はてなキーワード: エモーショナルとは
https://note.kishidanami.com/n/n0b2033a6652f
本当に24時間で消えてしまうのは惜しいのでここに。なぜかweb魚拓は撮れなかった。
岸田 奈美
2020/07/27 19:06
Instagramには、24時間で消えるストーリーという機能がある。フォトジェニックじゃない(=映えない)写真を、気軽に投稿できるのが良いそうだ。というわけで、これはフォトジェニックでもエモーショナルでもない、24時間で消えるnoteだ。おもにわたしの醜いモテへの執着や、頭を抱えたくなる恋愛の話に使われる。
彼は、愛すべきバカの友人の紹介で知りあった、愛すべきアホだった。底抜けにアホで、底抜けにお人よしだった。
いつも良いことがあったみたいに微笑んでいて、箸が転がっても楽しそうで、だれかの良いところを褒めることが大好きで、褒められたらわんわん泣いて、飲み会で輪にはいれていない人に一番に声をかけ、信号の点滅する交差点でおばあさんがゆっくり歩いていたら自分の荷物がペシャンコになろうとも放り出して一目散に駆け寄る人だ。たまに大きな犬に見えるときがある。
だけど悲壮感に満ちたおもしろい失敗や事件に巻き込まれてしまう引力はわたし以上で、いつも「なんでこんなことに」と半泣きになりながら、不運に揉まれるアホの彼が書く文章は、ちょっと息を飲んでしまうくらい上手だった。彼はわたしと同じ作家だった。書き残す言葉でだれかの呪いを解ける、尊い人だと思った。
友人として、作家仲間として、アホ同士だいたい4人くらいで仲良くやっていたのだが、思いもよらず彼から「好きだ」と言われた。
あまりにも予想をしていなかった展開なので、わたしは「虫だ」と聞き間違えて、そっか虫がいるんだと黙っていた。わたしがしばらく黙っていたので、考え込んでいるものと思い、彼は律儀にその沈黙を守っていた。実に無駄な3分間を過ごした。
「付き合ってほしいです」
「い、いやです」
「えっ!?」
彼は目を丸くした。目を丸くしたいのは、こちらの方である。だってきみとはずっと良き友人でいたいと思っていたし、こう言っては申し訳ないけど、まったくもってタイプではなかった。
彼は底抜けにアホで、底抜けにお人よしなので、たくさんの人と運命から愛されている。彼が誰かの悪口を言っているのは聞いたことがないし、誰かが彼の悪口を言っているのはもっと聞いたことがなかった。
でも、彼はスマートとはほど遠いのだ。モテないわたしが選り好みして、本当にごめん。醜いことは百も承知で、神戸のド田舎から出てきて、Sho-comi(覇王・愛人)を恋のバイブルにし、最近はツイステッドワンダーランドのリーチ兄弟に夢中なわたしは、スマートな男と付き合ってみたいのだ。
彼を恋愛の目線で言い表すとしたら、なんだろう。童貞が最後に見る夢。失った青春の延長線。交響詩篇エウレカセブンのレントン・サーストン。ボーイ・ミーツ・ガールドリブン。奥田民生になりたいボーイ。近所のタバコ屋に住み着いた大きな野良犬。振り向けばだいたい自動ドアに挟まってる。本当にごめん、ひどすぎる言葉しか出てこない。
これでわたしを嫌ってくれたらいいなと思いつつぜんぶ言ったら、ものすごく神妙な面持ちで「まあ童貞みたいなもんだからね、よくわかったね」と感心していた。感心をするな。
「というかね、信用できないんやわ」
「なにを!?俺の恋心を?」
「君の恋心をだよ。だってわたしたち、二回しか会ってねえのよ」
そう。時期が時期だったので、知りあってからはほとんど、友人たちを交えたリモート飲み会で話していた。直接彼と会ったのは、たった二回。一回目は奇しくも害獣に襲われて怪我をし、二回目は引っ越した家を悲運にも七日間足らずで失っていた。事件が過ぎる。
ともかく二回しか会ってないのだ。マチネの終りの福山雅治でも、もうちょっと会ってた。
つまりこれはひと夏の思い出にすべてを賭けてきた、まごうことなき童貞ドリブンだと思った。詳しくは書かないが、告白の場所もひどかった。いまどきの小学生ですらもうちょっと良い場所を選ぶ。
どこをどう見てもタイプではない童貞に、心を乱されているわけには、いかないのだ。どこかで優しくて素朴でかわいい女の子と一緒になってほしい。
「わかった。俺はいつまでも待つよ。誓うよ」
「なにを?」
「人生を」
「なんて?」
人生を誓われてしまった。誰から頼まれたわけでもないのに、やたらと重いものを後さき考えずに背負い込む、己に十字架を課す、これぞ童貞ドリブンじゃないか。もうやめてくれ。誓わんといてくれ。
それから、何度か彼とご飯を食べたり、お茶をしたりした。書いていて死にたくなるのだけど、目が合うたびに、かわいい、本当にかわいい、すごい、きれい、と初めて動物を見た子どものような表情で褒めてくれた。
わたしは、自分の外見に強烈なコンプレックスがある。もったりとした奥二重、並びの悪い前歯、突き出た上唇、団子を貼りつけたみたいに低い鼻。どこをどうとっても、褒められなかった。取材などで撮ってもらう写真を見るたびに、現実を突きつけられて、悲しくなる。だから、彼のかわいいを信じることができなかった。
あと、人から好きだと言われて付き合ったことがない。いつもわたしは異性を追いかける方だったから、尽くして愛することこそが、自分の価値だと思っていた。
あまりにもわたしが、かわいくないからやめてほしい、と頼むので、彼ははじめてむっとした顔を見せた。
「なみちゃんのかわいさが、なみちゃんに伝わってないのはいやだ」
そして思いついたように、わたしが買ったばかりのライカQというカメラを手にとり、夕暮れの街を歩きはじめた。ぶらぶらと歩いていて、彼はなにも言わずにシャッターを切った。
写真を撮るならもうちょっと、ポーズの指定とか、背景のこととか、考えるもんじゃないのと思ったのだが、そういうのはなかった。
樹木希林と内田裕也の関係性から学ぶこととか、かわいい犬が歩いているのを見るだけで脳汁が出そうになることとか、ブタクサの油炒めはどんな味がするのかとか、そういうアホな話をしていた。いつのまにか彼は、何度もシャッターを切っていた。
カメラを見ながら「うわっ、かわいい」「びっくりするくらいかわいい」「こっちかな」「いや、こっちだな」「まぶたに焼きつけたい」とアホなことをつぶやくので、したたかにどついた後、見せてもらったのがこれだった。
L1030088のコピー
生まれてはじめて、自分のことを、ちょっとかわいいと思った。なんだろう。汗でメイクも落ちてるし、服だって適当なワンピースだし、手はむくむくしている。でもなんか、良かった。
「俺には、なみちゃんがこう見えてる。なみちゃんは心の美しい人だから、誰よりも美しく見えるよ」
発言は相変わらずアホだったし、何度見ても顔はタイプではなかったし、彼はこのあとすぐ自転車にひかれかけていたのだが、ひとつだけわかったことがあった。
写真というのは、レンズが人を映すのではなく、人が人を映すのだ。
ファインダー越しの表情、身体の動き、まわりの風景には、関係性が透けて見える。いい顔をさせられるというのは、いい関係性であるということで、もっと言えば、撮る人の恋や愛みたいな言葉にできない感情も確かに伝わってくる。文章も同じだ。だからわたしたちは作家なのだ。
わたしの凝り固まったコンプレックスが、他人の視点を通して、少しずつ溶かされていくような感覚になった。わたしのことをこんな風に見てくれる人たちがいると思えば、この世界はそれほど悪くない。
告白の返事はしていない。付き合うかどうかもわからない。ただ、写真を撮ってもらうことが増えた。そのかわりエッセイにしていいかとたずねると、決まっていたみたいに快諾してくれた。
今日は「俺と付きあった方が良い48016個の理由」というメッセージが届いて、1から順番に送られてきたけど、ひとつ一分で語ったとしても八百時間かかるのがバカだと思った。
いつかこのバカのことを、好きになる日はくるのだろうか。勝手に誓われた人生を、わたしはどう持て余せばいいんだろうか。とりあえずわたしは、恋よりも、いまはなにかを書きたい。今日もわたしは、恋人がいない。
タグに「ブコメ見た感想」と付けたのですが、それを見逃されたのかと思います。ブコメを見た感想であって増田さんに意味を分かってもらう意図ではないので、分からなくても別にいいですよ。
