はてなキーワード: ひも理論とは
解像度を上げるには膨大なエネルギーがいるが、地球の外周ぐらいの長さの加速器ではひも理論の検証には不十分
これを考えると、「じゃあエネルギーが無限にあれば無限小の理論が実現できるのか?」という話になるが、無限のエネルギーなんてもんがあるのか?
そんなものがないのだとしたら、人間のもつ解像度じゃ離散スケールの中で生きているってことになるよな?
では時空はどうだ?これは離散的なものなのか、って話になる
そもそも、観測によってズームインしていけば際限なく拡大できると考えるなら、空間も時間も無限に観測できるという話になる...と一見すると思われる
最近、我が老境において、喜びの種となりつつあるのは、ビックバンセオリーを眺めることでござる。
インテリ気取りのオタクの愚痴っぽい振る舞いが、滑稽さを誘い出し、わが老眼に微笑みをもたらす次第である。
シェルドンなる輩は、ひも理論の奥深さに耽溺し、しかもデニスキムの出現以来、中東問題解決と称して、何やら意味不明な提案を披露し、微妙に差別的な言葉も交えておる。
年を重ねても理解に苦しむ世の謎は尽きることなく、これが老いというものかと、我が老いびれた心に感じ入りたり。
さて、余は昔より数学の魅力に惹かれ続けてまいりました。
あまりにも純粋な数学よりも、応用数学の方が余には心地よいものでござる。
したがって、利潤を最大化させんが為に必要な推薦システムの機巧に興味を抱く次第でござる。
ユーザー、プロバイダー、システムの三者関係を形式化し、マルチステークホルダー問題として考察すれば、トレードオフの難しさが浮かび上がってくる。
システムの運用を最適化すればするほど、マッチングの機会均等性が損なわれるという難しい事態が生じる次第でござる。
この機会均等の欠如が引き起こす長期的な悪影響として、プロバイダーの離脱が挙げられる。
しかしながら、絶妙な場合では単価競争が巧みに行われ、我が利益も増進するであろう。
サービスの価値が低ければ低いほど、プロバイダー離脱の危機が高まる。
なぜなら、サービスそのものが他社と競争しており、「そんなに高いなら他のところへ行きます」との言葉が飛び交うのでござる。
故に、効用だけでなく、公平性も見逃すべからざる重要な要素となる次第でござる。
話は変わり、老齢においても脳の活性化を促す趣味を模索しておる次第でござる。
何よりも自分が楽しむことが第一であるが、たとえばチェスとヨガを比較し、どちらがボケを防ぐに効果的かを考察せざるを得まい。
多くのエビデンスが示す通り、運動は脳の活性化に寄与するものである。
まあ、美しいお尻を手に入れることを目指してみるのも悪くはないかもしれぬな。
アルバート アインシュタインが一般相対性理論で説明したように、大規模なスケールでは重力が時空構造の曲線のように見えるように、重力を自然の量子法則に適合させるという非常に困難な仕事を担っている。
どういうわけか、時空の湾曲は、重力エネルギーの量子化単位、つまり重力子として知られる粒子の集合的な影響として現れる。
しかし、重力子がどのように相互作用するかを単純に計算しようとすると、無意味な無限が生じ、重力についてより深く理解する必要があることがわかる。
M理論は、宇宙のあらゆるものの理論の有力な候補としてよく言われる。
しかし、それについての経験的証拠や、重力が他の基本的な力とどのように統合されるかについての代替アイデアはない。
この理論は、重力子、電子、光子、その他すべてのものは点粒子ではなく、さまざまな方法で振動する、目に見えないほど小さなエネルギーの「糸」であると仮定していることは有名である。
1980 年代半ばに弦理論への関心が高まり、物理学者は弦理論が量子化重力の数学的に一貫した記述を与えることに気づいた。
しかし、ひも理論の既知の 5 つのバージョンはすべて「摂動的」であり、一部の体制では破綻することを意味していた。
