はてなキーワード: ハイデガーとは
昔は悪だったよ。地方の公立の中学校でさ、動物園みてえなところだった。動物どもにテキトーに合わせてながら生きててさ、勉強ができるのなんてガリ勉だと馬鹿にされるだけだからずっと隠してた。悪と遊びながら隠れて勉強。タバコふかして帰ってきて、夜はハイデガーを読むとかね。で、進学校に行ったのは俺だけだったかな。それで東京の大学に合格してさ、村じゃあ天才だと崇められながら地元を離れたけど、大学に行ってみりゃ金持ちばっかりで、予備校とか行ってた奴ばっかなのな(笑)。びびったよ。俺は予備校とか行ってなかったから。でもボンボン供は俺の知らない教養を沢山知ってたよ。美術にも音楽にも造作が深くて。でもな、なんていうのか、”知らない”んだよな。公立中学校でさ、男子も女子も金持ちも貧乏にもごちゃ混ぜで過ごす生活とかさ。中卒で働く予定のヤンキーとか、高校で妊娠してそのまま結婚しちゃうような女子とか、多分会ったこともねえんじゃねえかな。悔しいけどインテリ気取りのボンボン達の方が、留学経験もあったし、あいつらは勉強以外にスポーツも楽器も英会話もなんでも出来たよ。でも、やっぱり”知らない”からかな。経済とか政治とかの話になるとダメなんだよな。理想主義者っていうか、まあ、現実知らずだよね。その点俺は”知って”いるからわかっちゃうんだよね。お坊ちゃん、いい子ちゃんのリベラルにはわかんないことがさ。リベラルは多様性なんて言うけど、俺の方がよっぽど多様性を”知って”るんだよな。
ーー
昔は悪、今はインテリ、ただのボンボンよりも”知ってる”ぜってのがな。リベラルよりリベラルだし、保守の気持ちもわかってるぜってのがカッコいいんだよ。
前回はこちら
https://anond.hatelabo.jp/20200904203318
ビジネス本を根拠として、娯楽を健全と不健全に分けるのは余計なお世話とか、「人間」と「作者という存在」を同一視するのは不健康とか、コンテンツを精神的に健康/不健康で断ずる行為はよくないなどの意見をいただいた。
特に、「私自身が敵意を持って何かを貶めたい意図を持っているので、記事そのものが精神的に不健康である」という意見には唸らされた。
一般に販売されているゲームで、自分がクリアしたことのあるものに該当はなかった。
やはり倫理基準があるので、人権侵害をメインに扱ったゲームは審査を通りにくいし、そもそも売れないのだろう。
それに、私がここに書かなくても、「グロ 残虐 ゲーム」などの単語でググってもらうと、有志がそういうコンテンツを紹介しているページに易々と辿り着くことができる。
なので、今回はフリーゲームを取り上げたい。フリゲは主に個人が制作するものなので、その人の心の健康がありありと現れる。考察にはうってつけだ。
以下に紹介する。できるだけネタバレはしない。
見た目はほんわかしているが、中身はエログロ(特にグロ)。見た目はMOTHER2のような暖かい印象を受ける。
プレイを初めて1時間以内に、このゲームの異常性に気が付くことだろう。気持ちが悪いタイプの異常性ではなくて、続きが気になるタイプの異常性だ。
ネーミングセンスが独特であり、作中の随所に現れる。
どこが精神的に不健康なのかといえば、ストーリーの救いのなさだ。特に2。1と3は、グロ展開を挟みつつも笑えて感動できる物語なのだが、2はとにかく救いようがない。
特にラストステージ。人によっては恐怖で進めなくなる。ニコニコ動画の実況プレイ動画にも、「怖すぎて〇〇さんの動画に来ましたwww」といったコメントが並んでいる。
私自身も当時は震えた。深夜1時頃にクリアしたのだが、翌日にあった英語の演習でミスを繰り返したのを覚えている。
あの時の私は、恐怖を感じていたんだろうか?
違うと思う。あのラストステージというのは、ぱりぱりうめというキャラクターの抱える苦痛や嫉妬や絶望や愛や夢が、画面を通じてプレイヤーを殴りつけるとしか言いようのない展開だったのだけど、その感情に心を揺さぶられたのだ。だから涙が止まらなかったのだと今では思う。
大学生4人(男2女2)が旅行に行く。そのうちの一人が入巣(いりす)京子。旅行先で楽しんでいる途中、事件が起こって1人ずつ行方不明になっていく。
パズルゲームでの得点によって物語が分岐する。バッドエンドだと、いりすが友人を したのを示唆するEDになる。高得点を取ると、行方不明は友人たちによる仕込みであったことがわかる。サプライズな誕生日パーティーをしたかっただけなのだ。
プレイを続けていると、ゲームフォルダ内のデータが少しずつ置き換わっていることに気が付く。テキストファイルや画像データが現れたり消えたりする。
最後までプレイすると、いりすのキャラクター性や、旅行について考えていたことや、男側の主人公であるうーじの抱える闇が明らかになっていく。
いったいどこが精神的に不健康なのかというと、〇〇と見せかけて、実は〇〇でした!みたいな展開の連続であり、特にその裏側に残虐性(しつこいようだがネタバレはしない)が潜んでいる。
以前の作品である「愛と勇気とかしわもち」でもそうなのだが、プレイヤーを悪い意味でビビらせることに全力を注いでいる。
プレイヤーの心臓に冷たい何かが突き刺さって、心臓が凍り付いて、血管が破裂するような恐怖を味わわせることに作者は快感を覚えているのでは?と邪推せざるを得ないほどに、このゲームはプレイヤーを驚かせてくれる。
数あるフリーゲームの中でも最大級の――精神的に不健康な作品だ。
ゲーム冒頭の説明にあるように、精神疾患の人や未成年は絶対にプレイしてはいけない。一般の人にもおすすめできない。やっていいのは恐怖を快感に変換できる人だけだ。
体調がおかしいと思ったら、プレイしている最中でも中止すべきだ。例えば、2周目に入ったあたりで、「ここで止めたら負けだ」とか、「モニカ、てめーは絶対○す」などの感想を抱くかもしれないが、それでも途中でやめるという選択はありだ。
作者、特に2周目の恐怖演出を担当した人間の悪意が突き刺さってくる。どのような理由でも説明できないほどに悪趣味な演出だった。
「このゲームを作った人たちは、学生時代に苛めや虐待などのひどい目に遭って、社会に恨みを持つようになったんじゃないか? だから、こんな残酷なゲームを作って社会に復讐しようとしたんじゃないか?」
私はそう推測した。
「違う。このゲームは高い評価じゃないか」という意見もあると思うが、典型的な確証バイアスだ。別の言葉で言えば、コミットメントと一貫性。
プレイヤーは、恐怖と戦いながら数時間~数日をかけてゲームをクリアする。敵だと思っていた存在は、自分のことを(以下略)。ハッピーエンドではなかったけど、恐怖に打ち勝ってこのゲームをクリアできた。俺はチキンじゃない!
