はてなキーワード: 政治哲学とは
「誰の金で食わしてもらってるんだ!」とか「あなたたち税金もらってるんでしょ!?」とか「取るものは手早く取るくせに出すものはなかなか出さない」とか「こんな涼しいところでボーっとしてたまに電話取って口だけ動かしてりゃ金がもらえるなんておめでたいな仕事だな!」とか「外で汗をかく仕事をしてる人間の気持ちがわからないやつに市民を助けることなんかできねえよ」とか言われるし、法律で決まっていてどうにもならないことを説明しに来いと市民宅に呼びつけられて休憩なしで半日こんこんと説教をされたり窓口でバンバン机を叩かれたり指を指されてくるくるパーのジェスチャーされたり生活保護の人が毎日出勤してきて政治哲学と噂話を説いてくれたりするし、OBはほぼみんな物分かりが悪くなってモンスター化しているし、突然に議員さんがやってきて変なお願いを振りかざしてワーワー騒ぐし副市長に言うぞとか嘘松だろと思ってたら本当に副市長に言われて方向性が真逆になったりしたり、まあいろいろおもしろいよ!
最近、リベラルとは何だろう?自分が『リベラル』と呼ばれる側と相いれない理由は何だろう?ということを考える事がある。
これから書くことは、あくまで私見にすぎないので、異論がある事は承知しているが、ひとまず私が考えてることを書いてみたい。
今後も、私が考えていく上での参考にはなると思うので、思うことがあればブコメでも、トラバでも、してくれたらいい。
リベラリズムの定義なんてものを学ぶつもりもないので、政治哲学的にどういったものが正しい定義になるのかは知らない、ということは言っておきたい。
だが、『リベラル』とカッコを付けて呼ばれる人々=朝日新聞や立憲民主党の一部に代表される戦い方を批判される人たち
であってすらも、根底にあるものは学識者などと変わらないのではないかと、様々な媒体で意見を見て肌で感じている。
それは
「自分を含めて、全ての人間は弱者になりうる。故に弱者は全てを救うべきだし、そういう社会であってほしい」
「自分を含めて、全ての人間が転落する可能性はあっても、全ての人間を助ける必要はない。全体効率を追求すべきである」
と、社会全体での効率を考えた時に、限界は設定すべきであると考えている。
だけど、根底にある「社会が示すべき寛容さの対象」は「全ての人間を救いたい」と言う人と変わらない。
例を挙げてみると
etc、etc。この辺りは特に反対する必要もなくYESだ。そうであるべきだと思う。
しかし、一方で、だが
などといった、全体の中の1~2割程度の、手を差し伸べる事が無駄で価値がない奴らを除外すべきである、とも考えてもいる。
恐らくだけど、この部分が、私のような層と『リベラル』が相いれない理由なのではないか。
が諸問題における、保守層とリベラル層の対立の原因であるように感じている。
効率よく合理的なベターを選択し続ける事が、実現しそうにもない完全無欠のベストを夢見るよりも、全体の幸福に繋がるというだけの事なのだが、どう思うだろうか?
日本人全員に10万円づつ支給することは無駄でしかなく、コロナによって収入が激減して運転資金や生活資金に苦しんでいる事業者や個人に支給すべきである、と思うがどうだろう?
基本姿勢の対立が長らく続いた結果かどうかはしらないが、立憲民主党がしょうもない難癖付けに終始しているのは残念な話だとも思う。
安倍首相に対して会食を自粛しろと批判していた高井議員が、緊急事態宣言後に風俗店に行った事、コロナ痛快新聞などは、そのくだらなさの最たるものだが、
「無制限の寛容さこそ善」と考えてる人々が、異常に攻撃的で論理的にも矛盾しているのはおかしな話ではないかとも思うし、そんなカッコ付きの『リベラル』は誰にとっても邪魔なんじゃないかと思いますよ。
「古典は本当に必要なのか」と今訊かれたら、どう答えるだろうか。(この問いを「高校で必修科目にするべきか」に矮小化して競うのはズルいなあ)
例えば、今『幸福な監視国家・中国』を読んでいるが、これを読むとどうも中国政府が作ろうとしているのは、ある意味で儒教の理想社会なのではないかと思う(明天子としての国家主席)。
社会信用システム、個人の信用を数値化し、数値が低いと各種サービスが受けられなくなる。法と刑罰で縛るのではなく緩やかな制裁、不便さ生きづらさを与えることで自発的な服従を引き出す(馴致)。「修身斉家治国平天下」をIT技術の力を駆使して実現しようとしている、ように俺には見える。
儒教とは民主主義とは異質な、いわば統治者の統治者による統治者のための政治哲学。人には身分があるという前提の上で、礼儀正しく他人に優しくしましょうねという思想。現在の中国政府が目指す路線もそれで読み解ける部分が大きいのではないか(少なくとも内政に関しては)。
すなわち、支配する中国共産党と支配される中国国民という大前提の上で、高い教養と徳を兼ね備えた選ばれた君子ならぬ党執行部が、民草ならぬ国民を善導し仁政を施す、こういうイメージ。「天網恢恢疎にして漏らさず」というが、その天網を技術の力で人為的に構築しようとしている。その結果生まれた(生まれつつある)「監視国家」では、人々の暮らしは便利になりマナーも向上し犯罪も減ってきた。そもそもの大前提に疑問を感じないのであれば、それなりに暮らしやすい社会なのかもしれない。
「自由で平等な個人からなる市民社会」を唯一絶対の価値とする西洋近代から見れば、今の中国社会はディストピアにしか見えないだろう。だから人権とか環境とか、相手にとって響かない言葉を批判材料に持ち出してしまう。全く噛み合ってないのだ。
しかし、「君子が民草を善導する儒教社会」を念頭に置いて見るなら、(好悪は別として)それなりに理解できる。したがって噛み合った対話が可能となるし、上手な付き合い方も見つけられるのではないか。
以上のような推論が正しいのかは措くとしても、こういう考察ができるのは俺が漢文を読めるからだ。
勿論四書五経を精読した訳ではないが、要点はかいつまんで把握していて、必要があれば誰かに訳してもらわずとも自分で読めるからだ。
もしある人が中国や中国経済に関心を持っていても(あるいはビジネス上持たざるを得なくなっても)、彼が漢文を全く読めなければどうか。影響力のある著名人が「修身斉家治国平天下を連想させる」と指摘するまでそれに気づくことはできないだろう。また、仮にそれを聞いても出典である『大学』を読めなければ指摘の真意を理解できず、したがってその当否も自分では判断できないことになる。
つまり漢文の素養がある人は、ない人に比べてより早く、より多くの可能性を想定することができる。したがって対象への理解の程度もより深くなる可能性が高い。その知見をビジネスに生かすこともできるだろう。
要するに古典というのは、今起きていること、起こりつつあることを理解するうえで役立つ枠組みを我々に提供しているのではないか。
というより話は逆で、理解の枠組みとして多く参照された作品が結果古典として残っているのではないか。たくさん引用された論文がそれだけ権威を持つように。
「高校の授業が古文漢文の真価を学生に伝えられているか」は大いに疑問だし、厳しく問い直されるべきだと思う。が「古典は本当に必要なのか」と問われれば、俺は躊躇なく是と答える。
現在、そしてこの先しばらく国際社会に大きな影響を与える中国という巨大な異文化と対峙した時、日本には他国にない大きなアドバンテージがある。漢字の読み書きができる、そして中国文化を受容し改変してきた伝統がある。このアドバンテージをむざむざ捨ててしまうのは愚かしいと言わざるを得ない。
この主張だと「では日本の古典は勉強しなくていいのか?」という反論が想定されるが、それについてはまた機会を改めて考えよう。
はてブでは「正論!」と大絶賛だが、違和感があるので書いてみる。
話は飛ぶのだが、マイケル・ウォルツァーという政治哲学者が「複合的平等」という考え方を提起したことがある。
社会のなかには様々な領域があり、カネを稼ぐ人が優遇される領域、野球が得意な人が優遇される領域、プログラミングが得意な人が…(以下略)など無数の領域が存在する。ところが、往々にして人間社会ではそのなかの特定の領域で優れた人が、他の領域にまでその影響力を行使してしまうことがある。たとえば、カネを稼ぐのが得意な人が、なぜか専門知識もないのに教育の領域に口を出してくるとか。
ウォルツァーは、特定領域で優れた人が、その事実によって別の領域にまで支配力を及ぼしてしまうことをやめて、さまざまな領域の自律性を担保することで平等を実現しようと主張する。つまり、いくら金儲けが上手だろうとも、教育の知識がないなら、教育の話に口出ししてくんな、このスットコドッコイ!というわけだ。
他方、この考え方に従うなら、ある領域でものすごく能力が乏しい人であっても、そのことが別の領域におけるその人の評価に影響を及ぼすべきではないという話になる。要は、いくらスポーツが苦手だからといって、プログラマーとしてのその人の評価に何ら影響を及ぼすべきではないという当たり前の話。
ところが、世の中ではそういうことがしばしば起きる。なかでも重要なのが、人の「見た目」。確かに、ファッションモデルやアイドルが「見た目」で評価されるのは、ある程度やむをえない。そういう領域で活動しているからだ。だから、複合的平等の発想に立つなら、ミスコンテストやミスターコンテストは別に否定されないと思う。だが、ほとんどの人はファッションモデルやアイドルではない。
実際のところ、男性もかなりそうなのだが、とりわけ女性の場合、その「見た目」がその他の様々な領域での評価に大きな影響を与えがちになってしまう。
ここでようやく話が元増田に戻ってくるのだが、この元増田の場合、「仕事の実績で評価される社会人」と書いているから、まさに「仕事の実績」という領域で評価されたことが素直にうれしかったんだろう。ところが、見た目の麗しい新人が入ってきたことで、「見た目」という評価基準が不当にも拡張されているという感覚を抱いてしまった。
元増田自身も追記で「差別っていうのは確かに言い過ぎだったかもね」と認めているように、新人が入ってきたことで元増田に対する周囲の評価が変わったのでないのなら、元増田が差別されたどうかは微妙なところ。でも、複合的平等が達成されているかに見えた領域だったのに、また「見た目」という評価が不当に入ってきたことの失望は理解できる。
こういう観点からみると、元増田も「女子としてちやほやされたかった」という増田は、元増田の主張を不当にゆがめているし、言っていいならハラスメントですよ、それ。
順序逆じゃね? 社会構築主義の話が出てきたのって,アンチフェミの人が社会構築主義を攻撃したからじゃん?
