はてなキーワード: 火種とは
コメントをすれば多くのスターを集めるはてな有識者の皆様においてすら、タイトル通りのコメントをする人々がいるわけだが、全く頭どうかしてるんじゃないかと思う。
例えば、青識亜論とかいう人がポスター改竄したことに対して「こんなことしてるから規制されて当然」とかいうブコメが星を集めているけど、青識と規制にどういう関係があるのか本気で教えてほしい。
俺はロリコンだからはっきり言わせてもらうけど、所謂表現の自由戦士は表現の自由を標榜して政治ごっこしている連中ばかりで実際に表現の自由を守ろうとしている人なんてほとんどいないわけ。あんな奴らオタク代表でもロリコン代表でもドールフェチ代表でもなんでもないわけだよ。
ロリコンの俺からすればもう放っておいてくれと思ってるし、SNSで性癖垂れ流す馬鹿はくたばれとしか思わんし、馬鹿な言説垂れ流して火種を増やして回ってる表現の自由戦士はもはや敵でしかないから消えてほしい。山田太郎やら赤松健やらいう詐欺師に懐柔されてからあの界隈は終わった。
で、そんな無関係の屑共の言動で規制に賛成するとか正気の沙汰とは思えないね。
こういうこというと界隈で自浄作用を示せとかいうんだろうけど、じゃあ例えば左派ならきっこに代表面させてもいいんですか?
確かに誹謗中傷はイカンと思うんだよ。なんでそこまで言われにゃならんのかって思うような事言われるし。
でもさ、今回の木村花の件であちこちで芸能人が誹謗中傷は駄目とか訴えるとか言ってるのを見て思うの。
受けたくなければ、火種を作らないことも大事でないの?ここんところの芸能人は自分から火種を作りに言ってるでしょ。
言葉も選ばずに自分の発言力の強さも理解できずに発信しておいて、あちこちから言われると誹謗中傷は駄目って言い始めるのは都合が良すぎると思うのね。
それ言っていい人は、普段から言葉をよく吟味するくらいしてないと駄目でしょ。
してない芸能人があれこれ言って、都合が悪くなると誹謗中傷は駄目絶対って言い始めるのはズルいんだよね。
周りに訴えかけるのなら、普段の行動を直してからだと思うんだよ。
坂上忍が色々言っているけど、この人も誹謗中傷している人にその程度の人たちなんて言うけど、おたくも昔から問題起こしてますよね?って。
そういうコメントしていいのは、真っ当にやってる人だよって思うんだよ。
で、それに対して丸山議員もあれこれ言ってるけど、おたくもSNSで散々周り煽ってますよね?って。
自分らのやっていることを棚に上げている人間ばかりが、偉そうに誹謗中傷の事を御高説していらっしゃいますね?
結局、自分らで争いの種を巻いておいて、いざとなると手のひらクルーとするのはどうなのかねって。
まあ、それは置いておいても。
テラスハウス、番組の作り方が悪いみたいな書き方してる奴がいる。それも否定しないし本当のところの動機はわからないけど
え、じゃあお前は自分含め視聴者には責任がないとでも思ってんの?って話
anond:20200403084145 で 「○○が自殺したらどうすんの?」構文が印象は最悪、なんてブクマが星を集めていたけど、まさに今必要になったのがその想定じゃないの?実際岡村隆史や平田オリザが自殺したらどうしたんだ。あるいは自殺でなくとも精神的にダウンして社会復帰できなくなったら?それはセーフか?死ぬこと以外かすり傷?
炎上が原因と仮定するなら、少なくとも一部の視聴者は集団リンチと自殺教唆に加担してるよな
そして気になるのは、「じゃあどこからが炎上に加担してることになるの?」というところだ。
現在俺は明確な基準を持っていないが、今反省しなければまた同じことを繰り返すだろうから、ここて言動のパターンを列挙しながら炎上加担のボーダーを探ってみたい
■誹謗中傷編
ここでいうオープンとは、不特定多数がアクセスできるという意味。TwitterとかFacebookとかブログとかはてぶとか増田とかで「死ね」「消えてくれ」と伝えるイメージ
さすがに言うまでもないよな。
陰口の類。「あの人死んでほしいね」など。
なお実際にはクローズ度合いにもグラデーションがあり、鍵垢の親しい人に向けてのみだとしても、人に意見を伝えて影響を与えるなら、無縁とは言えない
■批判編
発言側、受け手側の両方で、批判と非難の区別がついてないと、精神的ダメージは生まれる。俺の場合は批判だとわかっていても内心つらい
人目につかないだけまだマシか?俺ならつらい
twitterで「応援してましたけど残念です」の奴がわかりやすい。俺だったらこれでも十分辛い
「あの人は応援してましたけどね〜残念です」の奴
■ポジティブ編
「わかります」「悪くないですよ!」「頑張ってください!」の類。いわゆる火消し。うまくやらないとさらに炎上したりする。
DMで伝える場合。オープンな場で行ってくれよ、と本人は思うのだろうか
■その他
実際の火事になぞらえて言えば、薪のようだな
・現実に人と話す
さすがに本人まではかなり遠いかもしれないが、影響がないとは言えない
ちなみに実際には「相手」の変数も公人・著名人・一般人、さらには誰かの作品なんかも含まれるだろう。それによって深刻さは変わってくるのだが、別に区別しなくてもいいんじゃないの、と思う。
