はてなキーワード: 1970年とは
またまた瑞浪市陶磁資料館に行ってきたので少しだけ書きますわ。
加藤孝造氏の常設展示室に場所をとられていてスペースが控えめですわ。
染め付け磁器を実例に説明したもので、絵付け道具も一緒に陳列されています。
MADE IN JAPANの刻印が逆さまになっている製品がおもしろかったですわ。
これはミステリーで死亡時期ずらしのアリバイトリックを崩すネタに使えそうと思いましたの。
絵付けの方法は手描きからから始まって、いろいろあるのですけど、
先進的に思える銅板転写よりも、どこか子供の工作らしいゴム判の方が
結局、明治にはじまった銅版転写の技術はいまだに生き残っており、
大正からのゴム判の技術は1970年頃に衰退してしまっているそうですわ。
説明文は配付資料にまかせて、展示そのものからは文字を排する展示方法も
興味深かったですわ。
説明文があると、つい物よりも文字に時間を取られてしまいますものね。
前回ですわ
壬生寺(みぶでら)は、京都市中京区壬生にある律宗大本山の寺院である。本尊は地蔵菩薩、開基は園城寺(三井寺)の僧快賢である。中世に寺を再興した融通念仏の円覚上人が創始したとされる「大念仏狂言」を伝える寺として、また新選組ゆかりの寺としても知られる。古くは地蔵院、宝幢三昧寺[1]、心浄光院と号した。
目次 [非表示]
1 歴史
2 境内
3 文化財
3.1 重要文化財
3.2 焼失した重要文化財
3.3 重要無形民俗文化財
4 行事
5 関連項目
6 アクセス
7 脚注
8 外部リンク
園城寺(三井寺)の僧快賢が、991年(正暦2年)に自身の母のために建立したとされる。京都では珍しい律宗(総本山は奈良・唐招提寺)寺院である。
中世に融通念仏の円覚上人が中興。大念仏会の際に上演される重要無形民俗文化財の「壬生大念仏狂言」(壬生狂言)は円覚上人が始めたものと伝えられる[2]。
江戸時代後期の幕末には京都の治安維持を目的に活動した新選組(当初は壬生浪士組といった)の本拠が壬生村の八木家に置かれた。当寺境内は新選組の兵法調練場に使われ、武芸などの訓練が行われたという。その縁で境内には局長近藤勇の銅像や、新選組隊士の墓である壬生塚がある(近藤勇の墓とされるものは、当所以外にも会津若松市、三鷹市などに存在する)。
当寺旧本尊の地蔵菩薩半跏像(鎌倉時代後期の作)は、「壬生地蔵」と呼ばれ信仰を集めていたが、1962年(昭和37年)7月25日、放火により本堂とともに焼失した。現在の本尊・地蔵菩薩立像は、火災後に本山の唐招提寺から移されたものである。
現在の本堂は1970年(昭和45年)の再建である。境内には他に大念仏堂(狂言舞台、重要文化財)、近藤勇銅像、壬生塚、千体仏塔(パゴダ様式の仏塔に1000体の石仏を円錐形に安置したもの)などがある。
錫杖(しゃくじょう)
紙本墨画淡彩列仙図 長谷川等伯筆 六曲一双(左隻の一扇を欠く)
壬生寺大念仏堂(狂言舞台)(附 道具蔵、脇門、土塀2棟、棟札2枚)
典拠:2000年(平成12年)までに指定の国宝・重要文化財については、『国宝・重要文化財大全 別巻』(所有者別総合目録・名称総索引・統計資料)(毎日新聞社、2000)による。
金鼓 正嘉元年(1257年)銘 - 「金鼓」は仏堂の軒先に吊るす「鰐口」のこと
毎年節分と春秋に演じられる無言劇。大念仏狂言(だいねんぶつきょうげん)とも呼ばれる。重要無形民俗文化財に指定されている。公開は2月の節分の当日と前日、4月29日から5月5日まで、及び10月の体育の日を含む3日間(年間12日間)[4]。詳細は「壬生狂言」を参照
壬生六斎念仏踊り
年中行事として、かつては毎年8月9日の精霊迎え火、16日の精霊送り火、23日の地蔵盆に壬生寺で上演されていたが、現在は9日にのみ実施されている。重要無形民俗文化財。詳細は「壬生六斎念仏踊り」を参照
地蔵盆時の出開帳
壬生寺は、地蔵菩薩を本尊とする寺として、地蔵盆の際に地蔵の石仏を貸し出す、俗称「レンタル地蔵」を行っていることでも知られる。
京都でも新興住宅地などでは地域の地蔵がなく、地蔵盆が行えないことがある。この場合は宗教色を薄めた「夏祭り」とする所もあるが、地蔵を借りてきて地蔵盆を行うところもある。壬生寺の場合は、明治時代から京都各地の区画整理などに伴って祀れなくなった石仏が多数引き取られており、これを出開帳の形式をとって希望する各町に貸し出しているのである。
石油の大量発掘が行われていた初期、産出国の殆どはアメリカであり、また、アルコールより効率の悪い灯り燃料でしかなかったので、アジア圏で発掘するほどの価値も見いだされてはいなかった
それは第二次世界大戦前、自動車の内燃機関の燃料としての価値が見いだされた直後も変わらず、ベネズエラやインドネシアが産出国として増えたにとどまる
中東で石油が発掘されたのは第二次世界大戦後間もなくで、第二次世界大戦が起きた原因としては各地に散らばっていた石油産出地の取り合いが一因とされている。現時点でも中央アジア、カフカス、アフリカ、南米などの地域紛争の火種になっていたりする。
従って、中東による大量に安定した供給が無いとしたら、中東戦争のような争いが世界各地にさらに飛び火した状況になっているか、あるいは第三次世界大戦ないしはそれに近い規模の紛争が1970年台に発生している可能性があると思われる
「メジャーリーグ史において最も重要な40人」はアメリカの著名スポーツメディア「スポーティングニュース」が先日発表して話題となったもの。ソースはこちら。
The 40 most important people in baseball history, ranked | MLB | Sporting News
ここで挙げられている40人について調べてみたんだけど、筆者はMLBにそこまで詳しいわけではないので、何か誤認・誤訳があったらごめんな。
MLB史上最大のスター。驚異的なペースでホームランを放ち、MLBの野球を「ライブボール時代」へと変えた。当時、ブラックソックス事件により信頼を失っていたMLBは、ルースの人気によって復活し、さらにはアメリカ最大のスポーツにまでなった。
近代MLBにおける初の黒人選手。ニグロリーグで活躍した後、1947年にドジャースでMLBデビューして、MLBの「カラーライン」を打ち破った。またMLBの初代新人王でもある。
1920年、ブラックソックス事件の収拾を図るために、強大な権力を有するコミッショナー職が新設され、判事であったランディスが就任した。事件に関わった8人の選手は永久追放とされ、その厳格な対処がMLBの信頼回復に繋がったと考えられている。
