はてなキーワード: 高校三年生とは
愚痴や不満を言ってまでしがみつくくらいならとっとと捨てて別のコンテンツに移住したほうが得策
別に移住したからと言ってデレステのアカウントは消えないし、改善されたらそっちに戻ればいい
移住先としてKONAMIからリリースされているときめきアイドル(通称ときドル)というアプリを強くお勧めする
ときめきアイドルの特長
ミリオンでもオートライブが実装されたが、音ゲーの自動プレイはときめきアイドルが初でありミリオンはパクリなのだ
ときめきアイドルのオートライブは一回実プレイすれば一週間ずっとオートライブが可能な仕様であり、音ゲーをプレイするのは週一でいいという非常に労力が少ないものである
ときドルは全カードに衣装がついており、SSRじゃなくてもRやSRで3D衣装を着せてライブで踊らせることができる
そのRやSRもブルマやジャージ、スク水といった定番衣装が中心で、鑑賞という意味ではSSRを引く必要がないほどクオリティが高い
また、アクセサリーを付け替えできる機能も備わっており、これはデレステやミリオンにはない独自機能である
アイドルに帽子を被らせたり、眼鏡をつけたり、また猫耳やしっぽなども付けることができる非常に自由度が高く楽しいシステムだ
・少数精鋭である
ときドルに登場するアイドルは15人である。デレステの183人やミリオンの53人と比べるととても少なく感じるが
逆に少ないがゆえにガチャの出番やイベント登場回数の不公平感など全くないのだ
少ないといっても中学生一年生から高校三年生で構成されており多彩なアイドルが登場し、必ず気に入って担当になれる娘が見つかるだろう
本文をうっかり読んでしまうのは時間の無駄なのでいくらか前置きで警告をしておく。
これは一人のクソ女の自分語りだ。
多分恋愛をしている人にもメンヘラをやっている人にも響かないと思うので、ノンフィクションの小説が好きな人とかが読んで哀れむなり蔑むなりネタにするなりしてくれたらいいと思う。
文章にすると落ち着くたちなので、一回字に起こして整理したかっただけだ。
特に意見やアドバイスを期待してはいないけれど、私が想像も出来なかったような現実を打開する魔法があるなら教えて欲しい。
そうじゃないなら今はほうれん草を沢山使うレシピくらいしか知りたいことはない。
石を投げたりして気持ち良くなるなら好きにこの文章の私を罵ってくれて良い。もし肯定したいとか共感したとか優しい言葉を掛けたいとか思ったら、それは上手く受け取れないので胸に仕舞うか何かしておいて欲しい。言って満足するなら言って満足して欲しい。
それから、ぼかしたりフェイクを入れてはいるけれど一応念のため。私の彼氏さん。あなたがこれをもし読んでいたら、私にいい加減愛想を尽かして下さい。メールもしなくていいし、顔も合わせなくていいです。ここにはあまり書いてないけどあなたはすてきな人なので、きっと可愛くて気立てが良くて知的で趣味の合う恋人や奥さんがそのうち出来ると思います。私抜きで幸せになって下さい。でも今までありがとう。
さて、数えてないけど多分これ五千字くらいある本文。
私には彼氏がいる。中学生の頃男女混ざった仲良しグループに居た同士だったが、彼は当時テンプレの中二病クソ女であった私に親切だった。私はいわゆる愛情に飢えたメンヘラであり、被虐待児でもあったので親切な彼を好きになった。
親に無理矢理突っ込まれた進学塾、殴られたくないから沢山勉強して、私が目指した志望高校は彼と同じ学校だった。志望理由は、当時不良やヤンキーが苦手だったのでそれでもやって行けそうな校風であることと、私のやりたい部活の成績が良かったこと。通える範囲で目指せる偏差値で勝手に割り出されたその高校を志望していると自分に言い聞かせるために、彼と一緒に高校に通えるかもしれないことを考えていた。彼は頭が良かった。彼の頭が良いところにも好感を持っていた。
結果として高校受験は失敗だった。兄弟が多い我が家は長子の私の滑り止めを用意出来なかった。模試のきれいな紙に印刷された合格する確率が70%まで落ち込んだ。挑戦は許されず漫画のように家庭の都合で通いやすくそれなりの偏差値の親が決めた高校を受験して合格した。
妥協のご褒美に私は携帯電話を買い与えられた。猿のように熱中した。友達とひっきりなしにメールをするのが楽しかった。そんな携帯中毒に付き合ってくれたのが彼だった。
彼は愚痴をうんうん聴いてくれた。肌寒い日にはコートをかけてくれて、雨の日は傘を差して家まで送ってくれた。
彼は誰にでもそうする人間だ。
そういう人間を私は好きだと思った。
高校一年の夏、好意を伝えた。彼はいわゆる恋愛恋愛した面倒は嫌だけど、と前置きした上で私と付き合う返事をくれた。友達にも家族にも内緒だった。私はおおっぴらに恋愛を満喫して盛大に恋心に振り回される友人たちのようになりたかったが、その夢は絶たれたと言ってもいい。
彼は時折、家族が留守にしている放課後や休日、私を自宅に呼んだ。彼の家は急な坂の向こうにあり、私は暑い日も寒い日も自転車をこいで彼の呼び出しに応じた。二人でカーペットの床に並んで座って、他愛もない話をするのはとても楽しかった。彼はキスがしたいと言ったので応じた。こんなもんか、と思った。彼は私の胸や下半身に触れたがった。胸は触らせたが、下半身を他人に触られるのは嫌だったので精一杯かわいこぶって断っていた。
彼が満足そうで良かった。私にかわいいとか偉いとか頭が良いとか言ってくれるのは彼だけだったからだ。
たまにデートなるものもした。彼は共通の友人にばれたら面倒だからと地元ではないところで待ち合わせて、博物館などに行った。博物館が好きなので楽しかったが、多分一人でいても楽しかったとは思う。彼は理系なので解説をしてくれて、知らないことを知れたのは楽しかった。
いわゆる中学生ぐらいのいじましいお付き合いは高校三年生になるまで続いた。
部活の大会や模試で顔を合わせたら、こっそり示し合わせて抜け出して会って話したりしていた。
関係が、と言うよりも私が変わったのは高校三年生の秋頃だっただろうか。
鬱を発症していたと知るのは年明けに通院をはじめてからだ。高校の卒業も危うくなった。彼のメールを無視し続けた。友人たちのラインもブロックした。手首を切った。酔い止めを何箱も一気に飲んだりした。苦しかった。とにかく早く死にたかったが、癇癪を起こすと椅子を投げてくる母親から兄弟を守らなければならなかったので死ねなかった。
音信不通を続け、両親の説得も不登校支援センターも保健室も諦め、私は精神科に通院することになった。
高校三年生の一月、私はセンター試験どころか学校へも行かず精神科に通った。薬が効き始めるまでが地獄のように長かった。向精神薬と睡眠薬がなんとか効力を発揮する雰囲気を醸しはじめた頃には、卒業はほぼ絶望的だった。
私は主治医から診断書をぶん取り、校長などのお偉方と交渉を重ね、補講を組んでもらうことでなんとか、卒業式から数日はずれが生じるものの年度内に卒業出来ることになった。周りの大人は私の想像をはるかに超えて優しかった。同情し、時には私の身の上話に涙ぐんでくれた。そんなことで悩んでいたなんて知らなかった、と口々に言った。進学校だったので不登校の前例が無かったのが幸いした。先生方は私一人のために会議室で卒業式をやってくれた。
さて、話を恋愛に戻そう。私はなんとか卒業証書をぶん取り、彼は第一志望の難関大学に合格していた。サイゼリアで久し振りに会って彼は「元気そうで良かった」と言った。