終わり良ければ総て良しという言葉がある。悪趣味な演出にどれだけイライラしたとして、最後までクリアしてしまった後で、このゲームをプレイした時間が無駄だったと認めることはできない。
そんなことをすると自分は愚か者だったことになる。だからこそ、個性的なゲームだったね、just monicaだったねと高い評価を与えることで、自分の考え方と行動に一貫性をもたせようとする。それがこのゲームが高く評価される理由のひとつだ。
今までにないタイプのゲームだったのは間違いない。ホラーゲームが好きな人にとっては珠玉の一品だったと思う。私も、このドキドキ文学部!に評価を投じた。★4つだったと記憶している。
名前だけは聞いたことがあると思う。エログロかと言われればそのとおりだ。
この作品は、上下巻の約700ページ(しかも行間がほとんどない)に渡って以下のような展開が続く。
①ジュリエット(とその仲間たち)が乱痴気騒ぎを起こして一般人を強姦したり殺したりする
②騒ぎの最中かその前後のパートで、ジュリエット(とその仲間たち)による哲学論議が行われる
③ジュリエット(とその仲間たち)が不仲になって仲間を殺す。あるいは新しい仲間を作る
エログロ小説と世間では見られているが、実は哲学小説だ。作者であるマルキ・ド・サドは貴族出身でありながら、変態行為が露わになって逮捕→投獄というパターンで小説を書き始めたタイプの人だ。
この小説が有名になった理由のひとつは、サド自身が社会に対して抱いていた恨み(今でいう反社会性障害?)から生じるエログロ描写の反面、その知性や教養から精緻に描かれる人間社会に対する哲学的な理解の鮮やかさが奇妙なほどマッチしていることによる。
哲学的な描写の例として以下の例を挙げる。主人公であるジュリエットの序盤の師匠であるデルベーヌ夫人の科白だ。この小説のキャラクターは喋りの量が半端ない。ドストエフスキー並みだ。
※一部のみを抜き出した。この場面の文字数は引用箇所の軽く数倍はある。
「まあ!」とあたしはデルベーヌ夫人に申しました、「それではあなたは、御自分の評判などどうなったってかまわないほど、無頓着でいられるというのですか?」
「そのとおりよ、あなた。本当のことを言うとね、あたしは自分の評判がわるいという確信をもてば、ますます内心で愉快を覚えるの。そして評判がよいと知れば、まあそんなことはないでしょうけれど、きっとがっかりするでしょうね。いいこと、ジュリエット、このことをよく覚えといてちょうだい、評判なんてものは、何の役にも立たない財産なのよ。あたしたちが評判のために、どんな犠牲を払っても、けっして償われはしないのよ。名声を得ようと躍起になっている者も、評判のことなど気にかけない者も、苦労の多い点ではどちらも同じよ。前者はこの貴重な財産が失われはすまいかといつもびくびくしているし、後者は自分の無関心をいつも気に病んでいるの。そんなわけで、もしも美徳の道に生えている茨が、悪徳の道に生えている茨と同じほどの量だとしたなら、いったいなぜこの二つの道の選択にあたしたちは頭を悩ますのでしょう、あたしたちは自然のままを、思いつくままを、そのまま素直に信用していればよかりそうなものじゃありませんか? P.16
今時の心理学の本に載っていそうな感じではある。アドラーの『嫌われる勇気』に通じるものがある。
悪徳の栄えで論じられている思想はニーチェやハイデガーに通じるものがある。この世に存在し続けるものに重きを置いている。
私にとっては面白い小説ではなかった。万人にお勧めできるものではない。というのも、哲学的な論考はあるものの、残虐な場面や、人間的に醜い描写が多く登場するからだ。
今のコンテンツでいえば、『ダイナー』が一番近い。ダイナーを哲学的な内容にすると現代版の悪徳の栄えになる。
私が読むのをやめようと思いかけた場面のひとつを挙げる。ジュリエットが、師匠の一人であるノアルスイユという金持ちに気持ちを打ち明けるところだ。
※上を含めて、引用箇所を探して打ち込むのに2時間半もかかってしまった…いずれにしても引用が多すぎる。これで最後にする。
「おお、 ジュリエット、おまえはまだ全部を知ってはいないからそう言うが……」
「なら全部すっかり話してください!」
「おまえの父御さんや母御さんのことだがな……」
「どうしたと言うんです?」
「生かしておいてはおれのために都合が悪かった……息の根を止めてしまう必要があったのだ。で、二人ともばたばたと死んでしまったのは、おれが彼らを自分の家に招いて、ある飲物を飲ませたからだ……」
ぞっとあたしの総身に冷たいものが走りました。だがすぐに、自然があたしの心の奥底に刻みつけた、極悪人にふさわしいあの無感動な冷静さで、あたしはノアルスイユを正面からじっと見据えながら、「人非人! 何度でもこの名を繰り返してやりたい」と叫んでおりました、「あなたは見るも怖ろしい男です、でもあたしは、そういうあなたをやっぱり愛しております」
「ああ、そんなことあたしに何の関係があるのでしょう? あたしはすべてを感動によって判断します。あなたの兇行の犠牲となったあたしの家族は、あたしに何の感動も生ぜしめてはくれませんでした。けれどあなたがあたしにしてくれたあの犯罪の告白は、あたしを熱狂させ、何とお伝えしていいか分らないほどな興奮の中へ、あたしを投げこんでくれました」 P.57~P.58
ノアルスイユはジュリエットの父母を殺している。そのせいで、裕福だったジュリエットは修道院に送られて貧しい生活を送り、やがては売春宿で働くことになった。
その原因を作った張本人であるノアルスイユに対してこのような言葉を出してくるところに、この悪徳の栄えの醜悪さを感じた。読者をダークサイドに送り込もうとしている。
物語の中で悪事を働く人間の基本になっている考え方のひとつに、「悪事をする人間は自然に有益である」というものがある。考え方自体はとんでもないのだが、文学者が翻訳を務めている関係でやたらと格調高い文章になっており、それが読者の心に響いてしまう。