ただ、「意味が分からない」と考える理由が、ちょっと論拠が薄弱というか無意識の偏見が透けて見えるけどなぁ、と思っているので書きに来ました。
あと、単純な文章の読み違いをされてると思うので、以下、ご確認いただき、訂正してほしいです。
痴漢は誰に聞いたって犯罪者であって、喫煙や飲酒より社会から甘い扱いを受けているということはないと思うのですが…。
文字制限もあったし主旨とは余り関係がないので省いたのですが、私が喫煙者を蛇蝎のごとく嫌っているわけではありません。逆に「インターネッツ」の酒たばこへの過剰な嫌悪感に引いてるぐらいです。過去のブコメを遡ってもらうとブコメってるかもです。個人的には臭い…と思う時もあるけどそれは私が避ければいいだけですし、例えばとても気持ちよくお酒を飲んでいる時に同席している人がゆっくり吸っているたばこの香りは、何だか良い感じだよねとすら思っています。それは凄く関係のない話ですが。
それよりも、「インターネットでは蛇蝎のごとくに嫌われがちな喫煙は、本来なら違法ではないのになぜ…」と思っています。違法でも何でもないたばこを、「インターネット世論(雑な括りですが)」的なものは蛇蝎のごとく嫌う傾向があります。一方で、文句なしに「性犯罪」である痴漢は、なぜか、被害者の言説を「おおげさだ」とか「そんな言い方をされたら痴漢扱いされたのかと思って傷ついたからお前たちの見方はしたくない」とかの留保が付きがちなのは何故だろうと考えています。別の記事にブコメったんですが、他の犯罪と比較しても、この手の留保が付く数は断トツに多いのではと思います。空き巣とか強盗とかに同じ反応する人は多くはないと思いますし、言うたら割とどんびきされると思います。
既に明確に犯罪者である痴漢をさら憎んで風当たりを強くする(これ以上どのように?)ことで問題解決になる、という不思議な主張も
これ以上どのように?と増田さんは思っておられますが、そもそも私は、増田の「既に明確に犯罪者である痴漢」というコンセンサス自体が、本当は、社会において形成されてないでしょ、と主張をしています。
前段を繰り返しますが、たばこや酒への(特にインターネット言説における)嫌われぶりと比べるとおもしろいと気付くかと思ったんでたばこを例に出したんですよね。更に繰り返しますが、同じこと、他の犯罪では一般的にはまぁ言われないと思うんですよ。空き巣や強盗に「冤罪」をいの一番に叫ぶケースは、あまり多くは見かけませんよ。実際には冤罪はいろんな犯罪で起こっているのに。このあたりから、「痴漢は明確に犯罪」は、まだ社会的コンセンサスが足りない状態だと考えています。もちろん、当然ですが痴漢への風当たりが無いとは一言も申しておりません。「もっともっと足りない」という主張です。勝手に読み替えちゃいや。
バイアスがあるとつい勝手に読み替えやすくなるよね、私も良くやるんですよ。お互い気を付けましょう。
あえて乱暴で雑な言葉で言いますが、「明確に犯罪である痴漢」が絶対的コンセンサスだったら、「助けなかったらお前も痴漢」なんて乱暴なこと言う人も出てこないんじゃないかと思うし、逆に「俺はやってないし助けられることがあれば助けたい、でも気づかないし知らなかったし、できないこともあるんだよな、ちくしょう、痴漢は性犯罪!クソ!」とかも、すごく言いやすいと思うんですよ。実際そう(女より先に痴漢が悪いだろ)言っている人も現段階でもたくさんいます。
でも、そうじゃなくて、俺をまるで痴漢扱いしやがってと「被害者」に矛先を向ける人もいる。発端の小島慶子の言葉は乱暴で雑でとっ散らかっていて、まぁいい気持ちはしないのはもちろんわかります。
でも、そこで「痴漢扱いするな」「助けなかったから犯人かよ」とケンカする意味の無さは「女の憎悪は何も解決しない」という増田さんの主張と、ちょうど同じ意味の無さですよ。
なのに、増田さんは「攻撃的な発言をする女性」と名指しています。なぜなんでしょう。
増田さんがもし、本当に論理的でフェアに思考をしていれば、両方に共に問題の責任を帰するべきです。でも増田さんも「そういう女」だけを責めている。セカンドレイプの構造と似ています。
なぜ、両方を責めないんでしょう。
オバハンが若い頃は、「酒席の無礼講」という名目のかなりの狼藉が「社会的に許容される空気」がありました。たばこもしかり。昔はちっちゃい孫を抱いたじいさんがすぱすぱタバコを吸っていたんですよ。でも、酒もたばこも、配慮や節度がない場合は顰蹙を買う、という「社会的コンセンサスの変化」によって、我慢できる人が増えたんです。何十年単位の時間はかかったかとは思いますが、「社会の空気の変化」によって、黙って迷惑に耐えていた人が、その被害を受ける機会が減少しました。痴漢という性犯罪に対しても、まだまだ全然やれることが足りてないですよ。
犯罪じゃない酒やたばこですら社会の受容度が変わったのだから、「痴漢は性犯罪だから無条件で軽蔑する」という人がマジョリティになれば抑止になるでしょうし、満員電車への対応策も本気で取り組んでくれるかもしれない、助けるの難しいと感じている人の罪悪感も、「うるさい女」ではなく素直に犯罪者に向きやすくなるのではと期待するし、そうなれば「男なんてみんな似たようなもんだ」的な諦念を抱える人も減るのではと期待します。繰り返しますが私はたばこは合法なので迷惑かけなければ何の問題もないと思っていますが、痴漢は明確に性犯罪です。
あなたのシラフの理性が言わせているというよりは、やがて抱えきれずに誰かに八つ当たりを始める攻撃心の萌芽のような気がします。
私はシラフでもあまり理性的ではない、残念な自負があります。あのブコメで理性を感じる方がむしろ誤読がすぎるでしょ、持ち上げてるふりしてるのかもしれませんけどそれなら下手すぎる笑
更に言えば、このようなセカンドレイプに近い「偽の論理」や、トーンポリシングめいた批判は、批判仕返すべきだと考えていますのでぜんぜん萌芽じゃないですよ。
繰り返しますが、何故同じ「無意味な攻撃心」を向ける「攻撃的な男」たちのことも、併せて主語にしなかったんでしょうか。いやー甘やかしてんな―と思います。「そんなこと言われたら俺ちゃん拗ねちゃうぞ」に付き合う気は私にはありません。セカンドレイプ臭がする上に、片方だけに付き合うことは、より「セカンドレイプ的な構造」になりやすいからです。いじめ被害者に「お前にもいじめられる理由があるんじゃ」というのに似て。
更に言えば、自分は理性的だ、人よりかなり頭がいいとかと自負してる人ほど、まぁ、まず、理性的で論理的であった試しがねえよな、とも思っています。
馬鹿じゃない人ほど、そこそこ論理を積み上げられる人ほど、自分の理性に酔った状態になるのかもしれません。馬鹿じゃない分たちが悪いというか、その自慢の理性をもって積み上げた論理の間に、だれもが持っている「非・理性」がもたらす偏見や思い込みがあることに気づきにくいことが多いんですよ、もちろん自戒を込めてです。だから私は敢えてエモーショナルな面を捨てないようにしてるところもあったりします。
私が増田さんや、増田さんに同意する人たちに「無意識のバイアス」があるんじゃ、と感じたのは、私にも「元被害者だった私」というバイアスがあるからです。逆の傾きから見てるからギャップがより大きく見える。被害者としては「なんで犯罪者そっちのけで被害側に文句言ってんの?そういう意見がコンセンサス形成を妨げると思うよ」と思います。
あちらとこちらには違うバイアスがあって接地面をフラットに接続するのはとても難しいことです。でも本当にフラットに接続したいんであれば、両方からその穴を埋める努力をすべきだと思うんですよ。なのに、増田さんは「攻撃的な女」をタイトルに据えた。なぜなんでしょう。
私は偏っていますが、増田さんや増田さん的な意見をおっしゃってる人は、ご自分もまた偏りがあることを自覚してないように感じます。私はそういう「お前どの場所からそれ言ってんの?」な状態の方が、私の攻撃性よりも自覚がなさそうなぶん余計に怖えよ、とゲラゲラ笑いながら思っています。シンプルに「女うるっせえ」と怒ってる人の方がまだギャップをお互いに埋める努力ができたりするよ、そういう人は自分が乱暴な場所にいる自覚があるから話が早い。
貴方はひょっとして、自分が理性をもって論理的に冷静にフェアにフラットにこの文章を書いたとか、思っていたりしませんよね?
