はてなキーワード: 焦燥感とは
これは資格検試験(403億円)と同程度であり、アダルトゲーム(351億円)より高く、入浴剤(459億円)よりも低い結果である
市場は上昇傾向であることから、今後も高い需要が見込まれ、ビジネスチャンスがあることがわかる
国が発行してくれて(30万くらい)それを買ったら、結婚しなきゃいけないという義務感から解消される便利なカードだ
カードを購入すると結婚するにあたり発生する以下のメリットを得られる
・結婚しなきゃの焦燥感解消(○○さん結婚してるの→結婚カードもってますーと答えることで、結婚していますと同等の効果をもつ)
・社会への貢献をしているという達成感(これは人それぞれかも、自分はあまりかんじない)
・忘年会参加を促されたときにカードを見せることで、穏便に断れる
などなど結婚してたら得られるメリットを享受できるため、人によってはこれ以上の効果が期待される
40代独身の親友が自殺した、という記事がリツイートされてきた。
タイトルを読んでああ未来の自分のことかもしれないなと記事を読み進め、その人の結婚に対する焦燥感や絶望を想像し、大いに共感した。
けれど、子供が欲しかった、というくだりを読んでふと気が付いた。
四半世紀生きてきて、私は自分の子供が欲しいと思ったことがない。
件の記事の女性に共感すると書いた通り、私は典型的な独身アラサー喪女だ。
中流サラリーマン家庭で、長子にしては親に甘やかされて育った方だと思う。
学生時代から大人しくコミュ障気味の地味なオタクで、中流家庭にしては塾や習い事にお金をかけてもらって、そこそこの私大に進学した。
途中不登校になりかけたりして中高時代にあまり良い思い出がない私にはサークルやゼミなど、大学生活は楽しかったし、比較的自由な校風の大学は新鮮だった。けれど大学に入ったことくらいで生来のコミュ障が治るはずもなく、恋人や親友と呼べるような友人はできなかった。
まあ恋人ができなかったのはブス(しかも高校〜大学時代は今より5キロ太っていて、身長160センチ体重54キロで筋肉のない下半身デブ)だからだとも思う。
そんなコミュ障ブスのくせして準備と能力が足らずに就活で大失敗し、藁をもつかむ思いで就職した月給手取り約20万の会社で、今のところ職場で問題を起こすことはないものの辛い業務が多く、日々辞めたいと思いながら3年目を過ごしている。
だからと言って再就職がうまくいくとも全く思えないので、当面転職も考えられない。
転勤してから一人暮らしをしているが、仕事だけで疲れて帰ると何もできず、自炊はおろか(食事の8割はコンビニの出来合いかレンジ調理のみの冷凍食品、昼食もコンビニ)必要最低限の生活(週2回の洗濯、月1回程度の掃除機)で精一杯という体たらくで、休みの日は予定がない限り家に引きこもっている。
買い物すら行く気が起きず、最近では週末になるとネットスーパーで冷凍食品と飲み物、シャンプーなど最低限の食料品と生活用品を注文する生活。
実家暮らしの頃はオタク趣味にお金を使っていたので、貯金総額はこの冬のボーナス(手取りの2月分ほど)が入ってようやく300万に届くか、というところ。今後少しは昇給するとしても、この年収でおひとり様として生きていける気はしない。
あまり長く生きていたくないので将来に備えるという発想にもならず、保険や個人年金、社内預金などもしていない。
親に愛されなかったわけでも、環境にそこまで大きな問題があったとも考えられないので問題は自分自身に有るのだが、私は自分に自信がないくせに自己愛とプライドは中途半端に高い。
一方で自分を好きになる人などいないと思いながらも、なぜ世間の人はこんなにも皆結婚しているのに自分には恋人のひとりもできないのだ、と内心落ち込んでいる。
仕事と勉強で疲れている、を言い訳に恋人を作る努力も友達を連れ努力もしていない。
コミュ障かつ真面目系クズの上、とんでもない内弁慶なので、そんな悩みを友人や他人に相談することなど到底できず(というかそもそも友人が少ないしそこそこの大学を出てしまったために仕事の話をすること自体がコンプレックスと化している)、月に何回かは仕事の愚痴を暴言に近い口調で親に聞いてもらうことで鬱憤を晴らしているような体たらくだ。
脱線しすぎたので、話を戻す。
それならばその先を考える意味はないような気もするが、私は自分の子供が欲しいと思わない。
人生は今のところうまくいかないことの方が多く、私は自分自身のことが嫌いで、万が一にも自分の遺伝子が入った子供が生まれるなんてことは考えられない。
もしも半分が好きな人の遺伝子だとしても、半分は自分の遺伝子の入ったその子を愛することなどできないし、うまく育てられず虐待するかもしれない。
私に似るとしたら(というかどこかしらは似るだろう)その子は絶対に美人ではないし、要領も悪いだろうから幸せになれるとは全く思えない。
そんなかわいそうな子は産みたくない。
まあそもそも恋人すらできない時点でそんなことは夢物語なんだけど。
未だに自立というものが全くできておらず、もしも親が居なくなったらどうやって生きていけば良いのか全く分からない。
孤独は怖いけれど、世間の多くの人がしているように恋人を作り結婚する自分というものをイメージできない。
というか私のどこに誰かが好きになってくれる要素がある?考えているだけで無間地獄に陥りそうになる。
でもおとうさんおかあさんごめんなさい、だから私は貴方達に孫を見せることは絶対にできないし、できることなら貴方達より先に死にたいです。
旅行する習慣がない
そんな者を、旅行する人々はどう思っているのだろうか
今年はどこいった、誰とどこいった、どの国へ行った、何のイベントに行った
そんな話を聞くたび、心は掻き乱され、呼吸は荒れ、平静なふりをして、トイレで一人落ち込んでいる
やはり落ち込む
彼らが何処かへ行っている間、自分は何ができただろうか
彼らは動いて、自分は動かなかった
それだけのことが私を焦らせる
どのくらい落ち込むかと言えば
昼食を食べに行った店にPCと財布が入ったカバンを置き忘れたことに夕方気づいたくらいに落ち込む
そのくらいに、旅行者を羨望の目で見ている
それほど楽しくないことに
彼らほど輝いていないことに
あと、家に溜めた何かしらの作業が、一切進んでいないで月曜日を迎えることに
いや、流石にもう慣れた
もう慣れたと思うんだが
すでにこの映画を見て2週間は経つ。鑑賞直後の雑感は箇条書きで記してはいたのだが、一応もう少しまとめようと思い立ったのでここに記す。
おそらくほとんど人の目には留まるまいが、ネタバレを含むので、ここから以下はぜひ本作をご視聴の上でお読みいただきたい。
また、私自身はこの作品を1度しか視聴しておらず、またこの映画に関する情報はパンフレット以外ほとんど(ネット上の評論も含めて)目にしていない状態であるので、思い違いや抜け、または同様の結論に至った他の方の評論がある可能性があることを了承されたい。
また、本文の後半でいくつかの仏教的用語を使用している。が、恥ずかしながら私の仏教知識は全くの独学であり、また理解もかなり浅いものである。もし仏教用語または知識に間違いがあれば、ぜひとも私のツイッターアカウント(https://twitter.com/gachikibou)またはメールアドレス(gachikibou@gmail.com)あてにご叱正をいただきたくお願いする次第である。
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これまで、私は新海誠監督の映像作品をいくつか観た(すべてテレビかDVD)が、どれも見ていていたたまれない気分にさせられるのがいやだった。今回も「新海監督作品」というだけで拒否感が強かったのだが、それを良い形で裏切ってくれる作品であった。
この映画の良い点については、映像作品素人の私でもいくつか挙げることができるが、この文章では、私が「この映画が多くの人の心に深く響いた理由」であると確信した、ある「仕掛け」について取り上げたい。
私がこの映画で見事な「仕掛け」であると考えるのは、「入れ替わっていた時の記憶は夢のように消えていく」という設定である。
ご視聴いただいた方にはわかる通り、この設定は脚本の構成上必要不可欠であり、それ自体が新海氏の作品テーマの一つである「すれ違い」を生むポイントでもある。
しかし私は、この設定そのものが、多くの観客に非常に深い共感を覚えさせるための、きわめて重要な「仕掛け」であったと確信している。
さて、その「仕掛け」について考える前に、まずは一般的な、夢の「記憶」について少し考えたい。
そもそも、人間が見るほとんどの夢は、目覚めた時には忘れられてしまっているし、たとえたまたま夢を覚えていたとしても、目覚めた後しばらくすると、その記憶が朝のルーチンな行事などによって急速に塗り重ねられていく経験を、多くの人はしているはずだ。
そしてそれは、非常にインパクトのある強烈な夢であっても、実は例外ではない。
例えば、前日見た怖い夢について友人に話す時、どうしてもその「怖さ」を伝えることができないというもどかしさを感じたことがある人は多いはずだ。
それにはいろいろな理由が考えられるだろうが、そもそもそうした場合に思い出している夢の「記憶」というのは、実際にはその時の夢に対するおぼろげな「あらすじ」と「『感動』を体験したという『記憶』」を元に、目覚めてしばらく経ってから再構築された、いわば「レプリカ」である。
それは本来の「記憶」ではなく、自分自身によって作られた本来の「記憶」の「代替品」である。そのゆえに、自分自身でもその「記憶」を、生の体験として感じられないのだ。
では、なぜ人は、わざわざそのようにもろい夢の「記憶」を、再構築してまで取っておこうとするのだろうか。
