はてなキーワード: 食卓とは
うちの祖母はおそらく発達障害で、むかしから言動がおかしかった。
そのせいで両親が喧嘩して、たびたび家庭の雰囲気が悪くなるのを苦々しく思っていた。
また、私が母の肩を持つので、こいつも敵とみなされて他の孫と明確に扱いに差をつけられたし、近所にあることないこと噂を流されたりもした。
大学生になった頃、体を壊して自宅療養するために実家に戻っていた。
祖母は80歳になろうかと言う頃で、日に日に言動のおかしさは増していた。近所にも「うちの孫は精神の病だから、社会復帰のためどうかお宅で働かせて貰えないか」と頼み込んだり(ただの消化器障害である)家でも社会復帰を、と諭されたり日に日にストレスが溜まっていった。
とある日、母と祖母が大喧嘩した。私の噂を近所に吹聴していたのがバレたのだ。こっぴどく叱られた祖母は、祖父の仏壇に向かってカナ切り声を上げながら「助けてください!」と泣きわめいていた。
その横で怒鳴る母、呆然として胃液がせり上がる私。もう地獄絵図のようだった。
父が帰ってから状況はさらに悪化して、もはや自分のせいじゃないかとまで思い込んで、嘔吐した。
翌日、祖母が2階への階段を上がってくる音が聞こえた。2階は両親と私の居住スペースかつ、過去押し入れを漁った前科のため祖母は上がることをキツく禁止されていた。
私を何度も呼ぶ声。「いないのか!おい!」絶対に用事などない。私を呼ぶことを理由に2階を漁りにきたのだ。
祖母がいなかったら、きっと我が家はあまり怒鳴り声は聞こえなかっただろうし、私の療養ももう少しスムーズだった。毎日の食卓も諍いが必ず起きて心地のいいものとは言え無くなっている。
あまりの私のヒステリックな態度に、さすがの祖母も踵を返した。
そのすぐあと、私は明確な殺意を持って祖母の背中を押した。死ね、とはっきり思った。
残念なことに祖母は手すりを持っていたのですぐ尻もちをつき、2段落ちただけで済んでしまった。
老人だったので、足元を滑らせたのだと私は言い張った。祖母もそう思い込んでいた。
結局また禁止されていた2階へ侵入しかけたうえ、階段を滑ってあわや大怪我するところだった祖母は、今度こそ2階へは行かないと誓約書を書かされた。
以前anond.hatelabo.jp/20190722222936 書いた増田が来たよ
寝間着はベッド、
嗅いでみて体臭、汗臭さやホコリ臭さがあればわかりやすいが、触覚が発達してたら触っただけでわかる。
コツとしては、チョークの粉より細かい小麦粉のような汗がかわいた塩の粉がついちゃって妙になめらかな手触りになる。
自分はパジャマ(下着の上から着る、夜だけの衣服)だと最大で1週間。
起きている時間もふくめて日中ずっと着るものは丸2日くらいで埃っぽくなるとおもう。(外出なしでも)
金持ちさんはウォークインクローゼットだの押入れクローゼットのハンガーにかける。
一人暮らしだとハンガーラックつかってハンガーにかけるとよい。
なにも設置できない狭さだったら手すりか食卓イスの背にでもかけるしかない。
https://www.monotaro.com/p/4202/2436/?utm_medium=cpc
ハンガーラックは2000円くらいでホムセンである。自分で組み立てるから安い。
通販だと送料が高いけど自転車に乗り切らない場合、免許もってたらホムセンの軽トラカリられる。
ニトリとかだと送料コミのお値段だったりして便利。
ハンガーは樹脂製の20本で600円くらいのが最安。
押入れに突っ張り棒でも同一効果なんだけど、突っ張り強度に耐える壁かとか自分でしっかりしらべて。
引き出し…を使いこなせたことがない
干した服を畳んでしまうような高度な家事が果たして自分にできるのか……そう考えるとなかなか引き出しを買うことに踏み切れない。一応下着と靴下をしまう小さな引き出しはあるのだが、ほとんど活用されず天板の上だけが物置になっている。
女性だとブラジャー出しっぱなしパンツ出しっぱなしだと人呼べないじゃん。
https://www.yodobashi.com/product/100000001004860377/
小さいのはあかん。こういうチェストを買うといいよ。風呂=洗濯機のなるべく近くに置くといい。ベッド下だとめんどくさい。
丸めて入れられるような小さいニット製品だけいれる(最大でタートルネックシャツとシワ加工のスカートまでOK。ボトムは材質による、ジーンズとかウォームなんとかはやめとけ)
①今ある服の山の片付け方
なるべくハンガーにかけっぱなしですむ家造り。
ジーンズやボトムはベルト通しをひっかけるための突起が両端のうちがわにあるハンガーを一束かえばいい。
これが分からなくていつも困っている。引き出しを買えば良いのか?一人暮らし分の服をどれぐらいの容積の収納に、どのように仕舞えばいいのか教えてほしい(今の部屋はドア2枚分の横幅のクローゼットと小さな4段箪笥がある。スタンダードな3段のカラーボックスも一応ある。)
3段カラーボックスは洗濯機んとこにおいてバスタオル、ハンカチをいれる。フェイスタオルの予備は洗面所の引き出しに6つ折りにしていれ、今つかってるの洗濯したあとタオルかけに1枚移動。
和ダンスは正直、通帳とか和服(高い、平置き必須)とかエログッズとかエロ本とかDVDとかコスプレ服とかそれ着た写真とか印刷した同人誌の在庫といった人におみせできないものを隠し入れるのにつかったほうがいいとおもう。(とはいえ、空き巣が入ったらまっさきに漁られるのがタンスらしいから通帳は本当はおすすめしないけど)(デスノートでもいれて電池と火薬しかけたらたのしそう)
苦手なのが、着る→洗濯の間にもう一回着るが入るセーターなど秋冬物。これを床に積んでしまうのがいつも一番の問題。これをどうすればいいか教えて欲しい。それから、着る洗濯収納サイクルの回し方、洗濯機は週に何回回せばいいのか教えてほしい。
洗濯機は溜まったら回すでいい。布団をあらえる洗濯機は大きい。大きいとなかなかいっぱいにならないけどそしたら一回で少なめの洗濯物をきれいに洗えるのだからこまめに、最低1週間に2~3かい回す。パンツやTシャツ型の下着は風呂に入るたびにとりかえよう。2日に1度とか。タートルネックは3~5日に一度とか。
ちなみに下着のローテーションはかなりうまくいっていて、脱衣所の洗濯機の上に洗濯バサミがいっぱいついたやつを釣っており、脱いだら洗濯機、干すときは洗濯機の上のとこ、着る時はそこから取るという素晴らしく便利なサイクルがある。
それをハンガーを用いて普通の服やバスタオルまで拡張してもええんやで
実家では箸置きというものを使う習慣がなかった。確か4,5歳くらいの時だったと思うのだけれども、夕食の時間に箸の置き場所に困った自分は、茶碗に盛られたご飯に箸を突き立てた。ごはんの粘性は相当なもので箸はぴたりと静止してくれた。これならテーブルを汚すこともない、何て自分は冴えているんだと当時思ってたかは記憶にないが、それを見た母親は「箸を刺したご飯は死者への食事という意味を持つのでやめるべきだ」と言って俺のことを注意した。その言葉に強い反感を抱いて、「母さんは死者が食事をすると信じているのか」「死者への食事という意味を持つからといって、自分がそれをやめなければいけない理由はあるのか」といったような反論、というか質問を投げかけたように記憶している。それに対しての母の回答は「私は信じていないが信じている人はたくさんいる。そういった人が見ると不快になる」「宗教的な意図に関係なくとも、単純にみっともない」といった内容だった。幼少期の自分は親にとても従順であったため、釈然としないながらも引き下がった。
年を重ねるにつれて「宗教的な儀礼を除いて箸をご飯に突き立てるべきでない」という規範は自分自身にも深く根付いていった。思春期に差し掛かかるころには「日常の中でご飯に箸が突き立てられている光景」を見て直感的に不快感を抱く程度には。
さらに長じて倫理とか規範とかに興味を抱き始めてから、幼少期のこの出来事に対して強い反発を覚えた。幼少期の自分に対して母親が示したルールは、要するに以下2つのような意味合いとなると考える。
「私は信じていないが信じている人はたくさんいる。そういった人が見ると不快になる」より