私は全くもって元気では無かった。
恋愛どころじゃない、何度も死にかけた。
人に説明する元気もあまり無かったので、かなり端折って私はことの顛末を説明した。ずたずたの腕を見せて「メンヘラと付き合うとろくなことがないって言うから、別れるなら今だと思うよ」と彼に提案した。彼は「それは別れる理由にはならない」と言った。
そういうことでお付き合いは継続されることになった。
彼は大学に入学した。私はそれを祝福した。彼が受験勉強を頑張っていたのを知っていた。とても尊敬している。
私はといえば、自分を殺そうとする自分に耐え、病状を必死に家族に説明し、ひたすら精神科に通った。
彼は以前と変わらず家族が留守の合間に私を家に呼んだ。私は行かなかった。外に出る元気も無かったし、当日朝「今日家誰もいないよ」と言われても動き出す頃には翌日の昼間だ。
彼はサークルが忙しかった。理系だから男ばかりで可愛い子いないよ、と言っていた。
私達はあまり会わなくなった。
彼は私が死んだら悲しむだろう。優しくて弱い人だから。自殺だけはしてはいけないと自分に言い聞かせた。
色々なことがあった。
死なないために意識を失うことが必要だった。私は酒浸りになり、睡眠薬はどんどん強いものに変わった。早朝起きて、Amazonで買ったウォッカを水で割り、それで頓服を服用して眠り、昼過ぎに起き出して母に罵倒されながら(これは10年来の日課だ)食事をとり、薬を飲んでまた眠った。眠れない夜は頓服を酒で服用した。そうすれば眠れる。眠っている間は死にたくならないので楽だった。
私某居酒屋で酒を飲みすぎて意識を失い救急車に乗った。倒れたはずみに骨折もしていたのでそれを治療するため更に入院した。入院中は母に罵倒されず三食昼寝付きだったので手術の痛みを差し引いてもお釣りが来るくらい快適だった。
そんな状況を医者は許さず、私は精神科の閉鎖病棟に入院することになった。彼は見舞いに来たがったが、私は断った。誰にも会いたく無かった。自分自身と二人きりになりたかった。何もかもに疲れ果てていた。
看護師さんは優しい。変な人が沢山いるけどそれぞれが自分のことで精一杯だから誰も干渉してこない。
母の罵倒が無いなら、現実逃避するためのスマートフォンは要らなかったので無くても困らなかった。
少しの本、ポータブルCDプレイヤーと何枚かのCD。それだけで完結した生活は確実に私の心を癒した。
これが人生の正解だと思った。誰も、何も要らない、天国だと思った。
あらかじめ定めていた期間が過ぎ、私は退院した。
閉鎖病棟に入院したことがあるレッテル付きの私は母からの罵倒が少しは薄まったと感じた。もう死にたくならないために一人で十分だった。
そして同い年の彼が大学二年生になると同時に、私は大学一年生になった。
母が勝手に推薦入学に出願して受験料も払い込んでいた。仕方がないので面接に行ったら大学に受かった。入学した。
彼はおめでとうと言ってくれた。
新調したスーツ、きれいなキャンパス、好きな学問、新しい友達。
私はまともな人間に戻れるかもしれないと期待した。
しかし、ゴールデンウィークが明けた頃には既に私はくたびれていた。夏休みが明けて、大学へも行かなくなった。アルバイトはクビになった。
私はただ家で時間を潰し、母の(以前よりはマシな)罵倒に耐え、薬を飲み生活していた。もう死のうと思っていた。
大学で新たな人間関係を築いた彼は、私の死を受け入れるキャパがあると思った。
そういえば私は彼とセックスしていなかった。
呼ばれても家に行かない、共通の友人たちと遊ぶ以外では会わない、そんな恋人であったから、私はなんだか彼に申し訳が無かった。
セックスする前に私は酒を飲んだ。
薬の副作用で性欲は無く、彼とキスしても気持ち悪いと思ったからだ。
こんなもんか、と思った。
彼は別にセックスしたからといってこれまでより優しくなる訳でも冷たくなる訳でも無かった。
その日私からやや強引に誘い、夕食を食べながら話をした。私は彼と話がしたかったからだ。彼と話すのは楽しかった。
それが数ヶ月前のこと。
それ以降、私は彼と一度も顔を合わせていない。
精神科に通い続けて、自傷行為をやめられた。アルコール中毒も治った。睡眠も規則的になった。
兄弟が進学と同時に一人暮らしを始めた。もう自分の身を自分で守ってくれる。
私の生きる価値は無くなった。
ある夜母が癇癪を起こして私に出て行けと怒鳴り、私を家から蹴り出そうとした。
終電が無かったので私はははに頭を下げて「一泊止めてください、明日出て行きます」と言ってその場をおさめた。
翌朝、私は最小限の荷物だけを持って逃げるように家を出て、何度か遊びに行っては掃除をしてやったりしていた兄弟が一人暮らしをしている家に転がり込んだ。
それから紆余曲折あり、結局兄弟の仕送りで私は生活している。兄弟は大学に行き、私は自分と兄弟の二人分の家事をしている。おそらく幸せなのだろう。私が欲しかった暮らしは手に入ったのだろう。
もう死んじゃおっかな。くたびれた。もう何も要らない。
今死んだら同居している兄弟がショックを受けるだろうから、死んでないだけ。
彼と連絡を取っていない。
これが自然消滅と言うのならそうなのかもしれない。
私は多分もう駄目だ。大学は妹宅からは距離的に通えないので中退する。アルバイトでせめて食い扶持を稼ぐのが目標だが、達成出来るのはいつになるやら。
自分は異性愛者ではないのかもしれないとも思ったが、同性も好きにならないのでたんに今恋愛をしたくないだけだと思う・
彼は人間としてすてきだから好きだけれど、セックスはしたいと思わない。それじゃあ社会的地位の高い彼にぶら下がりたいだけの厄介メンヘラだ。しかもセックスさせてくれないときた。そんなクズになってまで恋愛とかいうフィールドに立っていたくない。情けないし申し訳ない。
友達に戻って彼と飲みに行きたい。手を繋がないで一緒に博物館に行きたい。一緒に食事がしたい。でも今は会いたくない。
さよならを言うために約束を取り付けようと思って、彼が通う大学の夏休みの期間を調べている。
でも何だか会うのも連絡するのも嫌になってきた。
こうやってぐずぐずしたまま、付き合い始めてこの夏で四年。嫌だ。
生活が忙しくて、朝起きて夜寝るのが精一杯で、恋愛なんかやってる場合じゃない。
そろそろ死んじゃおうと思っている。
メンヘラはよく人生を虚無虚無言うけど例に漏れず私もやはり虚無を感じている。
恋愛には向いてなかった。
多分健康でいることが出来なくなった段階で恋愛なんかやめにしておけばよかったのに、彼の優しさでそれは人工的に延命措置を受け続けている。
罪悪感はそれだけで健康を害するから排除しなければ、と、病気を治療する上で判断出来る。だからさっさと別れようってメールを打てば良いのだ。
参ったなあ。
高校一年の頃からお世話になっている数学の家庭教師の先生が最近陰謀論にハマっている。
まあハマっているだけなら別にいいけれど、それを嬉嬉として自分に話してくる
「こんなこと聞いたら鬱になるよ」とか「人口削減のためにワクチンに毒を入れている」とか「日本は〇〇(国名)の奴隷だ」とか……
先生は真実を教えてあげているつもりなのだろうけど、かなりうっとおしい
そして話の締めは「それを知ったところで自分たちには何も出来ることなんてないんだけどね」が定番だ