それは、その人が、その夢の中で何らかの「感動」(それは「喜び」であっても、人によっては「恐れ」であってもよい)を体験したからである。
ある夢について、人が「いつまでも覚えている(実際には再構築したレプリカを取っておいている)」のは、その人がその夢の中で、時には現実以上に「感動」させられたからだ。
(つまりは、面白かったテレビドラマやアニメをDVDなどで保管しておこうという行為と同じである)
しかし、そのとっておきたい夢の「記憶」そのものは、前述のように実に「もろい」のだ。
「感動」は個人の心にとって極めて重要な体験であり、その存在を保証する「記憶」は、ある意味「自分そのもの」でもあるのに、夢の「記憶」は、いくら手放すまいと抱え込もうとしても、どうしようもなく風化し、変質し、最後には消えてしまう。
すると最後には「『感動』を経験したという『記憶』」という、ある意味抜け殻のようなものだけが手元に残るのだ。
しかし、人間はそれでも夢の本来の「記憶」をあきらめきれない。
なぜなら、強く「感動」したという事実は、人にとって極めて重要だからだ。
だからこそ人は、無意識にでも夢の「記憶」を、抜け殻である「『感動』を経験したという『記憶』」を元に再構築して「レプリカ」を作り、それを代替品として残すのだ。
たとえ残しても、その「レプリカ」が、本来の生の「記憶」には及ばないにもかかわらず。
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さて、ここまで、夢の「記憶」が本来の記憶から「レプリカ」に置き換わっていく過程を見てきた。
多くの人は無意識のうちに気が付いているのだ。
実は、夢の「記憶」に限らず、人間の実体験から得られたものを含むすべての「記憶」も、年月が経つと消えてしまう「もろい」ものである、ということに。
「よかったことの記憶は美化される」というが、実際には美化という「脚色」ではなく、後に再構築された「レプリカ」かもしれず、場合によっては「レプリカ」の「レプリカ」である可能性すらあるのだ。
「記憶」は、同じ時代の別の「記憶」や、新しい「記憶」、またはその人自身の心境の変化などによって絶えず影響を受け、さらに年月とともに風化する。
そうして形の崩れた「記憶」を、人は心の棚から引き出して眺めるたびに、足りないところや影響を受けたところを成型しなおし、「ああ、あのころはそうだった」と納得して、引き出しに仕舞う。
仕舞った途端に、その「記憶」はまた変質を続け、風化していく。
そのようなものに、果たしてその「記憶」が生み出されたころの、生の部分が残っているだろうか。
そしてその「記憶」がもろく変質し、最初のものと変わってしまっているという事実は、最終的には自分そのものの「はかなさ」にたどり着く。
自分があの時得た喜怒哀楽の「感動」を保証する大切な「記憶」が、年月を追うごとに変質し、「レプリカ」に置き換わっていく。
さらにその「レプリカ」すら、風化に耐えられずに「レプリカ」の「レプリカ」に置き換わってしまう。
それは人間の記憶システムの限界であり、そのような「はかない」ものに立脚している人間存在の限界であり、どうにも抗えない無情な運命である。
この残酷な「はかなさ」を前に、人は多かれ少なかれ、悲しみと恐れを抱くのだ。
しかし、いくら「はかない」ものであっても、人はやはり「『感動した』という事実」を保証する「記憶」を手放せない。
それを手放すことは、過去の「感動」を手放すことであり、つまりは「自分自身」の一部を手放すことに等しいからだ。
「自分自身」を手放したくないという強い思い。これは、人間という存在の持つ、根源的な欲求の一つといってよい。
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この作品で、主人公たちは人格の入れ替わりという「夢の体験」に近いものを体験する。
入れ替わっている時の「記憶」は、(夢の「記憶」と同じく)極めてもろく、曖昧なものであることが劇中の様々な演出や、女性主人公の祖母の経験から示唆される。
また、主人公二人が入れ替わっている最中のことを把握しようと相互に残した記録すら、「世界の修正力」とも呼ぶべき現象によって、問答無用に消されていくのだ。
この演出は、夢の中で強烈な「感動」をしながら、夢の「記憶」が消えていくのを経験した人々(たぶん非常に多いはずだ)に、夢の「記憶」の「はかなさ」、どうあがいても失われてしまう焦燥感と苦しさを思い出させる。
この映画において、入れ替わりの「記憶」は、夢の「記憶」と同列にできるものではない。
なぜなら、その「記憶」は(時間軸のずれはあるにせよ)現実世界での体験によるものだからだ。
ここで視聴者は(特に、視聴者層として想定される若い世代にとっては無意識のうちに)、自分の持つすべての「記憶」そのものも「はかない」ということに気づかされる。
そしてその「はかなさ」は、前述のようにこれまで確かだと思っていた「自分自身」、つまり「自我」の「はかなさ」へと続いているのだ。
この作品が、単なる「恋愛のすれ違い」を描いた作品でない点は、ここにある。
この作品の入れ替わりの記憶に関する「設定」そのものが、人が「自我の存在のはかなさ」に知らずのうちに触れる、という高度な「仕掛け」となっているのだ。
そしてさらにさらに、この仕掛けにかかった視聴者は、「自我のはかなさ」を抱えながら、大災害から人を救いたいという強い想いの結実と、主人公二人の恋の結末を追っていくのである。
「自我のはかなさ」という「無常」を自覚しながら、それでも捨てきれない「感動」を最終的には得るのであり、これをあえてたとえるなら、大乗仏教における「色即是空」の一端を突き付けられながら、それと相反する「自我」を、恋の思いを主軸にした「感動」として体感させられているようなものである。普通の人間にとって、これが強烈な体験とならないはずがない。
この作品を、「何か『高尚な深み』がない」とか、「ヒットする要素が盛りだくさんで鼻につく」といって評価しない人がいるようだが、前述の「仕掛け」が意識されるならば、その評価は間違っている、と言えるだろう。
確かに、ストーリー上はこの作品は恋愛物であり、その結末そのものに何らかの「高尚な思想」は存在しない。
最終的に二人は再会し、そして新しい「記憶」が生まれるだけである。
しかし、上記の「仕掛け」による、実は仏教的ともいえる「無常」と、それと対立する「自我」を強烈に意識した構成は実に見事であるし、十分に評価に値すると、私は考える。
何より、「無常」と「自我」の対立、というよりは映画のエピローグの流れてとしてはむしろ「対決」を、恋愛ドラマをもとにしながらも、とりわけ若い世代の視聴者に体感(おそらく初経験だ)させるなど、尋常の映画ではない。
この点で、私はこの映画が日本のアニメ映画の中でも特筆すべき存在であると考える次第である。
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この映画に関して、もちろん上記以外優れた点は数多くある。
今回記した部分はあくまでも私が特に注目した点であり、冒頭に述べた鑑賞直後の箇条書きの全体量で言えばせいぜい1-2割といったところである。
新海監督の特徴である映像の意図的な美しさや、おそらく何度も検討を重ねて練り上げられた脚本など、評価するところはまだまだあると思う。
しかし、私自身まだ一度しか視聴していないこともあり、また映像や脚本に関してはより以上に素人であるので、それ以外の評価は他の方にゆだねたいと思う。
そして、私はやはりこの映画は、10代から20代の「無常」に関して初心(うぶ)な若い世代に鑑賞していただきたい。
この映画で抉り出されるものは、少なくとも2500年ほど前から人類が立ち向かっている、非常に大きく根源的な問題の欠片である。
不覚。
とにかくガッキーが可愛い、それでいてエロスの世界観ではないので、爽やかにドギマギヤキモキするという、よく分からない解説を何度も聞かされて、とりあえず見てみることにした。
今時の人気アイドルというのがどんなものなのか、少しは知っても良いだろうと思って。
学生時代に好きな子ができて感じる胸の痛み、ドキドキ感、焦燥感、あの感覚が怒涛の如く襲ってきた。
PEAが全身を駆け巡り夜も眠れない。
テレビを見ないわたしだが、はてなやまとめサイトでたまに話題になるためか、新垣結衣さんは以前から知っていて、数多いる可愛らしい芸能人の一人という認識だった。
憂いの目、少し小ぶりな乳、長い腕、指。
たまらずYouTubeなどでポッキーのCMから貪るように眺めた。
ウィキペディアで基本情報を掴んだ上で、ゴシップ的な恋愛遍歴や過去のインタビューなど調べてしまう私がいた。
この何も実を結ぶことのないことに時間と思考を奪われて一日を過ごす。
どうすれば実を結ぶのだろうかと、無駄なことを考えずにいられない。
ああ、そうだ。これは恋なんだ。懐かしい気持ち。自然な気持ち。
清濁混ざった心の目であなたを見つめる。
いや、だめだ、汚れを払いのけ、真の愛であなたを見つめよう。
いつか夜明けがきてあなたのことを忘れても、わたしの幻影が作り出すひと時の幸せと安らぎを忘れない。
***
理性が私に何度も無為な時間を過ごすな、冷静になり不毛を避けよと伝えてきます。
しかし理性以上に強い感情に囚われてしまい思考が言うことを聞きません。
どうか心が弱く、罪深いわたしを憐れんでください。
この言葉をよく味わい、もう逃げ恥を見ることを止めようと思います。
どうかお力をお与えください。
この祈りを主イエスキリストの御名において。
生きるために仕事をしてるのではなく、仕事のために生きている。