最後になりますが、今は立派な攻撃的なオバハンなので、痴漢の被害にあうことは数年に1度ぐらいに激減しましたが、憎悪というか怒りは当然ありますよ、当たり前でしょう?あとセカンドレイプにも強い怒りを持っています。犯罪への怒りやセカンドレイプが「叩けるという快楽」だと思ってるんでしょうか。はは、呑気だね~~。
・死んだのが中国人だと勘違いした白人が「チンチャンチョン」と言いながら真似た動画をツイートして5万RTで炎上
・会見でアジア人が警官に絞め殺されたことについて聞かれたトランプ「Who cares? It's CHINA」
・アメリカのtwitterでは「#中国に裁きを」的なハッシュタグがトレンド入り
・フランスの新聞が「吊り目でマスクをしたアジア人が自分の首を締める風刺絵」を掲載し中国のネットで炎上
・Apple Music「そんなことより今日は今までで最もエモーショナルなLGBTソングをお届け」
・某官房長官「現地の警察は適切に対処したと米国から伺っている。一般に差別といったことには全く当たらないのではないか」
・アメリカのtwitterは早くも次のトレンドに「NYでマリア様に見える雲が現れた!」40万RT
「またアホな日本人がアメリカで恥さらし。大好きなアメリカで死ねて良かったな」
「まあオレが何も言わなくても、放送局か広告代理店にマトモな奴が一人でもいれば、そこでストップはかかっていただろうがな」
「でも今こそ向き合ってみませんか、この“幻の10話”と。頑張って作ったものが日の目をみないなんて、クリエーターには残酷なことでしょう」
父が“幻の10話”をリリースしようと言い出したのは、関わったスタッフたちへの贖罪もあったらしい。
その感傷的な語り口調に、場は決定へと傾きつつあった。
「わっはっは! オレはどうやら学級会に迷い込んだらしいな。ヴァリオリは子供向けかもしれんが、作ってるオレたちは大人の筈だぞ?」
しかしシューゴさんの露悪的な笑いは、その空気を一瞬で掻き消した。
「作ったものが日の目を見ないことなんて、この世界じゃあ日常茶飯事だ。世に出たとしても、不十分で満足できないことだって珍しくない。それに日の目を見ないことよりも、もっと残酷なことがあるだろう?」
「え……?」
この10話をリリースすべきでないことを、シューゴさんは何度も説明した。
非常に重たくて、手間のかかるデザイン。
そうして頑張って作っても視聴者は評価してくれず、誰も得しない。
“客にとっては目の前に出された料理が全てで、厨房の裏事情など知ったことではない”のだと。
「最近この業界は優しくなったが、打たれ弱いアニメーターも増えた。そのくせ“世間からの評価”という残酷さはそのままだ。いや、そういった意見は現代の方が可視化されやすいから、むしろ酷くなってるかもしれん」
「酷評されること前提で語るのはやめてください。そうならないように作るのだって我々の仕事でしょう」
「ほぅ、“コレ”を俺たちで手直しするのか? するってぇと、最終的な出来は、この資料とは掛け離れるだろうな。原形ないものを世に出して、それで関わったスタッフたちへの感謝になるとは思えんがな」
主張は乱暴でありつつも、現場の最前線に立つシューゴさんには説得力があった。
上役を幾度となく説得してきた父のエモーショナルな語りも、彼の前では形無しだ。
「今さら寝た子を起こして結果が散々だったら、それは“感謝”という名の“公開処刑”になるんだぞ」
シューゴさんの言葉を聞きながら、新旧スタッフは“幻の10話”の資料を読み返した。
彼らはたまらず身震いをした。
「奴らの努力を無駄にしたくないってんなら、それこそ“無駄のままにしてやる”のが、せめてもの温情……ってオレは思うけどなあ~」
結果として、彼らのいう“激動”は、何も変わっていないまま終わった。
だが、そこには“変わろうとする跡”が確実にあったんだ。
何も変わっていないからこそ、“激動の跡”がより鮮明に見えるってことさ。
……と、まあ、それっぽくはまとめてみたものの、この話には残念な点がある。
実をいうと、この出来事自体がどこまでが本当で、どこまでが嘘なのか分からないんだ。
「で、最終的にシューゴさんのタバコでボヤ騒ぎが起きて、資料は全部燃えてしまい……」
「おい、話を盛るにしても、もう少しマシなこと言え! タバコなんぞ吸ったことねーわ」
なにせ父たちが呑んでいた時、断片的に聞いた話だからだ。
その時に飲んでいたのが、悪酔いしやすい安酒だったから尚更である。
シラフの時に尋ねても、コンプライアンスがどうとかで話してくれない。
なのでこの話はどこかが過剰か、或いは不足している可能性がある。
或いは“幻の10話”の如く、そもそも存在していたのかどうか。
好きな芸能人が引退したけど、スポットライト症候群みたいで見ててしんどい
好きな芸能人がいた。
芸能人といってもテレビでの露出はなく、雑誌の仕事がほとんど。しかしその人はその仕事を誇りに思っていて、「自分は自分の仕事をやり尽くした」と言って、去年引退を発表した。
私もその人がその人にできる仕事でベストを尽くしたと思ったし、そう言って引退を決める姿はカッコイイと思えた。
その芸能人の方は会えるイベントを積極的に行っていたため、引退発表から引退までの数ヶ月は会いに行っては、引退の足音を感じて心が苦しくなったり、「引退したらこうやって気軽に会いに行けなくなる…」というエモーショナルな気持ちになっていた。
その人は引退発表直後、インタビューで「SNSはもうしない」や「アカウントは消すかも」と言っていた。
「引退後数日はエゴサしてファンの様子を見るけど、それからはアカウントを消すと思う」と。
SNSを通じてその人を知ったからこそ、その発言は本当に悲しくて寂しいものだった。
SNSはその人を身近に感じることのできるツール。それがなくなったら今度こそ本当にその人との接点がなくなってしまう。
しかし今どうだろう。
引退して数週間経つが、その人のSNSアカウントは消えそうにない。というか本人が「有益なツイートはできないけど、誰かの元気の源になるならと思い、このアカウントは残す」と言い出した。
正直言って私はショックだったし、本当に呆れてしまった。
「誰かの元気の源になるなら」という理由は立派なものだと思う。その人の存在を身近に感じられるツールだし、それで元気になる人ももちろんいるだろう。
「SNSはもうしない」って言ってたのは私の勘違いなのか?とすら思えてきた。
私はその人が引退発表のときに言った「自分のできる仕事でベストを尽くしたから引退する」といった言葉に、あのとき本当に感動した。
名前を出したくないので明言しないが、本当にその人はその人のできること全てでベストを尽くしたのだ。これ以上その界隈では上を目指せないくらい。だからこそ、トップに登りつめた人だけが言える言葉で引退を発表したその人のことが死ぬほどカッコイイと思えたし、心の底から敬意を表したいとすら思えた。
引退してしまった今、その人はその人ではなく一般人になったのに、その人でいた時に使っていたアカウントでずっとツイートしている。
それは、マンガというのは連載が続くとシリアスになるからだと思う。
