はてなキーワード: 聖地巡礼とは
エヴァにハマったある年の夏、アニメ映画を見まくっていた中オススメされていた「秒速5センチメートル」は当時の自分には輝きすぎてて予告編だけで辛かったし、何より現実路線の恋愛話なんだろうと思って距離を置こうとしていた。それでも調べてみれば聖地巡礼というまだ聖地巡礼という行為がそこまで一般化していなかったあの時代にそういう事をしている人が居るという事はそれなりに面白いのとリアリティがあるのだと感じ、見た。まず出た感想が「絵が凄い」だった。それからは考察や聖地巡礼を通じて「秒速5センチメートル」は遠距離恋愛という距離と恋愛で構成されている事を理解したし、小説版で補完もした。何度見直したか覚えていない。その後、「ほしのこえ」「雲の向こう、約束の場所」と見た自分はいつの間にか新海誠作品のファンとなっていた。秒速もあってアニメ業界では有名だったけど一般人にはまだまだ有名では無かったからこの人の作品は凄いんだよと周りに言いまくった。
でも「星を追う子ども」で流れが変わったと自分は感じた。追っかけていた自分はまずあれをジブリに似た何かだと。それからは思考が停止したかのようにあの描写はジブリのアレ、これはあれ、みたいな感じで多くの描写を他の作品で出てきた物と捉えた。もちろん今でもそう言ってる人は居るし、初見であればあの光る石を見て飛行石だと感じる人も少なくないと思う。
それでも先日の配信で、2度目の「星を追う子ども」を見て自分はある事に気付いた。それは新海誠作品のテーマの1つに「生と死」がある事だ。自分が入った「秒速5センチメートル」では死というものはほとんど描かれず、生きるの辛いって言いながら生き続ける人の物語だったとも言えるので、これに気付かなかったのも仕方がない気はする。距離・恋愛という先入観から前の2作品ともこの状況下の恋愛はなぁ・・・みたいなのが無意識にあった事で、受け取る感情が制限されていたのかもしれない。ほしのこえは宇宙戦争、雲の向こうは昏睡状態(と戦争)が描かれ、星を追う子どもでは家族の生死が描かれている。だから自分にとって今まで新海誠作品というものは距離・恋愛・心理描写がテーマになっているものという意識をしていたけど、星を追う子どもを見たことで生と死というテーマもあるのだと気付かされた。また、星を追う子どもは公開が2011年とあの東日本大震災から間もない頃で正直な所、生と死なんてテーマを扱った時期が悪すぎたというか運が悪かった感じがあるのだと思う。自分にとってはあの出来事もあってそういった部分をシャットアウトしていたのかもしれない。断言しておくが被災者ではない。だから先日見た時は家族(または親友)を抱きしめたいという気持ちに一瞬駆られた。
自分にとって「星を追う子ども」はターニングポイントであると感じていたがそれは全く違くて、ただ「生と死」というテーマを強く出した新海誠作品以外の何物でもないという事になるし、その後の「言の葉の庭」も考えてみればいじめの様な生死の関わる話が入ってきたりエンディングで距離が生まれるという事は、テーマに沿っていた訳でやっぱり新海誠作品は最高だという事が分かった。このテーマは建設会社やZ会のCMにも出てきている様に自分は感じるし、どういったコンテンツであってもポリシーを貫いている監督は素晴らしいと素直に思う。
今回の新作「君の名は。」には予告編を見る限り、恋愛や距離、そして生死という新海誠が描くテーマが備わっているように見えた。自分にとって最高の作品になっている事に間違いない。だからこそ新海誠作品に描かれるテーマを今更分かった自分が、見に行って自我を保てるか不安でならない。(隙あれば自分語り 執筆時間30分)
女の子がひたすら可愛くてキャッキャウフフするのをお前らは望んでるんじゃないか。
ちょっと巡洋艦とかで有名な戦艦が出たらお前ら喜んで金を落とすんじゃないのか?
それを狙って色々カス過ぎるイベントをやって盛り上げてやってるのに
折角聖地巡礼までイベント拵えてやってるのに、来てくれるのはありがたいけど
それともこのアニメ、そんなにクソなのか?
何でミーちゃんはずっと乗ってるんだとか、シロちゃんが無能引き摺ってるのかとか
トイレットペーパーがなくなったから代わりに水洗にしたじゃないか。
何が問題なのか。
俺、今の所はいふりに何も悪い所ないと思ってるよ。
ビビパンみたいでえっちだな、エロいな、けしからんなって思いながら視聴してますよ。
毎週楽しみなんですよね。
お前らは違うの?
いや、金がないとか暇がないとかモテないとか、そういうことじゃなくて。
女子高生痴漢絵師とか、女子中学生監禁学生とか、ああいうイカれた犯罪者がたまに出現しちゃうのは防ぎようがないことだとは思うんだけど、連中を持て囃したりネタとして消費したり犯罪者を擁護したりするオタクがかなりの数出現してきていてつらい。もちろん一般人男性にもかなりそういう連中はいるだろうから、オタクだけ取り出してそう言われるのは心外だと言えるかもしれない。でもネット上で目立ってるのは、明らかにオタクの二次加害者だよね。二次元と三次元は関係ないとか、架空の児童より実在児童の人権をとか、そういう旗印がどんどん汚れていくのが見えるのがそれらを未だに掲げ続けようと思っている人間にとってはつらすぎる。
昔は楽しく観れていた小説やアニメや漫画を見直すとたまに地雷にぶち当たってつらい。『涼宮ハルヒの憂鬱』のどぎついセクハラは流石に読んでた当時でもドン引きできたけど、『A君(17)の戦争』や『桐原家の人々』といったコミカルな作品に充満するホモフォビア、女に家事労働を押し付け男が世界の危機と戦う『サマーウォーズ』、同性愛者の尊厳を高らかに謳いあげるその手で異性装者をオモチャにする『ささめきこと』、『銀河英雄伝説』のひどさはもはや説明するまでもないし(あれだけの未来で理念的には民主制のはずで女性も大勢従軍している設定の同盟で内閣にひとりかふたりしかいない女性政治家に男ばかりの軍首脳部に妻に家事をさせてのうのうとしている退役元帥サマ)、それになんといっても『おおきく振りかぶって』の女子マネと女性蔑視(特に花井梓くん! かなりひどいよ君!)と「部活動」という枠組みでの児童虐待と保護者の動員というロイヤルストレートフラッシュ感あふれる組み合わせ、これらが全部スルーされるか美談として話を盛り上げるネタになってるのがつらいし何よりめちゃくちゃおもしろくて今でも好きな作品なのがつらい。桐青戦とか何度見ても胸が熱くなる。つらい。
オタク社会に蔓延る差別の存在がつらい。「腐女子」にばかり「自重」が求められ男性向けはそんなルールを気にせずのびのびと楽しめているという非対称がつらい。同じオタク仲間のはずなのに腐女子を叩く男オタクの存在がつらい。男ばかりがメインキャラで出てきて色々絡む作品に向けられる同性愛者差別発言の数々と、何よりそういう作品をこれまでなんとなく避けてきて嫌悪感を持ってきた自分の中のホモフォビアに気づいてしまうのがつらい。女性蔑視発言を垂れ流すオタクが一定数いるのがつらい。オタクの中に根付いてしまった外国へのステレオタイプや差別感情がつらい。フルメタアナザーで「うるせえ便衣兵!」ってセリフが出てきたときは本当に残念だった。好きな作家さんのtwitterなんて知りたくなかったと思ったことは一度や二度ではない。男性同性愛者向けAVを「ネタ」として使って出演者の名前を出して遊びまくる文化がつらい。