むしろなんで社会構築主義の話が出てくるのか文系の俺が知りたい.
これはそうなんだよね.それは社会的に構築されたものに過ぎない! で,それの何が悪いの? まったくもってそのとおり.
社会構築主義が出てくるのは,あるものが「本質的であり自然である」と看做されていることに対するカウンターだ.
たとえば,民族.民族主義者は民族を「古くから連綿と続く人間集団」であるかのように主張する.でも歴史学は,「民族」という概念が発生したのは近代であること,それ以前にはそんな統一されたアイデンティティは存在しなかったこと,「古くから続く」という幻想が最近になって作られたものであること,を明らかにしてきた.
もしくは,ジェンダー.性別役割分業を支持する人は,男と女は好みから何から根本的に違っていて,分業は自然なものだと論じる.それに対してフェミニストは,「女は赤を好む」のような固定観念は最近になって生まれたこと,かつては男女のなすべき仕事が異なっていたこと,そういったことを論証してきた.
そういう仕事の理論的な根拠が社会構築主義なんだよね.人間社会にあるもので「本質的」だったり「自然」だったりするものなどない.どれも社会のなかで形作られそれが「本質的」であるかのように見えているだけで,実際には何一つ「自然」ではない.
だからまあ,構築されたもので何が悪い? と言われればおしまいなんですよ.
それでおしまいにならないのは,「本質的」という言説が世の中に溢れているから.
「同性愛を嫌うのは当然」と主張する人がいる.実際には多様な性愛の有り様のなかで同性どうしの性行為が悪魔化され抑圧されてきたのはごく最近の話に過ぎないのに.「悠久の日本の歴史を讃えよ」と真顔で言う人がいる.統一された「日本」という観念も民族という理念もごく最近生まれたに過ぎないのに.「女が家事育児を担当するのは自然」とのたまう人がいる.それは様々な家族形態のなかでたまたま現在定着しているモデルに過ぎないのに.
さらにいえば,学者が本質的だと仮定して用いている概念もまた構築されたものでありうる.1世紀前の学者は「民族」が実在すると思っていて,世界の様々な「民族」の歴史をたどることが学問なんだと信じていた.でも現在は,その「民族」という概念は構築されたものであるとして,かつての歴史学は批判を受ける羽目になっている.構築主義はそうやって世界の認識をアップデートしていく営みなんだよね.
もちろんこういう言明にも理論的隘路はあって,それはまあとっくにゼロ年代頭に指摘されていることなので詳しくは色々読んでみてほしいのだけれど,最近の学者は構築主義を前提としてでもそれじゃ何も言ったことにはならないよねとかこの部分おかしいんじゃないのとかじゃあこれをもとに何が言えるかとかそういう議論をしているので,社会構築主義はおかしい! とちゃぶ台返しされても,華麗にスルーするしかないじゃん? それが社会構築主義に基づくパラダイムの欠点を暴き出し世界認識を一変させるものなら喜んで飛びつくけど,現状そういうちゃんとした議論が出てきてるようには見えないわけで.悪いけど社会構築主義に基づいた方がより厳密な研究ができるしやってて面白いんですわ.
そーなんだよね.はっきり言うとこの件社会構築主義とか微塵も関係ないですよ.普通に自由とか権利とか公共とかの話をすべきところでしょ.そして自由とか権利とか公共とかの話をするなら持ち出すべきは社会構築主義じゃなくて政治哲学とか法哲学とかそういう分野でしょう.
俺はあのポスターを公共空間にあっても問題ないと擁護するしバッシングはバカバカしいと思うのだが,それと社会構築主義の是非はまるっきり別の話で,なんで社会構築主義が目の敵にされるのかはマジで理解不能.
ただ「男がおっぱい好きなのは自然の摂理」とか言い出すと「え? 江戸時代の春画はおっぱいをすごい雑に扱っていたけど? そもそも何がエロいかという認識あるいは羞恥心は自然なものではなく社会的に構築されていて,たとえば日本でパンチラが恥ずかしがられるようになったのも20世紀以降の話で,そこから考えると現代日本の男性がおっぱいに関心を示すのは……」みたいな社会構築主義に基づく反論が飛んでくるから気をつけてな! オタクが美少女に萌えるのも腐女子がBLを愛でるのも同性愛が「禁断」と看做されるのも胸の大きい絵が性的と思われるのも全部社会的に構築されたことだからそこんとこ夜露死苦! あと「公共」概念が歴史的に帯びているヨーロッパ中心主義的なバイアスに気づかないのは鈍感すぎると思います先生!
三浦瑠麗の件。
https://buzzap.jp/news/20180420-lullymiura-law-knowledge/
東京大学大学院法学政治学研究科 総合法政専攻博士課程を修了し、法学博士を取得しているものの、三浦瑠麗さんは農学部出身で自らの肩書きも「国際政治学者」。実は政治学が主分野で、法律についてさほど知識がないのかもしれません。
なんか「法学博士なのに法律の知識がないの?」って言ってる人がそこそこいて、Buzzap! までその認識なのは流石にどうなの、って思ったのでちょっと書いてみる。
まず、日本の大学の多くでは政治学は法学部で教えられている。早稲田大学や明治大学には政治経済学部があるが、東京大学、京都大学、慶應義塾大学、北海道大学、名古屋大学、など有名どころの大学はたいてい法学部の中に政治学科あるいはそれに準ずるものを持っている。
つまり、それらの大学で政治学を専攻した人は、法学について詳しい知識がなくても「法学部卒」になる。学位も「博士(法学)」とかになる。そういうところは学部の内側で法学専攻と政治学専攻に分かれていると思うので、法学部に入学したからといって法律の教育を受けているとは限らない。
なので、「法学」の学位を持っている人が全て法律の専門家とは限らない。ひょっとしたらアメリカ政治の研究者かもしれないし、ドイツ近代史の研究者かもしれない。あるいは政治哲学を講じているかもしれない。そういった人たちが日本の実定法について一般人よりは多少詳しいよね程度の知識しか持っていなかったとして、それはまったく不思議ではない。
学部・学位の名称と専門分野がリンケージしないというのは割と多い。たとえば歴史学・哲学・心理学なんかは多くの大学では文学部で教えられている(社会学なんかもここに入るかな)。結果として、「博士(文学)」(ただし文学のことはよく知らない歴史学者)なんてものが量産される。文学の知識がないのに「博士(文学)」を名乗っているのは別に彼らの責任ではなく、日本の大学と学位授与のシステムがそうなっているんだとしか言いようがないし、三浦瑠麗の「博士(法学)」も同じことだ。
もちろん、デタラメな法知識を知ったかぶってひけらかすのは恥ずかしいことだし、著名人がtwitterでそんなことをやったら炎上するのはしごく当然であり、その点で三浦瑠麗に擁護の余地はまったくない。存分に恥をかくべきだ。
だが、法学博士なのに法律について無知なのか、というような責め方あるいはあげつらい方をするのはおかしい。東大で政治学を専門に学んだ者の学位が「法学」になるのは彼女の責任ではなく単にそういうシステムだというだけの話であり、政治学について多少なりとも学術書を読んだことのある者なら経験的に知っている知識のはずである。そのような責め方は許容することができない。
あと農学部卒なことをあげつらうと小熊英二に返ってくるぞ。彼も学部は農学部出で修士から文系の院に入り、現在ではちゃんとその分野の学者として認知されている。学部まで理系として過ごしても、その後文転して良い業績を挙げているのなら何ら問題はないはずだ。もちろん学部教育というのは専門知のベースになるものであるから、「違う学部だったの? ああ、道理で……」みたいな事例が多々あることは否定しないが、三浦瑠麗憎しのあまり理系から文系に移ってきたという経歴を叩くなら反対する。似たような経歴を持つ別の学者のために。
なんというかもう、お前ら、流れ弾やめーや。
まぁ、西洋的な政治哲学概念において判断すると、という話ではあるけどね。
ずっと二重政治を続けていると公共概念が希薄化する、簡単に言えば誰が悪いのか分かりにくくなって「こんな世の中になったのは○○のせいだ!」と声を上げにくい社会構造
幕末期で言えば、黒船に侵略されそうになってはじめて朝廷が悪い将軍様が悪いと押し付け合って軍力を奪い合って、暗躍するものはそれぞれに暗躍し、薩長同盟からの無血開城になるのだが、
これは一方では、「人的つながりでなあなあで話し合った結果の革命つぶし」だと言える面もある。自民がやってきた政治や、あちこちの会社で見られる「社内政治」みたいなのにも良く見られる密室性。
これは、二重構造の問題に加えて、「暗躍した」というのが、未来に大きな問題を積み残したという見方もあって、
内戦や革命を経なかったことで、結局誰が悪いのか「公共の場」で理論化・共有化することを放棄することになった。国民は公共概念を理解できないままというデメリットが200年後まで残る羽目になってはいる。
