はてなキーワード: 立脚とは
安倍首相は今年の7月、中国を「身近な脅威」と名指しして、今回の安保法制の可決をすすめた。(安倍政権の太鼓持ちとして以前からその姿勢を隠していない産経新聞によるソースである。)
http://www.sankei.com/politics/news/150729/plt1507290039-n1.html
そして日本が「国を守る為」というレトリックのもと、"集団的自衛権"というアメリカを利するためだけのものを日本の戦後でも稀に見るほどの強行的な手段で通すことになった直前、中国は全世界から注目を浴びる場で、期限まで名言はしていないものの、30万人規模の軍備縮小を表明した。
http://jp.reuters.com/article/2015/09/03/china-xi-parade-idJPKCN0R306520150903
(そんなことは少し調べたり考えたりすればありえないことだとわかるものではあるのだが)もし万が一中国が攻めてくるとしても、この時点で国際的な観点でどうみられているかという立ち回りの時点において、中国は現在の日本の安倍政権よりも2枚も3枚も上手である。もし日本が望む通り、中国が脅威として日本に攻めてきて、その戦いに日本が勝利したとしても、すでに日本は海外諸国で「70年間の平和路線を放棄した狂信的なナショナリズム政権」と報じられている。
平和的な路線を歩み始めている(少なくともそうした姿勢を打ち出している)中国を、好戦的な日本が武力行使によって制圧したという構図からは逃れられない。安倍政権が縋っているアメリカ政府だって、もし国際的な非難が日本に及べば、容易く安倍政権に対するハシゴを外すだろう。
私が不安に感じるのは、このどうしようもないほどの国際的な場における立ち回りの下手さである。自民党が党是として掲げ続けている"自主憲法制定"にしたって、自民党によるのそ憲法改正の草案が現在の日本国憲法よりも国民の基本的人権を制限こそすれ、決して拡張できるようなものとして読み取れるものではないものである点においても、どう足掻いても味方を得られるようなやり方をすすめてはいない。ネット上で勇ましく敵国から日本を守るべきだ、自分にはそのために命を捨てる用意まであるとまでと言う若者の論調を見るにつけ、この日本の政府、内閣という日本の首脳陣の無能さが泣けてくるほどに情けない。
いくら法案と内閣の言動を読み合わせてもアメリカに媚びを売り、軍需産業を拡大して経団連を設けさせようという以上の効果を見出せない集団的自衛権とやらが、本当に日本の誇りを取り戻すために必要だったとしよう。ならばせめて、その大義名分の元に散っていくであろう命に対して、キチンとしたはなむけをする用意はできないのだろうか。
"誇り"や”プライド”は誰かの足を引っ張る為に、誰かを相対的に貶す理由としてあるものじゃない。その人がその人個人の人生に立脚するうえで必要であり、ゆずれないものこそ、"誇り"と呼ぶにふさわしい。
さて、戦場への積極的介入が行われれば、必然的に犠牲になる人の命は増える。その時の用意や覚悟や責任は、東京オリンピックを国民的行事と定めながらもグダグダであり、2011年の原発事故の収束のメドすら立てられない今の日本に、果たしてあるのだろうか?敗戦記念日での靖国神社への参拝を、慰霊行事として国際的に認めさせることすらろくに出来ず、ただ近隣国の感情を逆なでする行為としてむしろ中国や韓国に利を与えている結果しか及ぼしていない現在の自民党に、その手腕があると想像する方が賢明なのだろうか?
ポスト構造主義以外なら「盲信」以外になんかあるの? 絶対的な裏付けが?
ある文学の価値は「盲信」以外にされうるの? 君はしてるの? どうやってしてるの? どうやって自分のは「盲信」じゃないと区別してるの? できるの?
俺にとっての「ポスト構造主義」が君にとっては別のなにかに入れ替わってるだけで、「盲信」の部分はなにも違わないんじゃないの?
「盲信」してない君と意見が違う人は間違ってるの? ポスト構造主義は間違ってるの? どうやって証明するの? どうやって? やって?
なにか確かなことが言えるの文学について? 君は「文学」がなにか分かってるの? たしかに?
・追記
ポスト構造主義に立脚したり依存した「文学」は価値が無いの? 価値が無いと言えるの? それだけは確かなの? 違うの?
違うなら結局なんなの? ポスト構造主義を盲信しないことは「文学」をわかるために何の役に立つの? 「盲信してる時点で」なんなの? 次の時点では「文学」を分かるようになるの? ならないの? ならないなら要らないんだけど趣旨わかってる? わかってないの? たしかに?
