はてなキーワード: トライアンドエラーとは
エアープランツを知っているだろうか? 土がなくても育つという植物で、おしゃれインテリアアイテムとして人気である。チランジアやティランジアとも呼ばれる。少し大きなホームセンターに行けば売られているし、ダイソーで見かけたことのある人も多いかもしれない。
私は激怒した。エアープランツの間違った育て方がネット上に氾濫しているからである。検索をかけるとおおよそ植物系のキュレーションメディアみたいなサイトが上位を占めることとなっているが、だいたい間違えている。Googleも植物の育て方についての真偽を見抜く力はないようだ。
間違った知識を基に植物を過酷な環境で育てて枯らせてしまっても有罪ではない。なぜなら植物には脳がないからである。我々が植物に同情したり、罪悪感を抱いたりする必要はどこにもない。
だけど、どうせなら元気に育てたいじゃない。
本稿では、巷に溢れるエアープランツの間違った育て方をあげつらって批評し、なるべく元気な育て方を提案するものである。
あらゆる植物を育てるにあたって、問題となるのは水やりの頻度である。
「とりあえず土を常に濡らしておけばいい」というお手軽な植物は問題ない。何も考えずに朝晩に水をあげればいい。
ところが、サボテンや多肉植物のように「水をあげすぎると根腐れする」という植物に直面したとき、我々は混乱する。誰でも植物に水をあげたいという衝動を持っているが、それを抑制しろとサボテンや多肉植物は言っているのである。それは「困っているぽい人がいても助けるな」と言われているのと同義であり、我々の本能・善意・優しさが激しく揺らぐ。
で、エアープランツである。奴らはそもそも土に植えて育てるものではないので、この混乱は虚無へと昇華され、思考が完全に停止する。そして、キュレーションメディアに書いてある通りに3日に1度霧吹きで雀の涙程度の水を与えて、やがてその植物は枯れさらばえる。
エアープランツは実は水をかなり好む。だから、毎日たくさん与えて良い。水の冷たい冬以外は、キッチンの水道水を直接じゃぶじゃぶかけても良いし、数が多いなら浴室においてシャワーでざぶっと水をかけても良いし、究極、溜めた水の中にドボンと数時間くらい漬け込んでも良い(これをソーキングという。毎日は非推奨)。
「水をあまり与えなくて良い」という言説は「乾燥に強い」を履き違えた誤謬である。これら二つの言説はこの場合、両立しない。
私は昨年のあの猛暑の一番暑いときに家を3日間空けた。ベランダの日陰にエアープランツを残して。それでも奴らは、ある程度の傷みこそあったものの枯れなかった。だから、乾燥には強い。だけど、それは水をあげなくて良いということではないのだ。
某フリマアプリにおいてこう記述されているのが目についた。何を根拠に言っているのかわからない。
日本の夏は蒸し暑く、湿度が70%を超えるという。それでも水やりをしなくて良いと言うのか。先述の私が真夏に3日間家を空けたケースで言えば、3日間水やりをされなかったエアープランツたちは「元気」というよりは「耐えた」という有様であった。先程は書かなかったが、乾燥に弱い1品種は完全に枯れていた。
エアープランツはある程度の湿度があっても水やりの必要はある。私は梅雨でも秋の長雨でも構わず水をやっている。
玉村豊男『料理の四面体』では、調理法を「火」「水」「空気」「油」の四要素に解体・再構築することで、すべての料理の作られ方を普遍という名の白日のもとに晒した名著であると私は考えている。この考え方を応用すれば、私は「植物の四面体」として植物の育て方を「光」「水」「風」「気温」の四要素に解体できるのではないかと考えている。
例えば、サボテンが健全に生育するには「光」「風」「気温」が必要だ。森の奥深くに茂っているシダ植物などは殆ど「水」だけが必要だ。
このように考えると、エアープランツに必要なのは「水」「光」「風」である。「水」は先に述べた。「風」は後に述べる。
「光」である。エアープランツは明るい場所を好む。真夏の直射日光ではさすがに葉焼けしてしまうが、春の柔らかな光くらいならむしろ直射で育てたいくらいである。
エアープランツはおしゃれアイテムとして認識されており、いろいろなウェブサイトにおいて室内でのかわいい飾り方が提案されているが、正直、室内だと光が弱すぎると個人的には思う。光が弱すぎると成長することができず、そのまま萎れてしまうか、蒸れてある日突然バラバラになる。
南向きの窓辺ならギリ大丈夫かと思われるが、できればベランダの明るい日陰で育ててほしいところである。木漏れ日のように時々陽が当たるとなお良い。ある程度の光量があるならずっと濡れっぱなしでも構わないのではないかという仮説もあるくらいである(室内の暗い場所で濡れっぱなしだと十中八九腐ってしまう)。
私がエアープランツ初心者だった頃、室内で育てていたのだがなぜかうまく行かず、すぐに枯れてしまう(バラバラになる)のだった。そこで、思い切ってベランダに出してみたところ、そこからは殆ど枯れることはなくなった。「光」と「風」のおかげであると思われる。室内の明るい場所だとしても、屋外の日陰に比べたら光量は全然足りないのである。
言語道断である。私の知る限り瓶に詰めて元気に育つのは苔くらいである。
上で「水」「光」と述べてきた。落とし穴的な存在なのが「風」である。意外と思われるかもしれないが、植物の健全な育成には空気の流れ、すなわち「風」が重要な要素になる。
エアープランツにおいてなぜ「風」が肝要かと言うと、あげた水をなるべく早く乾かすためである。エアープランツは水を愛しているが、その水がずっと乾かずに停滞してしまうと傷んだり、最悪、腐ってしまうのである。
なので、最も適切な場所は屋外であり、屋外が難しいなら室内の明るくて風通しの良い場所となる。扇風機などで送風して、空気が停滞しないようにするのも良い。エアープランツの生産者さんは、ハウスの中で常に高湿度を保ちながら、大型の扇風機で送風している。
水→エアープランツは水が大好き。ジャブジャブとあげて良い。水やりのコツは、あげた水が完全に乾いてから次の水やりを行うということだ。これを守れば一日に何回でも水やりをして構わない。
光→エアープランツは明るい場所が好き。できれば屋外、難しいならかなり明るい窓際で育てよう。
風→空気が停滞しているとあげた水が乾かず、腐りやすくなってしまう。盲点だけど通風にも気を払おう。
私はズボラである。面倒くさがりである。シンクに数日間皿を溜めてしまうことはザラだし、掃除は苦手だし、ペットを飼うのにも向いていない。だけど、エアープランツは育てることができる。つまり、コツさえ掴んでしまえば難しくないということだ。
(春〜秋)ベランダの日陰になる場所に吊るしている。数が多いので100均のワイヤーネットに大量に吊るしている。水やりは朝晩の2回。いずれも滴るくらいにたっぷりと与えている。朝昼夕晩の4回くらい与えても問題ない。
(冬)最低気温が5℃を下回るようなら室内に取り込む。北関東に住んでいるので、冬はおおよそ寒い夜は室内、暖かい昼は屋外で直射日光に当てるというサイクルになる。水やりは変わらず朝晩2〜4回くらい。
スペースの関係で吊るせないエアープランツは、100均で売っている網状の書類入れや雑貨入れに並べている。網状なのは当然ながら、通風を良くしてあげた水を停滞させないためだ。管理は上述と同じ。
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たったこれだけ。明るくて風通しの良い場所で管理して、朝晩に水をやるだけ。乾燥に強いので数日は水やりを忘れても大丈夫。ね、簡単でしょ?