理論家は、2 つの重力子の紐が高エネルギーで衝突したときに何が起こるかを計算できるが、ブラック ホールを形成するほど極端な重力子の合流がある場合には計算できない。
その後、1995 年に物理学者のエドワード・ウィッテンがすべての弦理論の母を発見した。
彼は、摂動弦理論が一貫した非摂動理論に適合することを示すさまざまな兆候を発見し、これを M 理論と名付けた。
M 理論は、異なる物理的文脈におけるそれぞれの弦理論に似ているが、それ自体には、すべての理論の主要な要件である有効性の領域に制限がない。
2 年後、物理学者のフアン・マルダセナが AdS/CFT 対応関係を発見したとき、別の研究が爆発的に起こった。
これは、反ド シッター (AdS) 空間と呼ばれる時空領域の重力を粒子の量子記述 (と呼ばれる) に結び付けるホログラムのような関係である「共形場理論」がその領域の境界上を動き回る。
AdS/CFT は、AdS 時空幾何形状の特殊なケースに対する M 理論の完全な定義を提供する。
AdS 時空幾何形状には負のエネルギーが注入されており、私たちの宇宙とは異なる方法で曲がる。
このような想像上の世界では、物理学者は、原理的にはブラック ホールの形成と蒸発を含む、あらゆるエネルギーでのプロセスを記述することができる。
この基本的な一連の出来事により、ほとんどの専門家は M 理論を有力な TOE 候補とみなすようになった。
ただし、私たちのような宇宙におけるその正確な定義は依然として不明である。
それが想定する文字列、およびこれらの文字列が動き回ると思われる余分なカールした空間次元は、大型ハドロン衝突型加速器のような実験が解決できるものよりも 1,000 万分の 1 倍小さい。
そして、宇宙ひもや超対称性など、見られたかもしれない理論の巨視的な兆候のいくつかは現れていない。
一方、他の TOE アイデアにはさまざまな技術的問題があるとみなされており、重力子-重力子散乱計算など、弦理論による数学的一貫性の実証を再現したものはまだない。
遠い競争相手には、漸近的安全重力、E8 理論、非可換幾何学、因果フェルミオン系などがある。
たとえば、漸近的に安全な重力は、無限に悩まされる計算を解決するために、より小さなスケールに進むにつれて重力の強さが変化する可能性があることを示唆している。
大学生になったばかりの若者が必ずする行いは「科学とはなにか」とググることだ。そして「反証可能性」「科学的方法」といったWikipediaの項目にたどり着く。もっと深く知りたいと思った人はさらなる文献を調べる。その知識に感化されすぎて、Twitterで非科学的な(と本人が思い込んでいる)言論を見つけるやいなや「お前たちの言っていることはエセ科学だ」と言い始める。
この段階を、科学のレベル1理解と仮に呼ぶしよう。確かに科学について全く興味のない、学んだことすらないというレベル0理解よりは進歩しているかもしれないがまだ「レベル1」である。
レベル2理解とはどういうものになるだろうか。私がそれについて見解を述べる前に「レベル1を超えるためには」という自問をしてみてもいいかもしれない。
私が思うに、レベル2とは「自然法則を発見しようとする態度」だ。どっかの自称サイエンティストは「汎化性能」とか「再現性」とかいうかもしれない。ただ、それらは「自然がどうなっているか」ということとは直接関係しているわけではない。単に、人間の仮説に対して統計というアプローチを採用しているだけだ。
科学に統計ではないアプローチがあるとすると何なのか。そこがレベル2に到達するための関門と自分は思っている。ショーン・キャロル教授は「宇宙とは、ヒルベルト空間におけるベクトルである」という仮説を述べている。それではこの仮説はどこから来たのか。それは、エヴェレット解釈がオッカムの剃刀的に機能し、コペンハーゲン解釈よりも仮定がシンプルであることから来ている。何かを統計的に判断するよりも前の段階で、まだ人間が発見していない自然法則を見つけるためには仮説そのものを見つけるセンスが要るのだ。
