」なんていう″諭し″には、なるほど唾を吐きたくなるかもしれない。
さっきの「一概に言えない」は、この文脈でも効いてくるからだ。
だが、現状において容貌も金も手に入らないなら、その路線でやっていくのがヘルシーであると言わざるを得ない。
金を使わずに人に大切にしてもらうためには、人の良さか面白さを身につけることが妥当な、もしくは堅実な道だと僕は思う。
ただ面白さは難しい。人を不快にする、モラルに反する、人間性を疑われる落とし穴がそこかしこにある。
勿論スベることも想定に入れるべきだ。
一方で人の良さは、個人に、過度に、攻撃的にやらなければ、おおかた何とかなることが多い。
コンビニやスーパーで目を見てお礼を言う、ゴミの分別をしっかりして時間通りに出す、会社の人間に横柄な態度を取らない。
このくらいなら、あまり顰蹙を買うこともないし、人の目にとまれば良い印象を持たれる可能性が高いだろう。
偽善者だとか、キモくて金ない奴がそんなことやったっていい気持ちにならないんじゃとか、そういうことを言う輩もいるかもしれないが、そいつらも大抵不幸だからほっといていい。
もっと言えば、人や自分を属性で結んで、その属性で人を叩いたり蔑んだりしないこともやるといい。
それだけでも、「人間を安易に区別して良し悪しを判断することで自分を慰めている貧しい人」ではないんですよ、とアピールできたりする。
難しいけどね。口では「差別する気はないのよ?」とか言ってるけどバリバリ属性で人間を語るし差別するしという奴らも多いしな。
案外、そういう語りはあまり相手にいい気を起こさないと思う。だがこの感覚は僕の属した集団によるバイアスが大きいかもしれない。そういったカテゴリー化→叩くの会話しかできない奴しか周りにいなかったら、それはすまない。このやり方は採用しないでくれ。
これに関しては、普段からやらなくてもいいと思う。多かれ少なかれ、人間はカテゴリー化して何かを捉えようとする。徹底してやろうとすると毒だ。ただ、普段からやるとイレギュラーな場面でもそういう振る舞いができる。
善意です、とか、優しさです、とか、そういうパッケージで売るなら尚更。
キモくて金のないおっさんとして社会からの孤独を感じているならば、「目の前のその人にやってやると良いこと」の感覚がズレてしまってる可能性がある。そうすると、良かれと思ってやったことが仇になるなんてことが起こってしまう。
これは悲しい。本当に誰も幸せになれない。
人の良さを提供しようとして出てしまう攻撃性は無自覚なものだから、なかなか気づけないとは思うけど、意識と反省、訓練である程度どうにかなる。
ゴリ押しになっちゃうんだけど、人生、難しいことはゴリ押しでやるしかないことも多いと僕は思う。
キモくて金のないおっさんは救われるべきか?とはじめたが、僕の答えは最初と同じ。
「救われたい奴が救われようとしたら救われるといい」
そんな感じ。長々書いたけど、リアルキモくて金のないおっさんの相談とか受けたことないからこの文章はかなり適当だ。最後まで読んでくれたならありがとうやで。
いえいえ。。