差別ではないけど残念な言動をするオタクが多いのもつらい。政治傾向は人それぞれで、別に自民党支持者だろうが共産党支持者だろうが公明党支持者だろうがそこに文句を言う気はないけれど、敵対する陣営にレッテル張りをして大きな主語で批判して炎上芸してる人がオタクの代表面してることがあって見ていて残念すぎるし同じ口で“オタク差別”を糾弾してたりするのほんと勘弁してほしい。アニメの聖地巡礼が流行る以前からその周辺ではトップクラスの観光地だった場所をつかまえて俺らのおかげで繁栄してるんだぜ的なドヤ顔する連中がいるのがつらい。自分の好きな作品やジャンルを絶対視して他の作品やジャンルを無根拠に蔑視する人、自分のかつての姿と重なって色々な意味でつらい(筋道立てて作品どうしを比較することが悪いと言っているのではない、念のため)。やめろ。やめてくれ。「最近のファンタジー」を殴るために『十二国記』を持ち出すな。
でまあこれらを「最近つらい」とか言っちゃえるのも俺が「普通のヘテロ男性オタク」だからで、女性オタクとか男性でも性的あるいは民族的マイノリティに属するオタクとかはこういう理不尽にずっとずっと僕らが呑気にしてるあいだにも耐えていたんだろうなって思うとほんと自分の鈍感さがつらい。本気で怒っている人を見るまで「ラノベ」を小馬鹿にした感じで語ってもいいものだと思っていた自分の醜さがつらい。そしてなによりも、油断しているとここまで批判してきたような認識がぽろっと口をついて出そうになるし咄嗟に「どこが悪いの?」とか思っちゃいそうだし実際ちょっと思ったりしてる自分の感覚の麻痺っぷりが、一番つらい。
オタクであることは恥じるべきことじゃないし、オタクコンテンツは素晴らしい。でもオタクの一部は、オタクコンテンツの一部は明らかにクソだし、そのクソさは切り離してはいさようならできるものじゃなくてグラデーションになって存在していて、多くのオタクは多かれ少なかれそのクソさに染まってる。全身か指先だけかの違いはあれど。もちろんそれはオタクだけの責任じゃない。オタクは同時に社会に生きる人間でもあって、このクソな社会には既に性差別がインプットされている。けれど少なくとも、そのインプットされた性差別を増幅してきたのは、オタク自身の責任だよね。
自浄作用? オタクのあいだに序列なんてない。ネットでクソなオタクをブッ叩くことはできるけどそこに強制力はないし自浄作用は期待できない。そして、自浄作用がないなら、論理的な帰結として何らかの公的な強制力でもって規制されるほかなくなってしまう。ああそうか、やっと気づいた、腐女子のやってた意味不明で抑圧的な自主規制ルールってコミュニティ防衛のためだったんだな。アンチスパイラルから螺旋族を守ってた螺旋王だったんだな。それにやっと気づいたときにはもう遅くて、10万人の宮崎勤が地上に満ちてアンチスパイラルに色々蹂躙されることになるんだな。俺は嫌だ。犯罪者扱いされずにコミックLOを読みたい。別に俺は『ろりともだち』の内容を実現しようとも羨ましいことだとも思ってない。俺たちの欲望を放っておいてくれればそれでいいんだ。ああでもなんで、お前らはそんな規制を呼びこむようなことを言うんだい。
ネットなんて見ないで作品だけ見ていれば、このつらさも少しは減るかもしれない。でもネットで得られるものは大きい。新しいカップリングの可能性。作品を愛好しながらそれを冷徹な眼差しで批評する視座。楽しい同好の士との会話。まだ知らなかった作品情報。そしてなによりも、素晴らしい二次創作。どれもネットから得られる果実だ。それがないとオタクはやっていられない。けれど果実の横には常に、横たわるクソの山がある。
そういうものばっかり見てるからそういうものばっかり見えるんじゃないかって? 確かにその通りだ。見ないようにすれば見ないでいることもできただろうし、実際そうやって過ごしてる人もいる。でもここは地獄インターネット。見えてしまう。目に、入ってきてしまう。みんなどうやってやり過ごしてるんだ。教えてくれ。多分今一番求められているのはそのライフハックだ。俺がいくらつらくなったって世の中のクソさは変わらない。それともみんなこんなつらさを押し殺して日常ツイートしてるのか。ブコメ大喜利してるのか。にゃーんとか言ってるのか。
オタクじゃなければ、別にそれでもよかった。うわーオタクキモいなー、で済ませられるから。あいつらには関わらんどこ、ちゃんちゃん、でおしまい。何が悪いの? みんな「マスゴミ」や「ヤンキー」に対してはそうしてるじゃん! でも残念ながら、俺はオタクだ。オタクの不始末も、それによって落ちるオタクの評判も、他人事じゃない。それが根拠のない迫害ならまだよかった。俺たちは被害者だと、迫害してくる奴らは敵だ、いずれ革命を起こしてひっくり返してやると、そう思えたから。でも、性犯罪の擁護、差別、他者への攻撃、これって全部身から出た錆じゃないか。こんな状況で一方的な被害者面なんてできるわけない。俺はそんなことやってないのに。そう思う。でも一方で、自分のアイデンティティはそっち側に置かれてしまっていて、叩かれるのがたとえ自分の所為じゃなくても自分がやらかしたことのように思えてこたえるんだ。
同人をやっていて仲良くなる相手が、皆同じくらいの実力を持っているとは限らない。そこには確かに上下があって、書き手同士の関係は実力の階級の上に構築される。
下手でも光る作品はある。実力とは無関係に、友人として波長が合うこともある。私はそう思っているけれど、そんな風に仲良くやれる人ばかりではないと思い知ったことがある。この記事はその時に溜めてしまった、心の毒を吐き出すためのものだ。
あるカップリングが好きな縁で、六人の仲良しグループが出来た。聖地巡礼に行ったり、イベントのアフターをしたり、当時は絵茶も活発だったし、ツイッターは登録と同時に全員が相互フォローになった。六人が同時に集まることは滅多になく、とりあえず全員に声を掛けて都合の付く人だけが会うような、ゆるい集まりだ。登場人物は作品の質が高い方から順に、A、B、C、私、D、Eという呼び方をしたい。
ちなみに私の書き手としてのレベルは、このグループに限らず中の中、もしくは中の下という評価を受けると思う。画力はギリギリ及第点くらい、話のクオリティと作業ペースが安定しているのでどうにかやれている。
ある時、Bさんが「皆で合同誌が作りたい」と言い出した。合同といっても編集会議などはなく、各々が自由に原稿を書き、編集・デザイン・告知サイト、頒布までBさんが一手に引き受けてくれるという。体裁はほとんどアンソロジーだ。
元々好きなカップリングが縁で知り合った仲だからと、私は執筆を引き受けた。忙しい時期ではあったのだが、この際だから個人誌の発行は諦めて、合同誌の原稿に全力を注ごうと決めた。
ただ、「告知ページの公開までは企画のことは内密に」とBさんから釘を刺されていたため、自サイトには「次のイベントでは新刊は出しません」とだけ書いてあった期間が長かった。普段の執筆ペースが安定していたことが災いして、閲覧者さんから体調を案じるメールを貰ってしまい、ちょっと辛かったのを覚えている。