そのような仮説の多くは数理理論から来ている。「物理学者は数学と現実を混同している」と揶揄する人もいるが、私が今書いているような自然言語よりも数学のほうが簡単だ。賢いから数学を使うのではなく、我々人間が愚かだから、数学を使わなければまともな仮説が見つからないのだ。
つまりレベル2理解とは、数理モデル化によって、まだ見つかっていない自然法則に関する仮説を見つけることだと私は考える。物理学の数理モデルは機械学習モデルとは少し違う。機械学習モデルの目的は予測だけだが、物理学上の数理モデルは現象を理解することに焦点がある。ひも理論が「我々の宇宙の物理定数の値がなぜこうなっているのかわからないから、あらゆる定数値が可能だと仮定してみよう」といって、10^500ものバリエーションの宇宙が可能であることを数理的に示しているが、このような「理論から演繹的に見つかった仮説」というのは汎化性能のことを目指したのではない。
そういう仮説に対して「反証不可能だからエセ科学だ」と言う人もいるが、なぜ「反証不可能」だとわかったのだろうか。「数理的にこういう仮説が演繹された。将来的にそれが観測されるかもしれない」という想像力さえあれば、彼はレベル1理解を脱出することができただろう。「科学とエセ科学の境界」というものについて科学者ですら認識が異なるというのに、何がエセ科学であるのかについて100%の確信を持っているというのは、ケツの青い証拠である。
しかし悲しきかな、そのようなケツの青い青二才、つまりレベル1理解のほうが圧倒的多数であり、またレベル0理解はその人数を超えている。レベル1理解の者(IQに喩えるなら100の者)から見れば、レベル0とレベル2は両方とも馬鹿に見えるものだから、境目なく「エセ科学」と言って弾圧をし始める。
「その仮説を俺は疑っている」「その仮説は反証された」「その仮説は反証不可能である」「その仮説が反証可能なのかどうなのかはわからない」「その仮説は、特定の仮定から数学的に演繹された」ということを少なくとも区別したほうがよい。間違っても「その仮説はなんとなくエセ科学っぽい胡散臭さを感じるから弾圧しよう」などという非科学的な態度は取らないほうが良いだろう。
出てくる人物どいつもこいつもみんな物理屋。そしてみんな頭がおかしい。
主人公が物理屋ということで画面のそこかしこに数式が登場するのだけれどもこれがずいぶん凝っています。
以下6話まで視た感想です。
QCD(量子色力学)の漸近的自由性の証明です。2004年ノーベル物理学賞。
(6話より)
ホワイトボードに書いてある数式は QCD のベータ関数の計算です。
彼女が数式を修正した後は β<0 になっています。これはQCDが漸近的自由性を持つ理論であることを意味しています。ちなみに部屋の左隅にある小さなホワイトボードにはQCDの真空偏極による反遮蔽効果のイメージ図が描かれています。こちらも漸近的自由性に関する図です。
どうやらこの世界ではまだQCDの漸近的自由性が証明されていないようです。それではいったいいつ頃なのでしょうか?
何話か忘れましたが カビボ小林益川行列 がホワイトボードに描かれている回がありました。時系列順に並べてみましょう:
どうやらシェルドンたちがいるのは1973年の世界のようです。
史実によるともうすぐウィルチェック達が論文を出してしまうはずなのですが・・・?
ひも理論は一般の方向けの翻訳で、本来の訳は弦理論(げんりろん)です。 String Theory = 弦理論
さて、本題に入りましょう。シェルドンは弦理論屋なのでしょうか?
実は6話まで弦理論らしきものが出てきません。ずっと場の量子論を計算しているのです。
しかもこの時代は1973年です。この時代にいた弦理論屋とは何者なのでしょうか?
