はてなキーワード: 無意識とは
知らぬ間に毎日通勤に使っている地元駅からTSUTAYAが消えていた。
徐々に店舗の縮小傾向にあったが消えていたのは少しショックだった。
消えたことに気づいていなかったということがショックだった。
そうだよねえ。
コロナ禍がはじまってから意識的にも無意識的にも余計な出歩きをすることがなくなっているんだよね。
目的もなく駅周辺をぶらっとするなんてことも随分と長い間していなかったのだ。
そんなふうだからこそ潰れていく店も多いのだろうねえ。
親ガチャっていうけど、実質的には家庭環境ガチャって言ったほうが正しいんじゃね?
家族関係は円満? 大人が大人として機能してる? 裕福? 貧乏? 都会? 田舎?
基本的には貧富の差より家族関係がうまくいっていることや大人が子供に役割を押し付けてないことのほうが家庭環境ガチャにおいては当たり。
よくうちは貧乏だったけど新聞配達して勉強頑張って今では年収いくらだぜ~! みたいな奴が湧くけど稼いだ金を搾取する大人や子供の意欲を無意識にでも削ぐ大人が周囲にいなかった時点でそれは裕福でも未熟な大人に囲まれているより当たりなんじゃないか?
まあそれでもやっぱり同じ親なら金が無いよりはある家庭のほうが当然当たりだと思うよ。
明日食事ができるかどうかみたいな家は論外だけど、(子供だけの)部屋とか小遣い(自由になる金)は子どもにはかなりの逃げ場になるから。
現実には裕福な家庭ほど心に余裕があるから家庭も円満になりやすい傾向があって、単純な経済力以上に自己肯定感も得られるから本人もいろんなことに挑戦できるっていうポジティブループもあると思ってる。
逆にあんまりカネもなくて大人が大人としての役目を放棄してるような家だと連綿と続くネガティブループから抜け出すのは大変って話だ。
https://twitter.com/sumomodane/status/1438690764259684352
すもも氏によると、女性に生まれると人生が約束されるので有利らしい。
それって女性だったら誰でも当てはまるわけではないよね。
美人とブスの格差から見て明らかなように、有利なのは一定レベル以上の容貌に恵まれた一部の女性だけである。
すもも氏に限らず、弱者男性論が想定している「女性」とは美人な女性だけが「女性」であり、ブスな女は「女性」のカテゴリーから無意識のうちに排除しているのではないか。
このように書くと「ブスな女なんて少ない」と批判されるが、それってブスな女は社会に出てこないから皆の視界に入ってこないだけでしょ。
自分は男性で異性愛者とされているけれど、男性を決して愛せないかと言われたら、そんなことはない気がしています。
これまで人生で強烈に憧れた男性や、(友人として)好きでたまらない男性はいました。彼らへの愛が恋愛ではなかったか、恋愛として成立しなかったか、あるいは進行しえなかったかと言われると、自信をもって違うとは答えられません。
自分が異性愛者なのは、まず生物的に男女の間でしか子作りができないというのがあって、その上に社会的な多数派というのがあって、無意識に男女片方を選ぶなら女性、というのがデフォルト化してるだけのような気もします。他の異性愛者もだいたいそうだと思っています。
とりあえず異性愛者であると仮に置いておいて、それに違和感のない間は異性愛者、あれ?自分はなんか違うなって思ったら同性愛者かもって初めて考える。みたいな。
でもそのなんか違うなってのは人を好きになってみないとわからなくないですか?
仮に、
として、
というのが合わさると、自然と人は異性愛者になると思うんです。同性愛は自認しづらく、異性愛はそれが恋愛だと認識しやすいという点において。
でも結局誰を好きになったかじゃないんですか?
異性愛者だって異性なら誰でも好きになるわけじゃないし、同性愛者も同性ならだれでも愛するわけじゃない。
じゃあ相手が異性か同性かじゃなくて、特定の誰々愛者だという話に過ぎないのでは?
じゃあたまたま歳上を好きになった人は歳上愛者と呼ばれるのでしょうか。なんかそういう違和感をいだきます。
男色に夢中だった過去の偉人だって普通に妻がいますよね。どっちも愛せるというのがそう珍しいことじゃなかったのではないかと思うんです。
で、トランスジェンダー。これが最もわかりません。トランスジェンダーの定義ってなんですか?性愛対象の話とは切り離されているので、自分が男だ女だってのはそれ以外の何かで認識するんですよね。
でもそれって具体的に何で認識するんですか?
自分は男性ですが、自ら自分を男だと確信したことなんてありません。
いやお前は身体は男でも心は女だよ、女々しいから。とか適当なこと言われたら、そうかな、肯定も否定もできないな、としか言えない気がします。
基本的には女性を愛しますが、それって関係ない話ですからね。トランスジェンダー・レズビアンかもしれないので。お前の恋愛対象は異性だからトランスジェンダーじゃないだろっていう反論は成立しえません。
で、男性である私が心まで男性であると強く確信することができないのに、トランスジェンダーの方は自分の心の性別というのをどうして強く確信することができているのか、何の根拠を得ることでそう思えるに至ったのか不思議でなりません。
記事とか体験談を読むとたとえばトランスジェンダー女性なら「ピンクが好きだった」とか「スカートが履きたかった」とかで自認に至る人が多いようなのですが、それこそ不思議なのです。それが「ピンクを好きなだけの男性」「スカートを履きたいだけの男性」とどう違うのかをこそ教えて欲しいのです。
服装というのは文化の産物に他ならないと思います。スカートが男性の衣装である国だって実際あります。ピンクが男性の象徴に当てはめられる文化だって(実際あるかは知りませんが)あっておかしくないでしょう。
そういう国では彼らはどうなるのでしょう。その国では逆に「男性の衣装であるスカートに違和感があり、だから、自分は女性だ」という風になるのでしょうか。
異性装という言葉があります。異性装を好む人はトランスジェンダーとは限りません。要するに服装の話もやはり心の性別の話とは切り離されているということです。
それならば結局、心の性別とは何なのですか?煽りじゃなくて教えてほしいのです。
自分はあくまで今のところですが、心に性別はないと思っています。そして、誰もが誰もを好きになりうると思っています。だからLGBTがよくわかりません。LもGもBもTもよくわかりません。どれも普通の人間で私と何一つ違うところはないと思っています。
はてな匿名ダイアリーに5年ぶりにログインした。
これで投稿するのは3度目だ。
2012年、2016年に1度ずつ投稿していたみたいでその時も今と同じように、誰にも話せない悩みだけど誰かに話したい状態だったのだと思う。
別に相談内容を直接言わなくてもいい。ただ、悩んでいて辛いという事実を誰かに知ってもらいたい。なんなら「オレも今辛いよ」とコメントしてもらいたいのかもしれない。
昔からそうだけど、親しい人に心配をかけたくないからか本当に悩んでいる時は一人になって一人で乗り切るタイプだ。特に用事がなくても外に出て一人喫茶店でため息をつきながらコーヒーとタバコで心を落ち着かせる。夜は悩み事を忘れるために携帯の電源を切って飲みに行く。3件目にもなれば頭がぼやけて後は帰って寝れば朝までは何も考えずに過ごせる。
社会人になった当初は順調だった。他のやつより優秀だという自信もあったし、実際に多少なりとも仕事はできる方だったと思う。
誰かと喧嘩したり、いじめられたり、嫌われたりするわけじゃない。むしり良い人だと思われているだろうし、無意識に良い人を演じてしまうクセがあって、何かミスが起こると途端に鬱みたいな状態になる。誰とも話したくなくなってしまう。
数日間家から出ず、誰からの連絡も反応せず、ただ暗い部屋にひきこもってどうしようか迷う。
連絡を返さなければ事態が悪化するとわかっているのに、体が動かない。
よくいじめられている子が玄関まで行くけど学校に行くのが怖くてドアを開けられないとかドラマでやってるのを見たけど、そういうのは本当にあるんだなと大人になってから気付かされた。
対人関係が上手くいかないから、次第に自分から距離を置き始めたのは数年前。精神的に嫌なことがあると塞いでしまって、その後に謝るのも嫌になってきて、それならもう最初から誰とも絡まない生活にしようと決めた。
複数人の飲み会にはもう何年も参加していないし、サシでの飲み会も年に数えるほど。コロナが広まって世間から会食やら飲み会が消えてむしろ嬉しかったりもした。
仕事をし始めた当時は立食パーティーなんかで一晩に何十人とも名刺を交換して話してたのが今では信じられない。数年前に最後にカンファレンスに出席してその後のパーティーではあまりの辛さに5分程度で外に一人で飲みに行ってしまったほどだ。
いつからこんな変なやつになってしまったのか。小中高はいつも周りに金魚のフンと呼ばれる奴らが居て、自分が右に行くといえば皆ついてくるようなキャラだった。今じゃ自分からコミュニケーションを取ることを避け、すぐにふさぎ込んでしまう。
鬱なのか何なのか、一度病院で診てもらったら楽になるのかよくわからないけど、こういう人は世の中に結構いるものなのだろうか。
この文章を書いている間にもミスをした仕事についてのメールの通知がなっているけど、新しいタブを開こうとすると胃がキリキリして手が進まない。
これは普通なのか、それとも皆はすぐに開いて対応することが出来るのか。
開いて返信をしないといけないのはわかっている。今更どうしようもないので、誤って補填するしかないのもわかっている。けど、体が動かない。
そうこうしているうちに事態は悪化していくのだけど、頭ではどうにかしないといけないとわかってはいるのだけど。
でもこうやって文章にして今の自分を書いていると何故か少し楽になる自分がいる。
冒頭で言った通り誰かに話せてるような気分になるからなのか、自分を客観的に見れるからなのかはわからない。
ただひたすら文章を打ってると段々と少しずつ楽になる。
ここまで読んでくれてありがとう。
次の1行を書いて締めたらメールを開こうと徐々に心の準備ができてくる。
そんなのどうってことないだろ、と思う人も居るだろうけど今の自分には何よりも辛い。なんでこんなことが辛いのかもわからないのがまた辛いんだけど、どうしようもできない。
うん、とりあえず開いてみよう。
うん、がんばろう。
警戒ヨシ!
