はてなキーワード: ポリティカル・コレクトネスとは
マジレスすると。
ポリコレって、「ポリティカル・コレクトネス」の略で、「政治的に正しいかどうか」っていう問題であるのに対して、セックスとか性的な問題って言うのは個人的な事なので、個人的な話に政治は干渉しない、っていうのが「ポリコレ」っていうことになる。
強引に犯されるのが好きな女性や、女王様からハイヒールで踏みつけられるのが好きなオッサンもいて別にかまわないし、そういうAVがあってそういうのが好きで見る人が居ても、それは個人の問題で、政治的にどうのこうのという話では無い。
強いて言えば、たとえば皇族は、完全に自由ってわけにはいかないだろうな。庶民には知る由も無いが、なんらかの「正しいSex」的な流儀みたいなのが有りそうな予感はするよな。知らんけど。適当な事言ってごめん。
政治的に問題になる可能性があるとすれば、「AVでおかしな知識を身に付けた男たちのせいで、不幸になる女性が多すぎる!」みたいなことが社会問題になった場合だろうな。現にそうなってるから、こういうネタが増田に投稿されるのかな。
そういう声が強くなれば、既存の仕組みで言えば「映倫」の規制方針が変わっていくことになるだろう。現にアメリカでは、随分昔から、強姦的なAVは禁止だ。自由の国アメリカで、拳銃の所持さえ認められているのにね。
女性受験者に対する一律減点措置に対しては避難する立場にある。
したがって今回の東京医大の女性受験者への一律減点措置は醜悪な性差別であると同時に,日本国憲法への重大な挑戦であると受けとめ,誠に遺憾であるとこれを匿名で非難する。
また「予め減点を広報すべきである」という意見は男女共同社会及びポリティカル・コレクトネスの時代において愚考と言う他ないだろう。
が,個人として絶賛過疎であるおらが村に女性医師が来てほしい,また入院中の担当医になって欲しいか?と問われれば断固として拒否する。
その理由は散々言われていることであろう女性医師ゆえの不具合が多すぎるからである。
担当医師の一時的変更による一貫性のある治療が受けられないこと,
さらに生理日による感情と体質の変化によって診断の基準が変化することに依って患者が被る負担は計り知れないものがある。
また飢餓,不眠不休への耐性はあるが,一般的に責任感が欠けていることを否定する要素がないことを統計が証明してしまっている。
当時の状況の説明を求める記者へ「頭が真っ白になり涙が溢れて」と取材を拒絶したことへ批判が集まったことを覚えている人も多いだろう。
氏は結局逃げるように依願退職したが,こんなことを過疎の村や重大災害時にやられてはたまったものではないだろう。
the expendables was so manly i fucked the shit out of the little pussy boy next to me! the boys are back in town!
確かにドン引きしてしまうツイートではあるけど、ディズニーで仕事するようになって少年性愛とレイプに関するジョークについて謝罪し、
何より現在はそういったツイートをしなくなって久しいのに、「そういう過去があるのでクビ」には希望を失ってしまう。
謝罪しても改善しても過去にやったことは一生許されずに職まで失うシステムって、正しさのレールから一度でも落っこちたら、
その後何を積み上げても終わりということで、村社会への回帰というか、しかもインターネットの拡散力のおかげでどこに逃げても
過去のやらかしに一生追いかけられて、旧型の村社会よりもハードになっているようにすら感じる。
ガン監督が問題ツイートを繰り返していたのは、仕事で認められていなかった時期だそうだけど、不遇な時期にも完全な正しさが要求され、
人生を通じてノーミスである義務を死ぬまで負い続けるのってきつすぎる。
ただ少年性愛とレイプにトラウマがある人にとって、それらを冗談にしてしまうのは侮辱的なことだし傷つくことだと思う。
多くの人が自分にとって不快なものを目にしない権利を欲しがる。駅のデジタルサイネージや中吊り広告に、
死体写真やゲイポルノが載っていたら嫌な人が多いだろう(ネクロフィリアやゲイであっても公共空間に引き出されることを望まない人が多いだろう)。
