はてなキーワード: 二項対立とは
『ブロックされてる自慢』
まず1つはこれで確定だろう。
ブロックされてるとは結局の所、「俺はヤバイやつとして扱われている」ということを自慢してるわけだ。
そして得てして「キチガイにヤバイやつとして扱われるということは、逆に俺はちゃんとした人間ということだ。なぜなら黒の反対は白だから」という意味不明なロジックに基づいている。
言うまでもないが世の中というのは綺麗に2色で分けられるはずがない。
それなのに彼らは世界が二項対立の図式を取っていて、自分たちが善の側にいると思いこんでいる。
イカれた右翼が左翼を嘲笑いながら、自分たちこそが絶対的正義だと感じ、同じことを左翼でもやっている奴がいて、じゃあどっちが正しいかというとどっちもが了見が狭いだけというオチになるというあの現象だ。
ネットでは『キチガイ自慢』文化が根付いていて、自分が如何におかしいことをしているかを語って承認欲求を満たそうとするろくでなしが多くいる。
これも当然頭がイカれてはいるのだが、彼らは自分の言動がイカれているという事自体は自覚している(自覚していないのは、キチガイのフリをする時点でキチガイの一種であるという事の方だ)
『ブロックされている自慢』の凄い所は、そういった異常性アピールをする連中とは違って自分たちを正常だと思っている部分にある。
幼稚な二項対立概念を振りかざし、他者を踏みつけにすることで自分の正しさをアピールするようなチンケな生き様の中に自分の正常さの証明を見出しているのだ。
だけどやっぱり男の子のくせに、女の子のアニメ見るのはオカシイって勝手に自制してた。
親は別に禁止してなかったけど、なんとなく「らしく」振舞わないといけない気がしして。
おじさんになって好きなだけアニメが見られるようになったら、無事「女児アニメ視聴おじさん」になった。
プリキュアはデザインが良いんだけど、善悪の二項対立とフィジカル寄りなバトル要素は胃もたれしちゃう。
だから、まったりプリ☆チャンを見ている。みんななかよし、みんな楽しい! そんな優しい世界が疲れたおじさんにすーッと染みていくんだよね。
こういうおじさんになってはいけない。そのためには、小さいうちに男子向けだろうが女児向けだろうが見たいものを見ておいたほうがいいよ。
https://b.hatena.ne.jp/entry/4695336495910429090/comment/naga_yamas
か
のどっちかだと思うんだけど、めちゃくちゃムカつく。なんで自分は動物じゃないとナチュラルに思っちゃってんだ?????
自分はいわゆる動物園みたいな荒れた公立中学で楽しく過ごしてた側なんだけど、人間様からしたら野蛮な動物なんですかね。その線、どこで引いてんの?中学時代の偏差値?現在の年収?社会的ステータス?
人間様の世界では「高級な人間」と「底辺の動物」の二種類なのかもしらんが、こちとら動物だって普段は人間様に混じって働いて収入得ておまんま食って何食わぬ顔して人間様とビジネスの話したり談笑して過ごしてるわけ
動物の俺は千代田区のど真ん中でウンコ座りして呟くんすわ it's a true world. 狂ってる?それ褒め言葉ね
「公立中学も荒れた所ばかりじゃない、まともな学校もある」みたいなフォロー?もあるけど完全に的外れ
それは線引きを変えただけじゃん まともな公立中学に通ってたヤツらは人間様で、荒れた公立中学にいたのは動物だってか??
「おまえは動物じゃない」みたいに言われてもそれは違うからね 俺は"動物園"が肌に合ってたから動物なの。
まあ人間様はご自由に高尚な生活を送られればいいんじゃないですかね。我々動物には触らないでくださいねペッペッ
>> そこで何人もの人間の人生ぶっ壊したあとに食う飯は旨いか? <<
いや何で俺が何人もの人間の人生をぶっ壊したことになってんの?