相手が安倍でも枝野でもトランプでも習近平でも、きゃりーぱみゅぱみゅでもつるの剛士でも、知らないどこかの男でも女でも若者でも老人でも、相手の属性で言うこと決めなくてもいいじゃん、とね。相手が〇〇だからこれくらい言ってもいいか!っていじめ・パワハラと地続きだからな
さてどうだろうか、どのパターンならOKで、どのパターンは慎むべきかなどの判断が少しでもはかどったなら幸いだ。
個人的にはSNSで意見を言うときはなんであれ、炎心でなくとも火種や火花や鱗粉になる可能性があるんだなと感じた。不要不急のネガティブ意見はメモ帳に限る。どうしてもネガティブなことをいいたいときは、慎重な言葉と定義で誤解を減らし、あくまで意見に対する反対意見であって相手自身を非難するものではないこと、そしてむしろ相手を立てることを表現しないとな、と感じた。
また自分の経験から言えば、たったひとりからの一見正しそうな意見でも、荒い言葉遣いでガツンと来られたら、そこそこ精神的ダメージを受けた。
それが目に見えない大人数から、人格否定されてしまったら、どれだけつらいかわからない。ヒトってたぶん、そういうダメージに耐えられるようにデザインされてない。
少なくとも「理由があれば誹謗中傷してもいい」として振る舞ってる奴は、自分の言動に線引きして制限したほうがいいんじゃないかな
FGOのフレーバーテキストやガチャ実装時の紹介文があちこちの資料・ウェブサイトから剽窃していることが判明し絶賛炎上中の件について、ディライトワークスではない別のソシャゲ会社に勤めていた経験から、「こんな感じだったのかなー」という妄想を書き連ねておく。
「ようわからんで言うとるわ、けっ」とか思うのはわかる。無理解、部外者。
が、あの触れ方が、侮辱に満ちていて今後誰もすべきではない、タブーな物言いだったのかというと、
とてもそうは思えない
軽く扱ってるのか?よく知らずに引き合いに出した、ということが?
時節柄イライラしまくってる人々の火種の中で増幅されただけなんじゃないか。
でもその建前として「他業種を下げてる感じするからよくない、っていうのはあるよね」というのがくっついて。
それが燃えると「他業種を軽く!こんなにも軽く扱うだなんて、、、許せない!!!」みたいな。
すごく雰囲気で言ってるように見える。
気に入らないのはすごくわかるのだが、
この正論ぽいものに、誰かの真意が、心の叫びが乗ってるのだろうか?
この事例から人々が学ぶべきは、
かつては嫌いだった、というべきかも知れない口語。
~じゃね。
~(だ)(なる)からな。
~だろ。
おまえは~。
等2ch・5ch由来の、一様に皆同じでイキった喋り方をする口語。
なぜ皆一様に同じ喋り方なのか当時は疑問だった。
というより、今でも多少疑問はある。
悪口を言われた際彼らは一意の人格性を自らに認めている。すなわち反論する。
みな名無しであると自覚するならば、単なる群れの一種である彼らに個別性など存在しないはずだ。
ところが彼らは同じように他人に合わせながら自分は個別であるというおかしなコンプレックスに陥ってる。
(スタンドアローン・コンプレックスといえばまるで攻殻機動隊だ)
コテハンなど個性があればそれを否定しにかかるが、レス番付きの「我」のことになるとコテハンのごとく振る舞う。
このダブルバインドの矛盾は柔軟性として機能していない。したがってあの場所ではよく闘争が起こる。
一つはまるでAIのような群体としての5ch、もう一つは匿名なだけで個別性しかない5ch。
個別性しかない連中が「荒らさない」という共同作業するには「押さえ込み」しかない。
いまならTwitterのプロフがそれに近い。話しによれば、どうやらプロフでは以下の者達がNGらしい。
曰く、
見ての通り3,4番目は相反する。1,2に至っては思い込みでしかない。
あるいは傾向がある、程度の話だ。ここでも個性に対する検閲が入る。
しかし一方でTwitterはそれぞれが個性を発露してユーザーを獲得するという大矛盾した構造がある。
その割に上記「押さえ込み」により発生した「空気」により同調圧力を強いられる。
ここに至りSNSで疲れは発生する。言い合うときは「空気」が恐ろしいので集団で襲いかかる。
いわゆる炎上である。抑圧が「空気」を発生させ、その空気が炎上の火種になるとは、まさに化学反応的ではないか。
空気は抑圧の結果生まれるので、水面下では皆本当の自分を容認されたいという承認欲求を抱えることになる。
日本人はディスカッション文化ではない、ディスカッションが苦手であり訓練されていないという。
もちろん嫌味や嫌がらせも多くあるためこの可能性は除外できない。
しかしながら、反論は直ちに人格攻撃ではなく、意見の穴に対する指摘であったり、改善案であったりする。
ディスカッションが苦手となると、結果的にお互いを傷つけない「大人の対応」という欺瞞を皆実践することになる。
なんだかんだ言っても今までパチンコが存続してこられたのって、そもそも"普通の人々"の大半はパチンコに対してふんわりとした悪いイメージはあっても基本的には眼中になくて、それゆえに規制だなんだと言っても「まあ楽しんでいるユーザーや、職業にしている店員・メーカーがいるなら積極的に潰す必要もなくない?」くらいの認識だったっていうのが大きいと感じる。