年末年始を使って上下巻を読んだのを覚えている。今では読むべきではなかったと後悔している。
いわゆる鬱小説というやつだ。心が痛くなるコンテンツ。とにかく痛い。この本も読むんじゃなかった。アマゾンで高評価がついていたので出来心で買ってしまった。
この小説のいったいどこが精神的に不健康かといえば、「いたいけな少女をいたぶること」を主眼に置いているからだ。
アメリカの田舎町に暮らす主人公のデイヴィッド(12)。ある日、隣の家に住んでいるルースのところに、両親を亡くしたという快活な美少女メグ(13才以上)が妹のスーザンと一緒に引っ越してくる。デイヴィッドはメグに心を奪われる。ザリガニ釣りから始まって、次第に仲を深めて、お祭りの観覧車に一緒に乗る。花火が綺麗、みたいな描写だったのを覚えている。
という言葉が脳裏をよぎった。まだ未成年だった頃、某動画サイトにアップされていた『true tears』というアニメを見ていた。眞一郎と乃絵が仲睦まじくしている様子を見て、ほかのみんなが一斉にこのコメントを打ち込んでいたのを思い出した。
この小説は、読者に精神的な苦痛を与えることを目的として、メグに対してありとあらゆることをやってのける。
メグは何でもされる。肉体的な苦痛から精神的な苦痛まで、何でも揃っている。
巧妙なのは、このメグというのが優秀設定のキャラクターであることだ。
運動神経は抜群で頭がよく、そのうえ美少女ときている。いわゆる利発キャラ。例えば、虐待が始まってすぐの段階で地元の警察に相談に行っている。普通の子どもはこういう行動を取ることはできないだろう。
実際、一度はルースの家から脱出に成功しかけるのだが、障害持ちのスーザンを気に掛けるあまり失敗してしまう。
ルースやその子ども達からの虐待はさらに苛烈になるが、デイヴィッドはただ観ているだけだ。傍から虐待されるのを眺めるばかりで何もできない。親に相談しようとするも、恐ろしくてできない…
この小説を読んでいる間に心が相当削られた。品性下劣という感想を抱きながらも、最後まで読まないといけない気分になっていた。悔しいが作者の勝利だ。
今回の記事を書くにあたり、隣の家の少女について調べたところ、ネットフリックスに映画があるらしい。今度見てみることにする。
作者である上原善広の父を主人公に据えたノンフィクション小説。ということになっている。物語というよりは、作者が精神的に不健康な例だ。
あらすじとしては、牛の解体場で働く上原龍造が、自らの腕だけを頼りに食肉業界の経営者として成り上がっていくというもの。
昭和の時代の話なので、解放同盟や共産党や右翼にヤクザが出てくる。彼らと渡り合いながら、少年だった龍造は成長を遂げてゆく。
問題なのは、ノンフィクションと謳っておきながら創作であることだ。
作中では、実際に存在した人物の名前や経歴が書き換えられている(ex 作者の父の名前は龍造ではない)のみならず、解放同盟支部の結成年や支部名その他、多くの事実に誤りがある。
作者と新潮社は解放同盟から怒られた。出版元である新潮社はHPで謝罪文を出している。作者である上原氏もnoteで反省文を書いているが、はっきりいって反省していない。
巻末のところで実父に関連して、自分の来歴や、元嫁や兄について語っているのだが、なんというかもう、ツッコミどころが満載なのだ。本編を読む前にこれを読んでいたら、一生読むことはなかったと思う。
※基本自分用。ついでに公開という体。
元増田の言うところの分解する手法は大変有効で、社会的な事柄のみに限定すれば肯定感は高まる。だけどこの方法では社会の節目が訪れ、概念が180度変わるシーンでは無効化されると思う。例えば玉音放送前と後のショックの大きさについて数多くの証言が残されている。国家というアイデンティティを個人レベルに適用していた人は自信がもろく崩れた。海外でパスポートを失ったとき、辻仁成は、所詮肩書など紙切れに過ぎない。遠く外国において自分は何者でもなかった、と小説の後書きに記した。
自己肯定感を至極真面目に考えると、自己の定義から始まり、自己の発生箇所、範囲、形而上的な自己という精神について絶対に避けられなくなる。デカルト~フッサール~ハイデガーをつらっと見てゆくと、自己とは何かがますますあやふやになってゆく。分子や細胞など、SF的な見地でもいいかも知れない。自己という要素は認識や意識にまで還元され細切れにされる。
相対的な評価は、たとえそれが当時絶対的に見えても絶対性がまるでない。わたしというものを社会性と接続されるあらゆるものから切り離すべきで、そうでないならば、実際のところ自己評価、他者評価とは単なる一社会一形態・一時代のマーヤーに過ぎないことが理解できる。自己がマーヤーであるなら他者もマーヤーであり、そこには般若心経的な世界観が広がってゆくばかりだ。空とはなにもないわけではなく、"ある" と錯覚するものが多数の変じ易い要素によって形成され、例えば社会的な成果や経験に見える、といったものらしい。自己に言い換えるなら、自己が存在しているという実感は単なる各細胞(社会的なレッテルや成果を含む)の成り立ちに過ぎない。自己を考え、また認識することはまるで無意味だ。したがって元増田の希薄さとはまた違い、自他ともに興味が消失するところに真実があるものと思う(あるというより、ないのだけど)。
じゃあなんだ、どうすればよいのか。
自己と他人に無頓着になり、興味のみを追えばいいと思う。これは多少齟齬を含んでいて、他者に興味を持てない状態で他者に興味を持つというおかしなロジックを持っている。言ってしまえば他者に "ある" ものは追いかけなくていい。社会的な地位や金、恋人、そういうものではなく(仮にそういうものであったとしても)純粋に動物的に欲求するということ。たとえば奇妙な話、金という働きに極度の興味があるなら金集めに奔走してもいい。ただしその場合でも金にまつわる "ある" と錯覚する自己認識を持つ必要性はない。それは自己ではないから。