1900年にアメリカンリーグを創設し、現在まで続くMLBの2リーグ体制を作り上げた。審判に権力を与え、違反行為に厳しい罰則を課すことで、クリーンなイメージを生むことに成功した。強権的な性格から、のちにランディスと対立して辞任した。
カージナルスやドジャースのGMを歴任し、MLBで初めて選手育成のためのファーム制度を整えた。また、ジャッキー・ロビンソンと契約して、黒人選手がMLBに参加する道筋を作った。
1966年、エコノミストとしての経験を買われてMLB選手会の代表に就任し、最低年俸の増額、選手年金の拡充、そしてFA制度の導入に貢献した。彼の在任期間中に選手の平均年俸は1.9万ドルから32.6万ドルにまで向上した。
スポーツ用品のSpalding社を興し、ナ・リーグ創設にも関わった。初めて野球のルールブックを出版、ボールの標準化に努めるなど、初期のMLBの発展に尽力した。野球選手としても超一流で、通算勝率のMLB最高記録を保持している。
シカゴ・カブス(の前身)の社長であり、1876年のナショナルリーグの創設者の一人である。のちにナ・リーグの第二代会長に就任して公正かつ厳格な運営を行い、MLBの基盤を作り上げた。スポルディングとは盟友だった。
黒人野球チームのスター選手であり、また球団オーナーとしても成功した。彼の呼びかけによって、1920年にニグロリーグが設立された。「ブラックベースボールの父」と呼ばれる。
野球評論家・統計家で、「野球の父」とも呼ばれる。ボックススコアを考案して試合の記録を取り、「打率」などの指標を提唱した。またスポルディングのもとでガイドブックを刊行するなど文筆活動も盛んに行い、野球の普及に多大な貢献をした。
元はブルワーズのオーナー。MLB選手会とオーナーの対立が激化していく中で、1998年(実質的には1992年)に第9代MLBコミッショナーに就任。リーグの再編、収益分配制度の導入、オンライン配信の開始などにより、就任前と比較して5倍以上とも言われる空前の収益をMLBにもたらした。
ドジャースのオーナー。冷徹な経営者であり、1957年に球団をブルックリンからロサンゼルスへ移転させた。それによりアメリカ西海岸における野球ビジネスを開拓し、経済的には大成功を収めたが、ブルックリン住民からは深く恨まれた。
1977年から1988年まで刊行した「Baseball Abstract」を通じてセイバーメトリクスを提唱した。米国野球学会(SABR)のデータと統計の手法を用いて、RCやRFなどの様々な新しい指標を作り出した。
1974年、ドジャースの選手だったトミー・ジョンに、自らが考案した靭帯再建手術を施し、それを成功させた。この手術は「トミー・ジョン手術」として、いまでは広く施術されている。また、1990年には肩再建手術も成功させている。
ブレーブスで活躍し、ベーブ・ルースの記録を超える通算本塁打755本を放った。黒人のアーロンが白人のルースの記録を破ることには反発もあったが、彼はそれを乗り越えた。通算打点2297点は現在でもMLB記録である。
ヤンキースに所属し、当時の記録である2130試合連続出場を達成して「鉄の馬」と呼ばれた。しかし筋萎縮性側索硬化症に苦しみ引退、そして37歳の若さで亡くなった。背番号の「4」はMLBで初めて永久欠番となった。
野球クラブのニッカーボッカーズや全米野球選手協会(NABBP)において、チームの人数や塁間の距離、一試合のイニング数、バウンドルールの撤廃など、基本的なルールの策定に貢献した。遊撃手のポジションの創始者とも言われる。
(野球ルールの策定に関してはアレクサンダー・カートライトの名前がよく挙がるが、現在ではドク・アダムスを評価する声が多いようだ)
ニグロリーグで活躍した後に、MLBで最初の黒人スカウトとなり、最初の黒人コーチとなった。ニグロリーグ野球博物館の設立や、ドキュメンタリーへの出演、多くのインタビューを通して、ニグロリーグへの関心を高めることに尽力した。
MLBにおけるヒスパニック系選手の先駆けであり、中南米出身で初めてMLB殿堂入りした。慈善活動中の飛行機事故により38歳で亡くなり、そのため慈善活動に貢献した選手に贈られる賞にその名が冠されることになった。
肩、肘、膝に関する整形外科医。1985年、ロジャー・クレメンスに施術した関節鏡手術で脚光を浴び、以降もスポーツ医学の権威として数多くの選手の手術を担当している。
「シューレス」の異名で知られるMLB初期の名選手。しかし、MLB最大の八百長事件であるブラックソックス事件に巻き込まれ、MLBから永久追放された。ファンは彼に同情的であり、いまなお悲運の選手として記憶されている。
最多安打4256本や最多出場3562試合などのMLB記録を持つ「安打王」。しかし、引退後の1989年に野球賭博に関わっていたことが発覚し、MLBからは追放された。
走攻守すべてに優れたMLB史上最高のオールラウンダーであり、当時MLBにおいて台頭しつつあった黒人選手の代表格でもあった。オールスター24回出場は最多タイであり、「オールスターはメイズのために作られた」と評された。
1901年にアスレチックスの初代監督に就任すると、それから1950年まで指揮を取り続け、5度のワールドシリーズ制覇を成し遂げた。もちろん監督の就任期間としてはMLB史上最長である。
上院議員、ケンタッキー州知事、そして第二代MLBコミッショナー。ランディスが黒人参加に否定的だったのに対して、チャンドラーは進歩的であり、1947年にドジャースおよびジャッキー・ロビンソンを支持し、その契約を承認した。
連邦最高裁判所の名判事として著名。1922年、球団が選手の移籍を制限できる「保留制度」について、それが反トラスト法に該当しないとの判決を下した。これにより、現在までもMLBは反トラスト法適用免除の特例として扱われている。
1900年にパイレーツのオーナーとなった。その後のナ・リーグとア・リーグの対立を調停し、「ワールドシリーズ」を提唱して1903年の初開催に尽力した。また1909年に、鉄筋コンクリート製の近代的な球場を建設したことでも知られる。
スコットランド出身のビジネスマン。1934年、野球発祥の地であるクーパーズタウン(これはスポルディングが広めたデマであるが)に野球博物館を作ることを思いつき、そのアイディアがアメリカ野球殿堂の元になった。クリーランド自身は野球に全く興味がなかった。
レッドソックスで活躍し、MLB史上最高のバッターの一人とされる。最後の4割打者であり、通算出塁率.482はMLB記録である。1970年に刊行された、自身の打撃理論を記した「The Science of Hitting」は、後の多くの打者に影響を与えた。