初歩的な部分から事故を減らしていくのが大事で、むしろ自分が気が利いてるなと思ったことが後々誰かの無意識故の油断へと結びついて大事故につながることもございます
オーイッツァロングロングワーイッス Sarah Vaughan/September song ( Oh, it's a long, long while From May to December, )
毎回毎回気の利いた言葉を考えようとは思うのですけれど、そういうのを考えること自体が気が利いてないなぁと思うばかりです。
とはいえ現場はそういう初歩的な部分から事故を減らしていくのが大事で、むしろ自分が気が利いてるなと思ったことが後々誰かの無意識故の油断へと結びついて大事故につながることもございますので
気を利かせて静かに修正するのではなく、気を付けて一つ一つ仰々しく警戒していくぐらいの方が集団にとってはいいのかもしれません。適当です。
警戒よいか!警戒ヨシ!
yas-mal
安倍氏の「民主党の、あれ民主党じゃなくて今、立憲民主党ですね。
ヤバい。
何故ヤバいのかって、
記者会見では「令和時代の中間層復活」をうたっていますが、かつての民主党は「分厚い中間層」という表現を使っていました。
岸田: それはね、民主党がパクったんです。我々、宏池会が昭和30~40年代、それを一生懸命言っていました。最近、民主党からそういう声が出てくるから、我々宏池会としては複雑な思いで見ておりました。ぜひ、歴史を見てください。昭和30~40年代に、分厚い中間層、まさに池田内閣の所得倍増論...。我々宏池会が一生懸命訴えていたワードであります。
Q.ここで記者と岸田が言ってる、
「『分厚い中間層』という表現を使っていた民主党」「宏池会から表現をパクった民主党」とは次のうちどれのことでしょうか?
2.玉木さんとこの国民民主党
正解は3です。
まずこれ、多少の政治厨なら答えられて当然なんですよね。
だって「『厚い中間層』『豊かな中間層』って野党に転落したあと海江田さんが代表の頃に結構言ってたスローガンじゃん。
当方別に政治厨でもなし民主党支持者でもないけどこれぐらいなんとなく覚えてました。
yas-mal国士なんかしょっちゅう政治のブコメしてるし野党支持者なんですよね?
それでこれピンと思い出せないのなんなの?
単純にすげー記憶力悪いか、これぐらいの党の大方針のスローガンすらそもそも認識してなかったってコト?
この人こんなザマでなんの為に政治厨やってるんだろう…
ともかく
の答えとしては
「正式名称が「民主党」である政党(1998年から2016年まで存在してたやつ)の話をしてるから「民主党」と言ってるんだよ」
です。
アホか。
そんでここから本番なんですが
もしくは記憶力が悪くて思い出せなかったのを許すとしても、
健常な普通の知能の人なら「記者と岸田が言ってる民主党はあっちのほうの民主党だな」ってわかるんですよ。
って言ってるんだもの。
岸田も記者の「かつての民主党」の話を受けて昭和30年からのスパンが長すぎる宏池会昔話で応じており
「ああ現存する枝野さんとこや玉木さんとことは別の政党の話をしてるな」ってわかるんですよ。
無理に行間まで読めば現枝野家玉木家もにらんで話してる部分はある!とか言えるでしょうが
それだって「宏池会をパクった民主党」の話から連続する文脈であって
枝野や玉木のとこをわざと間違えた党名で呼んで侮辱しているなんてことは岸田の言にも記者の言にもどこにも読み取れないんです。
yas-mal
安倍氏の「民主党の、あれ民主党じゃなくて今、立憲民主党ですね。
つまりこれは、
問題文を平易に読解する事すら出来ない低能の分際で他人様には何の躊躇もなくオッカムブレード振り回す癖のある人が、
岸田のミスですらない自分の読解ミスを「岸田の悪意である」という風に読み取って大声で吠えて、
同じレベルの〇〇がよくわかんねーまま☆をつけたという、
「どういうつもりで」じゃあねーんですよ。
更に、万が一にもバカが混乱して読み違えるといけないって
記事の冒頭に記者がはっきりと内容の要約を書いてるんですよ。引用します。
かつての民主党は「分厚い中間層」を主張していたが、岸田氏によると、このフレーズは「民主党がパクッたんです」。
自らが率いる宏池会(岸田派)が昭和30~40年代に「一生懸命訴えていたワード」で、
旧民主党のアピールを「我々宏池会としては複雑な思いで見ていた」と明かした。(聞き手・構成:J-CASTニュース編集部 工藤博司)
ね?ヤベーでしょ? どの民主党の話かはくどいほど明記されてんの。
国士達はこのようなバカ向けの混乱防止策のフレンドリー要約も読み飛ばしてるか、読んでも意味がよく分からなくて、
結果として記事タイトルや文中に出てくる「民主党」を取り違えてるわけ。
A.どういうつもりもクソもかつて(2016年まで)あった民主党って政党の正式な党名が民主党ですが、その質問こそなんですか?
普通の人から見たらなんだその質問?どういうつもりで言ってんの?ですよね。
たぶん目は文字の上を通ってても殆どの部分の意味が読み取れてないというか脳の中で像を結んでない。
そして部分的に切り取った因縁つけポイントですら盛大に誤読している。
部分すら読めないなら何なら読めるんだよ。
今回たまたまそれを「岸田の悪意の当て擦り」と勘違いしてブコメという形で外に出したから誤読が外部からも気付けるんだけど。
おそらくこの何十倍何百倍ものアウトプットされない誤読や混乱や頓珍漢な憤りが国士達の脳内を駆け巡ってるでしょ。
それは本当に誇張とか揶揄とか抜きになにかの脳の症状に見えるんですけど。純粋な善意で適切な科の受診をお勧めするやつ。
政権批判や与党政治家監視自体は結構なことなんだけど、こんなレベルのこういうの、
岸田とJCAST記者の政策に関する会話程度も難しくって読めないから迂回して、
なんとか読める部分すらタイトル以外の本文はぼわぼわーッと読んで、
「岸田が意地悪な当てこすりで民主党って言ってる!」という突入口を見出して、
テメエの国語の点数が0点なだけでした、
こういう感じの活動、これ誰の役に立ってるの?
