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はてなキーワード: 二項対立とは

2020-04-25

anond:20200423225909

抗体のありなしで就ける職が決まる

抗体ありのコーディネーターと抗体なしのナチュラル二項対立世界に向かうのか

なんか胸熱

種割れスーパースプレッダー的なwww

2020-04-14

COVID-19 ソリューション主義解決策にならない

COVID-19の疫病は特異な歴史的コンテクストに現れました。まず、グローバル資本主義自由民主主義の折り合いをつけるには他に解決策(ソリューション)がないと30年間も信じてきた後で、人類は自らに課した昏睡状態からしだいに目覚めつつあります。状況が改善するかもしれないが、急激に悪化するかもしれないという考えにもはや誰も驚きません。

他方で、これまでの4年間、ブレグジットトランプ大統領当選ジェレミー・コービンの登場と失脚――じきにバーニー・サンダースも同じ運命をたどることになりました――といった出来事からグローバル資本主義がかなりしぶといものだということが見えてきました。世界主義から排外主義へ、ネオリベラリズムから社会民主主義へ、イデオロギーがたんに変わるだけでは、社会的経済的な諸関係は変わりませんでした。資本主義の完全な作り直しという課題に直面して、かつてはあれほどラディカルに見えたイデオロギーが無力で陳腐ものであることが明らかになりました。

現在健康上の緊急事態をどう考えるべきでしょうか。COVID-19の引き起こし危機世界を変えて開放する可能性に希望を抱く人は、すぐに失望することになるかもしれません。私たちの期待が過剰だというのではありません。ユニバーサルベーシックインカムグリーンニューディール政策妥当だし、まさに必要ものです。ですが、私たちは現行のシステムのしぶとさを過小評価し、また同時に、思想が堅固な技術的・経済的インフラなしで世界を変える能力過大評価しています。そうしたインフラがあってはじめて思想作動させることができるのに。

ソリューション主義国家

ネオリベラリズム」のドグマ諸悪の根源とみなされることが多いですが、このドグマであらゆることの説明がつくわけではありません。知的には「ネオリベラリズム」には似ているものの、これとはまた別の悪について、10年ほど前から私は指摘しています。それは「ソリューション主義」といいます

このイデオロギーは、ポストイデオロギーであることを標榜しており、グローバル資本主義が生み出す問題矛盾解決しながらこれを動かし続けるために、いわゆる「実践的」な、個別対応策をまとめたものを勧めます。そして驚くべきことに、こうした対応策には美味しい利益がついてくるのです。

ソリューション主義もっと有害帰結は、スタートアップではなく私たち政府がもたらします。ソリューション主義国家とは、その前の時代監視国家人間的になりつつもより巧妙化したもので、二重の使命を帯びていますイノベーションを引き起こす人々(デベロッパーハッカー起業家)は御しがたい存在ですが、これらの人々がその能力既存リソースを〔現在グローバル資本主義とは異なる〕他の社会組織を作る実験に用いないよう、ソリューション国家は気をつけていなくてはなりません。AIクラウドコンピューティング恩恵を十全に受けたいのなら、資金的に余裕のあるスタートアップを作らなくてはいけないようになっているのは、偶然ではありません。逆にそれは意図的政治的努力の結果なのです。

その帰結。非商業的なしかたで社会を編成する制度を生み出す可能性があり、既存体制転覆するおそれのある試みは、頓挫する。そういったものは胚子の段階で殺されます。そういうわけで、ウィキペディアの流れをくむ団体はもう20年以上現れていません。とにかくデータが欲しい多国籍企業世界を完全にデジタル化してゆく時代に、国家自分の分け前を手に入れようと目論んでいます監視が完全に行き渡ったことに加えて、企業世界デジタル化してきたことで、諸国政府市場を利するかたちでソリューション主義的な数々の介入を進めることができるようになりました。

ナッジ (nudge)の技術ソリューション主義の完全な実践例です。ナッジのおかげで、問題の原因は変えないまま、取り組みやす作業の方に集中することができる。それは、個人の行動を不可変の現実(それいかに残酷現実であっても)に「合わせる」という作業です。

ソリューション主義者のみなさん! COVID-19はソリューション主義国家にとって、9/11テロ監視国家にとって持っていたのと同じ意味を持っていますしかし、ソリューション主義民主主義的な政治文化に対して示す脅威は、〔監視国家よりも〕陰険はいわないまでも、より微妙ものです。

COVID-19の危機にさいして中国韓国シンガポールがとった独裁主義的な戦略評価されました。3国ともに、市民が何をしてよいか、してはいけないか決めるために、アプリドローンセンサーの展開をトップダウンで決定しました。西洋民主主義的な資本主義擁護者を標榜する人たちは予想通り、すぐさまこれらの国を批判しました。

エリートの臆見をもっとも雄弁にうたう詩人たるユヴァル・ノアハラリがファイナンシャルタイムズコラムで表明した代替案は、シリコンバレープロパガンダマニュアルからそのまま出てきたようなもので、知識によって市民自律的にしよう! というものでした。

人道主義的なソリューション主義者はみんなに手を洗ってほしいと思っています。それがみんなにとって、社会にとってよいことだと知っているからです。中国政府暖房電気を切るぞと脅したように、みんなを力ずくで束縛するよりは、そのほうがよいと思っているのです。このような言説は、政治アプリ化〔アプリ市民監視し行動を制限する方向性〕にたどりつくだけです。手洗いの奨励をめざして作ったアプリがその人道的な見地によって報酬を受けたとしても、そうなるのです。

認知行動的な介入によって市民自律的にしようというハラリの呼びかけは結局のところ、キャス・サンティーンリチャード・セイラー代表されるようなナッジ擁護者が推奨するステップとたいして変わりません。こうして、過去数百年で最大の健康上の危機への政治的対応は、石鹸や手洗い槽の自販機というかたちで「実践的な」言説に還元されてしまます。これはサンティーンセイラーが〔共著の『ナッジ』で事例として紹介しているアムステルダム空港の小便器の形をめぐる思考〔小便器の底に蠅の絵を印刷するというナッジにより、男性利用者トイレの床を小便で汚す率が大幅に減るというもの〕の系統にある発想です。

ソリューション主義者の想像の中では、あらゆる中間団体制度は、歴史と同様、政治のシーンからほぼ消えてしまったので、他にできることはあまりないのです。ハラリやサンティーンのような人たちにとっては、世界本質的に、消費者としての市民企業政府で成り立っています労働組合アソシエーション社会運動、そして感情連帯で結びつけられたあらゆる共同的制度のことをこの人たちは忘れているのです。