告知ページが公開されたのはイベントの直前。
それだけと言えばそれだけの話だ。だが私は驚いて、考えなしに「え、なんで?」と発言してしまった。このことは今も後悔している。
私の問いかけにより、DさんもEさんも、発行告知の時点まで合同誌企画の存在を知らなかったことが判明した。Bさんからは「忙しそうだったから声を掛けなかった」という返答があった。
嘘をつけ。
普段の付き合いから、お互いの実生活事情は透けて見えている。私は「忙しくて原稿は厳しいです」「2ページとかでも全然良いので」というようなやり取りを経ての参加だった。Aさんが資格試験を控えていたことも皆知っていて、そのために集まりは自粛していたのだ。
Bさんが二人に声を掛けなかったのは、少なくとも配慮ゆえではない。彼女の言葉の白々しさと、それをDさんとEさんの目に触れる場所でわざわざ引き出してしまった自分の軽率さに泣きたくなった。
オフ同人には金銭が絡む。下手な者は原価割れをしたり、生活空間を在庫に圧迫されたりして、自分の力不足のツケを支払わねばならない(※)。
合同誌の場合、そのツケを支払うのは原稿作成者ではなく主催者である。この点において、私は「下手な人を切る」という判断をしたBさんを責める気はない。本人いわく「お金を出して行動を起こしたのは私なんだから、好きにして何が悪いの」とのこと。ごもっともである。
言いたいのはただ、こうも露骨に仲間外れを作る必要はなかっただろうということ。DさんとEさんの気持ちに配慮は出来なかったのかということ。例えばBさんとAさんの合同誌、BさんとCさんの本、そしてBさんと私の本。三冊に分割されていれば、「二人だけが仲間外れにされた」という感じは多少薄れたのではないかと思う。
Bさんが告知サイトの公開を遅くしたのは、入稿前ならDさんとEさんにも割り込む余地があるから。執筆者に企画のことを口止めしたのも同じ理由。合同誌を作りたいね、という話は全員がしていたものの、そういえば具体的なことはBさんとのメール上でしか話さなかった。DさんとEさんには情報が漏れない環境が出来上がっていた。
それから執筆者の人選とは無関係ですが、Bさん。あなたが描いた作品って、オフ会の時のDさんの語りを下敷きにしていますよね。「その話詳しく」とオフの後にも二人だけでお茶をしていましたね。仲良しアピールをして、ネタを吸い上げて、企画の際は爪弾きに出来る、その神経は凄いと思います。
Bさんの人間性にドン引きし、また「下手だから切られたのか」と即座に合点が行った自分自身にも嫌気が差して、私はそのグループのみならずジャンル自体から身を引いた。DさんとEさんはまだ残っているが、今は掛け持ちだった別ジャンルの方がメインになっているようだ。
申し訳ない。もしこの文章がお二人の目に触れることがあれば、私は彼女たちに謝罪の意を伝えたい。私が「なんで?」なんて言わなければ、話はもう少しあやふやなままで終わっていたはず。おまけにその直前には、私はお二人の目に付くところで無邪気に合同誌発行のお祝いをしていた。無神経にもほどがある。
お二人とも「なんで声掛けてくれなかったの」とは言いつつ、文末に「w」を付け足せるような大人だった。Bさんも、お二人がそういう方だと見越して行動していたのかも知れないが。その手前、私が謝るのも変な気がして、何も言わずに逃げて来てしまった。
Bさんを労うこともなく、後のオフ会にも来なくなったという彼女たちが、傷付いていなかったはずがないのに。私も加害者だ。本当に、ごめんなさい。
寄稿なんかせずに個人誌を頑張っていた方が、あるいは私も執筆メンバーから外されていた方が、ずっと気が楽だった。それならまだあのジャンルに書き手として居られたと思う。
後日Bさんが「誘って欲しければ上手くなればいいのに」といった旨の連続ツイートをしているのを見掛けて、笑ってしまった。
それではDさんとEさんは下手だから誘わなかった、と公言しているようなものだ。誰へのリプライでもなく愚痴をこぼすということは、彼女なりに思うところはあったのかも知れないが、その発言もまた傷に塩を塗るようなものだという自覚はないらしい。
絵が上手い人と仲良くなりたい、という気持ちは私にもよく分かる。上手い人はそれだけ努力していることも知っている。だが自分が上手いからといって、下手な人を踏み付けて構わないのか、というとそれは別の話だろう。
相手が自分より下手な書き手だからといって、雑に扱ってしまっていませんか。上手い人に敬意を払うのを忘れないのと同じく、自分の作品を好きでいてくれる人、同じ原作が好きだという仲間を思いやる心もまた、忘れてはいけないのではないですか。
無理に褒め言葉をひねり出さなくていい。下手なのは事実だから。一般的な思いやりさえ忘れなければ、それでいい。
私は中の下の書き手だが、下には下がいる。上手くなりたくてじたばた努力もしている。自分が高い側に立つ時には、この記事に書いたことを心に留め置きたいと思う。
※
絵や文章が上手くても、ジャンル補正や装丁へのこだわりのため赤字という人は多い。なまじ大量に刷る分、在庫の置き場で苦労している場合もある。
上手けりゃ何の悩みもないという世界ではないのに、こんな記事を書いてしまう程度には凹むこともあるのに、何故我々は薄い本を出し続けるのだろう。
都会が人口過密で、特に満員電車が異常な日本社会では、痴漢被害がとても多いのです。
しかし、痴漢被害はトラウマ体験であり、現場でも言い出せないのはもちろんのこと、時間が経ってもなかなか、他人に公然と話せることではありません。また日本では、男だけ、女だけ、といったかたちで交友関係が構成する傾向が強く、性別を超えたコミュニケーションが断絶しがちです。言い換えれば、日本社会には性別のセクショナリズムがあります。そのため、痴漢被害に遭ったことのある人は多いのに、そうした事実が話題にのぼるのは概ね、女同士の会話ばかりです。
そして、人口比率で男と女が概ね半々であるのは当然として、日本は、社会的に表立っているのが男中心であるいわゆる男社会です。そうすると、痴漢被害の体験がある女の数は社会の半数にまでは満たないうえに、男の方が外に出てくる日本社会ですから、あまり認識されていません。
わいせつ被害に遭ったことが知られたら「女としての値打ちが下がる」とさえ思われているところすらあります。公然とは言うな語るなという話になりますし、また被害者自身も「話したら損だ」と思うこともあります。
痴漢というのも、触るだけではありません。触らせるというのもありますし、道端で露出するというのもあります。そうした被害のトラウマがありながら、トラウマであるだけに他人に打ち明けられる機会もなく心の内に抑圧していなければなりません。
性被害体験の精神的外傷が癒やされないから、「女性蔑視だ」という批判行動の衝動に表れるのだということもあるわけです。そしてさらには、あれもこれも「男根のメタファーだ」という人すら出てきかねないわけです。その人はもしかすると過去に、露出狂に、膨張したモノを見せられたことがあるのかもしれません。
こうした社会状況を、批判者の単なる個人的な特異性だとしてバカにしているだけではいけないと、思います。想像力や配慮、コミュニケーション力があれば、侮蔑する人格批判は、到底言えないはずです。
