はてなキーワード: ポリティカル・コレクトネスとは
みんな忘れてしまったのだろうか。あの祝祭的な季節を。
ぼくは覚えている。それは90年代半ばに始まった。
海外でアニメが人気だと新聞に報じられ、日本のアニメが国際的な競争力を持ったコンテンツだと、盛んに論じられた。
エヴァのブームや村上隆のアートもそれを後押しした。あるいは岡田斗司夫の各種書籍も貢献していたかもしれない。
アニメは幼児的だとバカにされているが、実はそのローカル性こそが世界では面白がられるんだ。あるいはアニメこそが作家主義を貫いて深いドラマを作れるんだ、とかも言われていたっけ。
まぁ、要するに文学や邦画なんてまったくダメで、アニメこそが日本の誇るべき文化なんだ、という論調が一気に広がった。社会学者や文芸評論家もこぞってアニメを語るようになった。
国もそれに同調して、「クールジャパン戦略」を唱えるようになった。アニメを輸出して日本の文化的プレゼンスをあげようとした。これ自体は音楽を戦略的に輸出したイギリスのクールブリタニカ戦略の猿真似だったけど、実際にやったことは誉めてやっていいだろう。石原慎太郎が「ほしのこえ」を絶賛していたんだぜ。
そうやってゼロ年代半ばにはクールジャパン論はピークに達していた……しかし、その後の惨状はどうだろう。
まずクールジャパン戦略は無惨にも失敗に終わった。これ自体は今でも施策が続いているが、アニメの姿はなりを潜めて、ゆるキャラや各地の名産品を押し出すようになっている。各国にあるクールジャパンショップも同様だ。
アニメこそがすごい文化なんだ、という論調も次第に静かになっていった。アニメを持ち上げる人が、どんどんいなくなっていった。
それはアニメ自体の流行の変化にも原因があるだろう。攻殻機動隊やエヴァンゲリオン、カウボーイビバップといった「大人向けアニメ」はあまり作られなくなり、キャラクターのかわいさを押し出す「萌えアニメ」が主流となっていた。
それはまだいい。致命的なのは「萌え」が語るべき言葉を持っていなかったことだ。
ゼロ年代にはまだ「萌え」こそが思想的に新しくて最先端の消費行為なのだと言い切ることもできた。「萌え」の言葉の意味や、それのなにが新しいのかを語ることができた。
しかし、個別の作品を語るとなると、「このキャラがかわいい」で終わってしまう。これが決定的にまずかった。
なぜなら、それはクチコミで広がらないことを意味している。エヴァはこういう作品で、ここが面白いんだよ、と説明できる。しかし、萌えにはそれができない。言語化できないってことは、海外にも紹介できないってわけだ。
さらには社会的な風潮の変化も、アニメには打撃を与えているあろう。90年代はまだ表現の自由がどこまでも広がっていくという幻想があった。あれも表現してOK、これも表現してOK、村上隆のオタクアートはその幻想を土台にして成り立っていた。
しかし、その後にやってきた現実は、大きなバックラッシュだった。ポリティカル・コレクトネスが席巻し、あれもダメ、これもダメ、という世界がやってきている(かつて政治的な正しさは「生真面目なやつらがくだらない批判をしているぜ」とお笑い草にされていた。そのときの空気は、『政治的に正しいおとぎ話』シリーズで感じ取ることができる)。
これはアニメにとってとてつもない逆風だ。なぜなら、アニメにおいては奇形的であることがクリエイティビティの証明だったからだ。たとえば、ゼロ年代は「エロゲー」をベースにした諸作品が注目を集めたが、これは今ではとてもじゃないが取り上げられなくなってしまっている。
アニメは今ではかつて(90年代半ば以前)のように「省みられない」存在に戻ってしまった。
日本のコンテンツで話題になるのは、コンマリやテラスハウスだ。まだ宮崎駿や新海誠はがんばっているけど、かつてのように「アニメというジャンル自体に優位性があるんだ」という勢いはない。みんな忘れているけど、「すべての映画はアニメになる」なんて言われていたんだぜ。
今ではアニメが話題になるといったら、アニメーターの待遇がどうだ、といった就労問題ぐらいだ。