違法性ガー朝鮮送金ガーなんて言っていたのは頭がビョーキなネット底辺だけで、そういう人達はリアルでの実行力はないし、本気で行動を伴って規制を進めようとしていたのなんて”家族にギャンブル依存症がいて苦しめられていた人”とか特殊な背景がある限定的な人たちくらいだった。
それが今や大衆が強いヘイトをパチンコ店に向けるようになった。
正直、今回のパチンコ叩きは論理性に乏しい感情論でしかないから個人的には賛同しかねるが、何かが変わる火種になる可能性は十分あると思う。
それはあまりにも突然のことだった。
2月末にはほぼ全部屋キャンセルとなり、稼働率は一気に一桁にまで落ち込んだ。
ただでさえ今年は雪が少なく、「パウダーの聖地」の名が泣くような状況だった。
パウダー日和と言える日は全部で1週間もなかったかもしれない。
ただホテル自体はほぼ満室で、ピークシーズンを忙しく過ごしていた。
正社員を含めた通年雇用者も有給の使用が励行され、出勤が減らされた。
3月半ばには外国人観光客は完全に消え、メインストリートのひらふ坂はゴーストタウンになった。
判断の早い会社は、3月後半の時点で正社員のリストラも敢行した。
自分がいる会社も4月に入りいよいよリストラの声が出始め、希望退職制度が始まった。
現在、ほとんどの飲食店がクローズ。またホテルもかなりの数がGWを待たずにクローズとなった。
ニセコのバブルは未知のウイルスによって弾けたのかもしれない。
これが一時的なものなのか、根本的なものなのかはまだ分からない。
ただ一つ間違いなく言えるのは、
ニセコの現在の隆盛が外国人富裕層(よくいうインバウンド)に大きく依存しているものであり
バブルが弾ける前(つまり今年の1月まで)のニセコはそれはすごい勢いだった。
開発ラッシュはまだまだ続いていて、ホテルが雨後の筍のように建っていた。
一部では供給過多の声も聞かれたが、それでも勝算があると見込んだ大手外資が開発を続け
スキー場には外国人しかいないし、ひらふ坂周辺の看板には日本語よりも英語の方が先に書かれている。
ローカルエリアとなる倶知安町の中心街もスキー場周辺で働く外国人に溢れ
田舎のはずなのに日本人と外国人がミックスされた不思議な世界が形成されていると感じた。
スキー場周辺で大金を使う外国人富裕層をビジネス的に分析していく過程で
比較的早く疑問を感じるようになった。
「このバブルはいつまで続くのか、どうやって弾けるのか、弾けた後の準備はできているのか」
その時点ではバブルはまだまだ続いていた。
初期投資こそお金がかかるものの、簡単に、びっくりするくらい利益が出る。
その状況に甘え、ハードこそ立派だがソフトが素人レベルのホテルが林立した。
1泊100万円もするペントハウス(最上階のスイートルーム)があるのに、
対応するフロントスタッフはスノボしに遊びに来ているホテル初経験の季節雇用者なんていうのは普通だ。
簡単に利益が出てしまうので経営者も厳しい目をスタッフに向けないし、スキルアップという考えも薄い。
将来的にこれは火種になるのではと思った。
こんな噂が蔓延すればニセコを避ける外国人富裕層も増えるだろう。
「雪」だ。
今年は雪が少なく、また質も非常に悪かった。
雪を楽しみに来ていた外国人季節雇用者の落胆は半端なかったと思う。
ところがこれは今年に限った話ではないらしい。
昔からニセコにいる人に聞くと10年前と比較して質が落ちてきていると。
自分はあと数年で、雪の劣化によりニセコバブルが崩壊すると予想した。
もしかしたらこれがトリガーとなって、根本的なバブル崩壊になるかもしれない。
一時的だとしても、結局は雪の劣化によってニセコのバブルは近いうちに崩壊すると思うが。
バブルが弾けた後の事を誰も考えていない。
誰もは言い過ぎかもしれないが、少なくとも、自分は近しい人とこの件で議論をした事はない。
繰り返しにはなるがバブルに甘えてしまっている、楽をしすぎていて
自分は考察を経た上でバブル崩壊に備えてこういう事をしておくべきだという答えを持っているが
周りを見る限りそのような動きをしている会社やホテルはあまり見られない。
このままバブルが崩壊したら、ニセコはかつて崩壊した日本の有名温泉街のようになるだろう。
立派でオシャレな建築物が朽ちていく様は見たくない。
今ニセコでビジネスをしている人は、このコロナをきっかけに目を覚まし
根本的な部分からビジネスを再検討してほしい。バブル崩壊に備えてほしい。
それがニセコの永続的な発展に繋がると思っている。
公明、「連立離脱」論で押し切る 官邸主導の政治手法に影―現金給付1人10万円
https://www.jiji.com/jc/article?k=2020041601107&g=pol
はっきり言って公明党がおいしい所を掠め取っていったようなものだから。
今まで安藤議員等の若手や野党だと国民民主党の玉木代表が10万円一律配布や消費税ゼロや減税、粗利保障等を言っていて活動をしてきた訳だし、自民若手や国民民主の玉木代表くらいしかこの手の主張をしていなかったにも関わらず、世論からの批判が急激に増えたから、公明党が急にこの手の主張をし出したようなものだからね。
