だからといってそれがとてつもなく残念だとか、憤懣やるせないなどと思ってはいない。
ただ少し思うことがあるとしたら。
「終わりよければすべてよし」なんて言葉がある。
皮肉なことに、最後の区切りとなるイベントが中止になったこの状況は、さきほどのフレーズを真に受けるのあればあまり好ましくないだろう。
そう、別に落胆しているとか気落ちしているとか、そうではないのだけれど。
そう、ただね、あいまいに流れていってしまっていつのまにか社会人というのが、ちょっと味気ないなと、寒々しさを覚えているという具合なのかもしれない。
学位記を受け取りにいったり、同期とごはん食べに行ったり、後輩とお話ししたり。
そんなことをしているうちに、唐突に寂しさが押し寄せてきて。
ああ、この感情は知っているよ。
例えば、にぎやかな祭りが終わって人がまばらになった時の喪失感。
例えば、遠い親戚の家に夏休みに訪問して、食べたり飲んだイした後、見送られながら帰りの新幹線に乗る時の空虚感。
だって、大学を卒業したらみんなばらばらになって、今度いつ会えるのかもわからないんだよ。
今はSNSがあるからなにかしら繋がり続けることは簡単だけれど、でもリアルで合える頻度は減る。
それになにより、向き合う大賞が、変わってしまう。
今までは同じ大学で、学習とその先の就職という共通する目的があった。
でも、これからはみんな、違う場所で、違うことをやり、目指すべきものも変わるのだろう。
そう思うと、お祭りとか遠い親戚の家を離れるよりも格段に、寂しいと思うのかもしれない。
寂しさだけではない。
「当たり前が尊いこと、幸せなことは、それを失った時に強く実感する」
そう、何の代わり映えもなくレポートを早く終わらせたいと投げやりになっていた時も。
一緒に勉強を教えあったり遊びにいったりした日々も。
当たり前のように流れていったことが、とても幸せで充実していたんだなと、改めて思うんだ。
綺麗なことだけではなくて、いろいろないざこざとか、投げ出したいこととかあった。
えれど確信している。なんだかんだいって、私たちは学生をしていたと、いとおしめるんだって。
みんなはどうなんだろうと、考えてしまう。
もう大学にいくことはないのだと思うと、とてもセンチメンタルな気分になってしまう。
そして、私の友人たちは私と同じようなことを感じているのかと。
別に友人たちとは社会人になろうとも、気兼ねなく遊べばいいし、それができるとは思っている。
ただね、別々な企業という対象に向かって、別々な歩みをすることがまだ想像できない。
だから怖いのかな。
不安なのかもしれない。
私の交流関係が狭く深くだから、だからその関係性に卒業という火種が加わるのを恐れている。いや寂しいだけかな?
友人たちも同じようなことを考えているのかな、そうであってほしいと私の強欲な部分がささやいている。
社会人になろう。
そして語り合おう、今までのようにね。
He who would learn to fly one day must first learn to stand and walk and run and climb and dance; one cannot fly into flying.
うんち
こいつアホやでw
素人童貞増田が好きそう
中身のなさがすごい
修士行く人が多い学科だったから寂寥感はほぼ無かったし そもそも学会と日程重なって2割ぐらい欠席だったはw