しかし、この残念な現実を見るに、なんでこうなってしまったんだろうと首をひねってしまう。あれは幻想だったのだろうか。いったいどこで道を間違えてしまったのだろう。みんなあのころのことはどう思っているんだろう。忘れてしまったのだろうか。あるいはまた盛り上がることがあるんだろうか。日本の未来は、これからどうなってしまうんだろう。
例えば賢い増田なら「PC」って言葉を聞いたときにwindowsPCの事をイメージして、OSXがインストールされたMac端末の事をPCとは看做さないし況してやiPadなどもPCとは扱わない訳じゃん。
ところが、一般人からするとMacどころかPC-98のこともPCとするし、なんだったらポリティカル・コレクトネスのこともPCとしちゃうわけだ。
これは何がそうしているのかというと、知識というよりは「歴史認識」の差がこの違いを生むわけよ。
だから、文章に何がどう書いてあろうと「この人はこの文章を書いたときに何を想定して書いたのか」が明文化されていないと(あるいは明文化されていたとしても)意識合わせって作業が必要になるわけじゃん。
具体例を言うと憲法24条には
婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない。
ってあるわけだけれど、現代人の認識は「両性」っていうのは「雄/雌」を指すわけだけれども、憲法制定時は実は「両性」っていう苗字の人がいて、その人が結婚を許可してたとかのかもしれないし。
そこらへんに質問投げてくるとかは単に面倒臭いだけで人の能力がどうのこうのという話でもねえな。
寧ろ丁寧であるとすら思える。
こういうのには、やっぱ思想教育よ。思想教育から始めれば相手が何をおもんぱかってるかのロジックをシンプルにすることができるからなw おススメ。
真のポリティカル・コレクトネスはここからはじまると俺は信じている
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/ポリティカル・コレクトネス
これ見てて思った
性別を限定する職業を男女共通で使えるようにするのもポリコレだが↓のように
職業 伝統的な表現 ポリティカル・コレクトな表現
議長 chairman chairperson または chair
実業家 businessman businessperson
写真家 cameraman Photographer[要検証 – ノート]
英語で見ると男性限定の表現だったものが女性も使えるようになった例が多い
それに対して日本は女性限定の名称が男性も使えるように変更されたものが多い。
カメラマンやビジネスマンキーマンのような海外では既に改定された用語はそのままなのは、日本人はマン=男という意識が薄いからだろうか?
看護士 看護師 2002年、保健師助産師看護師法改正。男性も職業に就いているため。
障碍者 「害」の字が使われていることに不満がある人の感じる悪い印象を回避するため。2001年(平成13年)に東京都多摩市が最初に採用。
助産婦 助産師 2002年、保健師助産師看護師法改正。ただし現行では資格付与対象は女性限定である(同法3条)。
保父 保育士 1999年、児童福祉法改正。男性も職業に就いているため。
キャビンアテンダント (CA) 1996年に日本航空が従来の呼称を廃止。他社も追随した。世界の航空会社では、男性も従事している。
トルコ風呂 ソープランド トルコ人留学生、ヌスレット・サンジャクリの抗議により、1984年に改称。
女優 俳優 男優という言葉があるのにもかかわらず、男性のみに俳優という肩書が使われることが多いため。
メクラフランジ 閉止フランジ JISなども改正済み 英語ではblank flange・blind flangeなどと云い、JISでも記号はBLと残る
ガーディアンズ・オブ・ギャラクシーの監督が降板させられたなら、ディズニー内にこんなポリティカル・コレクトネスに反しているシリーズがあるなんて即時撤廃だな!