でも個人のSNSアカウントは、見た人が不快に感じる可能性が高い発信をしない義務をどれくらい負ってるんだろう。
商業目的で公共性のあるメディアが負っているポリティカル・コレクトネス検閲コストを、どこまでかける義務を負うんだろう。
例えば駅のデジタルサイネージや中吊り広告に死体写真やゲイポルノがある場合、通勤通学のために逃れられないけれども、
ガン監督の少年レイプジョークツイートの場合は、不快と感じたらアカウントをミュートできる。
その不快なコンテンツから逃れることが可能か、逃れながら生活することが不可能か、そこが基準になってくれれば良いのではないかと思うのだけど。
とにかく謝罪済みの過去の個人アカウントのツイートが原因でクビというのは本当に悲しい。
http://fujipon.hatenablog.com/entry/2018/07/20/142532]
id:turanukimaru です。
まず、「抹消すべきという話ばかりしている」というのは確かに過剰かつ事実に反する表現だったのをお詫びしたい。読解力が無い点も申し訳ない。だが落語の記事は読んだから言及した。
「落語に頻出する"しょうがねえな"ってのは人間正しく振舞えなくてもしょうがねえ当たり前って話で、正しく振舞うべき・しょうがないで済ませてはいけないポリコレとどっちが優しいか。私は落語のが優しいと思うけどな」
で、記事の話だけどまず枕である"いじる話はいたたまれない"という話なら同意した。私も辛いしバラエティ番組は見られない。
だが記事はそこから「2018年の価値観で断罪すべきではない」、これは時代性を考慮しなければ断罪の対象となりえる事、
「外に向けてアピールしている正しさ」と、「内なる正しさ」、正しさが異なるという事つまり落語は結局ポリコレ的には正しくないと書いている。
最終的には「それが悪い、というわけではなくて、それこそが処世術」、処世術つまりテクニカルな話として悪ではないと書いている。ではテクニカルでない話では悪なのではないか?
これらを合わせると、落語は断罪されるべきだが諸々の事情によりできないという事でいいだろうか?
ここまでは記事を引用しているだけなので読解力の問題ではないということでいいだろうか?
これは結論としては「抹消すべき」となっていないのでこれは私の明確な間違いであり謝罪したい。
断罪とは逆の読み方=いかなる事情が有ろうと落語は断罪されるべきではない、と言う風には私には読めなかった。
どこをとっても断罪できないという話ばかりであり、例えば「古典芸能にまで、現代のポリティカル・コレクトネスを適用するのは、傲慢な気もします。」
というのはとても断罪に反対するようには読めない。せいぜいやりすぎな気もする程度だ。
「それが悪い、というわけではなくて、それこそが処世術」なんてのはどう読んでも褒めてない。世間的に許容されるべき位には読めるが。
もし私の解釈が間違っているというのなら、積極的に断罪を否定しているところを教えて欲しい。横からでも教えてもらえるとありがたい。
で、今回の記事では実際に断罪してしまっているわけで、今回の記事については引用しなくてもいいよね?
私の乏しい読解力では困惑しているのを断罪することで安心しようとしてるようにしか読めなかったし、
ひょっとして落語の件もいたたまれなさをポリコレ的に正しいかという話にすり替えようとしたんじゃないかとも思った。
だけど私は乏しい読解力で人の思いや人間性に触れたくないから、読解力が必要となると思われるところには触れずにああコメントした。
具体的には「ブログ主は正義をもって何かを抹消したがっている。なぜなら~」と書くのは流石に失礼だと思った。
私としては正義を持ち出して何かを抹消すべきかどうかと言う話そのものが好きではないとコメントしたかったのだが
繰り返しになるけど「抹消すべきという話ばかりしている」というのは誤りだった。本当に申し訳ない。
「この記事と落語の記事は正義をもって何かを抹消できるかどうかと言う話をしているが、私はたとえ可能だとしても正義をもって何かを抹消することには反対だ」なら問題ないだろうか?