ビジネスになってる人を除けば
・知能はまとも若しくは人より高いけど人生に辛いことがあって人格が歪んでいる人
・標準よりかなり頭の動きがまずくて、相手してもらえる&一体感持てる場所がネットの党派性だけの人
みたいに分類できると思うんですよね。ざっくりね。
そしてJCASTニュース程度の記事でここまで壊滅的に本文読めないタイプの人達って言うのはウヨであれサヨであれ後者で、
あるレベル以上の学業や仕事や生活においてきっと適応しにくい生きづらさを感じる場面多かろうと思うんです。
そういう生きづらさや適応の出来なさの代償行為としてネット上の左派風のtweetやブコメやってるってことない?
ただそれでもあなた達のやってることは左派ですらないんですよ。
だってそもそも左派って右派よりずーーっと頭いい人達じゃないとできないものだから。
ネットニュースの記事すら読めない人達は左派活動にも絶対支障出る。
5ページのネットニュースの日本語も読めない人が左派っぽい自意識でネット政治活動したって
反レイシズムと言いながら隣国のナショナリズムに阿ったただの隣国視点の国士様になったりするわけでしょう。
そういうの一体誰の役に立ってる?
別に左派とかはてなリベラル的な人の全部がゴミだと言ってるわけじゃなくて、
はてなの中でも上の分類でいう前者、つまり知能は標準以上だけど人格異常によって政治厨やってる人のうちの左側であるところのはてなリベラル、
こういう人達は少なくともちゃんと政策について意味のあるツッコミも出来るだろうし、
これ前者も後者も「同じ左派」みたいになんとなく一緒くたにされてるけど性質も機能も意義もまったく別種の生物ですよ。
まあ前者は凄い少ないんだけど。何人かはいます。10人はいるかどうか。
(本来左派というものは人に抜きんでて頭いい人しかなれないんだから希少なのは当たり前です。)
ともかくウヨであれサヨであれ、
後者タイプの人が世のため人のため自分の人生のためにやるべきことは
当人の為にもっといい場所やいいミッションがあるんじゃないのという気がします。
le_cinema
【はてなで晒上げが規制されない理由】PVが稼げるから。晒上げや個人PFに誹謗を書き込んでいるのはいつも決まった古参ジジババID。彼らは炎上着火マン(PV稼ぎ)としてはてなにとって便利なので放置【結果】はてブ過疎化
2021/09/13
これを晒し上げというならはてなブックマークとかいうサービス自体が晒し上げ誹謗サービスちゃうんか。
かつてかっこいいサービスだったはてブがいま完全に斜陽になってるの、目立つ利用者が「普通よりかなり頭いいエンジニア」から「めっちゃ頭悪くてネットニュースすらまともに読めないけど党派性頼みで吠えたける政治厨」に入れ替わっちゃったからじゃないっすかね。
忌憚のない意見ってやつッス。
是非トラバでもダイアリーでもnoteでも使って3000文字くらいでまとめてくりゃんせ。
ちゃんと反論出来る人を決して悪くは扱わないから安心して。さあ。
yas-mal インタビューワーの最後の一文見落としてたわ。めんごめんご。枝野氏の本の話からの流れだけだと思っとった。
2021/09/13
国士が見落としたと主張する「最後の一文」とは一体なんなのかってことです。
記者と岸田のやりとり全体がかつてあった民主党の話を指してるっちゅう話だし
かつての民主党は「分厚い中間層」を主張していたが、岸田氏によると、このフレーズは「民主党がパクッたんです」。
自らが率いる宏池会(岸田派)が昭和30~40年代に「一生懸命訴えていたワード」で、
旧民主党のアピールを「我々宏池会としては複雑な思いで見ていた」と明かした。(聞き手・構成:J-CASTニュース編集部 工藤博司)
というわかりやすーい要約は冒頭です。
なんとか軽い感じで流そうとしてるこの釈明がもう
問題の誤読とも重ね重ね指摘されてることとも全然噛み合ってないでしょ?
国士のことわかってなくてかつ読解力健常な人ほど逆にこの異常を理解するのが遅れがちで、この増田読んでも「明らかな誤読だけどたまたまのケアレスミスでしょ…」「そこまで言ったらいじめやん···」みたいに受け止めがちかもしれないけど、全然そういうんじゃないんですよ。国士のこういうの何回か注意深く見てるとわかる。
本文読めてないし、誤読だぞとネッチリ突っ込まれてガイドされたうえでも本文読めないし、何言われてるのかもボヤーーーッとしかわかってない。横着やケアレスではなくたぶんほんとにどうやっても読めない。
能力の問題ではなくケアレスミスですという方向で流そうとしてまた普通の人からすると「???」な言い訳をしている。
別に揶揄とかじゃなくて本当に何かあるぞと言ってるのはこれです。
国士たぶんリアルでもこういう困難に何度も直面して冷や汗かきながら言い訳して誤魔化せたり誤魔化せなかったりしてるでしょ。
ネットでやってるのが政治厨なのも、党派性の中に入りこめば話の噛み合わん変なこと言っちゃっても異常に気付かれにくい(知能健常人格異常者と区別がつきにくい)からで、居心地いいとこ探っていってそうなってる可能性がある。
そういう国士タイプの左派もどきの人が相当数いて、アリの真似してるけどアリと別種の虫みたいな感じ。
原因は誤読と党派性にあるとはいえ低能だの治療が必要ってさすがに批判を通り越してイジメじゃないの?そら晒し上げで嗤うのがインターネット仕草だけどさ。これはあまりいい気分はしない。
2021/09/13 リンク
前は自分も党派性が先にあって変なこというんだと思ってましたし、たぶんそういうタイプの政治厨(文中で分類した「知能人並み以上人格異常タイプ」)は実在します。
でもそれと全く逆のなりたち(能力が先にあってその適応としての党派性)の別種が相当数いて一緒くたにされている。
岸田は枝野立民も含めて苦情を言っているという反論は的を射てる。一番スジのいい反論。
けどそこはフォローしてっから「枝野玉木をにらんでる部分はあるかもしれんが2016立民との政党の連続性で言ってるだけであって、わざと党名間違えてあおってんじゃないだろ」と書きました。
5年前に消えた政党のことをメインに指して「最近」はおかしいという反論についてはスパンが長すぎる宏池会昔話が伏線になっていて、岸田ぐらいのジジイは5年10年は「最近」です。王都民の応仁の乱がこのあいだなのと同じ。
中間層うんぬんを「民主党」が言い出したのは枝野立民からでは絶対ないし、記者もそれがわかってるからかつての民主党~で話振って岸田が応じてる。岸田の認識する「パクり」が始まった「最近」は確実に枝野立民よりずっと前からの期間を指してます。
以上のような感じでその反論は届かないけども、
もし国士がこういう風に反論してくるなら悪あがきだけど低能とまでは言わないし、ケアレス誤読の口滑りだったんだなと理解する。
でも実際の国士の釈明は全然こんなレベルじゃなかったでしょ。まるっきり答えになってない悪あがきも出来てない。言われてることがマジでわからないまま言い訳してるのがまともな反論と比べると良くわかる。
あといじめじゃねえか優しく言ってやれよというブコメがあるけど、優しくIDコールで教えたらたぶん無視すると思うよ。だってコール内容が妥当な指摘なのか言い掛かりなのか自分で判断つかないから。
今回だって国士はたぶんブコメの雰囲気をみて「どうも自分が間違えたらしい」とぼわっと判断してる。だって釈明見てもわかるとおり、何いわれてるか全く把握してないから。
あと個人をどうこうよりこのタイプの人が相当いるし、このブコメに星つけてた人達なんかも同類がかなりいるでしょ。そういう全体について言ってる。タイトルは国士だけど内容読んだらわかるでしょう。
Euterpe2 単に本文読んでないだけのような…
2021/09/13
mobile_neko 単純に本文未読でブクマしたとかじゃないのかね
2021/09/13
the_sun_also_rises こんな難しいことじゃなくて「タイトルしか読んでない状態でブクマした」だと思ってるよ。そして同じくタイトルしか読まない人が☆をつけた。はてブの水準を表す事例と思う。タイトルで脊髄反射な人多いと思うよね。
2021/09/13
自分も前は同じ予断を持って
「こいつらタイトルしか読んでねえだろ」と思ってたしそういうツッコミをしてた。
