はてなキーワード: 二項対立とは
COVID-19の疫病は特異な歴史的コンテクストに現れました。まず、グローバル資本主義と自由民主主義の折り合いをつけるには他に解決策(ソリューション)がないと30年間も信じてきた後で、人類は自らに課した昏睡状態からしだいに目覚めつつあります。状況が改善するかもしれないが、急激に悪化するかもしれないという考えにもはや誰も驚きません。
他方で、これまでの4年間、ブレグジット、トランプの大統領当選、ジェレミー・コービンの登場と失脚――じきにバーニー・サンダースも同じ運命をたどることになりました――といった出来事から、グローバル資本主義がかなりしぶといものだということが見えてきました。世界主義から排外主義へ、ネオリベラリズムから社会民主主義へ、イデオロギーがたんに変わるだけでは、社会的・経済的な諸関係は変わりませんでした。資本主義の完全な作り直しという課題に直面して、かつてはあれほどラディカルに見えたイデオロギーが無力で陳腐なものであることが明らかになりました。
現在の健康上の緊急事態をどう考えるべきでしょうか。COVID-19の引き起こした危機が世界を変えて開放する可能性に希望を抱く人は、すぐに失望することになるかもしれません。私たちの期待が過剰だというのではありません。ユニバーサルベーシックインカムやグリーンニューディール政策は妥当だし、まさに必要なものです。ですが、私たちは現行のシステムのしぶとさを過小評価し、また同時に、思想が堅固な技術的・経済的インフラなしで世界を変える能力を過大評価しています。そうしたインフラがあってはじめて思想を作動させることができるのに。
「ネオリベラリズム」のドグマは諸悪の根源とみなされることが多いですが、このドグマであらゆることの説明がつくわけではありません。知的には「ネオリベラリズム」には似ているものの、これとはまた別の悪について、10年ほど前から私は指摘しています。それは「ソリューション主義」といいます。
このイデオロギーは、ポスト・イデオロギー的であることを標榜しており、グローバル資本主義が生み出す問題や矛盾を解決しながらこれを動かし続けるために、いわゆる「実践的」な、個別の対応策をまとめたものを勧めます。そして驚くべきことに、こうした対応策には美味しい利益がついてくるのです。
ソリューション主義のもっとも有害な帰結は、スタートアップではなく私たちの政府がもたらします。ソリューション主義国家とは、その前の時代の監視国家が人間的になりつつもより巧妙化したもので、二重の使命を帯びています。イノベーションを引き起こす人々(デベロッパー、ハッカー、起業家)は御しがたい存在ですが、これらの人々がその能力と既存のリソースを〔現在のグローバル資本主義とは異なる〕他の社会組織を作る実験に用いないよう、ソリューション国家は気をつけていなくてはなりません。AIやクラウドコンピューティングの恩恵を十全に受けたいのなら、資金的に余裕のあるスタートアップを作らなくてはいけないようになっているのは、偶然ではありません。逆にそれは意図的な政治的努力の結果なのです。
その帰結。非商業的なしかたで社会を編成する制度を生み出す可能性があり、既存の体制を転覆するおそれのある試みは、頓挫する。そういったものは胚子の段階で殺されます。そういうわけで、ウィキペディアの流れをくむ団体はもう20年以上現れていません。とにかくデータが欲しい多国籍企業が世界を完全にデジタル化してゆく時代に、国家は自分の分け前を手に入れようと目論んでいます。監視が完全に行き渡ったことに加えて、企業が世界をデジタル化してきたことで、諸国の政府は市場を利するかたちでソリューション主義的な数々の介入を進めることができるようになりました。
ナッジ (nudge)の技術はソリューション主義の完全な実践例です。ナッジのおかげで、問題の原因は変えないまま、取り組みやすい作業の方に集中することができる。それは、個人の行動を不可変の現実(それいかに残酷な現実であっても)に「合わせる」という作業です。
ソリューション主義者のみなさん! COVID-19はソリューション主義国家にとって、9/11のテロが監視国家にとって持っていたのと同じ意味を持っています。しかし、ソリューション主義が民主主義的な政治文化に対して示す脅威は、〔監視国家よりも〕陰険とはいわないまでも、より微妙なものです。
COVID-19の危機にさいして中国、韓国、シンガポールがとった独裁主義的な戦略は評価されました。3国ともに、市民が何をしてよいか、してはいけないか決めるために、アプリ、ドローンやセンサーの展開をトップダウンで決定しました。西洋で民主主義的な資本主義の擁護者を標榜する人たちは予想通り、すぐさまこれらの国を批判しました。
エリートの臆見をもっとも雄弁にうたう詩人たるユヴァル・ノア・ハラリがファイナンシャル・タイムズのコラムで表明した代替案は、シリコンバレーのプロパガンダマニュアルからそのまま出てきたようなもので、知識によって市民を自律的にしよう! というものでした。
人道主義的なソリューション主義者はみんなに手を洗ってほしいと思っています。それがみんなにとって、社会にとってよいことだと知っているからです。中国政府が暖房や電気を切るぞと脅したように、みんなを力ずくで束縛するよりは、そのほうがよいと思っているのです。このような言説は、政治のアプリ化〔アプリで市民を監視し行動を制限する方向性〕にたどりつくだけです。手洗いの奨励をめざして作ったアプリがその人道的な見地によって報酬を受けたとしても、そうなるのです。
認知行動的な介入によって市民を自律的にしようというハラリの呼びかけは結局のところ、キャス・サンスティーンやリチャード・セイラーに代表されるようなナッジの擁護者が推奨するステップとたいして変わりません。こうして、過去数百年で最大の健康上の危機への政治的な対応は、石鹸や手洗い槽の自販機というかたちで「実践的な」言説に還元されてしまいます。これはサンスティーンとセイラーが〔共著の『ナッジ』で事例として紹介しているアムステルダム〕空港の小便器の形をめぐる思考〔小便器の底に蠅の絵を印刷するというナッジにより、男性利用者がトイレの床を小便で汚す率が大幅に減るというもの〕の系統にある発想です。