とはいえ、コツを掴むまでが難しいんだ。少なくとも「室内で瓶詰めにしておしゃれに育てる」という類の植物ではないかな。エアープランツは最初は誰もが失敗するに違いなけれど(私もだいぶ枯らせた)、コツを掴んでしまえば簡単に育てることができる。
土がいらないので虫が湧くこともないし、省スペースで園芸を楽しむことができる。エアープランツの魅力を伝えたくて本稿を書いた。
枯らせてしまっても大丈夫だ。なぜなら植物には脳がないからだ。エアープランツは君を呪わない。何度もトライアンドエラーを繰り返して、より良い植物ライフを!
エアープランツにはいろいろな種類があるが、本稿では「エアープランツ」と十把一絡げにして取り扱った。大きくは「銀葉種」と「緑葉種」に分かれるらしいけれど、それはあまり問題ではない。うちのエアープランツは銀葉種だろうが緑葉種だろうが全て上記の要領で管理している。ホームセンターやダイソーで売られている普及種はどれも比較的に丈夫なので、細かいことは気にしなくて大丈夫だ。
エアープランツは葉から水分を吸収するという不思議な植物である。だけど、根が生えないわけではない。おおよそ春頃、状態が良いと根が生えてくる。自生地では大樹の幹などに根を張って成長している。蘭などと同じ着生植物というやつである。「土が要らない」というのは「自生地では木などに着生している」という意味である。
なので、最も良い育て方は、流木・コルク・木片などに針金やテグスでエアープランツを固定するというものである。そうするとそのうち根が出てきて、その木片などに着生する。着生するとより元気に育つと言われている。
本文であえてそれを書かなかったのは、育てるにあたっての敷居を高くしたくなかったからだ。着生させなくてもきちんと育つ。慣れてきたら着生にも挑戦されたし。
私が最近、余って置き場所に困っているエアープランツに対して行っている育て方は、上述の100均の書類入れで管理し、
朝:室内に取り込んで南向きの窓辺に置く
ここから察するに、エアープランツにとって最重要なのは「風通しの良い場所で水をやる」ということなのではないかと推測される。もちろん明るさも大事だけれど、それと同じかそれ以上に。
正解は一つじゃない。私も未だにいろいろと試行錯誤している。居住環境や生活スタイルは人それぞれだから、それぞれの人にあった元気な育て方を見つけてほしいと思って追記した。
・葉先から枯れていく
「葉先から枯れていく」のは水が足りない証拠である。水やり量や頻度を増やすことが推奨される。また、上に挙げたソーキング(溜めた水に数時間浸ける)をすると一気にハリが出る。ソーキング後は風通しを良くすることを忘れずに。
「中心部がスカスカになりバラバラになる」場合、光量や通風が足りないと思われる。暗い室内で管理していると結構な確率でこうなる。はい、私もよくバラバラにしました。置き場所や環境を工夫することで回避できる。
それは「生産」という観念、あるいは「『生産』しなければ無価値」のような固定概念に囚われているからそう思うのでは。BIの議論は、それが達成された結果、経済観をはじめ人々の価値観が根底から少しずつ変わってくることを考慮した上で語らねばならないトピック。それゆえ論者の想像力・洞察力の緻密さが試されるものだ。それを現時点の価値観でもって批判しようとするならば、どんな制度であれ、大きく変えることは不可能だ。
まず、健康な人は無限に怠惰で無気力ではいられない。なんらかの新しい「刺激」を求めて違うことをしようとする。そこで経済的基盤がBIによって保証されていれば、現時点では抑えられていた多種多様な行動や現象が促進されることになる。その化学変化を期待し、総体としてプラスになることを予想するのがBIの考え方だろう。国民のダイナミズムを信じてカネを前払いでBETする制度と言ってもいい。と言われてもダイナミズムがある状態の世の中とはどんなか想像がつかないだろう。すこし現実的な例を挙げてみようと思う。
それはズバリSNSだ。TwitterやInstagramのようなSNSでは、流行りが目まぐるしく変化し、誰も止めることはできない。そしてそのブームごとにどこそこに人が殺到したり、どれそれが売れたりと、経済効果が伴う現象が起こることもある。ここでいうSNSは、誰もがアクセスできて、思うままにアクションを起こして「刺激」を得られる、敷居の低い環境として捉える。これが言わばBI状態の世の中であり、そうでない世の中は、月額制オンラインゲーム内のチャットが各タイトルごとに散在している感じだ。それぞれのタイトル内で何かがブームになったとしても、あくまで同じゲームコミュニティの仲間うちの流行であり、スケールが小さい。SNSの環境とは対照的に、ゲーム内チャットの環境では、特定分野の高い敷居をまたいで入会し定着した限られた人だけが「刺激」を得られる。それはそれで質の高い「刺激」かもしれないが、君が企業の広報だとしてプロモーション媒体に選びたいのは間違いなくSNSの方だろう。一般人にまで浸透したものは、質は低いものの経済的には遥かに「強い」のだ。BIには、世の中の多くのものごとを、日々の仕事に追われていた一般人の手の届く範囲にまで引き寄せる効果がある。日々を追われていた人は、手を伸ばすことも伸ばす欲求も失っていて自覚がないせいでこの部分を過小評価するかもしれないが、人間の探究心を甘くみてはいけない。
次に、そうして新たに一般人にまで浸透していったものがどう変化するか考えよう。ここで一つ問いたい。SNSで自撮りやつぶやきをアップロードすることは生産行為だろうか?それらはプロの写真家や文筆家とは明らかに異なるものだ。でもそれを「生産的」と捉えうる土壌になってきている。SNSのフォロワーを金を払ってでも集めたい人がいるのは、投稿が価値をもたらすからだ。では増田や2chへの投稿は?知恵袋や小町への投稿は?今現在ではそれらの投稿に価値を認め、お金を払うような人はいないだろう。なぜなら、「それは労働ではない」という価値観によって分断されているからだ。同種でもより上質な、労働の結果もたらされるコンサルティングやカウンセリングといった業務と差別化し、権威化しておきたいからだ。けれど、テクノロジー的BIとも呼べるスマホカメラの普及がもたらしたSNSにおける素人写真のように、BIによって敷居が下がり、その広い間口に集う人々が増え、誰もがそれを扱ったり目にしたりするようになれば、それをそれなりに正しく価値評価しようとする動きが出てくる。いわば「信用ポイント」だ。そうして価値(金銭とは限らない)の授受が可視化されるようになれば、たとえ2chの書き込みであっても内容によっては価値ある「生産的」行為とみなされる世の中になりうるわけだ。それは従来の世界における製品やサービスと同じように、人々を助け喜ばる行為だという認識を疑う人はいなくなる。今回例にしたネット上で完結する行為については、世の中に新しい価値を生み出すというよりは、既存の価値や信用を増幅させること事の方が多いかもしれないが、それも重要な経済的行為の一端であるし、もちろんモノを作ることに関しても、より素人仕事が日の目を見る機会が増えてくるだろう。