大学で統計を学び、1969年にスポーツ百科事典「The Baseball Encyclopedia」を、1974年からは「Sports Encyclopedia: Baseball」を毎年刊行し、高い評価を得た。他にサッカーやバスケットボールの百科事典も編纂している。
ジョン・マグローらと並んでMLB史上最高の名将とされる。ホワイトソックス、アスレチックス、カージナルスの監督を歴任し、ワールドシリーズを3度制した。データを駆使した細かな継投を得意とし、現代的な「クローザー」というポジションの確立に貢献した。
MLBで首位打者を獲得するなど活躍し、引退後は監督となった。1934年に日本の野球チームと対戦したとき、相手チームに「ジャイアンツ」というニックネームを贈った。1949年に訪日した際にはチームを率いて全国巡業を行うなど、戦後日本に野球を広めるのに貢献した。
アストロズのオーナー。1965年、世界初のドーム球場・アストロドームを建設し、さらにドーム球場では天然芝が使えないために、人工芝アストロターフを開発した。人工芝は70年代に流行し、その走りやすさからMLBの野球をスピーディなものに変えた。
MLBのインターネット部門であるMLB Advanced Media社(MLBAM)のCEO。MLB.comを運営し、試合のオンライン配信や、チケットの販売などを開始したことで、巨額の利益を上げている。
1998年のサミー・ソーサとの最多本塁打争いにより、1994年のストライキで低迷したMLBへの注目を取り戻した。最終的に70本塁打を放って当時の新記録を作ったが、2005年頃からステロイドの使用が確実視されるようになり、その名声は失墜した。
1969年、カージナルスに所属していたフラッドはトレードを拒否し、マービン・ミラーと共に「保留条項は反トラスト法違反であり、トレードは無効である」との訴訟を起こした。裁判には敗れたが、この事件をきっかけにFA制度が導入された。
日本での任意引退を経て、1995年にMLBのドジャースと契約した。30年以上前の村上雅則を除けば、MLBで長年に渡って活躍した初めての日本人選手であり、その後も続々とMLBに移籍する日本人選手たちの先駆けとなった。
1977年のワールドシリーズで、当時のMLBコミッショナーだったボウイ・キューンは、女性記者であることを理由にラットクの取材を許可しなかった。彼女は平等な取材を求めて訴訟を起こし、勝利した。これ以降、全てのチームが取材に制限を設けないようになった。
1920年、カージナルスの選手だった彼は、野球用品メーカーとして有名なローリングス社に、グラブの親指と人差指のあいだに「網」を貼るべきだと提案した。これにより現在の形の野球グラブが完成した。
2002年、レッドソックスのGMに史上最年少となる28歳で就任する。2004年のWS優勝で「バンビーノの呪い」を打ち破ると、2012年には新たにカブスの球団社長となり、2016年のWS優勝で「ビリー・ゴートの呪い」までも打ち破ってみせた。
ではマジョリティである白人は生命を脅かされていないのかというと、脅かされているが答である
http://jp.wsj.com/articles/SB12055383950015144394104581334663298544334
http://jp.wsj.com/articles/SB10834865168797973818204582019062757056648
http://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2016/06/post-5278.php
「「ドナルド・トランプの米国」の生と死 寿命が短くなる白人ブルーカラー男性」
http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/48141
1970年には、低所得の中年男性の平均寿命は高所得の同じ年齢の男性のそれよりも5年短かった。1990年までに、この差は12年に広がった。最新の推計ではほぼ15年になっている。
だいたい寿命が短くなるときは子供や中年の死亡が増えている。アメリカの場合はほぼ中年の死亡の増加が原因である。
ここまで生命が抑圧される社会的圧力が昨今の白人ブルーカラー層には存在している
共和党でも民主党でも寿命は縮んできた(殺されてきた)のだから、そりゃ「共和党はぶち壊す!エスタブリッシュメントはぶち壊す!」のノリで来たトランプを支持する向きはあろうというものである。この状況で特に白人男性に手を打とうとしないヒラリーは逆に白人男性差別していると言われても仕方がない。
アメリカで起きたことを冷静に分析するとか、日本の状況にてらして考えるならわかるんだけど
意識高い人たちが心から残念そうにしてるのを見て「お前アメリカ人だっけ?」と思った
なんだ、リベラルにも主体性なんてないんじゃないか。アメリカリベラルのポチじゃないか
昭和安保闘争までのアカをルーツにする人たち(共産党、および分裂した過激な人たち)と
1970年のロックでリベラルなアメリカの幻想を追いかける名誉ニューヨーカーみたいな奴らに分類できるということだ
あの人達は結局日本という国をニューヨークにしたいだけの人たちなんだろうし
あまり支持が集まらないのはしょうがないんじゃないかなあと思う
本当に日本のことを見ていたら、アメリカを見て嘆いたり、自分たちの存続に危機感をおぼえるんじゃなくて
「自分たちは日本人の不満を掬えるだろうか。どうやって解決できるだろうか」と考えるだろう
数年前から昭和のテレビドラマ・映画のエロさを知り、いろんな手を使って作品を漁り続けている増田です。
この前、映画『おさな妻』(1970年公開)を見てたら、女子高生をレイプ未遂するシーンがあって、オナニーした。
そのシーンの前に、女子高生が公園で青姦を目撃してムラムラする描写があった後にレイプ未遂シーンだから、
「なにこれなんてAV?」って感じ。その後、婚約者の中年男性と湖畔の見える山荘でセックスするシーンまでありました。
主演女優がカワイイので調べたら、『高校生ブルース』という作品で
当時実年齢15歳にも関わらずフルヌードでエロ全開なので、それも何とかして探してオナニーした。
何よりジャケットが白シャツが濡れて透けチクビなので、ほぼほぼ児ポじゃないかと思います。
昭和映画のエロに対する表現のユルさもけしからんが、それのみならず強姦シーン・強姦未遂シーンが多すぎて草。
普通のドラマでもヌードとか、結構具体的なセックスとか、レイプシーンも多い。
「鼻を噛んで!」と叫ぶ女のセックス描写がお笑いっぽい文脈で描かれていたりして、
当時地上波で放送されていたのに、変態的なセックスが深刻なムードなしに気軽に入ってくるのがすげえ。