あと読解力を使うと私は人を傷つけるようなことしか書けないのでそちらは勘弁してやって欲しい。
全ての差別、偏見を殴り続ける必要があるのか。大変だな。男女の扱いを均等にする。
看護師、保育士、キャビンアテンダント、宝塚、男子校、女子高、歌舞伎、相撲。
差別、偏見ではない合理的な理由であれば、男女の区別をつけるのは、OKということか。
https://www.weblio.jp/content/%E3%83%9D%E3%83%AA%E3%82%B3%E3%83%AC
ポリティカル・コレクトネス(英: political correctness、略称:PC、ポリコレ)とは、日本語で政治的に正しい言葉遣いとも呼ばれる、政治的・社会的に公正・公平・中立的で、なおかつ差別・偏見が含まれていない言葉や用語のことで、容姿・身分・職業・性別・文化・人種・民族・信仰・思想・性癖・健康(障害)・年齢・婚姻状況などに基づく差別・偏見を防ぐ目的の表現を指す
私たちはどうつながっていけばいいのか<広く弱くつながって生きる>佐々木俊尚/小野美由紀 - 幻冬舎plus
佐々木 それはね、ポリティカル・コレクトネスの議論ってすごくあるんだけど、たとえばLGBT、たとえばゲイを「気持ち悪い」と内心で思ってしまう自由はあるのです。。ただ、それを口に出すのはまた別。ただし内面にあるその気持ち悪いと思う気持ちは許容する。そしてゲイの人がいることは絶対に否定しない。そこの両立をさせることがたぶん一番大事で、そこで無理矢理、いやいや、ゲイは気持ち悪くないだろ。ちゃんと理解しろよというのはやりすぎだよねというね。マイノリティに対する違和感というのはみんな持っているわけです。その違和感をなかったことにするのも、それはそれで人間の本質的には無理があるかなという、そういう話ですよね。
最前列にいたお客さん ゲイなんか普通の人間関係だったらつき合えるけど、俺に恋愛感情を抱かれたら、気持ち悪いってことですよね。
佐々木 まあ、そうでしょうね。それは個人の自由。ただ、それを口に出すのは良くないということと、そういう気持ちがあることを逆に否定するのも良くないというね。そういうことだと思います。
確かにゲイにいい印象はもっていないのかもしれませんが、発言そのものは単に佐々木氏の言ってることを確認してるだけでしょう。
「ゲイを気持ち悪いと思ってしまう理由は、俺に恋愛感情を抱かれたらと考えてしまうからですよね」と。
この場合の「俺」というのはおじさん本人ではなく、たとえ話に出てきた「ゲイを気持ち悪いと思ってしまう人」を指しているので、このおじさんが自意識過剰というわけでもありません。
そしてこれが「ゲイがいてもいいけど、好かれたらキモい」発言にキレた話(小野 美由紀) | 現代ビジネス | 講談社(1/4)では、
「ゲイがいるのは勝手だけど、俺のことを好きになられたら気持ち悪いって話だよ」
目の前の初老の男性がそう叫んだのは、佐々木俊尚さんとの八重洲ブックセンターでのトークイベント終了2分前、話題が「多様性」に及んだ時のことだった。
こうなっています。
ポリティカル・コレクトネスは私を守ってくれないから、守っている私は馬鹿らしくなってくるわ
最近のアメリカでPCといえばポリティカル・コレクトネスに決まってるだろ。ニワカか。
そういった発言はポリティカル・コレクトネスに反します。差別主義的な発言は辞めてください。
元増田だが、元増田は「B」の「自分の評判を落としてでも実現したい理想があるから。」だと思っている。
津田大介は崇高な理想があり、そのためには愚民を動かさないといけないし、自分の評判を落とすこともまるで問題ないと思ってるんじゃないか。
hagexの件に関しては増田とはてブロの区別も区別もついてなかったから津田大介はおそらくはてなをほぼ触っておらず自分が門外漢であることも認識していただろう。
ただ、彼が行いたいポリティカル・コレクトネスに溢れた規制社会を実現するためにはそれでも発言をしたほうがいいと判断したのだと思う。
ポリコレ(ポリティカル・コレクトネス)が大好きな野郎が身近にいてかなり鬱陶しいので、なんでお前らが嫌われているのかわかりやすく伝えてやる。バズって本人の元まで届けこの想い。
まずこれを見て欲しい。
こんなことを言うやつは潜在的に留学生を見下している!日本語不自由を女に変えて「女なのに凄いな」って書いたら駄目さわかるだろ!