ソリューション主義者の想像の中では、あらゆる中間団体や制度は、歴史と同様、政治のシーンからほぼ消えてしまったので、他にできることはあまりないのです。ハラリやサンスティーンのような人たちにとっては、世界は本質的に、消費者としての市民、企業、政府で成り立っています。労働組合、アソシエーション、社会運動、そして感情と連帯で結びつけられたあらゆる共同的制度のことをこの人たちは忘れているのです。
「知識による自律化」というお題目は古典的なリベラリズムの根底にあるものですが、今日ではひとつのことを示しているだけです。もっとソリューション主義を、ということです。だから諸国の政府は、去年私が「生存のための技術」(survival tech)と名付けたもの(つまりスペクタクル(見せ物)としての資本主義が、その主要な問題を緩和しつつ続くようにするデジタル技術の総称)に大金を投資するものと予期しておかねばなりません。そうやってソリューション主義国家は自分が「中国の道」は採らないことを標榜しつつ、自己の正当性を強化することになります。
この危機から脱するためには「ポスト・ネオリベラリズム」の政治が必要なだけでなく、とくに「ポスト・ソリューション主義」の政治が必要です。まず、スタートアップか、中央集権的な計画経済か、といった人為的な二項対立はもうやめてもいいでしょう。この考え方は、私たちが今日、イノベーションや社会的な協力を考える仕方を規定しています。
新しい政治的議論の中心となる問題は、「社会民主主義とネオリベラリズムのどちらの勢力が市場で競合する力を制御できるか?」ではなく、「社会的な協力と連帯の新しいかたちを追求するうえで、デジタル技術がもたらす巨大な機会をどの勢力が活かすことができるか?」でしょう。
「ソリューション主義」とはだいたいのところ、「他に選択肢はない」(There is no alternative)というマーガレット・サッチャーの有名なスローガンを応用したものにすぎません。このようなロジックは残酷で実践できるものではないことを、左翼の思想家は過去40年間にわたって明らかにしてきました。とはいえ、〔このサッチャー的なロジックが〕破綻していても、政治的な権力を持つようになるうえで支障はなかったのです。結果的に、私たちの暮らす技術的な世界は、市場が支配する世界秩序を逸脱するような試みはぜったいに制度化されることがないようにできています。私たちの議論の輪郭〔つまり議論の組み立て方〕そのものが、そのような〔逸脱の〕可能性を排除してしまっています。
COVID-19への技術的な対応策を考えるさいに直面する困難は、ポスト・ソリューション主義的な政治の方向性が私たちにどれほど必要か示しています。イタリアのような国では――私はローマで外出制限の3週間目に入るところです――提案されるソリューションは酷いほどに野心を欠いたものです。私生活と公衆衛生のあいだで妥協点をめぐって議論が繰り返されており、さらには、これはハラリが示した方向性に従うことですが(「反抗または生存」を参照)、「生存のための技術」を使ってスタートアップがイノベーションを引き起こしやすいようにしなくてはいけないという議論になっています。
他の選択肢はどこに行ったのかという疑問が浮かぶのはもっともなことです。なぜ公衆衛生のために私生活を犠牲にしなくてはならないのでしょうか。テクノロジー企業や通信事業者が作った現在のデジタルインフラが、それを提供する会社のビジネスモデルにかなった利益をもたらすようにできているからなのでしょうか。
現在のデジタルインフラは、私たちを個別に消費者として識別し、ターゲティングを行うようにできています。集団の行動についてマクロなレベルで匿名の情報を提供するようなインフラを実装する努力があまりされてきませんでした。なぜでしょうか。そのような〔匿名のデータ〕分析をする必要について検討した政治的プロジェクトがなかったからです。非商業的なしかたで社会を編成する形態の中でも、とりわけ〔社会主義的な意味での大規模な〕計画はネオリベラリズムが用いる手法ではなかったからです。社会民主主義を信奉する人たちのなかでも、そのような手法を用いるべきだと主張する人はいませんでした。
現在のデジタルインフラは残念ながら個人が消費活動をするためのインフラであり、相互扶助や連帯のためのインフラではありません。デジタルプラットフォームと同様、現在のデジタルインフラは、アクティヴィズム、人の動員や協力といったさまざまな目的に使うことはできますが、そのような使い方は、たとえそう見えていなくても、高くつくことになります。
ネオリベラリズム的でもなくソリューション主義的でもない社会秩序の基盤としては、これはじつに脆いです(さらにこうした基盤には、消費者、スタートアップ、起業家とは違う働きをする人が必ずいなくてはなりません)。アマゾン、フェイスブック、あるいはあなたがお住まいの国の通信事業者が提供するデジタル基盤のうえにこの新しい秩序を建てる誘惑にもかられますが、そうしてもろくなことにならないでしょう。それは良くてソリューション主義者が跋扈する新しいフィールドになるか、悪くすれば、監視と抑圧に基づく全体主義的で押し付けがましい社会となるでしょう。
この危機的事態を権威主義的な体制よりも民主主義がうまく収拾できると熱く説く声が、左翼方面からさかんに聞こえてきます。このような呼びかけは無意味なものに終わる可能性があります。現在の民主主義は民主主義的でない私的な権力の行使にとても依存しているので、名ばかりの民主主義になっているからです。これぞ「民主主義」と考えるものをほめたたえることで、潰れかかっているスタートアップの見えない持ち分を意図せずほめたたえたり、スタートアップほどには無害でなくソリューション主義国家を構成するテクノクラートの持ち分をほめたたえたりすることになります。
もしこの生ぬるい民主主義がCOVID-19を生き延びることができるのなら、私企業の権力から完全に自由になるためにポスト・ソリューション主義の道をまず選ばなくてはならないでしょう。そうしなければ権威主義的な体勢への道へまた踏み出すことになります。それは「民主主義的価値」、「規制の機序」、「人権」について、以前にもまして偽善的なエリートの支配を許す道です。
Covid-19, le solutionnisme n’est pas la solution