正直、そんなこと言われても自分にはどうすることもできないし、受験という大事な時期にそんな不安を煽るような話をしてくる先生も嫌いになりそう
ふざけんな
お祈りの連続で内定は一つも持っておらず、選考中の会社もほぼないため、まだまだ会社説明会に通う日々が続いております。
この文章は地元から東京へ行く高速バスの中で打っていたものです。
私には持病があります。
持病と言っても大したものではなく、激しい運動ができないだけで日常生活は問題なく送れるものです。
体育の授業や、運動会やマラソン大会を休むことは決して許してはくれませんでした。
思えば、これまでの人生で母が私の要望を聞き入れてくれたことは一度もありませんでした。
それは自分の家は母子家庭で裕福ではなく、兄の学費で貯金もないから、高校卒業後はすぐに働きたいと考えていたからです。
どうやら母は私に家から自転車で通える場所にある公立の進学校に行って欲しかったようです。
結局、教師と母親からの言葉によって私はそこへ通うことになりました。
元々勉強は苦手ではありませんでした。
苦手な数学を除けば、高校の勉強で苦労をすることはなかったですし、楽しいと思える分野もありました。
だから大学は東京の私立大学(MARCHのうちの一つ)に通いたいと思えるようにまでなりました。
しかしそれは許されませんでした。
「うちは母子家庭で、お兄ちゃんの学費でもうお金がないから。大学は家から通える場所にある国公立の大学じゃないと絶対にだめ」
母の言う条件に当てはまり、私に選択できる大学は一つしかなかったです。
滑り止めを受けることは許されませんでした。
落ちてしまったらどうするの?と聞くと、やはり母は激怒して「落ちるんじゃない受かるの!」と叫びました。
多分落ちたら殺されるんだと思いました。
同時期に、兄が通っていた学校を中退して実家に帰ってきていました。
兄に邪魔をされて、家は勉強できるような環境ではなかったので、勉強は全て学校で終わらせて家では休んでいましたが、それすら母親は許してはくれず、「どうして勉強をしないの!?どうしてそれで大学へ行けると思ってるの!?」と毎日毎日ヒステリックに叫んでいました。
母が私を大学へ通わせたいのは、世間体や、周りの友人や親戚などを見返すためだけでした。
大学には結局合格をして、母親に他の子と同じように遊ぶことを禁止され、監視されながら大学へ通い、今に至ります。
就職活動の状況はとても悪いです。
学歴フィルターは仕方ないとしても、持病のことが不採用の理由になってしまったときはとても落ち込みました。
一番悲しくなるのは企業の人から「今は売り手市場だから」と言われることです。
初めて会社説明会へ行った企業で、そこの社長から言われた言葉は今でも忘れられません。
「あなたたちは売り手市場で、苦労をせずに就職先を見つけられるはずです。そして学生気分のまま社会人になる」
その後、延々と今の学生がいかに甘えているか聞かされた後、適性検査を受けさせられ(これは事前に知らされていなかった)、後日お祈りのメールを送られました。
どこへ行っても、この言葉を聞かされました。
「売り手市場だから〜」というのは企業が勝手に言ってるだけではないのでしょうか。
売り手市場だったとしても、学生に失礼な言動をしてもいい理由になるのでしょうか。
私たちには立派な社会人になることを求める人たちは、そもそも私たちを人間として見てくれていないように感じています。
こんなことなら、大学なんて通わなければよかったと強く感じています。
私に大学へ通わないという選択を許してくれなかった母親すら、今は憎いです。
以上です。
まだまだ言いたいことは山ほどあります。
言い足りないです。
でもキリがなさすぎて、書き切れません。
これらの記事が話題になっているので田舎出身の私の事をここに書いておこうと思う。
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/55353
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/55505
私は今年で30才を迎える正真正銘、東北の田舎底辺校出身、都内勤務の人間である。
私の両親は共に高卒で父親は土木業、母親はスナックのママという家庭に育った。
勉強しろと言われたことは人生で一度もなく、部活動やアルバイトをして早めに社会勉強をしろといって育てられ、中学生の時から新聞配達をはじめ、高校に入ってからはコンビニ、スーパー、引越し屋のアルバイト等をしながらお小遣いを自分で稼いでいた。
テストが赤点であっても宿題をやらなくても怒られることがなく、お小遣いが貰えなかったため自分でアルバイトし、また勉強を疎かにしてバイトを増やしても怒られない家庭だったので、お小遣いが欲しかった私は勉強はまったくせずアルバイトに精を出し稼いだお金はゲームに費やして過ごした。
さらに遡ると小学校低学年の時に分数の計算でつまづいていた私は家で父親に宿題を見てもらおうとしたが「わからないからオレに聞かないで」と一蹴された事もあった。
さてそんな環境で育った私が高校三年生を迎えた時に進路について考える必要性がでてきた、周りの友人に話を聞くとだいたいが就職するか専門学校に進学すると言い、大学に進学すると答えるものはクラスに1、2人くらいだったと思う。
私も友人同様、当時ハマっていた漫画やゲームの影響で車関連の専門学校に進学しようと思ったが家庭の環境がちょうど悪くなっていた時期でもあり進学するのが厳しかったため進学をせず、また就職するわけでもなく、アルバイトして貯めたお金で東京に上京しフリーターになった。
私は当時、専門学校は自分が就きたい職業の専門性を磨くという場所でとても大切な場所だと思っていたのに対し、大学に行く意味というのが全くわからなかった。
大学に行っても中学のように相変わらず”将来役に立つとは思えない”5教科を勉強する場所と思っていたのだった。
そこで、そもそも大学に行く意味がわからない私が、その大学に入るために1年ないし2年かけて大学に入る勉強をするという予備校生に出会ったのだから私にはとても衝撃的な出来事だった。
しかし、それからそのバイト先で出会うさまざま大学生と仲良くなるにつれ自分の考えがおかしかった事に気づかされていく。
そのバイト先では東大生、慶應生、早稲田生、明大生と、日本で上位に位置付けられる大学生達と出会い、仲良くなり、彼らの頭の良さ、教養の高さ、人間性、将来目指している(自分とはまるで縁のない)職業、育ちの良さを目の当たりにしてしまったのだった。
また彼らと話していて大学というのがどういう場所か想像することができ、その中で私がショックだったのが、彼らには当たり前のように配られている弁護士、官僚、新卒で大企業に入るというエントリーチケットを私は持っていないという事だった。
もちろん全員が夢叶うわけではないが、そもそも私は今のままではそのエントリーチケットすら持っておらず彼らとは全く別の人生を歩まないと行けないんだという事実にその時初めて気が付いたのであった。
そもそもそれまではそんな職業に就く人や、目指す人が自分と同い年にいるという事をまったく想像すらできなかったのだ。
医者や弁護士は元より大企業で働くサラリーマンですらどこか異世界の話、自分とはまるで縁のないものと思っていたのだ。(プロ野球選手や芸能人を思い浮かべればわかりやすいだろうか?)