けどしばらく眺めてるうちに、
あっこれたぶんそういうことじゃないんだな、ってなって、
大変だなと思ってこれを書いてるわけよ。
今回にしても当人の釈明ですら「読んでなかった」とは言ってないでしょ。
横だが、
MTといのはマニュアルトランスミッションの略で
自動車を発進させるためには
1.クラッチを切る
だからブレーキとアクセルを踏み間違えた場合などで急発進する危険性がある。
とはいってもMTでも慣れてしまえばほぼ無意識で発進動作をしてしまうから
それほど優位な差というのはないのではないかと思う。
全て出典はありません。全て偏見です。
拗らせてる人への偏見と、こうすればいいんじゃねって意見が混じってます。
拗らせてる人って大体が自己分析は上手いのに、自己否定がめちゃくちゃすごいから自分のいけない部分しか見えない人ばかりだと思うんですよね。
でも欲望は沢山あるから、少しでも自分の欲を満たしてくれる"条件"をクリアしてる人と接触すると
「こんな自分と関わってくれるこの人は、何かしらのメリットがあって接してくれてるに違いない。そしてそれは自分に好意があるからだ」
と最短ショートカットで自分の理想を叶えられる、と脳内で換算してしまうからだと思うんですよね。
自己分析が上手く欲がある人って、自己肯定が上手ければめちゃくちゃ成功すると思うんですよ。なぜなら自分の得意不得意が分かるから。失敗をやり直せる自信があるから。就活で履歴書に悩まない人とか、営業ができる人はこれが無意識下でしっかりと行えてると思います。
でも、自己否定がめちゃくちゃ激しいと前述した「自分自身に価値がある」という思い込みから一気に相手に期待しすぎてしまい、相手の気持ちを理解する気も無しに自分の気持ちをぶつけまくって失敗してしまい、また自己否定に至る……
というめちゃくちゃ負のサイクルに陥るので、そうなりたくない人はまずは自己肯定から始めればいいと思います。
ちなみに、前者で自己肯定クソ高くてもいわゆる「勘違い」の分類になるので高すぎてもよくないと思います。ガハハ
じゃあ自己肯定ってなんなのさ、ってなる人は沢山いると思います。一概には言えないのですが、得意の自己分析で出てきた欠点を好きになることが自己肯定に繋がると私は思います。
前述した「自己分析が上手くて欲がある人」っていうのは、今自分に何が必要かというのを理解することが出来るということなんですよね。逆に言えば、「これがあればもっと欲を満たせる」のが分かるスキルだと思っています。
沢山自分の嫌いなところ、劣っていると感じているものはあると思います。しかし、苦手を解消したら自分の自信にもなり、どんどんチャレンジしたくなる。という風に、自己分析出来ているものを欲のためにクリアする、自信がつくと成功体験を積み重ねていくのがとても大切なことだと思います。
お風呂毎日入るでもいい、オシャレな服を着るために10分だけ筋トレするでもいい、なんでもいいんです。コ〇ペン〇ゃんを心に、自分自身のことを褒めましょう。えらい!
上記の内容を読んで「親ガチャでSSR引いたやつと比べないでくれ」という意見がありそうですが、親ガチャで決まる環境はせいぜい20〜22歳までの環境だと思っています。
そして環境は自分次第で変えることができる場合もあり、現環境を無理やり理想に作り替える以外にも新しい居場所を作ることも出来ます。(部活動、クラブ活動、習い事、ボランティア、アルバイト……)
現在進行形でどうしようもなくて悩んでいる人は、とにかく自分自身のことだけは嫌いにならずに今の環境で耐え抜いて、他人の気持ちを考えられるように生きてください。死んじゃダメだよ!大人になったらアイスにチョコスプレーかけ放題だよ!
そして親の環境から抜け出す事が可能な人はいつまでも親のせいにしないで、子供部屋から抜け出してください。自立できる能力を手に入れたにも関わらず、自分の支配下に置こうとする親は共依存になっている可能性があると思います。そういった場合は、自立こそ最大の親孝行だと思います。
もしくは、幼少期のトラウマで成功体験を積み重ねるのが難しい人もいると思います。失敗を恐れて何も出来ない、自分を否定されるのが怖いのはよく分かります。しかし、自立してしまえば怒る人は居なくなります。なぜならあなたのために怒るエネルギーを割いてあげるほど他人は暇じゃないからです。(仕事は別です)
幼少期に過度な期待や責任を負わされすぎて、相手の望む答えや結果だけを出し続けていたとしても、それは学校の中でしか意味をなさない数字や評価だったりします。
よく頑張ったね。えらい!お疲れ様。後は自分のために生きようね。好き勝手生きても他人はそんなに見てないし犯罪じゃなければ怒られないよ。フ〇ちゃんだって地上波出てんだから。
それと、成功体験が無いと似たような仲間内で繋がり、思想の統一化を始めてしまう傾向があると思います。失敗するのが怖い、否定されるのが怖いと同じ考えの人と集まってしまうのですが、それも変わりたいと思うのであれば同時進行で少しずつ、他のことにも興味を持てばいいと思います。
好きな作家の趣味について調べたり、素直にSNSで話題のものを体験したり、気になってる店に行ってみたり、好きな作品の監督の過去作を観てみたり……自分の好きを広げると、そこから自信を付けるチャンスに出会ったりするので、視野を広く持つこともオススメです。店員さんとの会話も新しい刺激になるので。
私の個人的なオススメは、以前少し話題になった信号が青になった方向にだけ歩く散歩がオススメです。時間決めてスマホを見ないで歩くんですけど、楽しかった〜。
最後に、相手に期待通りの解答が返ってくるのが当たり前だと考えているのであれば、それは辞めた方がいいです。
これは欲と自己肯定が問題なんですけど、自分が望んだ結果が帰ってこないとその全てが理解できない人は割と
自分はこう思った(もしくは、これだけの犠牲を払ったから向こうもそう思ってくれるはず)
となりがちだと思います。
自己肯定が出来ないと自己犠牲が当たり前になって、さっきの方程式で物事を考える癖がついている時があります。(実際身の回りに複数居て他人に依存気味だった)
簡潔にまとめると、
自己分析が上手くて自分の欠点ばかり嘆いている人はそれを全て受け入れてくれる人を探すより、それらを改善して前向きに生きた方が周りに人が増えますよ。
あと、他人はコントロール出来ないし自分のために犠牲になってくれませんよ。自分の苦しみも背負ってくれません。なら好きに生きた方がお得ですよ。
ということを頭に置いておけば、今後生きるのが楽になるんじゃないでしょうか。
悔しくて苦しくて辛くて、でも自分が居ないと相手も同じように苦しむっていうのはは漫画だけの世界で、実際は相手も生きるのに精一杯であなたの苦労なんか一切気にかけてません。
頭の中にいる無敵の相手のために、いつまでも苦しむのはもうやめましょう。
なんなら今頃スーパーカップ食ってると思うので、こっちは対抗してハーゲンダッツ食ってやりましょう。
以上。
「もくりで痴漢被害にあった」という旨のツイートがタイムラインに流れてきた
https://twitter.com/0shiya/status/1434281696719867904
これがずっと心の中に引っかかっている。
mocriというのは、主に同人作家の中で流行っている通話アプリだ。その性質上、非常に女性ユーザーが多い。それに目につけたか、たまたま知ったかはさておき、そういった場に性を求めてしまう男性が発生し、女性がそれを嫌がるという、典型的なセクシュアルハラスメントが発生しているようだ。実際問題として都会にはずっとナンパしてる謎の生き物がいるし、こういった問題は根深く枚挙にいとまがないなとおもう。
だが、「この漫画」の話は少し違うような気もする。痴漢に見られる嫌がらせやスリル、または性欲の押しつけというより、毛色としてはむしろ「喋りすぎてしまうコミュ障」に種類が近いような気がする。知らない人と話してみたい、通話で面白いことに出会うかもしれないという期待をいだく人間はやはり一定いて(自分には理解できないけど)、それがディスコミュニケーションを起こすと「ナンパ」「チカン」「いやがらせ」と区別がつかないという事例に感じる。