言うまでもなく見下す意図で言っているのではなく、「日本語が不自由な環境でも努力して結果を出すなんてホント凄いな」という意図で言っているし、仮に「女なのに凄いな」と言ったとしても「現代社会ではまだまだ女性に目に見えないハンディキャップを背負わされているにもかかわらず結果を出して凄いな」という意図で言っている。
しかしポリコレ野郎は「レイシストが『そんな意図はなかった』と言っても、根底にそういう考え方があるのが駄目なのであって、意図のあるなしは問題にならない。それで傷つく人がいるかもしれないのであれば、二度とそういう言葉を言わないように反省すべきである」という主張をしてくる
その主張は正しい。正しいから「コレクトネス」と言われる。この場合の正しいは「面と向かって否定することが出来ない」という点で正しいが、本当にその正しさって社会に必要なのか?本当に全ての人間が正しい社会が理想なのか?
意図からして差別的だった場合は注意すべきだ。「韓国人はクソ」みたいなのがその例だ。一部クソな韓国人はいるが、クソではない韓国人もいる。関わりのない未知の韓国人をクソであると断じるのはレイシストだ。それは発言者を注意するなり、発言者から距離を置くなりすべきだ。
しかし意図全体が差別的でない表現も「未知の人がしてショックを受けるかもしれない」と言うのはどうなの?そりゃいるかも知れないが、本当にそんな人がいたらその人が「この表現にショックを受けました」と表明してきた場合に「こういう意図だった」と説明し、その段階で初めて元発言に注釈を付け加えるなりするのが正しいだろう。知らない間に相手にショックを与え、その人が自分に対して距離を置くことがあるかもしれないが、それは仕方ないし、差別的な意図がない以上それはもう個性として受け止めるべきだろう。
Twitterなどで公に発信した場合は、意図しない受け取り方をする人がいる確率はダントツに上がる。なのでポリコレ的に問題のある発言が指摘を受ける機会は多いだろう。しかしネットであれ、実際にそれでショックを受けた人が直接的に表明するのが正しいあり方で、第三者が「それはおかしい!」と声を上げるのは余計なお世話としか言いようがない。
そういうと「そのツイートを見た他の人も同じようなミスを繰り返し、結果としてポリコレ的に間違ったツイートが増えることになり、将来傷つくかもしれない人を増やす要因になる」みたいな反論があるんだけど、これこそまさにポリコレ警察ですね。そういう奴らをまとめてカリフォルニアにディストピア都市を作って引きこもってもらいたいもんです(←ポリコレ違反だ!)
ポリコレを指摘する奴らがうんざりなのは理由は上記の通りだが、本当にクズなのはここではない。内心ではポリコレ違反だと思うけど、わざわざ注文つけるほどではないな、という奴も間違いなくクズなのである。
なんでか。ポリコレはそもそも、「絶対的に正しいあり方があって、そこから外れたものを否定する」面がある。もっと別の言い方があるだろうとか、誤解を招く書き方をするなとか、ポリコレ的に間違っていることを指摘すれば、それは100%議論で勝てる。
だからポリコレ野郎は「ポリティカル・コレクトネスは絶対的に正しい基準である」と考える。
そうするとポリコレ野郎は「外れているやつはその点で配慮がない、劣っている」と考える。
ポリコレ野郎は、徹底的に減点法の考え方になる。傾向として今までの人生に自信がないので(←ポリコレ違反!)、絶対に間違いのない基準があると安心するのだろう。自分が正しい、ということを何より大事にし、重症の奴に至っては構造図を書いて正しさを確信し、それを相手に突きつけたりする。信じられないだろ?いるんだよ。
減点法は最悪だ。他の良い面が一杯あったとしても、その1点だけが気になってしまい、悪い評価をつける。人の良さを評価することが出来ない。才能豊かで社交的な奴でも、何度かポリコレ的に正しくない発言をすれば、内心で「こいつは正しくない」とか思う。
何様だお前。
そういう奴に限って、例えば育ちの悪い奴を否定することを極度に嫌がる。ご飯に箸を突き立てて何が悪い、そういうのを否定することこそ間違いだ、というわけだ(さすがにそんなに育ちの悪い奴を見たことはないが)。そして自分は寛容だと思いこむ。なぜなら、それは正しいから!育ちが悪いのは本人のせいじゃないから!誰にも迷惑をかけていない以上否定することは出来ないから!世間の人は差別して偏狭だ!俺は寛容だ!