それに自民としても今まで執行部や政府は内部の議員の声を蔑ろにしていたにも関わらず、いざ公明党が連立解消をチラつかせたら、安倍総理はその言う事を聞いたという構図だもの。
はっきり言って公明党の言いなりになったと主張しているようなものだからねぇ。
世間から見れば更に安倍総理自体、自身の意思の無さや決断能力の無さが露呈した形。
それに今までの経緯を見てももし安倍総理が拒否しても本当に連立を解消したか怪しい所だと思う。
どちらにせよ、現段階では10万円配布自体は必須だし決まったのは良かったとは思うけど、これ今後の火種になると思うなぁ。
どう考えても今まで動いていた人達の手柄を掠め取ったようなものだからね。
みんな言ってることだけど。
当面は、みんなで頭を低く下げ、ほふく前進をしながら進むしかない。
1が突然100や1000倍になるようなイベントは当面無理だと思った方が良さそう。
しかし長期戦なら、ただ嵐が過ぎ去るのを待つのではなく、配信など稼ぎ方を変えていかないと、とても持たない。
例えば飲食も海外に倣ってテイクアウトやデリバリーにがんがん参入したらよい。
居酒屋だろうがフレンチだろうが、頭を低く下げながら、それでもビジネスを継続する手段に早く移行した方が後々有利に働きそう。
テイクアウトは食料品なのでロックダウン下で商売できる可能性も。
よく専門家の人が口にする「行動の変容」は一人一人が気をつけましょうというレベルの話じゃなく、これくらいの変革を求めてるんだと思う。
風邪のような症状が出たら2週間休む。
出来れば同居人も2週間休む。
直っても2週間は家から出ない。
事前確率の高い人にやらなければいけない。
よく検査数で韓国を引き合いに出す人がいるが、韓国だって闇雲に検査をしているわけじゃない。
じゃあなぜ韓国でうまくいっているのか?
確診者(陽性)が出ると直近の行動履歴が公開される。
日本ではプライバシーの問題になるが、韓国では「透明性」と呼ばれてる。
足取りをGPSで追い、その近くに居た人を片っ端から炙り出す。
もちろん全て検査するのではなくて、事前に聞き取りをして疑わしい人を検査する。
検査対象にならなくても2週間の自宅待機になり、自治体等から生活のフォローを受ける。
更にドイツが真似するようだ。
言い方を変えれば、経済活動を落とせばその分検査と隔離は甘めでよい。
この辺はトレードオフっぽい。
だからといってそれがとてつもなく残念だとか、憤懣やるせないなどと思ってはいない。
ただ少し思うことがあるとしたら。
「終わりよければすべてよし」なんて言葉がある。
皮肉なことに、最後の区切りとなるイベントが中止になったこの状況は、さきほどのフレーズを真に受けるのあればあまり好ましくないだろう。
そう、別に落胆しているとか気落ちしているとか、そうではないのだけれど。
そう、ただね、あいまいに流れていってしまっていつのまにか社会人というのが、ちょっと味気ないなと、寒々しさを覚えているという具合なのかもしれない。
学位記を受け取りにいったり、同期とごはん食べに行ったり、後輩とお話ししたり。
そんなことをしているうちに、唐突に寂しさが押し寄せてきて。
ああ、この感情は知っているよ。
例えば、にぎやかな祭りが終わって人がまばらになった時の喪失感。
例えば、遠い親戚の家に夏休みに訪問して、食べたり飲んだイした後、見送られながら帰りの新幹線に乗る時の空虚感。
だって、大学を卒業したらみんなばらばらになって、今度いつ会えるのかもわからないんだよ。
今はSNSがあるからなにかしら繋がり続けることは簡単だけれど、でもリアルで合える頻度は減る。
それになにより、向き合う大賞が、変わってしまう。
今までは同じ大学で、学習とその先の就職という共通する目的があった。
でも、これからはみんな、違う場所で、違うことをやり、目指すべきものも変わるのだろう。
そう思うと、お祭りとか遠い親戚の家を離れるよりも格段に、寂しいと思うのかもしれない。
寂しさだけではない。
「当たり前が尊いこと、幸せなことは、それを失った時に強く実感する」
そう、何の代わり映えもなくレポートを早く終わらせたいと投げやりになっていた時も。
一緒に勉強を教えあったり遊びにいったりした日々も。
当たり前のように流れていったことが、とても幸せで充実していたんだなと、改めて思うんだ。
綺麗なことだけではなくて、いろいろないざこざとか、投げ出したいこととかあった。
えれど確信している。なんだかんだいって、私たちは学生をしていたと、いとおしめるんだって。
みんなはどうなんだろうと、考えてしまう。
もう大学にいくことはないのだと思うと、とてもセンチメンタルな気分になってしまう。
そして、私の友人たちは私と同じようなことを感じているのかと。
別に友人たちとは社会人になろうとも、気兼ねなく遊べばいいし、それができるとは思っている。
ただね、別々な企業という対象に向かって、別々な歩みをすることがまだ想像できない。
だから怖いのかな。
不安なのかもしれない。
私の交流関係が狭く深くだから、だからその関係性に卒業という火種が加わるのを恐れている。いや寂しいだけかな?
