はてなキーワード: ハイデガーとは
分かる。それに九州大なんて出てるんだから、いくら就職氷河期でもラーメン屋でアルバイトなんかする必要は無かったはずで、労働とかそういうことに向いてなかったが親や世間的な事情で渋々という感じだったんじゃないかと思う。勝手に。
正社員になって3年前まで働いていたのも、3年前までで完全に人間としてバーンアウトして何かが彼の中で「終わって」しまったということなのかもしれない。
年齢的に、大学に戻れる年齢も越えてしまったと悟ったとかもありそうだし。
流石に低能先生程のニュースにはならないだろうけど、こういう事件はこれからも増えると思う。ああ、そういやこの前逮捕された奴の愛読書はハイデガーとドストエフスキーだったな。
昨日の夜9時ごろ、にわかに「そうだ、天下一品に行こう」という気持ちが湧いてきました。
思い立ったが吉日ですから、ぼくは天下一品に向かう準備をはじめました。
なにせ最寄りの天一まで車で1時間半という僻地に住んでいるので、なんの対策もなしに
ふらーっとラーメン屋に寄るみたいなことをすると後悔すること請け合いなわけです。
具体的な準備の内容としては音楽を用意しました。それだけです。
ぼくは未だにニコニコ動画にかじりついている時代遅れマンですので
ボーカロイドとか演奏してみた動画から音声をぶっこ抜いていたわけです。
動画ファイルの音声コーデックはaacでした。ぼくのスマホではちゃんと再生できます。
というわけで、ちょっと前に買った64GBのmicroSDに音楽どもをぶちこむわけなんですが、
スマホにUSBケーブルをつないでも何かぱそこんがスマホを認知してくれなかったので、
このパソコンはなんてひどいパソコンなんだと憤りながら、スマホからmicroSDを引き抜き、
足の踏み場のない部屋の中からmicroSDからSDへの変換アダプタを探し出し、やっとのことで
完了したのは夜の10時近くになっていました。かれこれ1時間近く格闘していたことになります。
さてようやく天下一品に向けて車を走らせるターンになりました。
わたしの車は家族のおさがりですが総走行距離はせいぜい3万km程度ですのでよい車です。
それにしても深夜の休日の田舎道というのはおそろしいものです。
えらいまっすぐでだだっぴろい道路です。人も車もまったくおらんのです。
音楽に乗りに乗っていることもあり、いえ具体的な速度を書くとアレなことになりますので書きませんが、
気づいたらスピードメーターがえらいことになっているというわけです。
これではいかんと思い、スピードメーターをちらちらチェックしながら慎重に走行をしました。
しかしこのスピードメーターちら見もあまりよくない対処法であるように思われます。
田舎道特有の出来事として、深夜の他に誰もいない真っ暗な道路のわきを、おじいちゃんおばあちゃんがゆっくりと歩いている
なんてこともたまーにあるわけですが、そんなチラ見をしていては、いくら制限速度で走行していたとしても、
彼らに気づけないということがありうるのです。
よってこれに対処する方法としてよりよい解決策であると思われるのは、
体内に備わっているスピードメーターの精度を高めることです。
ぼくのような素人が深夜の田舎道を走行するのは大変危険ですのでやめたほうがいいです。
しかしそのときのぼくはどうしても天一のこってりを食いたいという気分がありましたので走行を続行しました。
ところでぼくはVOICEROIDが好きなんですけれども、走行している最中は、いわゆる車載動画のような感じで脳内実況していました。
暗い田舎道を走りながらえらいゆるい雑談をだらだらとしているような動画がぼくの脳内で再生されていました。
なかなか楽しかったです。深夜のドライブの醍醐味のひとつであると言っても過言ではありません。
妄想が醍醐味というのはどうなんだというツッコミをされるとまあたしかにそれはそうですよねとなります。
音楽聴きながら脳内車載動画を再生しつつとろとろ運転すること1時間半くらいでしたでしょうか、
やっとのことで天下一品につきました。
侵入には右折が必須なのが面倒なので、以前はわざわざ回り込んで左折進入することもあったのですが、
深夜で交通量が比較的少なかったことも影響していたかもしれません。
ここの駐車場は住宅街の中にありまして、排ガスを家にぶっかけないためにも、前進駐車でお願いします、
みたいな看板がありましたので、看板に従いまして前進駐車をしました。
しかしぼくは前進駐車がえらい苦手なので正直いやだなあという気分もありました。
ぼくはバックが下手くそなんです。
前進駐車してバックで発進するのと、バック駐車して前進で発進するのとを比べると、
個人的には後者の方がめちゃくちゃやりやすいという気持ちがあります。
しかしぼくは理性を働かせて前進駐車をしました。これはとてもえらいので褒めてください。
あとで駐車場から出るときはえらいゆっくりでバックしながら慎重に国道に戻りました。
それよりもラーメンのことの方が気にかかってあまり集中できなかったので、
なるほど今のわたしはまさしく頽落した実存ちんぽであることだなあと思いました。
そうこうしているうちにラーメンが届いてきまして、食いました。おいしかったです。
やや麺が粉っぽい感じがしないでもないでしたがスープがおいしかったのでどうでもいいです。
ぼくは家系とかも大好きなんですけれども、あれがすばらしいのは
ラーメンといっしょに米を食うとめちゃうちゃうまいところです。
こってりのスープがちょっと残ってしまったのでなおさら米を頼んでおけばよかったと後悔しながら飲み干しました。
で食い終わって会計をすませてバック発進しながら天下一品を後にしました。
帰りにローソンによってオレンジジュースとおにぎりを買いました。
なんでおにぎりを買ったのかよくわかりません。米への執着が残っていたのかもしれません。
ここのローソンはえらいやる気のないローソンだという印象が残っています。
なんか照明が暗かったのがあれだったのかもしれません。
そういえば店長のエントリにも照明の効果について力説してたやつがあった気がします。
そんでちょっと休憩したあとにまた車を走らせおうちに帰りました。
もう2時くらいの感覚でいました。なんだか得した気分になりました。
しかし本当に天下一品に行っただけなのでたぶんあんまり得していないです。
人の脳は脳細胞同士が連結、通信しあうナイーブな電気パルスから離れ、高次思考を言語で行うことに成功した。それが人間と他の動物の間にある知性の差であり、ナイーブな電気パルスのイミテーションにすぎないディープラーニング人工知能が未来永劫知性に達しない理由でもある。
人は言語により思考し意思決定し、本を読んで学習し脳をプログラミングすることも出来る。言語は電気パルスを離れ安定したテキストデータとして脳に貯蔵しておくことも出来、それを外部に文書として記述することで知識を共有し後世に伝えることも出来る。