*ナッジとは、「行動経済学や行動科学分野において、人々が強制によってではなく自発的に望ましい行動を選択するよう促す仕掛けや手法を示す用語」(株式会社日立総合計画研究所)
価値観(言葉・概念の)アップデートは、一見「若い人たち向けのアップデート」に見えて
言葉というのは、結局多数決で決まる。たとえ「ありがとう」という言葉が、「有難う、存在することが少ない、貴重、希少故に感謝する」
という原義があっても、100人のうち99人が「お前死ね」という意味で使えば、その言葉の意味は完全にひっくり返る。
1970年代までは、「30代以下の男女」というのは全人口の50%を超えていた。
それまでの「男」や「女」というのはつまり、女だと肌が綺麗で、妊娠能力があり、艶やかで頬が赤らんでいて、血色のあり頬や肌に張りがあり、胸のしぼんでない女性。男は活発に動き、筋肉があり気力に満ち溢れ
金を沢山稼ぐ人を指していたわけだ。
そこでステレオタイプの「男」と「女」のポスターやコピーライトを張ったとしよう。もちろん炎上しない。そのステレオタイプは、当たり前の女と男の形だからだ。
しかし2005年を過ぎると、「30歳以下の男女」は30%未満になっている。2014年には27.6%
つまるところ、70%以上の男女……それも50、60代あたりが多い。2020年はさらに減っているだろう。
現代において、「男」や「女」に定義されるのはつまり、女だとXXの染色体を持ち、(自分の染色体を意識することはないと思うので)若しくは女としての自認を持ち、ひょっとするとちょっと男っぽくなってるかもしれない。肌は皺があっても、妊娠能力があっても、血行が悪くても、胸がしぼんでいても女性という定義になる。そう『大多数が』思っている。
男だと、活発に動けなくても、筋肉が無く無気力でも、金を稼がなくても、働いていなくても、とりあえずXY染色体を持っていて、男としての自認があればよいと感じる。
そこに、「若い男のステレオタイプ」「若い女のステレオタイプ」を張ったとしよう。「筋肉があって元気が無くちゃ男じゃない」とか「肌が綺麗じゃないと女じゃない」とか。
大炎上するだろう。それは「若い人たちの価値観」であって、「老人たちの価値観」ではないからだ。
刺激されるのは購買意欲でも、消費欲でもなく、嫉妬や妬み・怒り。
その感情は、「実際の私たちの定義」によって正当化される。これこそ「ポリティカルコレクトネス」の正体ではないか。
一見ポリティカルコレクトネスは「これからを担う子供たちへの優しい弱者の為の価値観」を担っているように見えるし、ともすれば「実情に見合っていない、ただの綺麗ごと」そうみなされている。
ニートが居てもいい、女っぽくなくても、男っぽくなくても、金をかさが無くても、無気力でも、不幸に片足突っ込んでぬるま湯で生きようとも
でも実際は違う。つまるところ「これから死にゆく強者たちによる自己肯定の価値観」で、「実情に見合っている、ただの醜い現実」なのだ。
ふざけるな、と思う。言葉や概念は、それをこれから使っていく人たちの為にあるはずなのに、ただ消費して貪っていく人たちの為に使われている。
まぁここで二項対立を作っても意味がないとは思う。憎しみを煽っても、怒りを煽っても、圧倒的に少数派である「個人」は勝てない。
結局自分たちにできる事は、自分たちの生き方も正しさも、言葉の定義も、自分で、自分の為に主体に決めていく事だ。
ウヨvsサヨの罵り合いとかさ。
こういう二項対立な分かりやすすぎるラベリングが蔓延して、その結果カオスになるのって、皮肉だよね。
男vs女とか、日本vs海外とか、年寄りvs若者とかも全部そう。
なんでそんなラベル貼って罵りあってんのよ?って思うっしょ皆。
もっと他の要素(軸)も絡まっていて。
レーダーチャートというかさ、ベクトルのように表現される筈でしょ。
いつしか多くの人が(誰もが?)、二項しかないように思い込んで。
数字ってさ、6-7桁までしか一度に記憶できない、って言うじゃん?
多くの人にとって「よく考えれば」グラデーションになってる。複数軸ある。
でも、共通認識として社会が保持できる容量は、二項ラベル分しかないんだろうね。
で、そういう社会の言説からフィードバックを受けて、自分を構成しちゃうんだよね。
「ウヨとサヨ、2つあるらしい。俺はウヨだ(あいつはサヨだ)。」みたいな。
そんな二項対立の話は誰もしてない
僕はゲットーみたいな地域に生まれて、もちろん貧乏な生活してたのでドラマに出てくる幸せな家族を見てると、これは物語に出てくるかなり作られた別のものだとずーっと思ってたし、幼稚園の集合写真は1人だけ汚い服を着て写ってるのを見るとまーまー切ない気持ちになるけど、昔の事をどうこう言っても仕方が無いので話のネタになるなーぐらいの気持ちでいる。
こんな家に生まれたのでまともな教育は受けた事がなかったし、高校は行ってたけどバカな学校で最近少子化の影響で廃校になるような学校だし、肉体労働している父親の背中を見てたので学校で勉強し大学行く意味がわからずに高校卒業して働き始めた。本当に会社で働くまでサラリーマンと呼ばれる人はどうやって金もらってるのか本当に理解出来てなかった。もちろん親に何も恨みはない。この文章の漢字とか句読点とかいろいろ間違ってたら無学のおかげなので重箱の隅を突かないでほしい。
昔からお金の掛からない遊びの一つというか悪癖で普段から雑談(ゴシップは嫌い)が止められない。友達にもおしゃべりはお金を使わない娯楽って話してるぐらいに人と話すのが苦痛ではない。とにかくおしゃべりしてる。マンションの掃除のおばさんと世間話し、同じマンションに住んでる大家さんの愚痴も結構聞かされその結果、自分の部屋の騒音もなぜか他の部屋がうるさい事になってた。会社の掃除のおじさんにも話しちゃうし、警備員さんとも冗談言ったりするし、同じフロアの他の部署人にも話し掛けるので時々びっくりされるし、ついでに言うと今の職場は人とコミュニケーションが取れる人って条件で入社できた。
人と話すといろんな事を教えてくれる。先日も美術館で茶碗見てた時も、元々の品の無さから出てくるボキャブラリーで「やべぇ、カッコイイ」って言ってたら知らないおばさんがいちいち話してくるのでマウンティングかな?と思ったけど茶碗はなんで高いか聞いたら、古いから高いのも重要だけど、誰が持ってたかも重要な要素だって教えてれた。ババアいいやつじゃんって思った。