アホか。
言うまでもなく人間には脈々と受け継がれてきた文化があり、その文化の中で発展してきている。文化の中で育ちの悪さは文化の否定となり、社会全体として育ちの悪い人間を排斥するのは当たり前の話だ。その程度の前提の教育も受けていない人間は、社会から見れば底辺であり、悪い評価になるのは仕方ないだろう。
そして、普通に育っていれば(←ポリコレ違反!)、そうでない人に対して生理的嫌悪感を抱くのは文化的な反応で、それをただ「正しくない」という理由で否定するのは視野が狭いと言わざるを得ない。また文化というのは深いし絶対的な正解がないものだ。敬語の使い方とかも各人各様で、とんでもルールを持っている人がいる。絶対的基準がない。だから否定出来るのであればその方が楽だ、というのはそうだが、文化や各人の有り様を学んでその人の立場に寄り添う方がよほど寛容だ。それはポリコレ違反を指摘するよりはよほど大変だし、その結果受け止めきれず注意すべきことはあるだろう。でもそちらのほうが健全だ。茶碗に箸を突き立てる人を注意しない人の方が嫌だよ。
ポリコレ野郎はよく「理性で生理的な衝動を抑えつける」ということを言っているけれど、そうではない。ポリコレ野郎は、判断するのが怖いから(正確には判断を否定されるのが怖いから、議論に負けるのが怖いから)ポリコレ基準を絶対視しているのがほとんどだ。むしろ「怖い」という生理的な衝動に負けている。理性をなくして基準だけで生きていたいと思っている。生き方が規定されていれば生きていくのは楽だ。自分の行動を規定に従って完璧にコントロールするのが素晴らしいと思っているけど、それならあなたいらないです、あなたの規定一覧を頂ければそれでいいですから…。
そんな奴ら、生きている価値は十分あるが(社会貢献は十分にしてくれるだろう)、人として付き合う意味は極めて薄い。かかわらないでくれればそれでいい(が、ポリコレ警察は望む望まざるにかかわらず、向こうから頻繁にやってくる)。個人的にはポリコレに生理的嫌悪感を覚える人の方がよほど真っ当な人だと思う(←ポリコレ違反)。
ここまで否定して最後に持ち上げるのは卑怯だとも思うが、信念を持ってこういう活動をしている人たちは社会にとって大事だと思う。本当にマイノリティで辛い思いをしている人たちのアンフェアな状況を改善したいと活動することは立派だ。例えば広く嫌われている動物愛護団体とか、イっちゃってる行き過ぎた主張が注目されている側面はあるけれど、一方で彼らがいないと一線を超えて何かをやらかす人たちを留めることが出来ないし、文化や法律の変化も起こらない。それが仮に茶碗に箸をぶっさす人に嫌悪感を持つのをやめよう、という活動であったとしても、本気で取り組んでいる人たちは立派だ。自分は近づきたいとは全く思わないが、社会の多様性のためには必要な存在だろう。
ただ、ポリコレを正しいと思っているやつのほとんどは、特にそういう信念もなく、人との関わり合いを定型化しようとするクズなんだよなぁ(←ポリコレ違反)
匿名じゃないとこういうことを書けない自分が情けないと強く思う。情けないと思うので、せめてこの記事に対する反応はしっかり読んで咀嚼したい。罵詈雑言でも構わない、遠慮なく書いて欲しい。釣り気味の記事にしてすまなかった。
ぼくらは動物で、身体を重ね合わせたら気持ちよくって楽しいのに、ぼくらの文明はそれを否定していく道を選んだんだね。
このまま行くと男女がプライベートなことを話すのは非常識ってなるんだろうな。
付き合ってもいないのに食事に誘うなんてふざけるな。
効率化とポリティカル・コレクトネスで動物としての接触を捨てて、考えるだけのAIに近づいていくんだね。
ああ、楽しかったな。
飲み会にいた初対面のアラサーちゃんにヨネスケして毛布に包まりながらエッチしたこと。
もうできないんだな。思い出してオナニーするしかできないんだな。