友人たちも同じようなことを考えているのかな、そうであってほしいと私の強欲な部分がささやいている。
社会人になろう。
そして語り合おう、今までのようにね。
He who would learn to fly one day must first learn to stand and walk and run and climb and dance; one cannot fly into flying.
などとおかしな自己紹介になってしまったのには理由がありまして。
というのも、わたしは人生を振り返った時、そのうちの半分は「自らがおかれた環境下で生きることにいっぱいいっぱいだった動物」だったというのを最近になって自覚したタイプの生き物だったからです。
この気付きから過去の記憶のフラッシュバックが止まらなくなり日常生活が滞ってしまった為、こうして書き出すことにしました。ネットの海に流して供養することが目的の記事になります。
友人や知り合いに吐き出せるような話ではないし、読んでいて気分が良くなるものでは決してないのと、あくまで「わたし」の為のごくごく個人的な文章であることを理解された上で読み進めてください。
また、精神的なネグレクトを受けたと感じた側からのお気持ちなどがあるので、そこら辺を見て落ち込みそう/気分を害しそうな人は見ない方がいいと思います。
書こうとしたはいいもののどこから話せばいいのかな……そうだ、きっかけですね!
これを思い返すことになったきっかけは兄を相手に家族の話をしたことだと思います。
わたしは兄と二人兄弟で、小さなころから同じ家で過ごしました。兄もわたしも所謂オタクを趣味にしていて、いつも何かしら共通の話題があり、この日もひょんなことから幼いころに感じていた家族についての話になりました。
この書き方だとあまりそういう風には見えないと思うのですが、兄とわたしが話すとき父についてのシリアスな会話はタブーのようなものでした(少なくともわたしはそう感じていました)。なのでこのときわたしは、もう2人で擦り合わせをする機会はこの先訪れないかもしれないと思い、勇気を出してシリアスな話を切り出しました。
真っ暗な井戸の底のほうまで下ろしたと重い桶を、慎重に引き上げていくような心地でした。
家族を構成するメンバーは祖母、父、母、兄、わたしの5人。祖父もいましたがわたしが幼いころに亡くなった為、「わたしの家族」と聞いてまず頭に浮かぶのはこの面子です。
兄と話していて思い出したのは毎晩の食卓のこと。始まりはいつも概ね穏やかな食事でしたが、時間が進むにつれわたしの緊張感は高まりました。
それはなぜか?
答えは「父と祖母の怒鳴りあいがいつ始まるかわからないから」です。
間に母が入り両者を宥めるところまでが1セットの物騒なコミュニケーションは、晩ご飯の時間中にどんなきっかけで始まるか、どのくらい続くか、何回起きるかなどわからない尽くしのハリケーンみたいな現象でした。
簡単な喜怒哀楽にうっすらとした自我をふりかけただけの「小さなわたし」にとって、父と祖母が行う激しい親子のコミュニケーションは「こわいこと」として分類されたんだと思います。それがほぼ毎日続くうち「一日の終わりに起こるうんざりすること」にもなったのは自然な流れだったんじゃないかな。繰り返し体験するうちにその特殊なコミュニケーションに巻き込まれるのも、火種になるのも嫌で、食卓の上で誰かに会話を振られても可もなく不可もない答えを返していたし、誰かの琴線にふれてしまわないよう、割とつねに気を張っていました。
自分の食事が終わるとすぐに「ごちそうさま」と言って食器を下げて、兄と一緒に別の部屋へ退散しました。まあ古い家だったので別の部屋へ逃げても怒鳴り声が聞こえてくるわけですけれども。
なぜにこにこと笑っている父や祖母が、一瞬で鬼の形相になってしまうのか。
「それはそういったコミュニケーションの形なんだよ。二人はちゃんと仲が良いから大丈夫、心配いらないよ。」
などとハグしてもらったり、教えてもらうきっかけもないまま体験する毎夜の嵐は、わたしの心を大変疲れさせたのではないでしょうか。(ないでしょうかってなんだよって自分でも思うんですが……そのころにあったであろう学校行事や友人とのこまかい記憶などがうすぼんやりとしか残っていない為「ないでしょうか」としか言いようがない……)
また怒鳴りあいのコミュニケーションは祖母と父の間だけではなく、父と母の間でも行われていました。父母の特殊コミュニケーションの日程は決まって土曜日曜祝日開催。つまり顔を合わせて長く話すようなことがあると、口論としてヒートアップしていったわけです。
小学校から帰ったら夜ご飯と共に家族が口論。土日祝日は両親の口論がランダム勃発、のちに夜ご飯でタイフーン上陸。
以後、このうんざりするようなタイムスケジュールはわたしが高校を卒業してから少しするまで延々、ずっと毎日、十数年続いていきます。
またここまで読んでうっすらとお気づきの方もいるかと思いますが、これはコミュニケーション値が大変低い家族の中でなるべくしてなり、起こるべくして起きた地獄でしかない日々の思い出を吐き出す記事でもあります。この先も気をつけてください。
そうなんですこの家族、全員が全員ともコミュニケーション数値がおそろしいほど低かった。
ここでいうコミュニケーション値が低いというのは「人との関わり方が上手くない」ということで、人に頼る方法での問題解決能力が著しく低いことを指します。
別の言い方をすると「感情を消化させることが不得意」であったり「困ったことは大体自分一人で解決しようとすること」にあたるのですが。なんとこの家族の祖母、父、母の3人が3人とも「本当に困った時は家族に相談せず自分一人で決断するタイプの人間」だったのです。
少なくとも小さい子供の前で困ったときに「困ったな~」と息抜きにでも呟くような人間がいませんでした。口下手なので子供の前でふざけることとか本当になーんにもしないの。かっこいい大人の背中を見て育てってか?え?口から言語を扱ってから言え!バーカバーカ!
