先日、池袋暴走事故の判決が出て世間の注目を集めた。事故が発生してから約二年、何度も国民の注目を集めてきたが私は一つ疑問を感じた。
「この事故、被害者がおじさん二人とかだったらここまで騒がれていたのだろうか?」
あの事故がここまで騒がれたのは加害者の社会的属性や対応もあったが、被害者の社会的属性もあるのではないだろうか。
下品な言い方をすれば「社会的地位のある高齢者の男性」という嫌われる要素マシマシの加害者と「その加害者に突然命を奪われた妻子」という構図が悲劇的であったからではないだろうか。
話題は変わるが、以前メンタリストのDaiGo氏が自らのYouTubeで「自分にとってホームレスの命はどうでもいい」と発言して大炎上した。
全ての人に命の価値はある、これは優生思想の助長であるという批判が殺到し生活困窮者やホームレスの支援を行う団体が声明を発表、厚生労働省が反応するまでの騒ぎになった。
少なくともこの国においては基本的人権が保障されていて、出自や属性によって差別されることはあってはいけないとされている。
しかしそれは規範の上での「平等」である。私が触れたいのは人々の意識下での「平等」だ。
人間は二人以上の人間がいる時、無意識に命の価値の優劣を決めている。当然だが自分に近しい者とそうでない者の場合、前者の方を重く見る。
ではその対象がどちらとも「赤の他人」であった場合どうなるだろうか。
若者か高齢者なら若者の方が重く見られるし、男性か女性かなら女性の方が重く見られる。
同じ街中の同い年の男性であっても、子連れの人と一人で歩いている人では周囲からの捉われ方が違うだろう。
この判断は多くの人が無意識にやっていることだろう。私だってしているだろうしされているだろう。
優生思想はいけない、命を価値は平等と訴える一方でこのようなことをなんの疑いもなく行っている。
社会のこうした面は仕方のないことであるし、それをどうにかしようと訴えているわけではない。ただ、一度立ち止まって考えてみてほしい。
あの事故で加害者を叩いていた人のほとんどは事故とは何の関係もない人たちだ。その人たちはそうした差別をしているなんて考えもしないだろう。
そんな赤の他人たちが赤の他人の命の重さをはかって同情し、憤った。
加害者には然るべき罰が下されなくてはならないと感じている。
しかしながら無関係の人間がそこまで感情的にならなくてはいけないことなのか、その感情の根底には何があるのか一度考えなおす必要があるのではないか。