分かる。それに九州大なんて出てるんだから、いくら就職氷河期でもラーメン屋でアルバイトなんかする必要は無かったはずで、労働とかそういうことに向いてなかったが親や世間的な事情で渋々という感じだったんじゃないかと思う。勝手に。
正社員になって3年前まで働いていたのも、3年前までで完全に人間としてバーンアウトして何かが彼の中で「終わって」しまったということなのかもしれない。
年齢的に、大学に戻れる年齢も越えてしまったと悟ったとかもありそうだし。
流石に低能先生程のニュースにはならないだろうけど、こういう事件はこれからも増えると思う。ああ、そういやこの前逮捕された奴の愛読書はハイデガーとドストエフスキーだったな。
昨日の夜9時ごろ、にわかに「そうだ、天下一品に行こう」という気持ちが湧いてきました。
思い立ったが吉日ですから、ぼくは天下一品に向かう準備をはじめました。
なにせ最寄りの天一まで車で1時間半という僻地に住んでいるので、なんの対策もなしに
ふらーっとラーメン屋に寄るみたいなことをすると後悔すること請け合いなわけです。
具体的な準備の内容としては音楽を用意しました。それだけです。
ぼくは未だにニコニコ動画にかじりついている時代遅れマンですので
ボーカロイドとか演奏してみた動画から音声をぶっこ抜いていたわけです。
動画ファイルの音声コーデックはaacでした。ぼくのスマホではちゃんと再生できます。
というわけで、ちょっと前に買った64GBのmicroSDに音楽どもをぶちこむわけなんですが、
スマホにUSBケーブルをつないでも何かぱそこんがスマホを認知してくれなかったので、
このパソコンはなんてひどいパソコンなんだと憤りながら、スマホからmicroSDを引き抜き、
足の踏み場のない部屋の中からmicroSDからSDへの変換アダプタを探し出し、やっとのことで
完了したのは夜の10時近くになっていました。かれこれ1時間近く格闘していたことになります。
さてようやく天下一品に向けて車を走らせるターンになりました。
わたしの車は家族のおさがりですが総走行距離はせいぜい3万km程度ですのでよい車です。
それにしても深夜の休日の田舎道というのはおそろしいものです。
えらいまっすぐでだだっぴろい道路です。人も車もまったくおらんのです。
音楽に乗りに乗っていることもあり、いえ具体的な速度を書くとアレなことになりますので書きませんが、
気づいたらスピードメーターがえらいことになっているというわけです。
これではいかんと思い、スピードメーターをちらちらチェックしながら慎重に走行をしました。
しかしこのスピードメーターちら見もあまりよくない対処法であるように思われます。
田舎道特有の出来事として、深夜の他に誰もいない真っ暗な道路のわきを、おじいちゃんおばあちゃんがゆっくりと歩いている
なんてこともたまーにあるわけですが、そんなチラ見をしていては、いくら制限速度で走行していたとしても、
彼らに気づけないということがありうるのです。
よってこれに対処する方法としてよりよい解決策であると思われるのは、
体内に備わっているスピードメーターの精度を高めることです。
ぼくのような素人が深夜の田舎道を走行するのは大変危険ですのでやめたほうがいいです。
しかしそのときのぼくはどうしても天一のこってりを食いたいという気分がありましたので走行を続行しました。
ところでぼくはVOICEROIDが好きなんですけれども、走行している最中は、いわゆる車載動画のような感じで脳内実況していました。
暗い田舎道を走りながらえらいゆるい雑談をだらだらとしているような動画がぼくの脳内で再生されていました。
なかなか楽しかったです。深夜のドライブの醍醐味のひとつであると言っても過言ではありません。
妄想が醍醐味というのはどうなんだというツッコミをされるとまあたしかにそれはそうですよねとなります。
音楽聴きながら脳内車載動画を再生しつつとろとろ運転すること1時間半くらいでしたでしょうか、
やっとのことで天下一品につきました。
侵入には右折が必須なのが面倒なので、以前はわざわざ回り込んで左折進入することもあったのですが、
深夜で交通量が比較的少なかったことも影響していたかもしれません。
ここの駐車場は住宅街の中にありまして、排ガスを家にぶっかけないためにも、前進駐車でお願いします、
みたいな看板がありましたので、看板に従いまして前進駐車をしました。
しかしぼくは前進駐車がえらい苦手なので正直いやだなあという気分もありました。
ぼくはバックが下手くそなんです。
前進駐車してバックで発進するのと、バック駐車して前進で発進するのとを比べると、
個人的には後者の方がめちゃくちゃやりやすいという気持ちがあります。
しかしぼくは理性を働かせて前進駐車をしました。これはとてもえらいので褒めてください。
あとで駐車場から出るときはえらいゆっくりでバックしながら慎重に国道に戻りました。
それよりもラーメンのことの方が気にかかってあまり集中できなかったので、
なるほど今のわたしはまさしく頽落した実存ちんぽであることだなあと思いました。
そうこうしているうちにラーメンが届いてきまして、食いました。おいしかったです。
やや麺が粉っぽい感じがしないでもないでしたがスープがおいしかったのでどうでもいいです。
ぼくは家系とかも大好きなんですけれども、あれがすばらしいのは
ラーメンといっしょに米を食うとめちゃうちゃうまいところです。
こってりのスープがちょっと残ってしまったのでなおさら米を頼んでおけばよかったと後悔しながら飲み干しました。
で食い終わって会計をすませてバック発進しながら天下一品を後にしました。
帰りにローソンによってオレンジジュースとおにぎりを買いました。
なんでおにぎりを買ったのかよくわかりません。米への執着が残っていたのかもしれません。
ここのローソンはえらいやる気のないローソンだという印象が残っています。
なんか照明が暗かったのがあれだったのかもしれません。
そういえば店長のエントリにも照明の効果について力説してたやつがあった気がします。