内戦や革命は、国体と市民のそれぞれの責任と役割の位置づけを、国(コミュニティ)全体で共有化するためのプロセスだったりもする。
人が死ぬことで身に沁むこともあるんだろう。が日本ではそれ密室で無血開城でやっちゃったからなぁ。
一方で、内戦はどの国においても国力を疲弊させる悪でしかないので、外敵の侵略脅威時期に内戦をしなかったことで世界的な帝国国家期に乗り遅れずに済んだラッキーさは大いにあるが。
坂本龍馬や無血開城については好意的な評価をする人が圧倒的に多いのだが、西洋哲学とか政治哲学とかやってる人だと批判的に読む人も少なくなかったり
今回ここで、「権利」概念が放ってしまう暴力性の起源について一人考えてみる
1週間もすれば3億人近いトンチンカンたちがまた祝うことになる、近代社会の幕開け=アメリカ独立宣言に遡ってみよう。250年くらい前のことだ。後にアメリカ人と呼ばれる極西の田舎者が黒人奴隷を足置きにしながらヨーロッパの政治哲学を読みふけっていた。そして、英国議会に「植民地のくせに生意気だぞ」と言われてしまったあの時、彼らのイギリスコンプは爆発し独立を宣言してしまう。この独立戦争とその後の歴史で彼らは「国家」を生み出しその中で「所有権」というものの不可侵性を「人権」として僭称したのだった。それまでもこの考え方は常にヤバい匂いを発してきたが「独立宣言」こそが全人類の脳みそに侵入し始めるウイルスになった。彼らはこう言う。「君たち、実はな、人間は生まれながらにして権利というものを持っていたのだよ」「君たち、これは自明の真理だよ」。誠に蒙が開かれるようである。実際に驚くほどたくさんの人が啓蒙されることになる。
ところで、ここで彼らが行なった欺瞞としてまずよく言われるのは足置きにしている「黒人奴隷」についてである。つまり黒人奴隷が人間の方にではなく所有物propertyの方に組み込まれてしまったことである。ところが、今回に限ってはそこは重要ではないと私は言いたいのだ。というよりも黒人奴隷の境遇があまりに深刻な問題であるから真の問題が後景化し見えなくなってしまっている。この深刻な問題をみたとき、我々、権利至上主義者の常識的な感覚からいって、100年後、200年後に黒人へ与えられたように、人間の権利、あるいは公民権で解決すべき(解決した)問題だと思わされてしまう。
でもこれは糞の上に城を立てただけなのだ。私たちの暮らす城の中はクソの匂いが充満している。「権利」などという考え方が、奴隷制的な、暴力的支配への渇望に支えられている。私たちはクソがあるなと思ったら「あっクソだ」と言わねばならない。「あれ?この部屋なんか、うんこの匂いしない?」は常に言いづらいセリフではあるが。
つまりどういうことか。権利を「持っている」、という発想自体にその欺瞞が現れている、と言いたいのだ。一般におそらくは「所有権を持つ」という表現すらあまり違和感をもたれないのである。独立宣言の下敷きになったヴァージニアで行なわれた会議の草案にもその矛盾を観れるかもしれない
That all men are by nature equally free and independent and have certain inherent rights, of which, when they enter into a state of society, they cannot, by any compact, deprive or divest their posterity; namely, the enjoyment of life and liberty, with the means of acquiring and possessing property, and pursuing and obtaining happiness and safety.
この2つ目の下線部は独立宣言では省かれるのだが「所有権を持つ」という循環した考え方を恐れたから、ではなく国家による税金の徴収を困難にするという理由であった。
何が言いたいかといえば、奴隷、武器、砂糖の三角貿易が成立して以降のヨーロッパ社会では、「権利」が「持つ」ものとして想定されねばならなかったのである。それは単純には、ある種の人々から「奪う」こと(あるいは「捨てる」こと)のできるものでなくてはならなかったからだ。つまり「所有権」が守るベーシックな価値は「権利」概念誕生の後に、「どんな種類の権利を作ろうかなー」と考えられて作られたものではなく同時に発生しているのである。そしてそのことは隠れたのだ。独立宣言に「自明の真実ではあるのだが我らは不可侵の権利を持っているのだと信じる」としれっと書き込むことで。じゃあ所有の意味を含む「権利」概念が発生した時に生まれていたものは何か。ここが今回の主張であるが、「支配欲求自体への承認」なのである。社会の一員として我々は「ある種の激烈な支配の形」を基盤にすることで社会を成立させている。それは「所有権」だけでなく「権利」全般の話である。
propertyに対しては当然そうだろう。犬猫などは黒人同様に解放が進みつつあるが根本的に我々は自分の所有する物をどれだけ傷つけても良いのである。対象物に対して欲求したことは特別に禁止されない限り全てぶつけることを許されている。私は自分の持っている熊の人形の腹を切り裂いてもいいしそこにペニスを突っ込んでも良い。それが所有権の意味するところである。ここで、人形はなんかかわいそうだし除外しようかというのもあまり意味がない。僕が言いたいのは、我々は所有権を「propertyに対して私が欲求することならなんでもしていい力」として想像していて、思考のスタート地点にそれをおいていることだ。この認識はもう一つ重要な感覚を孕んでいる。それは「私が支配するものに他者が介入することは許されない」ということだ。この二つの感覚両方が「権利」全般に流れ込んだのだ。そして実は我々の想像する「自由」のコアイメージでもある。自由にはこの欲望と支配の感覚が流れている。
しかしながらこの「自由」の感覚は「自由」を求める奴隷たちの反乱により一つの現実的妥協を産んだ。支配者はかつての奴隷たちと約束したのだ。我々はもはや君たちを支配しない。その代わりに我々は自分の体を支配するのだと。そして君たちもそうするのだと。人間なら誰もが己の体を支配できることにしよう。我々は平等に自由じゃないか。(現実として多くの旧黒人奴隷は扱いの悪い賃金労働者として己の体を「自由」に売買した。ほぼほぼ売るだけであったが。)
上記の経路は思考実験の一つでしかなく、実際は数百年前の「権利」概念の議論でも既に流れていただろう。しかし、ここで誕生したのは一風変わった、世界と人間に対する理解である。個人は他者からの介入=他者との人間的繋がりを切断できる独立した存在だという信仰なのだ。なぜなら自分の体を自由に支配し他者はこれに関与できないのだから。(工場で死にかけながら働く黒人労働者だって「自由」に辞められると考えることはできただろう。)「権利」や「自由」というものの概念自体にこれは染みついたのだ。
奴隷製の足置きで本を読む農園主の頭の中で作られた「近代国家・権利・自由」は、国家軍隊というとてつもない力に囲われながら、同じ発想の知的エリートを再生産し、根本思想の解体は迂回しながら様々なヴァリエーションを増やしてきた。その実践形は司法や行政の場から常に吐き出され、我々パンピーの脳みそにも影響を及ぼしてきた。
「権利」概念は、「権利」とは「持つ」ものだという支配欲求の肯定に支えられている、というのが基本的な今回の主張である。これが己の身体観や対人間観に影響を及ぼしてきた。実際皆が全く違和感なく自分の持つ時間と労働力を社長さんに売り払っている。基盤にある発想はまさに「権利」は「持つ」ものだから「捨てれる(売れる)」のである。あるいは私は他人の権利を「買える」のである。なぜなら私はその「権利」を「持っている」のだから。(一応断っておくが、これによって生まれる成果を否定するものではない。「支配/排除 と 欲望」を根幹にする原理が一度は平等性/対等性 になりながらも、次の段階で一人の人間があらゆる人の時間と行動の自由を支配し皆がそれに納得していることに注目したいのだ。この一人の人間も様々な人の投資で買われていてもう少し複雑だろうけれど。)
長々書いてるのに平板な話になってるだろうか。ここに資本の燃料をぶっ込めばいくらでも非人間的な方向に暴走できるのは想像にかたくないし、読んだことないけど共産主義とかポモとかもこういう認識の型への反発からスタートしてるのでしょ。現実に非人道的支配を読み取った人たちの反発から生まれた社会「権」などは対抗力として機能しただろう。ただそのことに対しても言えるのは「権利」「自由」の枠組みがそのまま利用されたということだ。近代国家という装置がこの世界にセットされた1776年の7月4日のあの日から全人類の脳みそはハックされた。今もなお屋台骨として社会を支え続けている我らが人権万歳!自由万歳!国家万歳!