例えば、仕事で人に迷惑かけないよう、いつでも残業できるように予定は入れない。
友人は学生の時の仲良しのみで、卒業後に新しくできた友達はいない。
■いつもイライラしてる。
思うように仕事が進まないこと。
見当違いな反論をされて何から説明したら良いのか途方にくれること。
仕事で心が疲弊して、何もする気が起きず、部屋が散らかり放題なこと。
そんな自分の全てが嫌になること。
子持ちは早く帰り、小無しにしわ寄せがくること。
■いつも焦燥感がある。
Facebookでの様々な報告…
趣味での成功、ブレないライフスタイル、信念を持って撮り続ける行動。
彼氏ができない。結婚できない。駐在できない。帯同できない。出産できない。
■いつもビクビクしてる。
少しでも目立てば叩かれる。
この3つの気持ちが、心の中でグルグル渦巻いて、それぞれの気持ちが足を引っ張りあって、より強い負の感情となっていく。
■鬱ではない。
こんな状態でずっと生きてる。
成績も1番ではなかったけれど上位だったし、一般的に良いと見なされる企業で働き、それなりの評価も得て、仕事をさせてもらってる。
■私は早く挫折したい。
鬱発症でもいい、出勤できないほどの痛みでもいい、クビでも降格でも、流産でも、離婚でも、何でもいい。
もう今のような働き方が出来ないくらい心が折れてほしい。
■そして、もうこんなに頑張らなくて良いんだと、気持ちを楽にしたい。
相手の非を責める気持ちを持たずに、自分の仕事も完璧でなくて良い、身体に良いものを食べて、よく寝て、よく笑って、家族の寝顔を眺めながら眠りにつき、今日も良い1日だったと思えるようになりたい。
メッセージがとても強い。
サイレントマジョリティー(以下サイマジョ)や
しかし、二人セゾンにはそれがない。
春夏で恋をして
だが、そんな考えもMVを見たら大きく変わった。
サイマジョは楽曲だけでも完成度が高かったが、
まだ見てないと言う人は見てきてほしい。
https://m.youtube.com/watch?v=mNpPQXMgtmw
メンバーそれぞれの表情だと思う。
いたってはセンターの平手ちゃんばかりが映っていた。
ストーリーを描いている。
けれどやはり、今回はほぼみんながちゃんと映ってて、
感じとった。1年だけの関係、まさにサビの
秋冬で去っていくという歌詞に合っている。
なによりその表情はとてもいきいきとしていて、
青春の一瞬の楽しさが見える。
そして、欅坂らしさを見せたのが、
鞄を捨てるシーン。
MVでちょいちょい出てくるこのシーンが
その役割を担っていた。
大人はみんな嘘が多すぎて忘れてる
昼間の光がさす大人数でのシーンと、
夕暮れの闇が迫る平手1人のシーンの対比が、
冬にさしかかり、もうすぐ1年が終わって
私に思い起こさせた。
あ、またこの時期が来てしまうな。と。
鬼気迫る表情で焦燥感をかもし出していた。
1年が終わる、季節が終わる、
着々と迫る別れに対する焦りが伝わる。
それをリアルタイムで感じている私は
MVを見て泣きそうになっていた。
感じとったものがそれだけ大きかった。
こんな長々と書いてしまったが、
結局言いたいことは一つだけ。
この映画は日常アニメとしても評価されており、確かにそうと言える。
ほんわかした笑いの連続で劇場の空気は温かいし。戦時中を舞台にしているというのに、声を出して笑える映画だ。
その一方で暮らし様式や知恵、戦艦や飛行機、情勢、草、花、木、鳥、全てにおいてリアルに描かれている。
このアニメがアニメだと思えないほどリアルだと感じられるのは、このせいである。
そういえば、8月公開の「君の名は。」でもこの問題については言われていた。
そこで気付いたのだ。
まずタイトルが変なとこで終わっているね。そんなことはどうでもいいんだ。
君の名は。で話題になったのは音楽の使い方だった。これが凄く似ているんだ。
RADWIMPSとコトリンゴ。音楽で話を進める力を持つ。この世界の片隅にの挿入歌も数曲あるので音響よろしいとこで見るとよろしい。
また「その日」にどうやって進むのかという焦燥感なども同じポイントだ。
ここまではツイッターにでも書けることだ。
展開?
うん、違うよね。
そうだね、おっぱいだね。
君の名は。公開当日は「おっぱい」でツイッターの感想や反響スレが埋まっていたほどだった。
三葉のおっぱいのシーンCMで見るたび、諸君はドキドキしたであろう。
おっぱいで感動させ、おっぱいで笑わせる。すごいおっぱい映画だったんだ。
更に追い打ちをかけるのが口噛み酒。これは新海監督の確信犯だ。酷い男だ。
え、なんでおっぱいの話をしてるのかって?
決まってるじゃないか。
『この世界の片隅に』のおっぱいシーンはみんな見るべきだろ…………!!!!!!
超真面目なアニメの中に数秒入り込む全裸シーン。大画面で見る横乳に、「あれ、どうして、こんなシーンが入ってるの…!?」と混乱すること間違いなしだ。
そのおっぱいは主人公のすずさんのものでは無いんだけど(すずさん、あんなに乳なさそうだし)、これまた入浴しているすずさんに、おっぱいがかぶさっている絵というのが最高。
●RECがたくさんつきそうなシーンがあるのだ。
しかもアニメ界でも尊敬される監督と、有能アニメ会社「MAPPA」の作画でそれを見ることが出来る。
おっぱいはあんまり、という稀有なあなたにも薦めたいのだが、予告を見ていただいたら分かるとおりキスシーンがある。
しかしこれがまた、真面目に丁寧に品よく作られていて、子供が見ても「?」となる具合。しかし大人が見たら「うぉぉおおお」となる演出になっている。
さらにはNTR!?というシーンもアリ、しかも超作画で超セクシー。生々しくて、あの絵柄で(!)ドキドキするのだ。
主人公すずが「この子はもうまったく…」といったぼんやりした子なのだが、時々女の顔になる。その時の色気具合ったらありゃしない。
隙だらけの色気というのか…なんなのか。声も良いよね、リアルで…。
しかも主人公を取り合うのが、二人とも最高レベルでイケメンボイスを作っている細谷さんと小野Dなのだから、色気出しすぎてて男女ともにドキドキしてしまう。
さておっぱいの話に戻るけど、バスケシーンの三葉はノーブラである。流石にキャミソールくらいは着ているものと推測できる。
終戦前の庶民というと、ブラジャーはまだ無かった。乳バンドとかいうのはあったようだけど、それもパッドがついているようなものではなく、帯だったようだ(暮らしの手帖より)
つまり、「この世界の片隅に」で出てくる主人公すず(18歳~)、遊郭の女性や、気の強い義理のお姉さん、近所の奥さん、妹といった魅力あふれる女性たちは、みんなノーブラということにになる。ちなみにロリまで出てくる。
いかがだろうか。この世界の片隅にを見に行かなければならない理由は、以上にある。
こんなことあの真面目な映画で長々文章にできるアカウントやブログが存在する気配が無いのだが、正直みんな思っていることを代弁したまでだ。
後悔は無い。
ごめんなさい。
起きて見る夢じゃなくて、寝て見る夢の方。
気がつくとここ10年くらいは、ちゃんと夜に寝て朝起きるときは毎日見てる。
これはなかなかすごいのではないか。
なぜか起きる直前くらいによく夢を見るので、起きた瞬間は夢を見たことを覚えている。
その後すぐにまた眠ってしまう場合は、だいたいすぐに2本目が開幕する。
業務中にいすに座って、机にひじをついて、昼寝するときも夢を見ることがあって、起きた瞬間「ここどこだ」となって慌てる。
夢を見たこと自体を覚えていても、なぜか内容は全く思い出せないときもあり、不思議だ。
すごく楽しかった、とか、何か焦燥感だけがある、とか漠然としたイメージだけが現実へひきずる。
かと思うと、数時間も経った後で、既視感のようなものを感じて、唐突に朝に見た夢を思い出すこともあって、一人で反芻して余韻で遊ぶ。
「久しぶりに夢を見た」というセリフを漫画で見たときは、普段夢を見ずに起きる瞬間っていうのはどんな感じなのかなとちょっと気になる。
これだけ夢を見ていても、夢の中で夢と認識できたことはない。
どちらかと言うと、目が覚めてそれを思い出したときに「なんでこうなった」と一人ツッコミをするのが楽しい。
考えているのは自分なのに、突拍子もないことが起こって驚いてしまうのも面白い。
推理小説みたいに、事件→解決編みたいな夢を見たときは、「え!? このひとが犯人!?」と夢の中で驚いていた。
無意識の自分がこんなトリックを思いつけるならぜひ何か書いてみてほしいのだが。
見た夢を日記にするとよくないっていうのはずっと前に聞いたことがあって、気になるけどやったことはない。
印象に残るやつはまあ覚えてるし。
基本中の基本
穴掘って埋めるだけみたいな作業はエンジニアに限らず嫌がるものだが
エンジニアは勉強し続けないとどんどん時代から取り残されていく
なのでどう考えても非効率だとか、どう考えてもおかしい仕様を実装していると
徐々にモチベーションが下がり病んでいく
どの職業でも同じだが、無駄に金や人命やクリティカルな機能を担当すると
普通に消耗していく
ここらへんは普通
俺何やってんだって考え始める
まとめると
シビアな責任を伴う、非常に複雑で難しい仕様を、納得しないまま押し付けられ
スキルも上がらず、待遇もよくなく、事業的にもあまり価値のないタスク
少なくとも、
は無い。
そもそも、まとめかたとして両者は全然違うでしょう。
物語のパターンの類型手法と、雑誌の常連バンドの総称なんだから。
単に元増田が10代の頃に聞いてた、思い入れが強いバンドに対してセカイ系の枠組みをこじつけているだけ。
実際、アジカンの後藤の日記によれば「誤読」であり、「セカイ系ちゃうわ」なわけだ。
ただの気のせい。運動と睡眠と瞑想と野菜が足りない。お大事に。
どうして、共通点があるように感じたのだろう?