知識による自律化」というお題目古典的リベラリズム根底にあるものですが、今日ではひとつのことを示しているだけです。もっとソリューション主義を、ということです。だから諸国政府は、去年私が「生存のための技術」(survival tech)と名付けたもの(つまりスペクタクル(見せ物)としての資本主義が、その主要な問題を緩和しつつ続くようにするデジタル技術の総称)に大金投資するものと予期しておかねばなりません。そうやってソリューション主義国家自分が「中国の道」は採らないことを標榜しつつ、自己正当性を強化することになります

ポストソリューション主義政治のために

この危機から脱するためには「ポストネオリベラリズム」の政治必要なだけでなく、とくに「ポストソリューション主義」の政治必要です。まず、スタートアップか、中央集権的な計画経済か、といった人為的二項対立はもうやめてもいいでしょう。この考え方は、私たち今日イノベーション社会的な協力を考える仕方を規定しています

新しい政治的議論の中心となる問題は、「社会民主主義ネオリベラリズムのどちらの勢力市場で競合する力を制御できるか?」ではなく、「社会的な協力と連帯の新しいかたちを追求するうえで、デジタル技術がもたらす巨大な機会をどの勢力が活かすことができるか?」でしょう。

ソリューション主義」とはだいたいのところ、「他に選択肢はない」(There is no alternative)というマーガレット・サッチャーの有名なスローガンを応用したものにすぎません。このようなロジック残酷実践できるものではないことを、左翼思想家は過去40年間にわたって明らかにしてきました。とはいえ、〔このサッチャー的なロジックが〕破綻していても、政治的権力を持つようになるうえで支障はなかったのです。結果的に、私たちの暮らす技術的な世界は、市場支配する世界秩序を逸脱するような試みはぜったいに制度化されることがないようにできています私たち議論輪郭〔つまり議論の組み立て方〕そのものが、そのような〔逸脱の〕可能性を排除してしまっています

COVID-19への技術的な対応策を考えるさいに直面する困難は、ポストソリューション主義的な政治方向性私たちにどれほど必要か示していますイタリアのような国では――私はローマで外出制限の3週間目に入るところです――提案されるソリューションは酷いほどに野心を欠いたものです。私生活公衆衛生あいだで妥協点をめぐって議論が繰り返されており、さらには、これはハラリが示した方向性に従うことですが(「反抗または生存」を参照)、「生存のための技術」を使ってスタートアップイノベーション引き起こしやすいようにしなくてはいけないという議論になっています

他の選択肢はどこに行ったのかという疑問が浮かぶのはもっともなことです。なぜ公衆衛生のために私生活犠牲にしなくてはならないのでしょうか。テクノロジー企業通信事業者が作った現在デジタルインフラが、それを提供する会社ビジネスモデルにかなった利益をもたらすようにできているからなのでしょうか。

現在デジタルインフラは、私たち個別消費者として識別し、ターゲティングを行うようにできています集団の行動についてマクロレベル匿名情報提供するようなインフラ実装する努力があまりされてきませんでした。なぜでしょうか。そのような〔匿名データ分析をする必要について検討した政治的プロジェクトがなかったからです。非商業的なしかたで社会を編成する形態の中でも、とりわけ〔社会主義的な意味での大規模な〕計画ネオリベラリズムが用いる手法ではなかったからです。社会民主主義を信奉する人たちのなかでも、そのような手法を用いるべきだと主張する人はいませんでした。

現在デジタルインフラは残念ながら個人が消費活動をするためのインフラであり、相互扶助連帯のためのインフラではありません。デジタルプラットフォームと同様、現在デジタルインフラは、アクティヴィズム、人の動員や協力といったさまざまな目的に使うことはできますが、そのような使い方は、たとえそう見えていなくても、高くつくことになります

ネオリベラリズム的でもなくソリューション主義的でもない社会秩序の基盤としては、これはじつに脆いです(さらにこうした基盤には、消費者スタートアップ起業家とは違う働きをする人が必ずいなくてはなりません)。アマゾンフェイスブック、あるいはあなたがお住まいの国の通信事業者提供するデジタル基盤のうえにこの新しい秩序を建てる誘惑にもからますが、そうしてもろくなことにならないでしょう。それは良くてソリューション主義者が跋扈する新しいフィールドになるか、悪くすれば、監視と抑圧に基づく全体主義的で押し付けがましい社会となるでしょう。

この危機事態権威主義的な体制よりも民主主義がうまく収拾できると熱く説く声が、左翼方面からさかんに聞こえてきます。このような呼びかけは無意味ものに終わる可能性があります現在民主主義民主主義的でない私的権力行使にとても依存しているので、名ばかりの民主主義になっているからです。これぞ「民主主義」と考えるものをほめたたえることで、潰れかかっているスタートアップの見えない持ち分を意図せずほめたたえたり、スタートアップほどには無害でなくソリューション主義国家構成するテクノクラートの持ち分をほめたたえたりすることになります

もしこの生ぬるい民主主義がCOVID-19を生き延びることができるのなら、私企業権力から完全に自由になるためにポストソリューション主義の道をまず選ばなくてはならないでしょう。そうしなければ権威主義的な体勢への道へまた踏み出すことになります。それは「民主主義価値」、「規制機序」、「人権」について、以前にもまして偽善的なエリート支配を許す道です。

エフゲニー・モロゾフ

Covid-19, le solutionnisme n’est pas la solution

*ナッジとは、「行動経済学行動科学分野において、人々が強制によってではなく自発的に望ましい行動を選択するよう促す仕掛けや手法を示す用語」(株式会社日立総合計画研究所

2020-02-11

現代になって年齢の割合が変わり、「女」と「男」の定義が変わった。だから軋轢が起こる。

価値観(言葉概念の)アップデートは、一見若い人たち向けのアップデート」に見えて

実際は「年寄りの為アップデート」に過ぎない。

言葉というのは、結局多数決で決まる。たとえ「ありがとう」という言葉が、「有難う、存在することが少ない、貴重、希少故に感謝する」

という原義があっても、100人のうち99人が「お前死ね」という意味で使えば、その言葉意味は完全にひっくり返る。

1970年代までは、「30代以下の男女」というのは全人口の50%を超えていた。

それまでの「男」や「女」というのはつまり、女だと肌が綺麗で、妊娠能力があり、艶やかで頬が赤らんでいて、血色のあり頬や肌に張りがあり、胸のしぼんでない女性。男は活発に動き、筋肉があり気力に満ち溢れ