第一章 前提
1.キズナアイに限らず、理系男女はSF好きなんで、こういうサイボーグ的なやつは心の奥底では嫌いではない。
2.ただ表現をなりわいとしない理系男子がしかけると、だいたい一般女性や理系の女性にひどい嫌悪感を抱かせて失敗する。
2-1.実例 ロボット学会(掃除婦)、日本化学会(理系を志す一般高校生女子に向けた記憶に残したくない惨状的メッセージをユーチューブにアップロードして即日削除)
2-2.理由 ポリティカル・コレクトネスと表現の機微について普段から1秒も考えてない人が5分で考えたデザインを発注した。
2-3.結果 なんかほんときもい。無理。
2-4.社会への波及効果 もちろん規定の金額と期間で受注した絵師は何も悪くないため、絵師のファン・潜在的好感者も巻き込み「うちの神絵師に何してくれる」「あの絵柄はいい絵柄だ」「エロくないからいいじゃん」と反論大炎上
3.なんで理系オタク女子としてはとても複雑。後輩に楽しく同じ道を選んでほしいのに、女性として幸せになりたいならこんな男女差別ひどいとこ来るなとも思うし、萌え絵がただで見られるのはちょっとうれしいけど、どうみても嘘くさい無理やりな男女平等的表現みせられバレバレだから誰もこないから嬉しくなくて、そもそも、あの絵師ならパイオツ/メカ/童画を塗らせてなんぼだろ、本来単行本を出す時間をこんなんに割いてくれて個人的にはうれしいけど同好の士には申し訳ない、みたいな。
第二章 今回の例について
1.メディアがNHKだったから女性弁護士が驚いてたけどこんなもんしょっちゅうだよ。はなほじ。あっでも遠回りにいつもお世話になってるかもなので表立って反論は言いたくない。
2.ただし、いろんなタイプの人をいくつも無視して踏み越えてツギハギ表現しようとしたNHKはほんとに下手だねーと思う。どんな気持ちかっていうと
2-1.ノーベル学者らの定義を正しく、厳密に、省略せず報道してほしいという気持ち。
2-2.一般女性の、いちいち脅迫的な萌え美意識をおしつけられずに情報を得る目的が達成されるだけのテレビを見たいという気持ち。
2-3.Vチューバー支持者の、うちの子は至高の癒やしアイドルだという気持ち。「○○ちゃんはそのままで十分かわいい」
3.結果 だれがみてもバカバカしい。ノーベル賞の解説は先クール放映されたばかりのはたらく細胞の7話で(萌え絵でなく)ちゃんとわかるってツイッターでもりあがってる最中にわざわざ萌え絵キャラだ。なら男性チューバーもアシスタントのアシスタント役(立ってるだけ)で出せよ。クールジャパンつながりにしようとしたのか、ひどいジャンル違い。
4.さらに旧帝大卒理系女子から一言いわせてもらうなら クール・ジャパンを唱えるより東京医科歯科大学とか氷山の一角の女性差別を先にどうにかして国際競争力をあげろよ、男は本当単細胞的に頭わるいから、過去も将来も女という生き物を使いこなせず男の考えた性役割(=遠回しなお母さん)におしこめつづけるばっかり。(たとえばフッ素と塩素は、素材として違うとはいえ互換性が相当あるようにそもそも神がつくってあるのに、素材の色が嫌いだからフッ素だけ使わないとかやってたら何も研究が進まない。それが人間の男女ではまず片方しか見ないのが普通。バカ?)。
5.クールジャパンについて 原画さんアニメ監督さんばかりでなく下積みの動画さんにも給料もっとやってくれ。声優は東京以外でもイベントやってくれ。
イコールって言ってもセリーナがトランプの支配するアメリカの象徴って意味ね。
岡田光世 「トランプのアメリカ」で暮らす人たち 全米テニス決勝で吹き出した政治的分断
https://news.infoseek.co.jp/article/20180916jcast20182338771/
反トランプ派
この一連の騒動について反トランプ派は、 「どんな手段を使っても勝ちたいというセリーナは、大統領選の時のトランプと同じだ」、
「気に入らなければ、相手を激しくたたく。まるでトランプだ」、
「セリーナも観客も、同じアメリカ人として恥ずかしい。アメリカ・ファースト。アメリカ人以外の選手には敬意も払わないのか。観客は親トランプ派に違いない」、
親トランプ派
一方で親トランプ派は、まったく逆の捉え方をしている。
米国の政治や社会を紹介するウエブサイト「スペクテーターUSA」には、
「泣き言を言うセリーナ・ウィリアムズはテニス界のヒラリー・クリントンだ(Whining Serena Williams is tennis's Hillary Clinton)」との見出しで論評が掲載された。
「思うように試合が運ばないと審判に怒りを爆発させるセリーナは、2016年大統領選で自らの敗北をさまざまな不正と他人のせいにしたヒラリーと同じだ」と指摘した。
親トランプ派の捉え方は割と珍しい解釈ではなく、オーストラリアの諷刺画はもちろん、
リベラルな立場の人が多いはてぶでも似たような「セリーナ・ウィリアムズ=ポリコレの象徴」解釈だった。
ウィリアムズは暴言、権力に訴えて無理矢理自分の意見を通そうとするナショナリスト。
この解釈に基づくなら、アメリカの反トランプ派にとっては大坂なおみこそが真のポリティカル・コレクトネスの大権現なのか?