脳は各部が機能を持ったパーツとして存在していて、特定の箇所を傷つけると特定の機能が消失することが知られているが、各部位で行われた電気パルスによる思考の結果は高次脳領域で言語データとしてエンコードされ、意識に送られる。意識は言語データを受け取り、口に出すかどうかを決定する。口に出さない場合は心に思うだけにする。そして必要な場合言語データをループバック回路に送り返す。ループバックされた言語データは新たに入力された感覚器官からの電気パルス信号とともに再び脳に入力されて処理され、また意識に言語データとしての処理結果を返す。
意識的思考というのはつまり、脳から出力された言語データを何度も脳に送り返すことで言語データを熟成させるプロセスのことだ。思考自体は意識が行っているわけではなく、脳細胞が電気パルスによって行っている。意識の働きは脳から出力されてきた言語データを評価し、口に出すかどうか、あるいは思考を継続するために脳に送り返すかどうかを決定している。そこで流れた言語データは電気パルスにデコードされ記憶領域に複製されていて、後から思い返すことが出来るため、そこに意識の流れが出来、時間感覚や自分が意識を持ち生きているという認識が生じる。
脳内の思考活動は脳内で閉じていて、外部からは存在が実証できないため、意識があるとかないとか自由意志があるとかないとかいった問題が生じているが、意識はあるし自由意志もある。意識は考え続けるか、考えるのをやめるか決定し、自ら行動を変化させることが出来るので、自由意志が存在するといえる。もちろんそれは決定論と矛盾しない。
追記:つまり実際の思考を行うのは各部位で行われる電気パルスであるが、意識はその言語化された出力を脳に戻すことで何度も思考をループさせ、それによって思考を高度化させている。その機能は、「言葉を口に出すかどうかを決定する」回路から進化したもので、「思ったことを口に出さずもう一度考える」という能力を獲得したことが、人と動物を分けた、という話。意識は言葉を口に出すかどうかだけでなく、言語で思考した内容を実際に行動に移すかを全般的に制御出来るが、言語によらない思考から発生した行動は制御できない。それが、意識は言語を処理する機能だという証拠になるだろう。
追記2:「自分には意識があるという実感がある」というのが不思議な感じがするのだろうが、事実として意識はあるし、実際に脳内で行われた思考の結果である、出力されてきた言語データの内容を記憶していて思い出すことも出来るから、自分はずっと意識を持ち生きているという実感があるのは当然である。意識はそういう機能だからだ。それは幻覚でも何でもない。
追記3:動物に意識はあるかという問題について。動物に意識はない。ハイデガーいわく「動物は私と言わない」というが、「私」が「思考している」という文を組み立てられるだけの言語的複雑さを動物の脳は持ち合わせていないので、「思考している私が存在する」という認識、つまり意識の認識に動物は至れない。
追記4:計算機が「私」や「思考している」という概念を理解し、「思考している私が存在する」という認識に至る可能性は当然ある。ディープラーニング人工知能の延長線上では無理だと思うが。
追記5:この機構が計算機上のニューロンだけで成立するかという話。まず、電気パルスを言語データに変換するアルゴリズムは、人類のDNAにハードコードされている。人の知性はニューロンに由来するのではなく、DNAに由来する。人間より脳細胞が多い動物はいくらでもいるが、人間のように知性がある動物は他にはいない。人間という生物種全てに知性が存在する以上、その人間を定義するDNAに知性の根幹があるのは疑う余地が無いだろう。人間であれば基本的に言語を操る力を身につけることが出来る。それは人類のDNAに言語を操る基となるプログラムが記述されているからだ。
だからこのシステムに必要なのはディープラーニングによる学習ではなく、DNAの解読だ。学習は動物であれば誰もがしているが、言語を自由に操れるのは人間だけだ。学習からは言語にも、知性にも到達することは出来ない。学習によって知性や言語を得ることが出来るように、脳細胞を構成しているDNAが、知性の発現のための必要条件となっている。
しかし、DNAを解読して得た 電気パルス⇔言語 変換のアルゴリズムが、計算機上のニューロンもどきで実行できるかはまた別の問題だ。適用できたとすれば、この機構は計算機上のニューロンでも実現可能なはずだ。
DNAの解読以外で、ニューロンに知性を発生させるメカニズムを実現するのは不可能だと考えている。大自然が何億年とかけて最後に到達した脳というハードウェアのプログラミングに、人類が独力で到達できるとは思えない。
追記6:なぜそれが意識であるといえるのか、について。それはもちろん、あなたが意識であると考えているものがなんであるのかによる。私は「人に動物にはない知性がある理由」と、「人が自分の思考している内容を言語で理解し、そこから『思考している私が存在している』と認識している理由」について語った。あなたの意識の定義がそれに含まれないのなら、もちろんそれは、あなたの考える意識が存在する理由にはならない。あなたの考えている意識がどのようなものであるのか聞いて、それについて考えてみたいと考えている。
追記7:私が「意識は脳の外部にあると規定している」という指摘があるが、それは当たらない。脳はただ情報を処理し、その処理した結果として「思考している私が存在する」という当たり前の事実を見て、私には意識が存在すると認識しているだけだ。脳の中の通常の情報処理過程、たとえばそこに石がある、とか、そこに月が浮かんでいる、とかと同じように、「思考している私が存在する」のを見て、「私には意識がある」と人は結論している、と私は規定している。
追記8:言語を伴わない音楽や絵画を通じても、情報処理過程は変容する。視覚、聴覚の情報処理は意識的情報処理によらず変化する。その変化によって、新たな音や色彩に対する感覚を得て、それを言語化し、意識することができるようになることもある。それは意識の変容ということが出来るだろう。
言語を伴わない芸術から深いショックを受け、寝込んでしまったという経験が私にもあるが、それは意識を経由せず直接脳の情報処理過程を揺さぶることで発生したのだと思う。それにより脳内の情報処理過程が大きく変わってしまったり、トラウマになってしまったりということもよくある。それを意識の変容ということも可能だろう。
追記9:チンパンジーや鳥類等のコミュニケーションについて。上にあるように、私はチンパンジーや鳥類が伝えようと思ったことをやめて心に思うだけにすることはなく、思考がループしないので知性に到達できないのだと考えている。もちろんそれだけでは足りず、自分の思考をより正確に言語で表現し、言語情報を受け取ってその思考をより正確に再現出来る個体が、狩りのコミュニケーション等で有利になることで、言語能力の高い個体が子孫を残していく。思考⇔言語の変換で損なわれる情報が少ないほど、ループの中での思考も正確さを増し、複雑な概念の理解に到達できる。それを言語表現する進化の過程で、複雑な発声を獲得し、それを聞き取る聴覚も発達していく。