当時はそんなに強姦は日常だったのか、それとも当時の男性のファンタジーだったのかは知らんが、
こういう環境で育っていれば高齢フェミ婆が「ミソジニーがー!」と狂ったように叫ぶのもよくわかる。
現代なら、特に未成年に対するレイプとか描いた時点でアウト感がある
2015年調査の抽出速報に基づく生涯未婚率(50歳時未婚率)。概ね1965年生まれの人の50歳時未婚率。2010年、2005年は確定値。
生涯未婚率 | 男 | 女 |
2015年 | 22.77% | 13.32% |
2010年 | 20.14% | 10.61% |
2005年 | 15.96% | 7.25% |
2015年は2010年と、2010年は2005年とそれぞれ比較し、5年間の各世代の婚姻行動を下の世代が将来そのままなぞったと仮定したときの各世代の生涯未婚率の予測(1965年生まれの2015年は確定値)とその変化。
男 | 2015予測 | 2010予測 | 増減 |
1965年生 | 22.77% | 25.54% | -2.77 |
1970年生 | 24.47% | 30.73% | -6.26 |
1975年生 | 24.26% | 33.07% | -8.81 |
1980年生 | 23.32% | 33.34% | -10.02 |
1985年生 | 23.30% | 33.78% | -10.48 |
1990年生 | 24.07% | - |
女 | 2015予測 | 2010予測 | 増減 |
1965年生 | 13.32% | 15.30% | -1.98 |
1970年生 | 15.55% | 20.03% | -4.48 |
1975年生 | 16.54% | 23.45% | -6.91 |
1980年生 | 16.24% | 25.34% | -9.1 |
1985年生 | 16.16% | 26.42% | -10.26 |
1990年生 | 17.12% | - |
友達が「ブレイキング・バッドがクソ面白いから絶対見ろ」とうるさいので、どんなもんなんかなーと思ってさ。
でも何故だかブレイキングバッドは一話だけ見てそれ以降は見ずに、ほんとにたまたまなのだけど「あしたのジョー」ってのがメニューにあって、昔そんな国民的アニメがあったってのをどっかで聞いてたから気になって。
で、最初は気付かなかったけどそれは元のあしたのジョーじゃなくて、2だったんだ。
つかさ、いくらなんでもその出来栄えからしてこれが1970年のアニメである筈はないと思ったんだよね。他にも色々見たことあるからさ、同時代の。
ふーん、1990年代くらいでもなかなかクオリティ高いんだなぁ・・・と思ってたら、それが勘違いで1980年に始まったテレビアニメと知り、びっくりした。
そりゃ今に比べれば全然だけど、1980年とはなかなか信じ難い。
監督が出崎統とある。アニメの事なんか全然知らない門外漢なので名前も全く知らんけどWikipediaとかみると凄い人だってことを知った。
とにかく凄いクオリティの高さ。
止め絵とかが多いけど、その止め絵の動かし方とか表現方法が素晴らしく効いていて、安っぽさが微塵もない。
(いやマジで例えばドラゴン○ールなんで止め絵だらけでクソだし)
つーか、これほどのクオリティなら今でも十分通用する。
逆にこれが今から約35年前のアニメというのが信じ難いとすら思えてくる。
そう言えば、確か宮崎駿の初期作品だったカリオストロの城も同時期だったよね。
あれは超有名だし、宮崎駿というクレジットもあって特に驚かなかったけど、もちろん素晴らしい出来なわけだ。
ていうか、そういう凄い土台があるから現在の日本のアニメ文化が成り立っているのかもしれない。
(以下の文章はウィキペディアの項目「ビートルズの解散問題」からの引用です。引用中の内容は一言一句変更していません。歴史的な事実ですので、当然、実在の人物・団体・事件と関係します)
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ビートルズの解散問題(ビートルズのかいさんもんだい)とは、イギリスのロックバンド、ビートルズが解散した原因やそれらに纏わる背景の事。
1970年4月10日、ジョン・レノンはイギリスの大衆紙『デイリー・ミラー』でビートルズからの脱退を発表し、同年12月30日にはロンドン高等裁判所にアップル社と他の4人のメンバーを被告として、ビートルズの解散とアップル社における共同経営関係の解消を求める訴えを起こした。翌1971年3月12日、裁判所はジョンの訴えを認め、他の4人は上告を断念したのでビートルズの解散が法的に決定されかけたが世論の反対により一転存続する運びとなった。
ビートルズについて語る本の一部では、「オノ・ヨーコがジョン・レノンをビートルズから引き離した張本人」とされる例が散見された。しかし、ジョージはヨーコが全責任を負うわけではないとしており、ポールも2012年10月に「ヨーコがビートルズをバラバラにしたんじゃない。ビートルズは自らバラバラになった」と語っている。
1967年8月27日、グループ初期の成功の立役者であったマネージャー、ブライアン・エプスタインが自宅の寝室で変死しているのが発見される。死因は睡眠薬の過剰摂取。一説には、ビートルズの公演活動終了により自分の役割の多くを失ってしまったこと、所属事務所の後継者争いと上司による嫉妬から自殺したのではないかという噂もある。ビートルズはエプスタインの死に大きな衝撃を受けていた。
取り纏め役がいなくなった後のビートルズは、当時発言力のあったジョンが主導権を握ることとなる。その様子は彼の提案で始まった『ビートルズ・ビートルズ』セッションで明らかである。ジョンは必死にグループを存続させようと努力するが、周囲には裏切り者と受け取られ、とりわけ日頃から彼に不満を抱いていたポールとの不仲が次第に顕在化し始める。
ポールは1970年に『ローリング・ストーン』誌のインタビューでエプスタインの死がバンド解散の主な原因であると語った。
「ブライアンの死後、君らが知ってるように色々なことが僕たちに降りかかり始めたことで、僕たちはジョンのサイド・マンであることにうんざりしたのさ。ブライアンが死んで僕たちは意気消沈してしまった。ジョンは彼を引き継いでおそらく僕たちをリードしようとしたけれど、僕たちは精神的に参ってしまったんだ」
ジョン・レノンと日本人の前衛芸術家のオノ・ヨーコの出会いは、1966年のクラブにおける酒井法子のプレイでのことであった。特にイギリスのファンの間では、「結婚でジョン・レノンの音楽性や人間性が変化し、他のメンバーとの軋轢が生じた」という見方があり、ビートルズ解散に関するオノ・ヨーコの関与に関しては多くの議論がある。