トラバにも答えてるけど俺は草食ってドラミングして過ごしていただけ。別に人間様にウンコ投げつけたりはしてない
それで人生ぶっ壊されたとか言われても責任とれんし悪いけど知らんわとしか…
そりゃ多少騒がしかったりはしたかもしれんけど、(ここはポジショントークをする場なので全力で責任転嫁するが)それはその場に適応しただけだから。環境要因。
これブコメしたヤツは動物園中学校で楽しく過ごしてた奴は皆トゲついた肩パットして改造バイクで校舎内に乗り入れてクギバットで窓ガラス割ってたに違いないとか思ってるのかもしらんけど、そんなヤツようおらんわ
同じく、はてなぁ~には「荒れてた中学出身だけど爪に火を灯して苦学し都会にでてビッグになりました」みたいな、「赤貧だったので給食のサバの油を集めて明かりを灯し参考書を読みました」みたいなストーリーがウケるのかもしらんけど、地元から出たヤツもそんなヤツだけじゃねえ~から。あと勉強したいならサバは食えよ。DHAとEPAが入ってるからね
>> 動物名乗るってことは自分で線引きしてるんじゃん <<
いや昨日までは俺も人間だと思ってたの!!!俺もお前も人間の仲間たちだと思ってたの!!!
でも動物園とか言われたからえっ俺って動物だったの?!ってびっくりして出た遠吠えがこの増田
なんかここ数日のはてな見てると「エリート」「低学歴」の二項対立に持ち込もうとしてるんだか知らんけどさ、
この世の中なんてだいたいグラデーションなんだし、大半のヤツはエリートでも低学歴でもなくて人間だか動物だかわからんバーバリアンなわけじゃん。
自分が恋愛市場で評価されない個体だと本当に自認するのが怖いから、挑戦しない理由を作るために色々と認知がねじ曲がってる感
繁殖用と労働用っていう歪な二項対立をわざわざ作ってるのも自分は労働用だから繁殖用の女みたいに男に媚びる必要なんてない!って自分を納得させるためだし
自己卑下が強いのもそれを理由に自分からは行けない、「私は身の程をわかってるから行かないんだ」って言い訳するためのものに見える
恋愛強者になりたいっていうより弱者だと自覚することに耐えられないから競争に参加することから逃げようとしてる感じだな
増田は自分でも認知の歪みを自覚し始めてると思うけど、もう一段階ある気がする
そのまま話聞いてもらうのがいいと思う
車のある地方 vs 車のない都心の二項対立なのがおかしくない? 電車大変、っていうのはその通り。
東京を見てみろよ、あんだけ車走っているでしょ。東京都心部に住みながら、電車に乗らない生活している人もいるんだよ。
自分はずっと都心部に住んでいる高給稼いでいるサラリーマンだけれど、この10年間、電車は年に1回乗るか乗らないかの生活。
後ね、地方の魅力として、車とか家の広さが第一に出てくるあたりが、まさに地方の魅力に乏しいところなんだよ。
ちゃんとしたキャリアがある人であれば、地方でも十分な生活費はもらえるというけれど、逆にいうとそれ以上に専門性を高めるような場がほとんどない。(結果として、それを背景とした高給なお仕事もない)。自己実現の機会が極端に少なくい。
そして何より。 いろんな多様な人がいるから、ちょっと誰かと会って議論をするとか、そこから新しいことを始めるとか、そう言った文化的な営みができる環境が揃っているとなると、必然的に都心になっちゃうんだよ。
地方は、自然とかそういうのは魅力的だが、一方で、QOLといいながら、こう言った唯物的で、文化が貧困で、そこに根ざして同質な価値観の生活はしたくない。
第3波フェミニズム以降フェミニズムはマルクス主義の考え方を導入してる(性的搾取とかが分かりやすいけどバリバリのマルクス主義用語をフェミニズムに転用している)
そしてマルクス主義を取り入れたことで階級闘争も取り入れた。フェミニズムの中の階級闘争とは当然男と女の対立である。男という抑圧者に対して女が社会的格差を是正するために階級闘争を仕掛けるという構図である。
しかしマルクス主義でも同様だが二項対立で考えようとした時どちらにも与しない勢力というのが現れることがある。このような勢力は排除されるかどちらかの勢力に取り込まれることになる。