複雑な発声や聴覚を獲得する前は、思考を言語で表現しようとして歌を歌っていたのではないかと妄想している。人類は歌でコミュニケーションし、脳内の独り言も歌で行って思考をループさせていたのではないか。歌を歌うと気持ちいいのはそのころに培われた本能に由来しているような気がする。頭の中で歌が流れて止まらなくなる現象もその辺に由来しているのではないか。
追記10:囲碁AIについて。AIはコンピュータだから、囲碁のようなゲームが強いのは当たり前である。何も絶望することはないように思う。グーグルの子会社が仕掛けているのはHypeだから、真に受ける必要はないと考えている。彼らがそのHypeを本物だと主張するなら、囲碁AIのソースコードを公開するべきだ。
追記11:思考のループに言語はいらないのではないかという指摘について。脳内の何百億という脳細胞で発生している電気パルスは、そのままではループさせることは出来ない。言語に一旦エンコードし、それをもう一度デコードして、思考の再現を行うことでループしている。また、思考の内容を言語として記憶し、思い出して思考を再開することで、移ろいゆく電気パルスによる無意識の思考とは違って、同じテーマについて何度も長時間考えることが出来、思考を深めることができるようになる。
追記12:夢について。夢は動物も見ている。動物や人間の脳内では出来事が記憶されている部分があり、そこに電気パルスが流れると追体験する。人間の場合でも、それが嫌な記憶だとふとしたきっかけで蘇り、叫んだりしてしまうのだが、そういう意識でコントロールしがたい無意識的な思考だ。睡眠中にはそこに電気パルスが流れて出来事が蘇り、いろいろな出来事が繋がった追体験が起こる。そうして出来事と出来事を並べて、因果を繋ぎ、ある出来事の後に起きることを予測できるような形で整理している。それによってパブロフの犬のようなことが動物でも起きる。しかし、出来事を並べるだけで、言語的な論理性を持たなければ、たいした知性には到達できない。
追記13:意識とは、言葉を口に出さずにもう一度考える回路から発達したもので、思考の内容を言語として受取り、もう一度考えるため脳に戻すことで思考を深化させる機能だ。そのループの中で言語能力が高まり、「私」が「思考している」という概念を獲得し、「思考している私が存在する」という文が脳内で紡がれて意識に送られた時に、意識は己の存在に気づき、自意識を持つ。
追記14:匿名ネットのレスバトルで見られる、用語を適当に用い、反論のように見えるが無意味な文を書いて、無意味ゆえの反駁不可能性から自分への反論を避けつつ、用語の意味を知らず文が無意味と気づかない人には、相手の論に反論できているように見せかけようとする手法が私は大嫌いである。
こちらにちゃんと書いた。 http://anond.hatelabo.jp/20170607213657
それはただ一つ、「かわいくあれ」ということだ。
『ゲンロン0』は、かわいさを巡る議論のように思えてしまってならない。
特に家族論。かわいいのは子どもだけではない。「誤配しちゃった」という親もかわいいのである。
というかむしろ、かわいくあるべきは子どもではなく親の方かもしれない。
ヘーゲルとかハイデガーのダメなところは、かわいくないところである(見た目の話ではない)。
ネットの交流が荒れがちなのは、それが言語ベースだからだ。言語はかわいくないのだ。
そもそも不気味さを避けるための発明が言語なのだから、不気味でない言語がかわいくあろうはずがない。
■本文。
うう……今回こそちゃんとゲームレビューをやろうと思っているんだけども、とりあえず、前回の思考の続きから入ります。いや、書かないとイライラして、安心して本題に入れないんですよ……。
まず、美少女ゲームの主流が、オブジェクト嗜好による「萌え」至上主義に至った理由を考えると、前にも書いたけども、次のステップとなるべき目標が不明瞭になっているからだろう。社会的な成功といったものに価値を見いだせない世界であるために、細分化された個人主義……拡散という現象になるのだろう。もっとも、求心力のある価値観を求める動きが無かった訳ではないのだけど、それは、エヴァンゲリオンで暴発した結果、衰退し、その後は保守反動的な状況がずっと続いている。
これは、過去においてもそうで、アニメを取り巻く言論は、『うる星やつら~ビューティフルドリーマー』など、問題作が次々と出現した、1984年を頂点に、アニメ情報誌として特化されたニュータイプが台頭してくる80年代後半にかけて、急激な反動化が起こっている。以後、閉塞に伴う縮小再生産を繰り返しながら、消費スピードは加速していく。また、ゲームという媒体が台頭し、それが大量消費に適した媒体だったことも、更に状況を加速した。
結局、そんな閉塞が行き着いた状況で現れた、エヴァンゲリオンという暴発の反動で、何も考えたくないという心境に陥った人々は、萌えという言葉で思考を止めて、大量消費を自己肯定する事で精神の安定を求めているのだと思う。現在は「閉塞による安定の状態」と考えてもいいだろう。だけども、極端な状態には変わりはない。
おそらく、創作にしろ、批評にしろ、これからは商品という手段をもって、極端な両者の格差を埋める作業が必要になってくるだろう。また、そうでなければ肝心な人々には届かないと思う。そのためには、バランスの取れた商品が必要になってくる……やべ、今回こそきちんとゲームレビューをやらなくては……。
さて、いきなりあからさまな発言なのだが、『フロレアール~好き好き大好き』というゲームを買う動機は、メルンに萌えるか、前作『好き好き大好き』の続編(?)だから、のどちらかだと思う。メイドで、妹(的キャラ)で、ロリという、現在の美少女ゲームにおいての最大公約数的な設定のキャラクターであるメルンに、ヒロインを一本化したことは、『好き好き~』に比べて、牙を突き立てる対象……もとい、購買層の狙いを絞ったことを伺わせる。だが、『好き好き大好き』をプレイした人にとっては、『フロレアール』には別の期待があったはずだ。
実は、筆者も後者に属していたのだが……結論から先に書いてしまうと、どちらの期待も最終的には超越してしまった感があるのだ。
『好き好き~』が、自己の内面とひたすら対峙する内容……ヒロインの存在はあっても、ヒロイン像は自己の内面にのみ存在しており、その内面が現実との摩擦で生じるギャップに物語としての強度を求めた……いわば、変化球的なアプローチだったのに対し、『フロレアール』の場合は、メルンとのコミュニケーションから生じるギャップから、自己の内面を浮き彫りにする手法を採っている。言ってみれば、正統派でストレートな演出を行っている訳だ。そして、その演出を反復することで、物語の強度を上げているし、あくまでメルンという中心軸を崩さないあたりは、非常に慎重でもある。
