はてなキーワード: 理不尽とは
まず断っておくと、自分はフェミニストか否かという点では、フェミニスト寄りである。白饅頭や青識のようなアンチフェミは心底嫌いだし軽蔑もしている。ただ、フェミニストがやたらに好む以下の論法には、一男性として強く反発している。
「特権」という言葉を使う場合、権力者や富裕層などに対して、自分の意思で自由に捨てられるものだけを指すべきだと思う。いじめやパワハラで引きこもりになって無職で……という男性は決して少数の例外ではないと思うが、こうした男性に何の自由に捨てられる「特権」があるというのだろうか。あと、同じ「無職」でも女性だと「大変だね」になるのに、男性だと「情けない」という感情が瞬間的に沸き起こってないだろうか。これも「特権」なのだろうか。
女性の多くも付き合う相手を決める時、男性のルックスとか年収とか社会的地位を無意識に考え、友達に紹介するときに恥ずかしくないかどうかを気にしたりするのはごく普通である。それはいい悪いではなく、人間である限り仕方のないことだ。男性だけが異性をモノ化しているってことは絶対にない。完全にお互い様の問題について、男性だけが非難されるのは理不尽だと思う。
「男が30にもなって定職もなくて情けない」「男は結婚して家族を養って一人前」という規範は、男性自身が内面化している部分も確かにあるけど、それは世間や社会が求めているからであって、自分の意志で自由に脱げ捨てられるものではない。女性だって「女らしさの呪縛」を捨てて、化粧も何もかも一切やめればいいじゃない、という話になる。というか、「女らしさ」については、それを押し付ける人々への批判や非難になるのに、どうして「男らしさ」については「男らしさ」を押し付ける人々への批判に向かわず、男性自身が自己責任で脱するべき、という話になるのか。明らかにおかしい。
こういう意見を見るたびに、フェミニストは教室の中でひどいいじめを受けていた男子とか、パワハラでいつの間にかいなくなった男性社員とかが、全く目に入っていないんだな、とつくづく思う。だから主張が間違っている、というわけではないけど。
(追記)
気がついたら炎上しているけど、言いたかったのは、本来のフェミニストの仮想敵はジェンダー規範そのもののはずであって、「男性」ではないこと。
既存のジェンダー規範を変えるためには、政治とマスメディアの役割が大きく、それに働きかける社会運動が必要になる。それは、個々の男性の自己犠牲の精神で実現できるものでは絶対にないし、そもそも自己犠牲できる余裕のあると思える男性は貧困者に限らずほぼいないだろう。そんなものに期待してはいけないのである。
(追記2)
時々感じるのは、フェミニスト「男性は・・・すべき」という言い方の中に、「男らしさ」が要求されているように感じられること。「女性を押し除けてまで男性が前に出るなんて、男らしくない」みたいなジェンダー規範が、特に男性フェミニストの中には確実に存在する。まさに田原俊彦の歌の意味での「フェミニスト」(誰も知らないか)。
女性がオッサンに理不尽な事で暴行されている場合に、どの行動が一番正しいの?
3.複数人で止める(止めた側も暴行扱いになる可能性がある、または非協力的で助けてくれない)
4.止めた結果、こちらに暴行の被害が移り反撃してだまらせる(反撃が暴行罪になる可能性がある)
1番2番の場合、女性に暴行が続く。警察が来た頃には女性がどうなっているかは分からない。
3番の場合、非協力な人は話にならないし、複数人で止めたらなぜか止めた側も暴行罪扱いになる可能性がある。
4番の場合、女性から暴行は遠ざけられたけど自身が被害に合うし反撃する事が逆に暴行罪になる可能性がある。正当防衛が働かない可能性が出てくる。もちろん手加減した上で黙らせるわけだけど。
ちなみに警官に正しい方法を質問したら、警察に通報して到着を待ってくださいって言われる。
ここ最近、SNSやネットニュース上では「親ガチャ」「毒親」という言葉が流行しているが、自分はどうもこれらの言葉が好きにはなれないでいる。
いや、正確には「言葉自体」が嫌いなのではなく、「その言葉を使うことを無条件に肯定する人間や風潮」が嫌いなのであろう。
その嫌悪感は、「親の言うことは無条件に正しい」「産んでくれたことに感謝しろ」「みんな大変なんだ、自己責任だ」といった無根拠な精神論、根性論によるものではないということは、初めに強調しておきたい。
どうも、インターネット上ではこれらの言葉に反感を抱く者は、上記のような精神論を振りかざしていると、誤解により、若しくは意図的にレッテルを貼られ、
「無理解な大人である」とカテゴライズされることを免れないようだが、せめてもの抵抗として、ここにその旨を記しておこう。
さて、私が「毒親」「親ガチャ」を不快に思う理由は、主に以下の3点にまとめられる。
この3点について、それぞれ考えを述べていきたい。
(精神的、身体的、性的)虐待をしている、経済的に困窮している、近所とトラブルを起こす、アルコール中毒者である、自身の進路や恋愛への過干渉、単に性格が合わない等々、
しかしながら、その言葉の意味の含有する領域があまりに広いことにより、非情にカジュアルな意味合い
(具体的には、自分の意見を聞き入れてくれないといった、思春期にはありふれたような悩み)でも使うことができてしまう。
この言葉の使用者の目線で言えば、自らの具体的な悩みを抽象的で使用しやすい概念を指す言葉に置き換えているので、
当然自らの状況が「毒親」「親ガチャ」に該当するのであると確信を持てている状態となる。一方で、この言葉を見る者からは、
「毒親」「親ガチャ」といった抽象的な概念を指す言葉から、発言者の具体的な悩みを推し量ることは難しい。
こういった「発信者」と「受信者」の理解に隔たりが生まれることは、良い状況を生まない。
発信者は深刻なSOSのつもりであっても、受信者は「カジュアルな意味合いで使っている者との区別がつかず、無条件に肯定し難い」のである。
この問題は、単なる親との不和を指す言葉として「毒親」「親ガチャ」を使う話者が増えれば増えるほど、深刻化していくだろう。
では、そういった発信者と受信者のすれ違いを解消するには、どのような方法を用いればよいのか。
私は単に、それぞれの問題に相応しい言葉を使うべきだと考える。
虐待は虐待、貧困は貧困、我儘は我儘なのであって、それ以上でも以下でもない。
果たして、「親から虐待を受けているから早く家を出ていきたい」「貧困のツケを子供に払わせるような親を恨んでいる」といった趣旨の発言に対して、
冒頭のような「親は悪くない/自己責任だ」と心無い言葉を浴びせる者が、そう多くいるだろうか。
たとえ同じ悩みについて語っていたのであっても、「毒親」「親ガチャ」と表現するより、遥かに受信者にはその深刻さが伝わるだろう。
「毒親」「親ガチャ」の言葉の定義の曖昧さに起因するカジュアルな響きは、「万引き」「いじめ」といった言葉において指摘されているような、問題の矮小化という欠点を抱えている。