金を沢山稼ぐ人を指していたわけだ。

そこでステレオタイプの「男」と「女」のポスターコピーライトを張ったとしよう。もちろん炎上しない。そのステレオタイプは、当たり前の女と男の形だからだ。

しか2005年を過ぎると、「30歳以下の男女」は30%未満になっている。2014年には27.6%

つまるところ、70%以上の男女……それも50、60代あたりが多い。2020年さらに減っているだろう。

現代において、「男」や「女」に定義されるのはつまり、女だとXXの染色体を持ち、(自分染色体意識することはないと思うので)若しくは女としての自認を持ち、ひょっとするとちょっと男っぽくなってるかもしれない。肌は皺があっても、妊娠能力があっても、血行が悪くても、胸がしぼんでいても女性という定義になる。そう『大多数が』思っている。

男だと、活発に動けなくても、筋肉が無く無気力でも、金を稼がなくても、働いていなくても、とりあえずXY染色体を持っていて、男としての自認があればよいと感じる。

そこに、「若い男のステレオタイプ」「若い女のステレオタイプ」を張ったとしよう。「筋肉があって元気が無くちゃ男じゃない」とか「肌が綺麗じゃないと女じゃない」とか。

大炎上するだろう。それは「若い人たち価値観」であって、「老人たちの価値観」ではないからだ。

刺激されるのは購買意欲でも、消費欲でもなく、嫉妬や妬み・怒り。

その感情は、「実際の私たち定義」によって正当化される。これこそ「ポリティカルコレクトネス」の正体ではないか

一見ポリティカルコレクトネスは「これからを担う子供たちへの優しい弱者の為の価値観」を担っているように見えるし、ともすれば「実情に見合っていない、ただの綺麗ごと」そうみなされている。

ニートが居てもいい、女っぽくなくても、男っぽくなくても、金をかさが無くても、無気力でも、不幸に片足突っ込んでぬるま湯で生きようとも

それはその人の人生で、素晴らしいモノなのだと。

でも実際は違う。つまるところ「これからにゆ強者たちによる自己肯定価値観」で、「実情に見合っている、ただの醜い現実なのだ

ふざけるな、と思う。言葉概念は、それをこれから使っていく人たちの為にあるはずなのに、ただ消費して貪っていく人たちの為に使われている。

まぁここで二項対立を作っても意味がないとは思う。憎しみを煽っても、怒りを煽っても、圧倒的に少数派である個人」は勝てない。

結局自分たちにできる事は、自分たちの生き方も正しさも、言葉定義も、自分で、自分の為に主体に決めていく事だ。

ポリコレという言い訳は優しく肩を叩くが、未来に連れて行ってはくれない。

行き過ぎた本物の個人主義が何をもたらすかはわからないけど、生きる道はそこにしかないんじゃないかと思う。

二項対立、しちゃうよね

ウヨvsサヨの罵り合いとかさ。

こういう二項対立な分かりやすすぎるラベリング蔓延して、その結果カオスになるのって、皮肉だよね。

男vs女とか、日本vs海外とか、年寄りvs若者とかも全部そう。

なんでそんなラベル貼って罵りあってんのよ?って思うっしょ皆。

もっとグラデーションになっていて、

もっと他の要素(軸)も絡まっていて。

レーダーチャートというかさ、ベクトルのように表現される筈でしょ。

かに便宜上、二項のように言うことあるよ?

でもそういう言い回しが使われ出すと、蔓延ちゃうんだよね。

いつしか多くの人が(誰もが?)、二項しかないように思い込んで。

社会全体で、そういう共通認識を育み始めるんだよね。

数字ってさ、6-7桁までしか一度に記憶できない、って言うじゃん?

概念の分類ってさ、一軸・二値でしか捉えられないんだろうね。

個人限界がその水準だとは思わないのよ。

多くの人にとって「よく考えれば」グラデーションになってる。複数軸ある。

でも、共通認識として社会が保持できる容量は、二項ラベルしかないんだろうね。

いざ議論の場において、レジスタに乗らない、って感じかな。

で、そういう社会の言説からフィードバックを受けて、自分構成ちゃうんだよね。

ウヨとサヨ、2つあるらしい。俺はウヨだ(あいつはサヨだ)。」みたいな。

から冒頭に戻って、わかり易すぎてそうなったものが、カオスな論争を生むんだね。皮肉だね。

上から目線でディスってるというより、世の欠陥というか、人の世の限界なんだろうなと。

2020-01-04

バカおしゃべりクソ野郎ちょっとした教養

僕はゲットーみたいな地域に生まれて、もちろん貧乏生活してたのでドラマに出てくる幸せ家族を見てると、これは物語に出てくるかなり作られた別のものだとずーっと思ってたし、幼稚園の集合写真は1人だけ汚い服を着て写ってるのを見るとまーまー切ない気持ちになるけど、昔の事をどうこう言っても仕方が無いので話のネタになるなーぐらいの気持ちでいる。

こんな家に生まれたのでまともな教育は受けた事がなかったし、高校は行ってたけどバカ学校最近少子化の影響で廃校になるような学校だし、肉体労働している父親背中を見てたので学校勉強大学行く意味がわからずに高校卒業して働き始めた。本当に会社で働くまでサラリーマンと呼ばれる人はどうやって金もらってるのか本当に理解出来てなかった。もちろん親に何も恨みはない。この文章漢字とか句読点かいろいろ間違ってたら無学のおかげなので重箱の隅を突かないでほしい。

からお金の掛からない遊びの一つというか悪癖で普段から雑談(ゴシップは嫌い)が止められない。友達にもおしゃべりはお金を使わない娯楽って話してるぐらいに人と話すのが苦痛ではない。とにかくおしゃべりしてる。マンション掃除のおばさんと世間話し、同じマンションに住んでる大家さんの愚痴結構聞かされその結果、自分の部屋の騒音もなぜか他の部屋がうるさい事になってた。会社掃除のおじさんにも話しちゃうし、警備員さんとも冗談言ったりするし、同じフロアの他の部署人にも話し掛けるので時々びっくりされるし、ついでに言うと今の職場は人とコミュニケーションが取れる人って条件で入社できた。

人と話すといろんな事を教えてくれる。先日も美術館で茶碗見てた時も、元々の品の無さから出てくるボキャブラリーで「やべぇ、カッコイイ」って言ってたら知らないおばさんがいちいち話してくるのでマウンティングかな?と思ったけど茶碗はなんで高いか聞いたら、古いから高いのも重要だけど、誰が持ってたか重要な要素だって教えてれた。ババアいいやつじゃんって思った。