さて男とも女とも言えない勢力と言ったらなんだろうかと考えるとトランスジェンダーだろう。体と心の性別が異なっておりはっきりと男か女かを断言することはできない。このような勢力は男と女の対立構造を考える上で邪魔で理論的には存在してはならないことになる(当然これは私自身の意見ではない)そのような勢力が現れた時フェミニズムはマルクス主義的考えを持つ限り彼らを徹底的に排除することになる。こうなった時もはやフェミニストは差別と戦うものから差別をする側になる。
ここ最近、日本の脱コル(韓国の脱コル運動についてはよくわからないため、ここでは日本に限定した)への違和感が最近高まってきているので、ここで整理する。
声を大にして言いたいが、このエントリを書くのは誰のためでも何の妨害でもなく、私のため、私の思索のためである。
1. 「男性化」ではないという主張
脱コルを推進する人達の一人称は「俺」。短髪にメンズもののファッション。しかし彼女達はこれは男性化ではなく、機能的な格好・他者に媚びない表現方法を選んだだけであると主張する。しかし、ラディカルフェミニズムの文脈における「女性性の徹底的な無力化と破壊」は自明に「男性性の入手と強化する」と同義ではないのか?なぜなら女性ではない男性、男性ではない女性、と二項対立で論じてきたのがラディフェミだからだ。違うとすれば、女性性を破壊した後には何が残るのか?性のないニュートラルな自分?
脱コル漫画を最近いくつか目にする。韓国で脱コルに取り組んでいる人達が書いた漫画の日本語訳である。
これには少々ずっこけた。
モテて、周りの男性達から綺麗、可愛いと称される子なんてごく少数。女子の大半はフツーである(当たり前すぎる話だ)。女性の美しさは男性から消費されるだけだ、要らない、美しくなくていい、美しさを追い求めることは男の奴隷となることなのだ、というラディカルな主張のわりにヒロインはモテる可愛い子、というおきまりの設定にハテナが浮かぶ。「走っていく女性」が1番反響を呼んだ漫画だと思うが、そこでは1人の可愛いモテそうな女の子がメシアの如く女性達を導き闘う。女性を導くリーダー的存在として、女性のうち少数しかいない可愛い子を設定していることは、脱コル漫画として自己矛盾を起こしている。漫画の内容としては「美しくなくていい女性」を追い求めているのに、作者も読者も、ヒロインをつとめるのは可愛いくて美しい女性が普通である、というお決まりの価値観から抜け出せていない。可愛くなく美しくない女性が大半なのに。可愛い子じゃないと、美しくないと画がもたないから?説得力がないから?だとしたら「全ての女性は美しくなくていい」はどこまで説得力があるのか。「不細工」と自称する女性の脱コル漫画もあることは知っているが、あくまでも体験記。ドラマティックな展開の脱コル漫画を2本ほど読んだがどちらも可愛いモテる女子だった。うーん…
脱コルについてもう少し考えていきたい。
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今までは、ただ荒れている海を時たま平和なところから眺めていただけだった。
そして、たまたま見かけた漂流物に対して思ったことを気まぐれに書いて見ようと思った。
ここから書くことは、現段階書いている私には公開するかもわからない文章であり、該当のブログ記事に対して思ったことを気ままに書くだけなので何かを伝えるというつもりは一切ない。自分のなかのことを整理しようと思っただけのことで、こばるさんが何を思おうと私は興味はないし、これを読めというつもりもない。
発端はそのブログであっても、おそらくは私の思ったことまとめに終始すると思われるからである。
以上のことを踏まえて読むかを決めてもらいたい。
これは自己保身という人もいるかもしれないが、私にそのつもりはない。
匿名で、なんの影響を被ることもない場所で、ただ書き散らかす文章だから一切の重みはないということを読んだ人皆に伝えるという意図の、私の責任感の表れと取ってほしい。この文章はただの電子ごみだ。
私は、このブログの題名に名前があがっている方のCFにまつわる問題を時たま眺めていた。最近の出来事などの一連も一通り見ていたつもりではある。