今の日本社会では、男女間の現実の交際の代わりとなるものが商品化されています。それは、「アダルトビデオ」などは言うまでもなく以前からありますが、「アイドル」やアニメやゲームの類でも、現実の交友の代わりとして消費されている時代になっているわけです。
例えば「アイドル」というのも、商売として展開されています。男性向けも女性向けもあるわけで、例えば「ジャニーズ系」だろうが「AKB」だろうがあるわけです。この手の商売は、顧客の熱中、より本質的に言えば「依存」、それを利用しているわけですから、成功すれば売上規模は大きいです。とりわけ数十年にわたって底無しの経済後退にある日本では、こうした商売を批判することも、タブーとなってきています。
「アイドル」というのは元来は神々しい偶像であったはずですが、とりわけ男性向け市場では、グラビアモデルの類までもが「アイドル」と呼ばれていて、アイドルのインフレ化が悲惨なくらいです。
もちろん、これらの多くは、「アダルトビデオ」などとは異なり、非わいせつの範囲で行われています。しかし本質的には「性の商品化」です。たとえ性欲処理用でなかったとしても。
そしてこうした一種の「性の商品化」は、実在の人物、いわゆる「三次元」に留まらなくなりました。具体例を挙げなくてもいいと思いますが、男性向けであれ女性向けであれ、アニメやゲーム等の「二次元」でも、「性の商品化」は進んでいます。
近年のアニメについて、以前に押井守氏も「オタクの消費財になっている」と言って批判していますが、そうして「こころのスキマを埋める依存性商品」になっているわけです。それにその方が売上が出るわけで、この経済退潮の日本で、少しでも収益性があればまるでビジネスの「救世主」として扱われるわけですから。
このような動向がありますから、「アニメ=依存性商品」という、一般論としてはあてはまらない、事実と異なる偏見ももたれています。それ自体が誤解であったとしても、その誤解が起こる背景に目を向けるべきです。
アニメタイアップで観光客を呼び込んで「地域活性化」「街興し」とかいうことが増えて、もうけっこう経ちます。そのタイアップ作品の中にも、「性の商品化」の範疇にある作品もあるかもしれません。
しかしそうでなかったとしても、その作品に依存性があるからこそ、わざわざ遠くの人を呼べる、そういうことがあるわけです。「聖地巡礼」とかいう表現は明らかに異常ですが、本当にそれくらいの認識でやっている人達すらいるわけですから……。(そしてたかがその程度の動機で来るレベルにとどまってしまったら、リピーターになってくれないので、一過性の経済効果しか出ないわけですが。)
タイアップ例のなかでは、「ユーフォニアム」だとか、その元ネタとでもいうべき「けいおん!」だとかは、それほど「男性専用」という作品ではありません。いわば、性的なセクショナリズムは、低い方です。
それでもその作品を嫌がる人がいるのは、たとえ作品自体がニュートラルであったとしても、その熱狂的な(依存している)ファンこそが当地に来てカネを落としていくという現実があること、そしてまた前述のように偏見をもたれているということから、作品自体に対しての批判にすり替わっているからなのでしょう。
そして、熱狂的な(依存性の)男達を嫌がる女が少なくない背景には、過去に性被害の体験があることから恐怖を覚えるというのも原因としてあるわけです。
夏休みの旅行の為にとか、運動会に備えてとか、レイヤーを取る為とか。
また、「これからカメラを趣味にしたい」という方もいると思う。
そんな方には、「初めてなら中級機を買え!」と言いたい。
初めて買うにあたって、当然どんなカメラがいいのかリサーチするだろう。しかし、情報が増えれば増えるほど、どのカメラがいいのか分からんくなることもあるとおもう。CanonとNikon、どっちがいいの?αミラーレスはどうなの?やっぱ安いやつより高いやつのほうがいい?etc...
というより、長い事情報を蓄積していけば、スペックや価格の相場が分かってくる。その結果、結局中級機が一番、性能・価格のバランスが取れ、コスパが良いというのが突き詰められる。
「大は小を兼ねる」とも言う。中級機になれば幾つも展開されているエントリー機の性能は網羅されている。いわゆるおまかせオート機能は付いているし、更に早く動くもの(シャッタースピードの関係)、夜景(対ノイズ性能)など、エントリー機よりずっと優れている。最初から色々撮れるカメラの方が良いに決まっている。
一眼ならやはり70D、D7100などになるだろう。70Dは発売後、多少時間が経っているので価格が小慣れてきた。D7200はいけない。D7100と性能は大差ないのに、発売間もないので高い。
ミラーレス機だとα6000が一番良い。ほかはOM-D E-M5(Ⅱじゃない方)だろうか。
あと買うなら絶対ダブルレンズキットが良い。後から望遠レンズ追加するより間違いなく安い。
レンズ2本あるだけで撮れる写真や表現の幅が大分違う。とにかくいろいろ撮れるという事。
よく初心者は中古に手を出すな、と言われているが、そんな事はないと思う。安いし。やろうものなら4万から揃えられる。ただし注意点(シャッターカウントやらゴミやらバッテリーやら)が多いので、強くプッシュはしない。
先ほどの中級機レベルなら50D、D90、D7000が評判が良い。
もし性能至上主義なら、中古でいきなりフルサイズ、という選択肢もアリ。
特にNikon D700は安い。性能も高い。ただしスペック同格の5DⅡは価格差が2倍以上ある場合もあるので、よほどCanonがいいという方以外にはオススメしない。
というかNikonは中古フルサイズすごい多い。ハイスペックD800も割安。
レンズは2万〜から手に入るものが多い。なんなら小三元、大三元という高級レンズなら、現行の世代より旧世代のものだと大分安く買える。
そんなこんなでここまで。自分にとってベストなカメラを選んで、旅行、街角、風景、子供、夜景、聖地巡礼に、レイヤーやらフィギュアやら、とにかく沢山いい写真撮っちゃって下さい。
ついでに買うときの情報も。最安で買いたい場合、やはりというか価格コムってことになる。ただしメーカー保証が効くかは怪しい。
家電量販店ではポイントの還元率がめっちゃ高いかわりに割高であることが多い。また税抜き価格表記が多いため、レジで「はぁ⁉︎」にならぬよう注意。実際大分値段変わる。
某カメラ屋では頻繁に値段が変更され、古めの物だと底値に近いこともある。しかも土日ちょい安くなる。またぶっ壊れたカメラの引き取りで割引もある。あとここだけの話、割と値引き交渉には寛大。店にもよるけど。
相手の名前を刺青で刻むなどといった方法もあるが、それら全体を含めて両者の意見が完全に一致した現状と今後の一致について原則的な契約があることを他者に証明するのは証明書などもない関係上、式によって公知するしかない。
業務上のパートナーや生活福祉のパートナーでも愛がある可能性はある。その接点から関係を拡大していくこともありえる。
その逆方向からのアプローチとして、全体の信頼を確立した上で業務や福祉、生活を共有するということの理由として愛がある。愛は信頼を発生させる装置として働く。