(いじめや万引きは、その加害者や責任者が使うことによる問題の矮小化を指摘されているので、正確にはやや性質が異なることは承知しているが、毒親、親ガチャは被害者自らがそれに類似した矮小化を招いていると言える。)
自分の悩み、心の叫びを誰かに聞いてほしいのであれば、より正確に、相手にそれが伝わる言葉を用いることも一つの工夫であろう。
「毒親」「親ガチャ」といったサーチに引っ掛かりやすい、目につきやすい言葉を用いて形容することで、より多くの人の目に触れる可能性は高まるというメリットも確かに存在する。
よってその言葉自体を使うことを非推奨するわけではないが、用いる場合も自らの具体的な悩みを併記する方が、真剣に捉えてくれる人は多いはずだ。
これは、「毒親」「親ガチャ」を使用する側の問題ではなく、「受信者」の、更に言えば「大人」の責任の問題だ。
「毒親」「親ガチャ」を使うことは何も悪くない、どんどん使うべきだ、批判者は恵まれているだけだ、こういった無条件な肯定は、同世代の共感からくるものとは限らない。
自分が虐待などに苦しんだ、などの経験を持つ「善意の」大人からも多く寄せられている。
しかし私には、どうも「嫌ならやめよう、逃げよう」論と同様に、自らが責任を持たなくて済むのを良いことに、軽々しく注目を浴びたいだけの者や、
「毒親」「親ガチャ」といった言葉の存在を社会問題に繋げたい者といった、「悪意ある」大人が多分に含まれているように思えてならない。
(思えてならない、というのは正確ではないかもしれない。実際にそういった趣旨の発信を観測したことや、発信者のbioおよび過去の発信を観察した結果などから鑑みるに、上記の大人が一定以上の確率で紛れ込んでいるのが事実だ。)
1で述べた通り、「毒親」「親ガチャ」は曖昧な言葉で、本来は「虐待」「貧困」などといった深刻な問題から、単に思春期特有の不和なども含まれている。
そこに新たな社会問題が生まれたのではなく、「元々そこにあった問題が別の呼称をされている」に過ぎない。
もし社会的な問題が新たに生じているのだとすれば、青少年がSNSを使用する機会が増えたことにより、そういった「無責任な大人や唆したい大人」の意見へ触れる機会も、必然的に増えてしまったことこそが問題だ。
(無論、SNSの繋がりによって救われる人も多い。SNSそのものが青少年に悪影響である、と主張するつもりは全くない)
本来であれば、後から思い返して「自分が若かったな」で済む話を、周囲や社会へ責任を転嫁するような、拗らせてしまった人が量産されることは、自分は望ましくないと考える。
(「じゃあ『悪い大人』の狙いを嘯くお前の狙いは何なのだ」と聞かれたら、自分の幸福を守るためです。単に拗らせた他責性の強い人が社会に出てこられると迷惑なので。
ついでにその人自身も拗らせない方が幸せだとは思っていますし、正確な言葉でSOSを求める人が増えた方が、社会全体の利益に繋がるとも考えていますが。)
これも言葉を使う若者というより、それに付随する議論で生じる「悪い大人」の話に近い。
冒頭で述べた通り、「毒親」「親ガチャ」へ不快感を示す人は、その論の内容について考慮されることなく、「無理解な大人」のレッテルを貼られることが多い。
加えて言うと、「あなたは恵まれた家庭環境(親ガチャ当たり)だから恵まれない人の気持ちはわからない」というレッテル貼りを、非常によく見かける。
この論は全く筋が通っておらず、安易に社会の分断を加速させる、極めて悪質極まりないものであると私は考える。
何故ならば、「毒親」「親ガチャ」否定派の家庭環境についてはどう頑張っても想像の域を出ることはなく、属人的な論法でありながら「人」の部分を故意に都合よく歪めているからだ。
このやり口には一欠片ほどの正当性もない。
「毒親」「親ガチャ」という言葉へ好意的な者の家庭環境が、批判的な者よりも劣悪だったという根拠は何一つない。そもそも家庭環境そのものに対する評価が極めて多様なベクトルからなされるものであり、単なる比較がしづらい。
更に言うならば、「『毒親』『親ガチャ』批判派には人の気持ちがわからない」論者は、この点を最大限悪意的に利用し(または思慮深くないためか)、他者の家庭環境をジャッジしている。
親ガチャ批判派「自分も貧乏だったけど…」→虐待されてないだけマシ
親ガチャ批判派「自分も虐待されていたけど…」→裕福なだけマシ
といった具合である。彼らは相手によってゴールポストをずらすことで、自分たちが相手よりも恵まれていないことを強調する。繰り返すが、そこに根拠は何一つないのである。
先ほど、家庭環境については想像の域を出ない、と記したが、珍しくこの点についてある程度確度がある情報が世に出ているにも関わらず、誤った「ジャッジ」がなされた例もある。
昨年、某男性アイドルが「親ガチャ」という言葉に難色を示した件について、多くのネットユーザーが「お前は恵まれていただけだ」「アイドルになれる時点で親ガチャ当たり」
しかし、当該アイドルは幼少時に父親から身体的虐待を受けていた事実をカミングアウトしており、ニュースにもなっている。
虐待を行い、我が子に恐怖を植え付ける父親を、どういった基準で判断すれば「親ガチャ当たり」なのだろうか。全くもって理解に苦しむ。
「毒親」「親ガチャ」といった言葉を無条件に肯定する者の中には、勝手な想像で同情し、勝手な想像で批判する、
真の意味で他者の心に寄り添うだけの器量を持たない人間が多くいるということが、あの一件だけでも証明されたと言っていいだろう。
家庭環境について想像の域を出ないことは、「毒親」「親ガチャ」を使う人に対しての批判にも当てはまる。だから私は、「毒親、親ガチャは甘え」と、使用者そのものを批判するつもりはないのである。
ただ、「その言葉が多用され、繰り返し無条件な肯定をされると、社会は少し良くない方向に進む」と考え、非推奨しているに過ぎない。
・最後に
以上、3点にまとめて私の意見を述べてきた。
おそらく、「こうやって書くお前自身親ガチャ当たりなんだろ」と、全く内容を理解しているとは思えないコメントや反応も来るかもしれない。(そもそも誰にも反応されないかもしれない)
属人的な話をしたところで正当性が担保されるとは考えていないため、私自身については語る必要はないと思っているが、やや長めの文章を読めない人のために、家庭環境のうち、あまりよろしくなかったと感じている点を一応書くことにする。
私の両親は治療を要するレベルのアルコール中毒者で、父は酒を飲むと理不尽に怒るため、家の中で遭遇しないようにしていました。
母は酒を飲むと暴力へのハードルが著しく下がる方だったので、対処に苦労しました。今の関係性は身バレを少しでも防ぎたいので書かないことにします。
今回の文章を通して、それぞれの立場の人に伝えたかったことを簡単にまとめて、締めくくりたいと思う。
然るべきところ(学校や児童相談所)へ相談しましょう。インターネットで愚痴をこぼすことで発散するのも、それはそれでいいと思いますが、
