はてなキーワード: カテドラルとは
やっと不可たおしたあああああああああああ
はああああああああああああああああああああああああん
生黒にんにく許すまじ
それ以外の固定ダンジョンはトレジャーポイント回収して脱出の繰り返しですぐ集まったからほんと拍子抜けだったわ
ほんとはもういっこクエストに必要だけどとても集める気にならない
まなもちこみしてアイテムドロップ率あげたほうがトレジャーポイントから高ランクのがとれるってどっかでみたきがしたからストレスマッハで死神に殺されまくりながらやってたけど、
もうあきらめてマナ持ち込みやめて数こなしたほうがうまくいった
マナ持ち込みすることで明らかに高ランクのトレジャーがとれるようになった体感がまったくなかったからなあ
宝箱はレアなのふえたけどうどうでもいいし
全耐性Sとかほんとゴミ
まあとりあえず進めたからよかった
大した金もプランも無いが、なんとなく香港に行ってみようと決めて、てきとーに楽しんだ。
印象に残ったことをだらだらと。
欧米人の見た目じゃないのでどこに行っても最初は中国語で話しかけられるけど
英語で頼んだら英語で答えてくれる人が多かった。まともに喋ったこと無かったけどなんとなく通じてうれしい。
単に見かけなかっただけかも知れないが、日本の電車と違って気持ち悪い広告がない。
リクルートのフレフレ人生とか下劣な言葉まみれの中吊り広告とかそういうの。
美容品、携帯、教育の広告が目立ってた気がする。「~~の~~」みたいな日本語のような物も。
駅前は携帯ショップや屋台しかなかったが、黄金電脳商場?の中は別世界だった。メイドカフェとかは見当たらなかった。
訳あって携帯修理屋の世話になった。アニメ好きで変な日本のミームを知ってて面白い人だった。
何も知らずに入った。ゲイっぽい爺がズボンに手突っ込みながら向かってきてマジ怖かった。
フェリーで数千円程度。商店街の人混みがやばい。カテドラルとモンテの砦を見に行った。
香港に戻ろうとしたときバス停を探して迷ったり行き先も間違えたりで泣きそうになった。
行こうと思ったが結局行けなかった。
宿はAirbnbで安い所に泊まった。シェアルームで3泊して1万円もかからなくて良い。寝泊まりだけして外を出歩くには十分だった。
東京と比べて全体的に明るくて疲れてない感じがした。また行きたいな。
どう考えてもデュラム・セモリナモルボルテイストめにしたほうが、デュラム・セモリナが…モーグリ肉は刺身が一般的だが、帝国ではパスタの具材で用いる場合も多くなってよくね?
まぁ表向きは、暗黒の儀式の後とか時間が奪えねェ…昼時にフラッと断絶されし孤独な魔大戦ラーメン屋…預言書にも記されていることだが…カルパに麺かた・ザ・カテドラル目でカカッとかき込むというレゾンデートルで麺かた…それが世界の選択なら超越した解析力で分析するんだけど、デュラム・セモリナ硬めで頼んでる――誰もがそう信じていたのに、たゆたう水の如く喰ってたら闇の血族を滅ぼしたところで原初の海に漬かってる間に異端のカタストロフさに進化せしめるじゃん。
ベトヴェンの「第九」は日本人にやたらと人気があり欧米かぶれの一種の信仰みたいになっています。
何に歓喜しているかって、ようやく解放されたこと。つまりは中世封建社会からの解放という意味です。そういうと大概の人は思い違いをして、単に一般庶民が農奴の身分から解放されたことであるかのように思うでしょうね。
誰が何から解放されたのか? それは、賢い人が、既成社会体制に利用されるという「権力の犬」の身分から解放されたということ。
中世では、社会体制を疑う能力のあるような人は、普通に暮らしていてはならなかったわけです。社会体制を変える素養のある人が居てはならなかった。普通に定住して大手を振って暮らすことは許されなかった。
例えば、クラシック音楽というのは、教会音楽です。カトリック教会の布教教化に用いられる技術で、つまり社会統治体制を保つための技術です。ですから、その技術のタネを知っている音楽家というのは、世間に普通に暮らしていては困るわけですよ。
例えば建築家もそうです。教会のカテドラルの建て方を知っているような技術者が、その辺に居てネタバラシをしたら困るわけです。
