少なくとも、
は無い。
そもそも、まとめかたとして両者は全然違うでしょう。
物語のパターンの類型手法と、雑誌の常連バンドの総称なんだから。
単に元増田が10代の頃に聞いてた、思い入れが強いバンドに対してセカイ系の枠組みをこじつけているだけ。
実際、アジカンの後藤の日記によれば「誤読」であり、「セカイ系ちゃうわ」なわけだ。
ただの気のせい。運動と睡眠と瞑想と野菜が足りない。お大事に。
どうして、共通点があるように感じたのだろう?
結論を先に述べる。
セカイ系作品とロキノン系楽曲が共有する(と00年代に青春を過ごした者が錯覚する)感覚とは、
受け手側が感じている社会に対する抑圧的心理が、作者が提供する物語によって変化すると"信じる"感覚のことである。
「色々うまくいかないけど、アニメや音楽聞いてればなんか元気になる。そう思わないとやってらんねー。」
といった、「おさかな天国」的世界を信じることで救われようとする試みに近い。
だが、私はめんどくさくなってしまった。
この先、村上春樹的な「物語」の作用を用いて、主張を補強したかった、すなわち
「物語」には、「こちら側」と「あちら側」を越えさせる力がある、
とか、
「あちら側」とは、人間の内的世界や「井戸の底」のようなものであり、そこでは現実には起こり得ないことが起こる。
とか、
我々は「物語」というメタファーを通じて「あちら側」を経験することによって、「物語」の前後で異なる組成の人間になり得る。
とか、
そもそも、セカイ系っぽい歌詞のロキノン系において、「君」と「僕」というのは単なる主語であり、ロキノン系の歌詞では、「君」が「僕の認識・世界観」を救う構図(あるいはその逆)こそあるものの、
セカイ系サブカルチャーにおける「世界=社会の終わり」に該当するものは描写されない。
とか、
しかし、セカイ系とロキノン系はともに「物語」を通じて、「こちら側」と「あちら側」をつなげるという点において共通する感覚(≠メッセージ性)を持っており、
よりメタ的には「物語を信じる」ことによって感覚を共有している。
とか、
「信じる」とは「鬱屈、焦燥感、閉塞感」を「なんとなく」感じることによって選択される行動である。ゆえに、「退廃的な感じ」がする。
とか、
この、午前4時過ぎに「ちょっとラーメン食べにいかねえ?」とラインを飛ばしてくる留年した大学生っぽい文章から察するに、
いかにそれっぽい評論家気取り文章を読んだところで、「ありがとう、でもなんか違うんだよねーw」などと言いそうな気がしてきたので、めんどくさくなった。
っていうか、それっぽい記述をやたらと長い一文で書いているだけにしか見えなくなって、めんどくさくなった。
遅くなってすまない、元増田だ。 私の思っていたことを大体汲み取ってくれた感じの反応なので、素直に感謝する。 実際のところ、私も元増田で挙げたものについては全く別の作品で...