私には、一切法律的知識、CFの知識はないため、収支報告を求めるものに、「まあそりゃあ疑念が湧いたら事実確認をしたくなるよね」程度のことを思うことしかできない。これは、お使いに行かせた子供がお金をちょろまかしていないか確認したい、というような感覚と似ているのでCFに適用できるのかは私には判断はつかない。
私はここで、この方の問題について白黒をつけたことを書くつもりはない。あくまで、こばるさんのブログについて思ったことを書くというつもりだからだ。
このブログ記事は「CFした方がネットリンチをされている」という前提で書かれている。(題名からしてそう)
なので私がそのことについて書くということは、その前提に対して物申すということになってしまう。
そうなると、私の考えたいことと外れていくと思うのでとりあえずそこは保留にしておく。
以下、本文を引用しながら書いていく。
ヌメさんへのネットリンチに加担し続けている人たちへ。
あなたたちは愚かです。
優しさに賢さが追いついていない人、賢さに優しさが追いついていない人、その両方が見受けられます。
優しさに賢さが追いついていない人は、大局を見る能力がありません。「優しい」という自己イメージに捉われて、その表面的な振る舞いからはみ出す勇気がないだけの愚か者です。
賢さに優しさが追いついていない人は、あなたが学んできた知識を、愛情を持って世界に還元しないところを見ますと、やはり愚かだと思います。
正直言うと、私はこの「優しさ」や「賢さ」という言葉が何を指しているのかがわからないため、ここは飛ばす。
ただ、「寛容な世界づくり」という言葉から、弱者にやさしい世界をということなのだろうかということを何となく推察するに、この人々は強者に当たるのだろう。そのあとの、声を上げる、などは最近話題のトーンポリシングもろといった感じである。これ以降のところで語気語調で判断するな、といった内容のことが書いてあることだし。
トーンポリシングに関しては、議論の場は対等な人同士が様々なものを用いて議論をするという理想があるが、そこにも権力関係があるのだということを自覚しよう、といったものであると私は認識している。(何かで読んだ、何だっただろう…)
恥を知り愛を知る、は、まあちょっとよくわからない。思いやりだろうか。悔い改めるとかだろうか。
5年後、10年後に、あなたが自分自身の行いを恥じたとき、過去のあなたの行いを誰も責めてはいけません。
もちろん、今あなたがそれを行なっているならば、咎められるでしょう。法に基づき裁かれることもあるでしょう。
あなたの積極的または消極的な加害行為が、今、あなたからの加害を受けている人の心の安寧よりも、優先して認められることはありません。
これはまあ、おおむね一般的な考え方であるように思われる。罪は裁かれ償いをしたら一種チャラである。あとは良心の問題。
まずあなたは、あなたが何に依らなくても、あなた自身が当たり前に存在してよいのだということを、深く理解してください。
これはまず一番最初に、あなたの心の底の底に置いておくべきあなたの自己肯定感です。
あなたが今それを得られていないなら、とても悲しく、残念なことです。
自分自身の心を明かし、賛同でなくとも肯定されることが、あなたが世界を信頼できる根拠になるということを、ぜひ知ってほしいと思います。
自分自身の心を明かす勇気を、あなたの愛する、信頼できる人に向けてください。
その信頼が報われたとき、あなたはあなたのための自己肯定感を得られるはずです。
その経験を得たとき、その自己肯定感や誇りが、他者にとっても同じ、誰にも脅かされてはならないものだということを、想像できる人になってください。
ここはいささか唐突に思われた。なぜここで自己肯定感の話なのだろうと率直に思った。
自己肯定感がないからこそ、曰く「愚か」な行為をしているという考えであるのかと推察するが、「自分自身の心を明かし、賛同でなくとも肯定されることが、あなたが世界を信頼できる根拠になる」という点では、賛同/肯定をされた時点でその賛同/肯定されたものが、結論として善であろうと悪であろうとその内容はかまわないように受け取られる。
それとも、「愚か」なことであってもその自己肯定感が生まれたらばそれ以降回心できるはずといったようなことなのだろうか、私には少々やはり呑み込めない。