周知の通り、この世の中に無数にある争いごとの原因は、全て了見の狭さにあると言っても過言ではない。これを認知の歪みという言葉で表す人もいるが同じことだ。
しかし、別に了見広げる必要ないじゃーんっていうのも真に正しい。例えば、ボカロ音楽大嫌いな人がわざわざ了見を広げて好きになる必要あるかって言うと微妙なところではある。
了見広げたほうが物事を受け入れやすくなってストレスが減って世界が広がる代わりに、なんでもありになって本来の自分がやってきたこと(ここでは音楽性)を見失う面もあるんだよな。
もちろん別に見失ってもいいんだよ?過去の自分を捨てるのもまた人生だけど、見失うことには変わりないわけで、そのデメリットを吟味する必要があります。
したがって、全ての人間が寛容になれば世界が平和になるか、全ての人の内面が安らかになるかっていうと極めて微妙な話なわけ。人はあえて寛容を選ばず粘着的な拘りを持つことで社会における自己を確立している。
もっとも、人間というのは決して1つだけの顔に固執しているわけではなく、社会化の過程で複数の顔を持っていくものだ。
父親としての顔、夫としての顔、係長としての顔、上司としての顔、部下としての顔、スポーツマンとしての顔、二次元オタクとしての顔、ネットで口だけ番長ブログを書き殴っているときのどや顔。
そうした色んな顔を統合して裏表ない人格を築くのが人間的完成だという1つの大きな思想の系譜もあるが、それは理想的過ぎる話で大いに疑問の残るところだ。
社会に生きる限り顔の切り替えは不可欠であって、それは理想化された統合的人格とは相容れないものなのではないか?相容れるとしたらそれはどういう形なのか?そこがはっきりしない。
であるから、どんなエラソーなこと言ったって所詮はみーんな複数の顔をせせこましく切り替えて生きていかないといけないと思うのだ。
だったら、複数の顔を持っても社会との兼ね合いで、あるいは自分の中で対立が起きないように了見の広さを身に付けておくのも大切と言える。
何もなんでもありなくらい高い視点を持たなくても、適度にストレスが軽減される程度に視野を広げておくのも1つの戦略ではある。
何も仙人のような超越的視点は要求されていない。狭い自己にこだわってそれに立脚した世界モデルを作っているのが問題だからそれをやめなさいと言っているだけ。
井の中の蛙が作った世界モデルは、結局井の中の物事すら自分の中でうまく整理できなくてストレスが多大に発生して、そのせいで余計に井の中に引き籠もってしまうという悪循環をもたらす。
だから適度に視野を広げておくってことが大事なのだが、それが我々日本人には非常に難しいようである。
視野が狭いことを自認する人がいたところで、それが何故駄目なのかを本質的に理解しない限り改善しようとは思わないだろう。
例えば、視野が狭いと色んな人と仲良く出来ないから駄目、視野が狭いと知識が狭くなるから駄目、といったことは些末なことであって、その程度の理解だと視野が狭い自分でもいいやって受け入れてしまうであろう。
一言で言えば、認知モデルが現実と乖離しているから駄目なのである。視野が狭い人の認知形成というのは、自分の身近なことの大半を切り捨てて、本当に自分が興味あるものだけを選んで認知モデルを作る。認知の歪みという。
だから、そのモデルでは身近なことすらモデルに合致しないことが多々出てきて、そのモデル上では存在してはいけないはずの出来事が毎日がエブリデイのように発生してしまうのだ。
認知モデルにそぐわない出来事は、当然本人は素直に認めたがらず、逃げようとする、否定しようとする、過剰に肯定しようとするのどれかの行動にでるわけ。
どんなモデルを選択しようがそれに合致しない出来事には遭遇するものだが、狭い認知モデルだとそういうことが頻繁に起きてしまうのでストレス過多になって、ますます狭い自分に引き籠もる。
狭い認知モデルだから受け入れられない事だらけで人生辛いってのは、まあ誰にでも理解できる簡単な話ではあるが、もうちょっと詳しく、
・身近な物事のうち都合の良い部分だけ切り取ってモデルを作るから現実と激しく乖離すること
・認知が現実と激しく乖離しているから、沢山の物事に対する逃避、否定、過剰肯定を現実の自分が実際に行っていること
・しかも、そんな歪んだ認知を我が子のように必死に守っていること
を理解してきちんと自覚しない限り、直すのは難しいだろうな。けだし、問題の原因は問題に対する理解不足にあることが多い。
http://d.hatena.ne.jp/Rootport/20131015/1381840117
2013年9月でテレビアニメ『ガッチャマンクラウズ』は終了したが、それに絡めて(上記URL)書かれたガッチャマンクラウズの描像に違和感を覚えたので、それをきっかけにして『ガッチャマンクラウズ』について私が考えたことを記しておきたい。尚、本稿は読者が『ガッチャマンクラウズ』を最後まで観ていることを前提に書かれている。
さて、上述したブログの筆者(以下Rootport氏)の見解を一言でまとめるなら、『ガッチャマンクラウズ』とは「社会秩序を守るタイプのヒーローが、秩序の破壊と変化を受け入れる物語」ということになるだろう。だが私は、寧ろそうでなかったからこそ『ガッチャマンクラウズ』は面白かったのであり、現代日本的ヒーロー像を書くことに成功したのではないかと考えている。つまり、『ガッチャマンクラウズ』に登場するヒーローたちは元々が「社会秩序を守るタイプのヒーロー」ではないのではないかということだ。Gメンバーは一ノ瀬はじめが加入するまで確かに襲来する宇宙人達から密かに地球を守っていたが、それは単にJ.Jの指揮下で仕事をこなしていただけであり、奉仕していたのは地球とは文字通り次元の異った高度な秩序である。社会秩序に「人間の理解すら及ばない高度な秩序」は含まないだろう。地球のガッチャマンたちがやらされていたのは全貌を見渡すことのできない「大きな」仕事の一部でしかない。それは結果として地球を守っていたのかもしれないが、積極的に「地球を守る」こととは明らかに違う。『ウルトラマン』が全宇宙的な秩序を守ると言いつつ地球準拠の正義に隷属しているのとは対称的だ。