まあ、筆者も某誌のレビューでは『好き好き~』を「プレイする人を選ぶゲーム」と書いたのだけど、今回はむしろ、「こんなに分かりやすくしていいのか?」という感想を持った。確かに、平気で会話の中に「ハイデガー」とか「象徴交換と死」なんていう固有名詞が出てくるので、敷居が高い印象を受けがちなのだが、そういう単語に頼っている訳ではなく……シナリオの中で、普遍化する作業がきちんと行われているので、意識しなくても意味そのものは把握できるだろうし、作り手の思考が一貫しているため、むしろ分かりやすい作品になっている。
そして、この認識を間違えると食わず嫌いでもったいないことになる……というか、『フロレアール』は、結果として、両者の中間を行ってしまったのだ。これは、どちらの期待をしていた人にとっても、予想外の事態だったと思うし、ニーズを意識した上での意外性には、商品としての誠実さも感じられた。
だけども、物語としての強度が、商品としての強度とは必ずしもイコールにならないという状況がある。完結する物語や、密度の高い物語にユーザーが興味を示さないというか、ユーザーはバランスの取れた作品より、歪んだ構造の作品に惹かれるのが、現在の状況である。
確かに、物語を楽しむということは、「自分の人生と違う人生を体験する」ことだけども、それは、「何も考えたくない」「楽しいことだけ考えたい」という意志を肯定するものではない。そういう態度は、あまりにも想像力に欠けた姿勢だと思う。基本的に創作や批評という行為は、想像力の限界を拡げるような意外性と強度を持つ必要があると筆者は考えている。それは、「萌え」とか「泣き」という、偏向した一つの感情ではなく、喜・怒・哀・楽、全ての感情を刺激して、初めて成立するものだと思う。何故なら、想像力の欠けた世界は、縮小再生産へ向かうだけだからだ。……まあ、青臭い理想ではあるのだが。
偏向したニーズに合わせて、偏向した物語が生み出され、大量消費されていくという、最初から意外性を排除した状況からは、当然、意外なものは生まれないし、想像力の限界は決して拡がらないだろう。
だけども、巨大な意志の集合体としての「市場」を無視しては、届く訳もないし、商業的にも成立しない。作家性と商業性の相克という問題は、本来、作り手と呼ばれる人々が抱える基本的なテーマだったはずなのだが、オブジェクト嗜好による極端な記号化という、個人主義の究極的な所まで解体されてしまった世界では、作家性や意味といったものは、ノイズとしか扱われないので、意味の伝達そのものが困難で、作家性自体に意味が見いだせなくなってくる。従って、慎重なバランス取りを行った『フロレアール』の誠実さが、単なる徒労に終わる可能性は高いと言わざるを得ないのだが……。
そして、批評が追いつけないのは「個人」による創作ではなく、巨大な意志の集合体としての「市場」なのだ。深く閉塞し、肥大し拡散していく状況に追いつけないのだ。
結局、物語と記号はどちらも極端な……両極と言える位置に離れてしまった。しかし、その両者はコインの裏表でもある。そして、両者を繋ぐものの可能性はどこにあるのだろうか……と、ぼやけた頭で考えているのだけども。
確かに、新マシンを買ったこと自体は嬉しいんだけども、鬱の症状は悪化の一途で、あと何回この連載が続けられるか分からないし、自分がどうなるかも分からない。本文ではああいうことを書いても、自分に関しては、批評する意義とかは既に分からないし、実際、だんだん書けなくなってきているし……考えていると、際限なく落ちていきそうで……とにかく、このコラムは自分への認知療法なのだと割り切って書くしかないんだろうなあ……新マシンで貯金ゼロになってしまったし。いや、実は、うかつに貯金があったりすると、逃亡の旅に出てしまいそうだったんで……という訳で、来月は本当に未定です。どうしよう……。
エンタメ小説を月に30冊とか50冊とか読んで「わたしは読書家です」みたいに誇られても困っちゃうな。
かれらはもちろんカントやハイデガーを原書で読んだりできないし、英語で詩を読んで暗記したりしてるわけじゃない。マックス・ヴェーバーの翻訳ですら読んだことがない。ただたんたんとくだらないエンタメ小説の下手な日本語を読みまくってるだけ。そんなやつらがどうして自分は読書家だと思ってるんだろう……。
かれらは意気揚々とラノベ批判するんだよね。もうね、笑っちゃうよ。いや、べつに個々のラノベを批判するのはいいんだよ。くだらないラノベも多いし。ただ、ぼくが思うのは、ラノベと同レベルかそれ以下でしかないエンタメ小説好きなあんたらがなんでラノベ批判しちゃうのかなあってことなのよ。
かれらはエンタメ小説はすばらしいものであり、ラノベはくだらないと思ってる。ぼくにはその区別が理解できない。エンタメ小説がすばらしいのであればもちろんラノベもすばらしいし、ラノベがくだらないのであればもちろんエンタメ小説もくだらないはずなんだが。
死は生の対極としてではなく、その一部として存在している。
言葉にしてしまうと平凡だが、そのときの僕はそれを言葉としてではなく、ひとつの空気のかたまりとして身のうちに感じたのだ。文鎮の中にも、ビリヤード台の上に並んだ赤と白の四個のボールの中にも死は存在していた。そして我々はそれをまるで細かいちりみたいに肺の中に吸いこみながら生きているのだ。
死とは何であろうか、という根源的な問いに対して答えようとした哲学者は多数いる。
例えばハイデガーがそうである。私はハイデガーの著作を簡単に理解できるほどの頭を持った人間ではないが、ハイデガーは人間存在をして、"Sein zum Tode"、つまり「“死”へと向かう存在」であるとして捉えている。
死は我々にとってあまりにも大きな存在であり、時に我々の在り方は“死”そのものによって規定される。
無論、そういう言い方はあまりにも“死”というものを大きく捉えすぎている、という反論もあるだろう。“死”というものはあくまで実体を把握できない彼岸にある存在で、我々にとって死とは多くの現象の一つに過ぎないか、あるいは文化として我々の前にあるものの一つに過ぎないと言うこともできるだろう。
その中で、村上春樹は“死”というものを「万物がその内側に抱え込み、育てているもの」とした。
彼はその存在について「何かぼんやりとした空気のかたまり」と称してもいる。
空気、というのは一つのキーワードでもある。スピリット、という言葉の語源は“空気”という言葉と根を共にしている。というのは、聖書の上で泥の人形だった我々に魂を注いだのは、まさしく神の息吹だったからである。
“死”とは一体何であろうか。
我々とって死とは、村上春樹の言う通り、「内側で腫れていく存在」と言えるのであろうか。