契約の重要性や確実性を、語る愛で測るしか人間関係を説明できない現状、異性だからやたら好きになる、強力な枷となる前提を利用するほかなく、性差を利用した愛と同じ表現以外に性別関係なく手段がないため。
あこがれかの妄想の終着点。アニメファンの聖地巡礼みたいなもの。
信頼関係の公知が必要ない、契約の重要性を認識するために他者の反応を見たいという意向がなければ特に意味はない。
婚姻に証明書がないじゃん、同性ですんでるだけで認められたって認識がない → じゃあ証明書つくりましょう → 公的予算
同性愛者のコミュニティは発足したてで理解者もすくなく私たちは被害者だった → 公知活動には助成が必要だね
そういう取り組みに携わる人がいない → そういう人たちの雇用創出
あと、そういうのいいよねってほんとに思ってボランティアな人。
ぶっちゃけ異性のカップルでも数年以上同性しててなんでいまさら結婚、ってときには社会的な保障やら信用やら手続きやらが必要なときくらいで
共働きで年金や健康保険の種別が違うカップル(医師や看護師と作業員や自由業etc)なんかは結婚は子供の有無なんかでかわってくると思う。
私もその友達も高齢独身女だった。ふたりともひどいオタクで同人活動を中心に人生がまわっていて、これは現在進行形である。
20代のころはそれを周囲に隠して、クリスマスごとに彼氏と別れる(〆切前だからね)みたいなことを繰り返していた。
自分で言うのもなんだけど、ふたりともオタク仲間からは「美人」と言われるが、職場などでは「普通」扱いされるぐらいの容姿だったので、彼氏はわりとすぐに出来たんですね。
けれど30を越えるとそれもなくなり、ここ数年、好きな人は高校生スイマーか高校生バスケ選手か、という有り様で、私もその友達も「ババアになったらオタク老人ホームを作って共同生活しよう」と言い合っていた。
春コミスパコミ夏コミスパーク冬コミオンリーと、毎年同じ波を乗り越えていくうちに30を越えてだいぶたった。まったく同じような作品にはまって、まったく同じような行動パターン。同人仲間にも読者さんにもコンビだと認識されていて、サークルは違ったけど人生の相方と言っても差し支えないとまで思っていた彼女。そんな友達が久しぶりに現実で恋に落ちた。
お相手の人は私たち以上のオタク高齢独身男性同人作家でおせじにもイケメンとはいいがたかったが、友達は彼の出す同人誌のファンで、直接知り合いでもないうちから「この本描いてる人私と同じにおいがする」と言っていた。知人の紹介で飲み会に同席してからはその思いを確信に変えたらしく、友達は彼に猛烈なアタックを始めた。アニメ映画、アニソンライブ、聖地巡礼、ありとあらゆる現場に誘い、ふたりきりで食事をし、「わたし○○さんだいすきなんですよねえ」みたいなことを言いまくったという。
しかし不幸なことに彼は人気の同人作家だったのだ。そんなことは言われ慣れていたのである。友達は「あれだけ押してるのに何の反応も返ってこない…芽がないってことかな」とあきらめ気味で、さっさと早く告白すればよかったのだが、私たちは経験則として、どちらかが何となく好きだよ~みたいな雰囲気をだしたら、こっちもOKだよ~みたいな雰囲気を出し返して、あ、これはいけるな、と確信してから告白するものされるものと思い込んでいたので、反応がない状態では告白しあぐねていたのである。もちろん春コミスパコミ夏コミスパーク冬コミオンリーが忙しかったというのもある。
恐ろしいことにそのまま2年がたった。結局、彼女の奮闘に気付いていた彼の同人仲間が業を煮やし「ふるなら早くふれ、かわいそうだろ」と彼に助言したところ、「えっ!そうなん!!!???」「僕も彼女のこと好きなんだけど!!!!!!」ということが発覚して、トントン拍子にお付き合いに発展し、めでたく半年で結婚に至るのである。
この2年半、もっと言えば「同じにおいがする」と言い出してから3年、おそらく最も近いところで彼女のがんばりを見てきた。恋をしても1度も新刊を落とすことなく、めげることなくがんばりぬいた彼女を誇りに思う。本当に嬉しい。
しかしふと己を振り返ると、人の恋愛と架空の男同士の恋愛をただ眺めているだけで3年たったのだ。もうアラサーでもない。私に何が残っているだろうか。同人活動ではそこそこの人気を得た。けれど同人の世界はすでにひとまわり年下の子たちが主戦場で、作風がBBAくさいと言われるのも時間の問題だ(もう言われてそうだ)。職場ではそこそこ出世したけど、部下を叱責するたびに線を引かれていくのを感じる。そして人生の相方はもう一人の相方を見つけてしまい、友情は変わらないつもりではあるが、やはり彼が優先になるのだろう。
寂しい。なにより寂しいのは、この話を他の友人知人にすると「僻むなよ」と言われることだ。僻んでなどいない、彼女はすごくがんばってたんだから。そうではなく、私には、ただただ寂しいんだということを分かってくれる友達が彼女以外にはいないのだ。若いころ、クリスマスごとに彼氏と分かれていたつけを、己の趣味を最優先して人をないがしろにしていたつけを、私はいま支払っている。
都心ではないが田舎でもない都市に住んでかれこれ5年になるけど、
僕もいわゆる「聖地巡礼」に行ったことあるけど、自分の住んでる街が舞台になるのはまた別。
カメラやスマホ持って写真撮りまくりの巡礼者を見かけたわけではないですが、
普段自分が暮らしてる場所で、そんな人たちにあまり会いたくはないし、
これで市が何か余計なことをしなければいいなと、ずっと思ってます。
でも、この町が嫌いというわけじゃない。
隣の有名な都市に挟まれ、まわりと比較すると人口も面積も小さくても、そのぶん家賃も少し安めだし。
これといった名物や観光名所なんてなくても、駅に出ればひととおりの必要なものは揃うし。
人も多くも少なくもなく、爺さん婆さんばかりというわけでもなく、それなりに学生も多い。
治安も悪いわけでもなく、ショッピングモールも大きな本屋もレンタルショップもカフェもある。
それに何と言っても、
アニメを見て、自分の知ってる場所が出てくるたびに、ちょっとわくわくできる。
名物なんてない地味な街でも「暮らしやすさ」を武器に人が集まってくる。
それ以上望むものなんてありません。むしろずっとそのままでいてほしい。
都内で日々人類を啓蒙すべくイン活(ingress活動)に勤しんでいるENLエージェントが期待を胸に京都にイン活に行ったら期待はずれでがっかりした話をちょっと聞いてくれ。
先週の金曜に名古屋の実家に帰る用事があったので、折角の機会だということで、土日を利用して京都にイン活に行ってきた。
京都といえば、寺社とお地蔵様に代表される無数のポータルが街中に乱立する ingress のメッカ。
街を歩けば途切れることなくポータルが立ち並び、辻斬りならぬ辻ワンコが至るところで発生。その余波で周囲は白ポータルばかりとなり、Unique Capture も取り放題。観光地ならではの格好いいメダルに彩られたミッションも目移りするほど。
・・・というのが俺が想像していた京都だったし、実際、それに近い評判は以前からネット上で目にしていたように思う。
この日のために蓄えたX8数百発を携えて土曜の午前に意気揚々と京都に乗り込んだ俺を待っていたのは、一面緑に染まる京都駅だった。