失礼、話が逸れました。
それで、そんな大人の姿を見て育った「わたし」という子供はどうなったのか?
「家庭内で困ったことがあっても家族に相談してはいけないんだ」とすっかり思い込んでしまいました。
するとどうでしょう。自分が困ったときにどうしたらいいのかわからなくなり、解決の糸口がガチでわからず、何かあると問題には触れず解決を先送りにし、心に不安とわだかまりを抱えたまま癒しを時間に任せて過ごしていくことばかりを覚えていったのでした。
~おしまい~
……いやもちろんおしまいなんてことはなく、「わたし」の人生はそこで終わらず続いていったので、普通に人との接し方がよくわからない人型の喋る動物が大きくなっていっただけなんですが。(なんですかこれ、言葉にするとめちゃくちゃ怖いな……)
途中でなんとかならなかったのか?という問いには「残念ながら……」という回答しか差し上げられないんです。本当に。残念ながら。
そもそもなぜなんとかならなかったのか。
それは「わたしの自我が形成される期間中、親への信頼なくなったこと」が多分大きく関係しています。
わたしの両親は共働きで、週休2日の週5勤務。母は帰宅したら少し休憩をしてご飯作りを始め、父は帰ってきたら風呂に入ってご飯の前の晩酌をする。まさにひと昔の夫婦って感じでした。
これだけ書いたら「なんだ、普通の家族じゃん」って感じなんですが。ここに「夫婦はどちらも自分一人の時間がないとしんじゃうタイプの人間で、作業や趣味や息抜きも一人で没頭したいタイプ」、「なお2人は仕事でクタクタに疲れたコミュ障」という特性が加わると、どうなると思いますか?
結果をお伝えすると、2人の隙を見ては今日の出来事や楽しかったこと、悩み事などを話そうとしていた幼いわたしが、見えないシールドにはじき返されて転ぶばかりになりました。あと癇癪持ちの酔っ払い相手(酔った時に話したことは覚えていないタイプ)にする真剣な悩み相談ほど、面倒で参考にならないものはないですよね…。(遠い目)
また、このインターバルにも思える時間を逃すともうだめです。チャンスはありません。最初の方に書いた、いつ雷が落ちるかな?ドキドキ☆晩ご飯タイム()になってしまう為、まともにお話しできるような時間はおしまいです。解散!
そして「何よりもただただ話を聞いてほしかったわたし」はこのころの経験から、そういった方面での親への信頼をじわじわと減らしていきました。もともとの内向的な性格と、両親からいつ発せられるかわからない大きな声への苦手意識ゆえに、その不満を爆発させるような機会もなかった為だと思われます。我が子からのそういった信頼値がマイナスに傾いているなんて事実、両親は知らずに生きていることでしょう。わたしも今更そのころのことを知らせて、改めて地獄を見る気はまったく以てありません。
ちなみに、わたしは小さなころから「手のかからない」と評されてきたタイプなのですが、実情は「親への信頼度の低さゆえに何も話さなくなった子供」になります。
忘れられない話なのでついでにここに書きますが、高校性のころ三者面談で割と信頼していた担任が
「おたくのお子さんのように子供を育てるにはどうしたらいいですか?」
と父を持ち上げたとき
「いやあ、放っておいただけですよ。」
と照れ臭そうに答えた映像がいまだ焼き付いて離れないんですね。「心の底からやめたほうがいい。」と思ったけど、そのときにはもう心の開き方がよくわからない動物になっていたので(あと不意打ちのショックで)、そのことを担任には伝えられなかったことが心残りでならないです。
(他にも、親がわたしが子供のころの「手がかからなかったエピソード」を良き思い出のように話すのを聞く機会があると、心が荒れ狂って獣のようなかたちになってしまうんだよなあ。いつか本物の虎にならないよう注意します。)
あとこの記事を書くきっかけとして兄との対話がありましたが、兄曰く
ということだったので擦り合わせのようなものはかないませんでした。ちょっと残念でしたね。
こんな環境の下でグレる気力もなくしたわたしが、体だけはすくすくと立派に育ち、高校生くらいになった時の話でしょうか。
父が仕事で体調を崩し、自宅で過ごすことが多くなっていたころです。
いつものように休日を家で過ごしていた両親とわたしが昼食を食べていたとき。わたしにとって衝撃的な事件が起きました。
と言ったのです。
…………h、?は?