つまり、高度なスキルをもつような人々はそれ相応の立派な価値を生み出して「信用ポイント」を大きく稼ぐ一方で、スキルも意識も低く消費的な振る舞いをする人でも、完全に社会との関わりを断った生き方をしていない限りはなんらかの「信用ポイント」を少ないながらも蓄積させていく。そういった格差ができるのは不可避だが、少なくとも金銭的な格差と違って物理的に困窮して飢えや学費で苦しむことはなくなり、せいぜい承認欲求の不充足による精神的貧困程度に抑えられる。それですら、物理的貧困のせいで脱出が不可能ということはなくなり、トライアンドエラーを繰り返せるだけの環境は保証されるわけだから、嫌なら行動すればいいだけとなる。
最後に、「ろくなこと」についてだが、変化したあとの世界をどう捉えるかは、その人の感性によるところなので何とも言えない。プロの写真家や文筆家を差し置いて一般人のツイートが注目されることもある今の世の中を「ろくなもんじゃない」と思うのならば、BI後の世界でもきっと「ろくなことは起きなかったな」と君は言うだろう。
ブラック企業でどんなに理不尽な仕打ちを受け続けても転職を考えないのは、自分なんて他の会社で働けるわけがないと卑下してしまったり、他の選択肢があることを考えもしなかったり、お前はいまここで恵まれているのだと上司や同僚に吹き込まれたことを固く信じ込んでしまったり、などの理由が挙げられる。あるいはまた、配偶者からひどい身体的・精神的な暴力を受けている人が逃げようとしないのは、逃げたところで今より状況が良くなる保証もないと考えてしまったり、自分を愛してくれる人が他にはいないと思ってしまったり、そもそも自分がいま受けているのはDVではないのだと信じ込むことで乗り切ろうとしていたり、などがある。本当は、現在の環境を「変える」ことは、ただ「変える」ことに過ぎないのだけど、それが逃げ癖と呼ばれてしまったり現実を直視できない人間だと批難されたりする。世の中は基本的にトライアンドエラー、試行錯誤というものが許されていない。環境を次々と変えていって、より良い場所を見つける、より良い方法を編み出すことが良しとされない社会では、いつまでも人はブラック企業に残って心身を病んでしまい、ブラック企業は末永くいつまでも栄える一方で、健全な企業が競争に敗れて消えていく。あるいは暴力や暴言で人を支配するような酷い人間によって人が縛り付けられて、どこかに必ず存在する優しい人に出会えないままで時間が過ぎ去っていく。不遇のときを過ごしている人が自ら呪縛を脱ぎ捨てて今とはまったく異なる選択肢に踏み出していくのは容易ではないようにも思えるけれど、だいたいの場合において人は疾走するトロッコ列車に載せられている訳ではなく、ただ単に自分の足で歩いているだけなのだから、いつでも曲がり角を曲がって異なる方向へ進むことができる。水際に向かって下り坂を全力疾走するネズミの群れではないのだから、いつでも自分ひとりで方向を変えて、下り坂から横道へ入ることができる。ひどく長い前置きのあとに政治の話をすると白けるだろうなと思いつつ政治の話をするのだけど、いまの自公政権を支持するのは、DV加害者やブラック企業から離れられない心理に近い。「俺と別れたらお前はひどい目にあう」「他の会社でやっていける訳がない」という言葉が、そのまま「野党はだらしない」「民主党時代は悪夢だった」という言葉に等しい。いまの状況が恵まれているのだと百回や千回繰り返すことで、そうかたしかに今が一番恵まれているよなと刷り込まれて行き、自分の生活を苦しめる政権を支持し続けることになる。今も苦しいけど他の政権に変えるなんてできない、という思考になる。だけど自分の行動は自分で変えられるのだし、変な言い方をすれば、配偶者を変えることに比べれば政権を替えることは容易い。自分の心や経歴に傷がつくことはないし、いつでも何度でも取り替えていける。だから、DVをふるう現在の政権からは、いったん縁を切ろう。6年も付き合って駄目だったんだから、もう我慢しなくていい。
( 2019年春アニメ1話ほぼ全部観たから感想書く その2 からの続き )
戦争で生まれた兵器の再利用。「魔法少女特殊戦あすか」的な感じ。戦争のため、魔法によって生み出された兵器「妖精兵」がテーマ。戦争が終わり御役御免なっちゃったので新しいお仕事を探す羽目に。存在自体が違法扱いになってるところや、体よく利用される姿は「PSYCHO-PASS」みたいな感じ?特に本作は2話から公安の職員としていろんな調査に駆り出されるところも刑事ドラマっぽさを感じる。でもあっちは「一般人」と「サイコパス」がグラデーションであるという点で明確に異なる。
なんかファンタジーモノやりたいね→パーティ全員暗黒騎士って面白くね?→でも悪魔(邪神)って何なん?→いっそ妖精にしようぜ→じゃあそれで とのこと。グリムガルとの関係でお世話になった十文字青がシリーズ構成として参加していたり、劇伴をノーネームが担当していたりする(ちなみに制作はグリムガル:A-1 これ:PA)。作中で挿入歌を流す演出も健在。あれめっちゃかっこいいよね。こないだニコ生ライブ見たけどめっちゃ凄かった。
世界観はグリムガルと比べてリアル寄り。「妖精にまつわる部分のみファンタジーだけど、それ以外は全部現実と同じにしたい」というコンセプトらしい。一応、ちょい昔の西欧が舞台。背景はいつものスタジオ・イースター。美術監督は東潤一が担当。相変わらず石畳がエロい。キャラクターデザイン、衣装、小道具まですべてリアル志向。非常に印象的なのが、ボルトアクションライフルを撃つたびリロードする主人公。ほぼすべての射撃シーンにてリロードモーションまできっちり描かれている。手での操作も排出される薬莢も、SEも明らかに拘ってて「ここはファンタジー世界じゃなくて、僕らの知ってる世界線なんだぜ」っていう暗示みたい。
その妖精だけど、あんまり可愛くない(人間に宿る前は可愛いんだけど)。「あ!こいつあのゲームで戦ったやつだ!」みたいな禍々しいデザインで、それこそ妖精というより悪魔みたい。こいつダクソにいなかった?