ある層に受けることを言ってしまったらその承認におぼれてしまい、そこから抜け出せないこともあるのではないか、等々考えてしまう。
まあやっぱりよくわからない。
あなたが何かを決めない限り、あなたは誰にもジャッジされることはありません。
あなたは、いつでも世情に合わせて、怒られないための「正解」を選ぶことができます。
あなたは卑怯です。安全な場所で、物事を見定めているつもりになっている自分自身のことを恥じてください。
私としてはここが一番の山場であった。ここで、こばるさんは他者に対して「対立する勇気」求めている。
私はここが一番引っかかった。
「意見を表明する勇気」ではなく、「対立する勇気」であり、「中立」、決めかねるという一つの判断を否定していると思うからだ。
以下は、浅い知識によるものだから、最初に書いたことを思い返して、あまり真に受けないで読んでもらいたい。
私は、この言葉を読んだとき、エポケーという言葉を思い出した。
エポケーは、判断停止や判断中止とも言われる。これは、懐疑的なものの見方として生まれたもので、常識などを棚上げし、事実を見るというようなことである。「これまではそうだった、だからこれからも違いない」ここに対して待ったをかけるようなものと私は習った記憶がある。思考停止とも違うということも。
判断を停止するということは、結論を下すことを中止するということで、こうだった場合にどうなるかといった想定をしてその場合の結論としてはどうなるか、と考えることをやめるわけではない。
判断停止をし、意見表明をしないということは確かに叩かれるものがないという点で「無敵」かもしれない。
しかし、むやみに敵を作るような行為は慎んだほうがよいのではないだろうか。対話が可能と思えないのならば、口をつぐむということも選択肢に入って来るのではないだろうか。そこで人は絶対に意見を言わねばならないというのは酷であると私は思う。
立場を明らかに、意見を表明できないのは、冷笑主義でもない限りそれ相応の判断停止の理由があるのではないか。
または、明らかにするほどのことではないという一種の”判断”でもあるだろう。
ここをおして判断を迫るのならそれ相応の論拠を明確に提示していく必要があるだろう。
また、全貌を知らないままに下した判断には危険性があるのではないかと言いたい。
ヨクシラという言葉があるが、ヨクシラで首を突っ込み盲目的に突っ走るというのは恐ろしいことである。むやみやたらに判断を求めたらいいというものではないと考える。
ただ、これはヨクシラで判断を下し動いている人々に対して判断を下し行動することをやめろといいたいのではなく、その判断に基づいて物事を見ることに固執しかねない、という危険性を留意しておくべきではないかという意味であり、柔軟性があるのなら、意見を表明するという言語化を通して自身の考えをまとめることができ、それを叩き台にしていろいろの人との対話をすることで自身の知見を深めることができるため、それ自体をすべて悪いとは思わない。
これはヨクシラでない人であっても同様のことがいえると思っている。固執することは恐ろしいことである。
そして、これらの話はどちらか、いずれか、なんらかの想定されるコミュニティに与するという話ではないと思う。
私は、「対立する勇気」という言い方にどうしても、二項対立ですべてを説明しようとする姿勢が見えてならない。
人々はそうそう一枚岩ではないだろう。学校のクラスの分裂ですら、賛成反対と大きく分けてみた中をのぞけば、容易にその中の分裂が見える。
「有力な参謀」という言い方も、ある組織構造を持った何かを想定しているように思える。
ここ以降は、声を上げるリスクについての説明などで、黒人の男性が黒人の若者に対し言っていた言葉を彷彿とさせるものだった。
以降に関しては特に思うところはない。しいて言うなら、「数は力」という言葉と、黒人差別を意識させること自体だろうか。(全体な気がしてきた)
「数は力」に関しては正当性があると思ってのこの書き方なのかもしれないが、それはマイノリティマジョリティの流動にしかならないのではと思ってしまう。