スマートフォンの普及、通信環境の向上、様々なゲーム機の台頭により、「特定・不特定関わらず話しながら何かをする」機会が増えた結果、そして社会の大きな動きも相まって、この「喋りすぎてしまうコミュ障」の問題は鮮明に可視化され、より深刻にとらえられるようになった。
言ってしまえば、コミュニケーションが下手くそであるために痴漢呼ばわりされる世界がもうすでに到来している。我々は深刻にコミュニケーションの仕方について1からきちんと勉強しなければならない。コミュニケーションとは心の動きだけで行う動物的なものではなく、技術によって行われる理性的なものではならないというのを、もっと大きな声で警告していかなければならない。
■コミュ障側に向けての話
実際問題、「喋りすぎてしまうコミュ障」の被害は、残念ながら少なくなく、深刻である。「Among us」のプレイヤーたちなどは身近な話題じゃないだろうかと思う。特にこのゲームは制限時間内に話をまとめて人狼と思われる人を探し当てなければならない(人狼は必死にごまかさないといけない)という性質上「喋りすぎるコミュ障」が強い。したがって一方的に、「集団」や「会」の意図を汲まず、喋りたいだけ喋ってしまう人間がどうしても紛れ込んでしまい、時には誰かの胃をキリキリと痛めてしまう。「自分コミュ障なんで」と自虐できたのは残念ながら10年前のインターネットまでで、今後は確実に敬遠されていくことだろう。それだけネットワークは開かれたものとなってしまった。
コミュニケーションというのは料理における味付けの様なものだ。最初は薄味で出して、「好きな様にしてください」といってトッピングを持ってきてもらうのが無難だ。一口にカレーといっても、人の好みのからさはばらばら。だが我々コミュ障はここを見間違えてしまう。「私はなんでもいけますよ!」といって自分好みにめちゃくちゃ辛く味付けしたり、「自分は料理のこと全然わからないです!」といってレシピを無視して作ってしまえば、基本的には大変な事故を起こるのだ。
特にネットワークを介したコミュニケーションはその場にいる全ての人間に開示されてしまう特質があり、これはオフラインで行われる「会合」とはまた異なる。この点にも留意し、基本的には「発言に気をつけなければ」ならない。
第二に、とりわけインターネットで呼びかけられる「募集」に関していえば、そのお題目を厳格に守ることが求められるだろう。不安であればどういった主題に基づいて人を集めようとしているのか、それについてよく確認したほうがいい(後述するが、募集する側も極力明確にしておいたほうがいい)。そこに来る他の人々も「募集をする人」や「募集文」を中心にして集まってくるのだ。「建前」や「目的」というのはコミュニケーションにおいて一番上のレイヤーにあるべき便利アイテムだ。
これはゲームに例えると簡単で、「リオレウスから出る逆鱗が欲しくて出るまで行きたいのであと三人きてください」という募集に入ってきたのに、自分が行きたいのでといって別のモンスターのクエストを貼ったら、どうだろうか。募集主が気を使って「別に一度くらいならいいですよ」といってもその募集文をよんできた人は「別にリオレウスにしか用事なくてそのモンスターに行く義理はぜんぜんないんだけど」と思っているかもしれない。人が立てている募集で出しゃばるというのはそういうことだ。考えられないことかもしれないが、喋りすぎるコミュ障というのはこういうことをしてしまう。
あくまでも募集している人間が主役であり、自分が主役になりたければ自分で募集をかけなければならない。
■募集する側の話
インターネットというのはまさに「有象無象」と「玉石混淆」の象徴だ。悪意の有無を問わず、様々な人間がいる。知らない人が勝手にめちゃくちゃなコミュニケーションをふっかけてくる時もあるし、なんなら知ってる人間がその場合だって全然ある。嫌がらせだと思っていた行動がADHDの性質だった、悪意だと思っていたら単純に能力が低いだけだった、馬鹿にされていると思っていたら単純に生活レベルの違いだった。この様なことが平然と存在する(逆にいうと日常生活ではそういうものと自然と境界を置いていると思うとヒトの社会性ってすごい)。そしてもっと言えば、これらの事情が大衆の面前で明らかになってしまうことをが往々にして存在するのが、インターネットの恐ろしいところだ。「遅い!なにをやってるんだ!」と怒鳴りつけたら「すみません、実は生まれた時から足が不自由で…」と義足を見せられる様なクリティカルな状況を人がめちゃくちゃいる交差点でやる、みたいな現実ではあり得ないことをワンチャンやりかねないのがインターネットだ。
くだんの漫画で言うならば、「もくりは男性が使っているイメージがなかった」「知らない人が入ってくるとは思っていなかった」が正直に言えば甘い。運転免許の問題みたいなことを言うが、相手がボイチェンしている可能性もあるし、自分のフォロワーのコミュニケーション能力が最悪の場合もあるからだ。多様化する社会事情を鑑みれば、当然「性的被害は異性間に限る」という無意識も捨てたほうがどのみち安全だ。
正直に言えば、喋りすぎるコミュ障に対しての対処法は無に等しいと思う。基本的にこっちが強く出るしかないのに、彼らは出しゃばってくるからだ。
だが対処法といて、「建前を強く使うこと」と、それのために「建前をきちんと用意すること」は非常に大切だと思う。友達の主催するAmong usにいったときはギチギチに組まれたローカルルールのおかげですごく快適に遊べてびっくりした。これももちろん「ゲーム歴も付き合う歴もばらばらな人間と一緒に一つのゲームを楽しく正しく遊んでもらう」という強固な建前の上に成り立ったルールであり、その説明があるから納得がいくのだ。
この人の様に、自分のフォロワーがくるかもしれないという気持ちで待っていたら全然知らない人がきたというのであれば「初めて見る名前ですけど、ツイッターのフォロワーさんですか?」(ちがうなら)「ごめんなさい、フォロワーさんとやろうとおもってたので……」「これってフォロワー限定とかにできないんですかね、次からわかりやすくしますね」といかなんとかいってまず素直に追い出すべきだった(たとえ相手がチカンじゃないにしろ、男が入ってくるとは思っていなかったのだから)。それで食い下がってきてやっと「キック」というのが、やはり順序としても正しい。
当然だが、世にはきちんと「悪意」が存在している。この相手にすべきでない悪意を排除したい時に「悪意ではなかったケース」が邪魔するのが、最も避けるべきことである。また相手に悪意がないにしろ、自分が不快に思ったその感情自体はかわらない。そのためにはやはり「強固な建前」が必要だと感じる。「目的や趣旨と異なるため」「ルールに反するため」もちろん「私が主役の会なので私を不快にさせるなんて意味わからんでしょ」でもいい(言えるなら)。必ず作ったほうがいい。
作業通話相手や一緒にゲームをする相手を募りたいという簡単なことなのにそこまで覚悟しないといけないのか?と言われれば……「そうです!」としか言いようがない。なぜなら気の合う友達とわいわい話しながら何かをすると言うのは、通常ほとんどの人間にとっては難易度が高く尊いものなのだ。新しく得ようとすれば難しいし、すでにあるなら必死に抱きしめて大事にしなければならない。「知らない人とのやりとりがおもろかった」みたいな話は、当人、もしくは相手のコミュニケーション能力の上で成り立っている。この二つをどうかゆめゆめわすれてはならない。
いまもjQueryをWebアプリケーションの大事なライブラリとして使っている会社は少なくないと思う。
jQueryを会社で使っていると何が問題なのかを語っていこう。独断と偏見によるものなので、jQueryを使っていても問題ない会社も当然ある。たとえばペライチのサイトを作る会社とか小規模サイトなんかでは全く問題ない。
採用困難で売り手市場になっている時代、そして「jQueryを触らなければならない環境 vs モダンフロントエンド環境」という選択肢がある中で、あえてjQueryを選ぶフロントエンドエンジニアは少ない。
また、新人はもはやjQueryを学ぶことはない。彼らはES6以降のJavaScript / TypeScriptを書く。よしんばjQueryを学ぶことになった新人がいたとしても、それはただその新人が可哀想なだけで、現役なわけではない。ラガード(遅滞者)の仲間入りをさせているだけだ。新人でもキャリアをデザインできる新人は「jQueryはオワコン」という情報には触れているので、よほど就活で失敗しない限りはjQueryのところにたどり着かなくなっている。