普段物語よりもドキュメンタリーが好きなのと何か関連性というか好奇心が強いか誰も知らない事を知りたい。何でもいい。この間美容師さんが女性の前髪の切り方の話をしてくれて面白かったし、濁すけど悪い仕事してる人に警察が取り調べするときあるあるとか、先日も中古車販売してる社長ロシア中古車売るのは危険みたいな話とか、若いラッパー最近のかっこいい曲を教えてくれたし、友達会社は一部上場企業なのに殴る蹴るのブラックだとか、原発作ってたおじさんが昔は工期が長いので完成までの時間に新しい技術工事を何度もやり直すとかいろいろ教えてくれる。正直何でもいい。許されるならヤバい何かの取引現場とか見てみたい。

お金は無いけど時々金を貯めて海外に住んでた。アメリカで住んでたマンスリーアパートレビューサイト酷評されて、この地域で唯一のゲットーって悪口書かれるような所に数ヶ月居た時も、もちろん英語中学生未満で隣の怖そうな黒人ヒスパニックの2人の部屋に何度かお呼ばれして怖かったけど、なぜかおもてなししてくれたし、中学生未満英語なのにUber運転手には普段日本人シャイだけど、お前はよく喋るので面白いって褒めてもらえたし、Uber繋がりだとメキシコ運転手にもなぜかインスタグラムアカウントフォローされた。メキシコの風俗街は怖かったけど、近寄ってきたポン引きにお使い頼んだのを思い出したけど、未だにメキシコは何語かよくわかってない。一緒にアメリカ行ってた友達は、いつも僕は英語が全く話せないのに買い物行って欲しいもの買ってきて、店員冗談言ってるの面白いって笑ってた。そんな感じなので行きつけのドレッドヘアーの見た目が怖い黒人店員は、店のそばを通る時に目が合うといつも手を振ってくれて、最終日に「お前が居なくなると寂しい」とか言ってた。

最近、いろんな友達からコミュ力が異常だって言われた。謙遜とかそういう話じゃなくて本当に大したことない。好きで喋ってるだけだし、何も損得がなくてその場だけの娯楽程度だ。もちろん不愉快って思う人もたくさんいるだろうぐらいには認識してるし、僕の事を良く思ってない人が居るのも知ってるしモテない。僕のオナニー程度のおしゃべりに付き合わせてるだけで逆に申し訳ないぐらいの気持ちだ。

でも、海外は別として日本自分がそう言われるのは説明できる。

今は勤め人だけど、ちょっと前までフリーランスとして働いてたので、時間自由にあったから部屋で本を読んだり、テレビ観たり、ネットしたりしてた。余談だけど、友達貧乏で家に辞書しか無かったのでそれを読んでたら、友達漢字とか言葉に詳しくなってた。僕は昔働いてた会社の雇われ社長が本を読めって言ってたので実践した。バカから人の話ちゃんと聞いた方が絶対に良いと思ってるし、経験則だけど人の話を聞かない凡人以下は大抵破滅してる。前に読んだ本にフランス問題文化資本格差が書いてあって、貧乏の子供の自分金融資本もなければ、文化資本も無いのは人生なすぎる。

その結果友達には、

「僕の知ってる中で一番品がないけど、教養が一番ある。」

って言われた。褒められるためにやってないけど、無学の僕が褒められるとか少し嬉しかった。

前に韓国行ったとき民泊現代アートやってるおばさんにも、普段パーカーのフードを被る様なファッションなので、見た目はギャングみたいだけど話してて飽きないって言われたし、この間乗ったタクシー運転手目的地に着いたのにメーター倒しまから話を最後まで聞かせて欲しいって訳の分からない事を言い出した。

何が言いたいかと言うと、人間遺伝的に性格(性質)がある程度決まってるって話を読んだので、コミュ力が無い人はダメだなんて二項対立をしたいわけじゃなくて向き不向きだけの問題っていうか個性の違いだ。偏差値32のバカでも時間があれば本読んでるだけで人様から教養あるって褒められるし、会話すると間違いを正してくれたり、何か新しく気が付くきっかけを与えてくれる神も現れるので、コストゼロ毎日ちょっとずつ賢くなる気がする。高校生の時に底辺高校からお前はバカから学校来なくて良いって言われたけど。嫌味言われそうだから先にキャップしとくと、金は無いけど時間がたくさんあるおかげでバカでも知識付いて良かったって話をしたいだけだ。周りの友達の方が全然すごいし尊敬してる。

問題はいつもニコニコし過ぎて、子供が書くお父さんの似顔絵のようにほうれい線が同世代と比べて圧倒的に深くなってしまった事だ。

2019-11-04

anond:20191104142158

Cornellの議論は、ポルノグラフィ危害を認める一方で、ラディカル・フェミニズムの主張するような形での危害を相対化する。「さらに言えば、マッキノンによると、ポルノグラフィ男性レイプへと駆り立てることによって産業の外においても女性への直接的な暴力を引き起こす原因になるという。これから見ていくように、私はポルノグラフィの直接的効果としてレイプ輪郭づける因果モデルの適切性を疑問視する。……私は原因―結果モデル自体に関して疑問を呈したいのである。これほどまでに複雑で多層的に象徴が刻み込まれているセクシュアリティ世界でこのようなモデルを使うことは難しい。しかし、このモデルはドゥウォーキン/マッキノンの条例案の基礎として決定的な意味を持っているのである」 。実際に、McKinnonのポルノグラフィ観は、その表象性を(意図的に)無視したものであり、その点について法による規制という強力かつ一方的手段を用いることには強い疑問がある。「……しかし忘れてはならないのは、ポルノグラフィーは、「グラフィー」という接尾辞が示すように、何よりもまずひとつ表象、ひいては表現作品で……ある。人種差別と同列に語りうるのは性差別であってポルノグラフィーではない(性差別は様々な形をとりうる)。ところがマッキノンらにとっては、結局のところ、ポルノグラフィーと性差別同義語なのである彼女らが、ポルノグラフィーにおいて重要なのはそれが「する」ことであって「いう」ことではない、行為であって思想ではないと、ことさらに強調するのはそのためである。……ある表現物が「いう」ことは、なにも(一義的な)「思想」や「メッセージ」に限られるわけではない。言語というものは、自然言語であれ映像言語であれ、ある奥行きをもった立体であり、そこには多重な意味作用が畳み込まれうる……。マッキノンらの議論は、……ジョン・R・サールが「間接的言語行為」と呼んだような現象をいっさい捨象した議論である」 という批判は、言語行為の間に明確な区別を設けずに、ポルノグラフィ性差別のものであるという一種イデオロギー依存した議論に対する批判のものである

