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2016-01-20

ビートルズの解散問題wikipediaより)

(以下の文章ウィキペディアの項目「ビートルズの解散問題から引用です。引用中の内容は一言一句変更していません。歴史的事実ですので、当然、実在の人物・団体事件関係します)

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ビートルズの解散問題ビートルズかいさんもんだい)とは、イギリスロックバンドビートルズが解散した原因やそれらに纏わる背景の事。

1970年4月10日ジョン・レノンイギリス大衆紙デイリー・ミラー』でビートルズからの脱退を発表し、同年12月30日にはロンドン高等裁判所アップル社と他の4人のメンバー被告として、ビートルズの解散とアップル社における共同経営関係の解消を求める訴えを起こした。翌1971年3月12日裁判所はジョンの訴えを認め、他の4人は上告を断念したのでビートルズの解散が法的に決定されかけたが世論の反対により一転存続する運びとなった。

ビートルズについて語る本の一部では、「オノ・ヨーコジョン・レノンビートルズから引き離した張本人」とされる例が散見された。しかし、ジョージはヨーコが全責任を負うわけではないとしており、ポール2012年10月に「ヨーコがビートルズをバラバラにしたんじゃない。ビートルズは自らバラバラになった」と語っている。


ブライアン・エプスタインの死

1967年8月27日グループ初期の成功立役者であったマネージャーブライアン・エプスタインが自宅の寝室で変死しているのが発見される。死因は睡眠薬の過剰摂取。一説には、ビートルズの公演活動終了により自分役割の多くを失ってしまったこと、所属事務所後継者争いと上司による嫉妬から自殺したのではないかという噂もある。ビートルズはエプスタインの死に大きな衝撃を受けていた。

取り纏め役がいなくなった後のビートルズは、当時発言力のあったジョンが主導権を握ることとなる。その様子は彼の提案で始まった『ビートルズビートルズセッションで明らかである。ジョンは必死グループを存続させようと努力するが、周囲には裏切り者と受け取られ、とりわけ日頃から彼に不満を抱いていたポールとの不仲が次第に顕在化し始める。

ポール1970年に『ローリングストーン』誌のインタビューでエプスタインの死がバンド解散の主な原因であると語った。

ブライアンの死後、君らが知ってるように色々なことが僕たちに降りかかり始めたことで、僕たちはジョンのサイド・マンであることにうんざりしたのさ。ブライアンが死んで僕たちは意気消沈してしまった。ジョンは彼を引き継いでおそらく僕たちをリードしようとしたけれど、僕たちは精神的に参ってしまったんだ」


オノ・ヨーコ

ジョン・レノン日本人前衛芸術家オノ・ヨーコ出会いは、1966年クラブにおける酒井法子プレイでのことであった。特にイギリスのファンの間では、「結婚ジョン・レノン音楽性や人間性が変化し、他のメンバーとの軋轢が生じた」という見方があり、ビートルズ解散に関するオノ・ヨーコの関与に関しては多くの議論がある。

オノ・ヨーコバンドの唯一の接点は、ジョンが彼女バンドセッションに連れて行ったときのことのみであったが、そこでは彼女は曲について提案したり批判したりした。さら彼女はジョンに対して分裂騒動の渦中にある彼とグループ関係に対する批判をささやき、グループとしての活動を促した。ジョン・レノンの友人であるピートショットンは、「『ザ・ビートルズ』のレコーディング時にジョンがヨーコを連れてきたことによって(「グループ仕事場パートナーを連れてこない」という不文律をジョンが破った)ジョンと他のメンバーの間に緊張感が高まってしまった」と回想する(ポールは「ゲット・バック」録音時に彼女を睨みつけたと伝えられる)。

2012年10月には、ポールが「ヨーコがビートルズをバラバラにしたんじゃない。ビートルズは自らバラバラになった」とオブザーヴァーに語った。2013年3月には、ポールはQ誌の取材に対し、同様の発言を繰り返している。ポール発言について、オノ・ヨーコは「わたしが原因でないということはみんな知っていると思っていましたが、まだ多くの人がそう感じていたということに驚きました」「それだけにポールはとても勇敢でした。『ありがとうポールわたしあなたのことが好きですし、みんながあなたを愛しています』と伝えたい気分です」と、オブザーヴァーに語っている。

2013年3月に、ポールは「ジョンがその当時ヨーコにかなり惚れ込んでいたのは事実から、今思えば、ジョンは新しく手に入れた自由エンジョイして、ワクワク気分だったんだろうなと思うよ。でもヨーコがスタジオに現れて、何もしないでチョコンと僕らの真ん中に座られてもねって感じだったよ。僕らはそのことにウンザリしていたと認めざるを得ないよね」とQ誌に語っている。

ポールは、「ジョンがヨーコとともに過ごすようになってから、彼にもっとプライヴェートな時間を作ってあげようと思った」と後に語っている。

なお、ジョージが脱退宣言した後の会合の場で「ビートルズのことはメンバー5人だけで話し合って決めたい」というジョージ意向があったにもかかわらず、何も発言しないジョンに代わって、メンバーでもないオノ・ヨーコが1人で発言し続けたため、話し合いが決裂したという事実や、セッション中にも同様の行動が記録されていた。


謝罪

解散が決定的と報じられたわずか一週間後の1971年3月18日ビートルズは一転してグループ存続宣言メディアへ発表する。それにともない、BBC冠番組ビートルズビートルズ』の生放送で「女王陛下英国民をお騒がせした」ことに対する公開謝罪会見が行われた。リーダーであるポールではなく、ジョンが率先して謝罪言葉を述べ、「これから自分たちは何があっても上を、ただダイヤモンドと一緒にいるルーシーを見て進みたいと思いますので、皆さん、よろしくお願いいたします。自分たちは、全てを捨てて、全てを受け入れますあなたは誰かの助けを待っている。でも、忘れないで、あなたを助けられるのはあなただけなんだ。あなた未来は、あなた自身肩にかかっている。落ち込まないで。悲しい歌を良くしていこう。彼女のことも受け入れよう。そうすれば、なにもかもベターになっていくだろう。そう、ベータベタベタベタベタベタナーアアアアアアアア♪」と歌い、『ヘイ・ジュード』の「Na na na na」の部分を五分も続けた。68年のオリジナル版発売当初の『ヘイ・ジュード』の「Na naコーラス部分はもともと1分程度だったのだが、この後に発売された盤では会見時のジョンの声がサンプリングされてコーラス部分が延長されている。

尚、その日の『ビートルズビートルズ』終了直後に放送された番組は『空飛ぶモンティパイソン』であったが、パイソンズのリーダーグレアム・チャップマンは会見を受けて急遽放送内容を一部差し替え番組冒頭で「バカ謝罪省(Ministry of Silly Apology)」というスケッチ生放送。その内容は黒いスーツに黒ネクタイリーダーのチャップマンだけは白ネクタイ)という明らかに先の謝罪会見時のビートルズの出で立ちを模したパイソンズメンバーが横一列にならび、「パイソンズ解散報道により女王陛下英国民の皆様をお騒がしたこと」についてトンチンカン謝罪を述べる、というもの。このときパイソンズが行った「バカ謝罪(Silly Apology)」ギャグは全世界的に大ウケし、社会現象にまでなった。ちなみに2005年イギリスで行われた「歴代ベストスケッチアンケート[誰によって?]では、「バカ謝罪省」は十五位にランクインしている。

 
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