だが、はじめが加入したことで、ガッチャマンの内実は明らかにそれまでとは異ったものとなる。敵として認識されていたMESSは無害化され、「本来は手出ししない」はずのローカルな事件へ次々と関与していくこととなるのだ。その中でGALAX開発者:爾乃美家 類と出会い、ベルク・カッツェとも関わってゆくこととなる。はじめは何を変えたのか?ガッチャマンたちの「社会秩序を守る」という規範意識か?いや、違う。彼女が齎したのは、そもそも彼らが持っていなかった視座、即ちJ.Jが体現する高度な秩序から離れたローカルな秩序への眼差しである。はじめはそれまでのGメンバーの誰もが実は見ていなかった足元に、持ち前の強引さと直観で目を向けさせた。はじめの出現とベルク・カッツェの暗躍を通して初めて彼らはローカルな秩序と結びついたのである。端的に言って、『ガッチャマンクラウズ』は「社会秩序を守るタイプのヒーローが、秩序の破壊と変化を受け入れる物語」ではない。変化を受け容れるのは神々の視座に安穏としていたヒーローたちの方で、ローカルな社会秩序=ネットはGALAXによって既に変化をはじめていた。自分たちの変化を受け容れたヒーローは、受け容れて初めてローカルな社会の変化を知りその実感を得るのである。自分が大したことないヤツだと思い知らされたからといって不貞腐れている場合ではない、自分の能力に怯えてうつうつしてる場合ではないと気づき、彼らはようやく立ち上がった。
はじめとベルク・カッツェは真逆の方向からそのことをGメンバーに知らしめる役目を負っていた。彼らはインターネットの正負両側面をそれぞれが体現していたのだ。はじめは世代や職業を越えた人々と繋がりが生むポジティヴな連帯を、ベルク・カッツェは猜疑心と加虐性を無限に増幅させて破壊を生み続けるネガティヴな連帯を象徴し、各々自らがその先頭に立つことで「流れ」を引き込もうとする。この両者は、決してバランスのとれた均衡の上で争っているのではない。はじめがネットツール:GALAXに依拠しながらもあくまで立川市内という極ローカルな連帯を核にしている一方、ベルク・カッツェはネット上にありふれた不満と破壊衝動をほんの少しつついてやるだけで、姿を見せることなく、文字通り「どこからでも」破滅の種子をばら撒くことができた。彼(彼女)が立川に拘ったのは、まさに憎むべきガッチャマンたちがそこを拠点としているからでしかない。この圧倒的に不利で不均衡に思える状況の中で、劇中唯一元来の意味でヒーロー的活躍をしていたのがはじめだ。彼女は一切ブレることのない精神の有り様でローカルな視座から遊離していたガッチャマンたちの視線を「足下」に惹きつけ、ネットの向こう側に存在する人々と結びつけた。これに対し、ベルク・カッツェは爾乃美家 類の能力:クラウズを奪ってネット内で辛うじて留まっていた憎悪と欲望を直接現実世界へと送り込んだ。両者が別々の形でネットと現実を接続させ、物語はクライマックスを迎える…
正体を明かし、それまで触れることのなかった他者を知ったガッチャマンたちは、その時はじめてヒーローになった。はじめて守りたいものを思い浮かべ、傷つきながら戦い、己の無力さを痛感するヒーローの入り口に立ったのだ。それまでの彼らは、与えられた力で全貌の知れない「高度な秩序」に奉仕するだけの傀儡だったとも言えよう。だが、各々の意志で翼を広げて立ち上がった彼らは、従うべき規範を越え、ローカルな秩序を守ることに全力を尽くす。しかし、立川を防衛するという一見ローカルな戦いは、爾乃美家類によってGALAXを通したグローバルなゲームと直接接続された。そのことによって、ローカルはグローバルな舞台となり、グローバルな力がローカルに及ぶ。暴走するクラウズとの戦闘に、Gメンバーとゲームの参加者達は勝利する…皮肉にも、そしてある意味当たり前のことだが、これはベルク・カッツェが行ったことと表裏一体である。いや、同じことだと言ってもいいだろう。彼が先に仕掛けたのは、まさに類が提案したゲームであり、参加の動機付けだけが異なっていたに過ぎない。だからこそはじめは「正義ってなんなんスかね~」と戦いの後で口遊む。彼女は理解しているのだ。理解しているからこそ、ベルク・カッツェとの対話を試みる。
ネットだけでも、人智を越えた力だけでもダメなのだ。戦いを終え、ようやく彼らは入り口に立った。ゲーミフィケーションが世界を救ったようでいて、実は違う。GALAXは、単体では無色透明なツールでしかない。そこに参加する者達がどのような動機を持っているのかによって、はじめにもカッツェにも成り得る。目指すべきは秩序を根底から覆す変革ではなく、既にある秩序の漸進的な「アップデート」なのだ。
『ガッチャマンクラウズ』は「ヒーローは最早必要なく、世界は我々の手に委ねられている」なんて呑気な話ではない。少し長く引用するが、Rootport氏によれば
『ガッチャマンクラウズ』では、誰もがスーパーヒーローに準ずるような力を手にした。『キックアス』のように「ヒーローになれるわけがない」と笑い飛ばすのではなく、ほんとうにヒーローにしてしまう。これは現実世界のメタファーと見なせるだろう。ネットが一般化して20年あまり。私たちは実際に、英雄に準ずるような力を手に入れてしまった。
名も無き個人でも、世界に影響を与えられる。匿名のままでも、世界に向けて発信できる。