そんでちょっと休憩したあとにまた車を走らせおうちに帰りました。
もう2時くらいの感覚でいました。なんだか得した気分になりました。
しかし本当に天下一品に行っただけなのでたぶんあんまり得していないです。
人の脳は脳細胞同士が連結、通信しあうナイーブな電気パルスから離れ、高次思考を言語で行うことに成功した。それが人間と他の動物の間にある知性の差であり、ナイーブな電気パルスのイミテーションにすぎないディープラーニング人工知能が未来永劫知性に達しない理由でもある。
人は言語により思考し意思決定し、本を読んで学習し脳をプログラミングすることも出来る。言語は電気パルスを離れ安定したテキストデータとして脳に貯蔵しておくことも出来、それを外部に文書として記述することで知識を共有し後世に伝えることも出来る。
脳は各部が機能を持ったパーツとして存在していて、特定の箇所を傷つけると特定の機能が消失することが知られているが、各部位で行われた電気パルスによる思考の結果は高次脳領域で言語データとしてエンコードされ、意識に送られる。意識は言語データを受け取り、口に出すかどうかを決定する。口に出さない場合は心に思うだけにする。そして必要な場合言語データをループバック回路に送り返す。ループバックされた言語データは新たに入力された感覚器官からの電気パルス信号とともに再び脳に入力されて処理され、また意識に言語データとしての処理結果を返す。
意識的思考というのはつまり、脳から出力された言語データを何度も脳に送り返すことで言語データを熟成させるプロセスのことだ。思考自体は意識が行っているわけではなく、脳細胞が電気パルスによって行っている。意識の働きは脳から出力されてきた言語データを評価し、口に出すかどうか、あるいは思考を継続するために脳に送り返すかどうかを決定している。そこで流れた言語データは電気パルスにデコードされ記憶領域に複製されていて、後から思い返すことが出来るため、そこに意識の流れが出来、時間感覚や自分が意識を持ち生きているという認識が生じる。
脳内の思考活動は脳内で閉じていて、外部からは存在が実証できないため、意識があるとかないとか自由意志があるとかないとかいった問題が生じているが、意識はあるし自由意志もある。意識は考え続けるか、考えるのをやめるか決定し、自ら行動を変化させることが出来るので、自由意志が存在するといえる。もちろんそれは決定論と矛盾しない。
追記:つまり実際の思考を行うのは各部位で行われる電気パルスであるが、意識はその言語化された出力を脳に戻すことで何度も思考をループさせ、それによって思考を高度化させている。その機能は、「言葉を口に出すかどうかを決定する」回路から進化したもので、「思ったことを口に出さずもう一度考える」という能力を獲得したことが、人と動物を分けた、という話。意識は言葉を口に出すかどうかだけでなく、言語で思考した内容を実際に行動に移すかを全般的に制御出来るが、言語によらない思考から発生した行動は制御できない。それが、意識は言語を処理する機能だという証拠になるだろう。
追記2:「自分には意識があるという実感がある」というのが不思議な感じがするのだろうが、事実として意識はあるし、実際に脳内で行われた思考の結果である、出力されてきた言語データの内容を記憶していて思い出すことも出来るから、自分はずっと意識を持ち生きているという実感があるのは当然である。意識はそういう機能だからだ。それは幻覚でも何でもない。
追記3:動物に意識はあるかという問題について。動物に意識はない。ハイデガーいわく「動物は私と言わない」というが、「私」が「思考している」という文を組み立てられるだけの言語的複雑さを動物の脳は持ち合わせていないので、「思考している私が存在する」という認識、つまり意識の認識に動物は至れない。
追記4:計算機が「私」や「思考している」という概念を理解し、「思考している私が存在する」という認識に至る可能性は当然ある。ディープラーニング人工知能の延長線上では無理だと思うが。
追記5:この機構が計算機上のニューロンだけで成立するかという話。まず、電気パルスを言語データに変換するアルゴリズムは、人類のDNAにハードコードされている。人の知性はニューロンに由来するのではなく、DNAに由来する。人間より脳細胞が多い動物はいくらでもいるが、人間のように知性がある動物は他にはいない。人間という生物種全てに知性が存在する以上、その人間を定義するDNAに知性の根幹があるのは疑う余地が無いだろう。人間であれば基本的に言語を操る力を身につけることが出来る。それは人類のDNAに言語を操る基となるプログラムが記述されているからだ。
だからこのシステムに必要なのはディープラーニングによる学習ではなく、DNAの解読だ。学習は動物であれば誰もがしているが、言語を自由に操れるのは人間だけだ。学習からは言語にも、知性にも到達することは出来ない。学習によって知性や言語を得ることが出来るように、脳細胞を構成しているDNAが、知性の発現のための必要条件となっている。
しかし、DNAを解読して得た 電気パルス⇔言語 変換のアルゴリズムが、計算機上のニューロンもどきで実行できるかはまた別の問題だ。適用できたとすれば、この機構は計算機上のニューロンでも実現可能なはずだ。
DNAの解読以外で、ニューロンに知性を発生させるメカニズムを実現するのは不可能だと考えている。大自然が何億年とかけて最後に到達した脳というハードウェアのプログラミングに、人類が独力で到達できるとは思えない。
追記6:なぜそれが意識であるといえるのか、について。それはもちろん、あなたが意識であると考えているものがなんであるのかによる。私は「人に動物にはない知性がある理由」と、「人が自分の思考している内容を言語で理解し、そこから『思考している私が存在している』と認識している理由」について語った。あなたの意識の定義がそれに含まれないのなら、もちろんそれは、あなたの考える意識が存在する理由にはならない。あなたの考えている意識がどのようなものであるのか聞いて、それについて考えてみたいと考えている。
