はてなキーワード: 立脚とは
立憲って、新憲法作るのか■枝野氏新党は「立憲民主党」 | 2017/10/2(月) - Yahoo!ニュース https://t.co/jZmkXVU2Ui @YahooNewsTopics— 渡邉哲也 (@daitojimari) 2017年10月2日
日本の天地は複雑怪奇なる新情勢に突入し遂に立憲民主党が結成されたわけなのだが、上記のような呟きを意外と見かける気がする。
私としてはちょっとしたカルチャーショックだったんだけど確かに辞書を調べると「憲法制定」の意味しか載っていない。
それだけでなく「かつては憲法制定を目指して「立憲」を政党名につけたのであって改憲政党[*1]でないとおかしい」という呟きもあり…。
恐らく立憲改進党(と立憲帝政党)を念頭に置いての意見だと思うのだけど、明治憲法下で結成された立憲政友会や立憲民政党も忘れてはならないだろう。
立憲政友会・立憲民政党は憲政の常道を主導する二大政党だったのだから、両党が改憲政党なら明治憲法が不磨の大典だったとする言説は大嘘ということになってしまう。
結局、ここでいう「立憲」とは「憲法に立脚する」(≒立憲主義)くらいの意味だと取るのが普通なのではないか。
実際戦前でも立憲という言葉は立憲主義に近い意味で使われていた。
例えば寺内正毅首相はビリケン宰相と揶揄されたが、その風貌だけではなく「非立憲」にもかけられていた[*2]わけだ。
違憲とは言えないでも超然内閣は非立憲的、つまり憲法の趣旨に則っていないという批判だろう。
現在でも、立憲君主政や立憲民主政、立憲政治など「立憲」だけでほぼ立憲主義的という意味で使われる用語もある。
そもそも会見からして、立憲民主党は立憲民主主義から取ったのだろうと推測できる。
何にせよ立憲=憲法制定という一義しかないという前提は過去・現在の用法を見ても違和感を覚える。
余談
とある物理学の先生が党の英名について立憲はRickenなのかなみたいなことおっしゃってたけど、
立憲主義がconstitutionalismなのを考えれば立憲がconstitutionalなのは予想できたんじゃなかろうか。
constitutionalismって直訳すれば憲法主義[*4]だから立憲に結びつかないのも分かる気はしないでもないけど。
まあさすがにRickenはそういうギャグなんだろうけどね。
余談2
立憲って「明治かよ!」って突っ込みを聞くけど立憲民政党はギリギリ昭和に結成なので…。
まあ維新って聞いても「明治かよ!」ってならないし平気だろう(てきとう)。
余談3(10/3 22:30 追記)
「何故今になって立憲なのか」という疑問は分からなくないけど民主主義の国で民主党を名乗るのは「何故今になって」とは聞かれないよね。
それにかつて佐々木先生が語った(後述[*2]参照)ように違憲と非立憲は違う。
そして合憲であることは易くとも立憲的であることは存外難しいだろうし、名乗った以上立憲的に振舞わねば強い非難を浴びるだろう。
まあ安倍首相を念頭に置いた命名なのではないかとは思わないでもないけれども、名乗る以上はその重みを噛み締めてほしいところです。
[*1]
※以下 10/3 22:00 追記
もちろん立憲主義は必ずしも護憲を意味しない。大事なことなので2回書いた。
ただ憲法改正限界説に立てば現在の憲法価値の中核に反する改憲、例えば国民主権を君主主権にするような改憲はできない。
96条改正もこのあたりで色々議論があるんだけど、結局何を「中核」とするかはやっぱり細かい部分で意見が分かれるんだよね。
どちらにせよそこに注目すると立憲主義が”ある条件”下では護憲的に働くように見えるかもしれない。
まあそれを立憲主義と表現するのが正しいのかも自分の知識ではよく分からないのだが…。
正直限界説についてはよく分からないから各々で調べてもらえるとありがたい。
※以下 10/4 18:00 追記
はてブでご指摘がある通り護憲が改憲の対義語でない用法もありました(第一次護憲運動・第二次護憲運動等)。
[*2]
このあたり立憲デモクラシーの会で話題になっておりメディアにも「非立憲」という言葉が載ったこともあったのだが思ったよりも知られていないのかもしれない。
そういえば立憲デモクラシーの会が設立した時にも改憲集団でないならその命名はおかしいという意見はあったのだろうか?
ちなみに非立憲絡みで言えば昨年には佐々木惣一先生が大正時代に出した著書「立憲非立憲」が文庫化している。
曰く「政治は固より憲法に違反してはならぬ。而も憲法に違反しないのみを以て直に立憲だとは云えない。違憲では無いけれども而も非立憲だとすべき場合がある。立憲的政治家たらんとする者は、実に此の点を注意せねばならぬ」。
ここでいう「立憲」も明らかに「憲法制定」を意味しないし今でも通用しそうな警句ですね。
[*3]
確かに立憲君主制という言葉に比べると立憲民主主義って聞かないけどね。かつては教科書にも載ってなかったし。
もしかしたら立憲民主主義という言葉が盛んだったのは芦部信喜先生や奥平康弘先生あたりの時代で最近だとあまり強調されないのかもしれない。
このあたりは立憲主義と民主主義が緊張関係にある側面が指摘されるようになったからなんだろうか。
ちなみに緊張関係で言えば、自由主義と民主主義も、自由と平等も緊張関係にあるとも言えるので立憲民主主義という言葉が特別おかしいわけではない。
[*4]
故有って、2週間ほどいわゆる少女マンガの人気作品を読み漁っていて、気づいたことがある。
ティーンターゲットの少女漫画誌の中には、性的に過激なものもあったりするとは聞いてはいた。
登場人物たちは頻繁に、強引にキスされたり関係を迫られたりと大忙しで、小学生も読む可能性あると考えるとハラハラだなと最初は思ったのだが、
物語を追っていると、性的に奔放な登場人物でも、実際にセックスするまでにはかなり引っ張るということに気付いた。
まぁでもこれは少年マンガでも同様で子供ターゲットならではの「セックス」を物語のエンジンにする方法だと思う。
それと、もう一つ、多くの場合、二股や不貞に関してはかなり高いハードルが保たれていることだ。
主人公たちは、学校の先生や兄妹やら、割と社会的タブーが強い恋愛にも積極的にのめり込んでいく。しかし浮気や二股には妙に厳格である。
その他の恋愛タブーについてのオープンさに比べると、不思議なほど二股ハードルが高い。
胸キュン至上主義の少女マンガだけに、主人公のカップルの双方に必ずライバルが出てきて誘惑するのが常だが、
これらの「お、浮気か」シチュエーションは、あくまでも主人公カップルの「美しい恋」を引き立たせるスパイスでしかなく、
ライバルたちと実際に一線を越えることはほとんどない(全部読んでるわけじゃないから分かりませんが)。
ライバルたちは、ちょっとそれ犯罪なんじゃレベルの誘惑をした後でも、それによって主人公たちがグラグラと欲に揺さぶられたとしても、
なんでやねんと思わずツッコんだ。関西人でもないのに。そこまでえげつないことなってるならもう最後まで致したりーや。である。
「友達の彼」という、もろ浮気シチュエーションのテーマも、少女マンガには頻出するのだが、
これも「友達と片思い相手が付き合っている期間中」に、片思い相手と行為(キスや抱き合ったりなど)が行われることは原則は無いように思う。
有りのケースはただ一つ、「片思い相手が本当は主人公が好きになっていて…辛抱溜まらんくなって」というシチュエーションで、
上に述べたライバルと同様、胸キュン欲を掻き立てるための「物語のスパイス」である。ライバル視点というか。
面白いのは、「胸キュンのスパイス」である浮気シチュエーションにおける「辛抱溜まらなさ」が、
彼女たち(主人公、片思い相手、ライバルなど)にとって、地球破滅レベルの罪悪感として描かれがちなことだ。
作品によっては、このまま出家するのでは、断頭台の露となるのでは、というレベルで深刻に苦悩する。
ちょっとキスされそうになったぐらいでなぁ、お前ら普段はかなり奔放なくせに、妙にカマトトぶりやがって。
少女マンガは基本的に夢と胸キュンの世界な訳で、リアリティに立脚してツッコむなんて愚の骨頂でしかないのだ、解ってはいるのだが、
バランスが悪くてつい気になってしまう、これって、何が理由なんだろう。自主規制があるんかな。乳首描写NG的な感じで二股はNGとか?