てっきり女性差別や人種差別と闘う母であるウィリアムズを下した時点で、
大坂を応援する側がジャパニーズ・ナショナリスト認定されているのかと思っていた。
複雑すぎて良く分からなくなってきたよ?
マジレスすると。
ポリコレって、「ポリティカル・コレクトネス」の略で、「政治的に正しいかどうか」っていう問題であるのに対して、セックスとか性的な問題って言うのは個人的な事なので、個人的な話に政治は干渉しない、っていうのが「ポリコレ」っていうことになる。
強引に犯されるのが好きな女性や、女王様からハイヒールで踏みつけられるのが好きなオッサンもいて別にかまわないし、そういうAVがあってそういうのが好きで見る人が居ても、それは個人の問題で、政治的にどうのこうのという話では無い。
強いて言えば、たとえば皇族は、完全に自由ってわけにはいかないだろうな。庶民には知る由も無いが、なんらかの「正しいSex」的な流儀みたいなのが有りそうな予感はするよな。知らんけど。適当な事言ってごめん。
政治的に問題になる可能性があるとすれば、「AVでおかしな知識を身に付けた男たちのせいで、不幸になる女性が多すぎる!」みたいなことが社会問題になった場合だろうな。現にそうなってるから、こういうネタが増田に投稿されるのかな。
そういう声が強くなれば、既存の仕組みで言えば「映倫」の規制方針が変わっていくことになるだろう。現にアメリカでは、随分昔から、強姦的なAVは禁止だ。自由の国アメリカで、拳銃の所持さえ認められているのにね。
女性受験者に対する一律減点措置に対しては避難する立場にある。
したがって今回の東京医大の女性受験者への一律減点措置は醜悪な性差別であると同時に,日本国憲法への重大な挑戦であると受けとめ,誠に遺憾であるとこれを匿名で非難する。
また「予め減点を広報すべきである」という意見は男女共同社会及びポリティカル・コレクトネスの時代において愚考と言う他ないだろう。
が,個人として絶賛過疎であるおらが村に女性医師が来てほしい,また入院中の担当医になって欲しいか?と問われれば断固として拒否する。
その理由は散々言われていることであろう女性医師ゆえの不具合が多すぎるからである。
担当医師の一時的変更による一貫性のある治療が受けられないこと,
さらに生理日による感情と体質の変化によって診断の基準が変化することに依って患者が被る負担は計り知れないものがある。
また飢餓,不眠不休への耐性はあるが,一般的に責任感が欠けていることを否定する要素がないことを統計が証明してしまっている。
当時の状況の説明を求める記者へ「頭が真っ白になり涙が溢れて」と取材を拒絶したことへ批判が集まったことを覚えている人も多いだろう。
氏は結局逃げるように依願退職したが,こんなことを過疎の村や重大災害時にやられてはたまったものではないだろう。
the expendables was so manly i fucked the shit out of the little pussy boy next to me! the boys are back in town!