普段物語よりもドキュメンタリーが好きなのと何か関連性というか好奇心が強いから誰も知らない事を知りたい。何でもいい。この間美容師さんが女性の前髪の切り方の話をしてくれて面白かったし、濁すけど悪い仕事してる人に警察が取り調べするときのあるあるとか、先日も中古車販売してる社長はロシアに中古車売るのは危険みたいな話とか、若いラッパーは最近のかっこいい曲を教えてくれたし、友達の会社は一部上場企業なのに殴る蹴るのブラックだとか、原発作ってたおじさんが昔は工期が長いので完成までの時間に新しい技術で工事を何度もやり直すとかいろいろ教えてくれる。正直何でもいい。許されるならヤバい何かの取引現場とか見てみたい。
お金は無いけど時々金を貯めて海外に住んでた。アメリカで住んでたマンスリーのアパートはレビューサイトで酷評されて、この地域で唯一のゲットーって悪口書かれるような所に数ヶ月居た時も、もちろん英語は中学生未満で隣の怖そうな黒人とヒスパニックの2人の部屋に何度かお呼ばれして怖かったけど、なぜかおもてなししてくれたし、中学生未満英語なのにUberの運転手には普段日本人はシャイだけど、お前はよく喋るので面白いって褒めてもらえたし、Uber繋がりだとメキシコの運転手にもなぜかインスタグラムのアカウントをフォローされた。メキシコの風俗街は怖かったけど、近寄ってきたポン引きにお使い頼んだのを思い出したけど、未だにメキシコは何語かよくわかってない。一緒にアメリカ行ってた友達は、いつも僕は英語が全く話せないのに買い物行って欲しいもの買ってきて、店員に冗談言ってるの面白いって笑ってた。そんな感じなので行きつけのドレッドヘアーの見た目が怖い黒人の店員は、店のそばを通る時に目が合うといつも手を振ってくれて、最終日に「お前が居なくなると寂しい」とか言ってた。
最近、いろんな友達からコミュ力が異常だって言われた。謙遜とかそういう話じゃなくて本当に大したことない。好きで喋ってるだけだし、何も損得がなくてその場だけの娯楽程度だ。もちろん不愉快って思う人もたくさんいるだろうぐらいには認識してるし、僕の事を良く思ってない人が居るのも知ってるしモテない。僕のオナニー程度のおしゃべりに付き合わせてるだけで逆に申し訳ないぐらいの気持ちだ。
でも、海外は別として日本で自分がそう言われるのは説明できる。
今は勤め人だけど、ちょっと前までフリーランスとして働いてたので、時間が自由にあったから部屋で本を読んだり、テレビ観たり、ネットしたりしてた。余談だけど、友達も貧乏で家に辞書しか無かったのでそれを読んでたら、友達は漢字とか言葉に詳しくなってた。僕は昔働いてた会社の雇われ社長が本を読めって言ってたので実践した。バカだから人の話ちゃんと聞いた方が絶対に良いと思ってるし、経験則だけど人の話を聞かない凡人以下は大抵破滅してる。前に読んだ本にフランスの問題で文化資本の格差が書いてあって、貧乏人の子供の自分は金融資本もなければ、文化資本も無いのは人生切なすぎる。
その結果友達には、
「僕の知ってる中で一番品がないけど、教養が一番ある。」
って言われた。褒められるためにやってないけど、無学の僕が褒められるとか少し嬉しかった。
前に韓国行ったときも民泊の現代アートやってるおばさんにも、普段パーカーのフードを被る様なファッションなので、見た目はギャングみたいだけど話してて飽きないって言われたし、この間乗ったタクシーの運転手は目的地に着いたのにメーター倒しますから話を最後まで聞かせて欲しいって訳の分からない事を言い出した。
何が言いたいかと言うと、人間は遺伝的に性格(性質)がある程度決まってるって話を読んだので、コミュ力が無い人はダメだなんて二項対立をしたいわけじゃなくて向き不向きだけの問題っていうか個性の違いだ。偏差値32のバカでも時間があれば本読んでるだけで人様から教養あるって褒められるし、会話すると間違いを正してくれたり、何か新しく気が付くきっかけを与えてくれる神も現れるので、コストゼロで毎日ちょっとずつ賢くなる気がする。高校生の時に底辺の高校からお前はバカだから学校来なくて良いって言われたけど。嫌味言われそうだから先にキャップしとくと、金は無いけど時間がたくさんあるおかげでバカでも知識付いて良かったって話をしたいだけだ。周りの友達の方が全然すごいし尊敬してる。
問題点はいつもニコニコし過ぎて、子供が書くお父さんの似顔絵のようにほうれい線が同世代と比べて圧倒的に深くなってしまった事だ。
Cornellの議論は、ポルノグラフィの危害を認める一方で、ラディカル・フェミニズムの主張するような形での危害を相対化する。「さらに言えば、マッキノンによると、ポルノグラフィは男性をレイプへと駆り立てることによって産業の外においても女性への直接的な暴力を引き起こす原因になるという。これから見ていくように、私はポルノグラフィの直接的効果としてレイプを輪郭づける因果モデルの適切性を疑問視する。……私は原因―結果モデル自体に関して疑問を呈したいのである。これほどまでに複雑で多層的に象徴が刻み込まれているセクシュアリティの世界でこのようなモデルを使うことは難しい。しかし、このモデルはドゥウォーキン/マッキノンの条例案の基礎として決定的な意味を持っているのである」 。実際に、McKinnonのポルノグラフィ観は、その表象性を(意図的に)無視したものであり、その点について法による規制という強力かつ一方的な手段を用いることには強い疑問がある。「……しかし忘れてはならないのは、ポルノグラフィーは、「グラフィー」という接尾辞が示すように、何よりもまずひとつの表象、ひいては表現作品で……ある。人種差別と同列に語りうるのは性差別であってポルノグラフィーではない(性差別は様々な形をとりうる)。ところがマッキノンらにとっては、結局のところ、ポルノグラフィーと性差別は同義語なのである。彼女らが、ポルノグラフィーにおいて重要なのはそれが「する」ことであって「いう」ことではない、行為であって思想ではないと、ことさらに強調するのはそのためである。……ある表現物が「いう」ことは、なにも(一義的な)「思想」や「メッセージ」に限られるわけではない。言語というものは、自然言語であれ映像言語であれ、ある奥行きをもった立体であり、そこには多重な意味作用が畳み込まれうる……。マッキノンらの議論は、……ジョン・R・サールが「間接的言語行為」と呼んだような現象をいっさい捨象した議論である」 という批判は、言語と行為の間に明確な区別を設けずに、ポルノグラフィが性差別そのものであるという一種のイデオロギーに依存した議論に対する批判そのものである。