そして、そうじゃない(主人公がシモが緩い)少女マンガの名作があるならぜひ読んでみたいので、少女マンガに詳しい増田がいたらぜひおススメください。
何となく、一昔前に流行ったケータイ小説的な、援助交際モノみたいなジャンルとかあんのかな。なにしろ少女マンガ業界に全く明るくないので分からないのです。
婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない。
配偶者の選択、財産権、相続、住居の選定、離婚並びに婚姻及び家族に関するその他の事項に関しては、法律は、個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して、制定されなければならない。
「婚姻」が異性婚・同性婚両方を含むなら「両性」は「男性と男性か男性と女性か女性と女性」の組合せを意味し、
「異性婚あるいは同性婚は、男性と男性か男性と女性か女性と女性の合意のみに基づいて成立し」となる。
「婚姻」が異性婚のみを意味するなら「両性」は「男性と女性」の組合せのみを意味し、
「異性婚は、男性と女性の合意のみに基づいて成立し」となり、同性婚に関しては肯定も否定も何も言及していないことになる。
以下は Wikipediaにある自己責任についての説明だ。(責任#自己責任より)
第一に、「自己の危険において為したことについては、他人に頼り、他人をあてにするのでなく、何よりもまず自分が責任を負う[6]」という意味がある。
「お互いに他人の問題に立ち入らない」という価値観によるものである。アメリカ社会における国家観に立脚した行政改革・司法改革による事後監視、事後救済社会における基本原則の一つである。
もっとも、この原則は十分な情報と判断能力がない場合には妥当しない。
第二に、「個人は自己の過失ある行為についてのみ責任を負う」という意味がある。
個人は他人の行為に対して責任を負うことはなく、自己の行為についてのみ責任を負うという近代法の原則のことである。
第三に、「個人は自己の選択した全ての行為に対して、発生する責任を負う」という意味がある。
何らかの理由により人が判断能力を失っていたり、行為を強制されている場合は、本人の選択とは断定できないため、この限りではない。
自分の場合、この第一の意味、特に「他人に頼り、他人をあてにするのでなく」に対し、弱者としての自分が反発するからだと感じる。
昨今「批判」の是非について諸々話題になっているようだけれど、
正直、「批判」や「議論」という大義名分に驕って、単なる攻撃を正当化している「エセ批判」が蔓延しているイメージはある。
それが顕著なのが(これらを同列に扱って良いものか正直悩むけど)政治やゲハ(ゲームハード)の話題。
「自分は論理的正当性に立脚しているが、相手は盲目的な信仰心に立脚しているだけ」
と互いに互いを認識しており、自分と意見が異なる相手を「信者」「キ○ガイ」などと平然と罵っている光景を目にすることが多い。
二言目には「いや、だってあっちの方が酷いから(自分の罵倒はそう問題じゃない)」。
「政治に無関心な人が多い」なんて言葉は政治に熱心な人からしばしば耳にするけれど、
私の周囲には「政治に無関心」というより「政治に熱心な人と関わりたくない」という人の方が多かったんじゃないかと思う。
というのも、政治に熱心な人は「その人の信仰する思想以外には攻撃的な“信者”」である“確率”が高いから。
勿論それらは単なるノイジーマイノリティーだとは思うのだけれど、表に露出するのはそういう人ばかりだから尚更そういう心象が強くなってしまう。
それ故に、「政治離れ」の原因は「政治に熱心な人」にドン引きしているから…ってケースは割とあると思う。
それが神であれ思想であれ、信じる(疑わない)のが宗教で疑うのが哲学。
理屈と膏薬はどこへでもつくけれど、それは信仰も例外ではなく、理屈が伴うことはなんら自身の思想の正当性を保障しない。
アメリカの大統領選挙での応酬を見てても思ったけれど、これが現代版の、当事者達には宗教の自覚が伴わない宗教戦争なのかなと思う光景は結構多い。
そして他者への攻撃を「聖戦」と正当化するように、他者への単なる罵倒が「議論」や「批判」と自己正当化されているケースも多いと思う。
http://www.itmedia.co.jp/business/spv/1702/14/news040.html
[窪田順生,ITmedia]
このITmediaの記事では名指しされていないが、「著名な女性評論家」とは大宅映子のことである。
大宅映子「あのー、メディアっていうのは中立公正なるものを皆さんにお伝えするっていう。そのためにはしっかりした裏付けというのがあるとされている、皆の共通認識として。で、それをしないと捏造と言われて社会的批判を受けるわけですね。
でも今の状況を見ていると、現場、その場の意見に対して、〔トランプ大統領が〕頭からバーンと、嘘であろうがなんだろうが〔オルタナティブ・ファクトを使いまくって自分に都合の悪い話を〕否定してしまうっていうのがまかり通ってるということがね。しかもそれがネットで拡散するっていう。
それで私思ったんですけど、企業の中でもありましたよね。広告でやはり動いているから、ネットの。自分のところの企業に有利になるような偽情報を出すっていうような問題になったりしていますよね。
で、それをどうにかするっていうと、じゃあどこで本物か偽物かっていうのを、今〔ファクト・チェックの格付けをやって〕三角とか黄色とか、プラットフォームがそれを出すっていうのも逆に危ないですよね。判断がね。」
関口宏「そう、そこにもオルタナティブっていうのがありますからね……」
大宅映子「そうそう。そうすると基本的には私たち一人一人が、メディアリテラシーっていうか、判断力がなければいけないんだけれど、こんないろんなことを全部自分で判断なんかできるわけがない。」
姜尚中「うーん。まあひとつの試みとして、〔プラットフォームによるファクト・チェックを〕やってもいいんではないか、と僕は思いますけどね。」
大宅映子「うーん。やっぱり事実は一つにしてほしいです、はい」
以降、他の論者へと発言が移る。
〔〕は引用者による補足。
大宅はトランプ大統領がオルタナティブ・ファクトを使っていることと、企業がインターネットで偽の情報を流していることを批判している。
しかし同時に、大宅は誰かが特権的・独裁的に情報の真偽を決めることにも批判的だ。インターネットのサービスは、プラットフォームの運営会社が偏向していることもありうる。そのため、その運営会社に事実判定の権限を委ねることは逆に危険だと指摘している。
最後のところで出てくる「事実は一つにしてほしいです」という発言はちょっと早口だった。大宅は主張をまとめようと急いだ感じがあって、ここで何を言おうとしていたのか視聴者に伝わりづらかった。
しかし、ITmediaの窪田順生がこの箇所を抜きだして『「ファシズム」(全体主義)以外の何物でもない』などとレッテルを張るのはあきらかな曲解である。
そもそもこの「事実はひとつ」というフレーズは、大宅がスタジオで発言するより前に、VTRの中で山田健太(専修大学の教授、言論法)がコメントしているものだ。この文脈を踏まえずに大宅を非難するのは適当ではない。
VTRでは、ジョージ・オーウェルの小説「1984年」が現在アメリカでベストセラーになっていることを紹介、そしてワシントンポスト(1月25日)の『"もうひとつの事実"は"1984年"の「現実操作」を連想させる表現だ』という一節を引用して、これがどういう意味なのかを山田に解説させている。
山田健太「本来事実というのは一つのはずなんですけど、その事実を否定するために「もう一つ事実があるよ」ということを言って、最初の本来あるべき事実を覆い隠すという意味であります。
このVTRが流れた直後だという点を踏まえるならば、われわれは大宅の「事実は一つにしてほしいですよ」という発言を正しく理解することができる。すなわち、『「もうひとつの事実」なんて言って「嘘」をゴマかす政府はどんなヤバいことをするかわかったもんじゃない』という意味なのである。
