はてなキーワード: レヴィナスとは
データはないよ!
あなたは、「こういう〇〇は~する」という客観的事象について語ってたよね?
で、なんでめんどくさい女の話を持ち出したの?
俺めんどくさい女の話してた?
うーん、文系の人だね。
この世界ってのは、ハイデガー的なやつ? 現存在を起点に様々な事象が沸き上がって来るものとしての世界かな?
というか、自分を中心においた世界観ってのは中世までのやつなのね
それにね、ガダマーは地平融合とか言ったようにね、レヴィナスが「他者性(顔)」の話をしたようにね
世界には自分の主観や予測を超えた違うものがあって、それに自分が反応していくことで新しい価値、新しい自分が生み出されるわけね
要するに自分は主観ではなく客観によって作られるというのが20世紀の考え方なのね
そんで自分とは、そうやって絶えず変化する流れであり、今の自分ってのはその流れの中で一瞬形をなしたものにすぎないのね!
頭のいい文系ならわかるよね!
表象・判断が、個々の人間や、人間間の心理的性質に依存しているさま
続きまで含めて全部読んだ
何というか、やるせないな
もうそこには断絶があるんだと思う
時々、この社会には共通のプロトコル(つまり常識)が設定されていないんじゃないかと思う事がある
それぞれが別々の法則で動いていて、それを統一したりすることはできないんじゃないかなと
レヴィナスという人が「他者論」ということを考え、「他者」とは自分のあらゆる規範や想像力から外れたものであるとしたように
「他者」は常に、自分が捉えている世界とは常にまったく違う原理で動いているような気がしてならない
自分にとってまったく許容できないことが、「他者」のいる世界では起こる
逆に言えば、自分の世界では起き得ないことが「他者」のいる世界では起こる
それはそれで救いなのかもしれない
ある漫画で「心やからね。通じる事も繋がることもないけど。それでも、何か一つ伝われば、それで生きていかれるのかも知らへんね」というセリフがあったが、まさにそれで
「理解の出来ない他者」としての親、そして「愛情」という名の甘やかな「支配」について
他者論という観点から見れば、「誰にも否定されない絶対的な真理」を作り出すことは不可能である。一方で「他者」は、単に真理への到達を妨害する忌むべき存在というわけではなく、「私」を自己完結の孤独から救い出す、「無限の可能性」でもある。いかなる哲学、科学、数学を作り出しても、必ずその外部から「違う」と叫び叩き潰してくる、理解不能で残酷な「他者」が現れる。「他者」が現れるからこそ、自己は自己完 結して停滞することなく、無限に問いかけ続けることができる。
レヴィナスによると、「他者」は「理解されえない、言い換えれば包括されることが不可能なものである」とされ、「所有を、私のさまざまな権能を拒む」とされている。すなわち「他者」は、「私」(自己)の内面を切り崩し、空にし、「私」として安住することを辞めさせ、「私」を超えたものを求めざるを得なくさせる。
最後に、くり返しになってしまうがまとめておこう。他者はいつでも私にとっては「理解できぬ不気味な存在」でありえる。その不気味さが同じチームのなかで突然浮かび上がることがあるし、理解という手法でそれを解決することはできない。むしろ、その「理解できなさ」こそが、一種の救いなのだ。他人の心に踏み込んでいったり、他人と自分を同じ存在だと思ってしまったりすると、正常な距離は失われることになってしまう。
だから、互いに「理解できない不気味な他者」として関わり、そしてそれゆえに「共にいる」こと。わたしたちはそうした関係に満足しているべきだし、そうした関係にこそ価値がある。
――ティッシュ専用ゴミ箱2 「女児向けアニメで描かれる「他者の理解できなさ」について。あるいは、女児向けアニメは家族の問題とどのように向き合ってきたか。-『プリティーリズム』『プリパラ』を一例にして」
友田は、折々に「ブライアン氏」が「真空」、すなわち、独りの状態になる必要があると言及していることに着目しました。対するセラピストは、その度に、中立または否定的に、これに応じています。セラピストは理論上は、非指示的であり続けましたが、一般の西欧のセラピストと同様、孤独な状態もしくは真空の状態の治療効果について非常に熱心だったわけではないようです。
友田の見解では、「人間というものの真の飛躍もしくは成長は、完全に一人ぼっちであるときに生起する。個人の飛躍もしくは成長を確かなものにするのは、何らかの人間関係においてか、もしくは現実の世の中においてである。がしかし、真の成長がおこるのは、現実の人間関係においてでもなければ現実の世の中においてでもない」
友田はさらに、「このことはまた、禅の真理である。(中略)カウンセリングに関して言えば、ロジャーズ派の技術の真義は、それらの技術がクライエントを援けて完全に一人ぼっちである状態になるようにすることである。」と続けます。
―中略―
母性的尽力的配慮は相手を甘やかしたり、子ども扱いするものですし、父性的訓育的配慮は相手を支配したり、奴隷化するものでしかないわけです。第三自我形成期(第三反抗期)を超えてレベルⅢの人格に到達することは、本人にとっても周りの人々にとっても、大変難しい困難なことでもあります。
理不尽な強制としてこの世に生を受けた幼子は、若者となり、己の意志でもう一度生誕を決意する。
自分が何者であるかを胸に刻み、望んでこの世界に生まれた二度目の赤子として自分自身の人生を歩み出すのだ。それは神聖なる契約であり、人はそうして連なってきた。それが人をいままで繋いできた。