というのも、弦理論はもともとハドロンを記述する模型として研究されていたものだからです。現在のように弦理論が究極理論候補と考えられるようになったのは1984年の第一次ストリング革命以降の話です。時代背景を考えるとシェルドンは南部後藤の弦でハドロンを研究していると考えるとしっくりきます。彼がQCDを研究する理由も、ボスがハドロン8重項をホワイトボードに書いているのもこれで理解できます。彼の研究対象はハドロンなのです。
もっと直接的な証拠があります。第1話でこのような会話をしています: (https://www.youtube.com/watch?v=AF58gWwHOwY)
26次元と言っています。これは面白いですね。もし現代の弦理論屋さんに「この世界は何次元ですか?」と聞くと10次元、もしくは11次元と帰ってくるのではないでしょうか。
現在の弦理論屋さんが研究しているのは超弦理論(10次元)やM理論(11次元)、そしてシェルドンが研究しているのは南部後藤の弦(26次元)なのです。
この時代において世界は26次元だと言い切るのはなかなかヤバい人ではないでしょうか。
先ほど書いたように弦理論が脚光をあびるようになったのは1984年以降です。
1973年は弦理論の暗黒期だったはずです。当時は弦理論は欠陥があると考えられていました。
米谷さんやシュワルツの重力子の論文が1974年であることを考えてもシェルドンはぶっ飛んでいるように思います。
先ほど紹介したシーンでは「世界は26次元だ」と主張するシェルドンは頭がおかしいと思われているようです。一方で現代の視聴者は、別に彼はおかしなことは言っていないことを知っているのです(26かはともかく)。この辺りの捻れが面白さを生んでいるように思います。
頑張れシェルドン!早く論文出さないとウィルチェック達に先越されちゃうぞ!
なんとも味わい深いコメディです。
1冊で人生が変わるなどと思うな、と誰かがお説教していた記憶があるので、
あなたの人生に一番インパクトを与えた1冊を教えて下さいませんか。
ジャンル不問!
(でもあんまり高価すぎない本のほうがいいかも。Kindleの本でもダイジョーブです)
- 城平京『名探偵に薔薇を』
- 筒井康隆『エディプスの恋人』(『家族八景』『七瀬ふたたび』)
- ティムール・ヴェルメシュ『帰って来たヒトラー』
- 沼正三『家畜人ヤプー』
- レオナルド・サスキンド『宇宙のランドスケープ 宇宙の謎にひも理論が答えを出す』
- 佐藤優『国家の罠―外務省のラスプーチンと呼ばれて』『獄中記』
- 岩波文庫編集部『世界名言集』
- リチャード・ドーキンス『利己的な遺伝子』
- 蓮實重彦『反=日本語論』
- 宮崎駿『風の谷のナウシカ』(全7巻)
- 谷崎潤一郎『春琴抄』http://www.aozora.gr.jp/cards/001383/files/56866_58169.html
- ジェスパー・ホフマイヤー『生命記号論―宇宙の意味と表象』
- ウィリアム・フォークナー『アブサロム、アブサロム!』
- オリヴァー・サックス『火星の人類学者―脳神経科医と7人の奇妙な患者』
- 中島らも『ガダラの豚』
- 孫武『孫子』http://www.nhk.or.jp/meicho/famousbook/31_sonshi/
- 鷹家秀史『英語の構文150―UPGRADED 99 Lessons』??
- 石川正明『化学の発想法―原点からの化学シリーズ』
- 渡辺次男『数学I(なべつぐのあすなろ数学)』
- 山本周五郎「橋の下」(『日日平安』所収)
- ロバート・B・チャルディーニ『影響力の武器―なぜ、人は動かされるのか』
- 遠藤周作『沈黙』
実際に読み始める前の期待に胸膨らませてるこの感じのほうが好きかもしれません。
横ですが
少なくとも素粒子のまともな研究者が核融合などにトンデモな扱いをしてるのは見たことが無いですが。。。
人数が多い、と言うより一つのプロジェクトに加わってる人数が圧倒的に多いですね。
大半が素粒子論を研究しつつ加速器実験もしているのかと思っていました。CERNの人たちも加速器実験の研究者ということなのですね。
全くそんなことはありません。物理の世界が物性などもある、という話も出てましたが、素粒子の中でも加速器だけではありません。(まあ実験の半分くらいが加速器関連、と言っても過言では無い状態にはなってますが。)
ただ、素粒子、と言っても「宇宙物理」も含めて良いならまた違った実験も沢山あります。
それから、物理の世界では「実験屋」と「理論屋」が完全に分かれています。