もちろん、McKinnonらの条例案は、ポルノグラフィという言葉を制限的に定義することによって、そうした一般的な議論ではなく、特に女性に対して酷薄なもののみを定義域に含めている。しかし、それですらなお表象の問題は不可避であり、言語と行為を限定なく同一視する立場には、疑念がある。まして、直接的効果が後年の研究によって疑問視されている状況にあって、規制の根拠は果たしてどこまでの力を持つといえるだろうか。仮に、McKinnonの主張がなされた当時においてそうした言語と行為が一致するような時代的状況が存在したということを承認したとしても、その射程は現代日本には必ずしも及ばないだろう。つまり、日本におけるポルノグラフィの製作が必然的にそうした女性虐待を表彰ではなく行為として含み、またそうして製作されたポルノグラフィの表象が必然的に(fuckerとしての)男性をレイプに至らしめ、(fuckeeとしての)女性の従属化を固定化する構造を持っているということが実証的に明らかでない限り、法による規制という手段は困難であろうと考えられる。
また、Cornellの依拠するポストモダン・フェミニズムは、立場としてのポストモダン主義を前提としており、そこでは、男性性/女性性といった二項対立的な概念整理はそれ自体批判の対象となる。McKinnonらの議論は、女性解放というフェミニズムの根底的目的に対して、一定の文化コードとしての女性性を再定義し書き込むものである、というのがCornellの分析である。そしてこれは、ポストモダニズムにコミットするか否かというメタ的な問題を抜きにしても、汲むべきところのある議論であろう。つまり、ポルノグラフィの規制根拠として、加害者/fuckerとしての男性と被害者/fuckeeとしての女性を暗黙裡に前提し、それを基盤として提示される議論は、必ずしも現代において盲目的に首肯されるべきものではないというところである。
そもそも、ポルノグラフィは、男性のみによって消費されるものではない。これは、少なくとも現代日本においては議論に際して念頭に置かれてよいことであるように思われる。レディースコミックと言われるジャンルは、1980~90年代ごろから、女性向けの(広義での )ポルノグラフィとして書店に並ぶこととなった。また、同人誌として、いわゆる「やおい本」や「BL」というジャンルもこの頃から一定の勢力として存在していた。これらは全く女性が使用し、消費することを前提に(そしてその多くは女性たちの手によって)制作されたものである。ここでは、ポルノグラフィの概念として当然に前提されていた男性消費者ということさえもが相対化されている。それは、女性の性的欲望、セクシュアリティがfuckeeとして規定されていたことからの解放であるとも評価できるのではないだろうか。そこでは、主体として性的願望を抱く女性が前提されている。ここでは、主体-男性/客体-女性というメタな二項対立の接続が否定されている。これは、ポルノグラフィ危害論において、根底を掘り崩す事実であるのではないか、と考える。これに対して、メインストリームは男性が製作し、男性が消費するポルノグラフィであるという反論はまた、十分に考えられる。しかし、仮にメインストリームは男性向けであって、女性向けがサブストリームであるという主張を容れたとしても、なおポルノグラフィが必然的に男女を社会的に構造化し、差別を直接的効果として助長し、あるいは引き起こすものであるという根本主張は、強く相対化されたものとしてとらえられなくてはならなくなるということは言ってよいように思われる。
4. 結び
前章において、ポルノグラフィの及ぼす危害について、その直接性が少なくとも現代日本においては相対化されるべきであることを示し、また、McKinnonやDworkinの議論それ自体に潜む女性性のコード化はフェミニズムの本義からしてなお批判可能性を有するものであるというポストモダン的フェミニズムの見解を紹介した。そのうえで、表現の自由という価値原理はポルノグラフィに対していかに向き合うべきかということを簡単に整理する。
日本において、表現の自由の価値は高く見積もられる 一方で、定義づけ衡量のもとでポルノグラフィを含む一定の表現について規制を肯定する。そして、ことポルノグラフィにおいてはそれが善良なる性風俗や最低限の社会道徳の維持という目的のもとに正当化されてきた歴史を判例上有する。McKinnonらの議論において革新的であったのは、ポルノグラフィの規制は道徳的な問題と訣別し、女性に対する危害の面から規制を検討されるべきである、ということであった。この指摘は、法と道徳を可能な限り切り分けようとする立場をとるならば高い妥当性を持つものであり、その危害が現実的に認められる限りにおいて表現の自由に対する制約は当然に許されるものとして考えられる。しかし、この危害に関しても、「(リューベン・)オジアンの著作[ポルノグラフィーを考える(2003):筆者註]は、ポルノグラフィーに対する道徳哲学の立場からのアプローチであるという点で注目に値する。彼は、ジョン・ステュアート・ミルの「危害原理harm principle」……の流れを汲む自身の「最小倫理éthique minimale」に基づいて、ポルノ規制を正当化する議論……に反駁している。ポルノグラフィーがもたらすとされる「危害」について、オジアンが反ポルノ派フェミニストとは大きく見解を異にしていることは容易に想像できるだろう。興味ぶかいのは、オジアン同様「善」ではなく「正義」の問題として……ポルノグラフィーをとらえたはずのフェミニストの議論すらじつはある「善」概念を暗黙裡に前提していると彼が指摘している点である」 という指摘がある。つまり、特定の善概念に基づいた特殊的な危害が主張されているに過ぎないのではないか、ということである。例えば、守旧派的なキリスト教における「善」の概念が同性愛を悪と断じたことを考えれば、一定の善が前提されたうえで主張される危害は、相対化してとらえられるべきであろう。