結論を先に述べる。
セカイ系作品とロキノン系楽曲が共有する(と00年代に青春を過ごした者が錯覚する)感覚とは、
受け手側が感じている社会に対する抑圧的心理が、作者が提供する物語によって変化すると"信じる"感覚のことである。
「色々うまくいかないけど、アニメや音楽聞いてればなんか元気になる。そう思わないとやってらんねー。」
といった、「おさかな天国」的世界を信じることで救われようとする試みに近い。
だが、私はめんどくさくなってしまった。
この先、村上春樹的な「物語」の作用を用いて、主張を補強したかった、すなわち
「物語」には、「こちら側」と「あちら側」を越えさせる力がある、
とか、
「あちら側」とは、人間の内的世界や「井戸の底」のようなものであり、そこでは現実には起こり得ないことが起こる。
とか、
我々は「物語」というメタファーを通じて「あちら側」を経験することによって、「物語」の前後で異なる組成の人間になり得る。
とか、
そもそも、セカイ系っぽい歌詞のロキノン系において、「君」と「僕」というのは単なる主語であり、ロキノン系の歌詞では、「君」が「僕の認識・世界観」を救う構図(あるいはその逆)こそあるものの、
セカイ系サブカルチャーにおける「世界=社会の終わり」に該当するものは描写されない。
とか、
しかし、セカイ系とロキノン系はともに「物語」を通じて、「こちら側」と「あちら側」をつなげるという点において共通する感覚(≠メッセージ性)を持っており、
よりメタ的には「物語を信じる」ことによって感覚を共有している。
とか、
「信じる」とは「鬱屈、焦燥感、閉塞感」を「なんとなく」感じることによって選択される行動である。ゆえに、「退廃的な感じ」がする。
とか、
この、午前4時過ぎに「ちょっとラーメン食べにいかねえ?」とラインを飛ばしてくる留年した大学生っぽい文章から察するに、
いかにそれっぽい評論家気取り文章を読んだところで、「ありがとう、でもなんか違うんだよねーw」などと言いそうな気がしてきたので、めんどくさくなった。
っていうか、それっぽい記述をやたらと長い一文で書いているだけにしか見えなくなって、めんどくさくなった。
別名と言うか、長々と書いてみると。拗らせた承認欲求と依存、嫉妬心と独占欲を爆発させたヤンデレ、その根源に巣食い続けた劣等感のはなし。
今こうして自分で並べても笑える程に、救いようのない要素だけで生成された恋の寿命は、三年に届かず終わりを告げました。大層に書き出してみましたが、結局何があったのかと言えば、好きな人を失いましたという、20文字にさえ満たない、世間一般に転がっているような、何の変哲も無い話なんですけど。
そんな、何の変哲も無い話だからこそ、タイトルを付けるにあたって、ヤンデレと言えば多少はライトに聞こえるだろうかと希望を籠めて。それでも結局は、どうしようもない程構ってちゃんな我儘メンヘラが、独りの人間を食い潰した話です。追い詰めて追い詰めて、限界がきて縁が途切れて、そして、私も自滅しましたという笑えない救えない話です。
それでも、この文章を書き切ることで、この喪失感が埋まりやしないだろうかという期待をしています。悲しいです。苦しいです。でもそれ以上に、この恋がもう駄目だったのだという事を、誰より私自身が理解しているつもりです。そう書きながら、それでもやっぱり苦しいですと続けたくなるぐらいには、依存していた心はどうしようもなく、矛盾していて。
それから、もうひとつ。私自身、時間がある時は常にネットの読み物を漁っていて。匿名のまま、色々なことに真剣に長文を書いている人がいる。そういうのを読むのが、好きなんです。以前Twitterで見掛けたんですけど、文字や長文を読むことに依存していて読み物のジャンルは問わない、っていう状態。私、それも当て嵌まるなぁって想ったので…どうしようもないこの歪んだ恋のなれの果てが、とあるヤンデレの恋の顛末が、ネットを漂う読み物のひとつになればいい、と想っています。こんな想いは有り得ないと一笑に付されるのでも構わないし、この歪んだ欲求が誰かに共感して貰えるなら、それはそれで凄く嬉しいこと。勿論匿名ダイアリーなのでそれを私が知る術はおそらく無いんですけど、それでも、このメンヘラ日記が誰かに見て貰えるのなら、この恋が誰かの時間潰しになるのなら、なんて願望も抱いています。
わたしが最初にあの人と出逢ったのは、共通の趣味の世界で、その場所はTwitterでした。
まずはその上手さに本当に驚いて、心底、凄いと想いました。ただ見惚れて、あの人にしか出来ないことに、心から惹かれた瞬間のことを、未だに強く覚えています。この人と関われなかったら後悔すると想って、勇気を出して声を掛けて、関わりを持てるようになって。そこから幾つかの幸運が重なって、あの人に、私の出来ることも認めてもらうことが出来て。一緒に、趣味に携わることが出来て。
毎日毎日Twitterでお互いにすごい熱量でその趣味のことを話すことが出来るようになって…本当に幸せでした。仕事が終わって、あの人がTwitterに浮上するのが本当に毎日の楽しみで、どちらともなく声をかけ、楽しい会話が始まって…眠る瞬間までそれが続くんです。本当に、睡眠さえ惜しい程、ずっと喋っていたいぐらいでした。あの時期、私の思考回路も自由な時間もすべてあの人の為にあったと言い切れますし、憧憬と尊敬混じりの好意は、募る一方でした。たくさん時間を重ねて、私自身も、あの人の思考回路を占められていた自信があります。恋情ではなかったとしても、好かれていた、という自負も。本当に、私の一目惚れに近かったので…奇跡みたいな話だと、状況だと、ずっと想っていました。ずっと、夢中でした。まるで夢のような日々が、あっと言う間に始まって、私の日常を侵食していきました。
だけど、奇跡はやっぱり奇跡で。私にとっての夢は、長くは続きませんでした。
その趣味の世界で、あの人は、私より素敵な人と、出逢ったんです。それはいつか起こることだと理解していましたが、本当にあからさまなぐらい、毎日たくさん話していたTwitterでの会話はぱたりと止みました。あの人は、新しく出逢った人と毎日時間を重ね、私としていた時と同じように…いいえ、それ以上の熱量で、沢山の言葉をその新しい人に向けました。趣味は私ではなくその人とやるようになり、私が構って欲しくて、お話がしたくて近付いても、ええと、その頃はまだ星のマークでしたので、星が飛んでくるだけで。やるせなくて、悲しくて悔しくて寂しくて、どうしようもなくて。私はその時、一回目の失恋をしました。
所詮はTwitterでの話し相手を失っただけだ、と笑われるかも知れません。それでも、会話をする内容や頻度、趣味の世界の話。文字はその人に惹かれるには充分な要素であると、私は想います。あの人に向けていたのがその時点で好意だったのか、恋情だったのか、その当時の私にも、今想い返してみても、断言は出来ません。それでも、欲しくて欲しくて堪らない人が私の方を向いてくれない、明確に"興味を失われた"その感覚に、涙が溢れて止まらなくなりました。毎日毎日、あの人がTwitterに居るのに、私とは話さずに、新しい人と、趣味に夢中になっているその姿をぼんやりと見ているその日々が、辛くて苦しくて、息を止めてしまいたいと想って。それでも、Twitterから離れることは出来ませんでした。心の何処かで、あの人が私の方を向いてくれていたのなんて最初から奇跡だったのだからと諦めを付けようとしている自分自身が居るのに、それに堪えることも割り切ることも出来ず。新しい人が私よりずっとずっと上手な人だったので…劣等感も悔しさも、仕方ないと想う心も。全部が、綯交ぜになったまま、ただ、其処に存在し続けました。
そして、私自身も、誤魔化すように、また違う誰かと出逢いました。そして、趣味の話を、あの人以外の人と、とりとめも無く喋っていました。文字は凄いと想います。笑っていなくても、笑えます。心が沈んでいても、テンションは幾らでも取り繕えます。そんな風に、Twitterでは誤魔化しながら、現実世界では泣いて吐いて、眠れなくて、ただひたすら、あの人が恋しくて、悔しくて。私は飽きられたんだ、捨てられたんだと泣いて喚いて、だけど新しい人の上手さに叶う気もしなくて、幸せそうに楽しそうに趣味に耽るあの人を見るしか出来ず、絶望するように目の前が真っ暗になって……失った喪失感で一杯の、日々でした。