そもそもバックエンドエンジニアでもモダンフロントエンドを書くような環境が増えてきた中で、2世代も前のjQueryだけでアーキテクチャに関する一考もないコードをメンテしなければいけないので、「jQuery」という言葉だけでフロントエンドエンジニアでなくとも入社を避けがちだ。(jQueryでアーキテクチャがしっかりしている可能性は低い。アーキテクチャがしっかりしているならばjQueryに依存しておらず、jQueryに依存していないのであれば簡単にjQueryから脱却できるはずで、簡単にjQueryから脱却できるならもう脱却しているはずだからだ)
メインストリームの部分はほとんどリプレイスが終わっているというでもなく、すべて現役でjQueryなのであれば尚更問題で、誰もメンテしたがらないコードの出来上がりだ。「弊社はCOBOLで書いてます!」とにこやかに言うようなものだ。
(ただし、さすがにjQueryだけでフロントをやっているという会社の求人をほとんど見かけることはない。無意識のスクリーニングで落としているのかもしれない)
jQueryを使っている会社には、フロントエンドエンジニアは一人もいないと言いきってもいいかもしれない。もしくは、今まさにjQueryをやめようとしているか、たまたま入ってきたフロントエンドエンジニアが今まさに辞めようと迷っているかのどれかだ。
「jQueryを使っていました」というエンジニアは、他社からはフロントエンドスキルが0とみなされる。つまり、フロントエンドエンジニアではないという意味だ。jQueryは、jQueryを使っている会社に対してしか武器にならないのだ(逆はできる)
jQueryを書ける人口自体は増えているだろうが、労働市場からは撤退し始めている。昔jQueryを書いていた人材の人数が上限で、そこから新たに学ぶ人の絶対数が減っているため、全体としては減っている。
私もjQueryは以前業務で書いていたが、もう数年書いていない。特にメリットを感じないからだ。遊びで、生のJavaScriptを書くことはある。
jQueryで入社するのは、昔からjQueryを使っている高齢のエンジニアか、なぜかjQueryを学ぶことになってしまった新人である可能性がある。
そのため、需要と供給に応じて、昔いたようなスキルレベルの人を今の市場で見つけようとすると費用がかかってしまう。jQuery書けますという人材が高年齢化しているのだ。そして世継ぎはいない。
リプレイスはハッキリ言って難しい。モダンなフロントエンドを学習するだけでは足りなくて、それを使いこなせた上でしかもjQueryを使用したカオスイベントコードも読めて、そしてアーキテクチャを考えてリプレイスしなければいけない。
時代が下るにつれて、そうしたハイスキル人材はより高価値になっていき、レア度も単価も高くなる。今そういう人を雇うという判断をしない会社が、どうして今後もっとハイスキルの人を雇えようか。
jQueryを使ったサービスがしっかり利益を出している点もリプレイスを難しくしている。全廃もできない。かと言ってコストに見合わなければリプレイスという経営判断も難しい。経営が困難な状態ならより厳しい。
何も理由がなくjQueryを使い続けたいという奇特な人は多くないはずだ。何か理由があってそうなっているわけだ。カッコよく言うと『ナッシュ均衡』という状態だろう。今会社にいる人材もいわゆる『jQuery人材』が多いため、そこを打破するのはとても困難な道だろう。
jQueryから抜け出すには、すでにいる人材がなんとかしてリプレイスするか、外から連れてきて改革するしかない。しかし大抵の場合、既存の従業員にとってはそんな大変なことをするよりも転職したほうが楽な道だ。(もちろん、「jQueryしかなかったサービスをモダンフロントエンドにした」というのが実績としてある人材はかなり魅力的な人材で引くてあまたなことだろう。その意味ではピンチをチャンスに変えるときの『チャンス』ではある)
ReactやVue.jsに変えたいと思ったとして「じゃあお前それですぐに利益出せんのかよ?」と詰められたら、その論争をクリアしてまで変えるのはほとんど無理に近い。通常、リプレイスそれ自体は価値を生み出さない。リプレイス後に運用コストが低下したり、人材獲得がしやすくなるために利益が出るのだ。リプレイスとは長期の投資であるため、短期的には必ず損失になる。経営が困難な状態でリプレイスしようとするのは、生活困窮世帯にリボ払いをやめさせるぐらい難しい。そのため、まず自分が身銭を切ってリプレイスするしかない。そしてリターンがあるかもわからない身銭は切りにくい。そして同僚は容易に『抵抗勢力』になる。
jQueryを今も使っているということは、裏を返せば「これまでリプレイスをしてこなかった」「リプレイスしようとしたが無理だった」という実績にもなる。
jQueryを使っている会社は、昔からあるコードをもとに書いているため、今もES6以前の文法で書いている可能性がある。そうしてどんどんと情報が少なく、古く、現代で通用しにくいものになっていく。
bundlerを使っていない可能性が高いし、もしかするとCI/CDも無いかもしれない。そうすると、モダンなインフラエンジニア(もしくはモダンなインフラ知識のあるエンジニア)がいないかもしれない。SREという概念がないかもしれない。
世間一般から見ると会社の中が古いのだが、古い会社にいると「自分が古い」とはなかなか思えないものだ。太っちょの集まりの中にいたら「自分はそんなに太ってない」と思うのと同じことだ。
すべては憶測なので、実際は違うかもしれない。
さんざんdisってきたが、そもそもjQueryは何も悪くないし、大変優れたライブラリだ。ちょっとしたプロトタイプを作るときには良いものであるかもしれない。しかも今もjQuery自体はメンテされている。そのため、状態管理さえうまくできていればjQueryだろうがなんだろうが問題ない。
問題は、jQueryというライブラリを使ってきた時代からアーキテクチャが前進していない点にある。何年もずっとその状態だということだ。そこを今日に至るまで誰1人として変えられなかったということだ。特に経営陣は何の問題視もしていない可能性が極めて高い。そうした社内のしがらみが反映された結晶体、それが『使用技術: jQuery』という言葉になっているのだと思う。また、ヤバさは、jQueryのバージョンに反比例する。
jQueryを使っているアプリケーションには、jQueryが担保していなかったアーキテクチャ部分に問題があることが多い。また、どこから呼ばれているか誰もわからない複雑なイベント、SPAもクソもないページ遷移ごとのリロード、誰もどこもテストできず、HTMLにベタ書きで書かれたJavaScriptコード、その場しのぎでデタラメに書かれた関数、無視される変数のスコープ、サポートが終わったライブラリ、ドキュメントを見つけるのすら困難なよくわからないライブラリ、高齢者しか知らない伝説の機能・伝説のハック、などもある。これらはモダンフロントエンドではほとんど発生しないものだ。
そのため、一定の基準として「jQueryを使っているかどうか」で、フロントエンドエンジニアとしてのやりがいがあるかどうかを判別できる。
そうして、フロントエンドエンジニアというのはもうjQueryに見向きもしていない。書けるけど書きたくない。パラレルワールドのようなものだ。
そういうようなことを「使用技術: jQuery」という文言から感じ取ってしまうのだ。
(そしてこれは、実際の仕事の中身が違うかどうかは関係ない。jQueryとは、そういうふうなブランドと化しているのだ)
jQueryを使っている会社からしたら「そんなことはわかっている」という部分で、「じゃあどうすればいいのか?」という部分が気になるところだと思う。
そこで、後編では「どうやってjQueryを全廃すればいいのか?」「実際にどのように全廃したのかの事例」について、だいたい来週ぐらいに書くつもりだ。
お楽しみに!