追記7:私が「意識は脳の外部にあると規定している」という指摘があるが、それは当たらない。脳はただ情報を処理し、その処理した結果として「思考している私が存在する」という当たり前の事実を見て、私には意識が存在すると認識しているだけだ。脳の中の通常の情報処理過程、たとえばそこに石がある、とか、そこに月が浮かんでいる、とかと同じように、「思考している私が存在する」のを見て、「私には意識がある」と人は結論している、と私は規定している。
追記8:言語を伴わない音楽や絵画を通じても、情報処理過程は変容する。視覚、聴覚の情報処理は意識的情報処理によらず変化する。その変化によって、新たな音や色彩に対する感覚を得て、それを言語化し、意識することができるようになることもある。それは意識の変容ということが出来るだろう。
言語を伴わない芸術から深いショックを受け、寝込んでしまったという経験が私にもあるが、それは意識を経由せず直接脳の情報処理過程を揺さぶることで発生したのだと思う。それにより脳内の情報処理過程が大きく変わってしまったり、トラウマになってしまったりということもよくある。それを意識の変容ということも可能だろう。
追記9:チンパンジーや鳥類等のコミュニケーションについて。上にあるように、私はチンパンジーや鳥類が伝えようと思ったことをやめて心に思うだけにすることはなく、思考がループしないので知性に到達できないのだと考えている。もちろんそれだけでは足りず、自分の思考をより正確に言語で表現し、言語情報を受け取ってその思考をより正確に再現出来る個体が、狩りのコミュニケーション等で有利になることで、言語能力の高い個体が子孫を残していく。思考⇔言語の変換で損なわれる情報が少ないほど、ループの中での思考も正確さを増し、複雑な概念の理解に到達できる。それを言語表現する進化の過程で、複雑な発声を獲得し、それを聞き取る聴覚も発達していく。
複雑な発声や聴覚を獲得する前は、思考を言語で表現しようとして歌を歌っていたのではないかと妄想している。人類は歌でコミュニケーションし、脳内の独り言も歌で行って思考をループさせていたのではないか。歌を歌うと気持ちいいのはそのころに培われた本能に由来しているような気がする。頭の中で歌が流れて止まらなくなる現象もその辺に由来しているのではないか。
追記10:囲碁AIについて。AIはコンピュータだから、囲碁のようなゲームが強いのは当たり前である。何も絶望することはないように思う。グーグルの子会社が仕掛けているのはHypeだから、真に受ける必要はないと考えている。彼らがそのHypeを本物だと主張するなら、囲碁AIのソースコードを公開するべきだ。
追記11:思考のループに言語はいらないのではないかという指摘について。脳内の何百億という脳細胞で発生している電気パルスは、そのままではループさせることは出来ない。言語に一旦エンコードし、それをもう一度デコードして、思考の再現を行うことでループしている。また、思考の内容を言語として記憶し、思い出して思考を再開することで、移ろいゆく電気パルスによる無意識の思考とは違って、同じテーマについて何度も長時間考えることが出来、思考を深めることができるようになる。
追記12:夢について。夢は動物も見ている。動物や人間の脳内では出来事が記憶されている部分があり、そこに電気パルスが流れると追体験する。人間の場合でも、それが嫌な記憶だとふとしたきっかけで蘇り、叫んだりしてしまうのだが、そういう意識でコントロールしがたい無意識的な思考だ。睡眠中にはそこに電気パルスが流れて出来事が蘇り、いろいろな出来事が繋がった追体験が起こる。そうして出来事と出来事を並べて、因果を繋ぎ、ある出来事の後に起きることを予測できるような形で整理している。それによってパブロフの犬のようなことが動物でも起きる。しかし、出来事を並べるだけで、言語的な論理性を持たなければ、たいした知性には到達できない。
追記13:意識とは、言葉を口に出さずにもう一度考える回路から発達したもので、思考の内容を言語として受取り、もう一度考えるため脳に戻すことで思考を深化させる機能だ。そのループの中で言語能力が高まり、「私」が「思考している」という概念を獲得し、「思考している私が存在する」という文が脳内で紡がれて意識に送られた時に、意識は己の存在に気づき、自意識を持つ。
追記14:匿名ネットのレスバトルで見られる、用語を適当に用い、反論のように見えるが無意味な文を書いて、無意味ゆえの反駁不可能性から自分への反論を避けつつ、用語の意味を知らず文が無意味と気づかない人には、相手の論に反論できているように見せかけようとする手法が私は大嫌いである。
こちらにちゃんと書いた。 http://anond.hatelabo.jp/20170607213657
それはただ一つ、「かわいくあれ」ということだ。
『ゲンロン0』は、かわいさを巡る議論のように思えてしまってならない。
特に家族論。かわいいのは子どもだけではない。「誤配しちゃった」という親もかわいいのである。
というかむしろ、かわいくあるべきは子どもではなく親の方かもしれない。
ヘーゲルとかハイデガーのダメなところは、かわいくないところである(見た目の話ではない)。
ネットの交流が荒れがちなのは、それが言語ベースだからだ。言語はかわいくないのだ。
そもそも不気味さを避けるための発明が言語なのだから、不気味でない言語がかわいくあろうはずがない。
■本文。
うう……今回こそちゃんとゲームレビューをやろうと思っているんだけども、とりあえず、前回の思考の続きから入ります。いや、書かないとイライラして、安心して本題に入れないんですよ……。
まず、美少女ゲームの主流が、オブジェクト嗜好による「萌え」至上主義に至った理由を考えると、前にも書いたけども、次のステップとなるべき目標が不明瞭になっているからだろう。社会的な成功といったものに価値を見いだせない世界であるために、細分化された個人主義……拡散という現象になるのだろう。もっとも、求心力のある価値観を求める動きが無かった訳ではないのだけど、それは、エヴァンゲリオンで暴発した結果、衰退し、その後は保守反動的な状況がずっと続いている。