本当に困っているなら、より正確な表現を用いた方が、真剣に聞いてくれる人は多いはずです。あと、悪意ある大人の、わかりやすいけど破綻しているような話には気を付けましょう。
その不快感の理由を言語化しないと、単なる無理解な大人と映ります。
深刻な悩みを抱えているかもしれない人へ、心無い言葉を浴びせるのは絶対にやめましょう。
本当に心配なら、言葉に不快感を示す人を煽ったり、無条件な肯定をするのでなく、
相談を呼びかける、貧困解決や、虐待防止運動をするNPOなどへの寄付をする(又は呼びかける)など、もっと当事者たちのためになることがあると思います。
理不尽なことは多いし、下手にやりがいだの尽くしてたら、つけあがって無理強いばかり悪い待遇でされるようになる。
とすると、自分の立場を守るのが第一となる。でないと潰されるだけだ。
だけど、自分の立場ばかり考えていると、失敗するリスクが高い案件はそのまま失敗する。だけど「仕方ない。死にたいのか?」
そもそも、そんな自分の立場が脅かされるような立ち位置に行ってはならない。起業だイノベーションだなんて界隈に近づいてはならない。
自分の今後をチップにかけ続けた丁半博打を10回連続勝てば1000倍になるだろうなんてのと何ら変わらん。ほとんどは丁半博打で何処かで失敗してすかんぴんになる。
イノベーションが生まれないのは当然のこと。昔の景気が良くて長期的視野で金を出してた日本ならあり得たけどもうそんな日本ではない。このままズルズル衰退する中でも自分の身だけは守るか、どこかで海外に出れるようにしておくのどちらかだと思う。
※以下の文章内で書かれている「育ちの良さ・悪さ」という文言は、私自身がそれらに対して分断やヘイトを与えるために記載しているものではありません。
また、具体的に「〜は育ちが悪い!」と断言・議論したい訳ではありません。
タイトルに記載した内容についてふと気になってしまったので、他の方ご意見を聞いてみたいと思い描きました。
私は20代女です。
両親が不仲により離婚しているため、一般的に言えば育ちが良くありません。
過度な虐待もあったわけではありませんので、現在普通に働いて生活できている程度には、平凡な人生です。
結婚を前提に同棲している男性がおります。彼は、ごく一般的な家庭で育っているようです。
(上記は以下に綴る内容に関わっていないおそれがあり、無駄な気もします。ごめんなさい)
なんとなくTwitterを見ていたところ、あるドラマの登場人物たちに対して
「育ちも悪いし苦労してきたA子に対して、B男は純でまっすぐな感情をぶつけていただけだよね。
A子は、B男のそんな育ちが良い純粋なところが嫌だったんだろうな」
私はこのドラマを見ていたわけではないのですが、この感想はとても腑に落ちました。
A子(作中でどう描かれているかあまり分からないですが)がB男を嫌がる気持ちも、ドラマのファンの女性たちの「B男キモかったよね!」という発言も、理解出来る感情です。
このような「恋愛相手が育ちが良いことを疎ましく感じる」といった感情は、男性には理解できるものなのでしょうか。
私の観測範囲内のみになるのですが、育ちの悪い女性が「交際相手が育ち良すぎてつらい」「好きな人が育ち良くて眩しくて私なんかじゃ付き合えるはずがない」といった感情を吐露する所は見るのですが、逆は見たことがありません。
現実だけでなくフィクションの世界でも女性のそれは描かれがちですが、男性のキャラクターが同様の悩みを抱いているようなシーンは見たことがない気がします。
育ちの良い男性も悪い男性も、好む女性は「育ちの良い女性」であると思っているのですが間違いでしょうか?
今の彼氏は、私がメンタルをやって「貴方が育ち良すぎてムリ〜」と吐露した時も、何事もなくスルーしてくれました。
彼実家との付き合いも無理強いしてこないし、私の離散した家族についても干渉しない良い人です。
ですが本質的に、私が抱えているこの面倒くさい感情は理解できていない気がします。
(正直とてもわがままなのですが、彼に本質的にこの感情を理解してほしいとは思います。
男性は、恋愛相手において「自分と比べて育ちが良いから無理だ・つらい・向き合えない」といった感情は抱くのでしょうか?
また、女性がこの悩みを抱きがちであり、フィクションでも描かれがちなのは何故なのでしょうか?
理不尽に対して無力だな
自分のやった性的嫌がらせのことを、こんなふうにキラキラ語れちゃうんだね。
ガンホーに行った子、かわいそう。
妹に理不尽に扱われたからって妹凌辱もの描くのも部屋の前に置いていくのも普通にドン引きするわ。妹さん、許してくれてよかったね。
自分が不幸だからって、自分より幸せそうな女なら嫌がらせしても許されると思ってないか。いや、嫌がらせとは思ってないから出来るのか。
接客やっててあまりにも理不尽なデブおっさん客いて、最悪逮捕あり得るようなことされたから
スパーリングするか警察行くか選べって言ったら「やってやる」って返された
俺は朝倉未来のファンだからスパーリングでの怪我や事故は自己責任って契約書持ち歩いてるからサインさせてスパーリングすることにした
昔、近所の体育館でブラジリアン柔術の学生サークルあって無関係だけど一緒に練習してたことあったからその技術を活かしてボコボコにしてやった
具体的にはシンプルに殴りかかって数発づつ殴り合ったら組み付いてきたから両差しからテイクダウン
そのままマウントポジション作って縦肘落としまくってボコボコにした
肘の感覚無くなるぐらいボコボコにして動きとまったから救急車呼んで連れてって貰った
そしたら何か警察も来た
契約書見せてごねたらなんとか帰宅できたけど、今後ボコられた側の意見も聞いて俺のこと逮捕の可能性もあるって言われた
これって俺が悪いんか?
それから長い時間が経って、今は野良のプロとして漫画を描いている。特定の組織には所属していない。ごく稀にR18雑誌に寄稿したりもするが、基本はずっと一人だ。
今回、こうしてエッセイみたいなのを増田に投稿しようと思ったのは、感謝の念が芽生えたからだ。
ずっと、社会に恨みを抱いて生きてきた。子どもの頃からストレスが多い環境にいたせいだろう。最近、ようやく周りに感謝ができるようになった。以前は、作品を認めてくれるファンの人だったり、SNSで意見やコメントをくれる人だったり、本気で叱ってくれる人にしか感謝できなかった。
最近になって、子どもの頃から散々な目に遭わされた家族とか、昔々の、辛い状況でも諦めなかった自分に感謝ができるようになりつつある。ちょっと長くなるけど、自分語りをさせてほしい。
虫取り網を叩き折られたり、廊下を歩いていると後ろから蹴られたり、みんなで遊んでいる時も置いてけぼりにされたり、自分の家で遊んでいる時は貯金箱からお金を盗まれたりした。
イジメから助けてくれる先生はいたが、見て見ぬ振りをする先生も多かった。中学に上がってからは、暴力がますます激しくなって、週に1,2回くらいしか学校に行かなくなった。保健室通いというやつだ。