ということらしい…言いたいことが沢山ある。まず、Rootport氏が言及している映画版『キック・アス』は「ヒーローになれるわけがない」と笑い飛ばしてなんかいない。力(スーパーパワーや金)のない者が現実でヒーローになろうとした時にどれだけの代償を払うのかを冷酷に示して見せている作品だ。勿論、コメディ的要素も色濃く入っているが、本質的には「力がなければ正義をなさなくても良いのか?」という問いに否を突きつけようとして、血塗れになる物語である。そして、コミック版の『キック・アス』は映画版を超え、ヒーローをある種の病気として扱い、その行き着く悲惨さと哀しさを描いてみせた。どちらもアメリカ特有のヴィジランテ文化に立脚したヒーローを解体し尽くしても尚、何が残るのかを問うている…大いに話が逸れた。話を戻すが、私達は一般化したネットによって「英雄に準じるような力」を手に入れてなんかいない。決していない。手に入れているのなら、ガッチャマンたちは必要なかっただろう。お役目御免で、そもそも出てこない。人々は手に入れた「英雄に準じるような力」でさっさとカッツェを撃退してしまえばよかったのだ。だが、それはできなかった。代わりに見せつけられたのは、匿名のままでは、名も無き個人のままではダメだということ。匿名でない誰かがインセンティブを与え、ゲームの動機付けを行わなければ動かない現実だ。匿名の誰かによって動かされたゲームが暴走し、手が付けられなくなる様だ。これは何も特別なことがわかったわけではない。ただ、ネットというツールの「当たり前」を見せられただけなのだから。『ガッチャマンクラウズ』は、寧ろ我々が「英雄に準じるような力」を手に入れたわけではないと戒めるような作品だと思っていたのだが…Rootport氏は「世界をアップデートする」をただのキャッチーな標語かなにかとして受け取ったのだろうか?
Rootport氏は細かい点(その実重要な)について気にしないのか気づかないのか、とにかくざっくりした区分けで語る傾向がある。ヒーローの系譜を何故か『マトリックス』から始め、『X-MEN』『スパイダーマン』『V for Vendetta』『まおゆう』『キック・アス』『ダークナイト』『タイガー&バニー』『サイコパス』を辿っていく。日本なの?アメリカなの?どっちなんだ。アメコミの方は何故映画ばかりで原作に言及しないのか。日本のアニメに触れるなら、何故大元の『科学忍者隊ガッチャマン』含めたヒーローアニメの系譜に触れないのか。ライダーや戦隊には何故触れないのか。その辺りが謎である。特にローカルなヒーローモノに触れないのは、『ガッチャマンクラウズ』が描いてみせた「現代日本のヒーロー像」がそれまでのものとどのように違うのかを明らかにできない点で致命的だ。寧ろ『ガッチャマンクラウズ』が彼の言うような作品なのだとしたら、『東のエデン』にこそ触れて比較すべきではないのか?…このRootport氏が諸作品を引用した部分について言いたいことはまだまだ山ほどあるのだが、虚しくなってきたのでこの辺にしておく。
http://www.asahi.com/politics/update/0801/TKY201307310772.html
上記講演での麻生太郎氏の発言の一部が批判されている件について。
問題になった発言を以下に引用する。以下「例の発言」という。
「憲法は、ある日気づいたら、ワイマール憲法が変わって、ナチス憲法に変わっていたんですよ。だれも気づかないで変わった。あの手口学んだらどうかね。」
1.麻生氏が例の発言を含む講演をしたこと
2.例の発言が批判的にマスコミに採り上げられたこと
4.麻生発言が、外国のマスコミにも批判的に採り上げられたこと
批判
1.麻生氏は、国民が気づかないうちに憲法改正をすることを奨励しているから、問題である。
2.麻生氏は、残虐な行為をした政党であるナチスの手法を称揚しているから、問題である。
3.麻生氏は、国民が気づかないうちに憲法改正すべきという主張をしている、あるいは、ナチスの手法を称揚している、というような批判されるべき主張をしているものと捉えられかねないような発言をしたから、問題である。
4.麻生氏は、ナチスを肯定的文脈で引用したから、問題である。
5.麻生氏は、外国から強く非難されても仕方ないような発言をしたから、問題である。
批判1と2は、麻生氏の「真意」を問題にしている。しかし、麻生氏は批判1や2にあるような意図ではなく、誤解であったとしているため、これらの批判は的を射ていないことになる。このことは、たとえ批判者が「いや、あの文脈でああいう発言をしたということは批判1や2にあるような意図があったに違いない。」と主張しようが、「批判1や2にあるような意図があったとしか読めない。」と主張しようが変わらない。発言の「真意」は本人のみが決めることだからである。
批判3は、麻生氏の発言の「外観」を問題にしている。前記した、「批判1や2にあるような意図があったとしか読めない。」と主張する者は、批判3を行わなければならない。
そして、批判3を行う者は、例えば「例の発言をした麻生氏に政治家としての適格性はない」という主張をする際には、「なぜなら、政治家は発言を慎重に行うべきであって、あのような批判されるべき主張をしていると捉えられかねない発言を不用意にすることは政治家としてあってはならないからである。」などと続けなければならない。もしも、「なぜなら、あのような批判されるべき主張は憲法の意義・重要性やナチスのしたことへの無理解を露呈しているからである。」と続けるのならば、それは批判1や2にコミットしていることになり、論理矛盾を引き起こす。