これは、過去においてもそうで、アニメを取り巻く言論は、『うる星やつら~ビューティフルドリーマー』など、問題作が次々と出現した、1984年を頂点に、アニメ情報誌として特化されたニュータイプが台頭してくる80年代後半にかけて、急激な反動化が起こっている。以後、閉塞に伴う縮小再生産を繰り返しながら、消費スピードは加速していく。また、ゲームという媒体が台頭し、それが大量消費に適した媒体だったことも、更に状況を加速した。
結局、そんな閉塞が行き着いた状況で現れた、エヴァンゲリオンという暴発の反動で、何も考えたくないという心境に陥った人々は、萌えという言葉で思考を止めて、大量消費を自己肯定する事で精神の安定を求めているのだと思う。現在は「閉塞による安定の状態」と考えてもいいだろう。だけども、極端な状態には変わりはない。
おそらく、創作にしろ、批評にしろ、これからは商品という手段をもって、極端な両者の格差を埋める作業が必要になってくるだろう。また、そうでなければ肝心な人々には届かないと思う。そのためには、バランスの取れた商品が必要になってくる……やべ、今回こそきちんとゲームレビューをやらなくては……。
さて、いきなりあからさまな発言なのだが、『フロレアール~好き好き大好き』というゲームを買う動機は、メルンに萌えるか、前作『好き好き大好き』の続編(?)だから、のどちらかだと思う。メイドで、妹(的キャラ)で、ロリという、現在の美少女ゲームにおいての最大公約数的な設定のキャラクターであるメルンに、ヒロインを一本化したことは、『好き好き~』に比べて、牙を突き立てる対象……もとい、購買層の狙いを絞ったことを伺わせる。だが、『好き好き大好き』をプレイした人にとっては、『フロレアール』には別の期待があったはずだ。
実は、筆者も後者に属していたのだが……結論から先に書いてしまうと、どちらの期待も最終的には超越してしまった感があるのだ。
『好き好き~』が、自己の内面とひたすら対峙する内容……ヒロインの存在はあっても、ヒロイン像は自己の内面にのみ存在しており、その内面が現実との摩擦で生じるギャップに物語としての強度を求めた……いわば、変化球的なアプローチだったのに対し、『フロレアール』の場合は、メルンとのコミュニケーションから生じるギャップから、自己の内面を浮き彫りにする手法を採っている。言ってみれば、正統派でストレートな演出を行っている訳だ。そして、その演出を反復することで、物語の強度を上げているし、あくまでメルンという中心軸を崩さないあたりは、非常に慎重でもある。
まあ、筆者も某誌のレビューでは『好き好き~』を「プレイする人を選ぶゲーム」と書いたのだけど、今回はむしろ、「こんなに分かりやすくしていいのか?」という感想を持った。確かに、平気で会話の中に「ハイデガー」とか「象徴交換と死」なんていう固有名詞が出てくるので、敷居が高い印象を受けがちなのだが、そういう単語に頼っている訳ではなく……シナリオの中で、普遍化する作業がきちんと行われているので、意識しなくても意味そのものは把握できるだろうし、作り手の思考が一貫しているため、むしろ分かりやすい作品になっている。
そして、この認識を間違えると食わず嫌いでもったいないことになる……というか、『フロレアール』は、結果として、両者の中間を行ってしまったのだ。これは、どちらの期待をしていた人にとっても、予想外の事態だったと思うし、ニーズを意識した上での意外性には、商品としての誠実さも感じられた。
だけども、物語としての強度が、商品としての強度とは必ずしもイコールにならないという状況がある。完結する物語や、密度の高い物語にユーザーが興味を示さないというか、ユーザーはバランスの取れた作品より、歪んだ構造の作品に惹かれるのが、現在の状況である。
確かに、物語を楽しむということは、「自分の人生と違う人生を体験する」ことだけども、それは、「何も考えたくない」「楽しいことだけ考えたい」という意志を肯定するものではない。そういう態度は、あまりにも想像力に欠けた姿勢だと思う。基本的に創作や批評という行為は、想像力の限界を拡げるような意外性と強度を持つ必要があると筆者は考えている。それは、「萌え」とか「泣き」という、偏向した一つの感情ではなく、喜・怒・哀・楽、全ての感情を刺激して、初めて成立するものだと思う。何故なら、想像力の欠けた世界は、縮小再生産へ向かうだけだからだ。……まあ、青臭い理想ではあるのだが。
偏向したニーズに合わせて、偏向した物語が生み出され、大量消費されていくという、最初から意外性を排除した状況からは、当然、意外なものは生まれないし、想像力の限界は決して拡がらないだろう。
だけども、巨大な意志の集合体としての「市場」を無視しては、届く訳もないし、商業的にも成立しない。作家性と商業性の相克という問題は、本来、作り手と呼ばれる人々が抱える基本的なテーマだったはずなのだが、オブジェクト嗜好による極端な記号化という、個人主義の究極的な所まで解体されてしまった世界では、作家性や意味といったものは、ノイズとしか扱われないので、意味の伝達そのものが困難で、作家性自体に意味が見いだせなくなってくる。従って、慎重なバランス取りを行った『フロレアール』の誠実さが、単なる徒労に終わる可能性は高いと言わざるを得ないのだが……。
そして、批評が追いつけないのは「個人」による創作ではなく、巨大な意志の集合体としての「市場」なのだ。深く閉塞し、肥大し拡散していく状況に追いつけないのだ。
結局、物語と記号はどちらも極端な……両極と言える位置に離れてしまった。しかし、その両者はコインの裏表でもある。そして、両者を繋ぐものの可能性はどこにあるのだろうか……と、ぼやけた頭で考えているのだけども。