学校だけじゃない。家族もそうだった。自営業(工場主兼農場主)をしている父はただ黙々と働いているだけだったが、母(介護福祉士)がとにかく理不尽だった。小四くらいで整体マッサージを覚えさせられ、母が夜ドラマを観ている最中、足や背中をひたすら揉まされた。
数学のテストで20点を取ったり、ワイシャツを洗濯に出さなくて洗濯機で汚れが落ちなかったりすると、決まって布団叩きで頭をぶん殴る。その後は決まって反省文の提出と朗読がセットで付いてくる。
一番ムカついたのは妹(現在イラストレーター。女性誌の挿絵とかリクルートの雑誌の4コマ作ってる)だ。3つ下だったが、自分が中学一年生の秋に不登校になり始めてからは、ひたすらバカにしてきた。
母と一緒になって、「役立たず」「頭が悪い」「人間性に問題がある」「兄ちゃんのせいで学校で嫌な思いをする」「早く家から出て行って」など言いたい放題だった。
中学を卒業して偏差値52の公立高校に通った。イジメに遭いそうにない環境や生き方を必死で探したおかげか、陰キャラとして3年間を過ごすことで平穏無事に高卒の肩書を得た。
人間としては全然ダメだった。今でもそうだ。青春期に、部活とかボランティアとか、人と関わる活動をしてこなかったせいか社会性に問題がある。クリエイターを目指す専門学校に入っても変わらなかった。マックでアルバイトを始めたけど、根本的なところはいっしょだった。
自信がなかったのだと思う。自分自身の生き方に対する信仰、というか。それが社会性のなさに繋がって、いつまで経っても結果が出せなくて、それで自信を失っての悪循環だった。
普通の20代前半くらいの人間だったら、「お前はすごい」と言われたことがあるはずだ。自分にはそれがない。もどかしい気分になったけど、当時は鬱蒼鬱屈(教えてくれた人サンキューです笑)とした気分で街を歩くしか手段がなかった。
ちょっと前に、マクドナルドに面接に出かけて、遅刻して店長に怒られて逆切れをした人のはてなブログがバズったことがあったはずだ。まさにそんな気分だった。あれは自分だった。もう一人の自分。今思えば愛おしい。
専門学校に入学してすぐだったか。あるまとめサイトを見たのは。
絵師の上達みたいなタイトルの2ちゃんねるのスレッドだった。いろんな神絵師の上達していく過程が何枚かの絵を抜き出すことで説明されていた。ところで、自分はシナリオ学科だった。イラストとは縁がない。けど感動したのは覚えている。
ある神絵師の最初のイラストは、東方のチルノだった。最初は小学生が描いたみたいなシンプルな鉛筆書きみたいなノリだったのだが、年を経る毎にどんどんうまくなっていって、最後のイラスト、神輿と一緒に映っているチルノはまさに圧巻だった。
この時になって思い出した。小学生の頃は、授業中のノートに絵を描くのが好きだった。当然、大したことはない。まさに子どもの落書きだ。中学生になる頃には一切書かなくなっていた。
自分もイラストをやってみたいと思った。確かな感情だった。自分が好きなアニメのイラストを描いてみたい。あの時、確かにそう感じた。
まずは自由に描いてみた。
一番最初に描いたのは実家で飼っていた猫だった。灰色のやつで、自分と妹が小学生の時に拾ってきた。自分達が近付くと、「ヌアァン」と鳴いて田んぼの稲穂の中に入って行った。
出てくるまでに20分はかかったろうか。「いつまでも一緒に待つんだぞ」と妹に提案して、出てきた猫を妹が抱えて家に持って帰ったんだっけ。父には反対されたけど、母を味方に付けることに成功した。
そんなこんなで初めて描いた猫は、猫ではなかった。よくわからない物体だった。耳がへなっと折れていて、ほわほわとした毛並みを表したはずの鉛筆でのなぞり書きは、角が折れたトーストの上に浮かんだような暗黒物質を生み出していた。小倉トーストだった。
二番目に描いたのは、好きなアニメのキャラだった。アイカツ!の星宮いちごを描いてみた。二次元だったら何とかなるかと思ったが、ぜんぜんそんなことはなかった。一応人間にはなっていたが、こっちの方がまだ猫に似ていた。
三番目は、風景に挑戦した。上で田んぼと書いたが、当時は関東圏でもそれなりの田舎に住んでいた。実家の近くに小高い山があるのだが、そこに昇って、自分が住んでいる町を見下ろしてスケッチをしてみた――結果は燦々ではなく、散々とした出来だった。透き通った空気の中に浮かぶ田畑が並んだ一帯を描くはずが、自室の襖に飛び散ったとある黄ばんだ一角のような、痴態のようなものしか描くことができなかった。
独学で学んでいるからダメなんだと思い、ネットで上達方法を学んでみた。といってもツイッター検索だが。「とにかく量をこなせ」というメッセージが心を掴んだ。
次は書店で本を買い、何周も読み返して基礎的な人体の描き方を頭に叩き込んだ。新しい何かが開けた気がした。
そんなこんなで、何を描いたのか判然としないようなモノを1週間につき1枚のペースで仕上げていった。努力しただけあって「ヘタクソ」の領域に到達することができた。
これでいい。あとはpixivに投稿しさえすれば、絵描きへの第一歩を踏み出せる。ここまでに約二ヶ月かかっている。今までのpixivの使い方はといえば、好きな漫画やアニメのイラストを見たり、さあ寝るかと思った時に、より深く就寝に至るための聖なる行為(SeaCallと呼んでいた)をするためだった。
それが今、人生で初めて本気で描いたアイカツ!のキャラ絵を投稿しようとしている。色々と入力していって、最後に「投稿する」ボタンを押すと、ブラウザ画面がぐるぐると回って投稿が終わった。
最初のブクマ数は、3時間で「5」だった。閲覧数は70くらい。コメントも付いた。テンプレだったけど。
嬉しかった。自分のイラストを気に入ってくれる人がいたのが嬉しかった。この時が絵描きとして人生で一番最高の瞬間だった。この時以上に嬉しかったことはない。
ところで、検索で一番上に出てくる上位勢とは月とすっぽんだった。それくらい画力に差があった。子どもの頃に観ていた夜ドラマで喩えると、彼らがお空に浮かぶお月様だとしたら、自分は味噌汁の出汁に使われる煮干し様だった。彼ら彼女らを引き立てるための数多のヘタクソの1人。それが当時の自分だった。
今の自分は、漫画的な儲けであれば、彼ら上位勢のほとんど全員に勝っているだろう。もしかすると、pixiv出身の若手作家という括りでは自分が歴代一位かもしれない。いや、多分そうだ。
しかしbut。あいつらの画力には到底及ばない。あれは常人が至れる領域じゃない。努力できる天才だけがあそこまでいける。
当時は、気が狂ったようにイラストを描いた。専門学校の授業が終わると、真っ先に家に帰ってイラストを描いた。アルバイトは当初週4でシフトに入っていたけど、週2に減らした。
ここでいったん筆を止めて、pixivのマイアカウントを眺めてみる。過去に描いた作品を時系列に巡ってみたのだ。すると、端的なある特徴が出てきた。割とすぐに一般絵からエロ絵主体に移行しているのだ。もっと遅いと思っていた。
今の自分は、一応プロだ。エロ絵で生きている。絵の初心者だった当時は、そんな未来は全く想定していなかった。自分が描いていて楽しいものを作っていただけだ。自分はおそらく、エロに興味がある人間だったのだろう。
