はてなキーワード: 最小国家とは
当たり前だけど、自由を重視する俺も、構造的弱者が存在するってことは公正な自由競争を行う条件が整ってないってことなんだから弱者救済には賛成だよ。でもそれは自由で公正な社会のための地ならしであって、弱者の救済そのものが目的じゃない。あくまでそれは手段で、最終的な目標は自由な社会の実現(この手段としての弱者救済を否定するリバタリアニズムには明確に反対)。だから弱者側の要求が自由や公正を脅かすのならそれに反対する。
リバタリアニズムは弱者救済を否定していない。公権力による強権的な弱者救済を否定している。
自分の意志で自分の財産を元に弱者を救済することは何も否定していないし、その行為を称賛する人や何なら賛同して寄付する人もいるだろう。
公権力による弱者救済を否定する根拠は、もちろん自己所有権の侵害(自分の意志に反して自分の財産を接収され、自分の意志に反する用途に使用される)だけど、
もう一つ、公権力による弱者救済のための規制や介入は、市場原理に任せるよりも不効率であるということも大きな理由だし、(何をもって「公正」とするかにもよるけど)リバタリアンにとっては不公正でもある。
また、"実際に"弱者の生活を良くするのは、資産を取り上げてばらまくことではなく、技術の革新である。
例えば、事故で障害をおった人々の生活を"実際に"良くするのは、車椅子や義手の機能改善やロボット技術の発展だろう。
公権力による強制的な財産移転は、資産の集積を元にした技術革新とそれによる生活の向上を阻害し、結局は弱者の生活を良くすることにはつながらない。
現代の富裕層と貧困層の格差は原始時代の格差よりも格段に大きいが、現代の貧困層は原始時代の貴族よりも良好な生活環境に有る。
弱者救済について問題とすべきは相対的な格差の解消(=富裕層から貧困層への資産移転)ではなく絶対的なレベルの改善(=技術革新、安価大量生産)ではないだろうか。
上記は無政府資本主義のようなかなりハードなリバタリアニズムの意見で書いたけど、
よりマイルドな古典的自由主義や最小国家主義では、例えば教育補助のための資産移転なども議論されている。
「リベラリズム」は最初はジョン・ロックやアダム・スミスを元にする(消極的な)経済的自由と個人的自由をともに重視する思想だった。
20世紀になり、積極的自由のために市場への公的介入や財の分配を許容する福祉国家的、社会市場主義的な「ニューリベラリズム」が派生し、
次第に優勢になるにつれて名前から"ニュー"が外れて「リベラリズム」と呼ばれるようになった。
その後、「リベラリズム(ニューリベラリズム)」に対して個人の自由や市場原理を再評価し、経済的自由の制限を緩和する方向として「ネオリベラリズム」が派生した。
1930年代〜戦後期に「リベラリズム」という言葉が指すものが今で言う古典的自由主義から社会自由主義へと変化した後で、
1960~70年代に古典的自由主義を基礎とする消極的自由を尊ぶ思想が再興した際に、積極的自由を尊ぶ社会自由主義(現代のリベラリズム)との混同を避けるためにリバタリアニズムと呼ばれるようになった。
つまり、今の言葉で歴史を書くと、リバタリアニズム(古典的自由主義)→リベラリズム(社会自由主義)→ネオリベラリズム(新自由主義)という流れで同じ系統の思想。
(ただし、現状のリバタリアニズムは古典的自由主義に加えて最小国家主義と無政府資本主義の大きく3つの派閥に分けられて、後ろの2つは社会自由主義よりも年代的には新しい)
もっとも、消極的自由を尊ぶ古典的自由主義と積極的自由を尊ぶ社会自由主義は、同じ"自由"という言葉を使っていても思想の根拠が全然違うから、
「リベラリズム」の中で古典的自由主義が社会自由主義に変化したのではなく、
社会自由主義という全く別系統の思想が古典的自由主義から「リベラリズム」という名前を奪ったという認識であれば、
リベラリズム、ネオリベラリズムがリバタリアニズムとは別系統という言い方も出来なくはない。
【参考】
http://tanemura.la.coocan.jp/re3_index/3S/si_neo_liberalism.html
自由主義 https://ja.wikipedia.org/?curid=1889353
↑↑ではないけど横から失礼。
少なくとも現代の一般的な区分では、リバタリアンとリベラルは国家の大小の違いはあるけど、個人の自己決定権を重んじるのは同じだよ。
語源からしてlibertyだし、リバタリアンはリベラルから出てきたものだし。
そこら辺はリベラルが(リバタリアンからみて)自由じゃなくなってきたという政治哲学史の話になるのでややこしいけど、とりあえずはノーラン・チャート(政治思想を「個人の自由」と「経済の自由」の二軸で分類)を調べてみるといいと思う。
>最小国家で法律とか最小限のルールだけ決めてあとは市場原理に任せて好きにやってれば最適化されるんだからそれでいいんじゃね
というのは主に「経済の自由」についての主張で、ここはリバタリアンとリベラルが違う部分。