それから、日を重ねましたが私とあの人の立ち位置は、共通の趣味の世界の仲間、のままでした。私が一方的に抱いた喪失感も失恋の感覚も、悔しさ寂しさ、嫉妬心も…言葉になる事は無く、消える事も無く、勿論あの人が知ることも無く…ただ、私の胸の内で、私の心に影を落とし続けていました。時折言葉を交わすことはありましたが、あの人が夢中なのは、新しい人でしたから。幸せそうだなと想いながら胸の何処かが酷く痛み、けれど私よりずっと上手な二人を見て、お似合いだなと感じて。苦しみながら、憧れながら…そんな、矛盾を孕んだ生温い日々を送っていました。
そんな日々が変わったのは、知り合って数か月経った頃。奇跡の夢から覚めて、絶望の淵に立って。
それでも、私があの人を好きなことは変わらないし、趣味だって辞めるつもりはない。そんな、一方的に私だけが居心地の悪い関係は、突然新しい道を見出します。
既存の趣味の…変化版?に、二人で手を出す事になったんです。匿名で、伏せに伏せて今更、なのですが…例えるなら、パン作りが趣味だったなら、二人でお菓子作りにも手を出すことにした、とか。ネットゲームが趣味だったなら、二人で新しいサーバーにも行くことにした、とか…調理やゲームなどの趣味としての大きな枠組みは変わりませんが、何にせよ"二人だけ"の、ことが出来ました。それは私にとってとんでもなく幸福なことで、近くで見るあの人の出来ることに、やっぱり改めて憧れ惹かれました。その憧憬に加えて今度は、その素晴らしいことが、私だけ、独り占めが出来るんです。新しい人ではなく、私となんです。そんな感覚に、嫉妬で喘ぎ、苦しんでいた自身が満たされ癒されるような、快楽を味わいました。好意も恋情もすべて含めて私はこの人が好きで、関わっていたくて、話がしたいんだ、という気持ちが、確固たるものに変わりました。
其処からは、また、幸せな日々が始まりました。飽きられ捨てられたと想っていた、それでも好きだった、あの人との関わり。大きな枠組みが同じとは言え、やはり今までの趣味の範疇からは少々外れていたので、二人とも新しくTwitterアカウントを取りました。二人ともいずれ誰かをフォローする予定ではいましたが、その時点ではお互いにお互いだけをフォローしているアカウント。そこは私にとって堪らなく居心地が良い、幸せを増長させる秘密の場所になりました。
毎日繰り返す、共通の趣味の世界の話は昔の熱量を想い出して堪らなく胸がときめきましたし、そのアカウントは二人だけと言う気易さからか、少しずつ世間話も入るようになって。あの新商品が美味しかったよだとか、今度どこでどんなイベントをやるみたい、だとか。他愛ない日常の世間話はまるでLINEのような一対一の会話で、Twitterで新しい人は勿論誰かに向けて話されるのとは確実に違うものだと感じて、私は至上の喜びを味わいました。
あの人が私と、私とだけ喋っている、ということ。嫉妬を拗らせて鬱屈させていた私が、あの人を独占出来るその時間に依存していくのに、時間はかかりませんでした。けれど、同時に。過ぎたる幸福は、抱いてはいけない欲を育てるのも、早かったのです。
私は次第に、あの人が、今まで通りのTwitterアカウントで喋ることに、恐怖と苛立ちを覚えるようになったんです。
どうかしていると、笑われるでしょうか。あの人の自由を奪う行為に、賛同はきっと得られないでしょう。解っています、解っていても、それでも、尚。脳裏にこびりついた、また捨てられるという恐怖が、私の心を蝕んだんです。
また奇跡が起こって、私はあの人と二人の場所を手に入れて。これ以上無い幸せを味わいながら、その幸せは、いずれ弾けるものなのだと心の何処かで想っていて。あの人がまた新しい誰かと出逢うのはいつだろう、私には抗えない、勝てない、私よりもっとずっと上手な人と出逢い、その人に惹かれるのは、いつだろう?また、私との会話をぱたりと辞めてしまうその時は、いつ訪れるんだろう…?
そんな恐怖が日に日に増していき、あの人が今までのアカウントで喋っていると、その恐怖と焦燥感で一杯になるようになりました。あの人に捨てられる、飽きられてしまう恐怖が、あの絶望が、どうしても忘れられないんです。奇跡が覚める瞬間のあの足場が崩れるような、あの感覚を、二度と味わいたくはなくて。新しい人と出逢ってしまったら、私が勝てないことは目に見えていて。
あまりの恐怖に、私は、あの人に、二人の場所に居る時間を増やして欲しいと、今までのアカウントに行く頻度を少し減らして欲しいと、お願いしました。それは、強制力のあるものでは無かったと記憶しています。ただ、二人の場所が大好きで大事であること、たくさんの人と繋がっているTwitterアカウントで皆に囲まれている姿を見ていると、寂しいこと、嫉妬してしまうこと…。今想い返しても、少し甘えたような可愛い我が儘だった、と想います。勿論、自分を可愛いと言っているのではなく――後々言うことになる言葉に比べれば、かわいいもの、と言う意味で。
最初に私がその葛藤を、恐怖を…嫉妬と独占欲に言い替えてあの人にぶつけた時。その我が儘をあの人は喜んで受け入れてくれました。そして同時に、あの人が新しい人と出逢った頃、私自身その孤独に堪え切れずに誤魔化して他者と関わっていた頃。あの人も、他者と関わる私に対して嫉妬をしてくれていただなんて、リップサービスだとしても嬉し過ぎることを教えてくれました。私は、堪らなく幸せでした。そして、憚ることなくあの人に好意を伝えることが出来て、あの人からも、好意が返って来て。二人のTwitterアカウントは、本当の意味で特別で、秘密の場所に、なりました。迷うことなく二人の関係を恋だと定義付け、二人で趣味の世界に没頭しました。お互いが、お互いのものになったんだと、幸せで、日々が満ちていました。あの人に感じる憧憬混じりの恋情はもう私の一番根の深い場所まで侵食していて、あの人が二人のTwitterにログインしてくれるのを今か今かと待って、二人の時間に躊躇いなく依存して…あの人が喋るたびに、通知が来るようにして。専用の通知音が、私の幸福を彩りました。
だから、きっと忘れていたんです。夢が覚めるものだと言うこと、奇跡が長くは続かないことを。もしくは、見ない振りを、気付かない振りを、していたのかもしれません。
そもそも、私の我が儘は叶えられたとは言っても、その言葉に―二人のTwitterに居て欲しいというお願いに、強制力はありません。今までのアカウントにログインしたところで、私以外の人と本来の趣味に没頭したところで…それを責め咎める権利など、私には最初から無いのです。
元々他者に囲まれることも、評価されることも好きなあの人は、今までのアカウントも変わらず利用していました。二人のTwitterにも勿論来てくれてはいましたが、私自身も今までのアカウントで喋っていましたし、割合は日によって変わりました。
今、本当に、此れを書いている今、想い返せば。これで満足出来なかった時点で、この恋は、いつか終わる運命だったのだろうと、私は想います。私は、幸福の量にも、恐怖の量にも、堪えることが出来なかったんです。あの人が今までのアカウントで喋っていると、恐怖で恐怖で、堪らなくなりました。叶えて貰った筈の我が儘では物足り無くて、納得出来無くて。不安は益々色を濃くするばかりでした。だって、また新たな人に出逢ってしまってからでは遅いのです。もっと素晴らしいことの出来る人に出逢い、惹かれて、あの人が私のことをまた捨ててしまってからでは、遅いのです。私が、その新しい人に勝てる訳は無いのです。だからこそ、二人のTwitterの時間は堪らなく安堵して幸せで、もっと此処に居て欲しいと願うように、なりました。
それからの私は、恐怖と絶望に憑りつかれ、唯一の希望が二人のTwitterだ、と定義付け、お願いを繰り返すようになりました。いつものアカウントで趣味の話をして盛り上がっているところに水を差すように帰って来てとコールしたこともありますし、今日はあちらのアカウントに行かないで欲しいとお願いしたこともあります。今日だけは私のもので居て欲しいとお願いし、それが表面的に叶えられ、私は仮初の満足を得て…そして、翌日になればまた不安に駆られ…気付けば、私のお願いは、お願いと言う枠を随分と超えるようになっていました。今日は行かないで欲しいと言う回数は日に日に増え、ある時は酷く甘い言葉で、ある時は、酷く乱暴な言葉で。まるでDVの飴と鞭のように、私はあの人を、追い詰めました。