確かに、新マシンを買ったこと自体は嬉しいんだけども、鬱の症状は悪化の一途で、あと何回この連載が続けられるか分からないし、自分がどうなるかも分からない。本文ではああいうことを書いても、自分に関しては、批評する意義とかは既に分からないし、実際、だんだん書けなくなってきているし……考えていると、際限なく落ちていきそうで……とにかく、このコラムは自分への認知療法なのだと割り切って書くしかないんだろうなあ……新マシンで貯金ゼロになってしまったし。いや、実は、うかつに貯金があったりすると、逃亡の旅に出てしまいそうだったんで……という訳で、来月は本当に未定です。どうしよう……。
エンタメ小説を月に30冊とか50冊とか読んで「わたしは読書家です」みたいに誇られても困っちゃうな。
かれらはもちろんカントやハイデガーを原書で読んだりできないし、英語で詩を読んで暗記したりしてるわけじゃない。マックス・ヴェーバーの翻訳ですら読んだことがない。ただたんたんとくだらないエンタメ小説の下手な日本語を読みまくってるだけ。そんなやつらがどうして自分は読書家だと思ってるんだろう……。
かれらは意気揚々とラノベ批判するんだよね。もうね、笑っちゃうよ。いや、べつに個々のラノベを批判するのはいいんだよ。くだらないラノベも多いし。ただ、ぼくが思うのは、ラノベと同レベルかそれ以下でしかないエンタメ小説好きなあんたらがなんでラノベ批判しちゃうのかなあってことなのよ。
かれらはエンタメ小説はすばらしいものであり、ラノベはくだらないと思ってる。ぼくにはその区別が理解できない。エンタメ小説がすばらしいのであればもちろんラノベもすばらしいし、ラノベがくだらないのであればもちろんエンタメ小説もくだらないはずなんだが。
死は生の対極としてではなく、その一部として存在している。
言葉にしてしまうと平凡だが、そのときの僕はそれを言葉としてではなく、ひとつの空気のかたまりとして身のうちに感じたのだ。文鎮の中にも、ビリヤード台の上に並んだ赤と白の四個のボールの中にも死は存在していた。そして我々はそれをまるで細かいちりみたいに肺の中に吸いこみながら生きているのだ。
死とは何であろうか、という根源的な問いに対して答えようとした哲学者は多数いる。
例えばハイデガーがそうである。私はハイデガーの著作を簡単に理解できるほどの頭を持った人間ではないが、ハイデガーは人間存在をして、"Sein zum Tode"、つまり「“死”へと向かう存在」であるとして捉えている。
死は我々にとってあまりにも大きな存在であり、時に我々の在り方は“死”そのものによって規定される。
無論、そういう言い方はあまりにも“死”というものを大きく捉えすぎている、という反論もあるだろう。“死”というものはあくまで実体を把握できない彼岸にある存在で、我々にとって死とは多くの現象の一つに過ぎないか、あるいは文化として我々の前にあるものの一つに過ぎないと言うこともできるだろう。
その中で、村上春樹は“死”というものを「万物がその内側に抱え込み、育てているもの」とした。
彼はその存在について「何かぼんやりとした空気のかたまり」と称してもいる。
空気、というのは一つのキーワードでもある。スピリット、という言葉の語源は“空気”という言葉と根を共にしている。というのは、聖書の上で泥の人形だった我々に魂を注いだのは、まさしく神の息吹だったからである。
“死”とは一体何であろうか。
我々とって死とは、村上春樹の言う通り、「内側で腫れていく存在」と言えるのであろうか。
結論から言ってしまおう、それは、“死”というものの一側面に過ぎないのではないだろうか。
“死”とは確かに我々の内側にも存在している。しかし、それは同時に彼岸にも存在するものでもある。
彼岸に存在する死は、常々我々から遠ざけられている。日常において“死”を意識する瞬間はほとんどない。あるいは、葬儀などの機会に出くわしたとしても、その存在を具体的にはっきりと捉えることはないのである。
しかし、それでも我々は死に常々触れている。“死”は彼岸にありながら、確かに我々のすぐ傍に寄り添っているものでもある。
我々が様々なものを認識するときにもまた、死は我々のすぐ近くに存在している。
例えば、我々が何かに触れようとする時、その皮膚と対象との間のすぐ近くに、死は存在している。
我々は、例えば人の手に触れる。その時に、我々にとって相手のてのひらと自身のてのひらとの間に、死は存在しているのである。
死とは、我々のすぐ傍にあり、そして我々との間に境界線を形作るものでもある。死は、我々が何かと触れ合おうとする度に、その介添人として、我々の手を取り、そしてその対象と我々を結びつけるものなのである。
これがどういうことかお分かりであろうか。つまり、死は常に我々と触れ合っており、その死と我々との間にできた境界線と呼ぶべきものが、我々の触れている一切のものとの間にできた境界線に関わっているのである。
フランスの哲学者、エマニュエル・レヴィナスは次のように言っている。
しかし、私はそうは思わない。死は我々のすぐ傍にある。だからこそ、我々の存在、そして我々を縁取っている境界線と呼ぶべきものは、はっきりとした形で我々の認識に晒されるのだ、と。
確かに、我々は死を内側に含んでいる。
それはまるで胎児のように、あるいは生命の萌芽のようにして含まれている。そして我々はその死を育み、時にその死を拒もうとするものである。
しかし、時にその死こそが我々の境界線を規定している。死こそが、我々とその外部の世界とを結びつけ、我々と世界の間に境界を生み出し、そして我々のうつろいゆく認識というものの介添人となっているのである。
死とは、彼岸にあるものでもある。それは、我々の内側で腫れていき、今ぞ誕生の時を願っているところの(あるいは死産の恐怖に怯えるところの)胎児の存在にも喩えられる。
しかし、死とはそれと同時に、我々と世界との間に、あるいは、我々の手のひらと手のひらとの間に、芽生え、我々の関係を取り持ち、我々と世界の全てとの変化を結びつける介添人でもあるのである。