従って、ITmediaの窪田順生がやっていることは曲解であるし、これをあたかも「著名な女性評論家」によるオリジナルの発言であるかのように説明するのも間違いである。
ITmediaの記事はくだらないので、いちいち論評するつもりはないが、ここからさきは私見を述べさせてもらう。
番組中では言及がないが、山田教授のコメントはおそらく『1984年』に登場する「二重思考」を念頭に置いている。
二重思考(にじゅうしこう、ダブルシンク、Doublethink)は、ジョージ・オーウェルの小説「1984年」に登場する思考能力であり、物語の中核をなす概念。それは「相反し合う二つの意見を同時に持ち、それが矛盾し合うのを承知しながら双方ともに信奉すること」[1]である。作中の例でいえば、舞台となっている全体主義国家では民主主義などは存立しえない、という事実を信じながら、なおかつ、国家を支配する「党」が民主主義の擁護者である、というプロパガンダをも同時に信じることを指す。
二重思考は作中の全体主義国家オセアニアの社会を支配するエリート層(党内局員)が半永久的に権力を維持するため、住民(中間階級である党外局員ら)および自分たち自身に実践させている思考能力である。二重思考を実践していると、自分自身の現実認識を絶えずプロパガンダと合致する方向へと操作し、しかも操作したという事実をどこかで覚えている状態となる。
「二重思考」とはニュースピーク(新語法)による単語であり、オールドスピーク(旧語法、我々の知る英語)に直せば、「リアリティー・コントロール」(真実管理)となる。
「二重思考」についてはWikipediaの項目を読んでもらえば十分だろう。事実がたくさんあると考えたり、そのたくさんある事実をすべて同時に信奉しようとする態度こそ、オーウェルがこの小説で批判した二重思考である。
『1984年』の世界では、政府がでたらめなプロパガンダをおこなったとき、国民はその嘘や矛盾に目をつむって忘れてしまうことが要求される。だから、政府が言うことはどれもこれも必ず事実となる。そしてすぐ次の瞬間、政府が先ほどと明確に異なるようなことを事実だと述べ始めたとすれば、国民はそれをもう一つの事実なのだと納得して信奉しなければならないとされる。
「事実はひとつ」という前提は、この二重思考に陥らないために必要なものである。われわれはこの前提に立脚することで、複数の矛盾する話の中から、何が事実であり何が虚偽であるかを探ろうとする。これは政府がでたらめなプロパガンダをおこなったときに、国民がそれに抵抗するための最も根源的な力となるのだ。
https://twitter.com/goeland_argente/status/825881166334996481
Cinq idées reçues sur le “nouveau” Front national
フランス語はそんな上手くないし、フランスの政治には全然詳しくないのでひどい訳です。
どんどん誤りを指摘してください。補足してください。何ならもっといい翻訳をつくってください。
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モンペリエ大学とパリ政治学院の政治科学の助教授であるアレクサンドル・デゼは、『問題になっている「新しい国民前線」』の中で、ステレオタイプに反して、国民戦線については、新しい点よりも昔から変わらない点の方がはるかに重要であることを示した。
2014年の選挙での国民戦線の戦績が良くなったことは否定すべくもない。しかしながら、そのことを過大評価してはならない。アレクサンドル・デゼは次のことを思い出すように促す。地方選挙において、国家的レベルと結びつけて考えるなら、1995年のときのように、票の4.7%しか獲得していない。これらの結果を、2012年の大統領選挙の時の人口10000人以上の都市におけるマリーヌ・ル・ペンの結果と比較してみよう。そうすると、今回の地方選挙の結果は、票数に関してはいくらか劣っているものだと言える。ヨーロッパ選挙に関していえば、かつて聞かれたように、29.4%のフランス人が国民戦線に投票したのではない。棄権を考慮に入れるならば、有権者の10%だけである。
奇妙にも、県の選挙の結果は、彼らの前進を示している。ただ、世論調査での高い予想のせいで、この結果は過小評価されている。国民戦線の候補者は43の県で1位であり、1107の小郡(canton)で、降りずに留まっている。
これらの結果というのは、国民戦線を彼らのスローガン通りの「フランスの第一党」とするには不十分なものである。アレクサンドル・デゼは、国民戦線の存在感というのは、市町村レベルでは副次的なものであり、地域圏(1880人の議員のうち118人、議長は1人もいない)・県(4108人の議員のうち62人、議長は1人もいない)・国会(577人の代議士のうち2人)のいずれのレベルでも甚だ不完全なものである。党員の数について言えば、国民戦線には42000人の活動家がいるが、その数は依然共和党と社会党よりも少ない。
2011年1月にマリーヌ・ルペンが国民戦線の党首に選ばれてから、「脱悪役(dédiabolisation)」という戦略が実行されるようになってから、エリゼ宮(※大統領官邸)への道のりは既に引かれたのだ、という声がしばしば聞かれるようになった。しかし、全くそうではない、とアレクサンドル・デゼは静観している。「この読みはメディアの大多数によって共同でつくられ引き継がれたことによって認められているのだから、政治的なフィクションの領域に属するような話である。」
国民戦線は、国政の責任者に至るまでには、おそろしいほどに枠組みを欠いている。他の党との「融和」を誇示するような最近のいくつかの手がかりのうち、いくつかはあまりに短い間であったし、あるいは、内部で問題視されていた。さらに、権力の扉は国民戦線に対して無情にも閉じられたままであるだろう。選挙制度上の理由で、今まさにそうであるように、国民戦線は政治的に孤立したままでいるだろう。「この孤立は、2回に分けての多数決投票が影響力をもつ政治システムのうちでは、権力への道を妨げる最大の障害物になる。」
国民戦線は他の党と同じような党になったのだろうか? マリーヌ・ル・ペンによってなされた刷新というのは、本当に党の顔を変えてしまったのだろうか? アレクサンドル・デゼによれば、これらの疑問への答えは改めて否定的なものである。マリーヌ・ル・ペンの就任の前と後での国民戦線の戦略、プログラムとその支持者を比較して語るところでは、「マリーヌの国民先生とルペンの国民戦線の間には、新しくなったところよりも十分多くの変わらないところが多い」のである。脱悪役? 国民戦線の歴史は、絶え間なく更新される脱悪役の試みの歴史である。したがって、右派へと国民戦線が差し出す手のうちに、あるいは、立派な風貌を打ちだすことによって新しい支持者を集めているとされている周辺的なさまざまな手段のうちに、新しいものは何もないのである。
プログラムに関していえば、国民戦線は常に自らの基礎に立脚している。反体制的批判、国家の特恵、国家の防衛、欧州連合の拒否、ユーロ圏からの離脱、失業と不安の原因と見なした上での移住の拒否である。反リベラルへの再定位は1992年に遡るが、マリーヌ・ル・ペンの社会的な演説は、連続性を担っている。
リーダーシップに関して言うと、マリーヌ・ル・ペンは、彼女の父親のイメージとの対照によってそのメディア上のイメージが形作られている。「このような対照性が推測されていることは、国民戦線に新しく投票するようになった人が、自らの投票を正当化するために持ち出されるような、最先端の議論になっている」とアレクサンドル・デゼは語る。しかしながら、言説における一連の相同性や、マリーヌ・ル・ペンが自分の父親について反対を示さなかった機会を列挙するこの研究者によれば、マリーヌ・ル・ペンと彼女の父親との差は、思われているよりも微々たるものである。例えば、2014年5月に父ルペンが「エボラ殿下」の介入が「人口爆発」と移民の問題を解決しうると主張した時、あるいは、彼が2015年1月に「私はシャルリーではない。私はCharlie Martel(※イスラム教徒のヨーロッパへの進出をイベリア半島までで食い止めた8世紀フランク王国の王)だ」といったとき。これらはいずれも、議員の免責特権の恩恵を被ることはなかった(「人種的憎悪の扇動」として彼女を追及することは、現在進行系で行われている)