新幹線ホームから見えるポータルが全てENLのL7やL8ばかりで、その間には綺麗にCFが敷き詰められている。休日にこれほど大きな駅の周辺がこれだけ見事に一色に染まっているというのは、都内ではなかなかお目にかかれない光景である。
まあそういうタイミングもあるか、と思いながら、とりあえずミッション一覧を眺める。
都内と同様、駅周辺のポータルを数か所回るだけのお手軽ミッションが幾つか見つかり、とりあえず京都タワーとその横のヨドバシカメラをハックするだけのミッションをさくっとクリア。
京都駅のポータルを Capture or Upgrade しろというミッションもあったが、その状況下でENLの俺にクリアできる見込みはない。帰り際には状況も変わっているだろうと期待して、京都駅を後に。
事前にネットで京都のポータル密集地を調べたところ、京都御所、北野天満宮、嵐山という名前が挙がっていたので、その中で京都駅から地下鉄一本で行ける京都御所にまず行くことにした。
実際、京都御所のポータルの密度はなかなかのものであった。上野公園にも負けていないかもしれない。
ただ、これもまたほぼ全て緑なのだ。しかもご丁寧にCFも張られていて、本当にやることがない。
せっかくなので1時間ほどかけて御所巡りミッションをやりながら Unique Visit を稼いだが、ここまで Unique Capture はゼロである。というか青いポータルをほとんど見ていない。
無駄に高レベルのENLポータルばかりハックするせいで、使い道もないのに溜まっていく高レベルバースター。何に使えばいいのか・・・
けれどまあ流石に次は有名観光地だからここまで酷いことはないだろう。
だがその希望すら無情にも打ち砕かれる。
同じ内容の繰り返しになるので詳細は省くが、ここでも俺にできることはミッションを一つクリアすることだけだった、と言えば十分であろう。
あまりにも緑一色に染まる京都の現状を知った俺は、これは方針を切り替えてミッションメダルを集めることに重点を置くべきかな、と考え始めた。
都内のミッション状況と比較して顕著な特徴、それは15分ミッションの数がとても少ないということ。その貴重な15分ミッションも、「駅の記憶」シリーズだったりするので(コンセプトもアイコンも)、これをやるのは俺の美意識が許さない。
下手に歴史があるせいで、その歴史と絡めた長距離ミッションが作られがちなのかな、という気がした(信長のやつとか新選組のやつとかやりたいのはやりたいのだが、流石に4時間とか急に言われても困る)。
もうちょっとお手軽ミッションがあってもいいと思うよ(お手軽ミッションに慣れてしまった都民の感想)。
まあ少ないながらも繁華街でいくつかお手軽ミッションを見つけたので、それをこなしながらホテルにチェックイン。
普段見る機会がないものだから今回もすっかり忘れていたのだが、世界各地のポータルの状況を見られる Intel マップがあるじゃん、ということをようやく思い出し、ホテル備え付けのパソコンで京都のポータル状況をチェックすることに。
結果。
すでにそんな予感はしていたのだが、実際に見ると言葉を失う。
L8ポータルだけを表示させてみて更に驚いたのだが、なんと京都にはRESのL8ポータルがほとんど無い。郊外に1つ2つあるぐらいで、市内中心部には文字通りひとつも存在しない。
なんだこれは。
もしかして京都にはRESエージェントはいないのでは? と本気で心配するほど。
ただ俺にとっては喜ばしいことに、嵐山の方は多少青も多く、水抜きのし甲斐がありそうだということが分かった。明日は嵐山に行こう。
その後、こってりスープのラーメンを堪能し、ホテル周辺の弱い青ポータルを見つけては蹂躙してこの日のイン活は終了。
日曜。
朝一で何に驚いたかって、昨夜俺が Unique Capture したポータルが全く攻撃されていないどころか、地元ENLエージェントによって迅速に補強がされて、既にR8が6本も差さっていたことであった。もちろんCFも隙なく張られている。
このRESとENLのスピード感の差が今の圧倒的な差に結びついているのだろうという気がした。
さて、出発前に再度 Intel マップを開いて嵐山の状況に変化がないことを確認した俺は、朝から嵐山に向かった。
嵐山を巡るミッションをやりながら天龍寺や嵐山公園を歩き回り、弱そうな青をどんどん緑に染めていく。休日の観光地だけあって、途中一度ワンコにもなった。
それなりのポータルが密集していて、一本差しや低レベルポータルも少なくなく、Unique Capture が捗る。まさに俺が期待していた ingress 天国・京都の図がそこにはあった。
幾つかミッションを始めてみたものの案外遠いことが判明してキャンセルしたりという無駄な時間もありつつ、昼過ぎまで嵐山でイン活と湯豆腐を満喫したのであった。
さてそろそろあと1エリアぐらいしか回る時間もないし、どこがいいかなあと調べていたときのことだった。
突然知らないおっさん(←失礼)に声をかけられる。
都内でも何度かこの手の経験はあり、そのたびに適当に誤魔化して避けてきた俺だが、ちょうど次の目的地を決めかねていたこともあって、地元のエージェントであれば渡りに船だと考えて「はい」と答えた。
相手は地元ENLの二桁レベルの方で、俺と同じく Unique Capture を稼ぎに嵐山の方に来ていたところ、俺の存在に気づき、俺が東京から来てること、それも Darsana メダルを持ってることに気づいて話しかけてきてくれたのだという。
そういえば3月には京都で Darsana みたいなことやるんだったっけ。
それで俺の Darsana 体験を聞きたいようだった。まああの日はひたすらレゾ差してただけで何も語るような経験はしてないんだがw
京都ENLは今からそのイベントの準備に取り掛かっているようで、最近は何やら秘密兵器の実験をするために頻繁に会合を開いているらしい(秘密兵器の詳細はここで書くとまずいだろうからぼかしておく)。
まあそんな入念な準備なんてしなくても、市内のポータルのENL占有率を見れば今回もENLが勝つことはやる前から明らかだろうという気がするが。
そのおっさんとはかれこれ1時間ほど雑談をした。市内が緑一色なのでおっさんもやることがなくて困っているようだった(だからわざわざ嵐山なんかに遠征してきたのだ)。
そもそも、どうしてこんなにENLが強いのかも聞いてみた。
おっさんが繰り返し言うには「青がやる気ないから」だそうだが、話の端々から得た情報を総合するに、いくつか構造的な問題がありそうだった。
原因の一つには、京都市内のプレイ人数が(都内とは比べ物にならないほど)少ないので、ポータル一つの破壊であっても、一人一人のエージェントの負担(貢献度)がそのままチーム全体の趨勢に跳ね返るということがありそうだ。
都内(特に山の手線内)のように、それぞれが適当に出歩いた先で適当に壊してたら知らないうちに全体としてはいい感じに均衡する、というバランスにはなっておらず、強い意志・目的を持って壊して回らないと、すぐに均衡が崩れてしまう脆さが京都にはある。
さらに、そのような少人数のエージェント(どのくらい少ないかというと、RESの二桁レベルエージェントのエージェント名と活動地域をだいたい把握しているという。都内では考えられない)しかいない中で、現状、RESよりもENLのほうが多い。