好意と嫉妬、独占欲を盾に、私の歪んだお願いは時として命令染みた強制力を持つようになりました。あの人が他者と関わろうとしたら、私も同じように他者と関わって、嫉妬しましたかと問うてみせて、それなら二人でTwitterに籠りましょう、嫉妬するのは痛いでしょう、と…身を以て感じさせるようなこともあって…まさに、泥沼でした。私は、あの最初に"捨てられた"感覚から、抜け出せていませんでした。あの人を、根底から信じられなかったんです。いつか誰かに惹かれ消えてしまう人なのだと想い込んで、もう、その固定観念から、抜け出せなくなっていたのです。私の行動はエスカレートし、あの人の行動を制限し、出来ることがどんどん消えていき、いつしかTwitterアカウントに割く時間は逆転して――二人で、二人の居場所だけに引き籠るようになっていきました。
それでも私の膨らんだ恐怖は拭い去ることが出来ず、私は二人の居場所に居ても尚不機嫌で、苛立ちが隠せなくなる日が、増えてきました。お互いに没頭していたはずの趣味の話も出来ないことが増えて。そんな日々が、楽しい筈がありません。あの人は楽しさを求めて今までのアカウントにログインし、私は其れを見て益々苛立ちと恐怖を募らせて…まるで、鼬ごっこです。沈み始めた泥沼は底無し沼のようで、私も、きっとあの人も。正解が解らないまま、お互いの可能性を、殺し続けました。
何処かで、きっと満足出来るラインがあった筈なんです。だけど私は、それを見付け出すことは出来なかった。満足することは、出来なかった。あの人は私の歪んだ独占欲と嫉妬を受けながら、他者と関わることを辞めはしませんでしたが、それでも出来る限り、私に愛を誓ってくれました。でも、それって、とてもとても中途半端で、生半可で、生殺しなんです、と書いてしまう私は、やっぱり冒頭にも書いた通り、救いようのない、ヤンデレでメンヘラだと想います。
でも、だって、私はこんなにもあの人が欲しいのに、私はあの人だけで構わないのに、あの人と二人きりで趣味に没頭していられるなら、それだけでも幸せなのに。どうしてあの人は、私を愛していると言いながら、他の人を見るんでしょう。そんなに、他の人と行う趣味、楽しいですかと問いたくなって、そうですよね私なんかと一緒に居るより楽しいですよねと、黙ったまま、傷付くんです。勝てる訳が、無いから。あの人が他の人と関わるたび、私よりずっとずっと凄い人と出逢って、どこかに行く為じゃ、ないんですか?どうして、私を見てくれないんでしょうか、と、恐怖から来る理不尽で身勝手な欲求が、抑えられないんです。劣等感が身動きを取れなくさせて、あの人に、誰より愛していると言って欲しい、認めて欲しい、何処にも行かないと言って欲しい…と、私の存在意義は、どんどんあの人からの言葉に委ねられました。承認欲求を満たして欲しい、独占欲を嫉妬を慰めて欲しい。そんな風に、転げ落ちていきました。
何度も何度も責めました。何度も何度も謝ってくれて、二人の場所に居ると誓ってくれました。それでも、あの人は想い出したようにいつものアカウントで趣味の世界を拡げては知らない誰かと出逢って、愛されそうになるんです。気が気じゃなくて、私は、いつも、あの人を監視していないと、落ち着いていられなくなりました。その頃にはもう、私の余裕なんて微塵も残っていなくて、私とあの人の趣味の話は殆ど無くなっていました。悪循環だ、と気付いた時にはもう遅く、趣味の話なんて残っていない、ただあの人の存在に執着して二人の場所に籠り切り固執する私と、息苦しそうに、私とは趣味を共有出来ないと判断して、いつものアカウントにもログインし続けるあの人が、残りました。今、想い返しても、可哀想だ、って想います。妄想に憑りつかれてしまった私の心も、その我が儘に振り回された、あの人も。
そんな悪循環から抜け出す術があれば、それを私が知っていれば、この文章にも起承転結が生まれて、もしかしたらこの恋はハッピーエンドを迎えられたのかも知れません。もしくは、少しでも泥沼から抜け出せたのかも知れません。けれどこれは、私の歪んだ恋心が終わるまでの顛末ですから、結局は"このあとも、あの人が限界を迎えるまで、この地獄のような鼬ごっこは繰り返されました"と、作者が放り投げたような展開しか、待っていません。
私は、趣味の世界に二人で没頭したくて、あの人の存在が行動が誰に与えられることが許せなくて、何処にも行かないように安心したくて、生活のすべてを呟くように義務付けました。お願いのつもりでしたけれど、暗に脅迫めいたことを含んでいる言葉など、命令でしかないと、今は想えます。それでも、私は、そうしないともう自分を保っていられなかったんです。帰宅したら二人のTwitterに来て、眠る瞬間まで、居て欲しい。会話をしながら、その返事が1時間以上空くのは堪えられませんでした。誰かと連絡を取っているかもしれない、もしかしたら見えないだけで、いつものTwitterで誰かとDMしているかもしれない…。そんな妄想に憑りつかれて、居ない時にはただひたすらあの人を責め、あの人の存在に餓え続けて。言い争うことも毎日のようになっていき、互いの言葉はどんどん酷くなり……そして、決定的な終焉を、迎えました。言っていいライン、と言うのは確実に存在して、それでも餓えて麻痺して、心の何処かで被害者を気取っていた私は、その地雷を、踏んでしまいました。それはあの人にとって堪えられる言葉ではなく、けれど其れを言うに至ったまでの経緯も私にとって堪えられるものではなく。お互いに追い詰めて、お互いに限界を迎えて……当然と言えば当然の、結末でした。
あの人は私と関わりたくないと言い、私も、もうこの恋を続けてしがみついても幸せになどなれないと、想います。この先、私が癒える方法など私自身では想い付きもしませんし、それはつまりあの人の自由を許せないことです。息苦しい想いだけを、させることになるのです。私も、裏切り続けられ疲弊し、泥沼に沈んだままです。追い詰め、逃げ、それを責め……そんな悪循環にしか戻れないと、お互いに解っていて、だからあの人は私との関わりを無いものにします。そして私はそれを上手く出来ずに、この文章を、書いています。
依存しきっていた、毎日交わしていた言葉が無くなって、私の日々は表面上、穏やかです。
ただ何もせずとも、ぼんやりと時間は過ぎていきます。けれど、壊れてしまった私の箍はどうしようもなく、今でも、あの人が何をしているのかを考え、頭のおかしいヤンデレから解放されてきっと幸せなのだろうと想うのに、一言でいいからまたあのTwitterで喋ってくれないだろうかと待ち、いつものアカウントにはいかないで欲しいと、願ってしまうのです。
愛しています、と、愛していました。どうか私のことを忘れて幸せに、と、今すぐ私と死んでくれたら良いのに。今、あの人に向ける言葉は何を想ってもぜんぶが矛盾していて、自分の往生際の悪さに、辟易しています。この恋に未来は無かったと、泥沼だと散々書き連ねてきたのに、それでも尚、この恋さえあの人さえ居れば私は他に何も要らなかったのにと、未練がましいことばかり想ってしまって、でもその数分後には、最低だと、あの人が私にしたきたことを反芻しては心の中で罵って。私はどうしたいのか、もう解らないまま、この文章を書き終えようとしています。
私はこの恋をまだ教訓には出来ていませんから、お説教染みた、愛した誰かを大事にしてくださいだとか、相手を信じてだとかをこんこんと語る気はありません。この文章は何処まで行っても私の歪んだ恋愛録でしかなく、フェイクが多分に含まれている時点でその記録としても殆ど価値は無いものです。それでも、この飽きる程に長い文章が、愛しくて愛しくて堪らなくても上手くいかなかった、拗れて病んだこの愛情が存在していたことが、このネットに残れば良いなあ、と想っています。
まだ30代前半・独身だが、誰がどう見ても「あっハゲだ」という感じになってしまった。父親も若くしてハゲていたのでなんとなく覚悟はしていたが、やはりなってみると辛い。
視線が怖い。他の男の髪ばかりを見てしまう。気づいたら頭を触っている。抜け毛にいちいち敏感になる。破滅へ向かう急行電車に乗ってしまったような焦燥感、絶望感。これまで割と楽観的な性格だったけど、人生が真っ暗になった気がした。
とりあえずささやかな抵抗としてシャンプーを変え、薬やサプリを飲み始めた。
あれ? 髪の量が今と変わらない??