いま苦しんでいるマイノリティも、「支配と欲望」の匂い漂う「権利と自由」概念を使って「国家よ行動しろ」と闘争せねばならない。あるいは彼らがそうでない社会活動を試みていても(例えば、他者との網の目を強化したり、国家ではなくコミュニティや人々の意識を変えるために動いていたとしても)、そのように立ち上がる姿をメディアでみた我々は、そこにまた「権利と自由」闘争の型を読み取っていないだろうか。「障害者が、また支配と欲望を前面に出してるのか。今度は何を要求するのか。」と。そして人間の、恥を知らない無意識は、何かを奪おうとしているマイノリティを見てこう訴えてくるのではないか。我々はこいつらを「支配」し「排除」しなければならない、我々の「権利」と「自由」のために。
ラジオで小西克哉が言うてたけども、アメリカでは共和党シンパと民主党シンパの間の生活スタイルの差が思考の違いを生み分断を広げているのが困るねと問題視されていて、アメリカの政治哲学業界では調査研究が盛んに行われているらしい。
例えば、ホールフーズマーケット or ウォルマートみたいな生活スタイルの差が、思想やメンタリティの差を広げてしまうことで、コミュニケーション・ポイントが無くなってしまう、という割とお先真っ暗感の強い話。
確かに「貧/保守/全体」 vs 「富/グローバル/個」みたいな分断はすっかりインターネットではお馴染みの対立構造だし、両者の橋渡しが可能となるコミュニケーションがどんどんなくなってきてる実感はある。
アメリカのことだけじゃなくて近頃は日本でも世界中の他の国でも、話し合いのしようがない分断はあちこちで目にする。それこそバニラ・エア事件でも同じような分断が見えるし。
バニラ・エアの件は、あれがLCCじゃなかったら一方的に飛行機会社だけが炎上してたと思うんだよな。「貧・全体」という視点によって対立軸になって、結果的に分断を更に深める役に立ってしまっている。単に 全体vs個 じゃないから話がややこしくなるというか。
自分は比較的「富/グローバル/個」の側に偏ったスタンスなのだが、こちらサイドの謎の頑なさにも正直へきえきすることも少なくないんだ。落としどころを見つける気があるのかお前らという感じで。
これ、日本の研究者もだれか手を付けてないんだろうか。何となく日本の法哲・政哲系の研究者が手を付けると、例のごとく説教くさい左巻きのことしか言わなかったりしそうな悪い予感はあるが…。小西さん研究者の名前上げてたから原典当たるかなぁうーん英語読むの面倒くさいんだよな。
↑↑ではないけど横から失礼。
少なくとも現代の一般的な区分では、リバタリアンとリベラルは国家の大小の違いはあるけど、個人の自己決定権を重んじるのは同じだよ。
語源からしてlibertyだし、リバタリアンはリベラルから出てきたものだし。
そこら辺はリベラルが(リバタリアンからみて)自由じゃなくなってきたという政治哲学史の話になるのでややこしいけど、とりあえずはノーラン・チャート(政治思想を「個人の自由」と「経済の自由」の二軸で分類)を調べてみるといいと思う。
>最小国家で法律とか最小限のルールだけ決めてあとは市場原理に任せて好きにやってれば最適化されるんだからそれでいいんじゃね
というのは主に「経済の自由」についての主張で、ここはリバタリアンとリベラルが違う部分。
この記事は博士課程 Advent Calendar 2015 - Adventarの5日目のエントリです。前回はid:kybernetesさんのこの世界への関心を諦めない人に博士課程はオススメ - 表道具でした。
(今年は無事に退学せず済みそうなので、退学 Advent Calendar 2015 - Adventarじゃなくてこちらに参加します。)
http://anond.hatelabo.jp/20141201200815]から大幅にテンプレート拝借。
Q1. 博士課程ってなんですか
A1. 大学院入試の面接で「進学するつもりはある?」って聞かれるあれ
たいていの理系人生において、ここに進むか否かで修士課程終了後の幸せ曲線が大幅に変わるともっぱらのうわさ。(私はまだ実感してないんですが、この手の話聞くたびおっかない)
Q2. なんで博士課程に進学するんですか
A2. 高校中退したあと某高専に潜り込んでたんですが、「高専の新卒」という最強就職カードをかなぐり捨てて大学編入しちゃったので毒食わば皿まで、ではないですがやるとこまでやったろう!というのがひとつ。
高専時代に言われた「好きなことを仕事にすると長続きしないよ」とかいうもっともらしいアドバイスを真に受けて転科する!って編入した先があろうことか原子力系で、在学中の3/11以降いろいろ考え修士課程でまたしても転科したので、たった2年じゃやるとこまでやれん!というのがふたつ。すごくいきあたりばったりですが特に2つ目はこればっかりはしょうがない。
Q3. 普段どんな生活してんのさ
A3. 後述のRAが勤怠とられるので、普通に9時5時で他の職員さんと同じような勤務体系です。
理論系だし実験と比べて体力的に楽かなーと思いきや、週末もけっきょく自宅で作業してしまうので気分的には週休ゼロ日っぽい
研究で頭ハチハチしてると朝の民放テレビとかマジで情報の洪水、うるさすぎてたまんないのでNHK教育ではなかっぱとか見て心を浄化してから出勤してます。
あとは平日休日問わず、メンタルのために趣味のゲームしたりピアノ弾いたり、こういうのがすごく大事な時間です。
A4. 某国研のRAで学費とか税金年金もろもろ賄ってるのと、実家暮らしで家にお金入れてるわけでもないので(お父さんお母さんごめんなさい!)あんまり気にしたことはないです。
一人暮らししたら学費免除通りやすくなるのかな…在学中に結婚したら学費全額免除もらえたとか、配偶者に養ってもらいながら(3号被保険者として)生活してたとか、聞くけどどこでみなさん恋人とか見つけてくるんですかね???
Q5. 学振について
A5. 私は修士課程から新しい分野に来ていまだに業績ほとんどないから全然無理無理、って思って出してないんだけど、情報系とかみたいに早くからぽんぽん査読つき学会だの論文だの出せる分野だと申請書も見栄えするんだろうなぁ、って勝手に思ってます。物理の人もそんなみんな修士課程からポンポンPhysics Review うんちゃらみたいなのにポンポン載せてるんですかね…
Q6. インターンについて
A6. 来年に行く予定があるんだけど、大陸ヨーロッパなので日常生活で英語通じるのか?っていうのと最近はテロがちょっと心配。
他の人とか分野の事情まったく知らないんだけど、大学とか受け入れ先から予算が出るなら是非とも行っておいたほうがいいのでは。
Q7. 楽しいこと3つ
A7.
(1) 高専卒で就職した同期とかの話聞くと、「仕事の内容はいいんだけど人間関係が辛い」(脳筋DQNか体育会系みたいなのが多い、の意)というのを割りと聞くので、そういうのが理学系だとないなーっていうのが人間関係に恵まれてていいなって思います。高専の特に機械科とかほんと脳筋DQNのすくつだったしね。
(2) RAも実際のところ普通のホワイトカラーと違ってあんまり時間には厳しく言われないので、朝が弱いマンにとっては大変助かる。
(3) 本人はいつも自分には研究向いてない…辞めたい…って思ってるのに、親しい人とか親戚がすごく買いかぶってくれてるとこ。自己肯定感が全力で慰撫されますね。
Q8. つらいこと3つ
A8.
(1) 当たり前ですが自分の頭で考えて自分なりの意見を主張していかなきゃならないこと
いまだに自分の意見をいうのが怖い、いつもいつもフルボッコにされるんだろうなーって怯えながら進捗報告する日々。
(2) 将来への見通しが無い
(3) どうせいずれ死んでしまうのにこんな研究やってて何の意味があるんだ…
Q9. 現時点で後悔していること
A9.
(1) 高専から大学に編入するときに専攻を変えてしまったこと
高専から大学編入して学振DC1通ってる人とかけっこういるじゃないですか、彼らは高専時代からずっと自分の専門分野に一途だったんでしょう。
まさに「転がる石に苔つかず」で、転がってばかりだと成すものも成せなくなるんだなあ。
安定は、希望です | 参院選に挑む | 公明党みたいな人は博士課程に進学しちゃダメ!ゼッタイ。
(3) 人間関係を軽視しすぎたこと
いろんな人の話し聞いてると、高校や学部時代の人脈があとあと強い意味を帯びてくる、みたいなのあるじゃないですか。
高専で人脈とかまぁ無理にしても、学部時代に引きこもったりしなければ、留年したりしなければよかったな。
A10.
(1) 「正しさ」をめぐって駆動される権力の力学に無頓着な人
これだけで政治哲学上のひとつのトピックになりそうだし私が簡単にどうこう言えるものではないけど、教員側でもそういうのに無頓着な人がいますしね。本人の名誉のため名前は伏せますが
教員:「何でも良い、言え!」
なんていう地獄絵図はまったく想定していませんでした。
みたいなブログも見つけまして、大変脱力してます。一歩大学の外に出れば↑みたいなのがむしろ普通なのにね。そういう環境に適応してきた学生だけ一方的に責めるのはどうなの?
(2) 命令・指揮系統が崩壊している末期戦みたいな前線でも気にせず自分勝手に動ける・動きたい人
A8(1)と関係しますが、上から命令が降ってくるわけじゃないので、【北朝鮮】最高司令官同志、命令だけ下してくれ! - YouTubeみたいなのは決定的にダメですね。
(かの国における首領・党・人民の三位一体による有機的政治生命体、っていうのはたぶん研究職と相性悪いと思う。)
(3) 聞き分けのいい素直なお利口坊や/お嬢ちゃんじゃなかった人
高専の同期のDQNが「ああぁぁん?てンめぇナマいってんじゃねえよぶっ殺すゾ!!おおおぉぉぉん??(どうでもいいけどなんでこういう威嚇する声ってだいたいプロソディーが短調ぎみなんだろう?)」って言っててもあんなん慣れりゃ自分に直接は害が振らないから別にいいけど、自分の今後に生殺与奪を握ってる偉い人相手には「相手の意のままに動かなきゃ、自分から敢えてケンカ売るようなマネは…」というのが適応戦略としては普通なので。そういうまともな感覚が無い人のほうが博士課程向いてるんじゃない?
後半が「博士課程もう辞めたいこんなん嫌や!!」って思いながら書き溜めたやつで、前半がちょっと最近持ち直してきたときにかいたやつなのでニュアンスが違いますが
フェミニストの方々(あるいはフェミニズムに詳しい方々)に聞いてみたいことがあるので書いてみます。
私は個人主義的リベラルの男性です。私はフェミニズムを支持しておりますが、それは以下の理路によるものです。
フェミニストへの質問1:以上のような個人主義的リベラルの観点からのフェミニズム理解は、ほぼ「リベラル・フェミニズム」に重なるものとして理解してよろしいでしょうか?