確かにドン引きしてしまうツイートではあるけど、ディズニーで仕事するようになって少年性愛とレイプに関するジョークについて謝罪し、
何より現在はそういったツイートをしなくなって久しいのに、「そういう過去があるのでクビ」には希望を失ってしまう。
謝罪しても改善しても過去にやったことは一生許されずに職まで失うシステムって、正しさのレールから一度でも落っこちたら、
その後何を積み上げても終わりということで、村社会への回帰というか、しかもインターネットの拡散力のおかげでどこに逃げても
過去のやらかしに一生追いかけられて、旧型の村社会よりもハードになっているようにすら感じる。
ガン監督が問題ツイートを繰り返していたのは、仕事で認められていなかった時期だそうだけど、不遇な時期にも完全な正しさが要求され、
人生を通じてノーミスである義務を死ぬまで負い続けるのってきつすぎる。
ただ少年性愛とレイプにトラウマがある人にとって、それらを冗談にしてしまうのは侮辱的なことだし傷つくことだと思う。
多くの人が自分にとって不快なものを目にしない権利を欲しがる。駅のデジタルサイネージや中吊り広告に、
死体写真やゲイポルノが載っていたら嫌な人が多いだろう(ネクロフィリアやゲイであっても公共空間に引き出されることを望まない人が多いだろう)。
でも個人のSNSアカウントは、見た人が不快に感じる可能性が高い発信をしない義務をどれくらい負ってるんだろう。
商業目的で公共性のあるメディアが負っているポリティカル・コレクトネス検閲コストを、どこまでかける義務を負うんだろう。
例えば駅のデジタルサイネージや中吊り広告に死体写真やゲイポルノがある場合、通勤通学のために逃れられないけれども、
ガン監督の少年レイプジョークツイートの場合は、不快と感じたらアカウントをミュートできる。
その不快なコンテンツから逃れることが可能か、逃れながら生活することが不可能か、そこが基準になってくれれば良いのではないかと思うのだけど。
とにかく謝罪済みの過去の個人アカウントのツイートが原因でクビというのは本当に悲しい。
http://fujipon.hatenablog.com/entry/2018/07/20/142532]
id:turanukimaru です。
まず、「抹消すべきという話ばかりしている」というのは確かに過剰かつ事実に反する表現だったのをお詫びしたい。読解力が無い点も申し訳ない。だが落語の記事は読んだから言及した。
「落語に頻出する"しょうがねえな"ってのは人間正しく振舞えなくてもしょうがねえ当たり前って話で、正しく振舞うべき・しょうがないで済ませてはいけないポリコレとどっちが優しいか。私は落語のが優しいと思うけどな」
で、記事の話だけどまず枕である"いじる話はいたたまれない"という話なら同意した。私も辛いしバラエティ番組は見られない。
だが記事はそこから「2018年の価値観で断罪すべきではない」、これは時代性を考慮しなければ断罪の対象となりえる事、
「外に向けてアピールしている正しさ」と、「内なる正しさ」、正しさが異なるという事つまり落語は結局ポリコレ的には正しくないと書いている。
最終的には「それが悪い、というわけではなくて、それこそが処世術」、処世術つまりテクニカルな話として悪ではないと書いている。ではテクニカルでない話では悪なのではないか?
これらを合わせると、落語は断罪されるべきだが諸々の事情によりできないという事でいいだろうか?
ここまでは記事を引用しているだけなので読解力の問題ではないということでいいだろうか?
これは結論としては「抹消すべき」となっていないのでこれは私の明確な間違いであり謝罪したい。
断罪とは逆の読み方=いかなる事情が有ろうと落語は断罪されるべきではない、と言う風には私には読めなかった。
どこをとっても断罪できないという話ばかりであり、例えば「古典芸能にまで、現代のポリティカル・コレクトネスを適用するのは、傲慢な気もします。」
というのはとても断罪に反対するようには読めない。せいぜいやりすぎな気もする程度だ。
「それが悪い、というわけではなくて、それこそが処世術」なんてのはどう読んでも褒めてない。世間的に許容されるべき位には読めるが。
もし私の解釈が間違っているというのなら、積極的に断罪を否定しているところを教えて欲しい。横からでも教えてもらえるとありがたい。
で、今回の記事では実際に断罪してしまっているわけで、今回の記事については引用しなくてもいいよね?