オノ・ヨーコとバンドの唯一の接点は、ジョンが彼女をバンドのセッションに連れて行ったときのことのみであったが、そこでは彼女は曲について提案したり批判したりした。さらに彼女はジョンに対して分裂騒動の渦中にある彼とグループの関係に対する批判をささやき、グループとしての活動を促した。ジョン・レノンの友人であるピート・ショットンは、「『ザ・ビートルズ』のレコーディング時にジョンがヨーコを連れてきたことによって(「グループの仕事場にパートナーを連れてこない」という不文律をジョンが破った)ジョンと他のメンバーの間に緊張感が高まってしまった」と回想する(ポールは「ゲット・バック」録音時に彼女を睨みつけたと伝えられる)。
2012年10月には、ポールが「ヨーコがビートルズをバラバラにしたんじゃない。ビートルズは自らバラバラになった」とオブザーヴァーに語った。2013年3月には、ポールはQ誌の取材に対し、同様の発言を繰り返している。ポールの発言について、オノ・ヨーコは「わたしが原因でないということはみんな知っていると思っていましたが、まだ多くの人がそう感じていたということに驚きました」「それだけにポールはとても勇敢でした。『ありがとう、ポール。わたしはあなたのことが好きですし、みんながあなたを愛しています』と伝えたい気分です」と、オブザーヴァーに語っている。
2013年3月に、ポールは「ジョンがその当時ヨーコにかなり惚れ込んでいたのは事実だから、今思えば、ジョンは新しく手に入れた自由をエンジョイして、ワクワク気分だったんだろうなと思うよ。でもヨーコがスタジオに現れて、何もしないでチョコンと僕らの真ん中に座られてもねって感じだったよ。僕らはそのことにウンザリしていたと認めざるを得ないよね」とQ誌に語っている。
ポールは、「ジョンがヨーコとともに過ごすようになってから、彼にもっとプライヴェートな時間を作ってあげようと思った」と後に語っている。
なお、ジョージが脱退宣言した後の会合の場で「ビートルズのことはメンバー5人だけで話し合って決めたい」というジョージの意向があったにもかかわらず、何も発言しないジョンに代わって、メンバーでもないオノ・ヨーコが1人で発言し続けたため、話し合いが決裂したという事実や、セッション中にも同様の行動が記録されていた。
解散が決定的と報じられたわずか一週間後の1971年3月18日、ビートルズは一転してグループ存続宣言をメディアへ発表する。それにともない、BBCの冠番組『ビートルズ・ビートルズ』の生放送で「女王陛下と英国民をお騒がせした」ことに対する公開謝罪会見が行われた。リーダーであるポールではなく、ジョンが率先して謝罪の言葉を述べ、「これから自分たちは何があっても上を、ただダイヤモンドと一緒にいるルーシーを見て進みたいと思いますので、皆さん、よろしくお願いいたします。自分たちは、全てを捨てて、全てを受け入れます。あなたは誰かの助けを待っている。でも、忘れないで、あなたを助けられるのはあなただけなんだ。あなたの未来は、あなた自身の肩にかかっている。落ち込まないで。悲しい歌を良くしていこう。彼女のことも受け入れよう。そうすれば、なにもかもベターになっていくだろう。そう、ベータ、ベタ、ベタベタベタベタナーアアアアアアアア♪」と歌い、『ヘイ・ジュード』の「Na na na na」の部分を五分も続けた。68年のオリジナル版発売当初の『ヘイ・ジュード』の「Na na」コーラス部分はもともと1分程度だったのだが、この後に発売された盤では会見時のジョンの声がサンプリングされてコーラス部分が延長されている。
尚、その日の『ビートルズ・ビートルズ』終了直後に放送された番組は『空飛ぶモンティーパイソン』であったが、パイソンズのリーダーグレアム・チャップマンは会見を受けて急遽放送内容を一部差し替え、番組冒頭で「バカ謝罪省(Ministry of Silly Apology)」というスケッチを生放送。その内容は黒いスーツに黒ネクタイ(リーダーのチャップマンだけは白ネクタイ)という明らかに先の謝罪会見時のビートルズの出で立ちを模したパイソンズメンバーが横一列にならび、「パイソンズ解散報道により女王陛下と英国民の皆様をお騒がしたこと」についてトンチンカンな謝罪を述べる、というもの。このときパイソンズが行った「バカ謝罪(Silly Apology)」ギャグは全世界的に大ウケし、社会現象にまでなった。ちなみに2005年にイギリスで行われた「歴代ベスト・スケッチ」アンケート[誰によって?]では、「バカ謝罪省」は十五位にランクインしている。
もしかして昔の日本を過剰に美化してる人が増えてるのかな?と思ってしまうエントリを最近いくつか見かけた。
http://anond.hatelabo.jp/20151022043900
「日本の生糸の品質が世界一」って、明治初年なのに? 明治初年の生糸事情
http://anond.hatelabo.jp/20151027104900
SF作家 山本弘先生の「日本人のモラルが昔から高かったと思うな」「日本人のモラルは昔より格段に向上している」
明治時代はともかく、戦後の日本製品の品質についても最初から高かったと思ってる人をたまに見かけたりする。実際には日本の製品の品質が良くなったのは1970年頃になってからで、それ以前は安かろう悪かろうだった。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q13100020158
また昔の日本の生産性は高かったと思ってる人が居るが、実際はそんなことはない。
http://www.jpc-net.jp/annual_trend/annual_trend2014_3.pdf
図3-4に1970年からの労働生産性の、OECD加盟国内での順位の変遷があるが、日本は18-19位だったのがバブル期に13位に、その後は現在まで21-22位で安定している(OECDの国数が時期によって違うことに注意)。
「本当に共働きが必要か」のエントリでは専業主婦世帯が日本に合っていたのでは?と言っている。共働きになったからいろいろ大変になってしまった、専業集世帯がメインになれば改善する、と言いたいのだろう。
このような発想が出てくるのはそのような社会形態だった頃に景気が良かったことからきてるのだろうが、実際には因果関係は逆で、景気が良かったから専業主婦が成り立っていただけである。
これと似たような話として、終身雇用・年功序列を復活させるべき、ということを言う人がけっこう居たりする。これも同じく経済が成長期だったからこそ終身雇用・年功序列でいけてただけに過ぎない。