こういう技術者達は、旅芸人の一座みたいに各地を転々とし、当地の権力者に利用されることで食っていたんです。これを「フリーメイソン」といいます。
それが、社会体制が変わり誰もが政治に携わる社会になって、社会体制を疑うことがタブーではなく、むしろ疑い批判することが必要な時代になりました。技術は特定の身分の人しかもってはならないものではなく、ネタバラシをすることもタブーではなくなりました。
賢い人は、世を忍んで一生を終えた時代から、普通に暮らしていい時代になり、ようやく日を浴びて大手を振って歩ける時代になったわけです。
中世は、知恵のある人は権力構造に組み込まれなければ生きていることを許されなかった。迫害の世の中でした。ヘイトされまくり。権力者は、都合の悪い人間を干して、地元の庶民をそそのかして嫌悪させていました。未だに、ユダヤ人が嫌悪されているのも、フリーメイソンが理解されないのも、もとはそういう経緯です。
賢い人がうっかり権力に都合の悪いことをしてしまうと、世の中から消されます。生きていることすら許されず、人間として扱われなくなりました。例えばマルティン・ルターもそうやって社会から消されて、カトリック教会の支配を嫌うとある領主にかくまってもらって何とか生き延びました。
ユダヤ人であれ、ピューリタンであれ、既成の社会体制に都合の悪い人々はヘイトされ、その中からアメリカ大陸に渡って生き延びようとした人も出てきたわけです。USAというのはもともとそういう国です。
それに比べて、日本人は、革命を知りません。デモクラシーやリベラリズムを知りません。
それどころかそもそも未だに、賢い人間は社会体制に組み込まねばならず、「踏み絵」に応じないような人は叩き潰されます。利用価値のある人間でなければならないわけです。
例えば起業家であれ、既存の社会体制に逆らってはならず、革命を起こしてはならないわけです。
芸能人なんか、社会体制に利用されることで食っていく職業です。うっかり真実を語ってしまってはならないわけです。山本太郎にしても、どこぞの資本家に拾ってもらって生き延びて、「民主主義」の時代だからうまく国会議員にはなりましたが、だからって結局はおそらく日本社会を変えられずに終わるんじゃないかという気がします。
会社の従業員にせよ、会社の存続と体制維持のためには、おかしなこともさせられますね。放送局も権力にシッポを振り、人気を利用し流行を捏造して売上を出し、生き延びるのに必死です。近年の安倍体制のもとでは、放送局も、そこの従業員も、平気でおかしなことをし、せねばなりません。そうして「美人女子アナ」でさえも平気でえげつないことを言ったりしますよね。
さて例えば、亀渕というニッポン放送の社長にまでなった元アナウンサーがいますが、村上世彰と戦わされたときの社長です。株主総会でも社長として矢面に立ち、フジサンケイの日枝体制を維持するためにメチャクチャな総会運営をしてまで逃げ切っていました。そのときの彼の姿を私は忘れられません。かわいそうでしたね。会社の従業員(正社員管理職)生え抜きによる支配体制を保つために、修羅にでもならなくちゃいけない。社長を退任してただの一介の批評家みたいな立場になってからは嬉々として活き活きしているようにみえます。
そして、社会の革命分子であったところの村上世彰にせよ堀江貴文にせよ、叩き潰されましたね。堀江貴文に関しては、ムショを出てからは、中途半端にしか目立たないところに居て、社会体制に逆らわずむしろ組み込まれるような感じで活動するようになってしまいましたね。
日本社会というのは未だにそういうところです。
愚かな人は自分の才能の無さを憂うのでしょう。けれど、実際に才能をもって賢く生まれたらもう、正しく生きていくことは不可能です。
悲惨な国です。そして、社会体制に組み込まれる人々と、ホイホイ釣られる愚民で構成される日本人というものは、実に卑しいですね。
http://anond.hatelabo.jp/20151002003234
の著者が
http://blogs.yahoo.co.jp/ut_kankyo/42274104.html
「当会が問題と考える点」(東大 キャンパス環境の改善を求める有志)を読んだ。
匿名ブログでくだをまくことしかできない私と違い、実際に駒場の学生支援課と駒場図書館と交渉されているそうで、その実行力に敬意を表したい。