もちろん、McKinnonらの条例案は、ポルノグラフィという言葉制限的に定義することによって、そうした一般的議論ではなく、特に女性に対して酷薄もののみを定義域に含めている。しかし、それですらなお表象問題は不可避であり、言語行為限定なく同一視する立場には、疑念がある。まして、直接的効果が後年の研究によって疑問視されている状況にあって、規制根拠果たしてどこまでの力を持つといえるだろうか。仮に、McKinnonの主張がなされた当時においてそうした言語行為が一致するような時代的状況が存在したということを承認したとしても、その射程は現代日本には必ずしも及ばないだろう。つまり日本におけるポルノグラフィ製作必然的にそうした女性虐待表彰ではなく行為として含み、またそうして製作されたポルノグラフィ表象必然的に(fuckerとしての)男性レイプに至らしめ、(fuckeeとしての)女性従属化を固定化する構造を持っているということが実証的に明らかでない限り、法による規制という手段は困難であろうと考えられる。

また、Cornellの依拠するポストモダンフェミニズムは、立場としてのポストモダン主義を前提としており、そこでは、男性性/女性性といった二項対立的な概念整理はそれ自体批判対象となる。McKinnonらの議論は、女性解放というフェミニズム根底目的に対して、一定文化コードとしての女性性を再定義し書き込むものである、というのがCornellの分析である。そしてこれは、ポストモダニズムコミットするか否かというメタ的な問題を抜きにしても、汲むべきところのある議論であろう。つまりポルノグラフィ規制根拠として、加害者/fuckerとしての男性被害者/fuckeeとしての女性を暗黙裡に前提し、それを基盤として提示される議論は、必ずしも現代において盲目的に首肯されるべきものではないというところである

そもそもポルノグラフィは、男性のみによって消費されるものではない。これは、少なくとも現代日本においては議論に際して念頭に置かれてよいことであるように思われる。レディースコミックと言われるジャンルは、1980~90年代ごろから女性向けの(広義での )ポルノグラフィとして書店に並ぶこととなった。また、同人誌として、いわゆる「やおい本」や「BL」というジャンルもこの頃から一定勢力として存在していた。これらは全く女性使用し、消費することを前提に(そしてその多くは女性たちの手によって)制作されたものである。ここでは、ポルノグラフィ概念として当然に前提されていた男性消費者ということさえもが相対化されている。それは、女性性的欲望セクシュアリティがfuckeeとして規定されていたこから解放であるとも評価できるのではないだろうか。そこでは、主体として性的願望を抱く女性が前提されている。ここでは、主体-男性/客体-女性というメタ二項対立接続否定されている。これは、ポルノグラフィ危害論において、根底を掘り崩す事実であるのではないか、と考える。これに対して、メインストリーム男性製作し、男性が消費するポルノグラフィであるという反論はまた、十分に考えられる。しかし、仮にメインストリーム男性向けであって、女性けがサブストリームであるという主張を容れたとしても、なおポルノグラフィ必然的に男女を社会的構造化し、差別を直接的効果として助長し、あるいは引き起こすものであるという根本主張は、強く相対化されたものとしてとらえられなくてはならなくなるということは言ってよいように思われる。

4. 結び

前章において、ポルノグラフィの及ぼす危害について、その直接性が少なくとも現代日本においては相対化されるべきであることを示し、また、McKinnonやDworkinの議論それ自体に潜む女性性のコード化はフェミニズムの本義からしてなお批判可能性を有するものであるというポストモダンフェミニズム見解を紹介した。そのうえで、表現の自由という価値原理ポルノグラフィに対していかに向き合うべきかということを簡単に整理する。

日本において、表現の自由の価値は高く見積もられる 一方で、定義づけ衡量のもとでポルノグラフィを含む一定表現について規制肯定する。そして、ことポルノグラフィにおいてはそれが善良なる性風俗や最低限の社会道徳の維持という目的のもとに正当化されてきた歴史判例上有する。McKinnonらの議論において革新的であったのは、ポルノグラフィ規制道徳的な問題と訣別し、女性に対する危害の面から規制検討されるべきである、ということであった。この指摘は、法と道徳可能な限り切り分けようとする立場をとるならば高い妥当性を持つものであり、その危害現実的に認められる限りにおいて表現の自由に対する制約は当然に許されるものとして考えられる。しかし、この危害に関しても、「(リューベン・)オジアンの著作[ポルノグラフィーを考える(2003):筆者註]は、ポルノグラフィーに対する道徳哲学の立場からアプローチであるという点で注目に値する。彼は、ジョン・ステュアート・ミルの「危害原理harm principle」……の流れを汲む自身の「最小倫理éthique minimale」に基づいて、ポルノ規制正当化する議論……に反駁している。ポルノグラフィーがもたらすとされる「危害」について、オジアンが反ポルノフェミニストとは大きく見解を異にしていることは容易に想像できるだろう。興味ぶかいのは、オジアン同様「善」ではなく「正義」の問題として……ポルノグラフィーをとらえたはずのフェミニスト議論すらじつはある「善」概念を暗黙裡に前提していると彼が指摘している点である」 という指摘がある。つまり特定の善概念に基づいた特殊的な危害が主張されているに過ぎないのではないか、ということである。例えば、守旧派的なキリスト教における「善」の概念同性愛を悪と断じたことを考えれば、一定の善が前提されたうえで主張される危害は、相対化してとらえられるべきであろう。

こうした危害についての理解は、法規制についてネガティヴであるさらにMcKinnonらの主張には逆行することとなるが、むしろその主張における「道徳から危害へ」の転換は現在規制すら過剰なものであるという結論への親和性を有している。もちろんこれは、女性に対してポルノグラフィ制作現場において発生する暴力虐待を許容せよということを決して意味しない。むしろ、そうした事態が発生した場合に、適切に法が救済を与えることは、考えるまでもなく必要なことである。そのためにいかなる手段妥当であるかが問われるべきではないだろうか。

一部のフェミニストが主張するように、ポルノ出演や売春を含めたセックスワーカーである女性が、法規制対象となるのではなく、むしろつの職業」そのものであり、合法であるという社会的及び法的な認知必要となるのではないだろうか、と考える。それが社会的正業である認知されることは、その「職場」におけるハラスメント虐待を看過しないことにつながりうる。問題が発生した場合に、自らの「クリーンハンド」において司法の救済を要求することが可能となる。そして、そうした「解放」は男女(あるいは性的少数者性)を問わずに自らのセクシュアリティに対して真剣に向き合うことを要求する。それによって、直接的は生じないものの、間接的にあるいは無意識的に発生しうる「危害」は社会的に相対化されうるのではないだろうか。

以上のポルノグラフィ規制緩和論が、法が向き合うべき一つの筋道ではないだろうかという主張をもって、本レポートの結びとする。

参考文献

キャサリン・マッキノン,アンドレア・ドウォーキン中里見博,森田成也訳「ポルノグラフィ性差別」(青木書店, 2002)