①自分が尊重していなくとも、他社が尊重している信仰や規範(平時にご飯に箸を突き立てるべきでない)は、自分の便益(机を汚さない)を害しても配慮すべきである
「宗教的な意図に関係なくとも、単純にみっともない」→箸を突き立てられたご飯に対して「みっともない」と感じるのは明らかに生得的ではないと考える。実際のところ後天的に植え付けられた規範からの逸脱に対して不快になっていると考えると、
②すでに共有されている規範・マナーから逸脱すると人は不快に思うため、規範・マナーから逸脱すべきでない
ちょっと露悪的に書きすぎたきらいはあるけれど、この2つのルールって本当に正しいか。
①「自分が尊重していなくとも、他社が尊重している信仰や規範は、自分の便益を害しても配慮すべきである」について
当たり前であるが、個々人によって尊重している信仰や規範は違う。ただ、共通してる部分もかなり多く、例えば現代日本人の多くは自由や平等だったり人権思想に基づく価値観(以下、世俗倫理と表記)について、強く尊重すべきものであると考えている。信仰していると言い換えてもよい。一方で特定宗教の人格神みたいなものは信じていないし、その教義の基づく規範(以下、宗教倫理と表記)に価値を見出さない。見出さないは言い過ぎにしても、少なくとも自由や平等などの世俗倫理がより優越すると考えている。自分は平均よりかなりラディカルだと思うけれど、同様に世俗倫理を支持し、宗教倫理より優越すると考える立場にある。
具体的な例を考えてみる。例えば原理主義的なキリスト教徒が聖書を引用して「同性愛者は倫理的に悪であるため社会から排除すべきである」と主張しても自分はそれを尊重しないしその思想に基づく実力行使を許容しない。なぜなら「同性愛者は倫理的に悪であるとする聖書の記載」に自分は価値を見出さない。「原理主義的なキリスト教徒が同性愛に対して抱く不快感情」については価値を見出すが、「同性愛者の幸福追求権や自由権」がそれに優越すると考える。なぜなら自分は世俗道徳を尊重し支持しているからである。宗教倫理と世俗倫理が背反するときには世俗倫理が優越されるべきで、それは世論だったり、それに実行力を与える法律や暴力装置によって施行されるべきと考える。これは宗教倫理の優越を主張することを制限すべきでないという意味ではない。あくまで思想・信条の自由は最大限尊重されるべきであり、言論によるパワーゲームは続けられるべきだと考える。
ここまでの整理については大多数の人に同意してもらえると思う。「宗教規範」と「世俗規範」が対立して共存できない問題については、他社の尊重する「宗教規範」を踏みにじってでも自分が尊重する「世俗規範」の基づいて社会が運営されるべきと考える。どれだけ他者の価値観を尊重するとは言っても、共存できないものはある。そうなったら、その社会で尊重される規範は身も蓋もないパワーゲーム(必ずしも直接的な暴力ではない)で決定されるしかない。これについてはISISの騒ぎで個人的に痛感したのだけれど、実際問題として世俗倫理に反する宗教倫理を現代で志向しようとすると暴力に頼るほかないし、それに対するカウンターだって経済的・暴力的なパワーゲームで押しつぶすしかない。人権思想よりコーランの字義通りの解釈を尊重している相手に「お前は人権思想に反している!」と言っても対立者に対してはまるで効力がない。
さて、話を戻してこの理屈が「ご飯に箸を突き立てること」にどのように適用されるかを考える。ここで対立するのは「ご飯に箸を突きたてることで便益を得る」自分の自由権・幸福追求権と、「ご飯に箸を突き立てるべきでない」という宗教倫理である。これは共存し得ないので、世俗倫理を尊重する立場からすると「ご飯に箸を突きたてることで便益を得る」ことが優越すべきであると考える。不快になる人間に配慮して箸をご飯に突き立てないことは賞賛すべきかもしれないが、配慮をしないことについて非難されるいわれはないと考える。私はシャルリーを引き合いに出してもいいけれど、他者の規範の尊重は、私の尊重する規範を害さない範囲でないともちろん認められない。人権思想や表現の自由は自分にとって宗教倫理より優越する。宗教倫理を害す表現に対しての批判、「ムハンマドの顔を書くべきでないし、揶揄すべきでない」という主張は許容できても、ムハンマドの顔を書き揶揄することは制限すべきでないし、それに対する実力行使は許容できない。なぜなら自分は「ムハンマドの表象を書くべきでない」という宗教倫理より表現の自由という世俗倫理をより尊重する立場にあるからである。
まあ、そもそもこの「ご飯に箸を突き立てる」ことに対して特別な意味合いを見出してる教義って明確にはないみたいで、「仏教・神道の教えっぽいとみんなが認知してる慣習」以上のものでは無いっぽいので、宗教倫理とするよりも単純なマナーの問題と考えたほうが筋は良いと思ってます。ということで次の話につながります。
②「すでに共有されている規範・マナーから逸脱すると人は不快に思うため、既存の規範・マナーから逸脱すべきでない」について
これを言い換えると
・上記より、マナーを破る行為は人を不快にするため好ましくない
いやー完璧な3段論法が完成してしまった。ただよく考えると「マナーはそれがマナーであるから守るべきである」と言っているのと何ら変わりない発言である。そしてこの「マナーはそれがマナーであるから守るべきである」という考えについて自分はそれはそれはもう憎悪を抱いている。
まず、ここでいう「マナー」という言葉について自分は「緩い規範」くらいに定義している。例えば「人を殺すべきでない」みたいな基本的に絶対に逸脱すべきでないし、逸脱したら重大なペナルティと非難が避けられない「重い規範」とは対照的に、「逸脱するのはなるべくやめたほうが良い」くらいの「緩い規範」=マナーということで話を進める。
何かのマナーに価値があるとすると、そのマナーを守ることによってメリットがある場合であると考える。なぜならマナーとは往々にして「○○をすべきである」「○○をすべきでない」とい行動の強制を伴う規範であり、選択肢を狭めるものであるからである。基本的に選択肢は多いほうがいいと自分は考える。
さて、例えば「電車の乗り降りは降りる人を優先すべき」というマナー。このマナーが広く共有されていることにより、電車の乗り降りをスムーズに行うできる。確かにこのマナーを守ることによってメリットが存在するため、「電車の乗り降りは降りる人を優先すべき」というマナーには存在価値があるだろう。
ひるがえって「ご飯に箸を突き立ててはいけない」というマナーに価値があるだろうか。真っ先に思いつくのが「ご飯に箸を突き立てている光景を見ることによる不快感」を回避できるというメリットだ。たださらに思考をすすめてなぜ不快に思うのか?を考えると「ご飯に箸を突き立てるのがマナー違反であるから」に行きつくだろう。「ご飯に箸を突き立てること」に対して特別な意味を見出しているのは日本だけのようだし、ご飯に箸を突き刺して悦に浸っていた幼少期の自分を例にとってみても、この不快感は生得的なものとは思えない。(このあたり、まじめな研究があったらめちゃくちゃ見てみたいので情報大募集です)多くの人は後天的に「ご飯に箸を突き立てることはマナー違反である」と学習し、そのマナーが逸脱されたことに不快感を抱いていると考えられる。つまり、「ご飯に箸を突き立ててはいけない」からこそそれに不快感を抱く人がいるのであり、そもそもこんなマナーが存在しなければ多くの人は箸にご飯を突き立てられている光景をみてもおそらく何とも思わない。
マナーが増えるということはもちろんマナー違反が増えるということでもある。つまり、マナーが増えるとマナー違反による不快を感じる機会が増えるとも言える。これは本当に声を大にして言いたいことで、「それがマナーであるから」以外に守る意味のないマナーは不快を感じる機会を増やしているだけである。不快を感じる機会は減らしたほうがもちろん良いので、メリットのないマナーなんて無いほうがいい。ご飯に箸を突き立てて机を汚さないメリットを自由に享受できる社会のほうが絶対にいい。自分がマナー業界を蛇蝎のごとく嫌っているのはこの辺が理由で、メリットのないマナーを創作して稼いでるあいつらマジで不幸の商人だよ・・・・・と思っている。