監督が「JOJOの奇妙な冒険」でお馴染み鈴木健一なので、戦闘シーンはスタンド使い同士の戦いに近い。ただ「ダイヤモンドは砕けない」以降に見られるような「主人格の心を反映した能力」みたいなやつではなく(妖精だからね)、より直接的な戦闘能力を持ってる。殴るのが強い、衝撃波でぶっ飛ばす、強力な弾丸を放つ、暗殺する、etc。作中で妖精の能力は詳しく解説しないので、公式サイトを見てね。JOJOと決定的にに違うのは、人間自身も戦闘に参加していること。主人公はボルトアクションライフル、バディは双剣、フォーマンセルのときは+スナイパー、スポッター。3DCGでゴリゴリ動く妖精と作画でゴリゴリ動く人間の乱闘凄かった。
公式チャンネルでは解説動画シリーズ「ふぇありーんごー」を毎週公開している。まさかのいらすとやコラボである。内容はだいたいあってる。専用新素材もあり、ちょうど素材を切らしていたいらすとやフリークは要チェック。「仮にオーダーメイド素材を沢山使っても、必ず”いらすとやで再現してみたシリーズ”みたいな感じになる」という知見を得た。
もう一つの聲の形。ショートアニメ。制作はシルバーリンクとの共同制作でよく見るCONNECT。元請けは初?監督は「CHAOS;CHILD」「異世界食堂」とかでおなじみ神保昌登。ちなみに神保さんが来年のアニメ「へやキャン」の監督を務める(1期のOP絵コンテを担当したよしみかな)。
人と言葉で喋ろうとすると「はわわーっ」ってなっちゃうので、「もう一つの声」で喋る女の子のお話。「GO!GO!575」よりも575してる。余談だけど先のアニメ「かぐや様は告らせたい」では何気にセリフを575にまとめてテンポ感を出す演出を多用してたので、チェックしてみてね。
主人公かわいい。人前でしゃべれない割に575ならめっちゃ積極的になる感じ。あとセリフがないぶん表情で魅せてくる。笑顔がかわいい。あのちょっと抜けてるとこが良いよね。声は花澤香菜(ファルセットの方)。最近は地声増えてきた印象。パンドーラとかよりもいとかはたらく細胞とか五等分とか。声でいうと先輩を演じる矢作紗友里の矢作紗友里感が非常に強い。ここ最近で一番ツッコミがキレッキレ。
毒島くんに限らず、口下手なキャラと主人公の対比良いよね。筆談(しかも文字制限あり)で思いの丈を全部喋っちゃう主人公が羨ましい。
はるか昔から語り継がれるゲーム原作。エグゼクティブプロデューサー:志倉千代丸。というわけで平行世界を舞台にしたSFアドベンチャー。制作は去年「ISLAND」制作のfeel.。SFモノにご執心なのだろうか。
「2クール全26話のアニメでは、原作ゲームに出てくる全キャラ、全ルートを描いていく」と公式アナウンスがあった。1話は伏線パート。印象としてはそれこそシュタゲみたいなガチガチのSFやんのかなー、的な。「もし平行世界に干渉すると、何が起こるんだろう」みたいなところを掘り下げていくお話。時空を操る系主人公の中ではトライアンドエラー方式を採用してて、よくわかんないけどやってみっか!精神に溢れている。ISLANDのセツナより前のめりな主人公。その割に言い回しがクレバーなところが好き。
feelということで、キャラデザは「この美術部には問題がある!」の人。ジト目かわいい。そして何かとfeel作品と縁のある小澤亜李。この美(主人公)、ヒナまつり(主人公)に続き本作で表題のヒロイン役。1話で四散しちゃったけど再登場は暫く先とのこと。
監督は「ゼロから始める魔法の書」監督の平川哲生。多分本作も監督とシリーズ構成を兼任してるみたい。ゼロ魔でも見られるような女の子とノリの良い掛け合いすき。ちなみにゼロ魔並みに涼しい顔して下ネタを自重しないスタイル。
あと2話の「民主主義は手順の政治よ。事後承諾なんてもっての外だわ!」のパワーワード感が強い。先のクールで社会派パワーワードを連発したアニメ「えんどろ~!」に引き続き、今期のMVPはこれかも。
視聴者参加型総合エンターテインメント。アイドルたちの青春を描く。そしてジャニーズのキンプリとは関係がない。本作はプリティーリズムシリーズの系譜にある作品。
・現在、その後継シリーズとしてプリチャン(2期目)が放送中。
で、プリリズのTVシリーズ内で登場した男性アイドルグループを主人公とするスピンオフ作品がこのキンプリ。元々は劇場公開作品で、2016年に劇場版1作目、2017年に劇場版2作目、そして現在3作目が公開されている。TV版の内容としては、現在公開されている3作目を再編集したもの。劇場版1話→TV版1〜2話相当?で合ってますか?教えてすごい人。なので、過去作を追いかけるなら劇場版を見ればいいはず。
そういうわけで、基本的に劇場版(とりわけ応援上映)として視聴者が参加することを前提に作られている。冒頭のアレとか。応援上映の様子が0話の中で取り上げられているけど、めっちゃ楽しそう。その気になればTV放送版でも同じことができるので、ライブシーンに出てくる主張の強い観客を参考に叫んでみよう。歓声の内容が具体的で草。
1話はざっくりこれまでのあらすじを追ってるので、初見でも大丈夫だった。2話はかなりヘビーな人間ドラマになってて、オケ中心のエモい劇伴も相まって見入っちゃう。やっぱり山ちゃんマジすごい。
すごい。あらゆる飛び道具を駆使して想像の限りを尽くした演出。というかカオス。演出は他のプリリズ作品に引き続き京極尚彦(「宝石の国」監督等でおなじみ)、乙部善弘、今中菜々。ショーをテーマにした作品だと「レヴュースタァライト」もミュージカル作品だけれど、あっちが舞台少女vs舞台少女のオーディションなのに対して本作はショーなので綺羅びやか。2話のショーは、散々悩み倒した末に見出した自己を表現するっていうシナリオの流れでめっちゃかっこよかった。
とうらぶっぽい聖☆おにいさん。人間に化けて人間界で生活する仏様の日常を描く。そのとき、聖☆おにいさんみたいなことが起こった。
DMMのゲーム原作。シリーズ構成がDMMつながりでとうらぶ(花丸)の脚本を担当した吉田恵里香。なんか花丸っぽさがある。
仏のお仕事を通して描かれる宗教観が面白い。仏教の勉強してないのでよく分かんないけど、基本は仙狐さんみたいに人間の負の感情を祓うお仕事。が、「何でもかんでも祓ってしまうのは良くない」というバランス感覚も同時に描いてて、改めてその宗教観に興味が湧いた。2話では動物園の倫理に触れてたり。でもあんまりシリアスに寄り過ぎない感じなので、日常アニメとして楽しめそう。IT音痴のおじいちゃんがいるのはまだしもデイトレはさすがに笑う。てかそのPCいつのだよ!