これから生まれてくる子どもたちは性愛の楽しみをまったく知らずに、区役所みたいなセックスしかできないんだな。
マーヴィン・ゲイが歌った性愛の輝きは、静かに消えていくんだな。
あの初対面の女のコと見つめ合ってこれからエッチするかもしれないという火花みたいな日々。
それは過去のものになって、「昔は東京でも天の川が見えたんだよ」というようなセピア色の幻想になっていくんだろう。
日本を代上するロックバンド「RADWIMPS」って知ってますかい。
知らない人は自分がおっさんなのを自覚しといたほうがいいらしいですよ。
Supremeの読み方はわからなくても前前前世はカラオケで歌えるようにしておいたほうがいいらしいですね
「RADWIMPS」がHINOMARUという曲をリリースしてすぐにアクティビストの我らが津田大介さんが
「お国が望む「クールジャパン」ってこういうことなんだろうし、今後もどんどん「国威発揚」の依り代として芸術が利用(寄生)されていくんだろう→ https://buff.ly/2M7NnQN 」
「特定の思想がない旨も、自分の国を好きで何が悪い的な物言いも、既視感ありまくりで、それはツイッターのプロフィールにそういうことを書いている人が多いから。そして残念ながらそれを言う人はたいてい排外主義的な主張とセットになっている。②も④もとても「ベタ」な表現なんだよね。」
と「RADWIMPS」を名指しで批判して野田洋次郎をあろうことかネトウヨと同列に扱うってファンにとっては怒りでご飯8杯は食べれる発言までしてしまったんですがね。
流石の津田大介さん過去の発言をほじくり返されて数日が経過した今現在もツイッターでの批判が秒単位でつぶやかれている状態になっています。
でも待ってください。本当に津田大介さんは「RADWIMPS」を批判したかっただけなんでしょうか。
確かに津田大介さんが法定処置を匂わせたことで、老舗ブログBirth of Bluesが津田大介さん関連エントリーを削除したり
人気歌手のきゃりーぱみゅぱみゅさんが
「クリエイティブなものなのに言いがかりつけて表現できなくなって死んでいくことが悲しい。攻めていけない世の中」
といったり。表現業界を巻き込み凄いことになっているんですよ。
ですが津田大介さんは発禁まで要求する人に対してむしろ諌めたりしています
たしかに「右でも左でもないRADはバカ」といったツイートをRTしたり
https://twitter.com/kingcurtis/status/1006402837977300993
RADに対して扇動的な発言をRTしたりはしていますが津田大介さんはこう言いたかったのでは無いでしょうか
「RADWIMPSくらい売れたらポリティカル・コレクトネスを持ってて欲しいそれが文明国家だ」
ここで表題に戻りますが津田大介さんは過去トランプのイラストを書いた外国人イラストレーターに面識があるという設定で「オルタナ右翼」を描いたものだというフェイクニュースを発信して問題になっております。
実際にはその絵師の身内の日本人から指摘を受けツイ消しを行ったのですが津田大介さんはその時も「オルタナ右翼」を批判したかったわけではなく「このくらいの画力があるのであればポリティカル・コレクトネスを持ってて欲しいそれが文明国家だ」と言いたかったのでは無いでしょうか。
とここまで書いてなんとか擁護してみたかったものの流石に無理を感じましたので筆を折るとともにこのエントリーを締めさせていただきますよ。
右手では性差を乗り越えるポリティカル・コレクトネスの灯火をかかげて社会を照らすそぶりをして、
左手ではルッキズムの鎌をかかげて主役に不細工がまじることを決して許さない
私はここに欺瞞を感じる
いずれ性差に苦しむことになる子どもの救いになるかもしれない、それは大いに結構だ