・ドゥルシラ・コーネル仲正昌樹監訳「イマジナリー領域」(御茶の水書房, 2006)

大浦康介編「共同研究 ポルノグラフィー」(平凡社, 2011)

キャサリン・マッキノン森田成也ら訳「女の生、男の法」(岩波書店, 2011)

スーザン・J・ヘックマン著 金井淑子ら訳 ジェンダーと知 : ポストモダンフェミニズムの要素(大村書店,1995)

2019-10-30

anond:20191030184156

楽なんだよね、相手の言う言葉と反対を言えばいいわけだし。

脱構築が叫ばれて久しいわけだけど、近代において物語を生むのは二項対立、そして打破なんだよ。

夏目漱石こころも男同士の友情という一種自分他人二項対立が、一つの女性を追う事によってその壁が打破され

物語が生まれるし

ハリポタマグル人間対立物語のかなめで、最終的に協力するよね。

対立しなきゃ物語は始まらない。反対に言えば、物語を生むために安易対立するともいえるけど。

でも単なる同意ってつまらないじゃないか。その先にあるのは安定と退廃で、未来はない。

俺も何でも対立してくる人間は嫌いだが、ようはバランス大事だよね。

2019-10-25

フェミニストミュンヒハウゼン症候群一種に分類するべき

https://ja.wikipedia.org/wiki/ミュンヒハウゼン症候群

患者病気創作もしくは既に罹患している病気をことさら重症であるように誇張し、通院や入院を繰り返す。一つの病気問題解決したり、虚偽が見破られたり、小康状態に陥ると新たな病気を作り出す。重篤患者と見せかけるために自傷行為検査検体のすり替え偽装工作などを繰り返し行うことがある。

患者怪我病気という口実を利用して周囲の人間関係操作することを目的にして、同情をかったり、懸命に病気と闘っている姿をことさらアピールする。また、病気のものに関わる関わらないに関係なく独特の世界を作り上げるエピソード創作する虚言癖を伴うことが多い。患者エピソードによる病歴は多彩であり、多種多様な既往歴を話すことが多い。ただしそのエピソードや時期に関しては曖昧なことが多く、時期や内容も話す相手によって異なることが多い。

 ミュンヒハウゼン症候群詐病重症版なので、厳密にいうと違う。しかし、現代において「病気」というのはADHDASDのように弱者属性の一つとして認識されており、そこにフェミニズムを代入することは可能である

留意してほしいのは、ミュンヒハウゼン症候群は実際に病気を持っていた場合でも、そこに誇張や嘘が含まれていると診断される場合があることである

患者=フェミニスト被害者 病=女性差別 

代入してみる。

フェミニスト女性差別創作もしくは既に罹患している女性差別をことさら重症であるように誇張し、通院や入院を繰り返す。一つの女性差別問題解決したり、虚偽が見破られたり、小康状態に陥ると新たな女性差別を作り出す。重篤被害者と見せかけるために自傷行為検査検体のすり替え偽装工作などを繰り返し行うことがある。

フェミニスト怪我病気という口実を利用して周囲の人間関係操作することを目的にして、同情をかったり、懸命に女性差別と闘っている姿をことさらアピールする。また、女性差別のものに関わる関わらないに関係なく独特の世界を作り上げるエピソード創作する虚言癖を伴うことが多い。フェミニストエピソードによる女性差別は多彩であり、多種多様な既往歴を話すことが多い。ただしそのエピソードや時期に関しては曖昧なことが多く、時期や内容も話す相手によって異なることが多い。

こうすることで、具体的なエピソードが思い浮かぶだろう。代表的なのは、「子宮検索事件である

そのフェミニストはある日、「子宮検索するとエロ画像ばかり出てくる」とツイートした=誇張。そして仲間内から同情をもらうよう求めた。

しかしその虚偽が見破られ、「子宮 エロ」でセーフサーチを外さないといけない事、つまり虚偽が発覚した=偽装工作

しかし発覚後は開き直り、それは当たり前だろと言う=内容も話す相手によって異なることが多い

そしてまた新しく次々と差別ネタ投稿している。

「実際に女性被害に遭ってる」という反論をする人も居るかもしれない。

しかに、セクハラ被害、性被害を受ける人は実際に居るが、それは男女共にそうであり女性だけに限定されるものではないし、両方社会の協力の元解決される問題だ。

仮に二項対立で比べるのならば、現状男性女性を比べると、女性の方が男性より幸福であり、一方責任その他の多くが男性押し付けられていて、

フェミニスト一方的被害者意識というのは統計的には実証されていない。現状労働環境が整ってないと言われているのに、その労働に多くの男性従事していることを社会進出していると呼ばれていても、

現状は地雷原を裸で歩かされているにすぎないのである女性被害に遭っている事は、フェミニストの正しさを実証するものにはならない。

フェミニスト発言の多くが攻撃的で、合理的で無く、論理的担保を持っていない。現状に即してないものである

そればかりか、上記のような虚言、ダブルスタンダードが多くみられ、反応も病的である

フェミニスト思考病気であることを認識し、まずはその合理性論理性、統計的な正しさを検証対処していく事が大切であり、

フェミニスト自身自身の過ちに気づき精神科受診し適切なカウンセリングを受けるべきだと考える。

anond:20191025125143

そのくだらない二項対立にあてはめないと何も理解できない頭の病気は治らないの?

2019-10-09

anond:20191009150424

織り込み済みの視点を指摘してもつまらんぞ。

いろんな感想をひっくるめて「単純な二項対立の話」にしてるのはおまえだろ。

ジョーカー映画共感できると言ってる奴らが嫌い

要はあの映画は、精神障害の臭くてキモイオッサンが、自分の好きなように生きる事を決めたら

みんながそれに自分勝手に自己投影して暴れはじめたっていう救いようが無いような話だろ。

「俺はあの映画を見て、何ていうか爽快感を感じてしまったね、辛い境遇自分が最終的にあるべき自分みつけるのw」

とか言ってる奴って、なんも見えてないだろ、それ暴徒側の思考だろ?精神科医レベルに話聞いてないじゃん。

お前らはsyamuとか、性の喜びおじさんとか、岩間共感できるの?できないだろ?だから看板盗んで殴りつけたりするんだろ?

いや、お前らが共感できるのはあの看板盗んで殴りつけてた少年ぐらいじゃない?

気持ち悪いし共感できるなら、そもそもあいつらがネタになることなんてないんだよ。

youtuber目指して食レポしてたら、転載されて笑いものになって家を荒らされたsyamu。

性の喜びについて語ってたらサラリーマン3人組に襲われて殺された性の喜びおじさん。

妄想で人に何癖をつけてたら、全部自分に帰ってきた岩間

あいつらに同情はすれども、共感できないだろ?してなかっただろ?