上記のようなフェミニズムに関しては私は100%支持をしています。
一方、私の理解が追いついていないのは「ラディカル・フェミニズム」についてです。
ここから(理解が乏しいので)間違ったことを書くかもしれませんが、上記の(A)-(D)の理路のような(個人主義的?)フェミニズムにおいては「善に対する正の優先」というテーゼが成り立っているように思います。つまり、「善い/悪いcapability」というものの内容については特に言及されておらず、fairnessの貫徹のみが求められているように思います。
【*補足:ここで「善に対する正の優先」という用語は、このサイトの説明における「善の構想の複数性の尊重」の意味で用いています。「善」「正」の定義についても同様の政治哲学的文脈を踏まえて議論しています*】
一方(もし間違った理解であったらその旨ご指摘ください)、「ラディカル・フェミニズム」においては「capability」の中でも「権力をつかむ(男性から権力を奪う)ために有用なcapability」が「善い」ものとして優先されてるのではないかと感じています。例えば、フェミニストの中にフェミニズムと新自由主義の親和性の高さに懸念を表明している方々が散見されますが、そのような状況は上記のようなラディカル・フェミニズムにおける「善の優先」の存在を表しているように思います。
フェミニストへの質問3:もし誤解でないとしたら、ラディカル・フェミニズムにとって、そのような「善の優先」の存在は本質的なものなのでしょうか?
私にとっての「ラディカル・フェミニズム」の「分からなさ」というものは、以上のような「善に対する正の優先」というテーゼがラディカル・フェミニズムにおいてどのような位置を占めているのだろうか?というものです。
https://twitter.com/Morgenthau0217/status/521845540087021569
「正義」と言うと胡散臭く感じたり、他の正義との対立の火種と捉える人も多いでしょうね。でも欧米系の政治哲学では、正義はどちらかと言うと「公正」のニュアンスに近いの。日本のアニメなんかに出てくる「正義の味方」って「善」のニュアンスに近いでしょ。哲学用語の正義は、善とは異なる概念なの。
Fateの主人公の衛宮士郎は、モロにこのツイートにあてはまる「正義の味方」になりたいというキャラ。
主人公なんて大抵いい人でいいことをするから正義の味方なんだけど、Fateは特に正義の味方ということにこだわった作品で、士郎は命がけで聖杯戦争を戦う中で正義の味方になろうとして苦悩する。だから、特に日本のアニメなんかに出てくる正義の味方の概念を考えるのにいいと思う。
そしてFateと対比するのにいいのがタイトルに書いたけどレイシストをしばき隊。こちらはフィクションじゃなくて現実の日本に存在する組織だ。
しばき隊のリーダーの野間易通(kdxn)は自分でしばき隊のコンセプトを細かく説明している。読むとこれがね、国際政治学たんの言うところの欧米系政治哲学での正義であることがよくわかる。ジョン・ロールズの影響を語っているので間違いないだろう。
http://kdxn.tumblr.com/post/81061752924
リンク先。kdxnにとっての正義というのは弱者を守ることではないと説明されている。むしろそういう考えを批判どころか否定するのが大切なんだとされている。日本のアニメのファンとしてはけっこうおどろくよね? 俺もおどろいた。Fateの士郎の考える正義は困っている人を助けるとか死にそうな人を助けるとかいうことだ。みんなそう思っているはず。なのでFateが真っ向から全否定されているようなものだ。Fateの物語の中で士郎は正義の味方であることにこだわりすぎて自家中毒になってアイデンティティクライシスに陥っちゃう。士郎の父親の切嗣も同じだ。kdxnはツイッターでくりかえし完璧な正義へのこだわりを批判している。それはもちろんFateとは関係ないんだけど無理やり読めばFate批判みたいにも読める。
しばき隊対批判派で争いがあってその結果は言葉の議論だけだと結局納得しない人が多いだろうけどしばき隊は相当話題になってテレビに出たりした。現実問題しばき隊が勝ったといっちゃっていい。政治は結果がすべてだからね。
しばき隊は現実の日本で自分たちの考える正義概念を実践してアピールしてみせた。すごすぎでしょ。もう正義なんてとっくに古くなって無理だとみんな思ってたのにw ここでFateは現実に負けた。
しばき隊は注目を集めた短期的な成功だけじゃなくて長期的にもFateに勝っている。士郎みたいに「「正義の味方」とはなんだ~?」と悩まない仕組みになっている。正義を追求しているのは同じでも正義の概念が違う。
しばき隊は弱者のためではなく社会のために行動するので弱者に対して思い入れすぎない。完璧な正義ではなくて比較的な正義を求めるので完璧主義で悩まなくてもすむ。多数を助けるか少数を助けるかなんてのはくだらない。助けるためじゃなくて社会の公正さのために戦うらしい。ヤバイ。
士郎的な正義は実は正義じゃなくて善なのよね。困っている人を助けることは正義と関係がない。慎二みたいなクソ野郎はしばき隊は助けるわけがなく罵倒するんだろう。
つまりぶっちゃけて言うと士郎は正義を理解してないから正義の味方なんてくだらないことで悩んじゃうのである。
正義は自分を犠牲にして化け物と戦うことより、「ヘイトスピーチをやめろ」と言うことなんだ。これに納得しない人(俺も半分はそうw)でも主張の強さは認めないといけない。
アニメやゲームもこれからしばき隊的正義を扱わないと現実に負けちゃうだろう。それじゃ存在価値ないしねw 現実もフィクションも面白がらせてほしいw
http://anond.hatelabo.jp/20120526091039 続き
https://twitter.com/sasakitoshinao/status/206228386853560324
なんか「Studygiftは<公>だと思ってたのに<私>だったのか、騙された!」とか言ってる人が何人かいるが、公の意味をこれからもう一度再定義した方がいいと思う。そうやって怒ってる人は公がどこかから神のように降ってくる存在だと思っていないだろうか。
https://twitter.com/kirik/status/206229674295181312
いや、公を誤認させてはいかんでしょ RT @sasakitoshinao なんか「Studygiftは<公>だと思ってたのに<私>だったのか、騙された!」とか言ってる人が何人かいるが、公の意味をこれからもう一度再定義した方がいいと思う。そうやって怒ってる人は公がどこかから
https://twitter.com/sasakitoshinao/status/206228646128656384
公は天から降ってくるものでなければ中間共同体が勝手に担ってくれるものでもなく、今後は<私>の無数の集合体、<私>がつくるさまざまな仕組みの集合体によって<公>が成り立つという方に考えを切り替えないと。
https://twitter.com/kirik/status/206230378468487169
先生、public というのはきちんとした定義のある言葉です。ご主張は理解しますが、今回の事例でそのような理屈は通らないと思いますよ。 RT @sasakitoshinao 公は天から降ってくるものでなければ中間共同体が勝手に担ってくれるものでもなく、今後は<私>の無数の集合体、
https://twitter.com/sasakitoshinao/status/203695743184273409
おっしゃる通りです。情報は開示されてる。家入さんという個人の信頼でも担保されてる。詐欺じゃないでしょ。 RT @fox_m @sasakitoshinao 単位とらなかろうが旅行に行こうがそれをひっくるめお金出す人の選択の自由はあるという話を佐々木氏は言ってる気がするんだけど。
https://twitter.com/sasakitoshinao/status/206751155445956608
私は家入一真という人は、おおくの人が批判するように欠点もたくさんあるのかもしれないけれど、彼が追い求めている価値に共鳴している点で全幅の信頼を置いています。
https://twitter.com/sasakitoshinao/status/206752926461476865
そんな担保などあるわけないでしょう。すべては個人の意見。客観など幻想にすぎない。 RT @maitreya_K 公私とか自助公助とか、そういう切り口自体が佐々木俊尚さん、あなたのセルフサービスの問題意識と見受けられます。その見方はいったい何によって担保されているのでしょうか?