と、ここまで書いたけれども、実際のところ「それがマナーであるから」以外に守る意味のないマナーにもメリットはある。マナーに合理的な意味があろうがなかろうが、「その場において支配的な規範=マナーに従順でない」人間、長いものに巻かれない・巻かれることのできない人間を排除する上では非常に有効に機能する。良く言えば自立した人間であり、悪く言えば協調性のない人間だ。こういう用途で使うならむしろ合理的なメリットなんて存在しないマナーの方が有用かもしれない。とはいえ、自分の信仰としてこういった排除のロジックは気に食わないのでやっぱり「それがマナーであるから」以外に守る意味のないマナーなんて無いほうが良いと思う。マナー業界はいち早く滅びてほしい。
ここまで読んでくれた方なら、我々はご飯に箸を突き立てるべきであると十分に理解していただけたと思う。実際問題として「平時にご飯に箸を立ててはいけない」というマナーは多くの日本人に強烈に内面化されており、箸が突き刺されたご飯を見ると理屈に関わらず一定の不快感を生じてしまう。これは自分だってそうである。ご飯に箸を突き立てる人は、間違いなく突き立てなかった時より嫌われる。それでも、嫌われるから、すでに定着してるからなんて理由で有害なマナーを継承していいのか。それがなんであり、どのような影響を与えるかについて何の疑問も抱かず、ただ「私はマナーを守っているから道徳的である」と悦に浸っているだけでよいのか。それは将来の不幸を増やしているだけじゃないか、そんなものに迎合していいのか。他人に自我を預けていいのか、自分を誇れるのか。
「ご飯に箸を突き立てるなんてマナー違反だ」という前に少し考えてほしい。なぜ?と聞かれたときに十分な説明ができるだろうか。誇りをもった説明ができるだろうか。実際、子供にそれを言わないのは難しいだろう。ご飯に箸を突き立てる子供は間違いなく悪意にさらされるし、それをはねのけろというのはあまりにも酷だ。でも、それがただの処世術だと伝えることはできるはずだ。幼児には無理でも、中学生、高校生ともなればこの理屈は理解できる人が多いはずだ。せめて、突き立てられたご飯を許容することはできるはずだ。社会は時に非合理で残酷になるが、あなた自身までそうなる必要はない。非道を止められなくとも、一緒になって非道をやる理由はないはずだ。ベストを選択できないことはベターを選択しない理由にはならないはずだ。
将来のことを考えてほしい。より良い世界のことを考えてほしい。私たちはご飯に刺さった箸を見たら不快になる。箸置きがなければ直接箸を置くしかないし、机の上はご飯粒でぐちゃぐちゃだ。まかり間違ってもご飯に箸を突き刺さないように気を付ける食卓はピリピリして緊張感に溢れている。それでも私たちがここで勇気を出してご飯に箸を突き立てれば、他人から嫌われることを厭わず「そんなマナーは無いほうが良い」と言い続ければ、そんな人が増えていけば、次の世代ではどうだろうか。「ご飯に箸を突き立てるべきでない」なんてマナーの存在を知らない世代の食卓はどんな光景だろうか。
彼ら、彼女らは箸置きがなければご飯に箸を突き立てることができる。箸置きが無くったって机は清潔に保たれるし、それを見て不快に思う人なんかいない。ご飯に箸が突き刺さっていたからそれが何だというのだ?机にへばりついた米粒なんて誰だって片付けたくはないではないか。ご飯に箸が突き立つ、そんな清潔でリラックスした食卓は朗らかな幸福に包まれている。それはささやかながら、今よりももっと良い世界であるはずだ。
これからの世界がそんな素晴らしいものであってほしいなら、これからの世界をより良いものにするため、私たちはご飯に箸を突き立てなければならない。
僕はパンフレットも買わず事前情報も得ずに見たので、Wikipediaが一番簡潔で良かったのでコピペするよ。
『異端の鳥』(いたんのとり、原題:Nabarvené ptáče / The Painted Bird)は、2019年制作のチェコ・ウクライナの映画。
第二次世界大戦中、ホロコーストを逃れて疎開した1人の少年が、様々な差別や迫害に抗いながら強く生き抜いていく姿を描く。ポーランドの作家イェジー・コシンスキ原作の同名小説の映画化。第76回ヴェネツィア国際映画祭ユニセフ賞受賞。R15+指定。
なお、本作の言語には舞台となる国や場所を特定されないよう、インタースラーヴィクという人工言語が使われている。この言語が映画で使用されるのは史上初めてのことである。
この原作本は日本でも買えるよ。映画公開で急速ランクアップで現在売れ筋・その他外国の文学作品部門でAmazon第8位。『ペインティッド・バード (東欧の想像力)』だよ 。高いな、しかし。5千円以上ってどういう事?よく知らね。
で、原作では6歳の少年らしいが、それはあり得ないね。せめて8歳にしておかないとあれは無理だろう。6歳であれだけのことが出来るって芦田愛菜並だ。ともあれ、6歳では演技不能なので、多分主役を演じたペトル・コトラール君は10歳くらいではなかろうか。もちろん彼は無名の新人だ。
しかし、ペトル君の周りを固める役者さんは豪華だよ。最も豪華なのはなんと言ってもハーヴェイ・カイテルだろうね。でもハーヴェイは大した役所ではない、アル中の司教だ(いい人だがな)。
とんでもねーのはウド・キアだ。悪役はいっぱい揃ってるが、この人の演じた村人役は凶悪すぎる。この映画の最優秀演技賞はウド・キアで決まりだろうな。
そして、変態少年性愛者を演ずるこれまた名優、ジュリアン・サンズ。流石にこいつは許せなかった、と思ったら少年はジュリアンを爽快な殺し方でやっつける。最高だったね、拍手喝采したくなった。
めっちゃ色んなハリウッド映画に出てる名脇役にステラン・スカルスガルドも、この人はドイツ軍兵士のいい人役で出てきます。印象には残りますが、少年を逃してくれるだけで特にたいした役どころではなかったかな。
で、極め付けは、なんと言ってもジャクソン二等兵だよ!いーかい?ジャクソン二等兵が出てるんだ!そうだよ、『プライベートライアン』であの教会の天辺で死んでたかと思ったら、なんと生きていつの間にか赤軍の兵士になってたんだ! え? バリー・ペッパーのことだろ?って? ちげーよ!ジャクソン二等兵だよ。ホントなんだってば! いきなり歳食ってて渋くなってびっくりしたけどあれは間違いなくジャクソン二等兵だ! 見ればなんの話かわかる。
でも、多分日本人鑑賞者の大半は歴史知識があまりない状態で見るだろうから、感動は少ないだろうね、きっと。でもホロコーストの歴史を知っておくと、これは感動するよ。このペトル君演ずる少年はユダヤ人だ。家族もユダヤ人だ。家族は父親しか出ては来ないが、ともかくユダヤ人家族の少年の物語だ。ホロコーストでは、ナチスはユダヤ人絶滅政策をとっていたことくらいは知っているだろうが、実は、絶滅はさせるつもりだったが、労働適格者は強制労働をさせるために生かして残していたんだ。ではもう一方の労働不適格者とは? それは老人であり障害者であり重病人だったり、そして14歳未満の子供なのである。アウシュヴィッツにユダヤ人が強制移送されると、労働不適格者は駅について選別されると、3時間程度以内にシャワーに入ってーと親衛隊に騙されてガス室送りにされ殺されたのだ。当然このことは親衛隊は言わなかったが(別の地域に住んでもらうとしか言わなかった)、噂レベルでユダヤ人だって知っている人は知っていた。それで、ペトル君の家族はペトル君だけを疎開させたのである。殺されるかも知れないから。これを知っているのと知らないのとでは理解が大分違うはず。あともう一点、ユダヤ人の強制収用施設はたくさんあったが、アウシュヴィッツだけが登録囚人の腕にナンバーを入れたのである。これも豆知識として知っておくといい。
あと、この映画の舞台は映画の中では一切明かされないが、ソ連領域を含む東欧地域であることは間違いない。使用される言語もインタースラブ言語(インタースラヴィク)と言って、スラブ民族の言語の特徴を全部混ぜ合わせて作った人工言語を使用している。故に言語はそれっぽいのに地域は特定できないようにしてある。この映画は史実を背景にしたフィクションであり、見方によっては仮想世界の話とも取れるだろうから、これはうまいと思ったね。安易に英語にしなかったのはナイスアイデアだ。