最後に、その組織図に関して、「粛清」という幻影を生み出しながら、党によって過激すぎると判断された特定の諸個人を排除した。しかしながら、アレクサンドル・デゼが述べるところでは、「国民戦線は過激な極右のグループや活動家たちと、緊密な関係を維持している。」コゴラン市(Cogolin)の国民戦線の市長は、GI(Génération identitaire)の共同創設者であるジュリアン・ランゲラ(Julien Langella)を広報担当として2014年に起用した。ボーケール(Beaucaire)の国民戦線の市長は、GIのスポークスマンであるダミアン・リュー(Damien Rieu)を、市の広報部長補佐として任命した。二つの例を挙げれば十分だろう。
http://anond.hatelabo.jp/20170109214808 のつづき
前回の記事を書いて、数日はセルクマ+netcraft3さんのブクマだけだったので、うーんはてなでもこういうの受けが悪いのかと思っていたのだけれど、久しぶりに見たら結構伸びていた。どうせ批判コメ(しかも本質に関係ない、放射能アレルギー的なもの)にあふれていると思ったが、意外や意外、肯定意見や建設的な批判が大半で、まだまだ日本のインターネッツも捨てたものではないななどと思ったりした。
その中でも、commonな批判と、その他目についたコメントに対する返信をしたい。
また、以下の返信については、あくまでもコメントに対する返信であって、コメントをした人に対する(人格)攻撃のつもりは一切ない。そう見えたのなら私の文章力の問題だし、そもそもミスリーディングな文章を書いたのが問題だろうと言われたらそれまでである。すいません。
(これだけ書いても多分ある程度の人は攻撃されたと感じてしまうのだと思う。文章力のせいだろうか。ちょっと申し訳ない)
この文章は、あくまでも彼の主張の問題をつくだけのものである。福島が安全かどうかというのは全く別の問題であり、ここではそれに関する議論は一切しない。
これでも噛みつかれそうなので一応書いておくが、別に私自身は特に何かを避けているとかはない。単に面倒だからだ。
と書いたら、id:reijikanさんから『「単に面倒だからだ」ということだけれども、早野さんはその面倒なことをやっている。』というコメントを頂いてなるほど書き方が悪かったなと思った。
単に(面倒くさくてw)一言で面倒と言ってしまった私が悪いのだが、これは後半でも書いているように、「私は私の責任でもって積極的には気にしない」という選択肢を取っているということである。したがって、例えば乳幼児の親が放射能汚染に敏感になっていることを批判することは私には決してできない。そもそも上で挙げた資料には、誤差すら書いてないので原理的に批判はできないのであるが…。
また、早野氏がどれだけ何をしていようと、(これも語弊を招くかもしれないが)私には一切関係ない。また、彼の行っているその「アウトリーチ活動」とやらは科学の世界と一切関係のないものであるというのが先の文章の主張である。
これは一番星を集めていたid:IkaMaruさんやid:njamotaさん、また「牧野さん政治発言繰り返してるじゃん…」とのトラバなど、結構たくさん頂いた指摘である。
結論から言うと、もちろん科学者が政治をするのはまことに結構なことである。有馬氏など、日本の科学行政にも科学者あがりの人は実際に何人かいる。政治発言にしたって、牧野さんが政治発言をtweetするのも結構だし、M川さんが天皇制に反対するのも結構だし、xxさんが毛沢東と会って公安の監視下に置かれたのもどうぞお好きにやってもらえればいいとしか言えない。外国でも例えばロシアのサハロフさんなんかは大変有名である(こう書くと業界が極左ばっかのようだが、まぁそんなことはない) 。
というかそもそもよく考えたら私のこの文章だって見ようによっては部分的には政治的であると言えなくもないかもしれない。
私が問題だと思うのは、「科学的発言の皮をかぶった政治発言」である。そりゃあ(直接面識もないのにこんなに例に出しまくって申し訳ないが)牧野さんが集団的自衛権に反対しているのを見て「あぁなるほど天文学的には日本国は9条を保持すべきなのか」と思う奴はこの世にいないだろう。こんなのは誰がどう見たって個人の思想信条を発言したに過ぎないと思うわけである。翻って見るに早野さんが「躊躇なくイエス」「どこにもない」「自信を持って言える」「間違っている」と繰り返したらどうか。(あぁ、http://bzfd.it/2jkl8zc からコピペしてめまいがしてきた…。)これを見て政治的発言だと思うやつは相当ひねくれているか科学的知識を持っているかのどちらかである。
もっと別の例を出そうか。いわゆるニセ科学、例えばなんとか水やなんとか菌のたぐいであるが、これにはほぼ必ずと言っていいほど「~博士」「~名誉教授」の肩書を持った人のコメントが寄せられている、ような気がする。人は一般に、そのような肩書があれば科学的に中立な発言としてそのコメントを見てしまうということの証左であろう。「水素水で若返りました(65歳男性)」とは発言の重さが違うのだ。
(どうでもいいが、改めて上の記事を読んでみたがこれは本当にとんでもない記事である。『その批判、一部は当たっているんですよね。「あなたたちは、全員を測ったわけではないでしょう」「安全な人だけ選別しているのではないか。きっとどこかで高い人がいる」という点は特に当たっている。その通りだと思いました。』なんてバイアスがあるって言われただけなのにあたかも「とんでもないいちゃもんつけられたのに真摯に対応するワタクシ!」みたいな感じに読めるし(というか下の論文読むまでこの文章が何言ってるかわからなかった)、そもそも「思想を語っているわけじゃない」とまで断言している。早野さんはサイコパスなんじゃないだろうか。正直言って恐怖を覚えた。)
私も、早野さんが(65歳男性)として発言する、あるいは「これはあくまでも政治的発言ですが」と断って発言するならば一切何も言わない。どうぞ好きにやってくれればいい。しかし、「科学者」の肩書を使って「絶対」というような非常に強い政治的発言を繰り返すのは看過できない。科学者として発言するならば科学の言葉を使わなければならない。
以上のような早野さんの言動は、日本のインターネット界にいわば「放射脳叩き」をもたらした。そのせいで、親が我が子を心配するといったような基本的な権利ですら危機に瀕している。少なくとも今私がここに書くくらい、公の場で福島関連を言うことははばかられるようになってしまった。このような恐ろしい事実を鑑みるに、やはり私には早野さんの政治スタンスを認めることはできない。
私が前の記事で言いたかったのはあくまでも「アウトリーチ」としてのあり方なので、論文には言及しなかった。もちろんなにか「動物のふしぎ」だとか「宇宙のふしぎ」みたいな啓蒙書に対して統計5σ要求するのは流石にやりすぎである。しかし、福島のような問題に対しては、アウトリーチですらも科学に立脚した発言でなければならないと私は思っている。なぜなら、目に見えない不安に対抗する術として人類が編み出した方法こそが科学に他ならないからである。まずは、自然に100%はないことから理解しなければ中世から進まない。
ところでid:njamotaさんが挙げてくださった論文 https://www.jstage.jst.go.jp/article/pjab/89/4/89_PJA8904B-01/_pdf もせっかくだからとさっと見てみたが、どうやらこれはあくまでも生データをそのまま載せた論文であるようで、そこから先の議論はなかった。正直これで論文になるのかというのは私も少し驚いた(おそらく、やはり前回の予想通り、疫学調査では統計を議論できるほど数がないからであろう。別に分野が違うから驚いただけで、ケチをつける意図はない)が、それ以前にそもそもSrに関してはmentionすらされていない。アンダーコントロールな汚染水を垂れ流している以上、チェルノブイリ基準では問題ない、という結論で良いのかどうかはわからない。