とにかく、たくさん投稿していた。週に2~3つ上げていたこともある。今だと月に1枚が限度だ。暇な時間がなくなってしまって、好きなキャラ絵を描く時間も体力も気力もない。専門学校を卒業する頃には、200本以上のイラストや漫画をアップしていた。子ども向け~若者向けのアニメが多い。アイカツ!とか、プリパラとか、ポケモンとか、ラノベ作品とかそんな感じだ。
すっかり絵描きになっていた。マックのアルバイトで貯めたお金でペンタブを買ったりした。今でも使っているお気に入りのやつだ。
絵を好きになれたのはよかったが、専門学校を卒業しても就職しなかった。シナリオの勉強は存分にさせてもらったけど、別に脚本家になりたいわけでもなし、ゲーム制作の実績があるわけでもなし、就職活動やコネ作りなど当然しているはずもなく。文章を書くのは好きだったが、小説書きには興味がない。そんなことより絵が描きたかった。
いや、違う。専門学校に居た時、違う学科同士でグループを作ってゲーム制作をしたことがある。途中で抜けることになったが。コテコテのRPGだった。
ツクールで制作を進めていて、魔法の名前を考えている時、自分が水属性の魔法として「シーコール」を提案したのだ。それで、3人居た仲間の1人が噴き出した。また別の子が、「海をイメージしてるんだね。きれいな名前だね」と言ってくれた。それで、「発展形はどういう名前になるの?」と聞いてきた。
「ゼンイン・シーコールというのはどう?」と自分がいうと、さっき噴き出した奴が机に突っ伏していた。「それは、どういう描写をイメージしてるん?」とさっきの女の子が聞いてきた。
「みんなで力を放出して集めたやつを、その聖なるやつをさ、敵に流し込んでやるんだ。思い浮かべてみて」と言ったところで、また別の人が「お前はふざけているのか。帰ってくれ!!」と憤った。
以後は、それなりのペースで開発は進んだ。順調だったように思う。上の女の子が、みんなをうまくリードしてくれた。自分にキレた人も、開発の途中からは冗談を言うようになっていた。
「増田君、いいシナリオが思い浮かばない? じゃあ、この主人公がトツゼン・シーコールをするのはどう?」
と冗談を言ってくれるようになった。
懐かしい記憶だ。ちなみに、シーコールをきれいな名前だと言ってくれた子は、卒業後にガンホーに入社した。当専門学校では一番の出世株だ。同窓会ではスマホゲームを開発してると言っていた。参考までに、マジメに考えた技や魔法も一応提出した。
・無窮動(ペルペトゥーム・モビーレと読む。それ以外は亡失)
・規律ある発狂状態(ディシプリナ・インサイアと読む。それ以外は亡失)
・夜明けの羽ばたき(〃。たぶんミネルヴァの梟から取ったのだろう)
こうして自分は、絵を描いていたいがあまり、フリーターとしての道を選んだ。父や母からは馬鹿にされ、軽んじられた。当然、妹からも。
当時の妹は、実家の台所で自分の存在を認める度に、ごみを眺めるような感じで素通りした。なんというか、存在を認識していないのだ。あいつも高校を出てすぐに入った会社で嫌なことがあって、1年ちょっとで辞めてしまって辛かったのかもしれないが、とにかく目線が冷たかった。
自分もフリーターの身分なので、家族内で大したことは言えなかった。母にはよく「役立たず」「プーの分際で」「一生トイレ掃除でもしてなさい」など冷たい言葉を吐かれた。
フリーターだった頃の自分は、何を思っていたのだろう。「見返してやる。世の中で絶対成功してやる」などと思っていたのだろうか……いや、そんなことは思っていない。自分がやりたいように、やりたいことをして生きていきたい。そう思っていた。それだけだった。
マックで週2~3回のアルバイトをして、家に帰ったら小学校に上がる時に買ってもらった児童机に座り、ペンタブを握って作業に没頭した。傍らの床には、スケッチ帳を破って放り投げた下書きが何十枚も落っこちている。そんな毎日だった。
できた、できた、できた!! 作品を完成させた時のあの感覚、自分がまるで神にでもなったかのような、いま過去最高を更新し続けている、今この瞬間の自分は過去のどの自分よりも優れている――という、あの頃の高揚感にはもう戻れない。あの日々、俺は俺で満たされていた。我を忘れるほど。自分が決めて進んでいた道のなかで。
成長しすぎてしまった。10ヵ月以上かけて長編作品を完成させたとしても、喜びはあまりない。それよりも、ホッとした、安心したという感情の方が強くて。ある時期を境に、自分は作者として堕ちているのか、このままで大丈夫なのかという疑問が湧いてきた。一方で、FANZAやDLsiteで多くの人達が楽しんでくれているのを観ると、やはり絵描きをしていてよかったと感じる。
DLsiteに長編作品を投稿しようと思ったのは、ある夏の日のことだ。アルバイトが終わり、家に帰って夕食を食べていた。すると、台所の四角い卓の斜めに座っていた妹が、「ん」と親指を床に向かって指した。そこには、おそらく何日か前のご飯の残りカスみたいなものが落ちていた。妹は、ウザそうな顔で「拾え」というジェスチャーを繰り返した。
しぶしぶ右手を屈めて拾ったのだけど、それから何時間か経って、自分が相当馬鹿にされていることに気が付いた。あれはそもそも、自分が落とした残りカスだったのだろうか? 違うんじゃないのか。とにかく馬鹿にされていたのは間違いない。怒りが込み上げてきた。許せないという気持ちが何日も続いた。
ある日、ようやく思い立った。自分の思いに決着をつける方法を。解決になるかはわからなかったが、とにかくやってみようと思った。
R18作品を扱っている販売サイトを見て廻った。それで、処女作はDLsiteに捧げようと思った。これまで同人作品や同人ゲームを購入したことがあるというシンプルな理由だ。「此処で作品を売ろう」と思ったら判断は早かった。すぐにpixivのマイページを開いて、これまでに投稿した約250作品をひとつひとつクリックしていった。読者の反応を観るためだ。
長編作品と向き合うにあたっては、自分の強みでとにかく突き抜けようと思った。専門学生の頃に、ヒルティという人の『眠られぬ夜のために』を読んだことがある。あまりに感動してしまって、つい何篇かの言葉をメモ帳に書きつけていた。
突き抜けよ。この短い言葉は、内的生活の多くの危機に、ほとんど魔術的な効果をもつものである。
195ページ
あなたの義務を行いなさい、できるならば楽しい気分で。できなければ、そうした気分なしでもよい。この方が一層ほむべきことであり、一層大きな実りがある。
211ページ
まことの人生の楽しみを得ようと思うならば、なによりもまず、その楽しみがいったい何にあるかをはっきりさせ、それを妨げるすべてのものを、断然さけなければならない。
237ページ
今でも好きな本のひとつだ。
とにかく、突き抜けてみようと思った。頭に閃いた何かを形にするために、これまで作品をお気に入り登録してくれた人達の意見を集め、この試練に立ち向かうのだ!