結論から言ってしまおう、それは、“死”というものの一側面に過ぎないのではないだろうか。
“死”とは確かに我々の内側にも存在している。しかし、それは同時に彼岸にも存在するものでもある。
彼岸に存在する死は、常々我々から遠ざけられている。日常において“死”を意識する瞬間はほとんどない。あるいは、葬儀などの機会に出くわしたとしても、その存在を具体的にはっきりと捉えることはないのである。
しかし、それでも我々は死に常々触れている。“死”は彼岸にありながら、確かに我々のすぐ傍に寄り添っているものでもある。
我々が様々なものを認識するときにもまた、死は我々のすぐ近くに存在している。
例えば、我々が何かに触れようとする時、その皮膚と対象との間のすぐ近くに、死は存在している。
我々は、例えば人の手に触れる。その時に、我々にとって相手のてのひらと自身のてのひらとの間に、死は存在しているのである。
死とは、我々のすぐ傍にあり、そして我々との間に境界線を形作るものでもある。死は、我々が何かと触れ合おうとする度に、その介添人として、我々の手を取り、そしてその対象と我々を結びつけるものなのである。
これがどういうことかお分かりであろうか。つまり、死は常に我々と触れ合っており、その死と我々との間にできた境界線と呼ぶべきものが、我々の触れている一切のものとの間にできた境界線に関わっているのである。
フランスの哲学者、エマニュエル・レヴィナスは次のように言っている。
しかし、私はそうは思わない。死は我々のすぐ傍にある。だからこそ、我々の存在、そして我々を縁取っている境界線と呼ぶべきものは、はっきりとした形で我々の認識に晒されるのだ、と。
確かに、我々は死を内側に含んでいる。
それはまるで胎児のように、あるいは生命の萌芽のようにして含まれている。そして我々はその死を育み、時にその死を拒もうとするものである。
しかし、時にその死こそが我々の境界線を規定している。死こそが、我々とその外部の世界とを結びつけ、我々と世界の間に境界を生み出し、そして我々のうつろいゆく認識というものの介添人となっているのである。
死とは、彼岸にあるものでもある。それは、我々の内側で腫れていき、今ぞ誕生の時を願っているところの(あるいは死産の恐怖に怯えるところの)胎児の存在にも喩えられる。
しかし、死とはそれと同時に、我々と世界との間に、あるいは、我々の手のひらと手のひらとの間に、芽生え、我々の関係を取り持ち、我々と世界の全てとの変化を結びつける介添人でもあるのである。
『七月七日展 ― 衣服造形/コンセプチュアル・クローズ』を見た。
眞田岳彦氏の弟子(?)の作品が中心らしい。
それほど期待しないで行ったのだけど、なかなか良かった。
宮園夕加さんの、ボタンとボタンホールの距離を天の川に見立てて、
伝説では、天の川の橋渡しをするのはカササギの役目なんだそうだ。
テーマの「針仕事」と「七夕」が無理なく融合されてて、それを一番うまく表現してる作品だったと思う。
単純に、見た目がかわいいのも良い。
今回のベスト!
奥村絵美さんの作品も良かった。これも一見してとてもかわいい。
人間を一本の「まち針」として捉えるというコンセプト。
粘土と針でつくられたたくさんの小さな人間が、それぞれに環境を仮止めしている。
「針を自分自身の比喩とする、っていうアイディアはありだな」って私自身展示を見る前に
考えていたのだけど、縫い物をやらない私にはそこで「まち針」という発想は出なかった。
でも言われてみれば納得、でした。
仮止めされる「環境」の部分を何かもっと表現できそうかも、とも思ったけど。
良かったとストレートに言えるタイプの作品ではないけど、好きだ。「コンセプチュアル」。
糸が縫い付けられている。タイトルは『誰でもない肖像』。
写真の上から縫う技法は、有名な清川あさみさんを思い出させる。
けど、写真の女性が制作者の針仕事によって「誰でもなく」されてしまうことには一体
どういう意味があるのか。あるいは針仕事で加工される前から、彼女は誰でもないのか。
…写真に写る私は、そこに縫い付けられている限りでの人間であって、無限のあり方を
可能的にもつ自由な実存としての私ではない、だから「誰でもない」…?
制作者はこの展示のチラシで、針仕事について、「私たちの存在を露にし、生き生きとさせる」と書いてる。
こんなことを言われると、私としては、ハイデガーの技術論を持ち出して、その中に「針仕事」の
ポジティブな位置づけを探して色々言いたくなってしまうけど、結局のところ、その言葉と、
制作者自身の作品との関連はよく見えない。
う~ん。
…写真に写っているのは過去の私である。それは過去のその時点に縫い付けられている限りでの
私であって、現在の私とは異なっているし、通時的な無限定の私とも異なっている。だから、
過去において確かにそれは私だったが、いまや「誰でもない」…?
あと2つくらい気になる作品はあったけど、作者名も作品名も覚えてないので割愛。
帰りにブリジストン美術館に寄ろうと思ったら展示替え中で休館だった。
(エス)
===================
7月7日展 -針仕事に願いをこめた37名のデザイン&アート小作品展-
会期 7月4日(月)~7月9日(土) 10.:30~18:30(最終日のみ17:00まで)
入場無料
TEL 03-3281-0320 FAX 03-3281-0366
出展作家:
大江よう 今村滋男 藤谷さやか 末延晋太郎 久保田玲奈 関美来 飯田亜希子 土井直也
永井俊平 山口真代 宮田明日鹿 山中周子 宮園夕加 佐藤綾 松田かや 三上司 加藤ゆき子
桑田麻弓 後藤有紀 奥村絵美 平尾菜美 アーヴィン=ヒバ=アリ 小平由実 西村洵子 平井幸恵
盧暎雅 島田彩子 池田のぞみ 山本佳那 長鶴司 林凡乃 大八木富士奈
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Sanada Studio Inc. (サナダスタジオ)-眞田岳彦のデザイン事務所
京橋「千疋屋ギャラリー」で「七月七日展」を観る。 - マスヒロ食時記
(そもそも私は「鹿島茂(2003)『勝つための論文の書き方』(文藝春秋)」を踏まえてこの日記を描いています。)
まず、先日の日記(◕‿‿◕)ラノべえ「そんなことより僕をテーマにして研究生になってよ!」に対して
・意図に反して論文に対する、あり方や手法という点で反響してしまった
というのが全体的に見て思ったことです。
論文のあり方については多様でいいと思うので、ここでは問題としません。
前回の日記も「テーマの意義」についてでしたので、テーマを決めた時の「どこまで問題点、着眼点を絞るのか」に対する考察でしかありませんでした。(問題と目的(序文)、手法、結果と考察(本文)、今後の課題、といった論文の段取りの全ての「前提」としてテーマを取り巻く要素から「研究意義」を考察しただけです。要するに自分のテーマのみを考えるだけでは社会的な前提や研究意義にはならない可能性が高い、あえてテーマの外部にあるであろう要素から迫る方がテーマの本質は見やすい、ということでした。)
