素晴らしい。全く正しいと思う。
ってのは今後増えてくるのかしら。
最近の若い女の子なんて、親元を離れればきちんとしたカメラで写真を撮る機会もなくなって
さていざ死んでしまって、最近の写真がSNOWでめちゃくちゃ加工された写真しかなかったとしたら
棺の中の顔と違うやんけと思ってお焼香中笑っちゃったりしないのかな。
カウンセリングと違って占い師には手応えがない。あったとしてもそれは年の功とか長年のテクニック、大人としての経験が客に響いたときで、占い行為そのものには実感がわかない。だからこそ自分のインチキを自覚しながら話をするか、掴もうとしても掴みきれないものを信じるかのどちらか。
8分間のビデオ映像というのがあって
白い水面に赤いのがポタポタ落ちて広がってく映像。
なんなんだろって最後まで見ても
現代アートの芸術家って言われる人はアホみたいにセンスないよなぁって思ったのです。
まぁアニメみたいな絵を描いて評価される人とか、絵にNONUKEとか書いちゃう人とか、クソアニメ絵の模倣とか
ネットってこうなのみたいなのよ絵とか、クソロリコン絵とか、丸尾末広の模倣みたいなグロアニメとか
AKIRAのパクリみたいなガラス細工とか、ビュッフェみたいな気持ち悪い虫VRとか
どっかで見たようなものばっかりで
なんていうか、これぞ現代アートというくくりのテンプレートみたいな展覧会で
ひさびさにあーああああって感じだった。
なんかお前らもうちょっと頑張れよって思った。
本当に人がいると思って
びくってしたみたいな
なにか、新鮮な
よく昔の文学作品を手に取ると序文とかで「差別的単語がありますが時代と文化を考慮してそのまま」という甘えた文章がある。
だがその甘えがどこかで「差別していい」という助長になっているのではないか?
差別的単語を修正したからと大きく作品の質が下がるものではない。
うちの会社で、若い女もジジイも一緒になって「あの人は〇〇高校(公立)だから頭がいい」「私立に行くなんて親不孝者だね勉強出来なかったんだー」などと馬鹿みたいにはしゃいでてびっくりした。
公立高校(その県の中では偏差値トップ3)>普通の公立高校>>>>>私立高校 の順でみんなお馴染みのカーストがあるらしい
自分は他県出身だし、学費免除でもいいから来てくれと呼ばれて私立中学に転校し、そのままエスカレーター式で高校大学へ進学した人間だ。
だから某県の高校カーストの話をされても何一つ理解も共感もできない。
むしろいい歳した大人が10代半ばの頃のカーストにしがみついて人の優劣を決めるなんてきしょいなと思った。
大学カーストならまだしも高校の偏差値の高さって戦うフィールドが猫の額ぐらい小さいぞ。
性欲が少なくてオナニーとかほぼしない人ならポルノや風俗への規制が強まっても平気で、むしろポルノで不快になることが少なくなるなら歓迎ってなるのは当たり前だろう。
食に対する欲もそんなにないんであれば、鰻ががっつり規制されちゃっていいと考える。
お笑いを見たいっていう欲が少なければ、バラエティ番組もどつき漫才も際どい笑いも叱られてお笑いの幅が少なくなっちゃって構わない。
何かを楽しみたいという欲が全般的に少ない人っていて、そういう人は自由を求めないのではないか。
「物事が自由化しても、それで増えた選択肢を楽しもうという気にはどうせなれない。
むしろ自由化によって傷つけられる選択肢も増える害の方が大きい。
だったら、自分が抑圧で生きづらさを感じないで済む最低限の自由があり、それ以上は規制や倫理で秩序が守られてるくらいが一番いい」
と考えるのは自然なことだろう。
欲が少ないというより、傷つかないよう保護されていたい欲とか、規制で社会の正義を保ちたいと思ってるなら正義欲が強いというべきかもだが。
とにかくそういう「食欲旺盛じゃないから食べ放題とか全然必要ないし、食べ物屋の種類もメニューの幅も少なくていい、それよりどこでも安全と清潔が保障されてることがずっと重要」って人はいるだろうし、
それに対して「色んなご飯食べれる方が美味しいし楽しいじゃん!」とか言っても説得は通じないよなあ。