冒頭、ペトル君(この少年の名前は最後の最後になるまでわからない)が、林の中を誰かから逃げているところから始まる。少年は胸に白い何かフェレット?のような生き物を抱えている。しかし追手にすぐに捕まり、その生き物を奪われて、その生き物に可燃性の灯油か何かをぶっかけられ、その生き物をその場で焼き殺される場面からスタートだ。いきなりこの残酷描写には目を背けたくなる人も多いだろう。そのフェレットのような生き物がまさに焼き殺され、その場を燃えながらのたうちまわるその生き物の映像。これはキッツイぞ。それを茫然と見つめる以外にない少年の虚な視線。
しかしこの冒頭のシーンを理解できる日本人は少ないだろう。これは、今からこの少年のホロコースト物語が始まるという合図に相違ないのである。何故ならば、ホロコーストの原義は古代ユダヤの儀式、生き物の丸焼きを生贄として捧げる、だからである。これをわかった人は多分、ほとんどいないはず。親がこの少年を疎開させホロコーストから逃したと思っていたら、それは違うぞ、と。
その通り、疎開先で預かってくれた老婦人が夜中突然死し、びっくりした少年がランプを落としてしまって、それが原因でその孤立した一軒家は全焼。そこから彼のホロコーストの旅が始まるのである。少年は設定上は6歳? でも10歳くらいにしか見えないんだけど、それはともかく、大人に世話にならないと生きていけない。彼は家に帰りたかっただけなのだが、ともかく大人に構ってもらわないと、ということで色んな大人に預かってもらい続けることになるのだ。その預かられた先ごとに一つの章になっている。その章ごとに預かってもらった大人の名前を章タイトルにしている。何章くらいあったか覚えてないけど、十件はなかったかなぁ……順番もあんまりよくは覚えていないが、とにかく残酷物語だらけ、と言っても結構リアルっぽさを出してあり、普通のホラー映画のようにはっきりと悪という人はいない。でもそれだけに、本物のリアルな悪なので、ホラーよりずっと恐ろしいぞ。
多分これが一番最初だったんじゃないかなぁ? よくは覚えていないが多分そう。この少年は見栄えが少し人と違うのである。もちろん放浪してきた少年がやってきたその村からすればそもそも余所者なのだけど、とにかくその村の村人たちは、到底近代世界の住人ではなくって、風習と迷信だけで生きている世界の人たち。少年はその悪魔払いのババアに「この子は悪魔の子だ」と勝手に決めつけられて、ババアに買い取られるのである。要はこのババア、助手が欲しかったのである。そして少年は助手として実際には結構丁重に扱われ、見ている側としては若干肩透かしを喰らう。で、映画宣伝に使われている地中に埋められて首だけ出して、カラスに見つめられる写真があるが実はそれ、虐待ではなくってババアの少年に対する治療施術なのである。少年はどうやら当時流行しまくっていた発疹チフスに罹患したらしかった。
でもま、カラスに突かれまくって血塗れになるのだけど、ババアが少年を助けてくれるのだ。お前が悪いんだろうが・・・と言いたくなったが、それはまぁ演出と言うことで。
確かねぇ、その前にもう一つエピソードがあったと思うんだ。多分だけど、林の中で足に怪我をしたがために見捨てられた馬を、少年が放浪中に助けてあげようとして次の村まで連れて行くんだよね。でも馬が足を怪我したらサラブレッドがそうである様に殺されちゃうんだよね。このシーンが結構えげつないんだけど、それはさておき、その村人のある男が川で釣りをする(つっても奴隷作業だよ)少年を脅かして少年が川に落ちて流されてしまう。そのたどり着いた先がウド・キアが世帯主の家だった。救ったのは親父の妻とその家で働く雇用人。
とにかくこの親父、理不尽親父の象徴みたいな奴で嫁に体罰するのが日常茶飯事。で、ある雨の日、親父が家に帰ってくると何故か頭陀袋を持って家に入ってきた。そしてディナーの時間になる。ところがこの頭陀袋、まるで生き物の様に蠢くので、まさか子供でも入ってるの?とドキドキするのだが違った、白黒斑のネコだったのである(意味不明)。そしてこの猫が以前から飼われていた猫といきなり交尾をし始める。それを見ながら食卓で食事をする親父と妻と雇用人。ところが親父、いきなりブチギレてテーブルをひっくり返す。いわく雇用人に詰め寄って「てめー!俺の嫁とセックスしようと思ったろ!許せねぇ!テメェみたいな奴にそんなふしだらな目玉はいらねぇ!」とその場で雇用人の両目玉をスプーンでくり抜くのである。怖すぎっだろw 一応伏線は貼ってあったけどね。
で、少年、目玉をくり抜かれて家を追い出された雇用人を、その目玉を拾って、自分の荷物もまとめて出て行くのであった。途中目玉をくり抜かれた雇用人が木の根元で苦しんでいるのを発見、目玉を返してあげるのであった(返しても意味ねーだろうが、少年にはそれはわからなかったのであろう)。
エピソードがとにかくてんこ盛りなので順番がよくわからないんだけど、少年がね、これも確か野原を放浪してたのかなぁ? んでね、その近くでユダヤ人の移送列車からユダヤ人たちが逃げ出そうとするシーンがあるんだ。全員親衛隊に結局銃殺されるんだけど、その中で一人だけ生き残ったユダヤ人のおじさんと遭遇するんだけど、親衛隊に見つかり二人して町まで連行されるわけ。で、おじさんは銃殺されるけどハーヴェイ・カイテル演ずる司教に助けてもらうわけさ。で、最初は教会で一緒に暮らすことになるんだけど、司教が病気で少年をあまり構ってあげられないからと、その少年に気があったジュリアン・サンズに司教から預けられることになるわけ。で、観客の期待どおり、犯されてしまう少年。この映画、本当に少年をこれでもかと虐待しまくりますが、個人的にこのシーンが一番キツかった。だって、シーン自体は見せないで悲鳴だけが聞こえるのです。これは流石に堪えました。かわいそ過ぎます。でもですね、この後少年が森の中へ出かけるのですが、偶然、小さな軍事用トーチカを発見します。そこで二つの重要な発見をします。一つは折り畳みアーミーナイフ、これは拾って持って帰ります。もう一つはそのトーチカの天井部分の天辺に開いた口径1メートルくらいの穴です。覗き込むと・・・ひぇぇ大量のネズミがいたわけです。気持ち悪過ぎですが、とりあえず少年はサンズの家に戻ります。で、色々あって少年は拷問されて後ろ手に縛られるのですが、持っていたアーミーナイフでそのロープを切ろうとしたらこれがバレてしまいます。で、サンズは「一体そのナイフどこで拾ったんだ?」と言うことで、現場へ二人で行くわけですよ。ところは少年は機転をきかせます。サンズをうまいことそのネズミの穴に落としてしまうのです。えええええ? となりますよ。恐ろしすぎるぞ、あんなの。もちろんサンズはネズミに食われて死亡。
そしてその後、もっかいカイテルの教会に戻るのですが、ちょっと教会作業をしくじって肥溜めに投げ捨てられます。これは予告編にもありますね。で、きていた服を川で洗って、放浪再開。
思い出しました。確かー、悪魔払いのババアの次がこのエピです。あんまり印象ないんですよね。いい人なのか悪い人なのかよくわかんないんですよ、この小鳥屋のおっさん。んで、とにかく小鳥屋のおっさんの家で一緒に暮らし始めることになる少年なのですけど、ここによくわかんない全裸の女が小鳥を持ってやってきます。この女、生きてる目的が性欲しかないのです。でも何故かこの小鳥屋のおっさん、この女に惚れちゃったんでしょうね。ともかくおっさんはその小鳥をもらって、その場で野外セックス。
で、順番的に言うと、重要なシーンが入るので説明すると、この小鳥屋のおっさんの家の外に、少年とおっさんがいます。そして、少年は手に持たされた小鳥の一羽の羽を広げる様に言われます、するとそのおっさん、その小鳥に何やら白い絵具の様なものを塗りたくります。そして、その小鳥を空へ放つと、その小鳥はちょうど空を待っていた同じ小鳥の種の大群の中へ入って行くのですが、その小鳥は大群の突き回されて、死に絶えて地上にいた少年の足元に落下するのです。どうやら、その塗りたくった絵具に小鳥の餌が混ぜてあった様です。おっさんが何故そんなことをしたのか理由は不明ですが、これが映画の原題である「The Painted Bird」です。そんなに考えなくとも、これがテーマだって分かりますよね?