批判4は、主にドイツのマスコミが行なっているものである。ナチスは、その政策内容の残虐性・人権侵害性だけでなく、政権掌握に至るまでのやり方も人権侵害を伴うものだった。そうしたナチスのやり方を肯定することは、それがいかなる文脈の中であっても、ジョークであっても、許されることはない、という前提に立つものである。
批判5は、例の発言の内容とは全く独立しているものである。どんな発言であれ、どんな文脈であれ、どんな真意であれ、それが「国際人権感覚」の観点からして批判されるようなものであれば、それ自体が批判されるべきである、というものである。この批判をするためには、「なぜ外国から批判されるような発言をすれば、それがたとえ誤解であろうとなんであろうと、批判されなければならないのか」という問に答えなければならない。
http://nabeteru.seesaa.net/article/370956778.html
上記URL先のブログでは、「ナチスの手口を学んで国民が知らない間に憲法を変えてしまうやり方に共感を覚えているのである。」として、批判1を行っている。その際、批判1を行うにあたって、例の発言を含む講演内容全体から、麻生氏の「真意」を推測している。そして、その推測に基づいて麻生氏の思想内容を断定し、その思想が問題である、と批判しているのである。
http://d.hatena.ne.jp/kamiyakenkyujo/20130803/1375502413
上記URL先のブログでは、「問題は、『ナチスは悪い中身の政治をしたけども、その方法論は見事だった。180度かわるような大転換をやってのけてしまったのだから』という認識を麻生が持っていることなのだ。」としている。これは、批判2である。批判2も的を射ていないことは既に述べた。
もっとも、このブログでは、「『ナチズムの中身はダメだが、手口は学ぶところがある』と麻生が思っていると解釈すれば」として、留保をつけている。
そして、この解釈自体は論理的に成り立ちうるものである(説得的かどうかは読者が決めることだが)。したがって、例の発言についてこういう解釈をすることは全く問題はないし、その解釈が正しいことを仮定した上で、発言を批判することは、正当なものである。
ただし、あくまで解釈である以上、麻生氏の政治家としての適格性を主張内容に基いて論難することは矛盾をきたす。麻生氏の主張内容(=真意)は、本人と神しか知らないのである。
麻生氏の批判者は、批判1,2をしないように気をつけなければならない。批判3〜5は十分に成り立つ。
いずれにせよ、重要なのは、発言がどうこうとか一政治家の適格性がどうこうとかいう話ではなく、「憲法とは何か/何のためにあるか」「憲法改正はどのように進めるべきか」というような面倒くさいが避けては通れない議題について、基本的人権の概念や権力分立原理等、近代憲法の立脚する根本原理に基づいた建設的な議論をしていくことである。政局論議に堕してはならないと思う。
映画「華麗なるギャツビー」の予告編を見る限りでは、これはあまり期待できない。語り手のキャラウェイは一貫して没個性的な、自分の語る物語に取り残されるような傍観者であらねばならない。そしてギャツビーは物憂げな翳りと張りつめたいかつさを同居させたなかに、静かに燃える焦燥を潜んだ物腰を帯びていなければならない。ギャツビーは上流階級出身ではないにも関わらず、さも上流階級の人間であるかのように振舞っている。しかし、彼がその一員になろうとしている高級住宅地の人間たちは、まるで無教養な労働階級のように即物的で低俗な世界に生きている。滅びかけた階級社会の皮肉な倒立は、前時代の制度に形式的な価値を見出そうとするギャツビーの営みの到達不可能性を暗示している。だが、彼の愛がまさに愛するはずもない女性を愛すること、その不可能性の上に立脚した愛だったことが、ギャツビーの寄る辺なき孤独を証している。「絶えず過去へ過去へと運び去られながらも、流れに逆らう舟のように、力の限り漕ぎ進んでゆく」悲愴感を映像で描写するには、ディカプリオの裏表のない溌剌とした生命感は屈託がなさすぎるし、マクガイアの器用な剽軽ぶりはギャツビーを傍観する者として余裕がありすぎる。だから期待ができないのだ。
ATOKやMS-IMEでは所謂差別語や不快な印象を与えるような単語は意図的に標準辞書から排除されているから、気違い、聾、唖、片輪みたいなのは変換できない。Googleのは平気ですらすら変換してくれるけどな。
ATOK監修委員会によると「この種の言葉を収録するか否かをめぐって、さまざまな角度から長期にわたり、検討した結果、社会のあるべき人権意識に立脚し、現時点では、原則として収録しない方針を採用」しているんだそうだ。
ま、だからといってJustSystemやMicrosoftに文句を言うつもりもないし、企業として問われるモラルや人権ゴロみたいな連中の相手することを考えたら、妥当な判断かなとも思う。
とはいえ、言葉ってその時代時代でどんどん用法や意味が変わっていくものなのに、そんなに目くじらたてて言葉狩りしたところでいくらも世の中がよくなるとは思えない。ましてやその根拠が「社会のあるべき人権意識」てなぼんやりしたもんでは尚更だ。
かつて聾や盲やちんばや土人みたいな言葉を日常で使っていたとき、僕にとってそれは単純に状態を表す言葉でしかなく、そこに侮蔑や差別の感情はなかった気がする。旧い映画や白黒アニメ見てもそんな言葉があふれているからきっと皆そうだったんだろう。もちろんネガティブなニュアンスは含んでいたけれど、それは昨今の排除主義によって却って増幅されてしまったのではないか。
今の時代のIMEに求められるのは、言葉を隠すのではなく、ちゃんと変換した上で不適切な言葉であることを警告し、なぜ使うべきでないのかを説明してくれるような機能だろう。(たぶんもうある)