(ただやっぱりFig.3, 5, 7にエラーバーがないのは絶対におかしいと思う。早野さんだって東大理物の学生実験でこんなグラフ見せられたら突き返すと思うよ…)
このレベルの調査で絶対安全という結論を導き出すのは、私には不可能である。ググったところこの論文が聖典のように扱われているが、正直一体何がどうなっているんだ…という感じが拭えない。(しつこいが危ないと言っているわけではない。ただわからないと言っているだけである。)もっとも私は疫学など露とも知らないので、まあこれがどこまで確からしいかconcludeすることはできないのだが、少なくともある種の統計分布を仮定して有意性を出す、という(少なくとも私にとっての)conventionalな科学の枠内では捉えられなかった。有識者の意見を聞きたい。
おっしゃる通りだと思うが、私は牧野さんや押川さんほど社会的地位も無ければメンタルも強くないし、早野さんやそのゆかいな仲間たちほど厚顔無恥ではない。
あと日本語の読解間違ってたらすいません。やさしく教えてください。
すでにこの映画を見て2週間は経つ。鑑賞直後の雑感は箇条書きで記してはいたのだが、一応もう少しまとめようと思い立ったのでここに記す。
おそらくほとんど人の目には留まるまいが、ネタバレを含むので、ここから以下はぜひ本作をご視聴の上でお読みいただきたい。
また、私自身はこの作品を1度しか視聴しておらず、またこの映画に関する情報はパンフレット以外ほとんど(ネット上の評論も含めて)目にしていない状態であるので、思い違いや抜け、または同様の結論に至った他の方の評論がある可能性があることを了承されたい。
また、本文の後半でいくつかの仏教的用語を使用している。が、恥ずかしながら私の仏教知識は全くの独学であり、また理解もかなり浅いものである。もし仏教用語または知識に間違いがあれば、ぜひとも私のツイッターアカウント(https://twitter.com/gachikibou)またはメールアドレス(gachikibou@gmail.com)あてにご叱正をいただきたくお願いする次第である。
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これまで、私は新海誠監督の映像作品をいくつか観た(すべてテレビかDVD)が、どれも見ていていたたまれない気分にさせられるのがいやだった。今回も「新海監督作品」というだけで拒否感が強かったのだが、それを良い形で裏切ってくれる作品であった。
この映画の良い点については、映像作品素人の私でもいくつか挙げることができるが、この文章では、私が「この映画が多くの人の心に深く響いた理由」であると確信した、ある「仕掛け」について取り上げたい。
私がこの映画で見事な「仕掛け」であると考えるのは、「入れ替わっていた時の記憶は夢のように消えていく」という設定である。
ご視聴いただいた方にはわかる通り、この設定は脚本の構成上必要不可欠であり、それ自体が新海氏の作品テーマの一つである「すれ違い」を生むポイントでもある。
しかし私は、この設定そのものが、多くの観客に非常に深い共感を覚えさせるための、きわめて重要な「仕掛け」であったと確信している。
さて、その「仕掛け」について考える前に、まずは一般的な、夢の「記憶」について少し考えたい。
そもそも、人間が見るほとんどの夢は、目覚めた時には忘れられてしまっているし、たとえたまたま夢を覚えていたとしても、目覚めた後しばらくすると、その記憶が朝のルーチンな行事などによって急速に塗り重ねられていく経験を、多くの人はしているはずだ。
そしてそれは、非常にインパクトのある強烈な夢であっても、実は例外ではない。
例えば、前日見た怖い夢について友人に話す時、どうしてもその「怖さ」を伝えることができないというもどかしさを感じたことがある人は多いはずだ。
それにはいろいろな理由が考えられるだろうが、そもそもそうした場合に思い出している夢の「記憶」というのは、実際にはその時の夢に対するおぼろげな「あらすじ」と「『感動』を体験したという『記憶』」を元に、目覚めてしばらく経ってから再構築された、いわば「レプリカ」である。
それは本来の「記憶」ではなく、自分自身によって作られた本来の「記憶」の「代替品」である。そのゆえに、自分自身でもその「記憶」を、生の体験として感じられないのだ。
では、なぜ人は、わざわざそのようにもろい夢の「記憶」を、再構築してまで取っておこうとするのだろうか。
それは、その人が、その夢の中で何らかの「感動」(それは「喜び」であっても、人によっては「恐れ」であってもよい)を体験したからである。
ある夢について、人が「いつまでも覚えている(実際には再構築したレプリカを取っておいている)」のは、その人がその夢の中で、時には現実以上に「感動」させられたからだ。
(つまりは、面白かったテレビドラマやアニメをDVDなどで保管しておこうという行為と同じである)
しかし、そのとっておきたい夢の「記憶」そのものは、前述のように実に「もろい」のだ。
「感動」は個人の心にとって極めて重要な体験であり、その存在を保証する「記憶」は、ある意味「自分そのもの」でもあるのに、夢の「記憶」は、いくら手放すまいと抱え込もうとしても、どうしようもなく風化し、変質し、最後には消えてしまう。
すると最後には「『感動』を経験したという『記憶』」という、ある意味抜け殻のようなものだけが手元に残るのだ。
しかし、人間はそれでも夢の本来の「記憶」をあきらめきれない。
なぜなら、強く「感動」したという事実は、人にとって極めて重要だからだ。
だからこそ人は、無意識にでも夢の「記憶」を、抜け殻である「『感動』を経験したという『記憶』」を元に再構築して「レプリカ」を作り、それを代替品として残すのだ。
たとえ残しても、その「レプリカ」が、本来の生の「記憶」には及ばないにもかかわらず。
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さて、ここまで、夢の「記憶」が本来の記憶から「レプリカ」に置き換わっていく過程を見てきた。
多くの人は無意識のうちに気が付いているのだ。
実は、夢の「記憶」に限らず、人間の実体験から得られたものを含むすべての「記憶」も、年月が経つと消えてしまう「もろい」ものである、ということに。
「よかったことの記憶は美化される」というが、実際には美化という「脚色」ではなく、後に再構築された「レプリカ」かもしれず、場合によっては「レプリカ」の「レプリカ」である可能性すらあるのだ。
「記憶」は、同じ時代の別の「記憶」や、新しい「記憶」、またはその人自身の心境の変化などによって絶えず影響を受け、さらに年月とともに風化する。
そうして形の崩れた「記憶」を、人は心の棚から引き出して眺めるたびに、足りないところや影響を受けたところを成型しなおし、「ああ、あのころはそうだった」と納得して、引き出しに仕舞う。
仕舞った途端に、その「記憶」はまた変質を続け、風化していく。
そのようなものに、果たしてその「記憶」が生み出されたころの、生の部分が残っているだろうか。
そしてその「記憶」がもろく変質し、最初のものと変わってしまっているという事実は、最終的には自分そのものの「はかなさ」にたどり着く。
自分があの時得た喜怒哀楽の「感動」を保証する大切な「記憶」が、年月を追うごとに変質し、「レプリカ」に置き換わっていく。
さらにその「レプリカ」すら、風化に耐えられずに「レプリカ」の「レプリカ」に置き換わってしまう。
それは人間の記憶システムの限界であり、そのような「はかない」ものに立脚している人間存在の限界であり、どうにも抗えない無情な運命である。
この残酷な「はかなさ」を前に、人は多かれ少なかれ、悲しみと恐れを抱くのだ。
しかし、いくら「はかない」ものであっても、人はやはり「『感動した』という事実」を保証する「記憶」を手放せない。