「あれを見て共感できないとか言ってる奴は富裕層共感できる奴は貧民層」ってそんな単純な二項対立の話に見えたのか?

障害者ってキモいじゃん、ちょっと優しくしただけで妄想して部屋に入ってくるとか吐気するじゃん。

それをカッコイ中年俳優が、最高の美術音楽と共に提供たらみんな共感し始めるの、控えめに言って気持ち悪いというか、

twitter感想見ててそれが一番空しいというか怖かったわ。

別に障害者笑うのもなんも思わんし、時にはそれで社会のつながり持つ奴も居るからなんも言えねーけど

共感できるとか言ってる奴が数週間後には電車内の異常者をみて大笑いしてるのが想像できるわ。

PS:ほら、ここにも「俺は共感できるぜ!」な奴が現れてきた。

ADHDASDも、『女は弱者』という幻想も、自称政治弱者も、ちょっとおしゃれに色付けて同情の目線を増やせば

生ごみに群がるハエみたいにみんな飛びついて声高らかに周囲を攻撃し始めるんだよな。

それで現実の、いらじ見たいなガチADHDとかASDとかは片手間で叩いてるんだから笑えるよ。

弱者電車を乗り捨て乗り換え、最初から乗っていた奴らを笑って殴って帰っていく。

エリートサラリーマンみたいに銃で撃たれないといいな。

Twitterで見かける、世界観が固まって盲目になってしまった人たち

韓国批判ニキ

何かヤバイ犯罪があったり、やばい人間が居たりすると

全てを朝鮮人に置き換えて韓国批判を始める。

例)車で幼稚園に突っ込むとか韓国人だろ。韓国人は何しでかすかわからない。最近政治

フェミ

フィクションを見ると全て自分事に変換して、フェミ以外の感想が浮かばなくなる。

例)映画を見て、可哀そうだと思ったが私たちが抑圧されてるのに良く同じ行動を起こさないなと思った。

安倍ガー・トランプガー

フィクションや全く関係ないほのぼのニュースに表れて、すべてを安倍収束させる能力の持ち主。

例)こんなにこの人たちは優しいのに、安倍政治はこの逆。私たち安倍を辞めさせなきゃいけない。

④反ポリ絶対ニキ

全てを抑圧に感じて、作品を楽しめなくなった人たち。

例)マーベルは正しい人の在り方を強制されているので糞。ジョーカーや天気の子が最高!