音楽は日常アニメですっかりおなじみ藤澤慶昌。ほぼ寺で日常生活してるだけなのに凄く風情がある音楽は「宝石の国」劇伴に近いものを感じる。
全体的に作画がかなり安定している。それこそとうらぶ(動画工房)くらい。制作は旭プロダクション(下請けでよく見るとこ)で、年1くらいしか元請け作品が無いようなところなんだけど、実は大手並みにマンパワーのある会社なのかな。最近だとかぐや様の千花ダンスに動画で参加してたりする。アクションシーンめっちゃ動くやん。
スマホゲーム原作。女子校の野球部をテーマにしたスポ根。まさかの硬式。硬球ってめっちゃでかいイメージなんだけど、女子でも持てるんだろうか?
1話のあらすじ…初心者が初めて野球に触れる→あれ、意外とおもしろい→みんなで同好会つくろ!→生徒会「不許可」→なんでー!? まで。生徒会のくだりまで1話でまとめたあたりに「王道中の王道でやってやりますよ!」という気概を感じる。
監督は「南鎌倉高校女子自転車部」の工藤進。両作品ともスポーツものとして序盤の流れは割と似てるけど、こっちのほうがガチ感が強い。ゼロスタートな部分は一緒だけど、
みなかま:「スポーツバイクってどういうもの?」という初心者向け(そういう趣旨のCパートもある)。最終目標が自転車部としての活動継続。
「野球を楽しもう」という角度で野球部を描く作品ってかなり珍しい気がする。 女子x野球といえば「大正野球娘。」だけど、あっちは1話副題「男子がすなるという、あれ」の通り「男がするような野蛮な競技を女がするなんてとんでもない!」とか「今の時代、女性に学歴なんて必要ないでしょ?」みたいな時代の流れに対する反骨が一つの大きなテーマだったの対して本作はそういう路線ではなさそう。強いて言えばリトルリーグ時代の回想で男子についていけない女の子っていうシチュはあったけど、あれは「自分はみんなほど野球が得意じゃないっていうパーソナリティを持っているんだ、という自覚が芽生えるシーン」という文脈っぽいよね。男vs女という構図はあんまり前面に出さないスタイル。だからこそ敢えて硬式を選んだのかな。それにしても2話エモかった。得手不得手の話とか、自分の得意なモノを優先した結果楽しさを見失ったとか、「楽しい」という理由で集まり始めるメンバーとか。EDのマッキーエモい。やっぱりいい曲だよね。先のレイトン教授の娘さんもEDがマッキー作曲だったのでこれから徐々に見る機会が増えていく可能性あるかもね。
Netflix独占
癒やし全フリのストップモーション芸術。ショートアニメ。制作はドワーフ。
社会の中ですり減った心を癒やすリラックマ。仙狐さんで描かれている「リアルな社会人(男性)」とこっちの「リアルな社会人(女性)」どっちもわかり味が深い。仙狐さんがおばあちゃんなのに対して本作はむしろ立場が逆で、「あんまり言うことを聞かない息子」みたいな感じ。でも憎めない。
ストップモーションアニメとしてはかなりヌルヌル動いている。公式ようつべ動画でメイキング映像が公開されてるんだけど、それによると作品全体で約22万コマとのこと。制作に2年かかったらしい。表情も丁寧に作られててびっくりした。細かいジオラマも良く出来てるし、太陽光線の角度まで計算されている。主人公の表情も相まって夕方のシーンがエモい。EDのスキップめっちゃすごかった。
あだち充の漫画原作。冒頭からタッチのネタバレがあるので注意。タッチでおなじみの高校が舞台ではあるけれど、時代の変遷によってすっかり強豪ではなくなった野球部がもう一回甲子園に返り咲くために頑張るスポ根。同じ世界線とはいえストーリーにガッツリ絡んでくるわけでもなく、あくまでフレーバー要素に留めてるみたい。2クールくらい放送するのかな。
ナレーションが日高のり子さん。めっちゃ丁寧な解説が付いてるのでタッチ見たことない人も安心して観てね。本作における日高のり子さんは「この世界の母」的ポジなので、お母さんに見守られながら描かれる世界全てに優しさを感じる。お母さんかわいい。モブもかわいい。男子も女子もかわいいキャラデザ。強いて言えば新旧エース対決くらい?
中の人ネタで言うと、主人公兄弟(兄と妹)を演じるのが内田真礼/雄馬姉弟。最近かなり共演する機会増えたよね。自然な(コミカルな声調を抑えた)演技がリアルな学生の日常っぽくて好き。特に内田真礼はピーキーなキャラを演じている作品が多い印象だったのでギャップを感じた。本作は(しばらく)会話劇がメインなんだけど、漫画のコマをモチーフにした演出で時系列を行ったり来たりするシーンとかテンポよく話が進んでいく上に見てて楽しい。
回想シーンで言えば、冒頭の回想シーン。「ここは時系列的に昔の話ですよ」を表現する方法としてよく使われるようになった「16:9→シネスコサイズにアス比を変える演出」に対して、「16:9→4:3にアス比を変える演出」になってるのがエモかった。
ここに限らず、ちょくちょくタッチリスペクトを挟んでくる。ナレーションもメタネタをガンガン突っ込んでくるし、吹奏楽部の演奏とか(リアル世界ではありふれてる出来事なんだけど)あえてアニメ内でこれをやるっていうのがエモい(演奏は公式で募集をかけている。2話は青学高等部の吹奏楽部による演奏)。
うちの3歳の息子かわいい。俺父ね。そこまでひどくないもののわがままなわけです。
わけのわからんことで機嫌損ねて、そっから一切動かないし無視決め込んだりとかするんだけど、そうなっちゃうとめんどくせーし余計に時間が掛かるから、おだてたりおだてなかったりして、気持ちよく朝の準備とかしてもらうように誘導するんだけど。妻がそういうの絶望的に下手なんだよな。せっかく起きる気になってるのにダラダラとタイミング外しちゃって揉めたり、イライラさせてめんどくさいモードに入っちゃうこと多々。
思ったけど、俺結婚前、追いかけるのが好きで、身の丈に合わないくらいの高嶺の華にトライしがちな恋愛をしてた。
そういう子、辛抱強く機を伺ってると「いまだ!」みたいなタイミングが来ることがあるのよ。で、すかさずその瞬間に釣り竿引くと見事釣れたりする。もちろん失敗もたくさんして、トライアンドエラーで、そういうタイミング込でモチベーションを引き出すスキルみたいのが高まったのかもと思った。
妻みたいに、ほっておいてもアプローチされて、そんなかで良さげなの選ぶというスタイルでは培われないかもなとも思った。それはそれで、なんらかのスキルが養われるかもだけどな。それぞれ、これ子育てだけじゃなく仕事にも活かせそうやなと思った。
それは
世界を構成する4つの力のうちの「重力」によって起きる自然現象。
まだまだ世の中には解明できていないことがたくさんあるけれど、
ほとんどの物理現象はこの4つの力によって回っている…らしい。
…ここまでは分かる。
すげえわかる。
世の中の色んな物理現象は、何かの法則に則って起きてるんだな。
詳しい事は良く分からんけど、そこには何かしらのルールがあって、
細かなパラメータの誤差は有れども、物事は規則的に起きているんだろう。
…ここまでは分かる。
「世の中の全ての物が物理法則に従って動くなら、生物だって当然そうなんじゃない?」
「生物も全て物理法則に従って動くだけなら、脳の動きだってそうなはずで、
じゃあ意識とか意思決定なんて存在しないんじゃない?」っていう奴。
別に俺に限らずありとあらゆる人がこの疑問を持っていて、
それに対してこう結論付けているのも、今までさんざん見てきて知っている。
って奴。
でもいやちょっと待てよと。
俺は俺の意思を持って行動している。