4ヶ月前、僕は合同誌の誘いを受けた。
内容はSさん原作のアンソロジー本、ようは「うちの子二次創作合同」だ。少しイヤミっぽい書き方だが作品名をボカす為、何卒容赦いただきたい。
「うちの子」とは大抵の場合その人が創った一次創作キャラクターの事である。それの二次創作本を原作者主催で作るのだから公式アンソロジーと呼べるかも知れない。
かなり内輪ネタ感はあるがSさんとリプライを交わしたこともない自分に声がかかったのは意外だったし嬉しかった。
数年前にHPにあったイラスト、ショートストーリーに強く惹かれ何枚かファンアートを書いたことがある。それを見て招待してくれたのだという。
自分の作品が見られ評価されるというのは創作者にとって一種の麻薬である。僕は気分が高揚するのを感じながら了承の旨を伝えた。
自分で言うのは変だが僕は二次創作が得意だ。真骨頂と言ってもいい。
映画、小説、漫画、動画、あらゆるコンテンツを見ても一番最初に考えるのは「自分ならどんなストーリーを作るか」だ。
原作者が組み上げた土台の上で自分の思うがままにストーリーを展開させるという楽しみ方。オリキャラを出すわけではないのでメアリースーとは違うと思う。
子供の頃から日常的にやっていた事だが、多種多様な作品を見てネタの引き出しもバラエティに富んだ今、考え出すと止まらなくなる。
久しぶりに物語を読み返し、設定を思い出したところで僕の頭の中では無数のアイデアが浮かんでいた。
シリアス系、ギャグ系、まったり系……どれも捨てがたいが一番得意としているギャグで行く事にした。
構成を整える為、メモ帳に思いついたネタを書き出していったのだが珍しく指が止まった。
僕はネタ出しの際、とにかく頭の中のものを全て出し切ってから取捨選択を行うので何故この段階で固まっているのか自分でも分からなかった。
最後に入力した行を見返した時、自分の異常さに無意識のうちに反応したのだと理解した。
ニュアンス的には銀河鉄道999のメーテルが「行くわよネジ!」と言っているようなネタだった。
Sさんの作品は人の生き死にが関わってくるシリアス系の作品だ。こういった作風に対する二次創作ではブラックユーモアや軽いノリを入れるのが僕の好みだった。
商業で展開してる作品(同人だが東方Projectも含む)の二次創作を行っていたときは気にしていなかったが、ここで初めて原作者の存在を思い出した。
このネタを見たとき、Sさんはどう思うのだろう。怒るだろうか悲しむだろうか。
自分が原作で主催の合同誌だ。載っている作品は全て見るだろうし、第三者からしても「Sさんはこの人の作品を認知している」という事になる。
それは僕にとって非常に不都合だ。
今までやってきた二次創作は原作が手の届かない大手だったからこそ自由にやれていたのだ。
少々グレーではあるが二次創作者は同人即売会などでひっそりと本を出し、原作サイドは見て見ぬふりをする。この暗黙のルールに僕は守られていた。
だが今回は違う。原作者に認知され、認知されたことも認知される。同人であって同人ではないのだ。
二次創作ということに変わりはないが僕がやっていた二次創作とは全く異なるものである。
咲の天江衣が手足を折られている絵も描いた。東方のミスティアローレライが呪歌を歌う本も描いた。
原作ファンから嫌悪感を抱いたコメントをもらった際は「嫌なら見るな」のAAと同じポーズをして全く気に留めなかった。
何故なら悪意を持って絵を描いているわけではないからだ。後ろめたさや罪悪感は微塵も無い。
ただ思いついたから描いただけ。絵のメッセージ性を考察するだけ無駄だ。何も考えてなどいないのだから。
思い返すと僕は一次創作をやった事がない。だから一次創作者、原作者の考えが分からない。
以前エヴァンゲリオンの最終章を観に行ったが映画館を出て考えたのは二次創作のことだ。
作品が織り成す表現、意図、メッセージは頭になかった。ただボケっと観ていただけで精々CGのクオリティにビックリしただけだ。
その後暫くするとYouTubeに考察動画がアップされ、それを観て理解した気になった。作品の深みが分からないまま。
一次創作において一番大変なのは世界観、キャラクターの設定だと思う。優れた設定さえあればほぼ自動的に物語が出来ていくというのを作家の誰かが言っていた気がする。
Twitterで見たのは複数のキャラクターを何もない部屋に閉じ込めた時、どういった反応を示すかが瞬間的に思いつく作品は優れているというものだ。
自分の好きな作品をいくつか試してみたところ面白いようにキャラクターが動き出す。個性豊かで磐石な設定が築かれている証拠だ。
個人の感性が関わってくるので同じ作品でも結果が異なるのは当然だがキャラクターの性格上ありそうなアクションを起こすはずだ。
何もない部屋ですらちょっとした物語が始まるのだから二次創作というバーリトゥードでは無限に話を広げられるだろう。
二次創作しかしてこなかった僕は一次創作における土台の作り方を知らない。コツなどではなく根本的なものから知らなかった。
やっと絞り出した設定を見返しても有名作品の劣化コピーか、足して割ったような歪なキメラで作品としてのまとまりが無い。
他人の作品を利用して楽な工程だけやっていたから至極当然の結果と言える。
僕は感受性、0から創りだす発想力に乏しいのかもしれない。曲がりなりにも長いこと創作活動を行っていた人間が創作に向いていないとは皮肉なものだ。
つい最近ニコニコ動画で面白い作品を見つけた。『【クッキー☆ボイスドラマ】魔理沙とアリスの自己矛盾☆』という動画だ。
https://www.nicovideo.jp/watch/sm36353098
例のアレ、と呼ばれるジャンルのクッキー✩という作品をテーマにしているらしい。
時が流れるにつれ変化していく界隈や情勢を風刺したドラマ、だと思う。
元ネタの名前こそ聞いたことはあるものの、詳細は知らないので内容に関してはあまり理解できなかった。
ただ主人公の女の子が二次創作ならではの悩みと葛藤するシーンに少し共感を覚えた。
元々一次創作を行っていた女の子が、甘い誘惑に誘われ二次創作に手を出すところから物語は始まる。
作品の看板を借りるだけで今まで伸び悩んでいた絵の閲覧数が増えたことに気を良くした主人公はどんどんと沼に嵌っていき、二次創作に依存していく。
ある日描いた絵を見返すのだが「本当の自分が描いた絵」が一つも無いことに絶望し二次創作からの脱却を図る…という話。
特に主人公が序盤で一次創作をしていた時は左利き(ペンを左手で持っている)だったのに、二次創作を行うようになってからは右利きになり、
クライマックスでの本当の自分を取り戻したシーンでは左利き(マイクを左手で持っている)に戻ったりと主人公の心情が視覚的な対比として描かれていたのが印象的だった。
動画は立ち絵を手や足などの細かいパーツに分割し動かす切り絵アニメーションをメインで使っているようだ。
小規模の制作グループで45分以上あるアニメを作るなら確かに合理的である。それでも膨大な手間暇がかかっていることに違いはないが。
今まで見てきた作品とは違い、鑑賞後は何も考えられなかった。ある意味生まれて初めて心の底から作品を楽しめたのかもしれない。
コメントを見る限り様々な小ネタが含まれているようで理解できなかったことが一層悔しく思う。知っていれば多角的に楽しめるのかもしれないが今の僕には十分面白かった。
作品の表現、演出一挙一動に注目し、感想が出てきた事に自分でも驚いたのを覚えている。僕にとってそれくらい強烈な体験だった。
これまで僕がやってきたのは作中の言葉を借りるならば「安易な二次創作」に該当するだろう。中身がなくハリボテみたいな創作だ。
話を戻すがSさんの合同誌の誘いは断ることにした。昨日謝罪のメッセージを送信し納得してもらった。自分の無責任さと幼稚さで迷惑をかけてしまったこの事は二度と忘れないだろう。
僕なりに考えたが健全な創作には感情が必要なのだと思う。嫉妬、欲望、勿論熱意でもいい。プラスでもマイナスでも構わないから感情という名の原動力がいる。
問題はそれが狂気的でなければならないことだ。中途半端な嫉妬心、欲、熱意では筆を折ってしまうだろう。イカれてるくらいがちょうどいいかも知れない。
そして健全な二次創作には矛盾が付きまとう。原作設定との矛盾、創作においての矛盾、先程挙げたコミケの暗黙のルールだって本来は矛盾している。
その矛盾を上手くコントロールしバランスを取らなければ良い結果には繋がらない。狂気がエンジンで矛盾がアクセルブレーキ、どちらも故障したらダメだ。
狂気と矛盾、この二つを安定させられる人間はほんの一部しかいないと思う。筆を置いて時間が経たないとやる気が出ない人がほとんどだ。
僕はRTやいいね数はどうでもいいと思っているし、フォロワー数が数万人の絵師に対して特に何も思わない。原作は二次創作のツールとしか思ってないし考えなしに描きまくった。
だから失敗した。こうなってしまった。自分が創作活動で過ごした日々は空白だったのだ。
あなたの二次創作はコピーペーストを繰り返したパロディまみれになってませんか?成人向けなら自分が好きな性癖を詰め込めていますか?本当に創りたいものが創れていますか?