無論、このことは研究に対してのモチベーション維持に関係するだけではなく、実際に調査をする上での注意点や考察を書く上での前提になりえます。
また、よくありがちな「結局何が言いたかったのかがわからなくなる」のを防ぐ役割があると思います。
論点がブレないための論文の前提としての考察に、引用が多すぎることは、深く考えるだけ無駄でしょう。
今回、論文を書く上で問題だと思ったのは「引用の多さが恥に思える」点です。
この考え方の背景には、論文を書く上での前提が「前人未踏であることによる自分らしさ」となっているということだと思います。
なるほど、たしかに自分の考えを誰の考えも前提とせずに書けることは素晴らしいと思います。そんなことをしてのける天才になってみたいものです。
しかし、私は賢い人が論文を書くのではなく、疑問に思った人が論文を書くべきだと思います。
それに、仮に体裁を気にして、できるかぎり自分で考えた結果を主張をしたものの、「それって〇〇といってること同じだよね、どう違うの?」なんて聞かれたら(○○について知っていても、知らなくても)終了してしまうようなシビアな世界でもあります。
未踏であることは前提ではありますが、自分らしくあることに前人がいてはいけないということはないと思います。
というのも、時代によって物事のあり方は変化していくので様々な観点での検証の余地がでてくるものだからです。
例えば、「既存の手法を別の目的に転用する」というブリコラージュという手法もあります。(横井軍平さん風に言うと枯れた技術の水平思考ですね。)
「こんな考え方が認知されているんだから最新の研究である、私のテーマでも適用してみます。」は研究の観点的に未踏なのです。
ところで、内田樹は自分らしさについてこんなことを言っています。
「自分らしく」ふるまうということは、「他人の模倣をしない」ということである。ところが脳科学の知見が教えるとおり、人間というのは他者の模倣を通じて固有性を形成し、他人の思考や感情を模倣することによって人間的な厚みを増してゆくものである。
階層化する社会について (内田樹の研究室)(http://blog.tatsuru.com/2010/11/10_1216.php)
また、欲望とは他者の欲望の模倣であるとする「欲望の三角形」というルネ・ジラールの理論もあります。
つまり、「○○好きな自分」は別の「○○好きな誰か」たちを模倣し、複合した結果になります。
模倣したことを恥ずかしく思うよりは、模倣することによって何か一つでも自分の観点に自分だけの結論が見いだせるならば、
そのプロセスを隠すかどうかは、正直馬鹿らしい事のようにさえ思えます。
(◕‿‿◕)ラノべえ「そんなことより僕を研究にして発表してよ!」http://masuda.livedoor.biz/archives/51603662.html
・読者にとっても作り手にとってもクソの役にも立たない研究ってくだらない
→あくまで、役に立つか、ではなく真剣な問いがあるかで研究は考えるべきだと思います。好きだからでは駄目です。役に立つかどうかは考え方で決まります。
・読者を楽しませようとする=読者にないものを提供するという一面は当たり前だけどラノベの萌えに限った話じゃなくすべて外部性
→セカイ系というジャンルに言及出来ていない点で不完全でした。セカイ系というジャンルの考察と定義を踏まえるとラノベの萌えも包含する範疇です。
→少しでも「女性という存在と外部性とを遊戯的につなげている文学メディア(媒介装置)」であることをまず認識して欲しかったという点で細かな引用をしました。引用があまりにも細部に及んだ場合、拡大解釈に繋がりかねないことは度外視しています。web以外で探せるならば文脈で引用ができますね。その点で浅はかな引用でした。ただし、書籍引用のデリダの読解(「ハイデガーがニーチェを読解したものの」デリダの読解)はフェミニズムという点でデリダの中で一貫していると本人が発言したと書籍内にもありましたので問題ない部分です。
・モテない男は女性性の代償行為としてラノベを読む。代償行為はラノベに限った話ではないが、じゃあラノベを取り上げるのはなぜか。どう違うのか。どう意味が、時代性が。
→まさに批判された指摘部分に焦点を当てて意義を捉え、調査すべきですね。つまりマクロな現代社会の延長としてのオタクの内面を切り分けていくべきだと思います。
私は卒研のテーマに「ゲームをする人」を掲げ、一年間自分のやりたいことを自由にできましたので、非常に幸せでした。ですので、後輩にもぜひ好きなテーマで卒研をして欲しいと思っていました。
私の同じ研究室には、3年生の後輩の一人に、「ライトノベル(以下ラノベ)を読む人」をテーマにして、実際発表した後輩がいました。しかし、後輩に「今の自分の研究テーマをそのまま卒研にするのか?」という旨を尋ねたところ、悩んでいるという回答が帰ってきました。
どうやら、発表の反応が鈍いことで二の足を踏んでいるようでした。
そこで私は思い切って、「この世の果てで恋を唄う少女YU-NOのwikipediaの考察がいかに素晴らしかったか」という話をしたかったのですが、酒の席であること、他の後輩もいたこと、説得力に欠けていたこともあって、遺憾ながら場は白けて終わってしまいました。
また、「この世の果てで恋を唄う少女YU-NO」は「アドベンチャーゲーム」の代表例として実際に卒業研究になっているようです。
これらを編集、記した方々は私よりも遥かな、確かな、達成感・効力感を持っているに違い有りません。(実際、素晴らしい考察だと思いませんか?)
他にもネットを探すとユニークなテーマに出くわせます。例えば「プロ野球選手と結婚するための方法論に関する研究」なんて研究もあります。
卒業研究は、CiNii - NII論文情報ナビゲータ ((http://ci.nii.ac.jp/))で検索しなくても大学生ならば、各々の大学の概要集を捲れば自然と笑みがこぼれるものです。
たしかに、「好きだからテーマにしますたwwwサーセンwww」なんて動機は発表までに、必ず根本的で大きな壁とぶつかり、ツケを払うハメになるでしょう。ですが、学生の本分は研究です。研究について真剣にできるならば、それが真に正しい姿だと思います。
もう一つせっかくですので、私がなぜ「ラノベを読む人」が素晴らしいテーマだと思うかについて書きたいと思います。
論文とは「問い」です。一般的に論文のテーマとなる問い(リサーチクエスチョン)は根源的な、直感的なものが白眉であると知られています。
「ラノベを読む人」で解釈すれば、「ラノベを読む人はなぜラノベが好きか」ということになるのでしょうか?