にゃん太はそれを守るためならば、我が身を灰にしても構わないと思った。ロンダークがそれを知ってくれるのならば、どんなことでもしてやりたいと思った。
世界、つまり親による絶対的かつ暴力的な侮辱によって、人は育っていく
愛情という名の「自己犠牲」、それと表裏一体の過干渉という、そのさらに裏にある「自己憐憫・自己満足」は人を根腐れさせる
あなたと私は違う
だから、あなたは世界からの期待に応えなくても良いし、応えても善い
あなたの両の目が見て、耳で聞いて、触れ、脳内で像を結んだものだけが「世界」に過ぎない
それ故に、あなたが何と対峙するかすらもあなた自身の問題である
@Gesu_Masuda
「最低賃金制度がなくなればいいのにと思っている法人がいるなんて考えるのは陰謀論」だというブコメがあってかなり驚いた(支持はされていないけれども)。内田樹はレヴィナス哲学の権威であり、フランス現代思想、特に構造主義に精通している知的エスタブリッシュメントであることを知らずに「根拠無く対象を誹謗するために詭弁を繰り出す人」というレッテル貼りに情熱を傾ける知的劣等感の権化のような人がはてな村に多いのは残念だ。
内田老師は構造主義的知見から本質直感した事象の構造を「わかりやすい届く言葉でつたえる」ことを使命だと自覚している哲学者である。原語で読んでも難解の極地であるレヴィナスやラカンの思想を「街場」に流布するために努力している人である。
内田樹の揚げ足をとることに情熱を傾けているのが池田信夫というアジテーターである。論理的整合性と数学的裏付けだけで「諸事全般の正しさ」がわかるという妄想に取り憑かれた、知の本質が判っていない底の浅い権威主義者である。彼のロジックに好意を示す橋下徹市長が(今天下に恥をさらしているように)知的に極めて浅薄であることは現在進行形で証明されている。このことに異論がある人はいないと思う。
別に論文を書くというわけでは全くないのだけど、プライバシー(自分の領域)とセクシュアリティ(性・性欲・性癖)の関係を描いた学術書って何かないですか。
表現の自由に関して、セクシュアリティでどうやって表現の自由を破ることができるかいろいろ考えていたんだけど、柳美里の『石に泳ぐ魚』裁判でプライバシーが表現の自由を破れることを思い出して、「あっ、しばしばいわれることだけど、セクシュアリティがプライバシーに含まれるとかだったら、セクシュアリティによって表現の自由を破ることも可能じゃね?」と今考えているところなのです。
ということで、「セクシュアリティがプライバシーに含まれる」ということを何か説明している学者や学術書を求めています。
何かバタイユとかレヴィナスとかフェミニズムとかがそういうの扱ってそうだけど、何かいいのないでしょうか。
ググっても上野千鶴子の説とその批判が出てきたり、ホモセクシュアリティの話が出てきたりして、クエリの投げ方がよくないんだろうな。
まーそーです。でも我々の場合、民主主義っつっても立憲民主主義なので、憲法の部分でなんか粘らないと、本当にダメな民主主義になってしまいます。
構造主義は内田樹の解説本くらいしか知らないんですよね。構造と(差異で一個一個区別される)要素は一体で切り離せないということと、「作者がどう思ってるかではなく、どう読者に読まれるかが重要だ」という理解しか持ってないのです。
私が読んだことのある哲学者といったらベンサムとミル(功利主義系)とカントとヘーゲル(ドイツ観念論系)とフッサールとハイデガーとレヴィナス(現象学系)で、構造主義とはつながってないんですね。済みません。(そういやこの前大学の頃の『全体性と無限』のメモ書きをはてなダイアリーに要約しました。大変でした)
構造主義に批判されている実存主義もよく分からない世界です。(wikipediaにはハイデガーには実存主義に大きな影響を与えたと書いてあるが、現存在のくだりだろうか)
本当だ。消えないうちにグーグルキャッシュからサルベージしておこう。
パスカル『パンセ』
ライプニッツ『単子論』
ジェイムズ『宗教経験の諸相』
レヴィ=ストロース『悲しき熱帯』
ブーバー『我と汝・対話』
ライル『心の概念』
デュルケム『自殺論』
キャンベル『千の顔をもつ英雄』
ポランニー『大転換』
オルテガ『大衆の反逆』
オング『声の文化と文字の文化』
ポパー『推測と反駁』
フロム『自由からの逃走』
デリダ『グラマトロジーについて』
ペンフィールド『脳と心の正体』
ソンタグ『反解釈』
フランシス・フクヤマ『歴史の終わり』
ラマチャンドラン『脳のなかの幽霊』
イーグルトン『文学とは何か』
ガダマー『真理と方法』
ダマシオ『生存する脳』
クワイン『ことばと対象』
マッキンタイア『美徳なき時代』
ツリー内主要エントリ
あなただって2行目でネクロフィリア、コイトフォビアは違う、と認めているのに。
「異常者は『誰でも』に含めない」ってルールは無いでしょ。
あと、欲求と欲望の違いについてはラカンとレヴィナスを踏まえた発言だと思う。たぶん。
Amazon.co.jp: 他者と死者―ラカンによるレヴィナス: 本: 内田 樹
Amazon.co.jp: ラカン: 本: フィリップ・ヒル,新宮 一成,村田 智子
らっへんがわかりやすいかと。
要するに「人間に限ったら『生理的欲求』なんてものはなくて、後天的に他者との関係性の間で形成された『欲望』に上書きされてる、ということにしておいた方がいろいろ説明も治療もしやすいよね」という常識。ちなみEVEとかいうエロゲはやったことがありません><