二次創作には二次創作だけにしか味わえない面白さ、奥深さがある。創作に携わる人間なら知っているはずだ。
ただ楽しいからといって自分を見失ってはいけない。思考を止めてはいけない。創作者としての軸を保ち続けなければならない。
この文だけでみると、言いたいこと確立しているみたいだけど。
・メディア、ネット、自称専門家、あと厄介なことに自説を勝手に述べている近所の医者などからの情報のうち自分の都合の良い情報だけを取り出して文句言っている人たちがいる
・厚労省のガイドラインは誰でも読めるのに全力スルーする人たちがいる
https://www.mhlw.go.jp/stf/seisakunitsuite/bunya/0000164708_00001.html
・もしくは厚労省ガイドラインから一点目を補強しそうな一部分だけ取り出して、話を混乱させる人たちがいる
https://anond.hatelabo.jp/20200323195746
いやいや参照している厚労省ガイドライン(インフルエンザ用だけどね)の要約を全力無視かい!何がしたいのか。
要は恣意的なのか無意識なのか歪められた二次情報で混乱することを回避する手段として、英語文献(一次情報)にあたろうね。ということだろうけど。
先日、池袋暴走事故の判決が出て世間の注目を集めた。事故が発生してから約二年、何度も国民の注目を集めてきたが私は一つ疑問を感じた。
「この事故、被害者がおじさん二人とかだったらここまで騒がれていたのだろうか?」
あの事故がここまで騒がれたのは加害者の社会的属性や対応もあったが、被害者の社会的属性もあるのではないだろうか。
下品な言い方をすれば「社会的地位のある高齢者の男性」という嫌われる要素マシマシの加害者と「その加害者に突然命を奪われた妻子」という構図が悲劇的であったからではないだろうか。
話題は変わるが、以前メンタリストのDaiGo氏が自らのYouTubeで「自分にとってホームレスの命はどうでもいい」と発言して大炎上した。
全ての人に命の価値はある、これは優生思想の助長であるという批判が殺到し生活困窮者やホームレスの支援を行う団体が声明を発表、厚生労働省が反応するまでの騒ぎになった。
少なくともこの国においては基本的人権が保障されていて、出自や属性によって差別されることはあってはいけないとされている。
しかしそれは規範の上での「平等」である。私が触れたいのは人々の意識下での「平等」だ。
人間は二人以上の人間がいる時、無意識に命の価値の優劣を決めている。当然だが自分に近しい者とそうでない者の場合、前者の方を重く見る。
ではその対象がどちらとも「赤の他人」であった場合どうなるだろうか。
若者か高齢者なら若者の方が重く見られるし、男性か女性かなら女性の方が重く見られる。
同じ街中の同い年の男性であっても、子連れの人と一人で歩いている人では周囲からの捉われ方が違うだろう。
この判断は多くの人が無意識にやっていることだろう。私だってしているだろうしされているだろう。
優生思想はいけない、命を価値は平等と訴える一方でこのようなことをなんの疑いもなく行っている。
社会のこうした面は仕方のないことであるし、それをどうにかしようと訴えているわけではない。ただ、一度立ち止まって考えてみてほしい。
あの事故で加害者を叩いていた人のほとんどは事故とは何の関係もない人たちだ。その人たちはそうした差別をしているなんて考えもしないだろう。
そんな赤の他人たちが赤の他人の命の重さをはかって同情し、憤った。
加害者には然るべき罰が下されなくてはならないと感じている。
しかしながら無関係の人間がそこまで感情的にならなくてはいけないことなのか、その感情の根底には何があるのか一度考えなおす必要があるのではないか。
気にするなって話ではあるんだけど
必死こいてデジタル土方で稼いだお金でヴァンクリーフ&アーペルというブランドの90万ほどするネックレスを購入した
今26歳で、不相応かは分からないけど早く買うほど死ぬまでの日割りの値段が安くなると思ったから思い切って買った
気に入って付けてるんだけど、リアルでもSNSでも「パパ?笑」みたいな感じで言われる
要するに実父からではなくパパ活(援助交際のセックス抜きみたいなやつ。する場合もあるらしいけど)で稼いだ?パパからもらった?と聞かれてるということ
正直嫌というか、自分で稼いだお金で買った勲章みたいな感じで自分を鼓舞するため付けてたから
でもこれってパパ活で生活してる女性を無意識に見下してる?と気付いてしまった
パパ活って自分を売るということだから、私より努力している人はたくさんいるだろうし
私よりプライド持って仕事してる人はいるだろうし(税金払ってるのかは気になるけど…)
なんか自分が嫌になった
うーん
※注意! これは愚痴です
支部に載せてた時期は、何か書いたらその日のランキングには入るねーって感じで、そのジャンルでは、新参だけどまあまあのPVはある、みたいな感じでした。
愚痴に関わることなので書きますが、こういう作品は初めてですドキドキします、みたいな感想を頂くことが多くて、そのジャンルでは珍しいタイプの物書きであるようです。
ツイ始めた頃は原作が終わってから一年半くらい経ってたので、結構、ツイやってる人の中にはもうページメーカー? みたいなのでしか書いてないって人もいたんですね。
そんな中で自分は定期的に書いてたから割と色んな人にフォローしてもらえて、嬉しいなーと思ってた。
好きですってマシュマロ送ってくれる人もいて嬉しかったんだけど、なんか新作をアップしたときの反応が……。
ものすごい遠回しに褒めてくれてるのかもしれないんだけど、エロシーンの細かいシチュエーションまで指定して「こういうシチュ萌えるんですよー私の性癖なんですよー」って
私の作品のことを言ってる……の……?みたいなツイートがちょくちょく流れてくる。
デートシーンでたとえると、「コメダでデートしてふわふわスフレ見ながら、食べ方どうするって相談する二人って可愛いよね」くらい具体的。
でも作品名も作者名も絶対に出さないで私のいないところで言うわけ。
遠巻きにされてるのかなー、気にしすぎなのかなーって思ってたんですよ。
そういうやり方が多いジャンルみたいだったし。
でも、そういう風に言ってた一部の人達が……なんていうのかな……うーん、パクリじゃないんですよ。パクリじゃない。それは断言できる。
段々なんか作風を寄せられてるっていうか。
めっっちゃくちゃハート喘ぎ作品ばっかり書いてた人が、ぱったりやめて特定のシーンにだけ入れるようになったり。
(私はハート喘ぎはしないシーンとするシーンのギャップが萌えると思っているので多様せずに心がほどけたってシーンにだけ入れてるし、それをツイートで言ってました)
その同じ人なんだけど、夢オチ書くのにめっちゃくちゃ似た演出を使ってきたり。
もの凄いピンポイントすぎて他に描いてる人を界隈で見ないような、大好きなシチュエーション(何パターンか書いてる)を私が考えた性癖なんですけどって前置きつきでツイートされたり。
(これは単純に被りなのかもしれないし、まあいいんだけど……)
「ドイツの刃物は研ぎ澄まされた良質な刃物です」的などこにでもある文章をモチーフ化して各所に差し込んで特別な色合いを出した作品を書いたら、
話自体は別なんだけど、まんま「ドイツの刃物は良質だから」を決め台詞に持ってきた作品(なおそのジャンルでドイツの刃物は特に原作に出てこないし関連もない)を書かれたり。
なんか、影響を受けてるのは別にいいんだけど……もの凄いみんな無意識?? っぽいというか、面と向かって感想言われたことないのに、
周りの人間が作風や性癖だけ寄せてくるって怖くなっちゃうというか。
別のジャンルでも時々こういうことがあって、酷いときは私の書くネタと同じネタばっかり書くなー、寄せてきてるなーって思ってたら、
その人が突然「あなた私のパクリですよね」って言い出して、時系列とかを説明して同じネタ書いてるときはいつも私が先でしょって説明をしたこともあるので心が重い。
そのパクりって言ってきた人も、なんか自分は絶対に正しいって思ってたっぽくて、無意識なんですよ。無意識なの。
ネタ被ってるけど、パクリと言えるほど文章そのままじゃないし。
影響を受けるのはいいから意識してさえくれれば、パクリの冤罪を着せられる心配がないから助かるんだけどなあ。
ついったーで人と絡むのが苦手だから、私自身の存在が忘れられてて、作品のフレーズやシチュだけ頭に残っちゃうのかな。