例として、ドラゴンボールやワンピース等の歴代のジャンプ長期連載作について考えてみよう。
初期の話ではギャグやユーモアの比率が後期より高い。バトルといえどもちょっとしたギャグまじりに描かれている。
しかし連載が長引くにつれて、徐々にシリアスの度合いが上がっていき、バトルもすごいガチで、どんどん話が濃く長くなっていく。
なんでそうなのかっていうのはいくつか理由があると思うけど、有名なチャップリンの言葉、「人生はクローズアップで見れば悲劇だが、ロングショットで見れば喜劇だ」になぞらえれば、連載によって読者が長期間ひとつの物語に触れることで自ずとキャラクターの人生がクローズアップされ、悲劇・シリアスな話にならざるを得ないのではないかと思う。
で、この100ワニの作者の他の作品(どうぶつーズとか)をちらっとみたかんじだとこの人は元々シュールな作風を志向しているっぽくて、100ワニのコンセプト自体「自分が死ぬ運命を知らないワニのある種の滑稽さを描く」というブラックジョーク要素が入っているんだけど、これが100日かけて連載することで「仕掛け」を考えた側の想定以上に読者がマジになってしまった(期せずしてシリアス度が上がってしまった)ということなんじゃないかと思う。
たぶんテレビで作者が語っていた「昔死んだ友達がどうこう」「読者に生きることについて考えてもらいたいうんぬん」という話も、なんか後付けというか、嘘ではないんだろうけど、当初は他に不謹慎な発想もどっかしらあったに違いないと思うんだけど、なんか周りがすごいハートフルな感じで受け止めてるんでそれに乗っかってったのではないか。で、結果として作品の受け止められ方と商品展開の整合性が取れなくなって炎上したんじゃないかなあ(最終回についても、オチ自体は企画当初から考えていたとしても、描き方とか演出は連載中の読者の反応を受けてよりエモーショナルンな感じになった可能性が高いと思う)。
で、炎上を避けるにはどうすればよかったかというと話は単純で、連載を短くすればよかったんだよね。「10日後に死ぬワニ」にすればよかった。作品のブラックジョークの要素が強くなり、追悼ショップもカフェもブラックジョーク的企画として受け入れられただろう。盛り上がりもしなかっただろうけど。
まあ作者も本当は「うるせえ! 俺が俺の作品で商売して何が悪いんだ!」といいたい気持ちはあると思うんだけど(言ってもいいと思うけど)、大勢の関係者がいる手前そういうことは言えないんでしょうね。がんばってください。
せっかく寝たのに、エモーショナルな夢を見て目が覚めてしまったので記録しておく。
俺は両親と何らかの閉鎖環境で暮らしていて(恒星間移民船みたいなSF的なやつ)、細部は思い出せないが、とにかく、居間には高そうな小豆色の革張りのソファ(車輪が付いているらしく自律移動する)がたくさん置いてあって、死期の近づいた人間はそれに乗せられて別の部屋に運ばれて行き、やがて死ぬと部屋が過熱して死体が「消え」てソファだけが生活空間に戻ってくる。たぶん死体はリサイクルされてる設定。
その部屋は、他の部屋と繋がっていて隔離されているわけではなく、入り口からなんとなく中が覗ける。俺は、そうして祖母を乗せたソファが部屋の物陰に入った後に部屋が加熱して、何も乗せていないソファが戻ってくるのを眺めていた。
何とも言えない気分になりながら祖母を載せていたソファを眺めていると、それを見ていた母親が「それじゃソファ拭こっか」と提案してきて、頷いたあたりで目が覚めた。
何でこんなシドニアと未来少年コナンと火葬場が混ざったような夢を見たのか分からないが、これが年老いた親戚に「自分の見ていない所で面倒をかけずに居なくなって欲しい」という深層心理の表れだとすると、我ながら薄情なやつだなぁ、という感を禁じ得ない。一方でその光景に強いショックを受けたのも確かで、人間がなぜ葬式という儀式を必要とするか分かったような気がした。
あと、自分の中の母親が、誰に対しても気遣いを忘れない人間として認識されていることに驚いたりした。正直、普段はその気質を過剰なものとみなしているのだが。
アルジャーノンに花束を、の書評で「エレベーターのようにぐんぐんと打ち上がって、頂点に達して真っ直ぐに落ちていくような、勢いのある話だった」って言うのがあって好きだったんだけど
かつては拳を振り上げ熱狂したもの、熱狂した同志、熱狂した場所があったのに、今は誰もいない。踏み潰された草地と、忘れ去られた立て看板とがあるだけ。まるで、何にも残らなかった戦争みたいで好き。
今日は特にいい。そこそこ文の意味も通るし(そのせいでちょっかいかけられてるけど)、何より失われたものの輝きを上手く描けている。警察や教授など、明確な抗えぬ悪者が出てくるのも好きよ。被曝跡地で燃え尽きた家の瓦礫の陰に、溶けて輝くガラス瓶の埃を拭うような美しさがあるわ。
たまに正常側に針が振れてる時の字下げっちの文章に垣間見える理路整然としたもののも、かつての栄誉の面影が見えるからいいよね。
今更ながらいーちゃんの本名が気になってちょっと考えてみた(前編)
の続き。
「名前をローマ字で表記した場合の、母音の数と子音の数を教えてください」……きみはこの質問に口頭で即答できる自信はある?
ぼくにはちょっと難しいな。自分の名前をローマ字にした綴りもその音数もパッと頭に浮かべられる内容じゃない。一度紙に書き出して指で数えたい。
普段書き慣れてる表記で何文字ですかって言われたら即答できるけど、ローマ字表記なんて日常的に使ってないから頭切り替えてかないと難しい。
頭の中で数えられるっていう奴はそれこそいーちゃん並に頭の回転が速い奴なんだろうな。
ところでこんな話知ってる?バイリンガルやトライリンガルって苦もなく複数の言語を使い分けてるように見えるけど、実際はぼくらが考えるより頭の切り替えって大変らしいよ。
母語で会話してる時にいきなり別の言語で話しかけられると頭の切り替えが間に合わなくて固まったりすることがあるんだ。一度切り替えた後は流暢に喋るんだけど。
日本人のくせに英語で寝言を言うような人ですらそうみたいなんだ。世界中のバイリンガルやトライリンガルと知り合いなわけじゃないから、全員がそうかは知らないけどね。
だからいーちゃんもさ、この時頭の切り替えをした可能性はあるよね。
普段の思考に使ってるネイティブな日本語から、アメリカ留学時代に使っていた英語脳に。
ローマ字表記の名前を書く機会は日本暮らしより在米中の方が圧倒的に多いだろう。
日本に帰ってきてからは英語もローマ字表記も使う機会が激減してるだろうから、思い出すのにちょっぴり手間取るかもしれないね。
「えーと、当時は名前はどう書いてたっけ……そうだそうだ、これだ。『I am Ichizu Yi.』だ」
「I am Ichizu Yi Qing」だとさ、数えてみると母音7子音8になるんだよね。答えにだいぶ近付く。
「I am」は名前じゃねーだろ!ってツッコミは妥当ではあるけど、母語で書き慣れた自分の名前ですらうっかり別の文字と書き間違えることもあるじゃん。久々に思い出す言語表記を頭の中だけでこねくり回してたらうっかり勘違いしちゃうこともあるんじゃない?