それを手放すことは、過去の「感動」を手放すことであり、つまりは「自分自身」の一部を手放すことに等しいからだ。
「自分自身」を手放したくないという強い思い。これは、人間という存在の持つ、根源的な欲求の一つといってよい。
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この作品で、主人公たちは人格の入れ替わりという「夢の体験」に近いものを体験する。
入れ替わっている時の「記憶」は、(夢の「記憶」と同じく)極めてもろく、曖昧なものであることが劇中の様々な演出や、女性主人公の祖母の経験から示唆される。
また、主人公二人が入れ替わっている最中のことを把握しようと相互に残した記録すら、「世界の修正力」とも呼ぶべき現象によって、問答無用に消されていくのだ。
この演出は、夢の中で強烈な「感動」をしながら、夢の「記憶」が消えていくのを経験した人々(たぶん非常に多いはずだ)に、夢の「記憶」の「はかなさ」、どうあがいても失われてしまう焦燥感と苦しさを思い出させる。
この映画において、入れ替わりの「記憶」は、夢の「記憶」と同列にできるものではない。
なぜなら、その「記憶」は(時間軸のずれはあるにせよ)現実世界での体験によるものだからだ。
ここで視聴者は(特に、視聴者層として想定される若い世代にとっては無意識のうちに)、自分の持つすべての「記憶」そのものも「はかない」ということに気づかされる。
そしてその「はかなさ」は、前述のようにこれまで確かだと思っていた「自分自身」、つまり「自我」の「はかなさ」へと続いているのだ。
この作品が、単なる「恋愛のすれ違い」を描いた作品でない点は、ここにある。
この作品の入れ替わりの記憶に関する「設定」そのものが、人が「自我の存在のはかなさ」に知らずのうちに触れる、という高度な「仕掛け」となっているのだ。
そしてさらにさらに、この仕掛けにかかった視聴者は、「自我のはかなさ」を抱えながら、大災害から人を救いたいという強い想いの結実と、主人公二人の恋の結末を追っていくのである。
「自我のはかなさ」という「無常」を自覚しながら、それでも捨てきれない「感動」を最終的には得るのであり、これをあえてたとえるなら、大乗仏教における「色即是空」の一端を突き付けられながら、それと相反する「自我」を、恋の思いを主軸にした「感動」として体感させられているようなものである。普通の人間にとって、これが強烈な体験とならないはずがない。
この作品を、「何か『高尚な深み』がない」とか、「ヒットする要素が盛りだくさんで鼻につく」といって評価しない人がいるようだが、前述の「仕掛け」が意識されるならば、その評価は間違っている、と言えるだろう。
確かに、ストーリー上はこの作品は恋愛物であり、その結末そのものに何らかの「高尚な思想」は存在しない。
最終的に二人は再会し、そして新しい「記憶」が生まれるだけである。
しかし、上記の「仕掛け」による、実は仏教的ともいえる「無常」と、それと対立する「自我」を強烈に意識した構成は実に見事であるし、十分に評価に値すると、私は考える。
何より、「無常」と「自我」の対立、というよりは映画のエピローグの流れてとしてはむしろ「対決」を、恋愛ドラマをもとにしながらも、とりわけ若い世代の視聴者に体感(おそらく初経験だ)させるなど、尋常の映画ではない。
この点で、私はこの映画が日本のアニメ映画の中でも特筆すべき存在であると考える次第である。
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この映画に関して、もちろん上記以外優れた点は数多くある。
今回記した部分はあくまでも私が特に注目した点であり、冒頭に述べた鑑賞直後の箇条書きの全体量で言えばせいぜい1-2割といったところである。
新海監督の特徴である映像の意図的な美しさや、おそらく何度も検討を重ねて練り上げられた脚本など、評価するところはまだまだあると思う。
しかし、私自身まだ一度しか視聴していないこともあり、また映像や脚本に関してはより以上に素人であるので、それ以外の評価は他の方にゆだねたいと思う。
そして、私はやはりこの映画は、10代から20代の「無常」に関して初心(うぶ)な若い世代に鑑賞していただきたい。
この映画で抉り出されるものは、少なくとも2500年ほど前から人類が立ち向かっている、非常に大きく根源的な問題の欠片である。
大雑把に同感できる意見なんだけど、疑問点が2つある。
まず、「(フェミニズムに立脚していようといまいとどっちでも良いが)批評は表現なのか?」である。
真だとすれば、それもまた「当然にように評価を受け無くてはならない」のではないか? この点においてダブルスタンダードである表現は、表現として存続することを許されるのか?
第二に、「人生というのはその人間の内面を表出させる、一種の表現行為である」というのは、この論において、真なのか偽なのか?
真だとすれば、それもまた「当然にように評価を受け無くてはならない」のではないか? 引き受けるにあたって顕名と匿名ではその「引き受ける態度」に差があるわけなのだが、その差を踏まえて両者を平等に扱う態度が公平といえるのか?
http://b.hatena.ne.jp/entry/www.asahi.com/articles/ASJ8F3Q17J8FPTIL00W.html
意外と、ルール曲げてもいいだろブコメにスターがそれなりに付いている。柔軟にした方がいいのはルール改定であって、運用ではないと思うんだが。
ブラック企業や社畜につなげて語るブコメもあるが、ルール改定によらずに運用で柔軟に曲げようとするマインドは、むしろ推進力にも働きうる。「労基法はあるけど、今はほら会社が大変だからさ、サビ残いいよね?」ってさ。
だいたいガチガチに明文化した中で戦うのがスポーツなんだし。それはフィールドの中だけには限らない。だから異議を認めるのは事実認定の違いや文章の解釈の違いに立脚する場合にとどめておいたほうが良いと思う。
「出席はしていました。受付を忘れただけです。」とかさ。
先日話題になった
「京大出て専業主婦なんてもったいない」と言う人は、じゃあわたしが何をすれば許してくれるのか
http://seramayo.hatenablog.com/entry/2016/05/23/121352
http://anond.hatelabo.jp/20160524012315
これらの話題。
読んですぐに「すげぇちきりんっぽいな」と思った。
メイロマおばさんもそうだ。どっちがどっち化してるのかは知らないけど。
要するに、問題からちょっと離れた立ち位置から意見を言うんだけど、その意見が「私」に立脚しているものだから、聞かされたほうが結構な確率で不愉快になるということ。上記の東大京大シスターズもまさにそれだ。賢く論理も明快だが、その中身はまさに「私」。そのへんにものすごいちきりんのニオイがしてくる。「私」と「我」とはちょっと違う。あくまで、強烈に「私」なのだ。
で、ちきりんとは別に高学歴中年女性の一つの大きなモデルケースと言えそうなのが勝間和代だけど、この勝間和代コースを選択する高学歴中年女性は結構少ない。なぜなら、この勝間コースは「努力して自分が変わろう」というスタンスだからだ。そりゃ辛いもんな。まぁ、勝間和代に関していろいろとアレな部分はあるけど、「成長をしよう」という一点だけでちきりんメイロマコースよりも遥かに上等だと思う。だからなのか勝間コースにはあんまり「私」が多くない。と思う。
別に公共心を持てとか、成長しろとかそういうことは言わんけど。
自分を外部に置きながら「私」についてばかり話すのはよせ。
タイトルのようなことを感じたきっかけとなった記事を3つ、順番に紹介していきます。書き手はロリコン、もっといえばペドフィリアです。
民族差別煽動デマツイートをしている同好の士に言いたいこと - ちらしのうら。
オタク趣味者である私は、民族差別煽動デマツイートをしている同好の士に言いたいことがあります。
もしも「犯罪者予備軍であるロリコンキモオタクが女子児童を襲いますので、ご用心ください」などというデマを流されたら、貴方はどう思いますか?