もちろん被差別側の感覚として耐え難い表現もあるだろうし、そういった言葉の濫用を助長するようなことがあってはならんが、かな漢字変換はかな漢字変換以上の役割を担う必要はないと思う。世の中に存在する言葉を淡々と変換しとればええんだよ。
NGワードを使うのは書き手のモラルであって、ハサミや包丁同様、それで人が傷ついたとしても責められるのは製造者ではなく道具を使った奴だろ。
てな主張を今更僕みたいな虫けらがせんでも、賢い人達がさんざん議論している話題でしょうから、鬼畜な僕は今日もGoogle日本語変換使って精一杯悪態を吐く所存です。白痴なので。
藤原正彦。
内田樹。
ここ数年くらい「とりあえず一躍脚光を浴びた」感のある人間を見てきたけど、
この3人だけは「なんだかなあ」という感じでいつも見ていた。
一躍脚光を浴びたけど、いつの間にかフェードアウトしてった藤原先生と内田先生。
そして、なんか読者の失笑を一身に浴びつつ、フェードアウトしつつあるイケハヤ師。
本についてはもう色んなところから突っ込みを受けた挙句、気付いたら保守の論客みたいな感じで持ちあげられたのはいいけど、
あの人今どうしてんだろうみたいな感じの人。
品格本以降、全ての段落に突っ込みどころを搭載したクラスター爆弾を投下してくれていた。
たぶん割と高位の老害。
内田樹。代表作はたぶん「ハシズムを許すな」だと思われる。自称思想家兼武道家の本業翻訳家兼実業家。チラシの人や精神科医のお友達。
橋下選挙のときにちょこっと出てきて喧嘩を売ってきたけど土俵に出てこないままフェードアウトした感がある元大学教授。
やまもといちろう曰く、「専門から外れた物事でゴミすぎる論説をしては物笑いの種にされる」
池田信夫曰く、「彼の頭が悪いのはしょうがないが、せめて知らないことには口を出さないほうがいい」
深沢明人曰く、「現実に立脚した話ではなく、何か気の利いたこと、一風変わったことを口にして、商品にしてやろうというだけ」
そして我等がイケハヤ師である。
最早説明不要な感じになってきてるが、最近の尊師のエントリーがびっくりするほど酷い。
嫌われれば嫌われるほど、一流の人たちに囲まれるようになる - ihayato.書店 | ihayato.書店
アンチのみなさん、今日もせっせとありがとうございます - ihayato.書店 | ihayato.書店
どのくらい酷いかというと、顔を真っ赤にしながら自転車操業やってんだけど肝心の自転車は1ナノも進んでいない。
そんな感じである。
とりあえずこの2つのエントリーの間のブクマ数を調べてみた。(2月25日時点)
アンチのみなさん、今日もせっせとありがとうございます - ihayato.書店 | ihayato.書店 182
安易な謝罪がモンスター消費者を助長させる - ihayato.書店 | ihayato.書店 5
(本)村上隆「芸術闘争論」 - ihayato.書店 | ihayato.書店 1
「一流の人は、みんな異常」—デザイナー・山本寛斎名言まとめ - ihayato.書店 | ihayato.書店 41
嫌われれば嫌われるほど、一流の人たちに囲まれるようになる - ihayato.書店 | ihayato.書店 123
もうめんどいので調べるのをやめますが、炎上系エントリーを挟んだエントリーがあんまりブックマークを稼げていない。
というか、炎上系エントリーと、それ以外のエントリーの落差が酷すぎる。
「プロブロガー」なのに大丈夫なんだろうか。本来このあたりのエントリーでPVなりアフィ収入なり稼がないといけない筈なのに。
これで月収なのか売上なのかよく分からないけど月間52万(以上)稼ごうというのだろうか。
やまもといちろうとのブログでのやりとりのほうが圧倒的に面白かったし、
現在進行形でイケハヤ師の株価がどんどん下落、というか暴落していっているので、
対談をやる頃にはもうイケハヤ師自身が賞味期限切れになってフェードアウトしている可能性大である。
フェードアウトしていった2名と、これからフェードアウトしていくであろうイケハヤ師、
この一連のサイクル、特に3において主張されるものが過激であればあるほど、炎上すればするほど、有名になる。
一部の人間に尻尾を振りまいている内容ならなおよい。(保守、反TPP、脱原発、脱貨幣経済など)
しかし毎回違った燃料が投下され続けなければ周りからは飽きられてしまう。
なおかつ1(専門知識がないこと)が露見しないように注意しなければならない。簡単なように見えて実は結構難しい事なのだ。
FUJIWARA先生と、内田先生は、専門知識がないことが露呈してしまったために、フェードアウトしてしまった。
今、イケハヤ尊師も、周りの失笑を買いながら、専門知識が皆無なことを露呈している。
彼らの言論に共通しているのは、「賛否両論ではなく、ただの間違い探しである」ことだ。
間違い探しになりはじめたら、もう終わりだと思う。
高木浩光さんへ、しっかりしてください
結構malaが批判されてる。ちょっと前まではmalaを批判しようものなら取り巻き共から総バッシングされてたのに、はてなもだいぶ空気変わったよね。
なんでmalaが嫌われ始めたのかと言えばやっぱり他人に対する小汚い口調なんじゃないかなと。
言ってることは確かに正論だし、技術的に圧倒的に正しい所に立脚した見地からの提言が多いのは自他ともに認める所だろうけど、だからと言って他人を汚い言葉で罵るが許されるのか。つーかむしろそういうのを「ロック☆」みたいに持ち上げる青臭く馬鹿げた空気がはてな界隈に蔓延してるのが極めて残念。
いくら相手が技術的に間違っていようとも、自分とは考え方の方向性が違おうとも、「カス」だの「ゴミ」だの「クソ」だのと罵る意味なんてあんの?それで誰か得すんの?