彼らは小中高と勉強をしてきて、当たり前のように塾に通い、進学校に入学し、予備校に入り模試を受け、入試を受けいい大学に入る。
これらが彼らの周りでは至極当たり前のことで、彼らにしてみれば私の方が異端児だったのだ。
その時19才の私は、例えるならレースをしていてスタート地点から1/3程度進んでから貴方が走っているのはコースではないのでコースを外れた地点まで戻ってレースに戻って下さいと言われているようなとても理不尽な感覚に襲われた。(コースアウトしていたのであれば、コースを外れたその瞬間に教えてくれないとあまりに先行者と差がつき過ぎて追いつく事ができないよと)
私の場合はスタートした時点で明後日の方向に走ってしまったか、スタート地点をグルグルと回っていたのだ。
そして世の中の仕組みを教えてくれなかった両親や生まれ育った田舎を恨むようになった。
誰も世の中のルールを教えてくれなかった、知ってさえいれば努力ができたはずだと涙する事もあった。
間はだいぶ端折るが、その後私は一念発起し世間一般にブラックと呼ばれるような待遇の零細企業に就職し、自分で学費を捻出し国立の夜間大学へ通い、無事卒業し、転職をして最終的に東証一部に上場している業界の大手企業に勤める事ができた。
私はまだ人生のやり直しが聞く時期に、たまたま運良くバイト先でそういった人たちと巡り会うことができ、気がつき、努力ができた為、今はそれなりに普通の暮らしを送ることができているが、もしそういった気づきが今だになければ30才の今フリーターを続けていた可能性もある。
世の中には私が若かった頃と同じような境遇の人が沢山いて、そういう人たちに勉強してこなかった自分が悪いんじゃんと一蹴することは簡単だが、そもそも勉強の意義を知らない人は勉強するはずもなく、単に怠けて努力しない人とは違うということである。
そして私は宝くじに当たったのと同じように運良く気がつくことができた為、そこから脱出できたのである。
もし全員が生まれた瞬間に同じカードを配られていたとしたら、それをどう使おうが(または使わないか)は個人の勝手だが、はなから配られたカードが違うのでは理不尽である。
はじめてドリフェスを目にしたのは2年前くらいだったと思う。TVCMでアプリの紹介が流れていた。キラキラしてるな〜と思ったが赤い子も青い子も緑の子もどこかで見たことあるようなキャラクターだなって感じたことを覚えている。
それからしばらく経ってアニメが放送されると聞いた。1話は見逃してしまってとりあえず2話をみた。絵は嫌いじゃない。くせになる。ただ声優が下手すぎる。聞いたことない声だし誰がやっているのか気になったので調べたら俳優、しかも声優を務めている俳優でユニットを組んでいるのか。とてもおもしろいなと思った。青の人がとてもイケメンだなと思った。
3話も見てみた。2032。びっくりしてしまった。こういう話を3話でやれるんだと。続きも気になった。だけど当時リアルが忙しかったのとどうしても声に慣れなくて4話以降の視聴を諦めてしまった。
そのとき私は病んでいた。高校二年生のとき自称進学校のプレッシャーや精神的な弱りからくる体調不良で不登校になっていた。案の定進級できずに、4月から通信制の高校に転校した。アルバイトを始めてほかのハマっていたジャンルにお金を使うことで少し元気になっていた。
夏休み、8月頭の頃だっただろうか。フォロワーさんがドリフェスの布教をしていた。アニメの2期が始まるらしい。1期から見てみようかなと思いアニメイトチャンネルに登録した。いざ見直してみると声優の荒さはあるもののそこまで気にならないカラダになっていた。なんだこれ。キラキラしている。こんなにキラキラした世界があったのか。佐々木純哉はアイドルになるために高校へ進学せずに上京してレッスンを受けている。惰性で高校進学した私に刺さりまくってしまった。そしてアニメイトチャンネル無料期間のあいだに最終回まで見てみごとドリフェスに落ちたのであった。
アニメ2期が始まった。キラキラしたアイドルはそこにいて、またKFのエピソードはとてもクるものがあった。毎週更新されるエピソードに私は元気をもらい病んでいたのも軽くなり、鬱ではなかったけど抗うつ剤みたいなものだったと今では思う。
夏の終わり頃にアプリをダウンロードした。音ゲーはそれなりに楽しくてたまにドリカショップで課金もした。DCDも始めた。純哉のカートが出ると嬉しいしルーキーの子たちもとても魅力的だった。犬地鈴之助くんがすきだった。
テレビでのアニメの放送が始まった。放送後にドリフェス研究室というものをやっているらしい。見てみたら最高だった。みんなおもしろかった。純哉の声をやっているトミーがとても愉快で5人の中では1番好きになった。アニメOPのCDを買った。MVもかっこよかった。2次元寄りに応援していたけど3次元もとても好きになった。
高校三年生となると進路関係が忙しいわけで、ツアーがあるので遠征したいと親に言ったら一蹴されてしまった。東京は近かったがセンター試験直前だったためダメだと言われた。パシフィコ横浜だけ行けることになった。
ツアーファイナル、サイコー超えてた。始めて生で見た3次元のステージ。キラキラが溢れていて涙が止まらなかった。
終了が発表されて緊急配信を見た今、原因はお金かアミューズとバンダイの契約なのかわからないけれどこの半年間私の心を支えてくれた感謝ともっと早くからドリフェスにハマっていなかったことへの後悔しかない。決して私が出せたお金は多くなかった。アプリへの課金が少しとDCDはカード100枚あるかないか、CD数枚は買ったが、クロスドリームツアーは行かなかったしアニメの円盤も買わなかった。グッズを大量に集めていたわけでもないし、3次元のキャストをドリフェスの活動外で追うこともなかった。本気でドリフェスを追っていた人たちからしたらムカつくのかもしれないが、これが私の精いっぱいだった。今まで他ジャンルに入ってたお金がドリフェスに流れたことは確かであり私はこの使ったお金に後悔もしていない。
2次元が先に停止することには本当に疑問しかない。武道館に行きたいとは思うが、アプリが終了してから当日まで気持ちを保っていられるかわからない。3次元のイベントをやる日のアプリの特別ボイスがとても楽しみだった。武道館はきっとそれがないのだろう。
「応援をありがとう!ほんっとに、俺はアイドルになれてよかった!」
自分の応援しているアイドルに、アイドルになれてよかったって言われることはファンをしていて1番の喜びなのではないだろうか。もっと応援していたかった。好きだった。
まだ凸バクぜんぶ開けられてないがキャンブロ欲しいので通常楽曲やるしかなくて本当に苦しいけど残された時間を精いっぱい楽しみたいと思う。
俺が7年前にたまたまオナホを買ったからって、今になってサジェストにオナホを出すな!
共用のパソコンなんだぞ!誰に見られているかわからないじゃないか!
まあ、当時のことを少しだけ思い出せたから今回に限っては不問とするが、二度目はないかなら!
それとついでだから言っておくが、DMM!お前もたいがいにしろよ!
まったく、思い出したくないわけではないが、家族に見られたいものではないのだから…
あれは忘れもしない、高校三年生。
勇気を出して自分でハンコ作ったりアマゾンのアカウントを設定したりして親にばれないようにこっそり買ったオナホ。
オナホそのものよりも、それを手にするまでの過程(ハンコ作る、僻地にある配送センター受け取りなど)に対して並々ならぬ手間をかけたことが思い出される。
すでに18禁の警告にも動じる必要のない年齢になってしまったが、それでも他人の目を多少は気にしつつそっち系の活動をしている。
つまり、高校生当時の自分の隠密行動に対する気の使いようは、想像を絶するものであるということなのだ。
例えば、いまでこそごく普通に利用する店舗受け取りサービスであるが、当時は本当に届くのか、間違って自宅に配送されてしまうことはないのか、受取期限を超過した場合に自宅に連絡など来ないだろうか…など、本当に心配なポイントが多かった。
そしてそれらを一つ一つ、家族にばれずにクリアしていくその過程という物は、男子高校生の性欲と抑えられない未知なるものへの飽くなき興味関心によって成り立っていたものなのだと改めて気づく。
夜通し起きて本絞りをちびちび飲みつつダラダラyoutubeを見ながら、ふと○○の同級生、○○のことが気になり探そうとした。その過程で○○先輩のことを思い出して検索。その流れで○○のHP、現校長○○さんの記事などを読むうちに小学校から高校まで馴染みのあった○○、○○、○○、○○、○○、○○など○○の中高一貫校のHPを巡りながら、黒い歴史として一緒くたにしまっていたあの頃の記憶を懐かしみながらメタ認知し、味わった。 自分のふわふわした現実感の無さは、自己肯定感の無さ、過去の自分を認知することを避けて大雑把に恥のベールに包み、奥へ追いやってしまったことによるアイデンティティの喪失ではないかと気づき始めた。高校三年生時からは7年ほどたち、さすがにそれ以前の記憶はどれも懐かしさと愛おしさを覚えるレベルに濾過された。中学受験で上記に落ちたこと、中高での時間の流れ、○○や○○、○○をサボっていたこと、○○で○○のことが好きだったこと、どこにいてもでも異物感を覚え、勉強など何事にも集中できず、途方に暮れていたこと。全て良い具合に、御都合主義的に味わう。噛みしめる。胸の中、頭の中で何かがじわり、温かな気持ちになり、穴が埋まる。