おっさん曰く、新人が緑を選択することが多いせいなのか、それともENLの新人サポートが手厚いために定着率が良いせいなのかはよく分からないようだが、ともあれ、L8以上のアクティブエージェントの数で言うと、倍とまでは言わないにしても、相当の差がついているとのことである。
第三に、バースターの補給場所。京都市内はENLのP8ばかりで、ENLは補給場所に事欠かない。では市内に一つもP8を持たないRESはどうやって補給しているのか。というかそもそもなぜ市内に青ファームがないのか。
おっさんが言うには、RESのP8が立つとHOで連絡が回って瞬時に壊しに行くことになっているらしい。またFFも察知するとすぐに妨害に行く。そのせいで最近、FFを妨害するのはマナー違反だとかRESに抗議されたらしい(苦笑)。
仕方なく、RESはENLファームをしぶしぶ利用するか、あるいは大阪や琵琶湖の方にファームを作ってそこに通っているようだ。
さて、そうなると何が起こるか。
RESは人数的に不利な中、武器の補給にも苦労している。なのでENLの高レベルポータルを満足に壊すこともできない。そうするとそのポータルは次々に Upgrade されていき、ますます固くなる。
他方ENLは安定的に武器が手に入るにも関わらず、それを使うチャンスがない。実績も稼ぎたいのに何もできない(まさに前日の俺のように)。そうすると、時々RESが壊してくれると、ここぞとばかりに喜んで奪い返しに行くことになる。
これをRESから見れば、頑張って壊してもすぐに修復され、補強される、というわけである。そしてRESにはそれを再度壊す武器はない。再度武器を貯めて壊してもまたすぐに修復される。これを繰り返すうちに心が折れて、アクティブエージェントはますます減っていく。
このような悪循環の果てに、俺が見た「緑一色に染まる京都市内」という図が出来上がっている。
次のイベントではENLが完勝するだろう。いや、もしかするとRESが巨大CFで覆うなどして奇跡的な勝利を収めるかもしれない。でもそれがどうしたというのだ。はっきり言って、どちらが勝とうとも、この先に未来はない。
このプレイ人数の不均衡が解消されない限り、賽の河原のような苦行に耐えかねて、RESはますます減るであろう。やることがなくなるENLも飽きて減っていくだろう。
俺のような観光エージェントが多数訪れることでカンフル剤となるのではないか、というアイディアもありそうだ。しかし俺の例が顕著なように、都民ENLがわざわざ京都に行ってもやることは何もない。魅力的なミッションも少ない。Unique Visit が欲しいなら都内でまだ行ってない場所がいくつもある。都民RESはどうか。Unique Capture 稼ぎをするにも大変だ。たいていシールドが4枚入ったL7以上の緑ポータルを際限なく破壊するだけのバースターを持っていくのは現実的ではないし、それが用意できるくらいならやはり都内のまだ行ってない場所に行って使う方が経済的だ。
都内と比べてポータルが特に多いというわけでもなく、それらは緑でガチガチに固められていて、たとえRESエージェントでも壊して回るのは一苦労。市内に青ファームが作られる気配も全くなく、現地での武器補給も困難。
そうなると都民エージェントがわざわざ出向くだけの価値は無いと言わざるをえない。
俺は結局、京都駅の Capture ミッションに挑戦することもできず、数百発の使い道のなかったX8とともに東京に戻り、東京駅を緑に染め上げた。それが攻撃され青くなったのはその数分後のことだった。
水島精二監督、映画本編を見ずに舞台挨拶に複数参加するファンに苦言 - Togetterまとめ
あなたは今,行きたくて行きたくて仕方なかった観光地にいる.ウィーン? パリ? ヴェネツィア? 何ならニューヨークやサンフランシスコでもいい,好きな観光地を代入してくれ.ちなみにわたしはどれにも行ったことがない.
あなたには見たいものがたくさんある.あそこのなんとか教会もかんとか美術館も,ひょっとしたら夏期限定ツアーとして運河をゴンドラで回れるかもしれない.悲しきニッポンの勤め人,旅程は往復の飛行機での何泊かを抜けばたったの3日しかない.さあ,どれから巡ろう? ここがロンドンならあなたは悲惨だ.3日間すべてを費やしたとしても大英博物館ひとつですら踏破し尽くすことはできないのだから.
観光シーズンだけあって現地は実に快適だ.日本のような蒸し暑さなどヨーロッパにはない.街角には日本では滅多に見ないオープンテラスのカフェが建ち並び,観光客たちがその疲れた身体を休めたり地元民がぺちゃくちゃと何を言っているのかはわからないがかしましいおしゃべりを繰り広げている.
あなたはそのうちのひとつのカフェに足を運ぶ.本場に来たのだから美味しいコーヒーを飲もう,いやいや地ビールで清涼感を味わうのもよい.やってきた店員に注文を告げ,深く腰を下ろして一息つくと,あなたは鞄を開け,日本から持ってきた『ハリー・ポッター』の単行本を取り出すと,一心不乱に読み耽る……
いや,それ今ここでする必要ないじゃん!
という話で.
もちろん,個々人の価値観は多様であり,そこに他人がケチをつけるのは野暮ではある.数少ない海外旅行の機会を,「海外の,日本にはないような雰囲気のカフェで読書をして過ごす」のが理想の旅行だというならわたしはその選択を尊重する.しかしわたしはそのように振る舞おうとは思わない.なるほど,確かにそのカフェは日本では入れないものであろう.気候や道幅の問題もあり,ヨーロッパではありふれたオープンテラスなど日本には滅多にないしあっても屋外に座る気にはなれない.どう考えても蒸し暑くて空気も悪い.せっかくヨーロッパに来ているのだからそういうカフェを堪能しようという気持ちはよくわかるし,わたしだって一度は足を運びたい.
しかし,別にハリポの読書なぞ日本でもできる.飛行機の時間は長いのだから往復を使えば賢者の石から死の秘宝まで全部読めてしまうだろう.だから,もう博物館も美術館も教会の拝観受付も全部閉まってしまってあとは寝て明日に備えるだけのホテルなりホステルなりのベッドの上での手慰みとして以外に,わたしは旅行先でハリポを読もうとは思わない(ハリポの聖地巡礼に来ているなら別だが).別にこれはハリポでなくとも指輪でも銀英伝でも何でもいい.もちろん,読んでいるひとの邪魔をするつもりはない.だがそれはわたしの目には「もったいない」と映る.おまえの目にどう映ろうが知ったことではないと言われたらそれまでだが.
と,ここまで書いたところで冒頭のリンクに戻るわけです.
わたしは舞台挨拶には一度しか行ったことがないし,その一度もちゃんと映画は最初から最後まで見た.しかしそれでも思ったことがある.上映される映画の内容は毎回同じだ.仮に劇場に足を運ばずとも余程のことがなければ円盤だって出る.だが舞台挨拶は毎回違う.内容どころか出演している俳優の組み合わせまで違うし,語っている内容もどうでもいい日常トークならともかく(それにも価値を感じるひとはいるのかもしれないが),演者の抱いた映画への感想とか舞台裏の小話とかそういった映画のファンにとっては是非とも聞きたいものばかりだ.