今ここに俺がどんな文章を書くか。それは今俺がリアルタイムで意思決定して行っている事であって、
決して物理法則に則って元から決まってた状況なんかじゃあねえぞと。
ただ、それを証明する事はどうしても出来ない。
…ここまでが前説。
で、
と思い至り、
「生物とは、世界の物理法則に抗う事が出来る存在なんじゃないか」
と思うようになったんだ。
より正確に言うと、
「生物とは、世界の確率に僅かに干渉出来る存在なんじゃないか」
と。
何が言いたいかっていうと、
ネットにはじかれたボールがどっちに落ちてもおかしくない、みたいな状況で、
そんな感じの処理を実行していて、それが意思決定に相当する行為なんじゃないかと。
それが出来なくなり、
物理法則のなすがままに成らざるを得なくなる事が"死"に相当する。
という事なのでは無いかと。
そう考える事で、俺の中で色々と合点が行ったんだ。
生物は「代謝して自己複製する、自己と外界の間に境界を持つ存在」で、
それが何度も何度自己複製して、複製時の微妙な誤差を積み重ねて多様化し、
多様化と淘汰を繰り返して進化してきたという考えが、今広く支持されている考えだと思う。
これもまあ分かるよ。
でも最初の最初「代謝して自己複製する、自己と外界の間に境界を持つ存在」
世界に干渉して、どうにかギリギリ生物としての必要条件を満たした最初の奇跡、それが生物なんだと。
次に生物の進化と繁殖とその目的、あと今後の世界の行く末について。
ついには人間になって(人間以外にも色々居るけど)、地球中に満ちるようになった。
更に人間は群れて行動して、群体として生物のように振舞っている。
もう「会社」とか「国」とかは生物の一単位と言っていいんじゃないかなと思う。
その答えは「世界へ干渉するサイズを大きくするため」なんじゃないかと俺は思う。
最初の奇跡(自然現象としてはそうそう起きないような確率のインチキ)は、
極小サイズの自己を複製するっていうだけの、小さな干渉だけだった。
それが今では、
海を埋め立てたり、山を削ったり、月に辿り着いたり、
太陽系外に機械を飛ばしたりするレベルの奇跡を起こせるようになった。
この世界は今後どうなっていくのか。
そのうち生物は、地球の引力に当たり前のように抗う存在になって
そしていつか、宇宙のありとあらゆる全ての現象に干渉するようになる。
そこから先はどうなるのか
今の人類がやってる「ちょっとここにビル建てるわ」的なノリで、
「ちょっとこの宇宙のデザインいじるわ」みたいな干渉を出来るようになったとしたら。
そうしていじくり回された宇宙の中の、
どこかの銀河のどこかの星で、
そんな設定のSFが読みたい。
私は、現在早慶のどっちかの法学部に在籍している大学生で、先日ASDの診断を受けた。
昔から人付き合いが失敗しやすい傾向にはあったが、それでも大学のサークルでは新しい友人を得ることができた。
その意味で、おそらく私は大学に発達障害としては非常に適応できているのだろう。
しかし、残念ながらモラトリアムは終わってしまうし、私は高等遊民になれない(なりたい)。
この世における最大の罰である労働に従事せざるを得ない状況にあることは誠に残念である。本当に残念。
じゃあ発達障害者の就職がどうかといえば、まあお先真っ暗の一言だ。
発達障害者としての就労は屈辱の作業所、低賃金、愛と罵声の飛び交う職場…とまさに絶望。
人格を破壊して、時間感覚を麻痺させ、プライドをへし折るには十分すぎる程度の劣悪な労働だ。
では一般枠で就職して上手く行った!バンザイ!となればいいが、問題は失敗した場合になる。
失敗してキャリアが途切れるのは恐ろしい。二次障害としてうつ病やなんやを発症したならもっと恐ろしい。
できれば一般枠で就職して、上手くやりたいが、上手く行った人の情報はあまり出されない。
支援団体などによる発達障害には才能があるんです!のような、「天使ちゃん」のようなノリで、発酵熟成脳で書かれた本は現実に適用できるわけもなく、N=1を声高に主張されても困る。
かろうじて参考になりそうなのは、精神医学他のアカデミズムの気配を感じる、大学等の支援者向けの本だろうか。あんまり役立たなかったけど。
参考文献を順に見ていけば、発達障害のコミックエッセイを読むよりはマシな気はする。
だらだらっと思ったことを書いたけど、
・一般就職で就職して上手くやるための情報、上手く行った人の情報が非常に少ない状況で、健常者とトライアンドエラーを自分でやるのは流石に無理。評価に響く。だから先人さん(エリートに限る)情報ぎぶみー
・無理に頑張りすぎてうつ病になったら自分のキャリアは死んだも同然になるから、完全に無理なら早めに適応できそうなとこ行くから教えて。妥協した就職先>障害者枠だろうし。
生まれることにも、発達障害になることにも合意した記憶がないのに、色々就職や将来の道に制限かかるのって本当にありえないと思う。よくない。
21の大学生です。
前置きとして、ただ自分の気持ちを吐露したいのと、増田で誰かに共感してほしく、乱文を綴っています。
よくある話かもしれませんが、私は地方の田舎の生まれで、都会のような中学受験や、どの中学校に入学しようか、私立や公立に通うなどの選択肢はありせんでした。故に近隣の1番近い学校に入学するしかなく、また当時はそれが当然だとおもっていました。また選択肢として先生や親が、ここの学校がいいなどの提案はありませんでした。その延長で高校は選択肢として、商業高校(Fラン)か普通科の偏差値が数字上は50ぐらい(おそらく50もない)の2択しかなく、私は何となく将来の事を考えると後者の方が良いのではないかのかと、当時も今もそうですが、田舎特有のマイルドヤンキーが嫌いで、入学しました。
高校では高3になり1日、10時間以上勉強しましたが、私は国語の成績が上がらず、東京の文系の中堅大学に入学しました。私は自分の高校の中での、進学者の中では偏差値の高い大学に入学できました。ですが、当時は第一志望には入学できなかったものの、使用がないと思っていました。(父には浪人はなしと言われていました)
私は大学に入学し、勉強や東京での生活や田舎にはない新しい情報を得る機会が多くありました。一言で言うなら文化資本でしょうか。今更言っても、どうしようもない悩みかもしれませんが、その新しい文化資本を取り入れる中で、大学は文系ではなく理系に選択しておけばと思うことが多くなりました。いま大学で勉強していることは楽しいですが、理系的な研究や開発をすることに対して魅力を強く感じています。私の浅はかな考えですが、実際に理系の方は多忙で大変だと思いますが、探究心によるトライアンドエラーは茨の道かもしれませんか、それほどに興味があります。
私は今現在、大学3年生であり、来年には本格的な就職活動が控えていますが、以下のような事を思います。
私の家は田舎では比較的に収入は多いほうですが、けして裕福ではありません。(調べたら平均所得は250万でした)父親と母親は高卒です。私の高校では進学に伴い、利子付きの奨学金を学年の半分が借りる学校です。これが相対的に普通なのか分かりません。何が言いたいかと言うと、学歴と収入は相関係数にあり、親は収入が多いと子供に投資でき、良い教育を受けることができるため、収入も多くなるのは、知識として知っていました。ですが、1年前か、半年前にみた文献で、母親の最終学歴が子供の最終学歴に大きく影響することを知りました。また経済資本が親から子へ受け継がれることは当たり前ですが、文化資本も同様に受け継がれることを知りました。また文化資本を子供に与える場合にも経済的な状況が関係してきます。例えば家に児童向けの本の数が多いほど、学力は高いという統計があります。しかし、家庭の経済状況が裕福な程本の数が多いという統計もあります。