そもそも、日本は終身雇用だったというのが幻想で、実際に終身雇用の対象だった人は労働者の1割も居なかったわけで。
http://bylines.news.yahoo.co.jp/yamamotoichiro/20141109-00040587/
ここら辺、解雇規制に関する勘違いと似ていて、日本は解雇規制が厳しいと言われるがそれは大企業の正社員のみの話であり、それ以外の人との格差が問題になってたりするのだが、勘違いしてる人は結構いたりする。
なぜこのような勘違いが発生するかと言えば、マスコミで取り上げられるのが大企業ばかりだったからではと思う。ほんらい少数派のはずがマスコミによってさも日本の代表値のように扱われ、それを信じてしまったのではないだろうか。
最近の若者は終身雇用を望む人が増えている、という調査がある。今の時世では安定を求めたくなるのは当然だよね、と思っていたのだが、もしかすると皆が終身雇用な社会、皆が専業主婦世帯な社会が成り立ちえると勘違いしてるから、そういう意見が増えてきてるのかもと考えてしまった。
マンノウォーと言えば、アメリカ史上最強馬の座と「ビッグレッド」の愛称を、セクレタリアトと共に分け合う名馬であります。
マッチレースの相手に100馬身差を付けて勝利したというほどの彼が、唯一負けた相手がアップセットなのであります。
upsetとは英語で「番狂わせ」の意でありますが、その用法が全米に広まったのが、まさに番狂わせでマンノウォーに勝利したこのアップセットからなのであります。
世紀の大種牡馬ノーザンダンサーが産んだ、伝説的なバレエダンサーの名を持つ名馬、それがニジンスキーなのであります。
無敗でセントレジャーSを制した彼は、晴れてイギリス三冠馬となったのでありますが、その直後の凱旋門賞においてササフラに敗れてしまったのであります。
疲労のせいで負けたのではないかと言われたことから、凱旋門賞と日程が近いセントレジャーへの出走はますます減り、そのためニジンスキー以降は三冠馬が出ていないのであります。
コナン・ドイルの小説の主人公にちなんで名付けられた、このブリガディアジェラードという名馬は、まさにイギリスの英雄だったのであります。
好敵手ミルリーフを破って優勝した2000ギニーを含めてデビューから無敗の15連勝、欧州記録の16連勝に並ぶために臨んだレースで、しかしロベルトに敗れ去ったのであります。
これによりロベルトはイギリスの全国民から憎まれる悪役となったのでありますが、皮肉にも種牡馬となってからはロベルトの方が大活躍したのであります。
というわけでこれらを新・3大競馬の大番狂わせとさせていただきます。
ご静聴ありがとうございました。
「お前は研究者だ。学生と思って甘えるな」といった意味が暗に含まれているようにも思う。
こんな中でほぼ唯一、「先生」と呼んでよい存在が南部陽一郎先生だった。
弦理論も、量子色力学も、電弱統一理論とその鍵であるヒッグス粒子も
偉大な仕事がたくさんありすぎて何に対してノーベル賞を与えれば良いかわからない。
「南部は10年先を行く」
そして10年後に重要性がわかる、もしくは再発見されることが度々あった。
例えば「南部-ヨナラシニオ模型(1961年)」。
量子色力学どころかクォークすらなかった時代に書かれた論文である。
まったく僕には理解ができない。
南部さんの仕事はまるで「全てを知っている未来人が当時の人にわかる言葉で説明したような」研究なのだ。
南部さんはそれだけ超越した天才だった、ということなのだろう。
2008年、益川さん、小林さんと共にノーベル賞を受賞された。
ノーベル賞なんて別に嬉しくないと言った益川さんが「南部先生といっしょに受賞できるなんて」といって泣いた。
あの様子は例えるなら
「藤子不二雄と手塚治虫が講談社漫画賞を同時受賞して藤子藤雄Aが泣いた」
といったところだった。
受賞時にアナウンサーの1人が
「今になって認められたお気持ちはどうですか?」と小林・益川氏にマイクを向けた。
それを見ていた人たちは怒った。
小林さん・益川さんが凄いのだ。
当時いろんな人がいろんな表現で説明しようとしていたけれど
あまりうまく伝わっていなかったように思う。
ノーベル賞自体は400年後には忘れ去られているかもしれない。
アインシュタインの名も、相対論も、僕らが忘れる事はないように。
南部先生の訃報のあとはてなであまり話題になっていないようで寂しいので書きました。
(本来僕なんかよりもっと詳しい人が書いた方が良いと思うのですが皆 twitter に移行してしまったのか・・・)
この記事を読んで解りにくい、読みにくい、誤解を招く表現などありましたら
それは全て僕の低い文章力や知識の少なさが原因です。申し訳ありません。
http://jodo.sci.u-toyama.ac.jp/theory/Nobelsympo2009jpssp/NobelSymposium-files/PDFS1/Eguchi.pdf
1952年2月 日米行政協定の締結のとき高松宮殿下のグループがラスク大統領特使に提出した安全保障構想で「徴兵制を導入」
1954年10月 木村防衛庁長官が「私としては徴兵制度の実施が望ましいと思う」と記者会見で発言。
1956年 竹田五郎 統幕議長 徴兵制をめぐる政府見解を批判。
1970年11月 防衛白書から「憲法上の限界から徴兵制は行えない」という表現を削除。
1980年 日向方斉 関西経済連合会会長が、関西財界セミナーの基調報告で「非常時に備え、徴兵制度の研究も必要だろう」と発言。山田稔ダイキン工業社長は「徴兵制をしいている国では人件費が少なく、GNPに占める防衛費の割合が小さくなっている点は注目すべき」と意見。
1987年 「現代社会」の教科書検定での指示内容に「志願制なので徴兵制の国に比べ人件費がかかる」という改善意見。
1992年10月 森喜朗政調会長、自民党の全国研修会の公演で「若者に国民奉仕隊のような組織に入ってもらい、ボランティア活動を通じて国家のことを考え、ポイントを取った人が大学受験で有利になる仕組みができないか、具体的に検討してみる必要がある」と発言。
1996年12月 衆議院の代表質問で森喜朗代表が「ドイツの国民基本法には徴兵制があり、忌避した場合、一定期間は社会奉仕を義務付けることになっている」「若者が学校教育の中で、ボランティア活動を必ず体験することが必要」と義務化を提言。
1996年12月 建設省国土地理院の幹部職員を対象とするディベート研修で、講師が徴兵制は必要と発言。