ずっと抱えてきた現在時間での心、あたまの所在なさは、過去の肯定、自分を受け止めること、怯え逃げることによるものが大きいかもしれない。一つ前に進んだ。生きてきた時間、人生がすこし、輝きを持ち始める
火曜日の深夜、アニメおそ松さんの第3期が始まった。部屋の明かりを消し、ジュースとアイスを用意し、騒音にうるさい隣の部屋の住人のためにイヤホンを着け、完全装備で待機していた。一年と七カ月ぶりに彼らに会うのだから、半端な用意で会うことなんてできなかった。
おそ松さんの第一期の中盤頃、私は高校三年生だったけど、学校に登校できていなかった。自分は不登校になんてならないと信じていたのに、高校生最後の冬、驚くほど呆気なく学校に行けなくなってしまった。毎日ベッドの上で天井を見つめながらブツブツ一人言を呟いて過ごした。一日中ずっと家にいるなんて、今から考えたらとてもいい生活に思えるけど、毎日毎日、自分のダメなところを探して「学校に行けないダメな自分」を責め、生き地獄のようだったことを覚えている。一度夜中に家出して、道路に飛び出そうとしたことがあったけどできなかった。生きていること、この先もダメな自分と生きていかなければいけないことが怖くて怖くて仕方がなかった。不思議なもので、一度「ダメな自分」を頭の中で作ってしまうと、なかなか自分のことを好きになれなくなる。一度落ちるところまで落ちてしまうと、なかなか這い上がれず、藻掻くばかりで苦しいだけだった。
どんなに泣き腫らして眠れない夜をすごしても、必ず朝は来る。それがつらい時もあったけど、感謝した時もあった。
そう、おそ松さんだ。たしかテレ東で月曜日深夜にやっている放送を録画していたから、火曜日の朝には録画を再生することができた。朝観ていたか昼観ていたか、もう覚えていないけど、眠れなかった真っ暗な夜が、少しだけ明るい灰色に変わるようだった。
劇中のくだらないギャグが心に全く響かなくて、あんなに好きだったものがどんどん好きじゃなくなる様をまざまざと見せつけられて、おそ松さんを観ながら泣いたときもあった。でも、六つ子の笑顔に何度も励まされたし、六つ子のクズ具合から「私の方がまだマシなのでは?」なんてことを思ったり、自己肯定感も少しずつ回復していた。中毒的でポップなA応Pの歌、カラフルで画面いっぱいに飛び回る六つ子。OPを観る度に、「先週と相変わらず学校に行けない自分」と「カッコイイOPにワクワクしている自分」に会うことは、少し切なくて、少し嬉しかった。特に「なごみのおそ松」が好きで、何回も何回も録画再生をしたのを覚えている。おそ松さんを観ていると、少しずつ自分のことが好きになった。どんなにつらい夜も「明日はおそ松さん観られるな…」と思い出せば、少しだけつらくなくなった。たまたま落ち込んでいたときに見たから救われた気になっているのかもしれないけど、どうしようもなく落ち込んでいる時には、否定も肯定もしない底抜けな明るさが必要なんじゃないかと思う。私にとってのそれは「おそ松さん」だった。
今は、ひとり暮らしをしながらなんとか生きている。
おそ松さんを観ると、ダメな自分に怯えてボロボロになっていた自分を思い出す。そして、今もなかなか好きになれないけど、少しだけ成長した自分に会うことができる。
おそ松さんを観ると、少しだけ切なくて、でもくだらなくって、楽しくて、アホで愛すべき六つ子たちに会うことができる。
高校三年生の甥っ子が「進路めんどい」とうだうだしていた。「大学受験はかったるい」「専門学校でいっか」「とにかくどこでもいいから行け行け担任も親もうるさくて」。
なんでも聞いてくれるというお墨付きをいただいた私は傾聴に努めるけれど、心はふんわりと自分の中へと潜り込む。
自分の高校時代を思い返してみると確かに、あの頃は何をしたいかなんてさっぱりわからなかった。
姉(甥っ子の母)が優秀だったので何一つ問題なく高学歴ルートに入るのをなんとなく劣等感にまみれた目で見ていた。
周囲の目を気にしながらも、あの時なりにつくった理由(将来の夢?)を足かせに大学受験をしたことを覚えている。
妹は私よりずいぶんとハッキリとした夢を描いて一年後専門学校へ進学した。
弟は目的がなかったことと経済的余裕がないことを理由に高校卒業後働いた。
だから、大学と専門学校という最終学歴を持つこと、そして最終学歴を高校とすることのそれぞれの結果を家族内で見たことになる。
単にあるひとつのケースとして、だけれど。
大学は公立だったため学費は私立と比較すればかからなかったほうで、留年もせず卒業した私はその後一般企業に勤め、あまりのブラックさにうつ病を発症して退職、現在は専業主婦。病も軽度の時に救われたため、現在は幸せと言える。
妹は専門学校進学のために奨学金を借り、卒業後狭き門だった夢はそうそうに諦めてフリーターを続けるも奨学金返済が間に合わず実家に戻り、現在は実家の自営業を手伝う。彼女は彼女なりの幸せを模索しているみたい。
弟は飲食業のバイトを続けたのちに同社の社員に昇格、その後独立して自分の店を建てるもうまくいかずに店を閉め、その後はその経験をブログ執筆にあてて副業で稼ぎながら農家で修業中。彼も幸せ。
大学時代に学んだ授業は、驚くほど覚えていない。ただ、時間も惜しまず研究したこと、そこで出会った刺激的な仲間については今も良い糧となっている。全く別の業種についたが、あそこで出来上がったアイデンティティは大きい。
妹は専門学校時代を忌み嫌っている。理由は授業が入学前に説明されたものと違ったということと、専門学校自体の宣伝に自分の夢を搾取されたと感じたからだという。夢を叶えられなかったのは自分の才能がないからだ、と理解している。
弟はそんな私たちを横目で見て、一度お酒を飲み交わした際に「学費を払って何を学んでいるの?俺はお金稼ぎながらあほのように人生経験してるよ」と言ったことがあった。あの言葉は、忘れられない。
払った学費はなんだかんだで妹が一番大きいだろうか。
私は大学そのものに払ったお金よりもその他の交友関係に使った費用が大きかった。
夏休みの終わり、たくさんの高校三年生が、あるいはもっと若い学生たちが、進路に悩んでいるのだろう。
どの学校?偏差値は?親が言うからしょうがない、勉強めんどうくさい、これやりたい、あれやりたい。
ついこの前VALUの騒ぎを見て、あと今更ながら逃げ恥を見ていてぽつんと思ったことだが、やっぱりなんでも見返りがほしい。
なんでもだ。
というか、見返りを求めないで誰かの言いなりになって決めると不幸しか訪れない。
進学を選ばなければ自由な時間と労働から得る充実感、そして対価だろうか。
なんだか言葉で書けば書くほど薄っぺらくて、そんなもののために(というかそんなふわっとしたもののために)進路なんて決まるか、と思えてくる。
早く決めろ、どこでもいいから行け、という大人の意見は、まあ正しい部分もあるにはあるけれど鵜呑みにする必要はないと思う。
だからやってほしいことがある。ここからが高校三年生の甥っ子にも話したことだけれど。
まず、進学するなら学費を見てほしい。大学でも専門学校でも。それから、在学する年数も。
その上で、その学費と時間を投資して「何を買いたいのか」をハッキリ答えられるか確認してほしい。
その形は「夢(状態)」でもいいし、「将来の収入(物)」でもいいし、なんなら「たった一人の親友」とかでもいい。
つり合いのとれる見返りを自分で描いてほしい。
それがどうしてもできないんだったら、ちょっと高値張って無駄な買い物をすることになると思う。
それは、あとでわめいても、誰にも文句を言えないお買い物。
ちなみに財布が親だろうが、奨学金だろうが、自分ではない場合も確かめてほしい。
ということをつらつらと話した。
甥っ子は途中からうつむいて、「めんどーだよもー、ゆーちゅーばーになるー」と大声ではやしたてて言っている顔の表情は隠して見せなかった。
今日話題の「ゲーム非課金、愛のないPはライブに来るな」ってやつ。
すごく気持ちはわかるけど、どうしてもその言い方は許せない。だからそのもやもやを文にしてみようと思った。文が下手なので長くなるが、ライブ来んなと思ってる人は一度読んでほしい。
私は、中学一年生の時にアイドルマスターが好きになった。その時はふわっといいな、くらいだったけど、二年生の時に担当ができた。そのくらいの時にシンデレラガールズ、そしてミリオンライブが始まって、ソーシャルゲームに手を出すようになった。