つ ま り 俺 は 2 年 前 か ら す で に ハ ゲ て い た ?
しかし写真の中の男は自分が本格ハゲだとは露ほども思ってはいない。堂々と生き、人生を楽しんでいる。羨ましい。
2年前と今とで何が変わったか? 毛髪量は変わらない。世界も何も変わってはいない。
なのにいま俺が見ている世界は2年前とは一変している。
…もう後戻りができない。マジで人生どうしたら良いかわからない。
皆様、どうかハゲとして生きるための心構えを教えて下さい。
面白いなと思うのが、最近の田舎ではいわゆるエシカル的な意味合いでの都市部からの移住者も増えている地域があり、そういうのとエグザイル・フレーバー地元カルチャーでどっぷり生きる人種という二極化が進んでいる地域があったりしてなかなか面白い。
どっちが幸せかはジャッジできるものではないだろうが、若干Iターン組のエシカルさんたちが地元DQNになんとなく気を使っていたりしていて面白い。
それに比べて都市部でなにがしかの洗礼を受けたであろうUターン組はちょっとシリアスだな。何か背負ってる感じすらある。もう戻れない、という焦燥感とでもいうのか。
北関東などの首都圏へのアクセスが容易なのにも関わらず、かたくなに地元国道沿いカルチャーでどっぷり生きる若者層には、ある種のこだわりすら感じる部分もあり、時にうらやましくさえ思う時がある。
「『博士課程行くの?』と聞かれたと仮定して、絶対行かないよって決めてる人はその理由を一旦紙に書けるだけ書いてみる。そして最後に質問を『なんで修士課程行くの?』に変えて、紙をじっと見る」という遊びは危険なので、該当する人はくれぐれも院試勉強中などにやらないように
というつぶやきがあったのでやる.
行かない理由の結論としては研究するモチベーションもインセンティブもないことである.
依然として僕の価値観としては, 修士に行って博士に行かないことは妥当だと思えた.
- 本当に研究したいことなどない (解決したい問題はあるが, それは小学生が宇宙飛行士に憧れるのに似ている)
- このネタで論文をかけるかどうかしか考えていないことに嫌気がさす
- 常に研究のことが頭から離れない3年間(B4, M1, 2)につかれた
- さらに3年間は長すぎる
- 労働環境が劣悪
- とても月20万(DC1, 2, etc.)だけでやろうとは思わない
- 日本の大学機関は衰退していくであろうという僕の想像 (大学教員という職業は狭き門であるし, そもそも魅力的ではない)
- 就活でアピールできるものは「勉強頑張りました」しかなかった
- 業績を稼いでそれをアピールしようと思った
- 1 on 1で飲みに行く友人は片手で数えられる
- 彼女などいなかった
- バイトなどはしていない
- 平日は大学と家の往復
- 土日は引きこもる
業績は修士としては十分すぎるほど稼いだ.課程博士の審査基準をすでに満たしている.
業績だけみると, 僕の分野の修士では日本においてはトップレベルだと思っている.
「飯食ってくか。魚買ってくるわ」
お湯を沸かしてお茶を入れて、冷蔵庫で冷やした上で氷を入れる。近くの海でとれた魚をおろして刺身にするなりして、茗荷とすりおろした生姜と醤油に、お茶碗 1/3 くらいの白飯と香の物で食事をする。できれば、家族や来客にも、同じように質素な料理でぶっきらぼうにもてなす。
私は上場企業経営 xx 年目になるサラリーマン経営者だ。東京のど真ん中で働き、オフィスから徒歩 5 分の場所で家族と暮らしている。四半期の売上進捗が思わしくないだの、誰それが辞めると言っているだの、どこそこの部門の空気が悪いだの、どれだけ頑張っても、寝る寸前まで自分にまとわりつく焦燥感。具体的な内容を思い出せないほど数が多く、ただただそれら事実の寄せ集めが名も無き不穏となって後頭部にはりついている。
自分の人生に自分が何を求めているのか、理解できないことは不幸だ。不鮮明な希望の輪郭をなぞってみても、それが実際にどのような形をしているのか、想像も及ばない。その形に、一般的な欲望の帰結を仮説として当てはめてみたところで、違和感だけが残る。西麻布のラウンジや高級ブランド、美しい異性や異国の風景にどれだけ金銭と時間を投じても、Twitter や Instagram のキラキラアカウントのようにシンプルな幸福への最短距離を走ることができるわけではない。なんならキラキラアカウントたちも、当人の希求する毎日を、インターネットアカウントという時間軸をぶつ切りにしたパラパラ漫画のような、仮想的な人格に投影しているのだろう。
人生の幸福について考える際のパラドクスは、このタイムライン化にあると思う。冒頭の段落は、私が考える幸福を具体的なシーンとして描写したものだ。それだけ読むと、ああいいな、と共感してくれる人もいるだろう。しかし現実には、このような丁寧で質素な生活は、2, 3 日で飽きるのだろうし、日々の一瞬を、最高到達点で切り出して静止させ、その画像のような人生に満足感を得る意味はない。画像と画像の間こそ生活であり、人生だからだ。
1 日に 1 回あるかないかの一瞬のピークをパラパラ漫画化して、数万枚アップロードされた Instagram のような何かが、お前の人生だった、というのはどうも侘しいのではないか。
それでも私は、人生における幸福を画像として想像することをやめられない。その 1 秒以外の 23 時間 59 分 59 秒を無視しなければ、脳みその計算機がオーバーヒートしてしまう。どうやら私はいつまでも、自分が求める日々を理解できそうにない。
この手の書き込みどこでもよく見るけど、お前本当に労働と勉学両立したことあんのか/あったとしてそれを全員に一般化できると思ってんのか、と言いたい。
俺は、早朝コンビニでバイトしながら大学院行って資格取った身だけど、朝の勤務だけでヘロヘロだよ。その後授業受けて自習室で座ったらもう眠くて頭なんか動かない。血を吐く思いで勉強しながら、世を呪い、周囲がどんどん成績を上げていく焦燥感で燃え尽きそうになりながら、やっと合格した。
こんなこと他人に間違っても勧められないし、健全でもない。俺の場合は学部の時の蓄積があったのと、指導してくれた先生のおかげで何とかなったが、万人がそうとは思えない。
作り話は脳内だけにしとけ。
オタクやめれば彼女ができるよ! と言われて、オタクをやめたけど彼女はできなかった。
童貞卒業すれば女の良さに目覚めるよ! と言われて、ソープで何度もやってみたけど、女性に対する感覚はあまり変わらなかった。
素人童貞卒業すればセックスを好きになれるよ! と言われて、死に物狂いで彼女を作ってセックスしたけど、正直風俗嬢と大して差がなかった。
ちょっと変態っぽいプレイをすればハマるかも! と言われて、彼女の理解を得て色々と試してみたけど、「まあ、こんなもんか」と感動もない。
その彼女とは1年くらい付き合った後、自分はまだ好きだったけど、色々事情があって彼女と別れることになった。
彼女が仕事をキャリアップしたくて海外に行くのがメインの理由だったから、いちおう喧嘩別れじゃないのが唯一の救い。
別れの理由をそれ以上詳しく書くつもりはないけど、円満にお別れしたから後悔はあまりない。
でも、別れた翌々日の朝になって目覚めたら、なんか自分がニンジンを目の前に垂らされた馬車馬みたいでバカバカしくなってきた。
オタクをやめて彼女を作るのに必死になっていたときも、中毒者のように風俗に通っていたときも、別れた彼女と付き合っていたときも、
何か他人が自慢気に語る「幸せな私」みたいのに憧れつつけていただけだったんだな、と。
他人の感覚は知らないけど、彼女ができてもそんなに人生が猛烈に幸せになれたわけでもないし、
セックスはそれほど気持ちがいいものでも楽しいものでもなかった。少なくとも自分には何か特別な価値を見いだせるほどのものはなかった。
自分が何か人生に物足りなさを感じるたびに、物知り顔の人たちが「君はまだ本当の幸せを知らない」とでも言いたげな感じで
あれをすれば幸せになれる、これをすれば幸せになれる、みたいな主張をすることを真に受けて生きてきた。
はてな的に言えば、他人のマウンティングを真に受けて生きていた。人生の価値判断を他人にゆだねてきた。
プロ以外で経験人数ひとりで何言ってんだとツッコミが来ることを承知でいえば、
よく考えれば、他人が言うように「若い時は一日何回もオナニーした」というほど以前から性欲は強くなかったし、
女性に対する猛烈な性的欲求もなかった気がする。あくまで恋愛は承認欲求をベースに友達感覚の延長って感じだった。
そもそも感受性や身体感覚なんて人それぞれであって、セックスで天にも昇る心地になれる人もいれば、
自分のように「まあ、こんなものか」と大した感慨を抱かない人間もいるんだろう。
セックスが気持よくてしょうがいない人は、恋愛や性行為にのめり込むだろうし、そうでなければ淡白になる。
「君はまだ本当の愛を知らないんだよ」とかって言う人は、たぶん本気でそう言ってるんだろうけど、
