はてなキーワード: カラッポとは
社会人は15分の遅刻が許されるだのダメだのでインターネットが盛り上がっているのを横目で見ながら、私はもう半年近く会社に行っていないことに気づいた。
ここ数年間ずっとボロボロだったけれど、いよいよ体調にも症状が現れたのでこれを機に休職期間に入って今に至る。
この立場でこんなことをいうのも傲慢だと思うだが、今の上司は病んで休職した人間を管理する気がさらさらない。
二か月に一度ほど「最近どうですか」とラインを送ってくるのだが、これにどういう返事をするべきなのかは本当に悩む。
「どう」とは何なのか。
スケジュールの提出や過去案件の原因追及・改善案の提出にあんなに厳しかった上司なのに、私の症状については原因を聞いてきたり、いつ頃復帰するつもりかなど質問をすることもない。
病んで休職する、というだけでこんなに何も言われなくなるのか、と驚いている。
特に細かなところを挙げると、資料のホッチキス留めの位置、電話応対の速度、メールの文面などだ。
遅刻はしたことがないが、15分の遅刻をしてきて怒られている同僚もたくさん見てきた。
しかし、今や15分どころではない。半年会社に行ってないのだ。
こんなもん怒られるどころの話ではないように思えるが、怒られない。
なんていうか、「病んでいる」という言葉のパワー、強すぎないか?と思った。
もちろんこれは私に非がないから何も言われないのではなく、どう触れていいか分からないから敬遠されているのだ。
要するに「腫物扱い」ということだと思う。
だとしても、私が健康だったというだけであれだけ強烈な言葉を投げかけてきた人が一転して何も言わなくなるのだ。
やはり病んでいるというステータスの圧倒的パワーを感じざるを得ない。
明文化されたステータスを与えられると、モノによっては強固な影響力を発揮することがある。
今回で言う「うつ病で休職」というのもそうだし、最近だとLGBTとかもこれに当てはまると思う。
私が私であることは発症前後で何も変わらないのに、ステータスを与えられるだけで周りの対応が変わってくる。
人間社会の面白さを感じさせると同時に、ある種の依存性について危惧してしまう。
そこに「うつ病休職者」というステータスが与えられ、周りの対応が変わってしまった。
この状況に慣れてしまうとステータスを手放すことが惜しくなり、自ら現状維持をしようとしてしまうのではないだろうか。
弱くなることで特別になれる、という快感に溺れてしまうのではないか。怖い。
周りの対応が変わったのは、社会がそういうシステムだからである。
鬱病の診断書を提出することで会社はそれに対応したマニュアルに基づいた行動をしなければいけないからだ。
このシステムに目をつけ、悪意を持って意図的にコントロールしようとする集団がいるとすれば、それはとても恐ろしいことだと思う。
誰も幸せにならない。
問題発見型のAIが「コロナウイルスそのものの形に合致するフィルタ、HEPAを超えたIEPAを備えた空気清浄器」を提示し、
冗談みたいだった。
さもなければ輸出入を差し止められて後進国になってしまうのだ。
みな空気清浄機のフィルターを燃やした熱で温室で穀物や野菜をつくってそれを食べて生きているようなものだった。
退屈な中で集積回路の集積は進み、あらゆるゲームは攻略しつくされTASや乱数調整を発見するマイニングによって開発しつくされてしまった。
もはやゲームとは人工知能の性能を試験する統一規格そのものであり、
感情は人工知能により人間そのものよりもっともらしく再現されるがどんな感情も結果はカラッポなのだから、生身の人間のあいだでは唾棄すべきものとなっていた。
気づくとコロナウイルスは宿主であった野生動物ごと絶滅してしまっていた。
古代史によれば、丸い合成皮革に空気をパンパンにつめたもの、ボール、というものを蹴ったり投げたりしてあそんでいたらしい。
なにこれ。