高校生になってなけなしのお小遣いを貯めて、初めて担当のCDを買った。担当のCDは幸せになるよ、と勧められた結果だった。すごく幸せで、そのCDを抱き締めた。繰り返し繰り返し、何度もそのCDを聞いて、もっともっと担当が好きになった。
特にミリオンライブにハマりにハマった。優しいPさんが、課金しなくても担当のSRを手に入れられるようにと色々ノウハウを教えてくれた。頑張って貯めたドリンクで担当のSRを買えたときはすごく幸せだった。気がついたらドリンクをためる為に歩いたイベントで担当以外のアイドルも好きになっていた。
高校三年生の時、初めてライブに行きたいと思った。ミリオンライブ3rdツアーである。ツアーだったため、遠征しなくても行ける会場に偶然好きなミリオンライブの子が来てくれた。初めて、曲が聞きたい以外でCDを買った。そう、CD先行シリアルである。
そのシリアルは外れた。けれど、仲の良いPさんのツテでチケットを二枚確保できた。どちらも積んで当てられたPさんの連番の片割れ。すごく感謝しながら何ヵ月も貯めたお金を握りしめて、全くアイマスに造形のない友達を誘った。高校生女子一人で男性ばかりのライブは怖かったからだ。
そして行ったライブは凄かった。怖いイメージのあった現地は実際男だらけの現場で少し圧倒はされたけど、それより何より、人の優しさが身に染みた。
通販の仕方もわからないし、チケット代でいっぱいいっぱいだった私はサイリウムが買えなかった。とあるPさんが好きなキャラの色のサイリウムをくれた。
いっぱい名刺をもらった。少ししか作っていなかった名刺はすぐなくなった。自分の描いた担当が可愛いとほめられて、すごく嬉しかった。
チケットを譲ってくださったPさんが二人とも微笑んで、初ライブ楽しんでくださいと言ってくれた。絶対楽しいから、って。
友達と連番で座りたいと、チケットを譲ってくださった方にダメ元で席を交換してもらえないか頼んだ。笑顔で頷いてくださって、後で「演者が近くなった、ありがとう」と連絡をわざわざくださった。そんなにめちゃくちゃ良席ってわけではないのに。
席に着いたとき、隣の席だったPさんが荷物を邪魔にならない位置に運んでくれた。鞄に入りきらなくて、近くの席の方の邪魔であろう、謝らねばとすら思っていたのに、その言葉を発す前にすっと避けてくださった。
正直、声優さんだからいくらミリオン声優は歌が上手いと騒がれていても大したことないとたかを括っていたけど……実際に見て、聞いた歌は、本当に上手かった。何より演者さんのキャラへの愛、ステージに初めて担当が上がれたことへの喜びが体にずしんと響いて、私は泣きに泣いた。
友達もその日からミリオンライブを好き、と言ってくれるようになった。彼女はミリオンライブとSideMのCDを私から借りるようになって、気づけばどちらでもゲームをしてくれるようになり、最近オリピを彼女自身の意思で買ってくれた。
中高生だったから、碌にお金なんて出せなくて、でも周りのPさんたちは30、40の方がいっぱいで、一回のガシャにうん万払っうとかしてて、引け目を感じながら何年も続けてきた。
それでもなけなしのお金を貯めてやって来たライブは本当に眩しくて、行って良かったなぁとしみじみ思った。
同時に、私はこんなにアイマスが、アイドル達が好きだったのかと気付かされた。まさかなくなんて思わなかった。
こんなに好きになれたのは、沢山のPさんが優しく受け入れてくれたから。アイマスはこんなに素敵だと教えてくれたから。何度も何度も、色んな人の描いた、書いたアイドルに恋をして、胸がいっぱいになるのだ。
それから私はもっともっとアイマスが好きになった。元々ずーっと好きだったけど、もっともっと好きになった。今、私は大学生だ。やっとアルバイトができる。今は沢山アルバイトしてアイマスと友達と遊ぶお金を貯めている。アイマスと勉強と友達に日々を費やしているけど、とても幸せだ。
やっと大好きなアイマスにお金が使えるようになった。今まで先輩Pのおこぼれに預かってきて、本当に感謝している。そして今やっと、私をこんなに好きなものに導いてくれた先輩Pみたいに後輩Pに手をさしのべられるようになったのだと感じた。
だからこそ、思う。課金額、使ったお金、それを「愛」と形容して足りない人を切り捨てることは本当にSideMのためなんだろうか。
確かに、普段からやっているその人個人は満たされるかもしれない。だけど、その人個人を満たしたところで、新しい人が入らず小さなコミュニティから人が脱落していくのなら、最早そこに意味なんてない。きっとそんなやり方のSideMは腐ってしまう。
SideMのPさんが新人引き込みキャンペーンで熱烈キャラアピールしたり、沢山新人さんを支援してあげたりしてたの、すごく好きだ。だからこそ、排他的な姿勢が話題になり、賛同意見があることが不思議でならない。
女の子以外のキャラにあまり興味を持てなかったけど、実はJupiterだけは違った。ニコマスで色々見て回ったからかもしれない。彼らがどうしても憎めない。むしろすごく愛着が湧いていた。
あまとうの為に事前登録をした。その時はアスランとかピエールとか恭二とかてんてるとか、ビジュアルが少しずつ公開されていた。アイマスの男の子も好きになれますように、と祈った。
サービス開始のメールは今も覚えている。学校の授業が終わった後、なんとなく開いたガラパゴス携帯に届いた「プロデューサーさん」の文字。思わず心が踊った。
担当ができた。好きな男性のアイドルがJupiter以外にできた。いや、Jupiter以外も何も、SideMのアイドル達がみんなどんどん好きになって行った。
暫くして、初のワケ生。どんどん声がついた。担当のユニットに声がついて、CDを買った。担当のイベントを走った。
プレイヤーが男性ばかりの男性アイドルゲームだった最初のSideM。でもそれは一瞬で、あっという間に女性で溢れた。勿論最初から私や、それ以外の女性Pも居たけど。
Jupiterの良さを知ったのは、アイマス2からずっと応援しているPさんの作品や言葉だった。その愛のおかげで私はSideMのスタートラインを共にできた。そうしてスタートラインにいたPさんが、新しいPさんにアイドル達への愛情を受け継いでいく。そうやってSideMはここまで来た、と私は思っている。
SideMにだってきっと私みたいに、あまりお金がなかったけど人生で初めてお金を貯めて、現地に立ったプロデューサーさんがいる。これからSideMを知る足掛かりにしたい、って人もいる。
未だにミリオンPとしてはすごく悔しいけど、Mはミリより先にアニメ化してしまう。それってきっと、SideMのPさんは色んな人へキャラの魅力を伝えるのが上手かったからじゃないだろうか。だから爆発的に人気になって、あんなに「アイマスの男性アイドル……大丈夫かな?」とか言ってたのが嘘みたいにヒットしている。
でもそれがどれだけありがたいことで、担当が動いてくれるまでにどれだけのPがお金を費やして、どれだけのPが愛情を注いでこうやって続けてきたか、見失いがちになっているんじゃないかな、と。
だからお金を費やした私を崇めろ、私にだけライブ行かせろって論調は違うと思う。こんなに人が集まった大きなコンテンツになったのは、色んな人が色んな人にアイドルの入り口を作ってアイドルを生かしてきたから、の筈だ。
こうやってアイマスが好きになった私だからこそ、そんな風に主張してほしくない。
確かに、嫌だな、と思う現地Pはいる。SideM好きな人に自分はそんな興味ないとか言う癖して現地に来ているバカみたいな人もいる。そいつを許せとは肯定しろとは言わない。
逆に、ミリオンライブ……?あー、一番有名じゃないやつ、とか言ってきやがるMのPもいる。やたらミリオンをこけにしたがるデレPも見たことある。でも私はそれをミリオンライブ以外の他マスのPが罵るなんて主語を拡大して、一括りにしてこっちに来んなとは絶対言いたくない。
私の勧めでMマス始めてくれた人が私以上に課金するPになった。いや、課金をパロメータにはしたくないけど、金額で負けてる側がそれを補足してもあんまり意味ないか。
コンテンツを支える側が、これから支えてくれるかもしれない人を潰すなんて良いことじゃない。絶対そうしてほしくない。私はSideMの担当アイドルが、SideMのアイドル達が大好きだから、そんな風に未来を摘んでしまってほしくない。
あとこんな風に長々とコンテンツの為、とか言ったけど、単純に自分の好きなものを解ってもらえて分かち合えることって、すっごく嬉しいことだ。新規MPは来るな、765346は来るななんて言えちゃうのは、友達と同じものを分かち合える幸せとかわからないからなんだろうか。
割り勘のパピコって楽しいじゃろ?美味しいじゃろ?嬉しいじゃろ?確かに一人で二本とも食べたい時も、食べざるを得ないときもあるけど、やっぱり分かち合ったら楽しいじゃろ?そういうことじゃ。
まあ何にせよその意見の人も私もMマスが大好きで拗らせているのはわかる。わたしも大好き!!!!高額転売爆ぜろっ!