ハァ????????????????????????????????(フォントサイズ最大)(太字)(赤色)
と、そのときは思わず内心ではバチクソにブチ切れる若者になってしまいました。その後「えへへ…(照れ)///」みたいな態度を返した母に対してもです。
突然のことに(非常に残念ながら)体は驚き固まり動かず。突然見せつけられるリアルな夫婦の惚気(十数年間生きていて初めての!)とのにテンションの差でしにそうになりながら、息をするのがやっとだったわたしは、心の底から思いました。
その後わたしの遅めでささやかな反抗期「挨拶や会話を振られてもちゃんと返さない(面倒な人間を相手にぶつかり合うのが面倒になっている為こうなりました)」が発動されることとなりました。
また、今思い返してみればという話ではありますが。
わたしの両親は「限りなくマイペースで自分のペースが保てないとストレスを溜め爆発する」、「一人の時間がないとしんでしまうタイプ」、「作業や趣味や息抜きも一人で没頭したい人間」、「疲れるとコミュニケーションの余裕がなくなる(もともとのコミュニケーション許容量が多くない)」という属性のほか、
という隠れ属性を持っていたわけですね!すごい!
もっと早くに知らせてほしかったな~~~~~~~~~~泣きそう!!!!!!!!!!!!!(もう泣いてる)
幼い子供の前で十数年!ガチシリアスな雰囲気で怒鳴りあい時に片方と見ていた子供が不安で泣くようなギスギスした特殊コミュニケーションが?!痴話喧嘩だったなんてことあるか?!?!?!?!?!?!!!知るか~~~~~~~~い!!!!!!!も~帰らせていただきますわ~~~~~~~~~~~~~~~~~!!!!!!!!!(実家が住む家)(秒で顔合わす)
ハァ……ハァ……
冒頭に書いた通りですが、最近になってやっと比較的ちゃんと人間としての心が正しく揺れ動くようになったので、これが「怒り」であり「悲しみ」だというのを”理解”して”発露”してしまいましたね。フフッ ウッカリウッカリ☆(棒読み)
そんなこんなでややダウナー気味の反抗期を迎え、両親との溝を更に深めたわたしですが、更なる問題が発生します。
私が大学に入ってすぐのころ、父が亡くなりました。
大病の末の結果なので、家族として心の準備はできていたと思っていたのですが、それでも誰かがいなくなるのは悲しいですね。
などと心から人間味のある言葉が出てくればよかったのですが、そんなことはなく。ただただ日々感じていたひとつ大きなプレッシャーから解放された自分の心を、不思議な目で眺めるわたしがいるだけの生活になりました。
特に大きく日常が変わることはなく、このまま過ごしていくと思っていました。しかしそのときわたしは気づいてしまった。
「あれ?もしかしてこの先もずっと生きなくちゃいけないのか……????」
そう、そこでわたしは「自分の人生に真剣に向き合うということをおろそかにしていた」ことに気づいてしまいました。
「家でプレッシャーを放ち続ける父母祖母のご機嫌を伺いその日その日を生きること(解放されるのは外出時と寝る時)」に人生の大半を費やしてきたわたしはどうも「自立する」、「新しいことに挑戦する」、「ペットを飼いたいと交渉する」など、両親との長めの話し合いが発生する場を悉く避けて通ってきたようです。本当に、ここまでまったくの無自覚でした。
まあ気づいたところで急に何かに目覚めるわけでもなく、まずもって気力がないので出来るわけでもありませんでしたが。「このままじゃいけない気がする」という漠然とした焦りから、映画や漫画、アニメなどの創作物に対し、心新たに触れるようになりました。(もともと漫画やアニメなどは好きで小さいころから見ていたんですが、日常からの逃避先がそこだった為か、内容を覚えていたりいなかったりするんですよね……記憶がない状態で楽しむアニメと漫画、めちゃくちゃ面白いよ!ヤッタネ☆)
その後なんやかんやで就職できて、何年か社会人を経験し、先輩や同僚にもまれたり気の合うゆかいなオタク友達との出会いがあったお陰で、やっと「人語を話すけど意思の疎通がはかれない人型の動物」から「たどたどしいがやろうと思えばなんとか意志の疎通がはかれる人型の動物」にクラスチェンジできました。
こんなクソ重いありがとうを直接伝えることは憚られるので、ここで叫ぶことをお許しください。
特にゆかいなオタク野郎のみんな~~有難うな~~~!!!これからも仲良くしてくれるよう頑張るよ~~~~!!!!!
相変わらず親に似てコミュニケーション容量が低いままではあるけど、それも含めてなんとかやってます。(しかしここまで来るのがあまりに長かったので、これまでに大変なご迷惑をお掛けした人のことを思うと、ただただ申し訳ない気持ちでいっぱいです。本当にすみません。もうこんな(わたしを始めとした)人間未満みたいなものに出会わないようにと祈っております。日々が穏やかで良いものでありますように。)
自分では上記にある辺りの激しめの感情はとっくに昇華されたものだと思っていたのですが、疲れて余裕がないときにバラエティなどを見て笑っている母をみると無性に苛立ち、シリアスに泣き出したくなってしまうときがあります。ちょっと危険だなぁと思っています。一種のボーダーラインだと思ってそういう時は寝て回復に努めるのですけれども。
この文章を書きながら全然昇華されてなくて自分でも笑ってしまいましたし、いつか本当に追い詰められた時に有事を引き起こしてしまうようなぼんやりとした予感があります。お金が貯まったらちゃんと離れて暮らそうと思います。お互いの為にもね。
また未だに「健康な精神状態で運営された家族という団体」への憧れは強くあるようで。
誰かが手掛けた創作物でキャラクターが心通わせる表現にふれると、あまりに眩しく尊く感じ涙を流したり、TLで健全なコミュニケーションが成立し、信頼関係が成り立ったご家族のアカウントを見かけると「本当に実在し(ていてくれ)たんだ」と感動してしまいます。なんか、アレだ……太陽の光に当たってぼんやりと、あたたかく眩しいなと感じるような瞬間に似ています。存在していてくれて本当に有難うございます。わたしが勝手に救われています。
繰り返しますがこの文章は、それなりに情緒が育ちその当時の感情の言語化、過去の振り返りおよび分析ができるようになってきた「わたし」が、その気づきとともに過去の自分の感情に圧し潰され、溢れだす記憶に涙が止まらなくなり、座り込んでしまった「わたし」のための個人主観の記事です。
今何かに苦しんでる「あなた」を追い詰めるためのものではないので、もしもここまで読んでちょっと苦しくなっちゃった人は、とりあえず体をあたたかくしてゆっくり休んでほしい。休んで。寝て忘れてね。どうぞお大事に。
ときどき思い出に苦しめられつつ、寝ずに一気にこれを打ったので、ところどころぐちゃぐちゃな文章になっていると思うのですが、ここまでお付き合いいただき本当に有難うございました!