その上で、「東大 キャンパス環境の改善を求める有志」の会の方々は、主に駒場キャンパスでの問題に取り組まれているようなので、本郷キャンパスへの「学外者」立ち入りに関する所感を以下で述べてみたい。
というものだ。
本郷キャンパスへはじつに様々な人たちが出入りしている。センター試験と2次試験以外の日に、もっともよく見かける人たちをあげてみるだけでも、これだけいる。
これだけの人たちの立ち入りを制限して、正門でいちいち入構手続きを求めるのはさぞかし大変だろう。
とはいえ、本郷キャンパスが観光地化しているという指摘はあたっている。
毎日のように大型バスが何台も大学前にやってきて、中高生や観光客の団体が列をなしてキャンパス内に入ってくる。日本国内からだけでなく、中国、韓国、台湾といったアジア諸国からやってきたらしい団体もよく見かける。
これらの人々が固まって道を塞いだり、騒ぎながらセルフィー棒で写真をとっているのを見かけて、眉をひそめる東大生がいたとしても全然おかしくないと思う。
しかし、「学外者」の立ち入りを完全にシャットアウトすることは難しいのではないかと思う。本郷へやってくる人たちのなかにはきっと、東大に漠然としたあこがれを持ってやってくる人もいるのだろうし、そうした人たちに対して大学も悪い顔はできないだろう。
キャンパス内を物珍しそうな顔で歩いている中高生が、10年から20年後には、彼らを迷惑そうに見つめる東大生をはるかにしのぐ立派な研究を東大でやり、場合によってはノーベル賞も取ることだってありうるのではないだろうか。
先日話題になった世界大学ランキングでトップ10に入っている大学で、私が訪れたところはいずれも、東大よりはるかに観光地化が進んでおり、観光客でごったがえしていた。大学の主要な建物の周りには土産物屋が立ち並び、大学のロゴが入ったパーカーやTシャツを売っている。その周辺にはカフェやレストランがあり、一つの経済圏を形成している。
大学の方もまたしっかりしたもので、歴史的な建物やカレッジは入場料をとり、一日のうち限定した時間帯に立ち入りを許している。立派な美術館やカテドラルを持っている大学(カレッジ)は、これらの入場料から収入を得ている。
こうした大学で観光客と学生とのあつれきが問題になりにくいとしたら、先のエントリでも述べたように、もともと大学と周辺の街との境界線があいまいだからだろう。
東大の場合、キャンパスの内と外の区別がかなりはっきりとしており、キャンパス内が手狭なので、そこに多数の人が一挙にやってくると、学生はストレスを感じやすいように思う。
本郷キャンパスでは現状で、研究棟に「学外者」が団体で入ってくることはないので、研究室にこもっているかぎりでは、「学外者」との間で問題が生じることはない。
「学外者」が大声で話すことがあったとしても、現状では、研究棟の造成工事や、総合図書館の新設・改築工事の騒音のほうが、はるかにうるさい。
問題が生じるのは、学生と「学外者」が共有するアメニティスペースや、「学外者」の団体立ち入りを許している施設だろう。
まず、キャンパスに立ち入る「学外者」のうち、もっとも人数が多いのは修学旅行の団体であるが、彼らは門の前にしゃがんで集合したり、狭い道で立ち止まったりして完全に通行を遮断することがあり、引率の教員もそのことに気づいていない場合がある。
また、修学旅行生やウオーキングツアーの団体が昼時に中央食堂へいっせいにやってくると、数十分間の間、学生にとっては食堂の機能が完全にフリーズしてしまう。このため、12時から13時までのあいだ、「学外者」の利用は遠慮してもらうよう依頼する貼り紙が入り口にある。しかしこの制限がかかる時間帯の直前にやってくる団体は結局制限時間帯になってもいる場合があり、あきらかに貼り紙を無視している人々も制限時間帯に複数いる。授業の合間や、実験や論文執筆の合間をぬって食堂を利用したい学生にとっては、食堂が一体誰のために、何のために存在しているのかわからないと憤慨する時があっても無理はないように思う。