だから好き同士、そして将来好きになるかもしれない方と、楽しくやりましょうって話だ。ごちゃごちゃ言ったけどそういうこと。本家ミリMデレ掛け持ちPのぼやきでした。おしまい。
私は、高校三年生です。
先日、模試の結果が届きました。
確実に成績が上がり、前回D判定だった大学がB判定に上がっていていたのと、初めて偏差値が70を超える教科もあり、少なからず喜びました。
しかし、結果を親に見せたところ、「この成績で第一志望に行けるの?」と言われました。良かった教科には触れられもしませんでした。
とてもショックで言葉も出ません。
褒められることを期待したことが惨めに思えました。
でもそんなことはわかっています。とても不安です。でも、すこしくらい褒めてくれてもいいんじゃないかなと思いました。
思えば、あまり褒められた記憶がありません。小学生のときも、中学生のときも、習い事も、部活動も、勉強も運動も。
親から褒められた記憶があまりないので、人からプラスの意味の形容詞を使われたとき、どう対処していいのか、わかりません。
褒められたい気持ちだけでいろいろなことを頑張っているわけではないけど、すこしは褒められたい気持ちがあるので、張り合いが無いような気がします。
私がB判定を取った大学に通い、地方公務員になった従兄弟は「すごいすごい」と褒められるのに、なぜ?と思うこともあります。
私が褒められるためには、第一志望の大学に行き、将来、商社や省官庁に勤めるしかないんですかね?
ひとつだけ言えるなら、もしこれを読んでいらっしゃる方にお子様がいらっしゃったら、ぜひ、褒めてあげてほしいです。(上から目線で申し訳ない)
褒めることの重要性は長年説かれてきていて、とても大切なことです。
「生きてるだけで褒めてくれる〜」みたいなの、ツイッターで流行ったのを思い出しました。
人はみんな頑張ってるし、社会人の方々も頑張ってる。
「よくやった」とか、「すごい」とか。
先生や友だちから言われるのも、きっと嬉しいけど、親から言われれば、もっと嬉しいだろうと思います。
幼少期は好きだった、学校から帰ってきてアイスがあった時は狂喜乱舞だった。冷たく甘く、爽やかで何もかもを忘れられそうな味に私は虜だった。
友達がいなく暗かった私が、アイスで喜ぶ姿を見て母は嬉しそうに笑ったのだ。
さて、いまの私は高校三年生。
母の勧めで工業高校に進学したところ男のオタクしかいなく、恐れるものをなくした私はのびのびと自分でも気がつかなかった本来の自分が羽を開き、友達に囲まれる幸せな日々を送ることができている。
が、友達と引き換えに私が失ったのは、胃腸の冷えへの耐性だった。
故郷には、本当に何もなかった。
遊ぶ場所は友達の家か、外か、イトーヨーカドーか、くらいしか選択肢がなかった。
それは別にいいんだ。自然に囲まれて、それなりに楽しかったから。
しかし、田舎特有の性質なのか、周りにいる子の多くは早熟で、恋愛至上主義だった。
早い子は小学校高学年から、普通の子でも中学生のころには付き合っている人がいるという状態だった。
女子は、ちょっと顔がタイプとか、足が速い等という理由でバンバン告白していた(今でも、あの積極性はすごいと思う)。
部活の帰りに待ち合わせして、男女で手をつないで帰るのがステイタスだったようだ。
友達同士で話す内容は、ほぼ恋愛か、巷で流行っている音楽の話、雑誌に載っているおしゃれの話だった。
私は本が好きだった。星が好きだった。この世界の不思議に興味があった。
でも、そういうことを話すと茶化されてしまったから、ずっと一人で胸の中にしまっておくことにした。
誰かと付き合うこと自体が怖かった。
中学のころは、そのことで散々からかわれた。付き合ったことないって言うとすごく驚かれた。
高校になってちょっと垢抜けたせいか、告白されるようになった。
彼氏がいたことがないのが恥ずかしくて、いい人だなと思った何人かと付き合った。そうして、「過去にいた彼氏の数」を増やしていった。
高校三年生の頃、付き合っているうちに好きになった人にセックスしたいと言われた。
私は拒めなかった。
理由は二つある。
一つは、その人に嫌われたくなかったから。
大学進学のために上京し、東京で暮らすようになってからすごく驚いたのは、
周りにいる人々の多くが、付き合った経験がない、あるいは付き合った経験があってもおそらくセックスはしていないということだ。
そして、中学生の頃に共有したいと強烈に願っていた事柄を話せる人がたくさんいることも、
誰とも付き合わなくても、別に変ではないということも。
見栄のために人と付き合い、処女を捨てたことが今では人生の汚点になっている。
私がこのような恋愛遍歴になってしまったのは、育った環境によるところが大きいだろう。
しかし、もし私がその中でも「人は人、自分は自分だ」と強い意志を持ちつづけることができたなら
後々恥ずかしい思いをすることはなかっただろうとも思う。
食事をとらないでいたら、倒れた。一週間で3,4kg痩せたことが上司に知れ、その日のうちに職場の臨床心理士と面談。その中で私の過去の話になった。
小学生時代、私は勉強ができる子供だった。大人たちからは「末は博士か大臣か」というような感じでかわいがられていた。中学生になっても勉強を苦に思ったことはなかった。やればできる、という感触は快感だ。私は一日に何時間も机に向かった。教師はこのままがんばれば県で最も偏差値が高い高校にいけるだろうと言ってくれた。
中学三年生の秋頃、私は精神的に病んでしまって不登校になった。
いじめというほどでもない。ただ、授業中に男子が大声で行っていた格付け。横を通りすぎるたびにひそひそと笑ってくる集団。そういうものに耐えられなくなった(彼らはしたことを覚えてもいないと思う)。そのとき家では母親が父親の悪口をこぼしており離婚するとかしないとかで揉めていて、逃げ場がなかった。心療内科にかかったら自律神経失調症と軽症うつ病の診断が下って、頭がぼーっとする薬を飲みながら、それでもなんとか受験勉強は続けていた。勉強が好きだった。不登校といえどテストだけは保健室で受けさせてもらっていたのだけれど、順位が落ちることもなく、これなら志望校のランクを下げれば大丈夫だという教師の言葉が支えだった。
受験当日、会場である高校にひしめく制服姿の人々を見たときの恐怖をいまでもはっきりと覚えている。私は受験できなかった。逃げるように帰って、公立の通信制高校に入学した。
通信制高校はつまらなかった。中学生レベルの授業とレポートを規定分提出すれば卒業できる。この時期のことを思い返すたびに灰色すぎて笑えてくるのだけれど、ほんとうになにもなかった。いや、あったのかな。同年代の男子がトラウマになった結果、バイト先の同性の先輩と一瞬だけ付き合った。普通の高校に進学し文化祭がどうのこうのと連絡してくる友達を切った。劣等感と自己嫌悪がつねにうずまいていた。
高校三年生で、さて、進路はどうするかという話になる。通信制高校が行う進路に対するサポートというのは非常に淡白だ(少なくとも私が通っていた高校はそうだった)。大学受験しようかと思ったけれどすぐに無理だなと諦めた。普通の高校に通っている友達の勉強の話に、私はすでについていくことができなかった(自分から行動しなければ模試などないので、あの頃はそれだけで自分の学力をはかっていた)。受験して、頭のよかった自分がすでにどこにもいないのだと確認することが怖かったという理由も今になって思えばあったのだろう。