そんなデマは、もちろん許せないと思いますよね。
「軽い冗談だろ」とか「ネタにきまってるじゃん」とか言われて、軽く流せますか?
もちろん、軽く流すことなんてできませんよね。
でも、まさしく貴方は、そのようなデマの流布と同じことをしているのです。
否、「同じ」というのは語弊があります。
というのも、たとえオタク趣味を否定されたとしても、貴方の民族的アイデンティティーは損なわれないでしょうから、貴方は民族的アイデンティティーという「実存の拠り所」まで失うことはありません。
しかし、民族差別煽動デマは、民族的アイデンティティーという「実存の拠り所」を奪うものであって、いわば「人格を殺害する行為」であり、さらには現実の殺人をも惹き起こす危険さえもあるものです。ですから、それは決して「軽い冗談」の一言で済まされるようなものではありません。
私はオタク趣味のことはわからないので、オタク趣味をお持ちの方が「オタク趣味の否定は(民族的アイデンティティーの否定とは違い)実存の拠り所の否定ではない」とおっしゃるのならそれはいいんですけど、ロリコンを巻き込まないでもらえますか?というのがいちロリコンとしての感想ですね。
ふつう、性的指向による差別というのは、民族差別と同程度に「実存の拠り所」に対する攻撃であるとされているはずです。もっとも、よく知られている通り、指向か嗜好か、マイノリティーか否か、権力勾配があるかどうか——色々な論点があって、「ロリコン」に対する差別というものが、たとえばLGBTに対する差別と同等に捉えられるべきかというのは、議論がありますし、別に私も同等に捉えられるべきであると主張するつもりはありません(べきでないとも主張しませんが)。それでも、ロリコンが「ただの趣味」(とid:yukito_ashibe氏が主張しているところのオタク趣味)と同等に扱われるのは、看過できません。同等どころか同等未満にも見えます。「犯罪者予備軍であるロリコンキモオタクが女子児童を襲いますので、ご用心ください」って文を例示として示しておいて、その文の中で「ロリコン」(・「キモ」)が攻撃されていたことはすっかり忘れられているのですから。
(なお、私の主張は「もしオタクがただの趣味であるというのなら、オタク趣味とロリコンを同等に扱うな」というものであり、「オタクはただの趣味か」についてはここでは検討しません。悪しからず。)
【キモヲタ】と【BL愛好家】を英語ではどう表現するのか?NYで活躍中の日本人通訳者が語る - Togetterまとめ
変態は世界中どこにでもいるんで、童顔の女の子にメイド服を着せたがるキモヲタを根絶するのもまあ不可能だとは思う。だけどああいうのを見て何の抵抗もなく「可愛い」と言える20歳以上の人は、ちょっと真剣にアブナイよ。なんか多種多様な性倒錯が基本設定になってきてないか日本。— NYの会議通訳者が教える英語 (@YukoOhnaka) 2015年8月27日
続き。私が高校生の頃は既にそうだったんだけど、日本人の価値観として、若いというより幼いことが女としての魅力だという、すごく根強い意識があるのね。だから10代の女の子たちも、自分の幼さを自分の女としての価値だと思って自己愛の対象にしちゃってる。大人がそういう風に教えてるんだもん。— NYの会議通訳者が教える英語 (@YukoOhnaka) 2015年8月27日
また続き。ちなみに英語で表現するとこうなります。
キモヲタ: pedophile
BL愛好家: voyeur
最後のツイートは現在は削除されていますが、このツイートがとりわけ話題になりました。私がこの件でもっとも腹立たしく思ったのが、若林宣(@t_wak)氏の擁護です。
ペドフィリア云々に関して、Yuko Ohnaka さんの一連のツイートを読んでみた。これでなぜ叩かれるのか理解できない。「本物のペドフィリアではないんですよ、空想の世界で遊んでいるだけです」ですむ筈じゃないか。あれをオタクバッシングと捉えたら、ペドフィリアだって認めたも同然だよ。— 若林 宣 (@t_wak) 2015年8月29日
「本物のペドフィリアではないんですよ、空想の世界で遊んでいるだけです」ですむって、そんな訳がないでしょう。いいですか、Yuko Ohnaka氏のツイートは、あきらかにオタクを貶める目的で「キモヲタ: pedophile」と書いてるわけです。でも、そもそもpedophileという言葉が悪口になってしまうのがおかしいのに、それに対して「オタクは本物のペドフィリアではない」と返すべきだというのは、「ペドフィリアを悪口として使うのは全然オッケーだと思ってます」ってことですよね。それは最悪の切断処理です。(若林氏は左派だし、左派ならこういうことは当然に理解できるはずだと思うのですが。)なにが「ペドフィリアだって認めたも同然だよ。」ですか。認めると問題があるんですか?単純にペドフィリアという単語をチャイルドマレスターの意味と勘違いしてるならまだわかりますけど。
若林さんは、これよりも前に
これはかねてから感じていたことなのだけれども、何か言われるとヘイトだ差別だとブーたれるオタクって、もっと深刻な差別には無頓着だよね。— 若林 宣 (@t_wak) 2014年10月10日
こんな発言をしていますから、少なくとも「オタクに対する差別」というのをそこまで深刻なものとは捉えていないわけです。その上で、「オタク」と「ペドフィリア」を同一視するYuko Ohnaka氏のツイートを見て、その「オタク」に「ペドフィリアを切り離せ」と説こうと思う訳ですから、「ペドフィリア」はもっとどうでもいいと思ってるんですよね。ふーん。
1年前に、TVタックルにてアニメ規制に関する特集が行われたことをきっかけに、いろんな議論が沸き起こりました。そのときの記事がこちらです。
大炎上「TVタックル」アニメ規制特集、規制賛成派から見た「オタク」の姿
ここで説明するのは大変なので、ご存知ない方は記事を読んでください。ですが、青柳美帆子氏のこの記事にも私はひっかかったところがあります。
たとえば、ミッツがオタク3人に「あなたたちはロリータの趣味がある?」と聞くシーン。「あります!」と即答する20代男性に、阿川は目を見開いている。考えてみたら当たり前だ。
確かにインターネット上では、「ロリコン」という言葉が気軽に使われている。でも、実際は市民権を得ているものではなく、彼らはできるなら「幼い美少女二次元キャラクターは好きだけど、現実の幼女に対する感情はまた違ったものである」と言うべきだった。
やはり、若林氏と同様、「幼い美少女二次元キャラクターは好きだけど、現実の幼女に対する感情はまた違ったものである」という「オタクはロリコンは違うんですよ」論法を推奨している。ただ、この場合ミッツ氏が「ロリコン=悪」という前提で質問しているようには読み取れないので、「ロリコンではない」と答えたところでさっきのように即「ロリコンを悪口として使っていい」というようなことにはなりません。なので若林氏ほど酷い発言ではないと思いますが、それでも青柳氏の意見には賛成できません。
ロリコンである、ということを公言することは児童に恐怖を与えうるものであるから、場を選ぶ必要がある、という立場があります。この立場に立脚するならば、「あります!」という答えは批判されてしかるべきということになるかもしれません。(もっともその場合は「ロリータの趣味がある?」という質問自体の妥当性が先に問われるでしょうけどね。)ですが、そうだとして「幼い美少女二次元キャラクターは好き」ならセーフだと思う意味がわかりません。「どっちもアウト」や「どっちもセーフ」なら理解できるのですが、一方だけセーフとするところにやはり「切断処理」を感じてしまいます。
まあ、「オタクが世間に受け入れられること」を最優先にするならこうした切断処理はある程度有効なのかもしれませんけど、それはあくまで戦略上の話に過ぎません。彼らは別にオタクの立場を向上させる義務があってテレビに出た訳ではありませんから、「こう答えるべきだった」なんて青柳氏に指図される筋合いはありません。