つまり大卒で収入が多い親は文化資本も有しており、それが子供にも受け継がれると言うことです。私が幼少期に文化資本を享受し、親が大卒だったら、もっと違う選択肢を選んでいたのではないかとおもってしまいます。
基本的には何をやっても良く、時折とんでもない研究作品が出る事も多々あるが
そもそもまともに自分で考えて出来る子供など殆どいないため、大体は親がその大半を担わなければならない
はっきり言って、何の意味があるのだろうと子供の頃は考えていた
大人になり社会人となり、様々経験を得た今、個人的に夏休みの自由研究の目的とは何かを考えて、至った結論を持論としてまとめようと思う
まず最初に結論を書くが、夏休みの自由研究の在り方や目的は『結果』よりも『過程』が最も重視されるものであると考えている
時折凄まじく、大人でも唸るような自由研究が生まれてくるが、それはよほどの熱意を持ち元々の蓄積が無ければ出来得るものでは到底無いし、普通の小学生に求めるのは酷な話だ
そもそも大学生であっても、そんなものは卒業レポートとして提出レベルになってくる
そして『過程』を重視するのであるのならば、テーマは何でもいいのではないかと思う様に至った
正直、ここから先はかなり個人的な意見にはなるので、一般の感覚とは少し離れるだろうしこうしたものは認めないという人も多いだろう
だがしかし、飽く迄も『自由』な『研究』という名目なので、悪いことをしないのならば基本は何をしても良いと私は解釈する
さて、前置きをした所で
何を調べるのか、これが定まらないのであれば自由研究など進まない
そもそも子供の主体性を伸ばしたいという様な思惑も含まれるだろう事は自由研究という名前からして感じるのだ
ならば私は『その子が、今最も好きな事、好きな物に対して調べさせる』のはどうかと思う
そんなことは言われなくても、誰もが分かっているだろう
だが、好きなことが分からない子が大体だろう
だから、なんでもいいのだ
その子が、今一番ハマっている事を言わせて見ると良い
スポーツでも良い、料理でも良い、TV番組でも、youtuberの作品でも、ゲームでもアニメでも良い
その好きな事に対して、なんでもいいから調べてみるのだ
例えばスポーツで、野球が好きならば、変化球の投げ方を研究したとして毎日ボールを投げてみて、どうすればどう動くのか書きだしてみれば良い
最後に自分の感想を入れて締め括ればそれで立派な自由研究ではないだろうか
やるのが好きではなく見るのが好きなであるなら、甲子園などの試合を見て、試合ごとに自分の解釈を乗せて書いていけば面白いだろう
本を読むのが好きなら、作品ごとに考察を入れて、この時登場人物がどんなことを考えていたのか考えてまとめてみたらどうだろう
読書感想文と似ているが、形式に囚われず好き勝手に考えて書き出すのだ
いっそ自分で小説や漫画を1つ書いて完成させるくらいしても良いだろう
アニメも同様だ、1つの作品を一通り見て、それについて感想を述べるというのも面白いのではないか
今アニメで放送されている『はたらく細胞』を見て、各細胞の働きをまとめるという発展だってあり得る
だが私はそれでもいいと思える
例えばだ、対戦型ゲームなどで、それぞれのキャラクターの戦法を調べるなど面白いと自分は感じる
wikiに乗っていたとしても、自分で調べてまとめるというのは、十分に研究の1つだろう
実際にそれを自分でプレイして、思ったことを感想として書き込む
全部は無理ならば、いくつか絞ってそこに焦点を当てるなどすれば良い、そしてやりこむのだ
RPGであっても、どうすれば効率よく進められるか、レベル上げに適したところはどこか、この敵はどんな戦法が効くのか
wikiで調べてまとめるなり、逆にwikiに一切頼らずクリアしてみるなり、要は何をやったか一々書き出すのだ
wikiではこう書いてあった、でも自分でやってみてどう思ったか書いてみれば凄く頑張ってる感じもする
自分が調べたいと思った事柄を、自分がやりたいように調べる、あるいは作る
それをまとめて1つの成果として完成させる、十分ではなかろうか
このように、自分の好きなことを1つ、なんでもいいから言わせて見て、それに対して何か調べさせるといのが大事なのではいか
対象が何であれ、調べる、実際にやってみる、形にしてみるという『成果』が得られる
というのも社会に出て大事なのは、トライアンドエラーなど実際にやってみる、そして自分なりに考える、だと思うのだ
現状を分析し、あらゆる角度からアプローチをし、少しずつ条件をかえて進める
興味がある事柄に関してまず調べる、調べたうえで考える、立派な研究ではないか
そうやって改善していくのだ
冒頭でも語ったが、小学生などが出来る自由研究なぞたかが知れている
しかしそれを毎年繰り返していけば、年齢が上がるにつれ質は上がっていくのではと私は思う
これが私が夏休みの自由研究というものについて考えて至った持論だ
正直、実際に行うにはかなり反発があるだろう
特にゲームに関して調べましたと言えば、中身も見ずに激高する教師が多数いるのはまず間違いない
これらの研究結果という代物を受け止め、そのうえでアドバイスが出来る教師の度量なども必須になってくる
やり方も分からずテーマも決まらず、ただ自由研究をやれと言われてぶん投げられるより、好きな物に関して調べてこいと言った方が確実にやる気が高まる
ゲームだから駄目だ、などと言われず、ゲームでも良いとすれば視野も広がる
可能であれば、夏休み前などに教師などの大人がある程度誘導してやるのが好ましいのだが
好きなことを聞き出し、そのうえでどんなことをやらせればいいか、など
勿論全く興味がない物を押し付けたのでは、まず子供は絶対にやらないと断言できる
結果、夏休み終了直前に嘆くのだ
まあ、子供の興味などコロコロ変わるので、始まる頃には飽きて結局終了直後に嘆く子も多いだろうが
もちろん、既存の自由研究の様なテーマを行うのもそれはそれで良いだろう
自由研究キットを買ってやってみるというのも否定はしないし、実際にやってみるという成果が得られるのだ
だが、結局やらされてる感がある物よりは、自分の好きな物としてやらせる方が記憶にも残るしやる気も出ると私は考えている
……因みに、今の私がこれらの前提で自由研究を行うとするのなら
元々銃器類が好きなのもあるので、この際だからと各国の銃器の歴史を年代別に書き出して、どう進化していったのか表にまとめていくのも面白いなと感じている
大半がwikiなどに乗っているが、それを年代別に並べて見やすくするのだ
これはこれで中々いい自由研究になるのではないだろうか
https://anond.hatelabo.jp/20180813104409
http://b.hatena.ne.jp/entry/s/anond.hatelabo.jp/20180813104409
↑エントリへの反応とか見たけどさ、以下みたいな意見が多くてため息が出てしまう
「何度も失敗して覚えるもんだ」とか
「勇気を出せ臆病になるな」とか
しょーーーーーーーーーーもなーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
もうね聞き飽きたよ君らのしょーーーーーーーーーーもない正論は。
分かる?分かる?分かる?