母親は「×××になれば?」と言った。資格があれば食いっぱぐれないだろうと。確かに大学よりも専門学校の受験ははるかに簡単そうだった。実際、一ヶ月勉強しただけでその学校に入学することができた。
私が×××になったのはそれだけの理由だった。専門学校は楽しかったけれど、実習は大嫌いだったし自分には向いていないとそればかり感じていた。信念をもって×××を目指している同級生に罪悪感を覚えたことだって何度もある。
と、まあ、そんなような話を。泣きながら。
心理士は「過去のことを引きずっているところがあるでしょう」と言った。そんなことは当の本人である私がいちばんよくわかっている。「集団恐怖の経験があるから、今、職場にきて不必要に緊張するんじゃないかなあ」「辞めるのはいつだってできるけれど、それじゃあ根本的な解決にはならないよね」。
じゃあ、どうすればいいの?と聞きたかった。聞けなかったけれど。あーあ、あのとき、中学生のうちに死んでおけばよかったなあ。というか死ななければならなかったのだ。
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いじめによる自殺が報道されると「死ぬくらいなら逃げろ」という大人たちがいる。それをきくたびに私は無責任だなあと思う。逃げた先で助けてくれる大人がほんとうに少ないことを知っている。むしろ、逃げたらひとまず問題は片付いたかのように考えている大人が大部分ではないのか。学校から逃げたところで劣等感からはずっと逃げられないのに。
私は「死ぬくらいなら逃げろ」とだれかに言ってあげることができない。
大学を卒業して約五か月が経った。勢いで内定を蹴り、辞めると言ったバイト先に頭を下げて、今はそこの収入と、他にいくつかバイトを掛け持ちしながら生活している。
遡ること高校三年生の秋、このままの成績では自分の入りたい大学にどう考えても入れないことを知り、無理目な大学を受けて全落ちした。
親から浪人は止められていたが、結果的にそういうことにしてしまえばいいと思っていた。
そして浪人は成功した。秋口までダラダラ勉強していたが、最後の三か月でケツに火が付いた。
きっと就職活動もそうなると思っていた。
今、「最後の三か月」が無い。あの「ここでやらなければ終わる」という感覚も目標設定も無いままにただダラダラと就活を続けている。
去年、本当に行きたいと思った一社、OB訪問もESの対策も頑張った会社に落ちて、愕然とした。
そこから斜に構えた。落ちてもいい言い訳を作りながら続けた。 その地続きのままに今の生活がある。
先月「ここなら、今までの遠回りも意味があった」と思えた会社の最終でサイレントお祈りを喰らい、完全に心が折れた。
友達はみんな働いていて、フリーターの友達は皆それぞれに活動があり、彼氏や彼女がいる。
俺は今一人で、好きな人も彼女もやりたい仕事も将来の目標も夢もないままに生きている。
本を読んだり、創作をすることが逃げ道だ。お気に入りの喫茶店でのひと時がかけがえの無い癒しだ。
でも一歩外を出ると暗くなる、いや、空っぽになる。
自業自得に対して落ち込むのはバカだ。ただの努力不足だ。だから落ち込む必要はない。やるしかない。
どこを妥協点にすればいい?ねんしゅう400まんのじんせい。一戸建てとかは無理だろうけど、でもそれなりに暮らしていければ。
キュウジンヒョウと向き合ってみる。
どこを妥協点にすればいい
去年行ったマイナビ新卒なんちゃらで脇にやたらを黄ばみのあるクソ男に、面接を進めている会社をディスられる、という意味不明の苦行を経験して以来エージェントに頼る気も起きない。
「編集・ライター」を希望する俺に介護職を何度も勧めてくるリクナビダイレクト既卒版を退会した。
うぜえことばっかだ。
完全週休二日、年間休日120日、未経験可、東京で転勤なし、できればちょっと頭を働かせる仕事、営業なら多少は興味の持てる商材を(多少の興味ってなんだ?)
仕事に就いたら中央線沿いに引っ越す、休日は喫茶店でだらりと本を読み、夜はバーで酒を飲む
そんな暮らしがクソほど遠くて難しい
やべーよ
異性との交際歴は多分まだない。
ずっとひとり離れたところでiPhone覗き込んでラノベ読んでる。
人の輪に入るのが苦手っていうか嫌いみたいで
正月に家族が揃ったりする場でもひとり部屋に閉じこもってラノベ。
母親とUSJに行ったり、母親の職場に付いていったりしてるらしい。
何度かそれとなく進言したんだけど、自信家の姉にとって
息子は唯一の泣きどころなのか、何か言おうものなら
もすごい剣幕で言い返してきて手の打ちようがない。
「ママにも言えない悩みとかあったら言えよ」って送ってみたけど
何件か送って全部既読スルーだった。
そんな甥っ子が満面の笑顔になったのが、知り合いの娘を抱っこした時だった。
5歳の女の子に異常なほど興味を示して
「俺が抱っこしてあげる!」って聞かなくて
「じゃあお願い」って預けたらもう離そうとしない。
頬ずりまでしてずっと薄ら笑顔浮かべて
「ありがとうございました」とだけ言って
やんわりと自分のもとに戻したんだけど
その時の寂しそうな顔といったら。
いつか幼女誘拐とか監禁とか、大きな犯罪を起こしそうで気が気じゃない。
人それぞれの成長の速度があるんだからほっといてくれの一点張り。
どうしたらいいんだろう。
事が起こってからでは遅いんだけど。
僕は高校入学時偏差値50あちこちだったが、何とか勉強して今では偏差値65ぐらいだ。
高校の奨学金で授業料は全額免除されているし、親孝行はしているほうだと思っている。
最近は受験生になって、目標の大学を目指して勉強をより一層している。
ある日、母親と大学について話しているときに父親が口を挟んできた。
この話は高校に進学した時から聞いていたので、高校三年生になってもう一度聞かされてもそんなに驚かなかった。
だが、次の言葉には少し傷ついた。
「お前の生活を見てるとわかるけど、お前は絶対いつか失敗する。」
僕の生活のどんなところを見て失敗するのか疑問に思っていると、母親がそのことについて突っ込んだ
すると父親はこんな風に言った。
「そんなレベルの低い話じゃない。お前は黙っとけ。」
勉強の話になると、いつも勉強なんかより大切なことがあるとか言って僕の頑張りを認めないし。
うちには余裕がないから、お前には一銭も金は出さんとも言う。
受験勉強なんて長い人生の中では、ちっぽけなものかもしれない。
でも親がなんと根拠もなく(少なくとも僕に論理的な説明はなかった)お前はいつか失敗するなんて言うのはどうかと思う。
僕はやりたいこと、夢があって大学を目指している。
お金を出さないのは構わないが、せめて自分の夢を応援してくれたっていいんじゃないか。
受験生に勉強は無駄だということを言わなくてもいいんじゃないか。
なんかすごく悲しいし辛い。
父親も苦労しているようだし、だからこそいろいろと言ってくるのだろう。