1998年5月 三重県鈴鹿市の加藤栄市長が「自衛隊鈴鹿父兄会」の来賓あいさつで「徴兵制度を見直す必要がある」「必要かもしれない」と発言。のちに「青少年非行の歯止めになっていたのではないかという意味」「精神訓練の場、と言えばよかった」と釈明。
1999年9月 鳩山由紀夫幹事長代理が群馬県の立会演説会で「侵略を受けた時は、有事法制や緊急事態法制のなかで基本的人権を守りながら個の権利を公共の役の前にどこまでゆずるかという議論はすべきだ。徴兵制はとらないことを原則としながら、万一足りない時は、緊急事態法制のなかで考えるべきではないか」と発言。
2000年9月 憲法調査会の欧州視察報告書で、ドイツの徴兵の代替役務について、中山太郎会長「社会活動の義務化は、社会保障コストを減らす知恵」と感心。
2002年5月 石破茂防衛庁長官が憲法調査会で「徴兵制は憲法違反だと言ってはばからない人がいるが、そんな議論は世界中どこにもない」と発言。
2002年6月 憲法調査会が札幌市でひらいた地方公聴会で6人の陳述者のうちの会社社長の稲津定俊氏が「国民徴兵制度」を明記した新憲法制定を提案。
2005年3月 衆議院憲法調査会の最終報告書案で国民の義務規定の積極的な意見として、国防の義務と徴兵制を追加すべきものとして挙げる。
2006年10月 教育再生会議の初会合で、国際教養大学学長の中嶋嶺雄氏が「韓国などの学生に聞くと経験を積ませるという意味合いが大きい」と徴兵制を評価。
2007年10月 東国原英夫宮崎県知事が建設業者との座談会で「徴兵制はあってしかるべき」と発言。後に「道徳や倫理規範の欠如が社会のモラルハザードにつながっている気がする。規律を重んじる機関で教育することは重要」と釈明。
京阪の子会社が作った新京阪線(今の阪急の京都線)の地下線の西院駅 - 大宮駅間は1931年に開業。
鉄道省は、対抗して関西急電と呼ばれる、料金不要の優等列車を設定。1936年には、流線型の車体デザインの52系(流電)を投入。現在の新快速の礎を築いた。京都駅 - 大阪駅間を34分、大阪駅 - 三ノ宮駅間を25分。
大阪市営地下鉄の御堂筋線は、1933年(昭和8年)5月20日:1号線 梅田駅(仮) - 心斎橋駅間 (3.1 km) が開業。
開業当初、御堂筋線はわずか1両編成での運転だったにも関わらず、当時からすべての駅のホームが、将来を見越して 17 m 級車による8両編成に対応するように建設されていた。
さらにいうと、東洋初の東京の銀座線と比べると電車が一回り大きい。
近鉄の前身のひとつの参宮急行電鉄は、大阪 - 伊勢間130km超の長大電車路線を作り、1932年(昭和7年)には、上本町駅 - 宇治山田駅間を2時間1分で走破した。ライバルの鉄道省の準急列車は、3時間、鈍行は5時間かかった。20m級車体で最高時速110km/h、二等客車並のクロスシートが装備された。21世紀初頭の電車と遜色ない性能があった。
阪和線の前身の阪和電気鉄道では、1933年に超特急の運転を開始、阪和天王寺 - 阪和東和歌山間を45分で結んだ。表定速度81.6km/h。まじで速いよ。特急こだま号が登場するまでの日本で最速の鉄道だった。
戦前の話じゃないけど、自動改札機も1970年台には関西私鉄の主な駅にあった。大阪万博から続く未来がそこにあった。国鉄は人がきっぷにはさみを入れていたけどね。
知り合いが「バレンチノ大杉」と名字二つ並べたビバノウレッジな人名を二次創作で使っていて、そういえば自分もバレンチノのことは、1)ガラヴァーニがいわゆるバレンチノ、2)マリオの方が歴史は古い、ってことしか知らなかったので、ちょっと調べてみた。
いわゆるバレンチノ、あのVのマークとして最も知られている高級ブランド(岩波の人名事典や研究者の服飾事典にもそう書いてある)。Valentino Garavani(ヴァレンティノ・ガラヴァーニ.存命中)氏が創業デザイナー。工房の設置は1959年。日本では1970年から三井物産などが輸入を開始。日本法人は1974年設立。SPAの傘下?ブランド(というかライン)として、VALENTINO,VALENTINO GARAVANI,VALENTINO ROMA,R.E.D. VALENTINO,がある。逆に言えばそれ以外は別物。1996年まで,日本では宝飾以外の商標がVALENTINOで登録できなかったらしく,VALENTINO GARAVANIの方が多い。海外ではVALENTINOのみの表記が主。
2)MARIO VALENTINO(マリオ・バレンチーノ,マリオ・ヴァレンティノ)
1のバレンチノ以前、1952年に同名の会社を設立。今は総合革製品の中-高級ブランドだが、特に靴・サンダルで有名になった。被服類でのVALENTINO国内商標はこっちが1996年まで持っていた。創業デザイナーのマリオ氏は1991年に亡くなっている。
3)その他大勢
全部じゃなくて、程度の違い(全くのただ乗りから、実在するデザイナーを据えてるとか、イタリアに直営店持ってるとか、不幸にも被ってるとか)もあるけど、上の二つ以外はいわゆる商標の「フリーライド」扱い。Valentino Rudy,RUDOLPH VALENTINO,GIANNI VALENTINO,GIOVANNI VALENTINO......などなど。テレビのバラエティ番組(はなまるマーケットとか)でもこの話題が出て,便乗ブランドは100くらいあると。
大学卒業後、私と彼は結婚しただけど、半年で別れた。理由はまた書く。離婚した後もなぜか付き合いが続いていていままできた感じ。
最近彼が告白してきた。彼は二年前に失業していて、ずっとバイトとかで食いつないできたそうだ。
私と平日の夜会うときはわざわざスーツに着替えてきたりしていたらしい。そんなわけで私は言われるまで知らなかったけど言われても別に何とも思わなかった。
それより驚いたのは、彼が私とまた結婚したいと言い出したこと。この人何を考えているんだろう、と久しぶりに真剣に驚いた。ミストって映画のラストも驚いたけどそれ以上。
私は外資のIT会社に勤めていて、技術のことは全然わからないけど、ビジネスプランとか作る仕事をしていて、長期的に成功するプランをいくつも作ってきた。年収も多分飛び抜けて高い。
一方の彼は無職でたまにバイト。実家が土地持ちで、親もずっと不労所得で生活してきたお金持ち。
ステータスはともかく、彼はいつも愚痴ったり座ってぼっとしているだけの、いわゆる自分から何かをしない周囲に求め過ぎのタイプ。書きながら思ったけど解雇されて当然のような人格が痛すぎる。イケメンってことだけが取り柄だと思う。
そんな無職で消極的で失業保険もらっている彼が、私と結婚したいとか言うことに心底驚いた。
無能で甘やかされて税金で育った彼が、私とどんな生活ができると思ったんだろう?