先ほどTwitterに連投したStudygift問題についての論考です。以下、少し整理して転載します。
一連の議論を見ていて思うのは、個別包摂と社会包摂がごっちゃになってしまっていませんか?ということ。社会包摂とは生活保護などの公的扶助をはじめ、誰もが平等に享受できるセーフティネット。個別包摂は、個人的なつながりの中でのセーフティネット。
たとえば隊長の「就学希望児童助成を軽いノリでやるな」という記事もそのひとつで、社会包摂としてはこの視点はそうだろうと思う。しかし個別包摂にまでそれを求めるのか?ということ。
■家入一真さんの例の件で願うことなど: やまもといちろう http://bit.ly/KArAfU
個別包摂なんて、親戚のおいちゃんおばちゃんに金出してもらうのと同じレベルで、単にそれをネットのオープンな場所でやってるだけ。だから「出したい人が出せばいい」と私は書いたわけです。そういう家族単位、知人単位、ソーシャルグラフ単位の個別包摂の集合体が、公的扶助などの社会包摂を補完していく可能性があるから。
だから個別包摂で、後から「なんだお前退学してたのか!」「男女関係からんでんじゃないの?」とかそういう話が出たとしても、おっちゃん(支援者)と姪(被支援者)の間で話せばいい話。「ほんまに復学する気があるのか?」「おまえ結婚しても学業続けられるんか」みたいな、そういうレベルの話。
そしてこの社会的包摂と個別の包摂の混同は、実のところ河本準一氏の生活保護騒動にもつながっている。「息子が支援(個別包摂)できるのに生活保護受ける(社会包摂)のはけしからん!」と。河本氏にあなたは個別包摂を利用せよと求めている。だったらなぜStudygiftの坂口さんには個別包摂によって支援を受けることを許さないのか? 二つの問題の根っこは、ここで実はつながっている。
Studygiftは皆が見える場所でやってるからけしからん、目に入らないところでやってくれという意見もあるだろう。まるで全員に門戸が開かれてるように誤解させるのはけしからん、と。だがこうした個別包摂でさえも可視化されてしまうのがネット時代の恐ろしいところなのだ。そしてこの可視化時代に、妬みや誹りや恨みの対象となるありようはそこらじゅうに可視化されている。今までは知らないで済んでいたことが、全部見えてしまう。これはある意味たいへん苛烈な時代だ。
しかしこのような個別包摂の試みは今後も次々出てくるだろう。個人間送金が簡単になればさらに加速する。私はその多様化は社会包摂を補完するありかたとして否定すべきでは無いと思う。今回のStudygiftは拙速なのは事実だが、そういう試みの最初の小さな一歩にすぎない。
ネットを活用した個別包摂のセーフティネットに対して「うまくやりやがって」「詐欺だ」と怒る人たちは今後も増え続けるだろう。それは避けられない。たとえばこの記事などが典型だ。
■仮に僕膣と学籍詐称が無くてもstudygiftは駄目だよな http://bit.ly/KAuGAA
無償のリスペクトが応酬されているだけの評価経済社会に留まっていれば、問題は起きなかっただろう。だが評価経済と貨幣経済が結びつくことで、評価=カネということが実現してきている。これは大きな波紋を投げ掛ける。
すべての人々が平等に包摂されるような時代は最早やってこない。そういう包摂は戦後社会でも平等幻想でしかなかったが、その幻想さえも剥ぎ取られる時代になってきている。だからこの問題への怨嗟は今後もなくならないだろう。しかし社会亭包摂とは何かということをもう一度考えなければならない時期に来ている。
自らを助ける者が助かるだろう。しかもその「助かる」有り様は見えてしまっている。だったら自らを助けられる者だけが助かればいいのか? そして、自らを助けられない者をいったい誰が助けるのか? これはコミュニタリアリズムとリバタリアニズムの対立にも繋がってる。だからここから本当に真っ当な政治哲学的な議論が始まるのかもしれない。
そう期待したいけど。
いのうえ とーる 私もこれを全く社会包摂で語って批判する人が多いことに最初から不思議でなりません。説明不足である問題点を除けば、売りのある人、自分がいいなと思った人を援助することは不自然でもなんでもないわけですし、そこに不公平だと文句をいうのはおかしいと感じます。だから、わたしは批判のほとんどは単なるそういう行動ができない人の嫉妬にすぎないと思えるのです。
上田 康之 ぼくも佐々木さんの言わはることに賛成なんです。同棲してたとか、退学してたとか、どーでもええ話やと思います。
勝手にやりゃええ話やと思います。
ただ、隊長の話と少し似てるんですけど、なにぶん対象が「子ども」なんで「顔を出して、実名も晒して、学校に行きたいけどいけないというプライバシーを晒すことが、どれだけの苦痛を将来において背負うことになるのか」ってのが少しだけ気にはなりました。
この子は20歳超えた子ですし、その点は理解してるかもしれないですけど。
最上 雄太 Twitterにも幾つかレスしましたが、別に悪意も変な扇動をしようという気もないのは伝わりました。
寄金 佳一 星野智幸さんが小説家らしいさすがの感性で語っています。「私たちがバッシングし、叩こうとし、殺そうとしているのは、「俺」なのだ。自分なのだ。」と。
http://hoshinot.asablo.jp/blog/2012/05/26/6457416
で、悪意がないのにこういった事を本気で書かれているのにヤバいな、と思いました。
不特定多数と知人の区分けが無意味と言いつつ、個別包摂と社会包摂に分けて考えろっていう起点自体が無茶苦茶ですよね。
先の「無視すればいい」という発言もそうですが、本質が全く見えてらっしゃらない。
今回こういう騒ぎになっているのは、一言で言えば「当事者に納得感が無い」からですよね?
この納得感というのは言うまでもなく必須要件であり、また今回の「当事者」は支援をする側される側だけじゃないですよね。
皆まで言いませんが、仲良しごっこも同好会ノリで楽しくやるのも全然いいんですが、迷惑かけないでって事です。
おおつね まさふみ これは「おっちゃん(支援者)と姪(被支援者)の間で話すようなトークを、単にネットという開けた場所でやってるだけ」って言われるだけのような……
おおつね まさふみ 「社会的包摂と個別包摂はネットで差別される。前者について発言するのは自由だが、後者については言論の自由は制限される。理由は◯◯だ」の、理由の部分がなんだかわかりにくいので、そこを聞きたい所。
川岸 義明 今回の件で、就学希望児童助成自体が世間的に眉唾に思われたのであれば....個別包摂,社会包摂に関わらず、痛い話だなぁと...支援者がそれを正しく区別できるのでしょうか....よくわかりませんが...
Kanehira Takashi 学費援助の件では、否定派と肯定派の対立軸がすぐに出来て、両者を包摂するとしたら、弱者を助けたい人(肯定派)の役回りになりそうです。生活保護の件でも、否定派と肯定派の対立では、やっぱり弱者を助けたい肯定派が、否定派に地道な説得をすることでしか包摂が来ない気がします。否定派は日本版ティーパーティーに見えます。閉塞感があるとさらに狭い方にいくのだなと。歴史を振り返ると、女性参政権を勝ち取った人はなんて偉いんだろうと想起したりもします。
くらます りょういち 個別包摂の試みというのは、ずいぶん前からありますね。いわゆる「○○ちゃんを救う会」。海外で手術受けるのに○千万円必要です、みたいな。
しかし、その「○○ちゃん」の情報が、もし事実と異なるものであったとしたら。それがお金を集めた後に明らかになったとしたら。
はたしてそれは「おっちゃん(支援者)と姪(被支援者)の間で話せばいい話」で済むんですかね。
上田 康之 くらますさんの【「おっちゃん(支援者)と姪(被支援者)の間で話せばいい話」で済むんですかね】は、それで済ませたらええんちゃうかなぁ。
もし、その子が将来、極道になったとしても、文句言わんと、それ込みで支援したろうって思ってやったらええんちゃうかなと思います。
はやし りょう 社会的包摂と個別包摂を区別してるんじゃなくて、資金の集まり如何に依らず目的を達成出来ない可能性を明らかにしないまま支援名目で投資を募ったのが叩かれてる原因じゃないですか?社会的包摂と個別包摂で区別して云々って論調が通るならば極論すれば「ばれなきゃオレオレ詐欺ってOKなの?」って話になりますし。
今回の件は何がよくて何がだめだったのかを議論してブラッシュアップを図るのが第一で、論じる人の社会的な関係性に論点ずらすのは単にこのネタつかってプロレス見せてるに過ぎないと思います。
おおつね まさふみ それだと「支援もしないし、興味もないけど、紛らわしい弱者風の錯誤でカネ集めているのは見過ごせないから個別包括をネットのオープンなところで主張する」という人だって居てもいいよね。
はやし りょう おおつねさんの発言がStudygiftをウェブで展開する事の意義だと思います。意見を述べている人の立場を以て「あなたには発言する権利がない」というのはもう本当にナンセンスですよ。そんな主張は第一次世界大戦でもう過去の遺物になってるんだから、知的なブラッシュアップに社会的立場とかホント混ぜないでほしい。
芝尾 幸一郎 個別包摂の取り組みだったら、金くれ http://kanekure.ssig33.com/ と言うサイトで良い気がします。そして、現にこのサイトは別に炎上していない。個別包摂の例なら上のサイトの方が適切な気がします。
金くれ
kanekure.ssig33.com
松本 孝行 社会が面倒を見るのか個人が面倒をみるのか、それを河本さんの話だけで語るならいいですが、studygiftを混ぜてしまうと、とたんに焦点がぼやけてしまいます。その問いかけはたしかに社会起業家やサッチャー・レーガンの社会福祉削除の話とも関連して、非常に重要だとは思います。しかしstudygiftの話はまた別問題です。それに私的な援助ができるのはジャストギビングなどもあるわけですし、なにもstudygiftがダメに成ったから全てダメになるということはありません。むしろ、今回の件は私的な寄付という行為へのハードルを上げたと思っています。
とにかく論点はそこじゃないと思いますよ。
荒巻 里江 個別包摂と社会包摂の区別以前の問題では…? 被支援者が嘘(あるいは誤解を招く言葉)を堂々とサイト上に掲げ、お金を集めようとしたことは、仮に悪意が無かったにしろ問題のある行為ですよね。そして「お金を出したい」と思わせる為の嘘に気付けば、いくら身内のおっちゃんと言えど腹が立つのではないでしょうか。そしてそんな嘘に騙されたおっちゃんの存在を知った周囲が、姪を批難するのは至極当然の流れだと思います。私には佐々木さんが「騙したのが身内のおっちゃんなら何ら問題ない」と仰られているようにしか見えないのです…。そんな馬鹿な話がまかり通るのであれば、世の中の詐欺は無くならないでしょうね。
稲畠 康 概ね同意ですが、個別包摂とはいえ間にサービス提供事業者(本件ではLiverty)が入っている訳で、「おっちゃん」と「姪」の間で話せばいい話と言う下りに疑問があります。
小林 啓一 私も次長課長の河本さんの件とstudygiftの問題はほとんど同じく(Twitter風に言うなら公式RTする様に)感じていました。
これって例えば子供が自立した夫婦の片方が亡くなった時、残された方が再婚する事に親族が反発してしまう話と同じと考えています。
つまり日本社会では成人でさえ個人としての自立が得られず、私で解決すべき問題と公で解決すべき問題の線が引けない、判断できない。
しかもそれに対して、それこそ非当事者が当事者の問題にずけずけと土足で入り込んで、さもしたり顔で持論を押し付ける。
こういう嫌らしい社会にしない様、個々人の当事者性を高めるにはどうしたらいいでしょうかね・・・?