おずおずと人間はボールを蹴り出した。生まれてはじめて肉体の足で蹴ったボールはほんの数メートル先で石にぶつかって横にまがった。
目をキラキラさせたおじいさんたちが、なんで人工知能なんかつかってたんだろうね、おじいさんのおじいさんたちがいっていたスポーツってこれか。と言い合っていた。
オタク的なものは、密かに楽しめばいいと思う。極個人的な、密室的な、内面的な楽しみとして。広げたとして、鍵のかかった匿名的なネットワークの中で、同好の士たちと、密談をするように楽しみや喜びを分かち合えばよい。
というのは、自分はライトオタクにあたると思うが、それを公言したりはしない。本当にライトなあたり、たとえば今で言うと鬼滅の刃みたいなものは、見たよ、楽しんだよ、と話すことはあるが。
なぜそうするかと言うと、自分が楽しんでいるものの中に、ある種の非常に一方的な、思い込みの強い、恥ずべき欲望が含まれていることに自覚的だから。最近流行りの擬人化もの、女体化もの、いわゆる美少女動物園的なコンテンツが好きだが、主要キャラクターが概ね若い女性で、露出度が高い格好をし、主人公に常に好意的な設定は、どこかおかしいと感じているから。そこから自分がなにを得ているかとなると、ある種の安らぎ、受容の安心感、疑似恋愛的な幸福感、興奮。客観的に考えると、こんなに自分勝手にキャラクター、さらにはその原型となる現実、特に女性を消費的に扱っているというのは、なんというか…大変気持ち悪いと思う。
だからこそ、大っぴらに言わず、自分の部屋の中で、ひとりの時間に、頭をカラッポにして楽しむ。これが楽しいのは確かなので、無くなってもらっては困る。ただ、消費している自分の、消費の仕方、消費の前提となるマインドは、大変気持ちが悪いものなのだ。呆れられて当然のもので、正当化も擁護もできない、自分勝手で子供じみたものなのだ。
それには常に自覚的でありたいと思っている。
頭カラッポの方が 夢詰め込める
何か言いたいことがあれば言えばいいのに、なんにも無いカラッポさんかぁ... w
(1) 小山田圭吾が障害者に対する虐待を行っていたことは、2011年にE-テレへの小山田の起用が決まった時、NHKは視聴者から情報を寄せられて把握していた。
(2) 事務所に対して説明を求めたところ、事務所は事実と認めた上で「本人は反省している」と説明した。※本人による説明ではない。
(3) NHKは「小山田は反省している」と判断して、そのまま起用を続ける方針を固めた。
態々ここまでして起用したのは何故だろうか?
違法薬物の常習者のピエール瀧や、障害者虐待をしていた小山田圭吾がNHKに重用されていたのは、むしろ「そういう人間」だからなのだろう。
NHKは、90年代の思い上がりを引き摺ったままの、サブカル馬鹿たちに汚染されている。人非人的なことをするのがイケていると勘違いした、サブカル馬鹿たちに。
もっともらしく「高い才能が評価されて云々」と言うが、その高い評価も結局、サブカル村の内輪の人間たちが自分たちに都合のいいように拵えて流布したものに過ぎない。
顔がデカいだけで演技はシロウトの人間を「独特の存在感」(笑)と持て囃したり、親の財力と90年代前半の海外/日本、都市/地方、マスメディア/一般人の間に有った情報格差を利用しただけで中身はカラッポの人間が作った音楽を「オシャレな渋谷系」(笑)と持て囃していたが、いよいよ化けの皮が剥がれた。
都市部・富裕層出身者がメインとなって作られたサブカルなんて、無価値なハリボテでしかなかった。当のサブカル馬鹿たち自身は、いまだに「オレたちイケてる!」と勘違いしたままだから、2020年東京五輪の開会式にラーメンズ小林とかFPMとか小山田圭吾とか古臭い面子を持ち出してくる。石野卓球も、音楽は古臭くなっているのに、若い頃と同じような言動のままだから、見ていて痛々しい。
こういう90年代を引き摺ったサブカル馬鹿たちが、自分たちの内輪で仕事や評判をグルグル回している姿は、自民党のオトモダチ人事ソックリで笑える。