私の乏しい読解力では困惑しているのを断罪することで安心しようとしてるようにしか読めなかったし、
ひょっとして落語の件もいたたまれなさをポリコレ的に正しいかという話にすり替えようとしたんじゃないかとも思った。
だけど私は乏しい読解力で人の思いや人間性に触れたくないから、読解力が必要となると思われるところには触れずにああコメントした。
具体的には「ブログ主は正義をもって何かを抹消したがっている。なぜなら~」と書くのは流石に失礼だと思った。
私としては正義を持ち出して何かを抹消すべきかどうかと言う話そのものが好きではないとコメントしたかったのだが
繰り返しになるけど「抹消すべきという話ばかりしている」というのは誤りだった。本当に申し訳ない。
「この記事と落語の記事は正義をもって何かを抹消できるかどうかと言う話をしているが、私はたとえ可能だとしても正義をもって何かを抹消することには反対だ」なら問題ないだろうか?
あと読解力を使うと私は人を傷つけるようなことしか書けないのでそちらは勘弁してやって欲しい。
全ての差別、偏見を殴り続ける必要があるのか。大変だな。男女の扱いを均等にする。
看護師、保育士、キャビンアテンダント、宝塚、男子校、女子高、歌舞伎、相撲。
差別、偏見ではない合理的な理由であれば、男女の区別をつけるのは、OKということか。
https://www.weblio.jp/content/%E3%83%9D%E3%83%AA%E3%82%B3%E3%83%AC
ポリティカル・コレクトネス(英: political correctness、略称:PC、ポリコレ)とは、日本語で政治的に正しい言葉遣いとも呼ばれる、政治的・社会的に公正・公平・中立的で、なおかつ差別・偏見が含まれていない言葉や用語のことで、容姿・身分・職業・性別・文化・人種・民族・信仰・思想・性癖・健康(障害)・年齢・婚姻状況などに基づく差別・偏見を防ぐ目的の表現を指す
私たちはどうつながっていけばいいのか<広く弱くつながって生きる>佐々木俊尚/小野美由紀 - 幻冬舎plus
佐々木 それはね、ポリティカル・コレクトネスの議論ってすごくあるんだけど、たとえばLGBT、たとえばゲイを「気持ち悪い」と内心で思ってしまう自由はあるのです。。ただ、それを口に出すのはまた別。ただし内面にあるその気持ち悪いと思う気持ちは許容する。そしてゲイの人がいることは絶対に否定しない。そこの両立をさせることがたぶん一番大事で、そこで無理矢理、いやいや、ゲイは気持ち悪くないだろ。ちゃんと理解しろよというのはやりすぎだよねというね。マイノリティに対する違和感というのはみんな持っているわけです。その違和感をなかったことにするのも、それはそれで人間の本質的には無理があるかなという、そういう話ですよね。
最前列にいたお客さん ゲイなんか普通の人間関係だったらつき合えるけど、俺に恋愛感情を抱かれたら、気持ち悪いってことですよね。
佐々木 まあ、そうでしょうね。それは個人の自由。ただ、それを口に出すのは良くないということと、そういう気持ちがあることを逆に否定するのも良くないというね。そういうことだと思います。
確かにゲイにいい印象はもっていないのかもしれませんが、発言そのものは単に佐々木氏の言ってることを確認してるだけでしょう。
「ゲイを気持ち悪いと思ってしまう理由は、俺に恋愛感情を抱かれたらと考えてしまうからですよね」と。
この場合の「俺」というのはおじさん本人ではなく、たとえ話に出てきた「ゲイを気持ち悪いと思ってしまう人」を指しているので、このおじさんが自意識過剰というわけでもありません。
そしてこれが「ゲイがいてもいいけど、好かれたらキモい」発言にキレた話(小野 美由紀) | 現代ビジネス | 講談社(1/4)では、
「ゲイがいるのは勝手だけど、俺のことを好きになられたら気持ち悪いって話だよ」
目の前の初老の男性がそう叫んだのは、佐々木俊尚さんとの八重洲ブックセンターでのトークイベント終了2分前、話題が「多様性」に及んだ時のことだった。
こうなっています。
ポリティカル・コレクトネスは私を守ってくれないから、守っている私は馬鹿らしくなってくるわ
最近のアメリカでPCといえばポリティカル・コレクトネスに決まってるだろ。ニワカか。
そういった発言はポリティカル・コレクトネスに反します。差別主義的な発言は辞めてください。