佐々木 俊尚 叩きやすいものを叩く。叩かれてるものを擁護すると、「今さら何擁護してるんだ佐々木は、バカじゃないの?」という反応が湧き出てくる。ドヤ顔で勝ち馬に乗る連中が大量に湧き出てる。
おおつね まさふみ 「誰にでも叩く理由があれば叩く自由は有るよね?」って話なんですが、批判者ウザいっていう話だったのかな?
河村 明 当事者でないものはもの言うな、という考え方は当事者性を高めるのと、逆のところにあるような気が...違和感を感じました。
荒巻 里江 少し気になったのですが、佐々木さんは『問題点を指摘して批判すること』と『ただやみくもに叩くこと』を一緒くたにされてませんよね??? studygiftに対して批判的な意見は『すべて悪だ』と思われてませんよね??? 汚い言葉を吐き捨てるだけの人間も勿論います。しかしstudygiftを批判している人間全てが、ただ勝ち誇りたくて、ドヤ顔をしたくて、運営側に行動を起こしている訳ではないのです。佐々木さんに言わせれば『これは当事者だけの問題だから周りが口を出すな!!』ってことなのかもしれませんが、(揚げ足をとるようで非常に申し訳ないのですが、)もしそうであるなら『非当事者である佐々木さんがstudygiftに関して擁護的な意見を述べられたこと』にも違和感を感じざるをえません。個人的には、改善すべき点を完全に無視して、盲目的に運営側を擁護されるのは少し危険なのでは、と思います。
Shuichi Asai 恥ずかしながら、個別包摂という言葉は初めて聞いたのですが、「個別」と「社会」という分け方が、そこまでデジタルにできなくなってきてるのではないでしょうか。人の姪のことでも、親しい家族以外の人でも、アドバイスする可能性があるでしょ?インターネットでおおっぴらにやられると、なんでも身近に感じてしまうんですよ。コンプガチャ問題も、同じようなもんでしょ。みんな、コンプガチャなんてやっていないのに、嫌悪感を持つ。インターネットに人間がいる以上、このような現象が避けられないので、これを考慮してリスクヘッジするか、覚悟して強行突破するしかないのではないでしょうか?
Shuichi Asai あと「ドヤ顔で勝ち馬に乗って、したり顔している連中」は佐々木さん側にも沢山いますよね。
木下 孝二 生活保護の件、社会包摂の不正利用という1事例にすぎない。学費の件は、個別包摂を依頼する側の本人、仕掛人の当事者性が不足してましたね。「投資」ではない借金や資金支援というのは財布の中身やネガティブ情報も十分に相手に晒す必要がありますから、パブリックな場で募集しようとすれば当然それらを全公開する覚悟が要る。中途半端に情報量を抑えようとしたから、支援要件としての情報量を満たせなかった。
木下 孝二 やまもと氏は「学業支援という未成年中心の支援に機微情報全公開の手法はふさわしくない」と述べていてそれに同意するわけですが、佐々木さんも述べている既存のクローズド(親類)から一歩だけ進んだ、クローズドなソーシャルグラフ上での支援というのが、「一歩先のネット時代の支援」の形ではなかったかと思います。studygiftはいきなり全公開ですから、ちょっと勇み足が過ぎたかなという印象です。
最上 雄太 確かに叩く事自体が目的の人も散見されるので、イライラされるのも、ニュートラルを保つのが大変なのも分かりますが、勝ち馬とかドヤ顔とかいう言葉が出てくる事自体に驚きです。叩かれてるとか周りがどうとかではなく、それこそ極めてニュートラルな視点から感じた事を僕は言っただけですし、ほとんどの方も同様なのでは。論点ずれるのでこの辺にしておきます。
佐々木さんの論考には賛同しかねます。なぜなら、佐々木さんが個別包摂という概念を持ち出すのであれば、Studygiftでは支援者と被支援者との関係が、おじさんと姪のような信頼性が担保される関係には無いからです。ネットの時代の個別包摂だからといって支援者に寛容を求めるのは、支援者にはあまりに酷な話でしょう。
そもそも包摂とかコミュニタリアリズムとか、そんな複雑な概念で論考するような深刻な事案でしょうかね?私には小難しい言葉を意図的に多用して御自身の主張「出したい人が出せばいい」の正当性を守ろうとしているようにしか読めないのですが。
やまだ まさゆき 個人的には「親戚のおじさんが、懇意にしてるキャバクラの女店を持たせたいけど、身銭で賄うんじゃなくて、「この子の夢を叶えてあげたいので、ちょっと金をくれないかな」って言ってきたって印象。
てめーの女なんだからてめーで金出せよって思うし、どうみても「かわいそう」だからじゃなくて、下半身問題にしかみえないのを「かわいそう」という綺麗事を全面に押し出そうとしているから問題視されているのだと思う。
「ばれなきゃオレオレ詐欺ってOKなの?」という書き込みがあるのだけれども、studygiftで今回提示されている案件は血液型占いを本気で信じている人だって「あー・・・これは」って気づくくらいの作りになっていると思うのね。オレオレ詐欺なんか比較にならないくらいにユルいというか最初から、ぐぐたすで有名になったおねーちゃんがiPhone持ってインドなうにお金出してね☆(・ω<)だっていうのは誰の目にも明らかなのに綺麗事で押し通そうとするから、切り込み Permalink | 記事への反応(1) | 11:15
昨年放送されていた、マイケル・サンデルのNHK白熱教室は非常に面白かった。そんな折、NHKの白熱教室番組で解説をされていた小林正弥氏が、「サンデルの政治哲学」という新書を出されていたことを知った。早速読んでみたところ、あまり理解が及ばなかったカントの部分であるとか、サンデルより他のコミュニタリアンと呼ばれる思想家たちのことも書いてあり、とても勉強になった。
そのうちにサンデルよりも氏がどのような研究をされているのか興味が出てきて、他に書かれているものを大学の図書館で調べてみた。小林氏はどうやら「公共哲学」というものを日本に根づかせようとされているらしい。堅苦しい哲学というよりも、実践を本分とする「公共哲学」にも興味を持った。そこで、昨年出版された「アクセス公共学」という本を図書館で借り、小林正弥氏の論文を読んでみた。「日本政治の公共学」という興味をそそるタイトルである。
だが読み進めていくと・・・
そこには驚くべきことが書いてあった。
少なくとも、以下に引用する文章(それは論文の最終節にあたる)が、サンデルのjusticeを解説されていた人の書くものとは到底私には思えなかった。私には以下の論文のjusticeがよくわからないし、これが日本の公共哲学なのであればそのようなものは・・・とも思わないでもない。少々長くなるが、はてなユーザーの賢明なるみなさんに、ご意見を賜りたい所存である。
この民主党中心の連立政権(社民党と国民新党との連立)は、脱官僚と政治主導、そして地方主権を主張し、対等な日米同盟を公約に掲げた。また、成立した鳩山政権は「友愛」と「新しい公共」を理念として掲げて、地球温暖化問題についてCO2排出量の25%削減(1990年比)という鳩山ビジョンを提起して世界の喝采を浴びるとともに、東アジア共同体のビジョンも提起した。
これらの政策公約の多くは、自民党政治、特に55年体制におけ二重十恩顧主義政治体制や家産官僚制の問題を摘出し、その抜本的改革を企てるものである。鳩山首相は「友愛」の理念を掲げていたから、それは「友愛公共革命」への期待を生んだ(小林2010)。そして、その所信表明演説や施政方針演説は、「友愛」と「新しい公共」の理念を掲げる拡張高いものであり、いわば政権の公共哲学を宣明したものだった。これは、理念が政治を動かすという可能性を示したという点において戦後日本政治においてほとんど初めての出来事であった。政治において、「善」に関わる理念が明示されたという点において、この公共哲学は、マイケル・サンデルが主張するような意味において、コミュニタリアニズム的な性格を持っていた。
(中略)
さらに、日米関係においても、新政権は総選挙のマニフェストで「緊密な日米関係」を掲げていた。鳩山政権は、普天間の基地移設問題について、自民党政権が合意していた沖縄県内の辺野古移設案を変更して、鳩山首相は可能な限り県外・国外移転の可能性を探った。これは、永年にわたる日米恩顧主義における対米追従外交に代わって、沖縄の負担を軽減するために主体性を持った政策を提起しようという試みだった。
(中略)
しかし、鳩山政権は首相自らが設定した2010年5月という期限までにそれを実現することができなかった。県外移設の可能性を追求したもののアメリカに拒まれて、結局は辺野古案に回帰して日米合意を行い、反発した社民党の連立離脱を契機にして、発足後8ヶ月余りという短期間で崩壊したのである。その主因は鳩山首相と小沢幹事長をめぐる「政治とカネ」の問題と、普天間基地問題をめぐる混迷だった。しかし、普天間問題において外務省や防衛省は、いわば米官連携に即して、県外移設案の追求に対して非協力的だった。ここにも現れているように、鳩山内閣においては「政治≒公共」に対する「国家≒官≒公」の反発や抵抗があったということができる。残念ながら、こうして「公共的公」は確立せず、「公共」的な政権は「官」の抵抗に遮られて崩解してしまったのである。
http://www.youtube.com/watch?v=2xpD65P7kTE
河野太郎でございます。
ようやくこの場に立つことができました。
両院議員総会で私は、党の推薦人を10人に引き下げるべきだ、そういう動議を出させていただきました。今あの場にもう一度戻れるならば、党の推薦人を撤廃しろ、そういう動議を出したいと思っております。石破さんや小野寺さんのことを考えてみても、議論をする前に推薦人を20人集める、その能力がこの国の未来をつくる能力や、新しい自由民主党をつくり直す能力とは何の関係もないということが明確になったわけであります。この総裁選のやり方で、自由民主党がオバマやトニー・ブレアといった新しいリーダーを作り出すことが本当に出来るのかということを、我々はきちんと問い直さなければならないと思っています。