総合図書館は、現在は工事中で「学外者」の見学を受け入れていないが、それ以前はキャンパス内ツアーの経路に入っていた。中に入る「学外者」は、大きな声で話すということはないものの、多数の人達がドカドカと足音を立てて閲覧室に入ってくる。彼らは勉強中の学生の姿やノートを、好奇心いっぱいで覗きこんでから、無言で立ち去っていく。このようなことを毎日のように繰り返されて、いい気持ちがする人はいないだろう。
医学部前の広場は、日暮れ時は、愛犬家の交流スペースとなっている。犬と人が遊んでいるのを見るのは心和むひとときであるが、一部の人は、人通りが最も多い昼休み時に犬を連れて狭い道を歩きまわっており、さすがに周囲への配慮が足りないのではないかと思われることがある。
キャンパス内でただくつろいだり歩きまわったりしたい人を追い出してしまったら、そこは学生にとってもさぞかし息苦しい場所だろう。
とはいえ、学費を払って真剣に勉強している学生が、配慮が足りない一部の人々の行為に対して黙っている必要はないのではないだろうか。
キャンパスにやってくるさまざまな人が快適にひとときを過ごすことができるように、お互いの存在に気づくことができるように、声を上げることは、全然おかしいことではないと思う。
たとえば、
大学の教職員は、学生が集中して学習できるように、もちろん日々配慮しているだろうが、かれらは幾分年をとっているため、細かいことには気づかない場合がある。
年を取ってくると、10代後半から20代前半の学生は、教職員にとって、生理的に、まったく別の生き物に感じられるようなので、学生の細かい要望に応ずる善意があったとしても、そもそも相手が何を望んでどのように感じているのかわからないのではないか。
また、任期がない教職員は基本的に国家公務員のメンタリティを持ち続けている(彼らは文部科学省の社会保険に加入している)ので、自分がクビになるリスクがない限り、何らかの業務改善をしても得られるインセンティブはそれほど大きくないという認識を持っている。なので、文句をいわれないかぎり、学生の要望を察知して自分から動くということは、あまりない。
お疲れさまです。
インテリア関連に従事しているけど、実は建築の勉強とかしてなかったヨ
という人は結構多いですよね?
違うんですけど、なんとなく知っているっていうくらいですが
これはちょっと知ってる方がいいかもしれないことを
こっそり教えておきますヨ。
口をとがらせて聞かれます。うんうん。
そうだな??、丹下センセ知ってます?丹下先生が亡くなったのが
たくさんあるのですが、とりあえず絶対知ってるのが新宿にある都庁。
その近くにある新宿パークタワーもそうです。
あれはモダニズム建築じゃあないんですよ。ちょっとポスモ寄り。
丹下先生は、若かりし頃はル・コルビジェに傾倒していた(あの頃は
みんなそうだったようです。)ので、当然のことながらモダニズム建築
を実践していた。その代表的なものとしては、東京カテドラルや代々木競技場
などがあります。
★「モダニズム建築」というのは、鉄やコンクリート、ガラスなど建材の
技術革新によって、それまではムリだった高層建築とかできるように
なったんですよ。いま、すごく単純にざっくり説明しちゃいますよ!
で、デザインとしてはシンプルだったり構造がそのままデザインだったり
するのが特徴です。今みると、なんかシンプルで静謐な感じと思ってしまいます。
(多少内部が古かったりするところも味と思えるからなのかしら?)
★で、「ポストモダニズム」っていう言葉を聞いたことがない人も、聞いたことはある
けど今までスルーしてた人っていうのも結構いるはず。
じゃあ、何故「ポストモダニズム」ってそんなに影が薄いのか?という
ことですよ。
その理由は、「ポストモダニズム」は建築史ではなかったことになってるんです!
では何故なかったことになっているかというと、
ざっくり言うと、「痛い建築かも?」ってことなんです。
全部が全部そうだとは言いません。何が痛いかも言いません。
でも、でも、そうとしか言えないのです。
「もう少し、時間が経てばきっと解ってくれるよ、みんなも。」
といったところでしょうか?
言ってましたもん。
だから、ポスモについてはもう少し寝かしときましょう。
でも、再評価される前に解体なんてことにならなければいいのですが…。
ちなみに、ポスモ建築の例としまして、
ね?なんとなくポスモってそんな立ち居地なんです。
でも、私は嫌いじゃないです。