私はどのような人間になりたいのだろう。
学問にばかり興味があり、それにのみ没頭するのは何だかつまらないように感じる。
自分のことを、何かの啓発本に載っているような「目的をもち人生の充足を感じる人間」に落とし込むのは嫌な気がした。
それは、いわゆる青臭さであり、第何次かのイヤイヤ期であるのかもしれない。
何回イヤイヤ期を経れば私は幼子から大人へと進化するのだろう。
万物に秀でたいのか。
そのためには、全てにおいて人より上でなければならないのか。
あれでは勝てないけど、自分にはこれがあるからいい、とは思えないのか。
自分は嫌に幼い。
そのくせ妙に大人ぶる。
賢そうに振る舞おうとする。
それが無様だ。
しかし、周りに賢いだの秀でているだの思われるのが常であるような気になっている。
実際今まではそうだった。
周りの方が圧倒的にレベルが高い。
生半可、半分もないだろうと思うほどの気持ちと、かけらもない努力の量で、学者になりたいなどとほざく。
そのことへの罪悪感。
切迫感。
学者になりたいという人間は、皆勉強が好きで、得意で、積極的に動けて、自分はこれが得意というある程度の自負があり、しかし自負が誇大にならぬよう、常に自分がその分野ではどこに立っているのかを弁えている。
本当か?
と、思っているからこのざまだ。
義務だの破棄だのしているから、ないように思ってがんじがらめだ。
背伸びした速度では、何も身に付かず結局遠回りだ。
一冊でいい。一章でいい。
本を読み進めるべきだ。
音楽聴いてもいい、途中で休憩して遊んでもいい。
結局自分に課しているのは自分で、責めているのも自分で、脅しているのも自分でしかない。
誰もお前に正しいことは教えてくれない。
これもまた、やる気になるおまじない程度で、自分の期待を裏切るのかもしれない。
それでも進まなくては。
進むことであり、伸ばすことはついてくることだ。
才能などないかもしれない。
それを神様が選んだだの、自分は特別な人間だだの言うのは、いい加減やめてしまえ。
結果だ。お前の考える物語は、見てきた物語は、後付けの、それの説明でしかないんだ。
そう思うしかない。
イヤイヤ期の3歳児が書いてると思うと、感慨深いな