こうした危害についての理解は、法規制についてネガティヴである。さらにMcKinnonらの主張には逆行することとなるが、むしろその主張における「道徳から危害へ」の転換は現在の規制すら過剰なものであるという結論への親和性を有している。もちろんこれは、女性に対してポルノグラフィ制作現場において発生する暴力や虐待を許容せよということを決して意味しない。むしろ、そうした事態が発生した場合に、適切に法が救済を与えることは、考えるまでもなく必要なことである。そのためにいかなる手段が妥当であるかが問われるべきではないだろうか。
一部のフェミニストが主張するように、ポルノ出演や売春を含めたセックスワーカーである女性が、法規制の対象となるのではなく、むしろ一つの「職業」そのものであり、合法であるという社会的及び法的な認知が必要となるのではないだろうか、と考える。それが社会的に正業であると認知されることは、その「職場」におけるハラスメントや虐待を看過しないことにつながりうる。問題が発生した場合に、自らの「クリーン・ハンド」において司法の救済を要求することが可能となる。そして、そうした「解放」は男女(あるいは性的少数者性)を問わずに自らのセクシュアリティに対して真剣に向き合うことを要求する。それによって、直接的は生じないものの、間接的にあるいは無意識的に発生しうる「危害」は社会的に相対化されうるのではないだろうか。
以上のポルノグラフィ規制緩和論が、法が向き合うべき一つの筋道ではないだろうかという主張をもって、本レポートの結びとする。
参考文献
・キャサリン・マッキノン,アンドレア・ドウォーキン著 中里見博,森田成也訳「ポルノグラフィと性差別」(青木書店, 2002)
・ドゥルシラ・コーネル著 仲正昌樹監訳「イマジナリーな領域」(御茶の水書房, 2006)
・大浦康介編「共同研究 ポルノグラフィー」(平凡社, 2011)
・キャサリン・マッキノン著 森田成也ら訳「女の生、男の法」(岩波書店, 2011)
https://ja.wikipedia.org/wiki/ミュンヒハウゼン症候群
>患者は病気を創作もしくは既に罹患している病気をことさらに重症であるように誇張し、通院や入院を繰り返す。一つの病気の問題が解決したり、虚偽が見破られたり、小康状態に陥ると新たな病気を作り出す。重篤な患者と見せかけるために自傷行為や検査検体のすり替え、偽装工作などを繰り返し行うことがある。
>患者は怪我や病気という口実を利用して周囲の人間関係を操作することを目的にして、同情をかったり、懸命に病気と闘っている姿をことさらにアピールする。また、病気そのものに関わる関わらないに関係なく独特の世界を作り上げるエピソードを創作する虚言癖を伴うことが多い。患者のエピソードによる病歴は多彩であり、多種多様な既往歴を話すことが多い。ただしそのエピソードや時期に関しては曖昧なことが多く、時期や内容も話す相手によって異なることが多い。
ミュンヒハウゼン症候群は詐病の重症版なので、厳密にいうと違う。しかし、現代において「病気」というのはADHDやASDのように弱者属性の一つとして認識されており、そこにフェミニズムを代入することは可能である。
留意してほしいのは、ミュンヒハウゼン症候群は実際に病気を持っていた場合でも、そこに誇張や嘘が含まれていると診断される場合があることである。
代入してみる。
・フェミニストは女性差別を創作もしくは既に罹患している女性差別をことさらに重症であるように誇張し、通院や入院を繰り返す。一つの女性差別の問題が解決したり、虚偽が見破られたり、小康状態に陥ると新たな女性差別を作り出す。重篤な被害者と見せかけるために自傷行為や検査検体のすり替え、偽装工作などを繰り返し行うことがある。
・フェミニストは怪我や病気という口実を利用して周囲の人間関係を操作することを目的にして、同情をかったり、懸命に女性差別と闘っている姿をことさらにアピールする。また、女性差別そのものに関わる関わらないに関係なく独特の世界を作り上げるエピソードを創作する虚言癖を伴うことが多い。フェミニストのエピソードによる女性差別は多彩であり、多種多様な既往歴を話すことが多い。ただしそのエピソードや時期に関しては曖昧なことが多く、時期や内容も話す相手によって異なることが多い。
こうすることで、具体的なエピソードが思い浮かぶだろう。代表的なのは、「子宮検索事件」である。
そのフェミニストはある日、「子宮で検索するとエロ画像ばかり出てくる」とツイートした=誇張。そして仲間内から同情をもらうよう求めた。
しかしその虚偽が見破られ、「子宮 エロ」でセーフサーチを外さないといけない事、つまり虚偽が発覚した=偽装工作
しかし発覚後は開き直り、それは当たり前だろと言う=内容も話す相手によって異なることが多い
「実際に女性が被害に遭ってる」という反論をする人も居るかもしれない。
たしかに、セクハラの被害、性被害を受ける人は実際に居るが、それは男女共にそうであり女性だけに限定されるものではないし、両方社会の協力の元解決される問題だ。
仮に二項対立で比べるのならば、現状男性と女性を比べると、女性の方が男性より幸福であり、一方責任その他の多くが男性に押し付けられていて、
フェミニストの一方的な被害者意識というのは統計的には実証されていない。現状労働環境が整ってないと言われているのに、その労働に多くの男性が従事していることを社会進出していると呼ばれていても、
現状は地雷原を裸で歩かされているにすぎないのである。女性が被害に遭っている事は、フェミニストの正しさを実証するものにはならない。
フェミニストの発言の多くが攻撃的で、合理的で無く、論理的な担保を持っていない。現状に即してないものである。
そればかりか、上記のような虚言、ダブルスタンダードが多くみられ、反応も病的である。
フェミニストの思考は病気であることを認識し、まずはその合理性、論理性、統計的な正しさを検証し対処していく事が大切であり、
要はあの映画は、精神障害の臭くてキモイオッサンが、自分の好きなように生きる事を決めたら
みんながそれに自分勝手に自己投影して暴れはじめたっていう救いようが無いような話だろ。
「俺はあの映画を見て、何ていうか爽快感を感じてしまったね、辛い境遇の自分が最終的にあるべき自分みつけるのw」
とか言ってる奴って、なんも見えてないだろ、それ暴徒側の思考だろ?精神科医レベルに話聞いてないじゃん。
お前らはsyamuとか、性の喜びおじさんとか、岩間に共感できるの?できないだろ?だから看板盗んで殴りつけたりするんだろ?