もっと素直に世界を受け止めようぜ。二項対立思考停止の証

2019-07-19

anond:20190719115300

正直リベラル系のオタクは肩身狭い

立場のある人間発言してる時には率先して批判してたりはしてるんだが、いかんせん二項対立の極論ばっかり目立つからなぁ

2019-07-10

増田SNS構成員プロファイリングしてみた

2chねる

自称ニート、屑が多く、自己肯定感が低い。男が多い。

実際は高校生大学生フリーターと一部の社会人とおじさんで構成されている。20代後半、30代初めが多い。

2010年代あたりはニュー速VIP等にたむろする中高生が多かったが、2019年現在古参もろともその層がそのまま成長し

なんJの台頭と共にネット老人ホームと化してる。昔は男女対立嫌韓等の二項対立が激しかったが、既婚者や社会人が増え

まとめブログ事件もありその話題あんまり盛り上がらなくなった。文字間違えに優しい。

から人を叩いて自分世界ランキングを上げる事を目標としているので、謙虚陰湿

twitter

自称金持ち成功者が多く、自己肯定感か低い。男女均等。10代後半や20代が多い

高校生大学生社会人フリーター主婦等々で構成

2010年代あたりはほのぼの系の2ch的な立ち位置だったが、SNSの普及と共にニュー速VIP的な、攻撃的なネタを好む性質を帯びた。

2chの元コテハン(名前持ち)も多くおり、2chコテハン集合体様相を呈している。

自己承認欲求が強く、二項対立が激しい。文字間違えに優しい。

自分たちを正しいと思ってる2chねらーみたいなもので、世の中を叩いて自分ランキング上位を証明するのが目標傲慢陰湿

はてな匿名ダイアリ―

自称KKO、ただの一般人が多く、自己肯定感が低い。若干女が多い気がする。

大学生社会人主婦フリーター定年退職後のおじさんおばさんで構成。30代~40代が主。

上記二つと違い、本格的に人生詰んでしまった人が多く、どこか哀愁漂わせる投稿が多い。

2chねるほど承認欲求は低くは無いが、twitterほど高くはない。中途半端性格

文法文字間違えに厳しく、文学的投稿もしばしばある。

匿名の暗闇の中フェミニストや反対に女嫌い、様々な人種エンカウントしてしまい争いが絶えない。

自分ランキングを知ってしまい、その現状を肯定するのが目標傲慢陰鬱漂流地。

2019-07-01

フェミニストなんかやめて

equalistという言葉を使おうよ。

二項対立言葉の片側ばかり使うから対立生まれる。

2019-06-30

多くの社会問題事情を知れば「しょうがない」で片付けられる事である

ジプシー差別ユダヤ人差別韓国併合男女差別

大体俺らが聞くのは表面だけだから、そういう差別の話を聞くと「酷い!直さなきゃ!」って思って、外から色々言ったりする。

例えばジプシー差別ジプシー文化として家を持たず、ただそこに居るだけで迫害されているように日本では聞くけど、

実際の現地に行くとほぼヤンキーと変わらず、スリ万引き犯罪に手を染め、レイプもする。そこで反抗したり、取り締まるとそこだけトリミングされる。

ユダヤ人差別も、実際1900年代、それ以前から莫大な富を独占し、インサイダー地元企業潰し、恐慌を起こして空売りしたりして嫌われていたわけだ。

韓国併合も、実際は将来的な共栄圏の中で、西欧とは違う、ある程度のナショナリズムを残すためにハングルを見つけて普及させたり、

学校に行けない子供の為に国が予算を出して、階級制を無くして飯も行きわたらせるようにしたわけで。

男女差別も、実際は戦争仕事資本主義の面倒な部分を男に押し付けて、それによって男は地位を上げた所があって、

そういう実際の事情を知ると恐らく多くの人が「しゃーないな」で片付けられてしまうし、今までそうなってきたんだよな。

でも同時にしゃーないな、で片付けると、何もしていないジプシーやただ真っ当にやってきたユダヤ人日本ではなく一国として認めてほしい韓国人

「面倒な部分」を担当して武功を上げたい女、資本主義に潰されそうで別の道に活路を見出したい男なんかは救われないわけで

結局そうやって表面を切り取って民衆扇動する必要があるのも「しゃーないな」って思ってしまう。

その一方で「差別肯定する」一因となるような、ジプシーユダヤ人による被害者は一生救われないわけだよね。

世の中には黒人差別とか、アヘン戦争とか、先住民狩りとか、「しゃーないな」で済まされない、本人たちもやべえな、と思いつつやっちゃってるものもあるから

そういうのは潰すべきだし潰されてきたんだろうけど。

現代は誤魔化すのが上手くなったり、どっちが正義か悪かわからないものが増えて、確実に善悪判断する難易度は高くなってる。

以前のような「絶対的正義」ってのが無くなってると思うんだよね。というより、そもそもそんなものはなかったけれど。

寧ろ、アベンジャーズとか見てても「ヒドラ」とかいアメリカが恐らく正義っぽかったころの悪をずっと引きずって、

うそ状態クリストファー・ノーラン版のダークナイトみたいに「悪が居なきゃヒーローになれない、ヒーローが悪を生む」事になってしまっている。

理想は「被害者」も「加害者」も、そして「加害者の中の被害者」も救おうとする事が必要なのだけれど

「完全な被害者」でないとめんどくさいし救いたくない僕らにとって、それは無理な願いなんだよね。

国語の論説みたいに、「一人一人が意識をもって社会問題について勉強し、根本的に解決する姿勢必要だ」

なんて言うのは簡単だけどムリなわけで。物事二項対立しか見ない「正義」を偽善者として叩けば解決しそうな気もするけど、それもまた偽善者として処罰されるわけで。

トロッコ問題」で二つの選択肢、誰を殺すかってのがよく議論されるけど、実際の社会、そのトロッコは何処に向かうのではなく、環状線のように同じところをぐるぐると回ってるわけで

そのトロッコ自分を轢く前に寿命が尽きるのを願うしかない、そんな絶望的な営みの中で生かされているのだと思うとなんだか悲しくなっちゃうよね。

2019-06-17

人間論理限界二項対立

ある対象への批判問題の提起が、対立する概念への批判や提起に発展する流れに飽々する

人間論理とはこうも不自由で狭小なものなのか

女性性を批判すると、自動的に女が男性性を批判する流れが起こる

政府問題を取り上げると、やはり全自動国民側の視点で、為政者批判的な議論が展開される

この繰り返しではないか

2019-06-04

大企業を1年未満で辞め、ベンチャーに入って変わった7つのこと。

新卒で入った超大企業を1年未満で辞めてベンチャーに入り1ヶ月ほど経ったので、ざっくりと変化をまとめておく。

1. 仕事内容

・「新入社員から」という理由押し付けられる雑務(電話応対、議事録作成など)がなくなり、スキルアップに直結する仕事に集中できるようになった

仕事裁量スピード感があがった(1年も経てば中堅社員の扱いになるイメージ)

2. 出社時間

・8:45出社だったところが、11:00出社になった。朝早く起きて満員電車に揉まれ通勤シンプル苦痛だった。最近は3:00に寝て9:00に起きる生活をしているが、夜型の自分にとっては快適ですごく寝起きが良い。もちろん電車も余裕で座れる。

3. 服装

スーツから私服に変わった。スーツの縛られている感覚が大嫌いだった。あの拘束感がなくなるだけでも、のびのびと働けるようになると気づいた。そもそもエンジニアスーツ姿は大概イケてない。外にでないし。

4. 人

・「こんなおじさんになりたくない」というネガティブ気持ちが、「こんな人を目指したい」というポジティブ気持ちに変わった。死んだ目で働く大人が誰一人いなくなり、皆が楽しんで働いている。それに、自分と同年代なのに能力の高い人たちがごまんといる。

5.オフィス環境

・いわゆる「オフィス感」が薄れた結果、「社会奴隷感」も薄れた。ソファー席があったり、スタンドアップ席があったりする。なんとビールサーバーであるオフィス環境は楽しく働く上で重要な要素だと思う。

6.コミュニケーション

形式ばったコミュニケーションがなくなり、すべてがフランクになった。関係性がフラットなのはもちろんのこと、メールさえほとんど使わない。大体のことはslackで済む。

7.残業

100時間残業世界から10時間残業世界へ。11時出社なので、そもそも残業天井が低い。大体皆20時過ぎには帰る。

いいところしか書いてないので悪いところも書こうと思ったが、なかなか思いつかない。強いていえばボーナスが減るくらい。

大企業ベンチャーという二項対立で語るのが正しいのかは微妙あくま自分経験則

以上、雑にまとめたブログでした。

2019-05-16

anond:20190516182950

カラースターはさまざまな色があり多様性体現しているが

そういう現代の風潮にそぐわない、黒か白かの二項対立しか語られないのがカラス

2019-03-26

https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190325-00000047-jij-pol

麻生氏が札幌を「奥地」と表現、というが、記事にあるような引用ができないなら表現なんて成り立たない。たとえば「○○氏は女性を『産む機械』と表現されたが」という前提の上で「女性は『産む機械』ではない」という表現問題があるなら、全ての報道機関はこれを報道できない。こんなことに噛みついて、道民の票が得られると思わない方がいい。


そもそも道民北海道以外の日本のことを「内地」って呼んでんだぞ。「内地」というのは「内地本国)/外地植民地)」という二項対立で用いられる言葉だぞ。「奥地」なんてまだ本国内じゃんか。たとえ無意識であれ、道民のこの屈折した自意識理解もしないで「奥地」なんて表現に噛みつくあたり、北海道のことをほんと何も分かってないんだな。

anond:20190324040152

腐女子的なものを受け入れない空気がまだまだ支配的だった」はわかるんだが、それを「男が虐めて来ていた」という二項対立に貶めてしまうのはちょっと無理があり、それで揉める気がする。

 

10年前のネットにおいて、男のほうが数が多かったとか、男だけに権力があったとか、男は物理腕力で女をねじ伏せていたとか、そんなことは無い訳でさ。

じゃあ何が起きていたんだよ? と問うことになる。 

すると、女側の責任のほうも浮き上がってきてしまう。

腐女子的なものを忌み隠していたのはむしろ女性だったし、そのくせ女オタが少年漫画市場少年の嗜好から乖離する方向にゆがめた現実もあったし、元増田個人がクソ男の多いところに行っていたのもおそらく事実だし。

別に、だから男は悪くない、とかいう訳じゃないけど。少なくともどっちかを一方的被害者とか加害者にするのはちょっと無理だ。

  

究極は、過渡期だった、のひとことで済むとは思う。

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