ぼくはとても留学経験者と張れるほど英語には通じていないしバイリンガルの気持ちも分からない、だから絶対ありえないとは言い切れない。
あ、ところでさ、母音と子音って逆に覚えてる人けっこう多くない?
ぼくもうっかりすると間違いかねないからこの文章を書いてる途中でググって確認したよ。
でもすぐに調べられない状況だったら、うろ覚えのまま押し通して間違っちゃうこともあるかもしれないなあ。
仮にいーちゃんが母音と子音を勘違いしていて、その上でパッと頭に浮かんだ英語表記を精査せずに数えたとしたら……逆転して「母音が八、子音が七」を正答と勘違いしちゃう可能性は、十分にありうるんじゃないか?
だってあいつ、有能な時は有能だけど抜けてる時はむちゃくちゃ抜けてるだろ。
まあ彼は両利きだから利き腕がひとつしかない人間の常識で測っちゃいけないんだろうけど。
でもいーちゃんに限らずどんな人間でもうっかりすることはあるものだから、だからカッコつけずにちゃんと紙に書いて指で数えておけばこんな馬鹿みたいなミスを疑われないですんだだろうに。
まあその場合ペンを動かす手の動作から子荻ちゃんに情報を与えかねないから、どんなに難しくても頭の中で数えざるを得なかったのかもしれないけど。
そもそもアレ子荻ちゃんが姫ちゃんに気付かないようにするための時間稼ぎだから、ゆっくり考えて退屈した子荻ちゃんが何気なく窓の外に目を向けでもしたらその時点でアウトだからね。極力ノータイムで答える必要があった。時間制限有のハードモードってわけで、初見ノーミスクリアはなかなかちょっと厳しい要求だろう。
というわけで仮に「イチズ・イー・チャン」というのがいーちゃんの想定した正解だとしたら、
「名前をローマ字で表記した場合の、母音の数と子音の数を教えてください」
「《あ》を《1》、《い》を《2》、《う》を《3》……そして《ん》を《46》として、あなたの名前を数字に置き換えます。その総和は?」
この三つの質問で引き出せる情報に加えていーちゃんの性格・性質を考慮に入れることで、正解に辿り着けるということになる。
ぼくは初読から10年以上かかったけど、そこはあの策師・萩原子荻だ。彼女の頭脳と観察力をもってすればその場で辿り着くことなどわけないのだろう。きっとそうだ。たぶん。そのはず。
ぼくが何故こんな強引にこの根拠に乏しい名前を推してきたかというと、理由はただひとつ。
どうでもいいけどエモいのエモってエモーショナルの略なんだってね。
ぼくはてっきり「えもいわれぬ」の省略語だとばかり思い込んでてつい先日恥をかいた。
でもえもいわれぬでも間違いではなくない?「言い表すことも出来ないほど優れている」って意味だよ?エモいと本質的には同じ言葉といって差し支えないだろ?
閑話休題(もう何度目だコレ)。
「イチズ・イー・チャン」
ずーっとカタカナ表記で通してきたこの名前を一度漢字表記にしてみよう。
「一途一青」となるね。
横書きだと伝わりづらいだろうから、一度縦書きにしてみようか。
一
途
一
青
「一途《いちず》」「一《いー》」まではおそらくいーちゃんは他人にいくらでも名乗っている。
でもその先、いーちゃんの本当の名前……余人には明かさぬ最深部の象徴たる「青」にまでたどり着いた者は、決して生きて帰ってこれない。
この二つ目の線は、そう、「踏み越えると必ず死に至る、デッドライン」なのさ。
「死線の蒼《デッドブルー》」
この通り名はきっと「死線を越えて戻ってきた存在」という意味。
しかし「越えてはならない死線」は玖渚友、本人を意味しているのではない。
どんな目的でも、どんな手段を取ろうと、誰であろうと、彼の心の深淵に立ち入ることは許されない。
……どうかな。エモくない?そうでもない?
うーん、あいつもあんなかわいいなりしてなかなか口が悪いものだからなあ。
もう少し穏便な表現にしておけばいーちゃんにも伝わりやすかっただろうにね。
死線とか物騒な言い方してはいるけど、要するに誰も見せてもらえないいーちゃんの心を覗けたのはこの世界で自分だけ!って意味の名前を電子世界で大暴れまでして全世界に轟かせてるんだからねあの子。
すごいよね。
そんなまわりくどいことしないでもはっきり言えばいいのに。
「離れていても、いつもあなたの心の一番近くにいます。あなたの隣にいられるなら死すらも怖くない」って。
天才の行動ってなにがどうなってそうなってんのか理解に苦しむもんだからなあ。
でもたとえば「僕様ちゃん」って謎の一人称とか、常軌を逸した玖渚の行動は丹念に理由を紐解いていけばぜーんぶいーちゃんへの執着/愛情の二要素だけで構成されてるんじゃないのか?電子の世界と同じ二進法。
友の奇矯な行動なんていちいち挙げてたらキリがないからやらないけど。
あとさ、いーちゃんはいーちゃんで14歳の時点では「どのツラ下げて」だった「一途」の名前も原作完結時点では名は体を表す、似合いの名前になってるんだよね。
だってあいつ玖渚と結婚したんでしょ?してるよね?ブルセラ趣味の玖渚だって、さすがに結婚する気もないのに表紙でウエディングドレス着たりしないよね?
この世界で青といえば玖渚友。
彼女とはティーンエイジャーの頃からの知り合いで、他の女の子とは付き合ったりせずずっと一途に想い、とうとう結ばれました。
いーちゃんの詳しい過去を知らない人にそう自己紹介したら信じるでしょ。
「一途一青」、完全に名は体を表す名でしょ。
エモくない?えもいわれぬ感ない?そうでもない?
ぼくら読者は彼が出会う女の子出会う女の子みんなにうっすら好意を抱いていたこと知ってるから「嘘つくなよ」って言えちゃうけど、普通は目の前で話してる相手の心の中なんて見えないから大丈夫大丈夫。
「《嘘も百回言えば真実になる、ただし八百回目で嘘八百》みたいなっ!」
……こういうの下手げにやってると原作でやったのと被りそうで怖いな……さすがに巫女子ちゃんの出番はばらけすぎててチェックしきれねえ……。
ところでここまできて本当に今更なんだけど、いーちゃんが日本人だという確たる証拠を原作から見つけてしまった。
クビキリサイクルの40頁目上段、地の文で「純粋な日本人」ってはっきり明言している。
マジかこんなに書いちゃったのに全ボツかよ……と正直だいぶ打ちひしがれたんだけども、よくよく考えるとこの申告ちょっと不自然じゃないかなあ。
この付近、ワールドワイドな視点で語ってるせいか「純粋な日本人」ってワードが頻発してて惑わされちゃうんだけど、自分のことをわざわざ「純粋な日本人」って主張する日本人って、見たことある?