そして、その変態性欲女、村の餓鬼どもを誘惑してセックスするのですが、これが村のその子供たちの母親たちの逆鱗に触れて、集団リンチを喰らいます。瓶をマンコに突っ込まれ、それがおそらく原因で死んでしまうわけです。僕は平気だったけど、これもまたキッツイシーンですよ。それで、その女に惚れていた小鳥屋のおっさんはショックで首をつって自殺しようとするのですが、それを発見した少年、あまりに苦しそうなので、可哀想だと思ったのか、おっさんの足元にぶら下がって自分を重りにして死なせてあげるのでした・・・これもまたキツいシーンです。
もうね、三時間もある映画だから、エピソードてんこ盛りすぎて、端折らないとね。変態性欲女がもう一人出てくるんですが省略です。ソ連のコサックとかの話もあるけど、それも省略。とにかく、ジャクソン二等兵ですよ、二等兵。色々あって放浪しているうちに、今度は赤軍の駐屯地に少年が保護されます。ここはいい人ばかりです。そして、テントの中にいると、ジャクソン二等兵が登場! ええ、赤軍将校を演じたバリー・ペッパーなんすけどね。確かプライベートライアンの後、父親たちの星条旗くらいでしか見た記憶がなかったんですけど、最初誰だろう?と思ってたんです、事前情報なしで見たから。で気がついたジャクソン二等兵だ!と。そいでね、少年はおそらく、ジャク……じゃねぇや、そのバリー・ペッパーに多少憧れたのでしょうね、ある夜、バリーはライフルを持ってテントから出て行くのです。あれ?逃亡でもすんの?と思っていたのですが、実は仕返しをしに行くつもりだったのです。その出て行く夜に事件があったのです。駐屯地の外へ出た赤軍兵士数名が、近くの村人に殺されたのです。理由はよく知りませんが、赤軍を嫌っていた村人とかがいたのでしょうか。そのバリーの後を少年がついていったわけですよ。そして、村から少し離れたところにある、木の上で朝食を取る二人。それが済むとバリーはライフルを構えるわけです。そうです、ジャクソン二等兵なのです! どう考えたってこれはウケ狙いです(笑)。木の上から確か五人、村人を正確な照準で殺すのです。そしてジャクソン……じゃなくてそのバリー演ずる赤軍将校は少年にこう言います。「やられたらやり返せ」と。
キャベツの油いため
冷ややっこ
ジャガイモの皮をむいて切る
鍋に水を入れてジャガイモを加熱する
ショウガを出して皮をむいてすりおろす
すりおろしたショウガと豚肉をボウルに入れて、醤油酒みりんで味をつけておく
まな板を洗う
キャベツを食べる分出して洗う
フライパンを火にかける
キャベツの芯をとって切る、同時並行でフライパンに油を入れて温める
キャベツを皿に盛りつける
さっきのフライパンに油を入れて温める
ジャガイモが煮えてきたのでだしの素と味噌を入れて、乾燥ワカメを入れる
豚肉に火が通ったら皿に盛りつける
ご飯が炊けるまで片づけをする
箸や水と一緒に食卓に持っていく
食べる
そういう話でなくてだな、単純に日本は誤診多そう・知識のアップデートなされて無さそう・脳神経外科と連携していなそうってだけ
もちろん増田のいう認知治療もほとんどなされていないも含まれるな
誤診多そう・アップデートされて無さそうはたとえばこんなの
それ以前に鉄が不足していると、自律神経失調症と同じ症状、ひどい場合は統合失調や鬱病と同じ症状が出るよ
自律神経に不安を感じたら鉄不足・貧血の自覚あろうとなかろうと、とりあえず鉄とっとくといいよ
(日本語記事) 新宿区でうつ病の治療ができる心療内科・精神科は神楽坂ストレスクリニック
https://kagurazaka-clinic.com/depression/
内科的疾患(甲状腺機能低下症、鉄欠乏性貧血、薬物性の疾患など)によって、表向きのうつ状態を引き起こすこともあり、適切な診断と治療が必要です。最近では、「鉄不足」がうつ状態やパニックを呈することがある事がわかってきました。この場合は、向精神薬よりも鉄剤を処方するほうが効果的です。
[NDPI] Latent Iron Deficiency as a Marker of Negative Symptoms in Patients with First-Episode Schizophrenia Spectrum Disorder
https://www.mdpi.com/2072-6643/10/11/1707
[Bibliomed] Assessing severity of involvement of autonomic functions in iron-deficiency anemia patients
https://www.bibliomed.org/?mno=36434
[Frontiers]Iron Supplementation Relieves Dysautonomia in Non-Anemic Female
腸からのアプローチや食からのアプローチくらいならググるといるんだけどそのくらい
そもそも、人間は凹凸があって当たり前で、誰しも病気と言えるし誰しも病気じゃないと言える
理由もなく死にたいってなったり、日常生活に支障が出ているから、治療が必要になったり・障がいとしての配慮が必要になったりする
それを「だいじょーぶでーす」ってなにもだいじょばないだろう
少なくとも根拠は聞きたいし、聞くべきだと思うぞ
日本の精神科医ってものすごくレベル低そう・世界からクソ遅れてそうって偏見持っているけど
日本にはヤクルトがあるし食品メーカー(健康食品)も強いので研究費が降りるのだろう
脳腸相関が科学的に説明できるようになってきています
○ 脳腸相関とは?