スケッチ帳への下書き(追記 専門用語でいうネーム)から始めて、セリフを付けて、大まかに色を塗って(追記 色鉛筆でザザッと塗るだけ。難しい場合は✓で表す。自分の場合は一度紙で表現しないとデジタル作業に移ることが難しい)、効果音のイメージを書いて……いや、大事なことを忘れていた。基礎設定はできていたのだが、キャラクター同士の人間関係をまるで作っていなかった。これでは駄目だ。というわけで、もう一度スケッチ帳への下書きからやり直した。「うん、これでいい。やっぱりやり直してよかった」と、当時の日記に書いてあった。
今でもそう思う。キャラクター間の繋がりが何よりも大事だ。特にR18コンテンツにおいては。「男性はカタログとシチュエーションに萌え、女性は物語と関係性に萌える」のだから。
粉骨砕身の末、三ヶ月以上かけて初めての長編作品ができた。50ページ近くはある。誰に対しても胸を張ることができる妹凌辱ものだった。
精一杯、想いを込めて突き抜けた作品だった。2022年6月現在のインターネット掲示板での自分は、近親相姦ジャンルの大家として知られている。恋人たちの予感がするほど、そんなラブラブな作品は作らない。ガチ凌辱とかではなくて、『ライト強姦』とか『ソフト凌辱』とか言われるコンテンツになる。
以下に続きます。
あれをやってこいと指示に承諾→直前まで遊び呆けていてやってなかったのでできなかった(遊んでたのを確認)
前回やってこなかったので事前にリマインドしたところ、まだ時間ありますよね?今やらなくていいですよね?と返事→直前まで遊び呆けて期限に遅れる
あれをやると自分で申告→忘れてた
メモを取れと指示したが取らなくても分かります!と元気よく返事される→ミス連発、全部忘れてる、取らないまま分からなかった
勉強してこいと指示したら分かってると返事→勉強してこなかったし分かっていなかった、聞いたら分かってるつもりだったとのこと
こんなカスまじでどうやって生きてくの?無理だろ
無能な上にやる気もなくて頭も悪くて性格も悪いし誠実さもない本当のゴミ
「世の中の理不尽さ」や「不都合な真実」を強調して、それでどうするの?(読書メモ:『ただしさに殺されないために』)
https://davitrice.hatenadiary.jp/entry/2022/06/17
ブログよりもはてな匿名ダイアリー派なのだが、あちらでも非モテを専門に扱う書き手がいて、はてなブログランキングの増田部門を席捲することがある。
非モテ(性淘汰ネタ)に限らず、能力主義の方だと出生ガチャで人生はほぼ決まってるとか、あのフェミニストが気持ち悪いとか、半出生主義とか、ジメジメとした暗いネタは勘弁してほしい。居たたまれない気持ちになる。彼ら彼女らはブコメ欄でキズを舐め合ってるんだろ。
何も解決しないじゃないか。いや、キズを舐め合うのが必要なのは間違いないけど、著名ブロガーがそればかりやってるのを見ると悲しい気分になる。
勝つのが難しくても、負けるのがみっともなくても、戦い続けていることが一番大事だ。やり続けてさえいれば、いつかは弱い自分を肯定できる時もくる。
https://p-shirokuma.hatenadiary.com/entry/20220616/1655367972/123531
当日記のタイトルなんだけど、もしかしてシロクマ先生はモテない経験を何度もしたんじゃないか、と邪推するようになった。
本人的に「まだ40代半ばだし、精神科医だし、お金持ってるし、サブカルに詳しいし、恋愛いけるっしょ」と思っていたら、若い子にアタックして撃沈を何度も繰り返した挙句が、ブログ投稿の性淘汰ネタの不穏さに現れてるんじゃないだろうか。いや、あくまで邪推なんだけど。
これを読んでる人で、もしシロクマ先生やメロンダウトの人が、最近よくSNSその他で発表してる意見を積極的に読みたくなっているのだとしたら、それは貴方が精神的に低いレベルに落ち込んでいる証ではないか――と、一度もバズったことのない一増田は感じる。
ファンの人がいたら申し訳ない。批判が多いようであれば当日記は削除します。ごめんね。
【余談】
参考までに、女の人生はイージーモードなんて言うヤツがいるけど、とんだ間違いだ。
モテる男の人生も生まれた瞬間に勝ちみたいな論点もあるけど、やはり誤っている。
女性は可哀そうな存在だと思う ※人並にモテると思われる女性の話。女の人生は難しい。
https://anond.hatelabo.jp/20210402211311
女性の瞳を見ることができない ※異常なほどにモテる男性の話。オチが衝撃だった。
https://anond.hatelabo.jp/20220502214152
男性も女性も人生の難易度は同じだ。経済的に見ても、恋愛的に見ても。
女の子は、自分からアタックができないわけだろう。基本的には。男の方から来るのを待つしかない。
でも、いい男が声をかけてきたとして、次は自分を幸せにできるかを見極めないといけない。誰にでもコナをかけてる奴だとしたら最悪だ。
さらに彼氏ができても、その見極めが正しいかわかるまでに時間がかかる。その頃には取り返しがつかなくなっている可能性もある。
男も女も、恋愛は辛いんだよ。人生には、色んな葛藤とか、解決できないこととか、あることのために別の何かを諦めないといけない状況がいくつもあって、そういう制限こそが人間が生きるうえでの本質なんだよ。
いつも葛藤があって、あるモノを得ようとしたら別のナニカを失ってる。人はそういう状況に苦悶しながら、常に何かを選び続けて、自分を制御しながら生きていく。そういうゲームを生きている。
偉そうになってしまってすまんな。
今現在数年間の付き合いがある同業者の異性Aが居るのだが、Aのことは別段異性としては意識しておらずあくまで友達以上恋人未満のスタンスを数年間貫いていたのだが、あろうことか最近多分異性として好きになってしまった。
Aは今でも自分の事を友達以上~の目で見ているので、遊びに誘えば喜んで着いてくるし何なら「同業者として」数年間ルームシェアでもしようじゃないか、みたいな計画さえ二人の間で立てていた程だった。
Aは、自分の事を「同じ夢を追いかけていて、時に切磋琢磨できる関係」と見ており、そこに異性としての特別な感情は存在しない。
そして、恥ずかしいことに自分とAの間ではその仕事の腕前にかなりの差がある。勿論、自分がスキルが低い方だ。
Aはよく自分にアドバイスを求めてくるのだが、正直高次元過ぎて何も言えない、という返答が少なくは無かった。
で、最近Aに同程度の高いスキルを持つ友人Bが出来た。Aとは性別が違う。つまり自分とBは性別が一緒という事になる。
Aは自分より、そのBに意見を求める事がとても多くなった。たまーにこちらから誘って通話などしても、Bの話題をよく出すようになった。
それに対してどす黒い感情を抱くようになってしまった自分が何よりも嫌になってきているのが現状だ。
ちなみにBには交際相手が普通に居る。そしてAもBに対してさして特別な感情は抱いていないというのは本人の口から聞いた。
それでも、それでも自分は辛いのだ。なんで自分を頼ってくれないのだ・・・というあまりに理不尽で気持ち悪い感情を抱えてしまう自分が嫌過ぎて、辛いのだ。
そういう関係になることはありえないと頭ではわかっているのに、嫌な気分になる。その心の余裕の無さがとにかく辛い。
自分のスキルの低さが招いた事態であるというのは知っている。萎えてその道を諦めようと思っても居ない。
私は女性パートナーとめでたくお付き合い、同棲をしている者だ。
腐女子もそれ以外もリアルLGBTも、万人それぞれ性癖は人の数だけ、経緯は星の数ほど、これが真理だと思う。
(が、文章量がヤバくなっても困るので適当に言葉を使うことを許してほしい)
自分も彼女も、レズではなくまぁバイだろうという認識を自身に持っている。
いうて彼女はマジレズ感あるが……男性への物理興味が薄い(興味は精神に全振りらしい)
助けて、ワイのおっぱいもげる。
自分は、趣味として男の子好きっ…!萌え…!!変態でゴメンナサイ!!!
自分も男の子の格好したいけど、あまりにも似合わなくて悲しい、仕方なく適当に女性のカッコしている。
屈折した性格だが、男女関係なく好きな人は好きなのだ。性には臆病な残念オタクだ。
彼女はもー最初に出会ったときから可愛くて……天才すぎて遠い人で……可愛すぎてもなー!
私が勇気出してネットに投げた腐な絵に惚れてくれたのがきっかけで、お近付きになれた。
タイトルには分かりやすく腐女子って書いたけど、自分ら二人は腐女子なのか?また、どういう関係なのか??は、正直はっきり断言できない。
だが私達には共通点がある。
なんか、同性(男同士)なのに、よくある男女関係をそのまま男同士に当てはめてるようなものをよく見る気がする……
彼女はわりと商業BLや一次創作BLを読めるタイプのようだが、私はどちらも性に合わないので、自然と二次創作の方々しか知らないのだが……。
BLや腐創作をしてる人がどういう考えで作ってらっしゃるのか、すごい気になるんだけど
私がずっと心に引っかかってなんか申し訳ないことがある。
BLや腐を描いてるお姉さんたち自身は、みんなノーマル(ヘテロ)なのかなぁって、思っちゃうことがよくあって
(……待てよ、百合レズ描く男性は女の子がほんほんほんまに大好きなんやなってイメージあるから、ホモBL描く女性は男の子だいだいだいすきなのも道理か……??