少なくともぼくはそんな自己主張したことないなあ。みんな顔と名前を見て勝手に日本人と判断するから、わざわざ自分から強調しなきゃならない状況になったことはたぶんない。
とはいえ何度も言っているようにぼくにはいーちゃんのように多様な民族が共存するサラダボウルのような国で何年も過ごした経験なんてないから、ぼくの常識がいーちゃんの常識と同じとは限らない。
アメリカで何年も暮らした日本人はみなそういう習慣が付くのかもしれないし、そうでなくとも必要があって連呼してた「純粋な日本人」ってのが妙に口に馴染んじゃって必要ないところにまで飛び火しただけかもしれない。あいつ気を抜くとすぐうっかりする奴だから。
ただ、なくはないよね、可能性としては。
黙ってりゃバレないようなことをわざわざ自分から言って「語るに落ちる」ってことはさ。
いーちゃんに誰にも知られたくない秘密があるとしても、そんなに必死になって隠すようなことは知らんぷりしておいてあげた方がいいんだろう。
気付いていようがいまいが誰も口に出さない、出す必要もない、どうでもいいことなんだからね。
いやでもいーちゃんは別に秘密にしてないって可能性もあんだよな……。
「昔は中国人でしたけど、今は帰化したから純粋な日本人です。何か問題でも?」って真顔で言ったりして。
あいつ言葉の定義にうるさいんだかうるさくないんだか分かんないとこあるからなあ。
でも「心は純粋な日本人です」って真面目に言ってる人を嘘つきって責めて傷付けでもしたら、こっちが人非人だもんな。
まあどっちにしろ、表から見た情報だけじゃ本当のことはそう簡単に分からない。
実は痛いのをなんともないフリしてる腹ならなおさら、そっとしといてやらないと。
そっとしとくと決めたところでそろそろ終わりにすることにしよう。
それにしても長くなってしまった。あまりにも長くなってしまった。
休みの暇潰しに気軽に綴るつもりが、こんな文章量になるとはお釈迦様でも思うまい。
ここまで読んでくれたきみがぼくの考えに賛同しようが、反対しようが、肯定しようが、否定しようが、面白がろうが、こき下ろそうが、どうしようとぼくは一向にかまわない。
だから小説を読んだ時と同じように、楽しむも腐すも好きにしてくれればいい。
半可通の与太話だからきっとツッコミどころだって大量にあるだろうしね。
ああ、そうだそうだ。こんな時にぴったりな言葉があるじゃないか。
じゃあこのシリーズのファンらしくその言葉を借りて締めることにしよう。
「ネットにある怪文書の9割は内実そんなもんだよ。結果、真実に近かったとしても、それは賽の目を当てただけ」
それを知った途端、目に映る『Mの告白』の文章が上滑りしていくようだった。
俺はもう、これをマトモに読むことは出来ない。
「ただの愚痴でこんな……」
「各論を切り取って考える分には、真っ当な箇所もあるからね。頷きやすい部分が少しでもあると、リテラシーの低い人間は当てられやすい」
まさに俺じゃないか。
何とも言えない恥ずかしさが込み上げてくる。
騙されたとまではいかないけど、ほとんど騙されたようなもんだ。
俺は「騙された方が悪い」ってのを、大した理屈だとは思ってない。
だけど、騙されたことによる恥ずかしさは否定しようがなかった。
「ああ、ちくしょう、俺はこんなのを、なんで本気に……」
恥をかかせた人間が、どこの誰かも分からないから余計に虚しい。
「ま、まあ、そこまで気落ちする必要もないよ。『Mの告白』はエモーショナルでセンセーショナルだ。情緒的で関心を引く要素が強いと、リテラシーは分が悪い」
落ち込みっぷりがよっぽどだったのか、タイナイが特有の言葉選びで慰めてくる。
理屈はイマイチ分からなかったけど、俺みたいな奴ってことだけは伝わった。
「……確かに、俺だけリテラシーがないってわけじゃない。多くの人が、嘘か本当かを見分けられてないんだ」
俺は、そう自分に言い聞かせるように答えた。
すると、タイナイはまた妙なことを言いだす。
「僕が思うに、リテラシーで大事なのは“嘘か本当かを見分ける”ことよりも、“嘘か本当か分からない場合の対応”だよ。その点で、“リテラシーがある”といえる人間は少ない」
そもそもリテラシーって言葉自体、まだ俺はちゃんと理解できてないんだ。
「え? どういう意味?」
「いや、もういい。お腹いっぱい」
「それにしても……」
改めて思う。
「……結局“M”は何者なんだろう」
「さあね。だけど“M”が賢明な人間ならば、少なくとも名乗り出るようなことは絶対しないだろうね」
「なんで?」
曖昧な表現ばかり使うタイナイが、『絶対』という強い言葉を使うのは珍しかった。
「“M”について快く思わない者は多い。大半は有象無象だけど、中には報復してやろうと血眼になっている人もいるようだ」
「報復……」
「殺害予告とかも、よく見るね」
「そこまで!?」
俺も“M”に対してはちょっと怒ってるけど、殺してやろうとまで思ってる奴がいるのか。
「あることないこと、個人のフィルターにかけて語られるわけだからね。立場や性格次第では、たまったもんじゃないだろう」
なんてこった。
なぜかタイナイはのほほんと言っているが、これは大事件の前ぶりだ。
もし迂闊に“M”が正体をバラしたら……そいつらに殺されるかもしれないってことだろ。
何とかして未然に防がないと。
「伝えるって、どうやって……」
もちろんアテはある。
だけどそれを説明している暇はない。
俺はすぐさま部屋を飛び出した。
「それに、ネットがきっかけで起きた事件もあるにはあるけど、怪文書と同じで殺害予告も鵜呑みにし過ぎるのは……ああ、行っちゃった」
元田の感性は正しい。
未知との遭遇にはいくつかバージョンがあって、それぞれラストシーンが違うからね。作り手にも迷いがあったのだろう。
バージョンの違いは下記の通り。
2.「特別編」
3.初期ソフト版
このうち、午前10時の映画祭で上映されるのは4番のファイナルカット版。
えらそうにコメントを書いていた俺は特別編しか観ていなかったりする。ソーリー・・・。
でも、「ファイナル・カット版」のラストがいまいちに感じたのなら、「特別編」をみたら印象が変わるかもしれないね。
ラストに「星に願いを」が流れるんだけど、あっさとしたラストよりエモーショナルな展開を求めるのであれば、あれはあったほうがいいよ。
空き教室にある4:3のモノラルのテレビデオで、授業をサボって占領した。
小さい画面だったけど、教室には椅子がいっぱいあったから映画館風に感じた。
まあ、観客は俺ひとりだったんだけどね。
そんで、ラストシーンで主人公がマザーシップ内を見ていくんだけど、最後に「星に願いを」のBGMが流れるわけよ。
【承前】
https://anond.hatelabo.jp/20190216023228
本章では、オタク同士の関係性をテーマにした創作作品や、バーチャルYouTuber同士の関係性が消費されることについてより深く考察していく。
1章で述べたバーチャルYouTuber同士の関係性に視点を戻すが、バーチャルYouTuberは現在6000人が活動している。その中で人気を得ている配信者こそ、関係性を構築し、バーチャル上での物語を消費者に提供しており、姿かたちや趣味嗜好こそ多様なものの、ひとくくりにいえば大体の生まれは「オタク」である。つまり、「オタク」だからこそ萌えられるキャラクタと関係性をセルフプロデュースし、それをまた「オタク」が消費しているのだ。これがループのように連続することで、時には自らも憧れてバーチャルの世界に踏み込んでいくためにバーチャルYouTuberは日々増え続けているのである。自分の人生や趣味嗜好を、キャラクタというフィルターを通すことでシェアし、自らが創作物/キャラクタそのものになるということは、自伝やエッセイを執筆し、その読者と直接対談するようなことだ。「オタクの人生」を物語として消費し、絶え間なく新たな物語と関係性が発生していくというコンテンツに、オタクは萌えることができる。たとえパーソンが基底現実においてどんな人物であったとしても、「生けるキャラクタ」としてのバーチャルオタクの魅力に、オタクはシンパシーと巨大なエモーショナルを感じざるを得ないのだ。自分と近しい存在の人生を物語として消費することは、永久機関のような底の知れない魅力を持っている。