それはその人と全く同じ感受性と身体感覚を兼ねそ備えてはじめて体験できる世界であって、
逆に、自分がとある分野でオタク(アニメ・マンガではない)をやっていたときの興奮は、
たぶん普通の感受性や身体感覚を持つ人には経験できないものだったのだろう。
(周りから「何がそんなに面白いの?」ってよく指摘されていたから)
どちらが正しいってことじゃない。他人は他人、自分は自分ってだけのことだ。
中年近い年齢になってやっとそんな当たり前のことに気付けた。
他人のマウンティングを真に受けて、自分はまだ本当の幸せを知らないんじゃないか、なんて自分に疑いを抱くのをやめるべきだったんだ。
人には自分の幸福を追求せざるを得ない業みたいなものがあって、それを他人に外注することはできない。
(そういう傾向が極端になれば、カルト宗教にハマったり、悪い人に貢いだりする方向へ向かうのかもしれない)
他人と同じように喜んだり楽しめないのはどうしようもない。それを前提にどうやって幸せになっていくか模索するしかない。
とりあえず童貞卒業して、恋愛をやって、それで別れて、ようやく当然の事実に気付かされたってだけの話だ。
たぶん多くの大人は社会人になる前にそういうことに気づいてる。だからみんなメンタルが強いんだろう。
つまり、ニンジンは他人からもらうんじゃなくて、自分で育てて自分で収穫するしかないんだ。
馬車馬のような人生をやめようと思ったら、不安や焦燥感、劣等感、孤独感なんかとうまく付き合っていくしかない。
これから先の人生でも幾度となくマウンティング受けていくんだろうけど、
正直もうそういう指摘をいちいち真に受けて焦ったり、したくないことしたり、苦しんだり悩んだりする必要はないんだな、って
そういう大切なことを学んだだけでも良しとしようと思う。
わたくしが、座る席の向こうに経理の女性が一人座っておりまして、それがなんとも言えぬ感じの美人であります。向かいと言いましても目隠しの、衝立のようなものが一枚ありますから顔上げれば見通せるわけではないのですが、その衝立には1cmばかりの隙間がありまして、そこからちょうど、瞳半分くらいがのぞいて見えたりします。手前どもの会社にはユニフォームというものがありませんで女性はいつもフォーマルな私服を選んで身につけてくるわけですが、わたくしはこのフォーマルな私服というものに対して、ちょっとばかり執着に近いような感情を持ち合わせていまして、まぁ要するに、その女性の出で立ちを目に焼き付けるのが日課のようなものなのです。とくにその女性は女性的な肉体を持て余すような肉欲に直結する魅力を持っているわけではありませんので、どことなく憂いを持っていながらも少女的で、満面の、笑みを見せながらも優しく抱きしめて守っていないと突風でもあれば、さらさらと吹き消されてしまいそうな危うさがあります。その割に身の丈が男性の、平均的なものより鼻から上が飛び出る程度に高いものですから、おそらくは多感な頃にそのことに思い悩んだのか、猫背で人を見下ろすようななんだかちぐはぐな姿がまた愛らしくもあります。小生はその平均よりも悲しいかな、おでこひとつ分くらい劣っているために、その女性と話をするときなんて言うのは、相手が座っていても対して目線に違いがない程度だったりもしますが、それでも普段なら雲の上にある、小動物のような愛らしい表情がぐんと身近にあるものですから、理由を作っては書類を持っていくのが日頃の楽しみでした。
一般で言えばここで女性の顔が気になるところかと思いますが、わたくしにしてみればそんな部分よりも女性の長身ながら猫背で、それでいて屈託なく笑うのに憂いを帯びている部分の、つまりは良さというのを感じてもらいたいがため、あまり掘り下げる気分でもありませんが、ひとことで言うとえくぼが似合う人懐っこそうな飾り気のない少女的魅力を持っている女性だとでもしておきましょうか。年のほどは成人してから、十分な年数を過ぎているほどだとは思いますが、メイクが薄いことも手伝ってまるで女学生とも、見えなくもない、(格好がどうしてもそれをゆるしませんが)本当に素直そうな娘ではあります。もとより痩せていたためかバストは手のひらに収まる程度の膨らみを称えるに限り、本人がそれをどう思うかは別として、わたくしにしてみれば存在を、過剰に主張するようなバストよりも、慎ましやかにシルエット称える奥ゆかしいくらいが、ある意味では物怖じしてしまうこともなく対等に向き合えるくらいかと、安心していられます。
それで話が戻るのですが、ちょうど座っている位置から、衝立の隙間を通じた部分に、その女性の首から胸にかけてを見て取ることができます。幅は、瞳半分程度ながら高さがそれなりに開いているわけなのですが、その位置が微妙に相手の視線を避けてくれるおかげで、じっくりと洋服の仕立てやその向こう側のオウトツを、観察することができるわけです。はじめに申し上げたとおり、フォーマルな私服に一方ならぬ自分なりの執着がありまして、とくにブラウスといわれるものの存在が常々わたくしの平常心をかき乱します。あの薄く風に揺れる素材の向こう側が、見えるようで見えぬ、それでいて日にすかされて眩しくきらめく姿が、かと言って背中からは無骨に下着の肩紐なんかを透けさせるような矛盾した作りが、どうしても視線をそむけさせてくれないのです。日によって丸首や襟付き、ボタン付き、白であったりブラウンであったり、胸元にインナーのTシャツが除いていたかと思えば、うっかりレース素材の花弁の一部が顔を覗かせてみたりと、別段毎日記録をつけているわけではありませんが、なかなかのバリエィションを楽しませてくれるのが、見た目奥ゆかしい女性の割にファッションへの並ならぬこだわりを持っているのではないかと疑わしいことさえ面白くも、女性の魅力を一層に引き立ててくれるのです。
それで先日、いつものようにブラウスの材質と、その下に隠れる肌着に目を細めていると、何やらちょっとした違和感がありました。ただ、衝立の隙間が細いせいか、視線はどうしても片方しか届かず、距離感というものがつかめません。やきもきしていても仕方がない、別段、いま聞く必要のない疑問と、それに関係する書類を手にすると、わたくしはその女性の元へと向かいました。衝立の上から覗き込むように、こちらの顔が見えるか見えないかのタイミングくらいから声をかけます。年頃の女性に、わたくしみたいのが突然声をかければ驚かれることも少なくないのが悲しき実体験。そんな杞憂とは別に衝立の向こうからいつものように素直そうな笑顔が顔をのぞかせるはずでした。ところがたしかにいつもの笑顔ではあるのですが、なんとも言えぬ嫌悪感がよぎりました。瞳を縁取る線の濃さ、足を湯に浸しているかのように紅潮してみえる頬、そして、脂身にでも齧りついたかのようにてかりを見せつけるリップ。その衝撃で適当に見繕った疑問は一瞬で吹き飛び、二の句も継げずにあうあうと口を動かすのに精一杯になってしまいました。そんなわたくしの態度に何かを感じ取ったのか、女性は表情を曇らせ軽くうつむいてしまう始末。ところがその視線の先に先ほどの違和感の正体が隠れていたもので、女性に慰めもごまかしもできぬまま、文字通りそこに立ち尽くしてしまいました。その正体というのも、わたくしが相対しても物怖じすることのなかった胸が、あきらかに今まで見せたことのない陰をたたえるほどに膨張していたのです。むしろ冷水を頭からかぶった気分でしたから、そこではっと我に返り、質問を忘れてしまったことを笑ってごまかしながら邪魔した非礼を詫て席を、あとにしたわけではありますが、これは結構にショッキングなできごとでありました。
昨晩に何があったのか、それとも今晩に何かあるのかわかりませんが、一体何の前触れもなく、その女性は女になってしまったわけです。はたまたなろうとしているのかもしれませんが。澄み切った小川のような清々しさと透明感でありながら踏み込めば足を取られかねない危うさとを持ち合わせた、畏怖をも感じさせる魅力をもった女性が、突然俗物に成り下がった瞬間でした。これでは、ちょっとしたつまみ食いであっても食あたりが不可避な状態です。もとよりわたくしなんかに食する機会があるわけもなかったのですが、ただそこにあるだけなのに、神のみが作り得る奇跡の美というものは、こうも簡単に汚染されてしまうものだと知りました。
その日からというもの、衝立の隙間はファイル立てやバインダーによって塞がれてしまいました。たまたまなのかもしれませんが、もしかすると、彼女もわたくしからの視線を楽しんでいたのかもしれません。だとしたらどうして俗物に成り下がる選択をしてしまったというのでしょう。わたくしが喜ぶことを望んでくれていたのでしょうか。しかしながら彼女は、その日から俗物の姿をやめることはありませんでした。わたしはただ、この世界からまた一つ、純粋なる美が消えてしまった悲しみに打ちひしがれています。悲しいかな、それが流転であり、幾度なく噛み潰してきた苦虫が教えてくれた無常なのだだと言い聞かせることしかできないのです。いまでは、彼女と相対するとき、わたくしは田んぼのカラスのような焦燥感にさいなまれています。