そういうのって当然言われた方は傷つくだろうし、見てる第三者も気分悪いし、そして何より言ってる本人も後々傷つくんだよ。「あいつって昔口汚く罵ってたよな」ってずっと言われ続けるんだよ。いくら改心しても、大人になって丸くなっても、昔犯した過ちを引きずらざるをえないのがネットの特性でしょ?そういうことまで考えた方がいいよ。ネットで他人と関わるんなら最低限のマナーとか礼節をわきまえなよって。
malaやひろみちゅはセキュリティに配慮しない奴を忌み嫌う。
それと同じぐらいマナーを知らずに20歳超えてネットで罵言まき散らす奴を俺は疎ましく思うよ。
それとも自動で語尾に「クソが」と付け加えちゃう高機能なIMEでも使ってるの?
とにかくさ、汚い言葉に何の意味も無いよ。自分も相手も損するだけじゃん。
俺が知る限り小汚い言葉で誰も損しないのはSMぐらいだよ。汚ければ汚い言葉ほど双方が得をする。
「この白豚が!汚いケツだしな!」←な、最高だろ?おしまい。
父親を慕って何が悪いんだ
説明出来るもんなら説明してみろバーカ
でさぁ、オチは「名前の由来が『春のような優しさ』であることを思い出して覚醒」ってのもねぇ…
結局過去にすがっちゃうんですか、そうですか
説明出来るもんなら説明してみろバーカ
唐突に思い出して「ごめんね…すぐに思い出せなくて…」って、そうじゃねえだろ、自立しろよ
父との思い出という枠から一歩も抜け出ないで何が成長だよ、ふざけんな
お前の考えてる自立って具体的に何のことだよ
説明出来るもんなら説明してみろバーカ
お前の考えてる自己って具体的に(略)
お前の考えてる本人の決意って具(略)
説明出来るもんなら説明してみろバーカ
あとさぁ、人格形成に幼少期の体験が大いに影響があるといっても、生後5年で人生が決まってしまうというはあまりに救いがないんじゃないか
誰がそんなこと言ってんだ
説明出来るもんなら説明してみろバーカ
やよいより難易度が上がって別のところから立脚してかないといけないだけだね
明日のナージャでも見てろバーカ
俺はなんていうか、
誰かに吹き込まれた「自己」とか「自立」とかいううすっぺらい概念を得意満面で唱えるカスが大ッ嫌い
中学生ぐらいまでならそれでもいいけど
どーせもっと老けてるとっちゃん坊やなんだろ?
『道徳の理由』という本(かなりの古書だ!)を再読したのでちょろっと。
※私はethicsに関しては全くの素人であり、ロールズの正義論でなり、ミルの功利主義なりもまともに読んでいない。
倫理というのはヴィトゲンシュタイン的に言えば一つの言語ゲーム。すなわち、そこに所属している成員に対して要請される規則といえる。もっというと、その社会に所属している成員に対し、「私」が期待するルール。
すると、倫理を私に適用する理由はないように見える。その通り、「ない」とするのが私の見方だ。つまり、倫理とていうのは、あくまで、「オレ」から「オマエ」に発信される言語でしかない。
Why be moral? という語は本質的に why should I be moral?と Why should you be moral? に分別される。後者の方が本質的であるとみるのだ。
しかしながら、倫理には自分自身も縛られる。本来的には「私が道徳を守らねばならない」理由は何も無い。
ただし、この規則は両刃の剣であって、倫理はこの概念が、その社会に所属する全員に適用される時のみ、「倫理」と呼ばれる。つまり、倫理は社会の所属員全員からなる相互監視システムである。
この考えとしては、倫理っつーもんは、村の掟となんら変わるところが無いわけだ。
補足すると、社会は多層的であるから、メンバA,B,Cが社会Xを形成し、同時に同じメンバが社会Zを形成している、ということは用意に想起しうる。人は一枚岩の思考で動いていない。
例えば、クラスの全員が、いじめは慎むべき行動だ、と考えている。(社会成員Xのメンバ)。しかし、同時に、クラスのリーダーであるAに対して不快な行動をとった者に対し、いじめを行うことは推奨される、と考えている。(社会成員Zのメンバ)
話を戻す。この相互監視システムは、相互監視であるから、単体では監視機能は働かない(とひとまず考えることにする。まず主体をyouにおくのだ!)つまり、密室状況において倫理を構成する要素は何も無い。
これは幾分思考実験的な状況だ。現実的な意味で密室などこの世に存在し得ないといえる。猫箱の中で倫理は問えない。しかし、実質的な猫箱なんて社会にはなかなか存在しないのだ。
まぁ、例えばあなたと一人を除いて他の観測者がいない世界で、どうやって第三者があなたを監視するのだ、という問題である。誰も監視できないじゃないか。このような環境下では、そもそも倫理という語が成立しない、というのが原語ゲーム的な倫理観です。(実際には、このような環境化でも倫理は存在しうる。例えば一人で行う行為に対する倫理の第二者からの倫理的判断や、意識の無い第二者に対して行う第一者に対する第二者の遡及的倫理判断など。例えば、地球の存在者一号たるあなたが存在者二号が気絶している間にアッー!をアッー!して、意識がある第二者が何らかの要因でそのことに気づくなど。尻が痛いとか。)