機能性消化管疾患の患者さんを診療していて気づくのですが、おなかの症状だけでなく、眠れない、落ち着かない、頭痛、食欲がない、意欲がない、などの精神神経症状を訴えられる患者さんがたくさんおられます。
腸のせいで脳に影響しているのか、脳のせいで腸に影響しているのか難しい悪循環になっているように思えます。「脳腸相関」として医学的には以前からよく知られた現象として有名です。
これまで、便が軟らかくなりやすい下痢型の過敏性腸症候群の患者さんに対しては、「ストレスが原因ですから、生活などのライフスタイルを見直すことが重要です」といった説明をすることが治療の出発だったわけです。ところが、最近の研究によりこのような脳腸相関をある程度科学的に説明することが出来るようになってきました。
過敏性腸症候群の病態においては、腸内フローラの異常、短鎖脂肪酸などの腸内環境の異常により、腸から脳への信号伝達に異常が生じているようです。
消化管内腔の粘膜細胞に刺激が加わると、この信号は迷走神経下神経節を介して延髄孤束核へ、また、脊髄後根神経節を介して視床、皮質へ伝えられると考えられています。これが内臓知覚といわれるものです。この内臓知覚には消化管壁内に存在している内在性知覚ニューロンからの信号も関係していると考えられています。
特に、この内在性知覚ニューロンの情報伝達にはセロトニン3受容体(5-HT3受容体)が関与していると考えられており、過敏性腸症候群の下痢型の治療薬として5-HT3受容体の拮抗薬が著効することが証明され、臨床応用されています。腸内細菌のなかで神経伝達物資であるγアミノ酸(GABA)を産生する菌があることも確認されています。
この菌が少ない子どもは、行動異常、自閉症などになりやすいとされています。自閉症の子どもに対して腸内環境の改善による治療が試みられています。
ストレスの実験モデルとしてラットの脳室内にCRFを注入するモデルがあります。ストレス下で脳から腸へのシグナルの最初は視床下部の室傍核から分泌される副腎皮質刺激ホルモン放出因子(CRF)です。このCRFは、下垂体前葉の副腎皮質刺激ホルモン(ACTH)分泌を刺激し、ACTHは副腎皮質からの糖質コルチコイド分泌を刺激し、ストレスに対して適応する様々な生体反応を起こします。いわゆる視床下部-下垂体-副腎軸(HPA軸)といわれるストレス応答です。さらにCRFは下部消化管(結腸)の運動亢進を起すとされ下痢型過敏性腸症候群のモデルとして使用されています。
こういったCRF投与によるストレス負荷を受けた腸管では、平滑筋刺激による運動亢進だけでなく、腸内の細菌叢にも変化が生じるようです。脳内のストレスが腸管に何らかのシグナルを送り、細菌叢に働きかけているようです。ラットの実験ですが、CRFを注入する前にラットに水溶性食物繊維を前もって投与しておくと、この腸管運動亢進が抑制されることも見いだしています。つまり、様々なストレスに対して腸管内からのアプローチが可能になってきているのです。
私たちが脳で幸せを感じるもとになる「幸せ物質」のひとつがセロトニンなのです。このセロトニンが脳内で正常に作用すると、ヒトは前向きな気持ちを保ち、幸せを実感し、健康ですごせるとされています。
セロトニンが不足すると、怒りやすく、時間が経過してもそれを抑えられなくなり、キレやすくなるようです。
実は、このセロトニンは腸管で作られているのです。さらに、このセロトニンの生成に特定の腸内フローラが関与することが明らかになりました。
無菌マウスの血中セロトニン濃度が通常環境で飼育されているマウスに比較して低濃度であり、無菌マウスは落ちつきがなくなるようです。
このようなマウスを普通の環境に戻したり、乳酸菌などを投与すると、マウスは落ちつきを取りもどします。子どもの脳の発達には腸内細菌の働きが大変重要であるようです。
腸内細菌にはカラダにとってよい作用をする有用菌(善玉菌)と悪い作用をする悪用菌(悪玉菌)が競り合ってすんでいます。この種類の多くは7歳ぐらいまでの生活で決定されるようですが、その後も腸内細菌の種類、量は多くの因子の影響を受けています。図を見てください。現状で私が考えている重要な因子を並べてみました。
有用菌を増加させるために最も重要なものが食物繊維です。特に水溶性の食物繊維が大事です。
大便の80%は水分で、残りの20%は剥がれた腸粘膜細胞、食べ物のカス、腸内フローラです。「バナナ便」と言われるような健康な大便のためにはいろんな対策が必要です。
重要なポイントは、大腸で「発酵」といわれる反応を上手く導き出すことで、この発酵反応には、材料としての食物繊維と主役の有用菌の存在が必須なのです。ところが困ったことに、日本人の食物繊維の摂取量は年々減少して、最近の調査によると、成人の1日当たりの食物繊維の摂取量は男女ともに15gほどに低下しています。
10代、20代では10g前後と極めて少なくなっています。食物繊維を多く含む食材としては、野菜、芋類、キノコ類、海藻類、豆類などがありますが、洋食の普及と共にこういった野菜の摂取が減少しています。
玄米から精白米にする過程で食物繊維は6分の1程度に減少してしまいます。現在の日本人は平均で5〜10gの食物繊維不足と考えられます。発酵食品は世界各地で昔から食卓に並んできました。
日本でおなじみの納豆、酢、みそ、しょうゆ、日本酒、漬け物、ヨーグルトはすべて発酵食品です。これらの発酵食品の製造には、カビ、酵母、細菌などの微生物、いわゆる発酵菌の働きが必要です。
もっとも重要な作用は、このような発酵菌が腸内フローラを有用菌に変化させることと考えられています。ポリフェノールにより腸内細菌の有用菌が増加することも分かってきました。
太陽化学株式会社:食と健康Lab>学術コラム>脳腸相関が科学的に説明できるようになってきています
つぶあんが添えてあるつぶあん肉じゃが、ポテトサラダにこしあんが練り込んであるこしあんポテサラ、大豆と小豆の不協和音が楽しめる納豆つぶあんパスタなどなど…
そして餡が最初から視界に入っている場合はまだマシな方で、本当に恐ろしいのは突如口内に餡が出現するアンブッシュ、いや文字通り餡ブッシュである
「今日はハムカツか(よかった餡がかかってなくて)」と思いながらソースをかけてかぶりついたところ、薄いハムとハムの間から突如現れるこしあん
こうなるともう脳の処理が追い付かず味覚は大パニック 食べてみるまでどんな味か分からないとか我が家の食卓はこしあんルーレットか!と叫びたくなる有り様である
ちなみに昨日の夕飯はオムライスとちくわ入りのインディアンサラダ
おっ、もしかして今日はあんこフリーな食事なのかと期待しながらスプーンを動かす自分 卵に包まれた中から出てきたのはつぶあん入りのご飯
「オム…あんこ…」
その日の夜は滅茶苦茶セックスした
ちょっと大げさかもしれないし、あくまでうちら夫婦に限った話かもしれないけど、割と目からウロコな話だったので聞いてくれ。
結論を先に書くと、「してもいい?」という言葉を「したい」に変えたということ。
同じと思うかもしれないけど、結婚して10年、前者はいつも使っていたけど、後者を使うことは多分一度もなかった。
その歪みが積もり積もって夫婦の関係を冷ややかなものにしてしまっていた。
なぜ「してもいい?」という言葉を使っていたのかと言われれば、夫婦とは二人いて初めて意味のあるもので、何かしらの決定は常にお互いの承諾が必要だと考えていたからだ。
おそらく、その考え自体は間違ってないと思う。
しかし、その承諾を得る方法として、自分が選んだのは「してもいい?」という問いかけだった。
この言葉は、一見自分の要望を丁寧に伝えているだけの言葉とも取れる。少なくとも自分はそのつもりで使い続けていた。
ところが、この言葉にはうっかり見落としてしまうような落とし穴があった。
それは、自分の要望に対する責任を相手に依存してしまっているという点だ。