こんなところまで読んでくれたあなたにも、ちょっと良いことがあるといいですね。
それでは。
何がなんでも安倍を倒すという一点では、意見の相違がないと思われる野党各党(維新は除く)。しかし、ここ最近、野党共闘に暗雲が立ち込めている。その理由のいくつかを、自分の観測範囲内でまとめてみた。
立憲民主は、希望の党が立ち上げられた時小池百合子に「排除」された立場なので、国民民主には恨み骨髄。また、国民民主が比較的保守的なのに対し、立憲はリベラルという違いもある。
立憲は国民民主の資金が欲しい(民主時代の政治資金を引き継いでいるのは国民民主)、国民民主は立憲の票が欲しい、という事情があり合流を模索しているが、政治スタンスの違いや主導権争いのため落とし所が見つからない。
数年前から、野党共闘でいつも問題になるのが共産党の存在。共産以外の野党の中には保守的な政治家もおり、こういった政治家の支持者は共産党との連携を嫌う。安倍もそれを分かっているので、野党共闘を崩す狙いで、しばしば共産を腐す発言をする。実際、幾人かの保守的な政治家は野党を離れて、自民に合流ないし無所属になっており、自民による切り崩し工作が成功している形。
国民民主の玉木は、昨年の参院選の結果を反省し「反対ばかりでなく、是々非々で行く。改憲の議論もする」と自民に譲歩するような発言をした。これがきっかけとなり、立憲支持者らは「馬脚を現したな、安倍の犬め」といった攻撃を開始。党内でも異論が噴出したため、玉木はトーンダウン。玉木はYoutubeで各党の政治家と対談をしているが、相手に合わせて調子のいいことを言う人間なので政治スタンスは不明。野党共闘にとってノイズになっている。
れいわの山本太郎が、消費減税に賛成しないなら立憲に対決候補をぶつけると言ったことで、双方の関係が悪化。以来れいわと立憲の支持者は、互いに互いを「野党共闘を邪魔しやがって。お前、安倍の犬だろ!」と罵り合っている。
昨年の消費増税による景気の冷え込みは、野党にとって、与党を攻める格好の材料と思われる。実際、共産・れいわ・国民は消費減税ないし廃止を言っている。しかし、立憲がこれに慎重。なぜなら、立憲には消費増税を決めた当時の閣僚が数多くいるため、増税が失敗だと言うと批判が自分たちに返ってきてしまうからである。
先日の京都市長選で、自民公明国民立憲社民推薦の現職と、共産れいわ推薦の新人が激突。これ自体はよくある構図だが、相乗り候補側が「共産党の市長はNO」という広告を出したことで、両党支持者の間で争いが勃発。また、これについて質問された枝野が「承知してないので答えかねる」と無責任な反応をしたことが、火に油を注ぐことに。
上述の通り、この一年ほどで立憲と共産・れいわの関係は冷え込んでいる。更なる関係悪化の火種となっているのが新型インフル特措法の改正。今回新型コロナ対策のために、同法が改正されるわけだが、安倍の協力要請に応じ国民や立憲は改正案に賛成。しかし、同改正案に緊急事態宣言を可能とする条項が盛り込まれているため、共産・れいわは反対。兼ねてからのいざこざもあって、立憲支持者、共産・れいわの支持者の間で、またも「安倍の犬め」と言い合う事態が起きている。
このように、野党間でまとまれない状況が続くと、漁夫の利を得るのは自民党だ。
景気の冷え込みや新型コロナで安倍自民は大きく支持を落とすだろうが、今の野党では自民支持を離れた国民の受け皿にはなれない。もし今年のどこかで解散総選挙が行われても、投票率が下落するだけだろう。そうなると、団体票・党員票を多く持っている自民が有利になる。実際、安倍政権が国政選挙で勝利し続けてきたのはこのためだ。
このままでは、国民の大半が安倍自民を支持せず投票もしていないのに、安倍自民が選挙で勝つという状況が起こることになる。それを避けるためには、野党が一枚岩になり統一的な政策を打ち出すことが急務…なのだが、それが無理なのも分かる。自分が勤めているゴミみたいな中小企業でさえ、派閥争いやいざこざはあって、それを止めることは難しい。様々な利権の絡む政治の世界となれば、なおさらだろう。