今私たちは、何のためにこの自由民主党の総裁選挙をやっているのか。自由民主党が、きちんとこの党を建て直して、日本の国に健全な二大政党という政治のシステムをつくることができなければ、21世紀の日本を前進させることが出来ない。だから、この国の将来のことを考えて、我々は新しい自由民主党のリーダーを選ぼうとしているわけであります。にもかかわらず、にもかかわらず、私利私欲のために、自分の既得権を温存しようというために動いている人間が党内にいるというのは甚だ遺憾であります。だから我々は総選挙に敗北し、だから国民の皆様から今の自由民主党ではだめだ、そう言われた。あの8月30日の総選挙の敗北から1ヶ月も経っていないのに、もう熱さを忘れ、かつての自由民主党と同じことをやろうとしている。それでは、この党の存在意義はありません。
私は、これまでの自由民主党のなにかを、少しでも変えようという気はありません。まったく新しい政党を一からつくり直す、そのために総裁をやらせていただきたいと思っております。
キーワードは二つであります。ひとつは、リーダーシップの世代交代であります。いつまでも古い政治のやり方をひきずっている人間がこの党を牛耳っていることに対する国民の皆様の怒りが、8月30日の投票の結果であります。党のリーダーシップの世代交代をきっちりとやり遂げる。それが私の使命だと思っております。挙党体制とか、みんな一丸となって、いい言葉ではありますが、それを免罪符にして誤った考えを党内に残すことはできません。それでは、この自由民主党を変えることはできませんし、そんな挙党体制ならこの党の存在意義はありません。明確にに世代交代をする。それが私の使命だと思っています。
もうひとつは、これまで自民を蝕んできた派閥政治からの脱却であります。かつて何度も派閥解消という号令がかけられて参りました。もうそうした建前はいりません。人間は社会的な動物ですから、群れるなと言っても群れるでしょう。一人で飯を食うよりも大勢で飯を食う、それが人間であります。人が集まるのは自由ですし、人が集まって勉強するのも自由であります。問題は、そのまったくプライベートな人間の集まりが、あたかも党の公式機関であるかのごとく、人事権を行使し、政治資金を左右し、党の候補者選定に介入をした、そこが問題であります。人事や政治資金や候補者の選定といった党の運営は、党のリーダーシップが行います。そこに党の公式機関ではない人の集まりが関与することはありません。それを明確に、私は、しておきたいと思っております。好きな人間と集まって勉強するのは自由です。自己研鑽を積むのも、それは国会議員として当然のことであります。それは大いにやっていただきたい。しかし、党は党の意思決定を党で行っていく。それを明確にしてまいりたいと思っております。
自由民主党。かつてはこの国に自由主義、資本主義、あるいはアメリカとの信頼関係に基づいてアジア太平洋の平和を守る、共産主義と対峙し社会党をはじめとする野党勢力と対抗する。かつての自由民主党には大きな旗がありました。
冷戦が終結し、我々はその戦いに勝ちました。今、国会の中で、かつて自由民主党が唱えていた自由主義や資本主義といった我々の考え方に反対をする政党は、一割以下になりました。圧倒的な勝利を収めたが故に、我が自由民主党は、一体自由民主党が何を目指す政党なのか、その再定義をしなければならなくなったわけであります。残念ながら、その再定義をしないまま、今日を迎えてしまいました。この数年間、自由民主党とは何なのか、自由民主党は政権与党である、それしか答えられない政党になってしまいました。しかし、野党になったいま、自由民主党とは政権与党であるとは、もはや我々は、言えなくなりました。自由民主党は、もう一度健全な保守政党を標榜する、きちんとした旗を立て直さなければなりません。
我々は、この国の経済を発展させることによって、一人ひとりの国民の豊かさを増やしていく。無駄のない効率的な小さい政府を作り上げ、そして、非効率な政府の頚木からこの国の経済を解き放ち、健全で公平な競争環境を作り上げることによって、この国の経済をしっかりと発展させ、発展した経済の果実を社会保障として、国民の皆様の安心感を得るために使う。それが私は健全な保守主義を標榜する政党のあり方だと思っています。
国民の皆様に、競い合ってください、競争してください、切磋琢磨してください、そしてこの国の経済を引っ張ってください、そうお願いをするためには、失敗してもきちんと受け止めるセーフティネットが必要です。挑戦してください、失敗したらそれで終わりです、そんな世の中では誰もリスクを取ろうとはしません。挑戦して、失敗しても、また、意志がある限りきちんとスタートラインに戻ってくることができる、そういう社会をつくるからこそ、切磋琢磨してこの国の経済を発展させていく、そういう国民の気概が生まれてくる。それをつくりだすのが、保守主義としての、保守主義を標榜する政党としての自由民主党であります。
そうした結党の本来目指していた精神に立ち返り、わが自由民主党は経済をプラス成長させ、小さい政府をつくり、一人ひとりの国民の皆様の豊かさを増やしていく。そういう政党であるという旗をきちんと立てて、この国をそういう国にして行きたい、それに賛同していただける国民の皆様に党員になっていただいて、そして、一人ひとりの党員の皆さん、あるいは一人ひとりの党員の皆さんの支持を受けて当選された地方議員の皆さん、そうした方と一緒になってこの自由民主党の政策をつくっていく、そういう政党にして参りたいと思っています。
残念ながら、これまでの自由民主党は近代政党というよりも部族連合でありました。これまでの自由民主党の党員の皆さんは、どちらかといえば、自由民主党所属の国会議員、あるいは地方議員の熱烈な支援者でありました。もちろんそういう方も大切であります。しかし、新しい自由民主党は、我々が新しく立てるその旗のもとに集まり、その新しい政党が目指す日本という国を一緒になって作っていく、自由民主党が与党であっても野党であってもその理想を掲げる限り一緒になって自由民主党と新しい日本を作っていく、そういう党員の集まりに私はして参りたいと思っております。利害関係に結びついていた部族連合の時代は終わりにして、きちんと政治哲学、この国の将来のビジョン、その旗の下に、その旗に賛同をする、そうした国民の皆様が集まる自由民主党として新しく生まれ変わる、その自由民主党のリーダーとしてこの政党を引っ張りながら、健全な二大政党制をこの国の政治システムの中にしっかりと位置づけられる。そういう自由民主党にして参りたいと思っております。
ぜひ、河野太郎とともに徹底的にこの党を新しくつくり直す、その運動に賛同をしていただきたい。改めて国民の皆さん、そして全国の自民党の党員の皆さんにお願いを申し上げたいと思っております。8月の28日には、二大政党のもうひとつの軸たり得る自由民主党の最初の一歩を踏み出せるように、しっかりと頑張って参りたいと思います。
どうぞ宜しくお願い申し上げます。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090903-00000973-yom-pol
鳩山論文、米通信社が省略して無許可転載か
民主党の鳩山代表の論文が、米紙ニューヨーク・タイムズ(電子版)に掲載され、米欧に「反米的」との評を広げた問題で、鳩山事務所と論文を配信した米通信社の間に、掲載の経緯を巡る見解の相違があることが3日、明らかになった。
日本の月刊誌「Voice」9月号に掲載された論文は、「私の政治哲学 祖父・一郎に学んだ『友愛』という戦いの旗印」の題で、事務所が業者に発注し英語と韓国語に翻訳、鳩山代表のホームページに掲載した。
世界の要人インタビューなどを配信する米国の通信社「グローバル・ビューポイント」は、これを大幅に省略し、「新しい日本は米主導の市場原理主義を拒絶、東アジアの統合を模索」との見出しで配信。タイムズ紙はこれをさらに削って掲載した。
「グローバル」のネイサン・ガーデルス編集長は「Voiceを通じて鳩山事務所の許可を取った。短縮したが、文章はそのままだ」と話している。
これに対し「Voice」編集部は、英訳版の掲載依頼は米紙ロサンゼルス・タイムズ社からあっただけで、他メディアに転載されるとの認識はなかったという。鳩山事務所も「論文が海外に配信されたことさえ知らなかった」としている。
鳩山代表は8月31日、タイムズ紙掲載の論文について「一部だけとらえられた」と不快感を示したが、既に多数のメディアが同紙の引用を「新政権の外交政策」として紹介、「反米」イメージが独り歩きする懸念もある。(国際部 細川紀子)
20人を超える組織になってくると指揮する人の意にそぐわない行動をとる人がでてくる。
困ったことに個々の能力としては優秀。でもチームワークに欠ける。
そんな問題児(?)がいたときにどう判断するのかが指揮する人には悩ましい。
そんなことを考えていた時に、ガンダムの総指揮者?の富野由悠季監督へのインタビューをみかけた。
その中で、こんなのがあった。
政治哲学者ハンナ・アーレントの話にもおよび、彼女が指摘している通り、「独自に判断できる人は限られている」、と痛感できる感性を育ててもらえたという。
意にそぐわない人は実はこの「独自に判断できる人」なのではないか?と思った。
だとしたら、貴重な存在なわけだ。
それから少し考えを変えてみた。
独自に判断できる人には、独自に判断して動くための仕組みを用意すべきじゃないか?
動くための場を用意して、自由に動いてもらう。
なんか歴史上もこんな事例があった気がする・・・がどういう話だったか。
歴史好きの人教えてください。