また、「このマンガがすごい!2019」*4 では、オンナ編第1位に鶴谷香央理「メタモルフォーゼの縁側」(2018)、第8位に町田 粥「マキとマミ」がランクインしており、この作品はどちらも腐女子同士の関係性を主題としたものである。2章で述べた「腐女子」特有の親密さは、既に広く認知されており、さらに創作物として女性からの支持を強く得ているということである。この背景にも、自らのオタク的言動やコミュニケーションを「あるある」と思いながら読むような自伝・エッセイ的な要素ももちろんのことだが、「腐女子特有の親密さへの愛着」や「登場する腐女子同士の関係性のリアリティに即した萌え」が確実に存在していると考えている。
上記のようにキャラクタ化したオタクや、親密さの自覚を持った腐女子は、基底現実においても関係するようになる。1章で述べた「バーチャルYouTuber同士が三次元で会った時の飲食物の画像」や、腐女子特有の「なりきりアカウント」文化の「背後交際」などが主な例だ。バーチャルYouTuberでコラボ放送をしていた親密なパーソン同士が3次元でも会うようになり交際に至ったという例も、キャラクタとして表沙汰にならずとも存在する。また、腐女子コミュニティにおける「なりきりアカウント」とは、主にTwitterなどで作品のキャラクタのロールプレイをし、自分の好きなカップリングの相手とネット上で交際したり、同作品のキャラクタと日常会話をする文化である。このアカウントの運用主を「背後」と呼ぶのだが、彼女たちは基底現実でもオフ会をし、実際にロールプレイで交際していた相手と現実でも交際に至ることがあるという。
つまり、関係性消費が加速し、自らもキャラクタ化したオタクは、パーソン同士としての基底現実でも「萌える関係性」を実践しているのである。この状況において、「わたしたちの関係性は萌える」という自覚の有無はもはや必要ない。パーソンとキャラクタの境界があいまいになり、オタクは自らを自らで消費することが可能になっていくのだ。
本論では、関係性消費が牽引していくというトピックからオタクそのもののキャラクタ化、そして完全なる相互消費の永久機関にまで言説が行きついてしまった。しかし、現実での関係性消費において立ち上がってくる問題はやはりジェンダーとルッキズムである。これに対するアンサーは2つある。1つは、すべてのオタクが理想のバーチャルキャラクタとしての3Dモデルの肉体を手に入れることである。バーチャル空間での関係性の構築はYouTubeだけでなく、「VRchat」という果てしない多様性を持ったもう一つの世界ともいえるVR空間でも今まさに進行中だ。全オタクが理想のキャラクタとなり、主体的に交流してその関係性すべてを消費することができれば、そこにはジェンダー格差もルッキズムによる格差も存在しなくなるのではないだろうか。2つ目は、キャラクタ化しない、あるいは関係性に参入せずあくまでも傍観者としての消費・あるいは創作を貫く選択肢を選ぶことである。2章で述べたように、創作物と消費者のセクシャリティ/あるいは創作物と作者のセクシャリティなどは分けて考えるべきというスタンスに基づく在り方である。
これらの二つの未来像は両極端にも見えるが、しかしこれらが混じりあい議論が巻き起こっているのが現状である。しかし、バーチャル空間上でのルールやマナーが議論の末に整えば、それぞれが理想の関係性を追い求めて基底現実とバーチャル世界を横断していくようになるのではないだろうか。創作だけに留まらず、現実世界と拡張現実へ侵食する「関係性消費」は、しかし古典の時代から物語として脈々と行われてきた文化である。オタクと文化、双方がその形を変えて混じりあう瞬間に、今わたしは立ち会っていると思うと感慨深い。
関係性を志向するファンたちのこれからは、今後のオタク市場の動向と、バーチャル技術の発展にかかっていると感じた。これからもジェンダー・セクシャリティ論とカルチュラルスタディーズ、両方の視点からわたしも一当事者として今後の動向を研究していきたい。
【引用文献】
*1 東園子,2015,「宝塚・やおい、愛の読み替え 女性とポピュラーカルチャーの社会学」新曜社
*2 難波優輝,2018,「バーチャルYouTuberの3つの身体 パーソン、ペルソナ、キャラクタ」『ユリイカ』第50巻:117-125
*3 斎藤環,2009,「関係する女 所有する男」講談社現代新書
*4 このマンガがすごい!編集部,2018,「このマンガがすごい!2019」宝島社
【参考文献】
玉川博章,名藤多香子,小林義寛,岡井孝之,東園子,辻泉,2007,「それぞれのファン研究 I am a fan」風塵社
山岡重行,2016,「腐女子の心理学 彼女たちはなぜBLを好むのか?」福村出版
2014,「ユリイカ 特集*百合文化の現在」第46巻第15号 青土社
2018,『ユリイカ 特集*バーチャルYouTuber』第50巻第9号 青土社
【あとがき】
期限ギリギリで提出したので粗も多いが、これをベースにディスカッションできる地盤固めができたので良かったと思っている。オタク!人生で遊んでいこうな!
はじめに言うが、自分はVRChatをはじめて間もなく、他の先行者に比べて非常に遅いスタートで、何の経験値も技術も知識も有さず、高価なVR機器も所持していない。特別なことなどなにもない、ただの1ユーザーである。
VRChatの技術的な側面だとか、クリエイティブな側面、コミュニティツールとして、ゲームとしての側面。その特性や経験から得られる知見などについて語る記事はすでに多くある。だからあえて今、何もない自分が語れることを、始めたてのどこにでもいる普遍的なユーザーがVRChatで最初に感じれることだろうエモーショナルを、とても小さな発見と大きな感動を、美少女の姿になって頭をナデナデされるということを、ここに書き記そうと思う。
先日知り合いの教えてもらいながらはじめてVRChatをやってみた。steamで無料でダウンロードできる。VR機器も高スペックのPCも一切必要なく、steamである程度ゲームができる程度のマシンであれば問題なく起動が可能だった。UIは全て英語だが、操作に難しいところはなく、英語なんてできなくてもなんの問題もなかった。
worldのメニューにはたくさんのworldが表示され、正直よくわからなくて混乱しかけたが、ありがたいことにかわいいキャラの画像が使われているworldを直感的に選ぶと美少女のavatarを配布するworldにたどり着けた。置いてあるavatarをクリックしてメニューでfavoriteすると自分は美少女になった。といっても視点はずっと一人称なため、たとえ自分が美少女になったところで実感は薄い。PCの前にいるのは紛れもなく自分であり美少女ではない。美少女のいい匂いもやわらかい感触も耳に優しい声音もない。美少女のスキンをかぶっただけのおっさんだ。ほとんどのworldにはmirrorが設置されていて、それを通して自身の姿を見ることはできるが、現実の自分を客観視できないようにVRの自分を客観視することもできない。
ただなにはともあれ、美少女の皮を手に入れることはできた。さてどうするか、話すのだ。VR“Chat”である。そう、これはChatツールなのだ。いろいろできるらしいけど正直なにもわからない。とりあえず感覚的にavatarの状態で他人と交流できることはわかる。人が多いworldにいく。外人だらけだ。なにをいっているのかわからない。日本語が通じる相手がいるだろうworldをsearchする。検索ワード[JP]、[japan]、[japanese]。なかなかみつからない。なるほど、検索性はあまりよくないようだ。twitterで検索をかけた。
VRChat観光ガイド (@GuidesOfVRC) | Twitter / https://twitter.com/GuidesOfVRC
