2020-03-18

大学卒業を迎えて感じたこ

卒業式は中止になってしまった。

からといってそれがとてつもなく残念だとか、憤懣やるせないなどと思ってはいない。

ただ少し思うことがあるとしたら。

「終わりよければすべてよし」なんて言葉がある。

皮肉なことに、最後区切りとなるイベントが中止になったこの状況は、さきほどのフレーズを真に受けるのあればあまり好ましくないだろう。

そう、別に落胆しているとか気落ちしているとか、そうではないのだけれど。

そう、ただね、あいまいに流れていってしまっていつのまにか社会人というのが、ちょっと味気ないなと、寒々しさを覚えているという具合なのかもしれない。

いわゆる「卒業感」というものを感じられないじゃないか

そして私は今、「卒業感」なる感覚を身に染みて感じている。

学位記を受け取りにいったり、同期とごはん食べに行ったり、後輩とお話ししたり。

そんなことをしているうちに、唐突に寂しさが押し寄せてきて。

ああ、この感情は知っているよ。

例えば、にぎやかな祭りが終わって人がまばらになった時の喪失感

例えば、遠い親戚の家に夏休み訪問して、食べたり飲んだイした後、見送られながら帰りの新幹線に乗る時の空虚感。

そういう類の感情で、それをもっと大きくしたような感覚

だって大学卒業たらみんなばらばらになって、今度いつ会えるのかもわからないんだよ。

今はSNSがあるからなにかしら繋がり続けることは簡単だけれど、でもリアルで合える頻度は減る。

それになにより、向き合う大賞が、変わってしまう。

今までは同じ大学で、学習とその先の就職という共通する目的があった。

でも、これからはみんな、違う場所で、違うことをやり、目指すべきものも変わるのだろう。

そう思うと、お祭りとか遠い親戚の家を離れるよりも格段に、寂しいと思うのかもしれない。

寂しさだけではない。

充実感と感謝気持ちもある。

「当たり前が尊いこと、幸せなことは、それを失った時に強く実感する」

そう、何の代わり映えもなくレポートを早く終わらせたいと投げやりになっていた時も。

何気なく友人と夜ご飯食べに行くのも。

一緒に勉強を教えあったり遊びにいったりした日々も。

当たり前のように流れていったことが、とても幸せで充実していたんだなと、改めて思うんだ。

から感謝してるよ。

綺麗なことだけではなくて、いろいろないざこざとか、投げ出したいこととかあった。

えれど確信している。なんだかんだいって、私たち学生をしていたと、いとおしめるんだって

みんなはどうなんだろうと、考えてしまう。

もう大学にいくことはないのだと思うと、とてもセンチメンタルな気分になってしまう。

そして、私の友人たちは私と同じようなことを感じているのかと。

別に友人たちとは社会人になろうとも、気兼ねなく遊べばいいし、それができるとは思っている。

ただね、別々な企業という対象に向かって、別々な歩みをすることがまだ想像できない。

から怖いのかな。

不安なのかもしれない。

これまでと関係性が変わってしまうかもしれないことが。

私の交流関係が狭く深くだから、だからその関係性に卒業という火種が加わるのを恐れている。いや寂しいだけかな?

友人たちも同じようなことを考えているのかな、そうであってほしいと私の強欲な部分がささやいている。

でも、ね。人は、関係性は、環境は、変わっていくものから

社会人になろう。

そして語り合おう、今までのようにね。

最後私自身に対しても、同期たちに対しても言おう。

He who would learn to fly one day must first learn to stand and walk and run and climb and dance; one cannot fly into flying.

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