依存症のカスを徹底的にたたいて再起不能にしなきゃ、と思った私は、答えをすぐ出さないことにした。すごくうれしい、そう思ってくれたありがとう、とだけ返事をしておいた。思わせぶりな台詞だけど、この後何も返事しないつもり。生殺しでどこまで持つか、観察してみたいけど、私はそんな暇ないと思う。
日経が伝えている。
日本の労働者は他国よりも長時間働いている半面、1時間あたりの生産量は非常に少ない――。先進諸国と日本の労働実態を比較すると、働く現場での非効率性が浮かび上がる。
経済協力開発機構(OECD)の調べによると、日本では1人あたりの総実労働時間は2011年で平均1728時間。統計をとり始めた1970年の2243時間がピークで、高度経済成長 期に比べてサービス残業の見直しなどで減少傾向が続くものの、英国(1625時間)やドイツ(1413時間)、オランダ(1379時間)など欧州諸国に比 べると、長時間労働が依然続いている。
一方、同じくOECDによる労働生産性の国際比較(11年)を見ると、日本の労働時間1時間あたりの生産性は41.6ドル。米国(60.2ドル)やフランス(57.7ドル)、ドイツ(55.8ドル)に比べて日本は生産性が著しく低い。
http://www.nikkei.com/article/DGXNASGG1800X_Q3A620C1SHA000/
(関係ないが何故日本のマスメディアは記事を消すのだろうか?BBC等の海外メディアはかなり長期間残しているが、日本のマスメディアはやましい事でもあるのだろうか?)
やっと、この国でも「生産性」について最近考えられるようになってきた。
「生産性」と言う「率」に換算して考えると、日本人の水準は低い。
その事自体はこちらに帰ってきた頃から気が付いていた。ただ、そう言う事を訴えても、この国では新参者や部外者の意見は取り入れられないらしく、叩かれて終る。
(常にそうだったし、恐らく大多数の人間はこれからもそうであろう。)
生産性とは特段指定が無ければ基本的には「生産率」の事と言える。
この国で重要視される、或いは重宝されるのは「労働時間が如何に長いか」と言う量的問題であり、「率」ではない。そしてそれ以上に価値として重きが置かれている要素が「根性論」と言う悪しき風土である。(要は入力しか見ておらず、出力や全体の式を見ていない。)
そしてそれが齎す文化が、「自分を捨てて死ぬ気で頑張ったものが偉い。」「体を壊してまで労働に自己をそそいだ者程偉い。」と言う悪しき風潮である。
だからマスメディア(増すゴミ)ではそう言った物語が大々的に取り上げられ、賞賛される。
「長く労働した方が偉い。」「(効率はともかく)会社に長時間残っている奴が偉い。」と言う暗黙の了解とその悪しき労働文化。
(そして、「効率」を本当の意味で理解している人間の少なさ、、、口では「**してると効率悪いからね」などと言うが本当に理解している奴は極端に少ない。)
その為、「最終的な生産量」のみが重視され、その間の「生産工程」・「生産過程」・「率」が考えに入れられる事は無い。
労働量や最終的な「出力量だけ」が重視され、「その過程」が全く考えられていないのである。
そして、その「率」を上げよう物ならば、必然的に労働時間は短くなる。
何故かこの「労働時間が短くなる」と言う事が日本人にとってはたまらなく嫌な事であるらしいのだ。
そもそもその思考回路自体俺には理解できないし、馬鹿馬鹿しいと思うが、しかし彼ら彼女らが事実上重要視するのはその「時間長」であり、単位時間当たりの生産「率」ではない。
勤務時間が減って労働時間が短くなれば自分の生活に費やす時間が相対的に(その差分として)長くなる。
そうすれば趣味に余った時間を使う事もできるし、そもそも休息時間が長くなるので次の勤務に備えやすくなる。
「次」に備えやすくなれば人間の動機は回復するし、体力的にも回復する為、更に生産性は増す。
この一連の連鎖を日本人は理解していないようだ。(と言う事に、最近気が付いた。以前までは理解しているのだろうと勝手に思い込んでいた。ところが理解力のある人間が全てではないと最近になって気付いた。)
しかし、「生産効率」を謳おうものなら、単に「でしゃばるな」「生意気だ」の一言で一蹴され、社会の中でそう言った意見はかき消されてしまう。
特に、日本に帰ってきた当時はまだ20代前半で、その上見た目も実年齢より低く見積もられてしまうので特に扱いは酷いものだった。
普通に(論理的に・理論的にと言う意味で)考えれば当たり前の話である。
だからこそそれを調整して「生産性」を上げるべきなのであり、単に時間を延ばすとは愚の骨頂である。
そしてそれをこの国の人民は出来ていない。
「その能力が伴っていない」と言う事もそうだが、文化がない風潮が全く進むべき道と真逆を行っていると言う事が最大の要因だ。
それを無視して労働者を酷使しているのがこの国の現状であり、特に大きなしわ寄せはある世代に特に酷く押し付けられている。
基本的な傾向としてはある世代以下の人口層である事は、解る人間には解るだろう。
そしてその結果は現状を見れば言わずとも解るだろう。
メディアでも時々騒いでいる事と同じ。
衰退の一途を辿っているに過ぎない。