いやいや、百合に男交わるのマジ無理な諸兄も多いよね??どうなんだろ……)
まぁほとんどの人がペンネームで活動してて、ネット上で踏み込んだリアル性の話などタブーでしょうけど。
腐女子は、普通に彼氏いたり彼氏欲しいって言ってる人もいれば、結婚や出産報告、けっこうよく見る。
ゲイ作家のゲイカップルが結婚?同棲?みたいなのは見たことある。
私は、腐女子の結婚報告にけっこうかなりダメージ受けることがある………。
好意的に感じてた描き手さんとかね。
リアルでも、昔好きだった女の子の結婚情報を知りたくない。ものすごいショック受けるから……
自分の中でどういう感情や自認が起こってて、どういうカテゴリ分けをしたらいいのか分からない。
元舞妓という経歴の女性がTwitterで舞妓が受ける性被害の実態を告発するという内容のツイートを投稿した。
凄まじい拡散力で瞬く間に広がり、内容の真偽も含めて議論されているが、RTボタンを押した何万もの人間のうち、はたして何人がその情報を拡散することの影響力を考えたのだろうか。
情報の真偽とは関係の無いところで発生する問題については、なかなか認知されない。多くの場合、重要なのは情報の真偽とされるからだが、ネット上で検証される情報にどれだけの証拠能力があるかは疑問である。
正直、初めてあのツイートを目にしたとき、デマを信じ込ませる手法をこれでもかと盛り込んだ内容に手慣れたデマ発信者かと思って内容を精査せずにスルーしてしまった。(文体があまりにもデマ臭すぎる。)
真実を発信したい人は真似しないほうがいいし、逆にデマを拡散したい人はお手本にしてもいいと思う。それくらいデマ拡散のテクニックが詰め込まれていた。
書き方はともかくとして、内容をよく読めば「まあそりゃあるよなあ」という印象を受けた。
私はこの業界について素人である。文化的にも特に興味はない。そういう実態があると言われても、真偽を確かめられるようなコネもない。
とはいえ、若者が着飾って金や権力を持つ人間相手に接待する、という環境であればそんな目にも遭っても不思議ではない。駆け出しのアイドルが枕営業を強要されていました、と言われたくらいの納得感である。それが本当なら加害者は裁かれるべきだな、と思うくらいの感想である。
ぶっちゃけ別に舞妓がいなくとも私自身は全く困らないから、本当に性搾取の温床になっていて浄化が難しいのであれば舞妓文化自体無くなっても構わないレベルの認識である。
だがこの話の嫌な気分になる点は、若い女性の性搾取問題に留まらない。
このツイートを拡散した人間の大半がおそらく正義に燃え、理不尽に怒り、情報を拡散して世に知らしめることそれ自体が正しいと思っている点である。
繰り返すが、ツイートの真偽は考慮していない。告発者の言が正しかろうがデマだろうが、私の懸念には大して影響しないからだ。
デマを拡散するのはダメな行為だと誰でも分かるからデマである場合は横に置いておく。だがこのツイートが真実である場合でも、情報が広く拡散されることで起きる問題については、考えている人間の方が少ないのではないかと思う。
そうなるのであればどれだけ良かったか。
確かに一部はそうなのかもしれない。あの告発によって救われる人間がいるのかもしれない。
だがそんな正義を無邪気に信じてRTボタンを押す前に、拡散者がその行為が及ぼす影響をどこまで想像したのか。それを考えると気が遠くなる。
あれは「自分が◯◯から性被害を受けた」という告発に留まらず、舞妓全体を主語として指している。
性被害を受けた舞妓がいた。それが真だとしても、舞妓全体を指して性被害者と訴える内容が定着することによって、他の舞妓が、舞妓の関係者が、どんな状況になるのか。拡散者は少しでも考えたのだろうか。
仮に舞妓の世界に性搾取が蔓延っていたとする。是正すべきであることも当然理解出来る。だがそれを、あんな形に雑に広めた結果どうなるのか。
正義感に突き動かされてRTボタンを一回押しただけの人々のうち、いったい何人があの情報が広まることによる影響を、良くも悪くもを含めて考えたのか。
「自分はちゃんと考えている」と思う人間ですら、自分が拡散した情報が他人に与える影響を理解しているのか怪しい。
無関係な人間に対して性被害者のラベルを貼ってしまう可能性は無いと言い切れるのか?
自分はそんな偏見は持たないと考えていても、自分が広めた情報を見た第三者がそう思う可能性は?
「あの情報を広めたことで、実情問わず全ての(元)舞妓が性被害者という目を向けられる可能性を理解し、それでもなお情報を拡散すべきだと考えている」ならば私から言える文句は無い。
それだけの覚悟が出来ているなら、(元)舞妓やその関係者がどういう目を向けられようと責任を持てるのだろうから。
そもそも、性被害というセンシティブな問題をあんな、とにかく知らしめるだけの情報として拡散されること自体、私は我慢ならない。
本来ならもっと慎重に、既に傷付いた人間がこれ以上傷付かないよう、傷付く必要の無い人間が傷付かないよう、丁寧に対応しなければならない難しい問題である。
もし有名なアイドルグループのメンバーの一人が「私は性被害にあっていた。アイドルはみんなそうだ」と大々的に告発したらどうなるか。それも、告発者以外のメンバーにとっては全く相談もなく。
告発者以外のアイドルは、突然自分も含めた属性で性被害者であると言われ、世間からそう見られることを余儀なくされる。また関係者は、実際はどんな立場であったかによらず性加害への加担を疑われるのである。
芸能人なんだから枕営業してて当然だとか、性搾取を受けてなかったとしても同じ業界人ならどうにかすべきだろう見て見ぬふりをしてたのならむしろ加害者だとか、そういう目を向けられる可能性はけして少なくない。
勿論被害者にはケアが必要であり、加害者には責任をとらせなければならない。受けた被害を告発出来る場が必要なことも分かる。
だからこそ慎重な配慮のうえで正しい情報を精査しなければならないのに、ネット上ではボタン一つで情報を拡散して「被害者の告発をサポートした」と安直な正義に酔えるのだ。
映画業界の性被害告発にしても、一歩間違えれば誤った情報で傷付く人間がいるから、非常に慎重に動かざるをえない。性搾取にあいました、業界の人間はみんな被害にあっています、是正しましょう、で丸く収まる話なら既に世の中はもっとまともになっている。
本当に性被害者を救う気があるなら、立場の弱い人間を守る気があるなら、自分が関わることで起きる良い作用も悪い作用も全部想像し尽くしてくれ。
胸の悪くなる話だが、自分にとって都合の悪い結果も全て考慮する必要がある。正しいと思ってした行動が正しい結果ばかりを生むとは限らない現実を理解してくれ。
それでもなおすべきである、その結果どうなろうと、自分が責任を取れると言えるのであれば、ぜひその正義を全うしてくれ。
自分がRTボタン一つ押した結果、傷付く必要が無かった人間に深い傷を負わせる結果を招くかもしれないと思うと、私にはとてもそんな勇気は持てないから。
もしこの投稿を見て拡散しようと思う人間がいたら、一回立ち止まって考えた方がいい。
この内容が性被害の告発を抑圧しないかだとか、慎重に考えるべき内容をデマと印象操作することにならないかとか。
この投稿を読んだ人間が、情報を発信する、拡散するということの影響力をちゃんと考えることが出来るなら、たぶん、この投稿は広まらないだろう。
田舎の人が都会(というか東京23区あたり)の声で嫌味に聞こえるものとして、車への認識が大きいと思う