これはなかなか直感的だと思います。もちろん、大きな欠陥があることも否めません。それは、村上龍のこの箴言に集約されていると思います。
「「好き」は理性ではなくエモーショナルな部分に依存する。だからたいていの場合、本当に「好きなこと」「好きなモノ」「好きな人」に関して、わたしたちは他人に説明できない。なぜ好きなの?どう好きなの?と聞かれても、うまく答えられないのだ。「好き」が脳の深部から涌いてくるもので、その説明を担当するのは理性なので、そこに本来的なギャップが生まれるからだが、逆に他人にわかりやすく説明できるような「好き」は、案外どうでもいい場合が多い。」
つまり、「どう好きかは聞き出せない」という点です。聞き出せないならば、研究意義はないのでしょうか?それは違うと思います。つまり、いままで『「説明でき」なかったであろう「好き」の理由』を導ければいいのです。
そのためには、誰よりも人一倍考察が半ば前提的に必要になると思いますが。(私も自分の先輩に研究前にコテンパンに全否定されましたが、それがあっての卒業研究になっています。)私の後輩の考察は活き活きと良く出来ていた分、勿体無いという感情がたしかに私の中にはあるのです。
さて、前提的な考察は、すなわちラノベの「定義」と、研究する「意義」とに、密接に関わっていきます。まず、ラノベの「定義」ですが、混沌としているようですね。
程度で良いと思います。「読む人」に焦点があるならば、よく読む人はおそらく青少年から成人男性(20~30代)でしょうから。(成人男性が青少年対象の小説を読んでいる点は「オタク」で考察・解説すれば重複すると思うので、日記では割愛します。)
また、文学・物語といった点に対する「ラノベ」の遍歴も欠かせないでしょう。ここで、古めかしいものとの接点を設けること、考察をしてるサイト、本から概念を引用することが結果を導く前から既に必要となります。
例えば、物語的に観れば大塚英志が提唱した「物語消費」がありますね。また、ラノベではありませんがアドベンチャーゲームとの類似点があると思います。
ライトノベルにおいてもゲーム的な世界観が必要であり、大きな影響を与えてきたということは言われていますね。
オタクたちのメンタリティには、教養主義や文学性を引きずりながらも、シミュラークルに代表される動物的な消費社会の波に骨の髄まで浸かっているという両義性がある。という指摘をした東の「動物化するポストモダン」(1・2)も取り入れられると思います。
ここで、「外部性」や「キャラ萌え」(この日記では、美少女キャラに限定します。)が「文学としてのラノベ」のキーワード(カテゴリー)として浮かび上がってくるのです。言い換えれば、「外部性」は「社会性」、「キャラ萌え」は「女性性」にあるといえるでしょう。
ところで、先ほどラノベの定義は「混沌」としていると述べましたが、同じく「混沌」とした定義の文学に「SF」がありますね。
サイエンスフィクションもまた、外部性の幅が限界まで拡張されることによって何十年も前から定義は揺らいでいました。
小谷真理の『女性状無意識』に対する松岡の批評です。なお、小谷真里は、SF研究者であり、ラディカル・フェミニストであるそうなので「文学としてみたラノベ」を知る上で意外に検討する必要があると思います。
最初にハーバード大学のフェミニズム文学者アリス・ジャーディンが「ガイネーシス」(女性的なるもの)という言葉を造り出した。 (中略) テクノガイネーシスはそれにもとづいて提案した新概念で、
父権的な社会が蔓延するなかで女性的な無意識の紐帯が結ばれていく可能性を示していた。
長いあいだ、文明の基準や男性覇権社会の価値観のなかでは、普遍的すぎる母性、すべての他者をとりこむ包容力、あるいは基準をいちじるしく逸脱する狂気、説明のつかない無意識などは、しばしば社会の外部に押しやるべき面倒として片付けられてきた。中世の魔女裁判だけでなく、近代以降も「女子供の戯言」として片付けられ、20世紀後半になってもこの傾向と対決するためのウーマンリブ運動やセクハラ問題が噴出してきた。
では、そのように外部に押しやられた意識をつなげたらどうなのか。あるいは、家庭という内部(実は外部的辺境)に押し込められた意識といってもよい。男性から見れば、多くの家庭は基準社会の外部にあたっているからだ。 ジャーディンはこういう問題を引き取って、そこにはそのままこれらを連鎖させるべきメタネットワークがありうるのではないか、それは女性的無意識を象徴するガイネーシスになるのではないかと見た。
それにしてもいつのまに、女性こそが文学の可能性と限界を語るに最もふさわしい発言者だという情勢になっていたのだろうか。
まずはエレイン・ショーターが父権的文学規範の修正を迫ったそうである。ついでパメラ・サージェントが『驚異の女性たち』のなかで、メアリー・シェリーの『フランケンシュタイン』に始まる女性SF史がありうることを指摘した。他方、これに呼応するかのようにして、陸続とサイエンス・フィクションに挑戦する女性作家が出てきたようだ。 そこで、ヴァージニア工科大学の英文学者マーリーン・バーが「女流SFとフェミニズム理論には相似的な進行があるのではないか」と指摘した。
(中略) なぜこういうことがいえるかといえば、マーリーン・バーによると、多くのSFは“外部の他者”を描くわけだけれど、そこには現実を超えた出来事があまりに現れすぎて、文学的にはサブジャンルに追いやられるようになっていた。
しかし考えてみれば、そのように追いやられる宿命をもっていたのは、実は“外部の他者”の扱いを受けつづけてきた女性なのである。これではSFとフェミニズムとが連関していて、まったく当然だったということなのだ。
ということで、ここでは「外部の他者」たる女性と文学との密接な関連がみえてきました。これは美少女に「キャラ萌え」する「ラノベ」も他人ごとではないのではないでしょうか?