例えば、「今日の帰りに飲み会に行ってもいい?」と聞くとする。
少し難しい話をすると、これに対して「いいよ」と答えれば、それは”承諾”だけではなく”許可”が行われたことになる。
同じと感じるかもしれないが、大きな違いとして承諾ではなく許可をした以上は、飲み会に行っことに不満を持つわけにはいかないし、後になって飲み会に行ったことを咎められれば、聞いた側も「許可を得たのにどうして?」となってしまう違いがある。
さらに言えば、許可を求められた側は断ることに対してほんの少しの罪悪感を消費する。(もちろん相手が思いやりのある人だという前提で。)
このほんの少しの罪悪感が、10年も経てば積もり積もって離婚の原因となるほどの大きな歪みに十分なり得るのだ。
それならば、これが「今日の帰り飲み会に行きたい」という投げかけになればどうだろう。
そこには返答に対する責任は存在せず、行きたければいけ、その代わりどうなっても自分で責任を持てよということになる。
ここに一方的な依存はなく、たとえ嫌な反応を示そうとも、それは素直な感情の表現でしかなく、罪悪感の歪みが生じることもない。
それどころか、受け入れれば相手に対してもポジティブな貸しをつくることもできるのだ。(もちろん自分が身勝手ではないとした上で。)
つまり、「してもいい?」の問いかけは受け入れて当然、断れば罪悪感が残り、「したい」という問いかけは、断ろうが勝手、受け入れれば相手への貸しを一つ作ることができるという大きな違いがあるのだ。
同じ承諾をするにしても、片やリスク、片やメリットがあるという大きな隔たりがそこにはあった。
これは承諾を得る側にも言える。
「してもいい?」という問いかけは比較的リスクが低く断られてもダメージが少ない一方で、「したい」という問いかけは一方的な要望を押し付けることになるので、承諾を得られたときに相応の報酬を与えなければならない。
つまり、ある意味では相手の良心の呵責に問いかけるようなずるい言い回しとも言えるのだ。
しかし、夫婦間での歪みはすでに危険なレベルにまで達していたのは事実だ。
こうしたやり取りを繰り返していくうちに、妻は断る自分ばかりが罪悪感を感じていることに馬鹿らしさを感じるようになった。
その結果、妻はこちらからの提案に対して、冷たくそっけなく返事をするようになる。
それに対して自分の受け取り方はこうだ。
こちらは相手の顔色を伺って平身低頭お願いをしているのに、それを聞こうともせず冷たくあしらうとはどういうことだ。
事実、こうしたいらだちがお互いに溜まりに溜まって、結婚10年目にしてはじめて食卓がひっくり返るような喧嘩をした。
その後一週間、子供の前以外では全く口を聞くことすらなかった。
昨日今日始まったことではない問題の根深さは理解していたので、もしかするとこのまま決別ということもあり得るかもしれないと、割と本気で考えるほどだった。
気軽に言っているわけではない。今までさんざんお土産を買ったり、喜ぶようなことをしたり、事あるごとにありがとうと言葉を返したり、できる先回りして家事をやっつけたりと手を変え品を変え関係改善に努めてきたつもりだったのに、その結果がこうなのだからもう改善の余地はないのではないかという絶望すら感じていた。
しかし、今回こうして感情的にお互いの気持をぶつけてみて、現状に対する認識に対してズレがあると感じたのも事実だ。
ならばそのズレの原因、認知の歪みはどうして発生してしまったのだろうか。
そんなことを口を利かない一週間の間にずっと考えてみた。
実を言うと、先日話題になった依存症の漫画を読んだことが一番のきっかけだったのだけど、そこで改めて”Iメッセージ”とは何かを考えたときに、自分の使っていた「してもいい?」は、実は”Iメッセージ”ではなかったのではないかという疑問に行き着いた結果、言い回しを変えてみたらどうだろうということになった。
発信は確かに”I”にあるのだが、決済責任が”I”にはない、あっても希薄だということに気づいたのだ。
それならば、ストレートに要望を伝える言葉を選んでみたらどうだろう。
最初は、これすらも冷たくあしらわれたらどうしようと不安だったけど、いざ「~したい」と、自分の要望を言い切りで伝えてみたところ、妻は一瞬はっとしたような顔をしてからむしろとても嬉しそうに快諾してくれた。
なんだ。こんな簡単なことだったのか。
そう思うと、ほっとしたのと同時に、久しぶりの妻の笑顔が見られたことが嬉しくて涙が止まらなくなってしまった。
まともに喋れる状況ではなかったけど、そこではじめて妻に謝ることが出来た。
「今までごめん。多分、僕の要望の伝え方はずるかったよね。窮屈な思いをさせてごめんね。」
多分、そんなようなことを言葉になるかならないかギリギリのところで話をしたと思う。
恐る恐る妻の顔を見ると、微笑みつつも瞳から大粒の涙をこぼしながら突然強く抱きしめてきた。
実は、妻からもそうしたストレートな要望を聞いたことがなかった。
それも妻の遠慮がちな性格がそうさせていたのだと思うと、妻にもつらい思いをさせていたのだろうと悔やんだ。
これからはお互いを信用して、自分の要望に対して素直に相手に伝えあえるようになろう。
そんな提案をすると、妻はとてもうれしそうに、恥ずかしそうにうなずいた。
ここからは確証がもてないのだけど、おそらく、どちらかに偏ってしまったことに問題があったのだと思う。
自分の素直な要望は素直に伝えるべきだし、もしかして相手を傷つけてしまうかもしれないようなことは「~してもいい?」と相手の考えを口にできるきっかけを作り出すことが必要なのだと思う。
あんまり上手に説明できてないかもしれないけど、もしどちらかに偏ることで大切にしたい人との距離感がギクシャクしてしまっている人がいるなら、何かの足しになればと思い文字を起こしてみました。
近頃夕飯にゴーヤをいただくことが増えた。それから、モズク酢やメカブも食卓に並ぶようになった。要するに、私の苦手なメニューが夕飯として用意されることが増えた。
おかずの顔触れが変わったのは、週の半分は父が夕飯を作るようになったからだ。父はもともと一人暮らしをしていたし、海外に留学した経験もあるから、身の回りのことは一通りできる。家事の多くを母が担ってきたのは、母が専業主婦だからだ。
しかし、父は退職して時間ができた。退職前から準備していた副業も、新型コロナウイルスでほとんど仕事がなくなってしまった。決定的だったのが母の入院で、それほど重い病気ではなかったのだが、その間の家事を父と私と妹とで分担することになった。妹の提案で、かなり前から家事をマニュアル化していたのは幸いだった。で、夕飯を父が担当することになったのは、単純に私と妹の仕事の終わる時間が遅いからだ。
母の病気は消化器系のもので、病院食もお通じをよくするものだった。そして、病院からいただいたパンフレットには、腸を整える食品のリストが載っていた。夕飯に海藻類が増えたのはそのせいだ。
私はもともと海藻がさほど好きではない。パリパリの海苔をおにぎりに巻くのは大好きだし、子どものころ苦手だったお味噌汁の中のわかめも、今では海藻の中では好きなほうだ。でも、おでんの中の分厚い昆布はぶよぶよしていて嫌だ。モズクは酢の味でごまかしてろくに味わいもせずつるんと飲んでしまう。作っていただいたからには残したくないけれど、喜んで食べたいものではない。メカブはもっと嫌いだ。ぬとぬとしている。
けれども、私は父が週の半分は料理を作ってくれて結果的には良かったと思っている。母は仕事が減って少し寂しそうではあるのだけれど、何回か手術をしている分体力は落ちているし、負担を減らすのがちょうどいいと思う。現に、朝起きられなくて朝ご飯を準備できないことがたまにあって、そういう時は私が自分で作る。そうしたら母は好きなだけ寝ていられる。というか、土日は起きた人が適当に自分の分だけを作っているし、お昼も自分で準備する。だから、休みの日は朝から好物ばかり食べている。リンゴとか。