特に富裕層につま先を濡らしている人の多くは田舎の車文化を毛嫌いする
なので都会にいくほど普通免許の取得率は下がるし車自体を持つことを嫌う傾向にある
かくいう自分も東京で学生やっていたときは免許なんて取らず車も運転する理由がまったくなかった
転勤先の田舎で強制的に取らされ、その後転職して別の田舎で車を必要とする生活をおくることになり今に至る
その過程で思うのは、車に乗らないで済むならそれでいい、ということだ
あえていうけど車やバイクというモータリゼーションが嫌いというわけじゃない
単に車が維持費がバカ高い乗り物なので趣味や余興で手に入れるならまだしも、生活必需品として位置づけられることに違和感があるだけ
これは自動車税、ガソリン代、駐車場代、車検・整備費、などを合わせた額だ
自動車の維持費を落とすことは容易ではないため、田舎では家賃や住宅ローンに車の維持費を月割した額を含めて考えないとあっという間に破産してしまう
これが電車ならば定期代を会社からまるまる出してもらえる可能性もあるのだが、車だとせいぜい通勤経路のガソリン代だけだ
こんなに高いものを支払わないと生活できないとかちょっとおかしい
これが結構大問題で、都会にいた頃は1日1万歩は楽勝だったのに、今は職場の巡回などで稼ぐしかない
しかも田舎は階段の概念が乏しいことが多く、家の中や職場以外では全く階段を上り下りしないことも多い
そうすると運動量が極端に乏しくなる
自分はまるでアルコールを飲まないから良いのだけど、数世紀前の飲み会がまだあった時代は車で居酒屋に行けば帰りは代行運転を頼むかシラフの人に送ってもらって必要があった。自分が飲まないならば飲んだ人を送り届ける必要が出るので、どっちみち手間や時間やお金がかかる。
電車ならば車内で寝ようが本を読もうが自由である。けれど車だと運転に集中する以外にすることがない。どんなに疲れていても自分を移動させるには頑張って運転するしかなく、事故に合わないようにするには自主的に休憩を挟むと必要がある。試験会場に向かう最中に軽く問題集を読み返す、なんて単純なことが車だと難しくなる。なので情報源がラジオなどに偏ってしまい、無駄にラジオCMを覚えるハメになる。過払い金とビックモーターが大嫌いになった。
高齢者の運転事故はなぜ多いのか。車を運転していればわかるけど、ほんのちょっとした集中力の欠けや操作ミスで簡単に事故は発生する。レーンを一定速度で走行する、という基本中の基本ですら疲れや不注意で容易に外れてしまうのだから、運動神経や感覚が鈍っている高齢者が運転すればどうなるかは想像にかたくない。
プリウスミサイルは決して誇張ではないと思う。なぜならあのシフトノブは悪意があるとしか思えないのだ。他の車ならばシフトを最上部に持ってくればパーキングが入りとまることができる。しかしプリウスなどの電子シフトだとパーキングは独立したボタンとなっており、最上部にするとリバース(バック)になってしまう。とっさの判断を強いられる運転において、あろうことか止まるとリバースが同じようなシフト位置にくるのは事故を起こして欲しいという悪意がなければ成立しない。
それになぜかBレンジというバックとも捉えられるシフトが存在するのも謎。しかも足を前に出すとブレーキとアクセルの両方に足が触れるので非常に危ない。
車は他の家電と違って、ないと行動そのものが阻害される。人によっては冷蔵庫がなくても問題ないケースもあるが、車がないと田舎では本当に何もできない。地域社会自体が車を前提に組み込んでおり、徒歩や自転車への扱いが雑だからだ。もちろん徒歩や自転車ですむならそれでいいのだが、それは子供がいなかったり職場がすぐ近くなどのレアケースでしかない。
車自体は面白い。運転は爽快だし多少の荷物があっても自由に移動できる。満員電車に子供を乗せるなんていうリスクを負う必要もない。
けれどやはり生活自体に組み込まないと成立しないのは度し難い。
運転自体が苦手な人でも田舎にいれば強制的に車を持って運転しないといけないのは理不尽だ。
できるならカーシェアの方が気楽なんだけど、田舎ではカーシェアが圧倒的に非効率なのは言うまでもない。お金の学校などでカーシェアを田舎の人に勧めているのだが、それなら引っ越すかタクシー通勤したほうが良い。
とりあえずスーパーの隣の家に住みたい
営業企画から人事異動で総務・厚生系の業務で働いて分かったことを書く。
経営企画が最も勝ち組だけど、それは下流工程の営業戦略や、企画担当によくわからないカタカナを振りかざして丸投げをして、成果が出れば自分の手柄、失敗したら現場のせいという感じでほんとうに上手く成果を主張するので、アピール力だけで出世していく。ある意味すごい才能。
総務や厚生なんてのはできて当たり前って感じなんだけど、「何も生み出さない」みたいな感じで効率化ばかり求められる。毎年ちょっとずつ人員削減されていく理不尽。人員カットした管理者だけ評価される。
そこに労務管理や情報セキュリティはなにか事故があればマイナスがつくので、さらに輪をかけて苛酷なゲーム仕様になっている。マゾかな?
そして雇われ社長はは株主しか向いていないので、短期的には賃金や人員を充実させるモチベーションは全く無いので、コスト部署でしかない経営企画以外のコーポレート系は辛い。本当に辛い。
昔は年功序列とセットで真面目で無能な働き者を御恩と奉公で繋ぎ止めてきたけど、市場のパイが増えない中で利益を上げるべくコストカットしてきた先にあるのは何なんだろうねって最近思うわけよ。
撮影当日に契約とか、なんかすごい慣行が横行してたんだな/自分達の業界で騙されたり強要されたりしてる被害者のことは全然考えないのかね
https://b.hatena.ne.jp/entry/4721303336320738242/comment/good2nd
「AV女優は撮影当日に契約している!?」と聞いて、私もびっくりした。
しかし、これは2018年、新ルールとして導入されたものらしい。
振り返ってみれば、その頃はたしか、「AVの出演強要」がニュースになっていたと思う。
この新ルールにより、AV女優には「土壇場で辞められる権利」が保障された。
撮影当日まで正式契約がないということは、女優側はいつでも自己都合でキャンセルができる。
つまり、悪徳業者が女優に対し、「お前は打ち合わせで同意しただろ? すでに契約書があるぞ」などと脅し、出演強要することを防いでいる。
ちなみに、この新ルールは、業界団体ではなく、外部団体の「AV業界改革推進有識者委員会」(現・AV人権倫理機構)の要請によって作られた。
撮影当日になってドタキャンされたら、メーカー側はスタジオ代、スタッフ代などの準備費用の損害が出る。もしも女優のワガママでそうなったら、メーカー側はたまったものではない。しかし、たとえそうなったとしても、メーカー側は女優に賠償請求してはいけない。
メーカー側が賠償請求をチラつかせるのは、AV出演の強要になりかねないから、その可能性をつぶしておこうというのがこのルールの趣旨である。
以上。
good2ndのような左翼は、女性を守るための新ルールをあげつらって、AV業界を叩いている。まったくバカバカしく、皮肉な話だ。
私も知らなかったから偉そうなことは言えないけど、人権団体の要請によって新ルールが作られる→その新ルールが印象操作に使われて左翼に叩かれまくるって、さすがに理不尽すぎて可哀想になってくる。
参考:「土壇場で辞められる権利」