リピートアフターミー?
「失敗したくない」「失敗したくない」「失敗したくない」「失敗したくない」「失敗したくない」「失敗したくない」
だったらあと5億回復唱しとけや。
何があろうとどうであろうと
「恋愛について研鑽を積むための努力や試行錯誤などしたくない」
「失敗したときの苦い思いしたくない」
んだっつーの
要するにの話として「『非モテ』が『恋愛』に合わせろ!」とかお前ら言いまくってるけど
ほんとどーしようもねーな非モテ論壇ってヤツは。
どの業界にも老害がいる。過去から抜け出せない時代遅れ。そんな奴らが写真界にも存在する。デジタル現像を善としない撮って出し老害だ。
デジタルカメラが主流となった昨今、ソフトウェアを駆使した現像術は必須になっている。端的に言うと、より感動的に仕上げるためだ。もちろん写真家によってアプローチは違うため、現像スタイルを確立するまでトライアンドエラーを繰り返す。
そんなわけで、写真とパソコンは切っても切れない関係になった。しかし、プロにも「撮って出し以外は認めない」という排他的な輩が存在する。
知り合いのプロは、自治体の老害プロどもに村八分状態だ。「おまえの写真は写真じゃない。デジタルに頼った紛い物」といった具合である。
「さまざま現像処理を試した結果、一周まわって撮って出しが最高だと思ったよ」というならまだわかる。撮って出し老害は、デジタル現像をするための努力を一切していない。批判するならできるようになってから批判しろという話だ。
世界を見てみると、当たり前のようにデジタル現像が行われている。保守的な島国根性なのか、はたまた時代の流れに追いつけない腹いせなのか。撮って出しプロは排他的な性格を修正できないのなら、今すぐ絶滅すべきだ。
私はどのような人間になりたいのだろう。
学問にばかり興味があり、それにのみ没頭するのは何だかつまらないように感じる。
自分のことを、何かの啓発本に載っているような「目的をもち人生の充足を感じる人間」に落とし込むのは嫌な気がした。
それは、いわゆる青臭さであり、第何次かのイヤイヤ期であるのかもしれない。
何回イヤイヤ期を経れば私は幼子から大人へと進化するのだろう。
万物に秀でたいのか。
そのためには、全てにおいて人より上でなければならないのか。
あれでは勝てないけど、自分にはこれがあるからいい、とは思えないのか。
自分は嫌に幼い。
そのくせ妙に大人ぶる。
賢そうに振る舞おうとする。
それが無様だ。
しかし、周りに賢いだの秀でているだの思われるのが常であるような気になっている。
実際今まではそうだった。
周りの方が圧倒的にレベルが高い。
生半可、半分もないだろうと思うほどの気持ちと、かけらもない努力の量で、学者になりたいなどとほざく。
そのことへの罪悪感。
切迫感。
学者になりたいという人間は、皆勉強が好きで、得意で、積極的に動けて、自分はこれが得意というある程度の自負があり、しかし自負が誇大にならぬよう、常に自分がその分野ではどこに立っているのかを弁えている。
本当か?
と、思っているからこのざまだ。
義務だの破棄だのしているから、ないように思ってがんじがらめだ。
背伸びした速度では、何も身に付かず結局遠回りだ。
一冊でいい。一章でいい。
本を読み進めるべきだ。
音楽聴いてもいい、途中で休憩して遊んでもいい。
結局自分に課しているのは自分で、責めているのも自分で、脅しているのも自分でしかない。
誰もお前に正しいことは教えてくれない。
これもまた、やる気になるおまじない程度で、自分の期待を裏切るのかもしれない。
それでも進まなくては。
進むことであり、伸ばすことはついてくることだ。
才能などないかもしれない。
それを神様が選んだだの、自分は特別な人間だだの言うのは、いい加減やめてしまえ。
結果だ。お前の考える物語は、見てきた物語は、後付けの、それの説明でしかないんだ。
そう思うしかない。
モ テ る 奴 は モ テ る 努 力 を し て い る
それだけ。奴らはイケメンではなかった。考えてみれば当たり前の話だった。
俺たちがオタクがアニメ漫画にいそしみ画面越しの嫁とひと時を楽しんでる間に、
奴らは、ファッション誌を読んで外見を整え、女の子とコミュニケーション回数をこなしトライアンドエラーで経験を積み、合コンなどで女子と出会う回数自体を増やしている。
つまりは、俺たちが遊んでる間に"モテる努力"をしているに他ならない。差がつくわけだ。
オタク=キモイからモテないのではなく、オタク趣味にうつつを抜かしてモテる努力をしてないからモテないのだ。
そしてその間に奴らは彼女と長い年月を過ごし女の扱いからSEXのハウツーから恋愛に必要な要素にさらなる磨きをかけ進化していく。
一方俺たちは今期は〇〇が面白いなどとはてなやツイッターで騒ぐばかりで、最後に女の子と話した日数記録とオナニー回数だけが更新されていく。
オタク趣味というのは二次元嫁を作ること三次元嫁が要らなくなるのでますますモテる努力から遠ざかる負のスパイラルを生む。
俺たちはサボっていただけ。奴らは努力しただけ。
やっとわかった。これがわかるまでに25年かかった。
悪いがみんな、俺は行くぞ。俺はモテさせて貰うぞ。じゃあな。