では、そもそも男性にとっての「女性」とはどういうものなのでしょうか?もはや哲学の領域に関連しているように私には思えます。
そこで、デリダにとっての「女性」というものを引用します。ちなみに、「動物化するポストモダン」の著者であり、前述した東は
「【デリダとは】仏哲学者。20世紀のすぐれた哲学者の常として「哲学なんていみなくね?」というのをすごく哲学的に言って、ややこしくなってしまったひと。でも基本の着想はいいので哲学の呪縛から解き放たれればいい仕事できた可能性がある。」
とツイッター上で紹介しています。* ((http://twitter.com/hazuma/status/24868908779446272))
デリダは、「真理が女性であるとすれば」という『善悪の彼岸』冒頭のニーチェの仮定から出発して、「女性というもの(=真理というもの)」は存在せず、したがって「性的差異というものも存在しない」という驚くべき帰結を導き出している。(「性的差異」の問題が重要ではないと言っているわけではない。逆に、デリダは、ハイデガーのニーチェ読解には、「存在論的差異の問題」はあっても「性的差異の問題」がないことを問題にしている。)
ニーチェは『悦ばしき智彗』の中で、「女性たちの最も強力な魅力は、それを遠方性において感じさせること」、つまり「遠隔作用」だとしている。
女性の魅惑を感じるために、「遠隔」が必要なのであり、遠隔のところに身を置くことが必要なのである。
女性というものは、「遠ざけるものであり、自分自身から遠ざかるものなので、女性の本質は存在せず」、「女性の真理は存在しない」。
女性は、真理が存在しないことを知っているのであり、真理の存在を信じない限りにおいて、女性であり、真理であるのだ(女性の本質、真理の本質は、それが存在しないということであり、自分が存在しないということを知っているということである)。
実際のところ、「女性=真理」を信じているのは、「男性」なのである(この意味で、フェミニストの女性たちは「男性」なのであり、「フェミニズムとは、それによって女性が男性に、独断論者の哲学者に似ようとする活動」だということになる。)
ニーチェの『善悪の彼岸』の「序言」の冒頭は、次のように始まっている。
真理は女性であると想定すれば、すべての哲学者たちは、彼らが独断論者であったかぎりにおいて、女性たちをうまく理解できなかったのではないかと疑うべき理由があるのではなかろうか。
そして、これまで彼らが真理を探求してきた際の恐るべきまじめさ、不器用な無遠慮は、女の子をものにするためには、拙速で不適切なやり方だったのではないか。
デリダは女性も真理も、与えることによって所有するのであって、こうして贈与=所有も非弁償法的な決定不可能性は、あらゆる存在論的、現象学的な解釈の試みを失格させてしまう、とした。
つまり、贈与に先立つ固有なものの存在がないのだから、女性(真理)というものはないのであり、性的差異といういものはないということになる。という帰結に至った。
見事にややこしいこの解釈から、女性の振る舞いは虚構的であるという面ががわかってきたのではないでしょうか。
ニーチェは芸術的と指摘しましたが、遊戯的、ゲーム的と捉えても過言ではないでしょう。
であることがわかります。(また、女性性を獲得し、同時に女性に所有されたいという願望を解消するメディアとも解釈できます。)
十数年前に、男性オタク達は「萌える」という言葉を発明した;「萌える」という言葉を使えば「セックスしたい」「愛してる」といったストレートな表現を避けながら、美少女キャラクターへの思慕をオブラートに包んで表現できる
という指摘もあります。
例えば、オタクにとっての現実における外部性にインターネットがあります。
○オタク男性であろうツイッターユーザーのアイコンが、イラストやアニメの美少女アイコンである可能性が高い点はオタクにとっての外部性を無意識に象徴しているのではないでしょうか。
また、ラノベ作家は決して女性が多いというわけではないですが、その必要はなく、いわゆるユングの提唱したアニマ(男性の女性的側面)による手で書かれている点、それがラノベを好む多くの男性読者に受け入れられている点こそ検討すべきでしょう。これはつまり、女性を真理とするのではなくアニマこそを真理とするさらなる「遠隔作用」をもたらしているとも考えられますね。
このアニマを真理とすることによる遠隔作用の効果としての共時性が
先程のツイッターのイラストやアニメの美少女アイコンを無意識的に選択させる要因になっているかどうかを検討することは興味深い対象ではありませんか?
以上より「ラノベ読者はなぜラノベを好むか」という問いの考察を注意しつつ踏まえ、ラノベ読者(男性)の実際に構築しているコミュニティ、家族間の関係、他の好きなメディア媒体等について研究することは簡単には説明できなかったラノベ読者の感性、つまり一つの社会的な側面を知る上で、大いに意義があると思うのです。
○ラノベの本質は-文学であり-女性性であり-外部性であり、それがラノベ読者の実生活と対照的にどう関わるかが重要なのではないでしょうか?
東京大学ご入学、おめでとう。
これからは残された青春時代を謳歌しながら、自分のやりたい勉強にむかって突き進んでいくことができます。勉強したいことがない人も、友達と酒を飲めばそのうち見つかるので気にせずにキャンパスライフをエンジョイしよう。
それぞれの興味関心が違うので、絶対に受けるべき授業ってのはホントはないと思う。
どういう授業に感動するか、好奇心をくすぐられるかはひとによってまちまちだろうから。
それでも、大学人になるにあたって、大学の空気に慣れることも必要なように感じる。
その点で僕は、総合科目Aの「科学史」、小松美彦教官の講義をおすすめする。
東大の先生ではないのだけれど、毎年夏学期に行われているから、彼の定年まで続くのだと思われる。この授業にぜひ潜ってほしい理由は、次の3点である。
まず、この授業は「科学史」ではない。まごうことなき「生命倫理」の講義である。
彼の専門領域である「臓器移植」の問題をてがかりに、「死」についての見識を深めていく。
『高校教師』という昔のテレビドラマを見せられ、最後に愛の逃避行をしたふたりは「死んで」いるのかどうかを問う。
「帝銀事件」という日本を騒がせた事件を取り上げ、人体実験のありかたを問う。
最後の授業では『あしたのジョー』がどういうマンガかを語り、1時間以上延長する。
それらはすべて「生命」というタームで結びついているのだが、高校まで単調な座学を受けてきた人間には意味不明に感じると思う。
そしてこれらは、基本的に教官の意図を強要される。教官の意図と異なることを言えば、なぜかキレられる。寝てたらチョークを投げられる。なんとも理不尽な授業である。
しかしそうした教官の高圧的な態度に、反逆できる機会が与えられている。
教官ははじめにこう言うのである。「テストは『授業受けた人用』と『授業受けなかった人用』の2種類を用意する」と。
つまり授業に一切出なくても、初回とテストさえ行けば、単位は取得できるのである。ここに、大学という組織がどういうものなのかが凝縮されているように感じる。授業はすべて、「教官のターン」なのである。「教官のターン」を不快に思うなら、授業に出なくてよいとあらかじめ公言しているのである。
その代わり、「受講者のターン」である「期末テスト」には出席を求められる。「受講者」は、授業や教官の著書に対して、反論を記すことが認められる。見事教官をうならせたら「優」、とりあえず書いたら「可」である。明瞭である。
テストは、教官と受講者の勝負なのだ。教官が下す「優」は、「お前の解答には納得させられた」という白旗とほぼ同義なのである。
授業に出なくてもよいという教官のスタンスは、彼が全共闘世代であることにも関わっているように感じる。いまや大学教官の下す「優」「良」「可」「不可」に振り回される学生が、支配に対し反逆した時期が45年ほど前にあったのである。彼の授業は、その時代を追体験させてくれるようでもある。
大学に反逆したものの多くは、今や予備校に流れている者が多い。小松教官が、東京大学出身であるのに東京海洋大学教授であるという肩書にも、何かあるのではないかと勘繰ってしまう。
大学というところは、授業だけ考えたらぬるいものである。だから「意識の高い学生」は、やれ学生団体だの、サークルだのバイトだのに力を入れ、大学という組織の無力さを呪う。
しかしそうではない。大学の授業(講義)ひとつ取ってみても、議論を活性化させるタネが転がっているのだ。ゼミのアットホーム(優しい・厳しいを備えた)な雰囲気も大学の醍醐味であるが、マス授業の緊張感も味わってもらえればと思う。