はてなキーワード: マイケル・ウォルツァーとは
複合的平等っていう概念自体は面白い概念だと思う。でも「複合的平等」っていうネーミングのセンスが悪いよね。
名前と中身があっていない。その概念のどこらへんが複合的で、どこらへんが平等と関係するのかが分からん。
概念を発明するのは上手だけど、名前付けのセンスはない。これはまさに複合的平等を体現している、ということなのかな。
だとしたらこのマイケル・ウォルツァーさんは名前付けのセンスもある、ということになり、複合的平等は虚構である、ということになる。
まぁ冗談はいいとして、増田の言いたいことはよく分かる。増田がレスしている増田は口が汚いからなんかムカツクし増田は全増田の模範となるような良い増田だと思う!
はてブでは「正論!」と大絶賛だが、違和感があるので書いてみる。
話は飛ぶのだが、マイケル・ウォルツァーという政治哲学者が「複合的平等」という考え方を提起したことがある。
社会のなかには様々な領域があり、カネを稼ぐ人が優遇される領域、野球が得意な人が優遇される領域、プログラミングが得意な人が…(以下略)など無数の領域が存在する。ところが、往々にして人間社会ではそのなかの特定の領域で優れた人が、他の領域にまでその影響力を行使してしまうことがある。たとえば、カネを稼ぐのが得意な人が、なぜか専門知識もないのに教育の領域に口を出してくるとか。
ウォルツァーは、特定領域で優れた人が、その事実によって別の領域にまで支配力を及ぼしてしまうことをやめて、さまざまな領域の自律性を担保することで平等を実現しようと主張する。つまり、いくら金儲けが上手だろうとも、教育の知識がないなら、教育の話に口出ししてくんな、このスットコドッコイ!というわけだ。
他方、この考え方に従うなら、ある領域でものすごく能力が乏しい人であっても、そのことが別の領域におけるその人の評価に影響を及ぼすべきではないという話になる。要は、いくらスポーツが苦手だからといって、プログラマーとしてのその人の評価に何ら影響を及ぼすべきではないという当たり前の話。
ところが、世の中ではそういうことがしばしば起きる。なかでも重要なのが、人の「見た目」。確かに、ファッションモデルやアイドルが「見た目」で評価されるのは、ある程度やむをえない。そういう領域で活動しているからだ。だから、複合的平等の発想に立つなら、ミスコンテストやミスターコンテストは別に否定されないと思う。だが、ほとんどの人はファッションモデルやアイドルではない。
実際のところ、男性もかなりそうなのだが、とりわけ女性の場合、その「見た目」がその他の様々な領域での評価に大きな影響を与えがちになってしまう。
ここでようやく話が元増田に戻ってくるのだが、この元増田の場合、「仕事の実績で評価される社会人」と書いているから、まさに「仕事の実績」という領域で評価されたことが素直にうれしかったんだろう。ところが、見た目の麗しい新人が入ってきたことで、「見た目」という評価基準が不当にも拡張されているという感覚を抱いてしまった。
元増田自身も追記で「差別っていうのは確かに言い過ぎだったかもね」と認めているように、新人が入ってきたことで元増田に対する周囲の評価が変わったのでないのなら、元増田が差別されたどうかは微妙なところ。でも、複合的平等が達成されているかに見えた領域だったのに、また「見た目」という評価が不当に入ってきたことの失望は理解できる。
こういう観点からみると、元増田も「女子としてちやほやされたかった」という増田は、元増田の主張を不当にゆがめているし、言っていいならハラスメントですよ、それ。