以上、私が特に印象に残っている実例を挙げて批判しましたが、こういうケースはそこら中で見かけます。
「オタクは趣味であってオタクに対する差別というのは他の差別に比べて深刻なものではない」と主張しながら、ロリコンやペドフィリアという言葉をまるでオタクと同義のように扱う人とか。
「オタクは三次元に興味が無いことをアピールして二次元を守るべき」と、ペドフィリアを切捨てるような戦略をオタクに勧める人とか。
生物とか社会とか複雑なシステムって多数の入力と多数の出力、多数の内部変数があるもので、
ある一つの変数をいじると出力が劇的に変化するということはほぼ無いだろうし、変化したとしても再現性が低いと思う。
例えば生物の身体はたくさんの細胞組織と物質、菌類などの相互作用で成り立っているし、
社会組織はそのものがたくさんの人間の利害関係で成り立っている。
さらに、その複雑なシステム自体がそれぞれ異なる内部状態を持っているので、
ある具体的なシステムで問題を解決できても各論にしかならないはずだ。
じゃあどうすれば良いかというと、たぶんそのシステムの現状についてよく知っている当事者が、
妥当だと思える仮説をたて、複数の条件で実験してみるしか無いのだと思う。
そのような手続きを経て、確からしいと認められたらようやく一般性のある論として立脚するだろう。
とはいえ、実験できるものなら良いけど、脳とか国レベルのシステムとかは唯一無二であり気軽に破壊的な副作用のある実験をできないので、
問題を解決するのに非常に難しい判断を迫られることは想像に難くない。
結局何が言いたかったかというと、ライフハックとか新書によくあるナントカ論も各論でしかなく、
そんなものを頼りにしてもうまくいかないことが多いだろうということだ。
http://anond.hatelabo.jp/20160114115033
元増田の文章の、どこらへんが感情的で攻撃的過ぎるのか分からない。感情的、攻撃的の意味が分かっているのか?と疑ってしまう。
こういう人もめちゃくちゃ多いよね。最近。
事実を見る目(正確に把握する目)が狂ってる人
わかんないのか…。
じゃあもう全然駄目だ。
「恥ずかしい」「器が小さい」というのは強い感情が篭った攻撃的な表現だ。
「しか見えない」に繋がるように、その表現は基本的に主観に立脚する。
この1行目に繋ぐなら、タイトルは「《義憤》という言葉はなぜ恥ずかしいのか」とか。)
「本当の正義」て。これでは正義主義から全く脱却できていない。
俺の正義は正しくて他の奴等のは誤魔化しだーって言ってるだけ。
馬鹿にしようとしてる相手のフィールドから抜け出せてすら居ない。
むやみに怒らないしそれを振りかざしたりはしない。
静かに冷静に自分の信じる道を進む。
実践できていない。
はっきり言って元増田は怒っている。振りかざしている。
誰の目にも明らかだ。
決して静かでもない。
同上
自分を大きく見せようと吠えたてる負け癖の付いた駄犬だ。
「吠えたてる」「負け癖」「駄犬」という言葉のチョイスで
僕は怒ってませんよ、攻撃的じゃないですよ、はなりたたない。
正義だの義憤だの言う名分で正当化する人間はだらしがない。その通りだ。
恥ずべきだというなら(強い言葉だけど)そうだろう。
そこまではいい。
「他の奴が怒るのはけしからんけど俺が怒る権利だけは確保しておきたい」
にしかなっていないので、
ただ怒ってる人と同等かそれ以下に悪い。
いや、まちがってるから。その要約。
原告が争点として訴えたのはこの三つ。
すべての国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。
すべて国民は、法の下に平等であって、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。
婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない。
配偶者の選択、財産権、相続、住居の選定、離婚並びに婚姻及び家族に関するその他の事項に関しては、法律は、個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して、制定されなければならない。
だからまずもって、「夫婦別姓の争点はアイデンティティと男女平等」だけではなくて、経済的、政治的、社会的な権利全般も対象に入ってるし、その後もちゃんと不利益について論じられてるわ。
で、最終的に棄却なのは周知の通りだけど、それはなぜかというと
夫婦同氏制の下においては,婚姻に伴い,夫婦となろうとする者の一方は必ず氏を改めることになるところ,……そのことによりいわゆるアイデンティティの喪失感を抱いたり,
婚姻前の氏を使用する中で形成してきた個人の社会的な信用,評価,名誉感情等を維持することが困難になったりするなどの不利益を受ける場合があることは否定できない。
そして,氏の選択に関し,夫の氏を選択する夫婦が圧倒的多数を占めている現状からすれば,妻となる女性が上記の不利益を受ける場合が多い状況が生じているものと推認できる。
さらには,夫婦となろうとする者のいずれかがこれらの不利益を受けることを避けるために,あえて婚姻をしないという選択をする者が存在することもうかがわれる。
しかし,夫婦同氏制は,婚姻前の氏を通称として使用することまで許さないというものではなく,近時,婚姻前の氏を通称として使用することが社会的に広まっているところ,
↑こういってるわけよ。
要するに、
っていってるわけです。
で、実際にそれではすまない例はすでに別ツリーでも引用されてる増田にhttp://anond.hatelabo.jp/20151207175147。
また、ここに出席してる女性裁判官が、裁判官になるに当たって通称を使用できてない点にも留意。
だから夫婦別姓を訴える人は「不利益」を中心に訴えようとしてんの。
わかったかな?
で、最高裁判決は最後に国会に丸投げしてることも十分に周知されなければならないところ。
なお,論旨には,夫婦同氏制を規制と捉えた上,これよりも規制の程度の小さい氏に係る制度(例えば,夫婦別氏を希望する者にこれを可能とするいわゆる選択的夫婦別氏制)を採る余地がある点についての指摘をする部分があるところ,
上記(1)の判断は,そのような制度に合理性がないと断ずるものではない。上記のとおり,夫婦同氏制の採用については,嫡出子の仕組みなどの婚姻制度や氏の在り方に対する社会の受け止め方に依拠するところが少なくなく,
この点の状況に関する判断を含め,この種の制度の在り方は,国会で論ぜられ,判断されるべき事柄にほかならないというべきである。
おまけ。
「夫婦同氏制を継続する合理性」の判断の根拠には以下のものもあるんだけど
そして,夫婦が同一の氏を称することは,上記の家族という一つの集団を構成する一員であることを,対外的に公示し,識別する機能を有している。
ナショナルジオグラフィックは楽しいサイトで、会社のパソコンでよく昼休みに見る。
学術的発見などはともかく、環境保護に引っ張り出される動物が、逆に不快なのではないだろうかと思うようになったからだ。途上国で我が子の身体障害を晒して物ごいを強制している母親のように。
大体、そんな母親は「この子はうちの稼ぎ頭なんですよ」と自信満々な顔でいるんだけど、何かこう、複雑な気分になることはある。もうちょっとどうにかならんかったのだろうか、と。いや、おかんのほうもっと気張れよと。
日本でも例えば東京での絶滅危惧種例えばゲンゴロウやミズスマシなどの話題はほぼ無視で、限界集落だらけの過疎で山深い地域や離島の生き物ばかり取り上げる。
以前、中国の片田舎で新種の毒蛇が発見されたが、これは住民によって撲殺された後だった。
立派、ないしかわいくない生き物は滅びるに任せるのが、世界の現状なのだ。
そんな感情立脚した保護活動の嬉々とした報告に少しばかり嫌気がさしたのかもしれない。