ですので、ここでひも理論とかと言っている「理論屋」に関して言えば、加速器どうこうははっきり言って殆ど関係ありません。
というのも、今の実験では検証できない様なレベルの先の話をしているので。。。
理論屋の中にも「現象論屋」と言う人がいて、この人達は純粋な理論から実際に今の実験でどう見えるか、を考える人達で、
この分野には近年加速器関連に流れた人は多かったと思います。(とは言っても「CERNで実験をしてる人たち」とは全く別、パートナーみたいな関係)
大半が素粒子論を研究しつつ加速器実験もしているのかと思っていました。CERNの人たちも加速器実験の研究者ということなのですね。
なので素粒子論の理論屋かつ実験屋、なんて人はまず居ません。それだけそれぞれが専門化しています。
ニュートンや日経サイエンスの物理の記事は結構読んでますが(特に特集は)素粒子関連がかなり多いですね。もっと物性などを取り扱って欲しいですね。個人的にQCDをやる予定はないので、素粒子は現在関心が低めです。
そんな事は決してないと思いますが、たとえばLHCは建設だけでも10年以上かけていますし、建設にかけたお金、人は尋常なものではありません。
動かすにも電気代、また人件費等合わせるとトンデモない額です。
ですので、そこから一つ結果が出るということは、それだけ大きな結果な訳で大きく扱われるのは当然です。(というか、扱われない様な結果しか出さなかったら大変なことになる。。。)
ただ、サイエンスなどの記事になるのは実際に出されてる論文のホンノ一部です。
恐らく、記事/論文数を他の分野と比べればむしろ低くなる位かと思います。それだけ沢山結果を出していますし、出さないといけません。
インパクト、と言う意味では、やはりいちばん基礎の部分をやっているので、「神の粒子」だとか、話を「盛れる」所があって、
記事としてはインパクトが大きいので、そればかり、と言う印象はあるのかもしれません。
逆に、そのような話にしないと余りに基礎過ぎて一般向けにはホントにわけが分からない、と言う感じになってしまう、という点も。
とおっしゃってますが、「計算が大変」といっているのは格子QCDのことだと思いますが、格子QCDは純粋な素粒子論と言うよりどちらかと言うと物性に近い分野の話です。(ちょっと過言かもしれませんが)
「お前は研究者だ。学生と思って甘えるな」といった意味が暗に含まれているようにも思う。
こんな中でほぼ唯一、「先生」と呼んでよい存在が南部陽一郎先生だった。
弦理論も、量子色力学も、電弱統一理論とその鍵であるヒッグス粒子も
偉大な仕事がたくさんありすぎて何に対してノーベル賞を与えれば良いかわからない。
「南部は10年先を行く」
そして10年後に重要性がわかる、もしくは再発見されることが度々あった。
例えば「南部-ヨナラシニオ模型(1961年)」。
量子色力学どころかクォークすらなかった時代に書かれた論文である。
まったく僕には理解ができない。
南部さんの仕事はまるで「全てを知っている未来人が当時の人にわかる言葉で説明したような」研究なのだ。
南部さんはそれだけ超越した天才だった、ということなのだろう。
2008年、益川さん、小林さんと共にノーベル賞を受賞された。
ノーベル賞なんて別に嬉しくないと言った益川さんが「南部先生といっしょに受賞できるなんて」といって泣いた。
あの様子は例えるなら
「藤子不二雄と手塚治虫が講談社漫画賞を同時受賞して藤子藤雄Aが泣いた」
といったところだった。
受賞時にアナウンサーの1人が
「今になって認められたお気持ちはどうですか?」と小林・益川氏にマイクを向けた。
それを見ていた人たちは怒った。
小林さん・益川さんが凄いのだ。
当時いろんな人がいろんな表現で説明しようとしていたけれど
あまりうまく伝わっていなかったように思う。
ノーベル賞自体は400年後には忘れ去られているかもしれない。
アインシュタインの名も、相対論も、僕らが忘れる事はないように。
南部先生の訃報のあとはてなであまり話題になっていないようで寂しいので書きました。
(本来僕なんかよりもっと詳しい人が書いた方が良いと思うのですが皆 twitter に移行してしまったのか・・・)
この記事を読んで解りにくい、読みにくい、誤解を招く表現などありましたら
それは全て僕の低い文章力や知識の少なさが原因です。申し訳ありません。
http://jodo.sci.u-toyama.ac.jp/theory/Nobelsympo2009jpssp/NobelSymposium-files/PDFS1/Eguchi.pdf