紹介されたworldを検索していく。やっと日本語が通じる相手を見つける。最初のコミュニケーションを取るまでこれだけのプロセスが要った。「なんのためにこんなことをしているんだろう」そんなことを考えつつ、初対面の人と会話をする。初対面の人にいきなりこちらから声をかけるのは失礼じゃないだろうかなんて馬鹿なことを考える前に誰かから声をかけられる。『ハロー』『こんにちわ』『こんばんわ』挨拶を交わすと自然に会話が始まる。リアルのコミュニケーションよりずっと手早い。avatar同士のコミュニケーションはVRChatがはじめてではない。今日までずっと遊び続けているMMOやFPSゲームででもキャラクターを介したコミュニケーションを日常的に行ってきた。会話の内容も特にかわった話はない。適当な雑談をして、なんとなくで盛り上がったりする。まるでそう、MMOにログインしてゲームプレイをせずにひたすら仲間同士で会話に興じているような感じだ。そうして自分は、そんなどこか懐かしいような不思議と落ち着くコミュニケーションをする最中、頭をナデナデされた。
今まで自分が体験してきたバーチャルのコミュニケーションでも、バーチャルな身体の接触を伴うものはたくさんあった。ハグのモーションで親交を深めたり、キャラクター同士にキスをさせたり、互いに銃口を突きつけ合ったり。ナデナデはそのどれでもなかった。一人称の視点の先にたしかに話している相手がいて、その相手の手が自分の頭へ伸びている。あらかじめ用意されたモーションではなくHMDのトラッキングにより、相手が自由に手を伸ばして、思うままにこちらの頭に触れている。頭の上で手が動いているのがわかる。相手は微笑んでいる。自分はその時、たしかに可愛がられていた。美少女としてナデナデされていた。相手が、美少女の自分のことを、かわいいと思って触れる。そのプロセスが圧倒的リアルな感覚を伴って伝わってくる。「いったいなんで!?」「どうして?」そんな驚きがある。バーチャルの自分もそんな顔をしていたかもしれない。自分が可愛がられているという理解がある。理解してしまう。自分のことをナデナデしてくれている相手を見ることが、mirrorを覗き見るよりも強く今の自分の姿がどうなっているかを感じさせる。自分がいまどうなっているのかを理解する。その時、自分はたしかにVRで美少女になった。自分の遺伝子の中に眠る、美少女だった可能性の情報が刺激され、目覚めてしまう。自分の中に眠る美少女が揺り起こされてしまう。かわいいって思われている。愛されている。ナデナデされている。それらの情報が、本能に眠っていた自分の中の美少女によって幸の感情に変換されていく。うれしい。恥ずかしい。気持ちいい。複雑な感情が激動して綯い交ぜになっていく。バーチャル空間に生まれたエゴと自らのイドが対面する。なにを書いているのかわからないがつまりそういうことだ。そうだ、自分は美少女になりたかったんだ。
VRChatで美少女になって頭をナデナデされるという体験は強烈な感動を生み出す。この感動は大した用意も設備もなくともPCさえあれば、わずかな手間暇のみで味わえる。それが伝えられたのならば、この上ない。
私は抑圧されて育った子供だ。
「いやあんたそのレベルで抑圧されてたとかナメすぎ。世の中にはもっと~ アフリカの恵まれない子供たちは~ 云々」
などと言われるようなものかもしれない。
しかし、重要なのは私がどう感じていたかであって、世間から見てどうかとか、世界レベルで考えてどうかとか、そういう相対的なものではないのだ。
とにかく、私は抑圧されて育った。そう強く思っているので、このことは揺るぎない事実である。
どのように抑圧されていたのか。
ゲーム禁止、ペット禁止、ベッド禁止、高校に上がるまで21時以降のTV禁止、基本的に漫画禁止、基本的にジュース禁止、ポケモン禁止、等々。
私が今でもこのことを根に持っているのは、「なぜ禁止なのか」が明確でなかったからだと思う。
「なんで駄目なの?」と私は親によく尋ねた。
しかし返ってくる言葉は「ダメなものはダメ!そういうルールだから」
そんなよくわからないふわっとした思想によって幼少期の私は支配され抑圧されていたのだ。
ベッド禁止という謎ルールに至っては「私(母親)が布団が好きだから」という感想によるものだった。は??????
問い詰めるとヒスを起こすエモーショナルな女性だったのであまり話し合いができなかった。
思春期のころ、男子でなくて本当によかったなと強く思ったことを今でも覚えている。
私はクラスで皆が話しているゲームの話や21時以降のTVの話にまったくついていけなくてすごく悲しかったのだが、
男子はゲームやってないクラスメイトを非人間扱いしていたが女子はそこまでではなかったからだ。
年に1回あるくらい。
母はメシマズではなかったがめちゃくちゃ薄味だった。
だから、ごくたまにいくファミレスの雰囲気と、そこで出てくる濃い味の食事にすごく憧れがあった。
また、おこずかいがものすごく少なかったので、高校生になってバイトをするまでは、友達同士でちょっと都心におでかけするとかがまったくできなかった。
そういう子供がどういう成長を遂げるのか。ここに記すのはその一例である。
①性欲が強くなる
「それは関係ないのでは?」とおっしゃる輩もいるかもしれないが、抑圧されたいろいろをそういう形で発散するためにそうなったのだと自分では考えている。
性的なことに目覚めるのが早かった。第二次性徴があらわれるのは遅かったが、小学校高学年の頃には既に自慰を覚え、それから30才の現在に至るまでほぼ毎日している。
恋人の有無に関わらずだ。
初めてセックスしたのは17才の時で、その相手には性欲が強すぎてフラれた。
③深夜のファミレス大好き
深夜のファミレスの何がいいのか。
まずファミレスが出すものは高級感があまりなくちょっとジャンクな感じがある。そこがいい。
昔の親が見たら怒られそうなことをしていると思うと、罪悪感とぞくぞくする気持ちが混ざり合ってたまらない。
④夜型人間になる
深夜まで起きて生産性のないことをしていると、上記③と同様の快楽におそわれるためやめられない。
⑤ジャンクフード大好きになる
ある時期、数年にわたって主食がコイケヤのコンソメパンチだったことがある。
⑥ズレた人間になる
「天然だよね(苦笑い)」
と言われる。私は中学高校といじめに遭っていたのだが、自分で何かした訳ではなく何か変で気持ち悪いという理由でいじめられたらしい。
(理由を聞いたらそういわれた)
これは抑圧されて育ったせいで変になってしまったせいだと思う。
今では昔ほど変に思われないが、たまに素でいると変な風になってしまうのか、相手の顔が「あっ、この人変な人だ…」という感じでこわばることがある。
変に思われないよう気をつけ続けるというのはとても疲れる。
もし同じように悩んでいる人がいたとして、アドバイスできるとしたら、とりあえず礼儀正しく、丁寧な対応をするよう心がければ大目に見てもらえるよということだ。
変な人間でもいいじゃんという人がいるかもしれないが、世間の人々は変な人間は基本的に排除しようとするのでそれは無理である。
⑦コミュニティに属すると息苦しくなる
上記⑥の理由から、人と接するときは常にどこかしら緊張している(変に思われないように)ので、あらゆるコミュニティが苦手である。
上記⑦とも関連している。
私は20代前半のときに実家を出たのだが、荷物を抱えて一人きりで夜真っ暗な自分のアパートについたときの幸福感が忘れられない。
あのときほど、脳内麻薬的なものが大量に分泌されたことはなかったし、この先もないだろうと思う。
引越し先や自分が地元を出てどういうことをするかを、家族以外の誰にも告げずに出てきて、それからは地元の知り合いには誰にも会っていない。
私にとって、自分の故郷とそこでの様々なコミュニティというのは抑圧されてきた忌まわしい記憶を想起させるものだからだ。
そうやって家族以外すべてを切り捨てたときの快感、身軽さ、リセットして新しい自分でいちからスタートできるような気持ちがあまりにも絶頂だった。
私は今大学に勤めているのだが、学食のおばさんなどに顔を覚えられて話しかけられたり、いつものでいい?と言われたり、
近所の人にあいさつされたり、どっかのお店の店員さんとかに「お久しぶりですね」とか言われたりするとああああ~となってしまう。
そのせいで学食には行けなくなったし、引越し代はかかるし何もいいことがない。
世の中の親に伝えたいのは、
教育方針とかは各家庭でいろいろあるのは別にいいのだが、抑圧しすぎると子供は変な人間になり最終的にあんたらが困るよということだ。