いや、お前らが共感できるのはあの看板盗んで殴りつけてた少年ぐらいじゃない?
気持ち悪いし共感できるなら、そもそもあいつらがネタになることなんてないんだよ。
youtuber目指して食レポしてたら、転載されて笑いものになって家を荒らされたsyamu。
性の喜びについて語ってたらサラリーマン3人組に襲われて殺された性の喜びおじさん。
あいつらに同情はすれども、共感できないだろ?してなかっただろ?
「あれを見て共感できないとか言ってる奴は富裕層、共感できる奴は貧民層」ってそんな単純な二項対立の話に見えたのか?
障害者ってキモいじゃん、ちょっと優しくしただけで妄想して部屋に入ってくるとか吐気するじゃん。
それをカッコイイ中年俳優が、最高の美術と音楽と共に提供したらみんな共感し始めるの、控えめに言って気持ち悪いというか、
twitterの感想見ててそれが一番空しいというか怖かったわ。
別に障害者笑うのもなんも思わんし、時にはそれで社会のつながり持つ奴も居るからなんも言えねーけど
共感できるとか言ってる奴が数週間後には電車内の異常者をみて大笑いしてるのが想像できるわ。
PS:ほら、ここにも「俺は共感できるぜ!」な奴が現れてきた。
ADHDもASDも、『女は弱者』という幻想も、自称政治弱者も、ちょっとおしゃれに色付けて同情の目線を増やせば
生ごみに群がるハエみたいにみんな飛びついて声高らかに周囲を攻撃し始めるんだよな。
それで現実の、いらじ見たいなガチADHDとかASDとかは片手間で叩いてるんだから笑えるよ。
①韓国批判ニキ
例)車で幼稚園に突っ込むとか韓国人だろ。韓国人は何しでかすかわからない。最近の政治~
②フェミ婆
フィクションを見ると全て自分事に変換して、フェミ以外の感想が浮かばなくなる。
例)映画を見て、可哀そうだと思ったが私たちが抑圧されてるのに良く同じ行動を起こさないなと思った。
フィクションや全く関係ないほのぼのニュースに表れて、すべてを安倍に収束させる能力の持ち主。
例)こんなにこの人たちは優しいのに、安倍政治はこの逆。私たちは安倍を辞めさせなきゃいけない。
④反ポリ絶対ニキ
全てを抑圧に感じて、作品を楽しめなくなった人たち。
・2chねる
実際は高校生、大学生、フリーターと一部の社会人とおじさんで構成されている。20代後半、30代初めが多い。
2010年代あたりはニュー速・VIP等にたむろする中高生が多かったが、2019年現在は古参もろともその層がそのまま成長し
なんJの台頭と共にネット界老人ホームと化してる。昔は男女対立、嫌韓等の二項対立が激しかったが、既婚者や社会人が増え
まとめブログ事件もありその話題はあんまり盛り上がらなくなった。文字間違えに優しい。
下から人を叩いて自分の世界ランキングを上げる事を目標としているので、謙虚で陰湿。
自称金持ち、成功者が多く、自己肯定感か低い。男女均等。10代後半や20代が多い
2010年代あたりはほのぼの系の2ch的な立ち位置だったが、SNSの普及と共にニュー速・VIP的な、攻撃的なネタを好む性質を帯びた。
2chの元コテハン(名前持ち)も多くおり、2chのコテハンの集合体の様相を呈している。
自分たちを正しいと思ってる2chねらーみたいなもので、世の中を叩いて自分のランキング上位を証明するのが目標。傲慢で陰湿。
自称KKO、ただの一般人が多く、自己肯定感が低い。若干女が多い気がする。
大学生、社会人、主婦、フリーター、定年退職後のおじさんおばさんで構成。30代~40代が主。
上記二つと違い、本格的に人生詰んでしまった人が多く、どこか哀愁漂わせる投稿が多い。
2chねるほど承認欲求は低くは無いが、twitterほど高くはない。中途半端な性格。
大体俺らが聞くのは表面だけだから、そういう差別の話を聞くと「酷い!直さなきゃ!」って思って、外から色々言ったりする。
例えばジプシー差別、ジプシーは文化として家を持たず、ただそこに居るだけで迫害されているように日本では聞くけど、
実際の現地に行くとほぼヤンキーと変わらず、スリや万引きの犯罪に手を染め、レイプもする。そこで反抗したり、取り締まるとそこだけトリミングされる。
ユダヤ人差別も、実際1900年代、それ以前から莫大な富を独占し、インサイダーや地元企業潰し、恐慌を起こして空売りしたりして嫌われていたわけだ。
韓国併合も、実際は将来的な共栄圏の中で、西欧とは違う、ある程度のナショナリズムを残すためにハングルを見つけて普及させたり、
学校に行けない子供の為に国が予算を出して、階級制を無くして飯も行きわたらせるようにしたわけで。
男女差別も、実際は戦争や仕事、資本主義の面倒な部分を男に押し付けて、それによって男は地位を上げた所があって、
そういう実際の事情を知ると恐らく多くの人が「しゃーないな」で片付けられてしまうし、今までそうなってきたんだよな。
でも同時にしゃーないな、で片付けると、何もしていないジプシーやただ真っ当にやってきたユダヤ人、日本ではなく一国として認めてほしい韓国人、
「面倒な部分」を担当して武功を上げたい女、資本主義に潰されそうで別の道に活路を見出したい男なんかは救われないわけで
結局そうやって表面を切り取って民衆を扇動する必要があるのも「しゃーないな」って思ってしまう。
その一方で「差別を肯定する」一因となるような、ジプシーやユダヤ人による被害者は一生救われないわけだよね。