占い屋に通う人達って、洗脳されているみたいで怖いとずっと思っていた。そんな自分が気まぐれに占い師にみてもらったのは、昨年の秋。その日はやたらと陽射しが眩しかった。
通りですれ違うカップルや呼び込みの笑い声が鬱陶しくて、溢れ出す疎外感を振り払うように「占い」と書かれた看板に足を向けた。雑居ビルに入ると外の喧騒が嘘のようで、冷んやりとした空気に一瞬ひるんだ。奥のほうにはもうひとつ「占い」の案内が出ており、ドアを開けると、ビル管理人の休憩所のような一室に、落ち着いた色の服を着た老婦人が座っていた。
「あらいらっしゃい、どうぞお座りになって。」
軽く会釈して席につく。
一呼吸置いたあと、老婦人がじっと私を見て言う。
「嘘はだめよ、あなたが損する。どうせ面談は今回一回切りかもしれない。とは言えそれなりの金はかかるのだから正直になさい。いいわね?」
これは手練れだ。彼女が長包丁を構える板前に見える。我が身の虚飾がバサバサと切り落とされていく予感がする。
「今から最低限のことを聞いていくから正直に言って。ただ、言いたく無いことは言わなくていい。出来るだけ言ってくれたほうがあなたにとって良い、それだけ。いい?」
相手のペースに任せ、コクリとうなずく。自分の表情がぎごちなく弛緩していくのが分かる。
老婦人の質問は、本当に最低限のことだった。氏名、生年月日と、相談したい悩みの大まかなジャンル。ジャンルは仕事、恋愛、結婚などいくつか示されたが、悩みが具体的に思い浮かばず、選ぶことができなかった。中年なのに独身で周りからは浮いている。しかし、有難くも趣味や定職があり、取り急ぎは食べられている。実際ここに飛び込んだ理由は、表通りが眩しかったから。それ以外無かった。答えに窮していると、それなら「お悩み全般」でみるわね?と促された。
占いにはいろいろな種類があるらしい。この老婦人は、九星気学というものを専門にしており、先ほどの質問に対する回答を方位盤というシートに当てはめて、今後の運勢とそれに対する心構えをサバサバと説明していく。
しかして内容は、非常に雑駁な言い方をすると、今後暫くは辛い時期が続くが辛抱しろ、周りの人間関係を大切に努力を続けろ、そうすれば大波を越えた後、勢いに乗れる、というものだった。
それ以外の細かい生活態度についてもいくつかアドバイスをもらい、五千円強を支払った。
文字にしてまとめると、本当に味気ないものに見える。しかし、人生というものが持ちえる波に対してどう備えるか、という視点は、今現在の状況や周りの体裁にばかりとらわれていた私には新鮮だった。
思春期の頃、カウンセリングに通ったことがある。そのとき私が受けたカウンセリングでは、カウンセラーに話すことで「自分のなかに既にあって自覚されていない答えに気づく」ことにポイントが置かれていたと思う。実際、そこで得た答えは、その後動き出すための支えになった。人生に迷った時に戻る原点、と言えば伝わるだろうか。
それに対して、占いにおいては、答えは自分の外にあった。鑑定師から示されたのは、大げさに言えばこれからの人生の地図だった。それもサーフィンに例えて説明してくださったことで、どの時点で用心し、どの時点で肩の力を抜くかという、今後の気構えに関するヒントを得ることができたと思う。
「占いなんてカウンセリングの一種だよ」という一般論があるが、実感としては別物だった。
愚痴ればいろいろアドバイスをくれる友人はいる。上司もいる。しかし、身近な人から耳の痛いことを言われると、ときにプライドが邪魔をして素直になれないのも事実だった。それが、自分の過去を全く知らない、かつ「鑑定師」というポジションの人からの指摘には、不思議と素直になった。
加えて、目の前の出来事に偏りがちな視点を変える機会を持つことで、視野を少し遠くに持つことができた。鑑定料金は決して安くはなかったが、同額の飲み会で同僚に愚痴って憂さを晴らすだけでは得られないものを得られたと思う。
それきり占いには行っていない。しかし、貰った名刺だけはしっかり取ってある。いずれまた機会があればみてもらうかもしれない、というぐらいには占いのハードルが下がっているのが現在のところ。