さて,ではこの状況において,MOTTAINAI精神の体現者たるわたしはどのように行動するのが最適だろうか?
あなたは旅行先でありふれた楽器屋に入ってどこででも買える楽器を買うだろうか? あなたの地元が楽器屋のひとつもないシャッター商店街なのであればそれも当然の行動かもしれないが,まずは「今・ここ」でしか見られないものを見てできない体験をしようとするのではないか? だとしたらそれは舞台挨拶も同じだ.演劇と違って映画が複製技術時代の芸術である以上上映している時期に上映している劇場に行けばいつでも見られるし,大スクリーンであの大迫力であることを諦めれば家で見ることだってできる.だが,舞台挨拶は,そこでしか聴けない.
繰り返すが,わたしはそのような行動を取ろうとは思わないし(そこまでのリソースを監督や演者の生語りに割く気力が湧かない),監督や演者が不愉快に思う気持ちもわからないでもない.だが,たとえば旅行に置き換えて考えれば,本編を見ずに舞台挨拶をハシゴする人びとの気持ちならばがよくわかるのではないか.彼らは旅行先でハリポを読んだりDSで遊んだりするのではなく教会や美術館や遺跡を巡りたいのである.つまりこれはモラルやマナーの問題ではなく,構造の問題だ.どのように振る舞うのがもっとも合理的かという話なのだ.
もちろん合理的であってもルール違反はよくない.いくら無理して始発で来るよりも会場前で夜を明かす方がレア同人誌を入手できる可能性があるからといって徹夜組はルール違反である.だが,一回チケットを買った者が,上映途中で眠りこけようが途中で帰ろうがそもそも見に来なかろうが,すべてルールの範疇ではあるまいか.それとも一度チケットを買ったが最後途中退席は断じて罷り成らんとでもいう風にルールを変えるか? 断言するが数ヶ月後にはその映画館には閑古鳥が鳴いている.
もしも本気でそのような客を厭うのなら,解決はふたつある.ひとつは映画を複製技術でなくしてしまうことだ.コメンタリとして要所要所に演者の生の発言を被せたり,「この上映回でしか見られないエフェクト」をつけるなりすればよい.もうひとつは舞台挨拶の方を複製技術にすることだ.すべての挨拶は後日Blu-rayの特典なり何なりとして収録し,会場限定のグッズなど一定期間が経ったら必ずどこぞのショップで売るようにすればいい.
こんな簡単な対策すら取らないなら,まあ,そりゃ,挨拶をハシゴするひとは増えるよね.でもって,そっちの方が損得勘定で得だと思ってるからそういう商売やってるんでしょ? だったら客のモラルに責任転嫁して愚痴るなよ,情けない.
ウチの子も子供神輿担いだり、「池袋西口公園(ウエストゲートパーク)の屋台村」で金魚釣りすることになると思う。
客観的にみると、かなり大規模な祭りだと思うのだが、この「ふくろ祭り」、豊島区以外ではほとんど知名度がない。
多分、杉並区とか江戸川区の人は、そんな祭りが存在していることを知らないだろう。
もともと西口ロサ会館のオープンを記念して開始された祭りらしく、だからロサ会館の辺り、つまり
「池袋ウエストゲートパークの主人公マコトがやってる果物屋の西一番街」の辺りが最も祭りのピークなんだが、
石田衣良の「池袋ウエストゲートパーク 全10巻」の中で、ふくろ祭りが出てくる話はゼロ。
作品自体は、池袋エリアの各スポットを正確に描写しているので、それなりに取材はしていたんだと思う。
だから、取材過程で当然石田衣良は「ふくろ祭り」の存在を知った筈だし、書こうと思ったら、ふくろ祭りを取り入れた作品も書けた筈。
それを「あえて、ふくろ祭りを描かない」ことによって、
「本当の池袋」じゃなく、「人々が抱いているステレオタイプなイメージを増幅させた池袋」を、石田衣良は描こうとしてるんじゃないか、と思う。
もし石田衣良が作品中で「ふくろ祭り」を描いて、ドラマでも「ふくろ祭り」を描いていれば、
ふくろ祭りの知名度がうなぎのぼりだったのに、と悔やまれてならない。
ところで、先日「西口再開発で、池袋西口公園が取り壊される可能性」との報道があった。
ネットでは「残念」「潰さないで」の声が多いが、一方地元では「公園を残そう」という声は聞かれない。
こういう点でも、地元の「あの作品」への冷やかな視線を感じてしまう。
もっと露骨に言えば、「あの作品」は、池袋への「世間の偏見を定着させた」ということで、完全な傍迷惑な作品なのである。
普通であれば、
「小説の舞台になった」「マンガの舞台になった」「アニメの舞台になった」「ドラマ・映画の舞台になった」
地元自治体や観光協会が聖地巡礼キャンペーンを作るのが普通なのに、豊島区は全くそういう動きをしてない。
むしろ、再開発によって、公園取り壊しで、「あの作品によってこびりついた世間のイメージを払拭したい」という思惑すら感じてしまう。
地元にとって、全国に周知したいのは「ふくろ祭りの池袋」であって、「池袋ウエストゲートパークの池袋」ではない。
今回私が訴えたいのはタイトルを読んで字のごとしなんですけれども、姉妹都市を擬人化して百合ってしまえば大変な町おこしになるのではないか!ということでございます。
たとえば岩手県花巻市とアーカンソー州ホットスプリングス市は温泉つながりの姉妹都市でございますから、擬人化おねえちゃん花巻ちゃんの頭には絶滅危惧種にも指定されている白く美しい市花ハヤチネウスユキソウ、フェーン現象で夏場はちょっと暑くなることもあるし温泉町でもあるわけですから衣装は着物というよりも浴衣、こう見えて交通機関も整っていて飛行機だって新幹線だって彼女の艶姿には足を止めちゃうほど、実は隠れイーハトーブ推しだったり、わんこそば全国大会だって開催しちゃうほどのアクティブ派。口癖は「かんぱねるらー!!」
一方、擬人化いもうとホットスプリングスちゃんはといえば、当然アメリカンな温泉娘でございますからホットスプリングス第4中学指定のスクール水着着用の上でのご入浴が必然、温かいお湯に触れると南北戦争で受けた古傷がちょっとだけ目立っちゃうのが自分的にはちょっとはずかしかったり誇らしかったりもしてそんなときの彼女のはにかみ顔はまるで天使とみまごうほど、当時のアルカポネやラッキールチアーノも彼女にはメロメロだったといいますし、そんな美少女彼女の口癖は「トーマス、ジェ、ファーソン!トーマスジェファー、ソン!」「アー、アカン、ソー!アーカンソー!」って、関西弁金髪女子?!
そういう二人の姉妹百合百合シーンともなれば舞台は温泉に決まっておりまして、pixiv有名絵師キャラデザの美少女姉妹がくんずほぐれつする都市型エンタテインメント、ゆくゆくはあなたの街の宣伝本部長愛川欽也さんの紹介を経て、ゆるキャラ化、おもちゃ化、ARアプリ発売、満を持してトリガーでバキバキ動く深夜アニメ化、全国的に人気を博すや両都市への聖地巡礼直行便が一日5便はアサインされるほどの姉妹都市擬人化町おこしストーリー。わっしょい、わっしょい!
っていうのはどうですかね、電通さん。