それに、同じ人が作るから、どうしても味の傾向が似てきちゃって、飽きるのとは違うけれども、数日ごとに違った刺激があるのはうれしくて、夕飯が前よりも楽しくなった。
ところで、父にどうしてゴーヤを出すのか、今まで黙っていたけれども好物だったのか、と尋ねたら、別に好きではないが、なんとなく入れている、と言われた。そういうものか、と思って私はゴーヤとキノコを口の中で一緒にしてむしゃむしゃ食べた。こうすると少し苦みが丸くなって食べやすい。
追記。私の苦手なものを父は出すけれども、私も父の苦手な納豆を目の前でモリモリ食べるので、おあいこだ。それに、食べ慣れればゴーヤもいいかもしれない、と近頃は思っている。克服したのか。
埼玉県の推しの菓子として、「彩果の宝石」というものがある。県としても推してるし、県民(少なくとも知る限りの県民)はわりと好意的に思ってる。
埼玉県民しか気がつかないことだと思うのだけど、「彩果の宝石」の「彩」は、サイタマのサイを掛けてる。
音しか合ってないし、サイしか合ってないけど、埼玉県民は近年やたらサイタマのサイを「彩」に置き換えるのを好む。
もともとは、PR用のキャッチフレーズの「彩の国さいたま」から来てるのだけど、ダサいイメージを払拭できると思ったのか、やたら埼玉の埼を彩に置き換えてたがる。
五色沼のように天候によって色が変わるでもない、ただの池、サイタマだから彩湖。
音しか合ってないし、サイしか合ってないが、彩とつければダサさが消えると思ってる。
チャンスがあれば彩玉と改名したいのだろう。
東側は草加せんべいがソウルフード。西側の人間に言わせれば埼玉県民だからと言って草加せんべいは食べないと言ってはいるが、西側のソウルフードは所沢だんご。
みたらしではなくただ醤油を塗っただけの団子だ。
煎餅バカにしてるが、お前らも結局は米粉と醤油じゃねーかと突っ込まざるを得ない。
結局、埼玉県民の食べ物は、粉物に醤油なのだ。たまに食べる豚肉も醤油をかける以外の調理を知らないのだ。
そんななか、県も推す彩果の宝石、これが宝石のように美しい。常温のゼリーというのがババァが好きな菓子のジャンルだし、包み紙もクソダサいが、味はなかなかに美味しい。
夕方は家族みんなで夕飯を囲みながら、居間ででテレビを見る。家はそんな古き良きお茶の間の風景みたいな感じだった。
俺の父親は、必ずと言っていいほどCMの合間にチャンネルを変えた。
バラエティ番組を見ていようが、アニメを見ていようが、CMの隙にリモコンをポチポチした。
兄弟で一斉にブーイングをしても、父親は「すぐ戻すから」といって聞かない。そして大概、ちょっと間に合ってない。
どうして俺の父親はこんなことをするんだろう。そう思ってた記憶がある。
俺が実家を出て数年。
気が付けば俺は、一人暮らしの部屋の中で、テレビに向けてリモコンをポチポチしていた。観ていたバラエティ番組のCM中の事である。
仕事で疲れていた。メールを観たくないからスマホはいじらなかった。
何となくテレビ番組を眺めていたが、さほど興味を持てなかった。何か面白いものは無いかと無意識に探っていた。
自分がクタクタになっている事に気付いた時、俺は昔の実家の食卓を思い出したのだ。
今になって初めて分かった。父親にとって俺達が観ていたテレビはつまらなかったのだ。
当時子どもだった俺達にチャンネル権を譲ってくれていたが、やはり少しは気分転換がしたかったのだろう。
今になってそんなことに気付くなんて、俺は親不孝だと思った。
今はスマホやタブレットで観たい番組を選べる時代だ。これからは心置きなく、好きなコンテンツを楽しんでもらいたい。
不器用で優しい父親に向けてそう想いを馳せていたが、ふと、実家に住んでいた兄弟からラインが届いた。
父親が録画をしまくるせいで実家のHDを埋め尽くして困っているという。
ケーブルテレビを契約して以来、父親は気になる映画を片っ端から録画してしまうらしい。
食事と睡眠、炊事、掃除などの家事、仕事、仕事関連のタスク、仕事関連の交流など、時期にもよるが大なり小なりできなくなって、しばらく経った。
しかし私は病んでない。
笑うこともできるし、鬱々とした気持ちを抱えていない時間も持てている。
同居する人間とはたまに喧嘩するし、お前とは合わないからもう離れたいなどと言われることもあるが、一緒に食卓を囲むこともある。
身体面での持病が悪くなり、日中屋外で活動することが困難になった。
外見上では分からない病気であり、自分もやたらめったらそんな話を他人にすることもないため、他人の目からは「何も支障がない人」に映りやすい。
しんどいなぁと思うことも、こんなに苦しんでいるのにと周りや自分の人生を恨むことも、未だにやることはあるが、あまりにも繰り返しやってしまったので、飽きてしまってやらなくなってきた。
相変わらず同居人は昼でも夜でも寝ている。
彼は家族の金で生きられる。だから働かなくとも障害者年金をもらわなくとも生きていける。
私は金がない。
同居人を恨むこともあるが、たまにメシを奢ってもらうので、あまり強くは出ないし、恨むことは同居のストレスを増大させるのであまりしたくない。
同居しないと家賃が払えない。水光熱費が払えない。インターネット代が払えない。
一人だと、できないことがよりできなくなる。
だから同居をやめようという気も起こらない。
毎日自殺のことばかり考えていたあの頃よりも、毎日恋愛を拗らせた執念で血を吐きながら人にストーカーしていた頃よりも、今は穏やかで、苦しみが少なく、ぼーっとする時間が増えた。
分かりやすく私を傷つけてくる人もいない、搾取しようとする人もいない、同居状態を続ければ生きていけるだけのお金は何とか手に入れられる、身体も頭も、生活が困難なほどには壊れていない。
だから私はまだマシな地獄を生きていて、まだ病んでいるとはいえない。
病んでいると認めてもよいけれど、お前程度で、と怒ってくる人がいるだろうから。
病んでませんと言ってしまう方が楽だ。
お前が当たり前に生活していることが腹立つ、と苦情を言われたことがある。
私がその人にとてつもなく悪いことをして、そのせいでその人は苦しくて寂しくてやりきれないらしい。
自分の人生は自分で切り開いてくれよ、とも思うが、とにかく私が関わっているのだから、私を責めるらしい。
頭悪いなぁと思う。
しかし、他人を貶めて自分の非を認めない人間は頭が悪い、性質が悪いと言われるから、私は謝り続ける。
暑い。お腹は空いたがなんか食べる位なら我慢する。お店に入って食べられるなら食べたいものも思い浮かぶが、そんな気力は無い。コンビニで買って家で食べたい。
そんな状態の助けとなる惣菜が現れた。セブンイレブンのカップタイプの惣菜、ナスの揚げ浸し。パウチチルドタイプは以前からあったが、ああいうのを皿にあけることもできない時もある。その点こいつは普通の惣菜で、盛り付け済みな上に大根おろしと小口オクラまで乗っかっている。なんかもう提供されている。
かなり濃いめの味付けなので、ごはんやお酒も入る。主食が入るならもうちょっとなんか食べようかと、最低でも汁物が食べられる。
セブンイレブンはブラック振りが嫌になってプチ不買したりそんなうちにおにぎりが超絶劣化したりしていたが、副菜的な惣菜をカップで出してくれ始めたのでありがたく利用している。食欲ないときは主菜とか選べないんですよ…どれも重すぎて。一個だけ食べてみることもできるし、小鉢がいっぱいなんていう高級料亭みたいな食卓を作ることも可能だ。しかも具材が色々で、各具材の消費量と寿命的に、自分で作るにはちょっと無理なんてものも多い。
まさか食べたくない気持ちをコンビニ惣菜に助けてもらえる日が来るとは思わなかった。食べないとあらゆる状況で叱られるしさあ、なんなのあいつら食えるなら自分が一番食いたいと思っている。ありがとう…ありがとう多様性…ありがとう商品開発…