世の中には黒人差別とか、アヘン戦争とか、先住民狩りとか、「しゃーないな」で済まされない、本人たちもやべえな、と思いつつやっちゃってるものもあるから、
そういうのは潰すべきだし潰されてきたんだろうけど。
現代は誤魔化すのが上手くなったり、どっちが正義か悪かわからないものが増えて、確実に善悪を判断する難易度は高くなってる。
以前のような「絶対的な正義」ってのが無くなってると思うんだよね。というより、そもそもそんなものはなかったけれど。
寧ろ、アベンジャーズとか見てても「ヒドラ」とかいうアメリカが恐らく正義っぽかったころの悪をずっと引きずって、
もうその状態がクリストファー・ノーラン版のダークナイトみたいに「悪が居なきゃヒーローになれない、ヒーローが悪を生む」事になってしまっている。
理想は「被害者」も「加害者」も、そして「加害者の中の被害者」も救おうとする事が必要なのだけれど
「完全な被害者」でないとめんどくさいし救いたくない僕らにとって、それは無理な願いなんだよね。
国語の論説みたいに、「一人一人が意識をもって社会問題について勉強し、根本的に解決する姿勢が必要だ」
なんて言うのは簡単だけどムリなわけで。物事を二項対立にしか見ない「正義」を偽善者として叩けば解決しそうな気もするけど、それもまた偽善者として処罰されるわけで。
「トロッコ問題」で二つの選択肢、誰を殺すかってのがよく議論されるけど、実際の社会、そのトロッコは何処に向かうのではなく、環状線のように同じところをぐるぐると回ってるわけで
そのトロッコが自分を轢く前に寿命が尽きるのを願うしかない、そんな絶望的な営みの中で生かされているのだと思うとなんだか悲しくなっちゃうよね。
新卒で入った超大企業を1年未満で辞めてベンチャーに入り1ヶ月ほど経ったので、ざっくりと変化をまとめておく。
・「新入社員だから」という理由で押し付けられる雑務(電話応対、議事録作成など)がなくなり、スキルアップに直結する仕事に集中できるようになった
・仕事の裁量・スピード感があがった(1年も経てば中堅社員の扱いになるイメージ)
・8:45出社だったところが、11:00出社になった。朝早く起きて満員電車に揉まれる通勤はシンプルに苦痛だった。最近は3:00に寝て9:00に起きる生活をしているが、夜型の自分にとっては快適ですごく寝起きが良い。もちろん電車も余裕で座れる。
・スーツから私服に変わった。スーツの縛られている感覚が大嫌いだった。あの拘束感がなくなるだけでも、のびのびと働けるようになると気づいた。そもそもエンジニアのスーツ姿は大概イケてない。外にでないし。
・「こんなおじさんになりたくない」というネガティブな気持ちが、「こんな人を目指したい」というポジティブな気持ちに変わった。死んだ目で働く大人が誰一人いなくなり、皆が楽しんで働いている。それに、自分と同年代なのに能力の高い人たちがごまんといる。
・いわゆる「オフィス感」が薄れた結果、「社会の奴隷感」も薄れた。ソファー席があったり、スタンドアップ席があったりする。なんとビールサーバーまである。オフィスの環境は楽しく働く上で重要な要素だと思う。
・形式ばったコミュニケーションがなくなり、すべてがフランクになった。関係性がフラットなのはもちろんのこと、メールさえほとんど使わない。大体のことはslackで済む。
・100時間残業の世界から10時間残業の世界へ。11時出社なので、そもそも残業の天井が低い。大体皆20時過ぎには帰る。
いいところしか書いてないので悪いところも書こうと思ったが、なかなか思いつかない。強いていえばボーナスが減るくらい。
大企業とベンチャーという二項対立で語るのが正しいのかは微妙。あくまで自分の経験則。
以上、雑にまとめたブログでした。
麻生氏が札幌を「奥地」と表現、というが、記事にあるような引用ができないなら表現なんて成り立たない。たとえば「○○氏は女性を『産む機械』と表現されたが」という前提の上で「女性は『産む機械』ではない」という表現に問題があるなら、全ての報道機関はこれを報道できない。こんなことに噛みついて、道民の票が得られると思わない方がいい。
そもそも、道民は北海道以外の日本のことを「内地」って呼んでんだぞ。「内地」というのは「内地(本国)/外地(植民地)」という二項対立で用いられる言葉だぞ。「奥地」なんてまだ本国内じゃんか。たとえ無意識であれ、道民のこの屈折した自意識を理解もしないで「奥地」なんて表現に噛みつくあたり、北海道のことをほんと何も分かってないんだな。
「腐女子的なものを受け入れない空気がまだまだ支配的だった」はわかるんだが、それを「男が虐めて来ていた」という二項対立に貶めてしまうのはちょっと無理があり、それで揉める気がする。
10年前のネットにおいて、男のほうが数が多かったとか、男だけに権力があったとか、男は物理的腕力で女をねじ伏せていたとか、そんなことは無い訳でさ。
じゃあ何が起きていたんだよ? と問うことになる。
腐女子的なものを忌み隠していたのはむしろ女性だったし、そのくせ女オタが少年漫画の市場を少年の嗜好から乖離する方向にゆがめた現実もあったし、元増田個人がクソ男の多いところに行っていたのもおそらく事実だし。
別に、だから男は悪くない、とかいう訳じゃないけど。少なくともどっちかを一方的な被害者とか加害者にするのはちょっと無理だ。
究極は、過渡期だった、のひとことで済むとは思う。