しかし自分は目が細いから太っているからあごがでかいから鼻の穴がでかいからプリキュアには
けっして主役にはなれないのだと思い悩んでいる子どもたちにも
「あなたはなんでもできるし、なんでもなれる」と胸を張っていえるのか
プリキュアの容姿がすぐれているのは偶然であって本当はプリキュアになるのに見た目は関係ないとごまかすのか
正直に外見至上主義を肯定して美容整形という選択があることを子どもに指し示すのか
私は自分自身の醜さに幼い頃から劣等感をいだき、しばしば身体特徴をいじられていじめに遭ってきたこともあり
アニメにしろ特撮にしろ正義の味方である主役たちのほとんどが人並み以上の外見を備えていることに絶望してきた
だれも不細工なプリキュアなど見たくない?プリキュアだけの問題ではない?それはそうだ
しかしそれならそれで正直にいうべきだ
表面的な薄っぺらいリベラリズムもポリティカル・コレクトネスも
それを子どもに見せることで喜ぶ親が少なからずいるというビジネス上の需要に応えているだけだと
世相に媚びているだけで需要のない反ルッキズムに与する理由はないのだと
私にはプリキュアシリーズが進歩的だとも攻めているとも少しも思えない
リアルタイムでは見ていないが醜悪な姿の怪物が迫害を受けながらも人間のために悪と戦う妖怪人間ベムを
子どもが見られる時間帯に放映していた半世紀前よりもむしろ後退しているのではないか
もし社会的公平性を制作が重視するというのなら外見至上主義の否定として
まずはプリキュアに水平方向に個性のある(差別主義者にデブと蔑称されるところの)人物を加えてほしい
もしそれが果たされたならば私は惜しみなくいうだろう、プリキュアは攻めていると
特定のカテゴリに実害を与える言動が差別とか大雑把なくくりでテキトーな事言うな
その定義じゃ障碍者が「城にエレベーターを付けろ」と言ったら景観や予算増という実害与えてるから障碍者が差別者になるだろ
実害を被る『行動』や『仕組み』の事
女性専用車両やレディース割引、女性のみ入店が許されていることから、他の実害を避けるために設けられた行動や仕組みは『例外的に』ここに含まれない
差別を引き起こす目的かどうかの判断が難しい事と、表現の自由の兼ね合いで、法律で禁止されている国も禁止されていない国もある
発言者や創作者の差別的感情が表に出しているまたは出てしまう事
表現の自由のため、他の実害が生じる根拠が無ければ法規制はあり得ない
ただし企業や著名人が行った場合は過激な批判・非難も仕方ないという世論となっている
法規制が難しいのでポリティカル・コレクトネスという概念で排除運動が起こっている
内心の自由によって当然認められている
ただし、それが差別的であることを自覚し、恥ずべきことだと感じることが社会的に求められている
表に出すと差別的表現・差別的言動となり、同調する者同士が集まれば差別扇動に発展する恐れがある
増田は低知能のゴミだからわかんねーだろうけどクリストフの描写はそもそもモデルになっている北欧の少数民族に対し差別的だという指摘が当事者によってされている
お前のような自分の所持する属性だけに関するポリティカル・コレクトネスを一見主張しながらそこに存在する別の差別性をなんとも思っていない時点で増田の話は聴く価値がない
それとは別の話としてクリストフの自己実現が独裁者一族のお家騒動に絡んで出来たコネで非民主的独裁政権と癒着できたことで大金を得ていいクルマ(極めてアメ公的な成功モデルだ)に乗るというアレで男性的マチズモからは一歩も抜け出してなどいない
何がヒーローじゃないありのままの自分だお前の目玉はどこについているそもそも原曲のニュアンスじゃありのままの自分だのといった綺麗事じゃなく全部知ったことかボケ押し付けられた責任なんざ全部放り出してやるぐらいの意味だぞアホなのか