更に問題をややこしくするのが、相互監視システムによって監視されていることは、人間は自分ではなかなか感知できないことにある。知能の高い社会の成員はこの言語ゲームによる制裁を受けないように、証拠の残る反倫理的行動は取らないように務めるが、知能の低い成員はそうではない。また、どこからその制裁の追求が来るかわからないから、人はうかつな行動が取れない。
さらにさらに、言語ゲームでよく言われる話だが、人は一人でも社会を形成する。人は自分と対話することができるが、これは自分のうちに一つの社会を形成しているに等しい。ここでも言語ゲームによる制裁は成立する。これが自分を倫理的に行動せしめる要因の一つだと思う。人は一貫した規則性に基づいて行動するような文化的特性を獲得しており(そりゃ獲得してない人もいるだろうが)、その中には動物的本能から立脚すると思われる特定の行動を含む、ある種の言語ゲームが存在するのだ。これがWhy shoud I be moralに対する根源的回答になるのではないかと思う。
つまり、人が倫理的に、道義的に何かせねばならないと判断をする時、そこには価値判断が伴っている。その価値判断は、本能的形質的文化的なさまざまな要因から定められた判断を取るのだが、それにいいもわるいもないということになる。だって、判断してんの本人だもの。勿論、第三者が介入していい、とか、わるい、とか論じることはできるが、そいつは俺らの言語ゲームであって、彼の言語ゲームではないのである。
逆説的に、自分で自分の行為が道徳的に正しいかどうかを判断しているというのは、極めて社会的なアクションだと言える。そういうわけでは、監視者としての神の存在というのは、実に都合のいい概念なのかもしれないね。
倫理が善概念と結びつくことが多いのは、この種の言語ゲームがひとつのロールモデルを通じて語られることが多いからではないかと思う。
例えば、ギャングの掟なるものを考えてみる。これは、ギャングが他のギャングにあってそうあって欲しい姿であり、かつ、ある程度自分がそうありたいと望む姿になるだろう。これは、ひとつの共同幻想であるとも言える。
さてさて、このような言語ゲームによる倫理の規定は、多くの倫理的問題をすっ飛ばしてきているようだが、少なくとも功利主義的倫理論よりはうまく倫理の現実のありようを捉えているような気もするが、なにぶん門外漢なので、功利主義的説明で説明でき、言語ゲーム的説明では説明できない、本質的な倫理的判断に関する問題があったらご指摘願いたい。まる。
※書いてからコンマ1秒考えたけど、結局これはアプローチの仕方の問題であって、何が正義であるか、何が道徳的であるかということに関しては「なんでもいいんだけどさ」で逃げてるなぁ。だから、「なぜ道徳的であらねばならないか」はぼんやりと答えているけど、「道徳的であるとは(ソクラテス的な意味を前提した上で)なんであるか」ということに対しては、回答を拒否している。それこそ言語ゲームによるよね、と。イワシを祭ろうが隣人を石でぶとうがしったこっちゃねーや、という考えだ。そして、列車急停止のジレンマに対してこんなとんでもない回答を出すのだ。「おい、目の前の人間の顔色伺えよ。どっち答えて欲しそうなんだよ。そっちって言っとけ。」
日本語で何を言っても理解されないから結果として悪印象をもたれることはないぞ。
ある程度言葉が通じて場にそぐわないことを言ったとしても
「言葉を完全には習得できていないから仕方がない」と免罪されるぞ。
相手の発言の裏を読むことも求められないぞ。
態度や行動の真意を察知することは求められるかもしれないが、
(少なくともイエスかノーかがはっきりわかる程度には)真意を悟るのは割合容易だ。
相手がいかに悪意ある発言を向けてきても、理解できないから不愉快になることも傷つくこともないぞ。
態度や行動で察知できることもあるかもしれないが、
それが言葉によらず信号から相手の感情を読み取る訓練になるぞ。
「こういう表情や仕草をしているときは、口で何と言っていようと、結果はノーなんだ」という経験則を積み重ねることができるぞ。
ましてや、「結果がイエスのときには、人はこういう表情や仕草をするのだ」という経験則だって況やをや。
なるべく「風貌で外国人と悟られない」近隣アジアに行くのが良い。
人間は言葉を身につけることによって意思の伝達を可能にし生活の質を飛躍的に向上させたが、
必ずしも幸せな結果のみをもたらすわけではなかった。
知らなくていいこと、伝えなくていいことも世の中にはたくさんある。
英語が完全に世界共通語として全人類に普及するようになったら、
意思が通じるゆえの余計な争いも発生するだろう。