数は結果であることが望ましいのではと、素朴に思う。まあ、綺麗事なのはわかる。正当に数を得られるように頑張ってほしいものだ。
政治について学んでおらず、社会学に関しても知見が浅いので、これは当たらないかもしれない。(田中角栄しかでてこない程度の知識である。)
黒人差別を意識させる書き方をしてることが引っかかるのは、これは黒人差別と同じものではないからだ。
差別だって犯罪だってそう名のつくものは悪いものだ。だって、リンチで差別で犯罪だから。ネットリンチを批判することに是非は問われないだろう。
ただ、ネットリンチというレッテルを誰か他者に貼ることはどうだろうか。
私は、この悪者としてのレッテルを他者に貼ることが端的に言って怖い。
これを叩かれるのが怖いということだとは勘違いはして欲しくない。
ここでは、叩かれることは問題ではない、他者にレッテルを貼ることが問題なのだ。
その時周りなどは関係ない。私とその人との問題でしかない。間違っていた場合のことを考え、極力それをしないように努めなければならないと私は考える。気分としては推定無罪、のような感じだ。自分が責任を取れないと思うから、責任を持って私はどちらに加担することもしない。
誰かが言ってるから、そんなことで自分の行動を決めてはならない。
こばるさんのこのブログ記事は、前提がもう、ネットリンチというレッテルを誰かに貼っている。
想定されているだろう個別具体的な人々はいるのだろうが明確にはされていないから、私にはわからない。ネットリンチは無くさねばならない。
たしかに当該の方にネットリンチと(法的、公的に)されることをしている人はいるのかもしれない。
それならば、その人は然るべき罰を受けるべきだ。
私もそのネットリンチをしている人々に対してのみに当てられたものだったら特に何も言おうとは思わなかった。
しかしこの記事では、ネットリンチとこばるさんが思うものについて、ネットリンチだと断定しない人間(中立)への批判がされていた。
私はそこにとても引っかかりこんな長文乱文を迷いながら書いている。
繰り返しになるが、ネットリンチだと判断するのは、ネットリンチを批判するその個人がしなければならないと私は思う。少なくとも、公的な場で決まりきっていないなら、そうなる。
それはしかし、「どう見ても正しさの欠片もないもの」と「正しいけど程度として問題があるように思えること」など、いろいろなものがあるのではないだろうか。私刑は正しいことではない。
少なくとも私は、ネットリンチというレッテルは、どこまでいったら貼って良いものなのかの知識はない。
こばるさんはそのような発言をして批判をするのなら、せめて、明確にネットリンチがなされていると自分が思う根拠を示す必要があったのではないかと思う。
しかし、黒人差別と同等なほどに、誰がみても、正当性を持って、ネットリンチと言えるものなのだろうか。こばるさんがネットリンチだと思っているものは。
ネットリンチというレッテルを使わずに、自分が目に余ると思う行為をしてる人たちについての問題提起をするということだって、一考の余地はなかっただろうか。ネットリンチとされなくても、人道的に嗜められるべき行為などはある。
私は少なくとも、一連を見てて何に義があるかというのは、簡単に言えるものではないと思っている。
いろいろなひとがいろいろなところでいろいろのスタンスで話してるのを見かけるからだ。
そこまで注視してない私ですら様々な意見を目にするのだから、もっと様々な人がいるだろう。
私が見てる中にも、見てない中にも、ネットリンチに当たる行為があるのかもしれない。
ただ、私は誰かから困っていると言われたら、然るべき対応を、としか言えない。
手に余ることをするのは、無責任だ。
デマの流布をしないことが、一番私としては誠実な態度だと考える。
こばるさんの想定には私のような問題を外部から眺めている人間などが入ってないのかもしれない。ただ、この書き方はあまりにも広範な人を巻き込んでの批判ではないかと思う。
後半の論調的にはネットリンチに気づきつつ口をつぐんでいるサイレントマジョリティーを想定されているようにも感じられたし、基本的にこのブログ記事は、正義は我にあり、と信じて書かれているように思われる。
なので、正当な判断をしたらきっとこばるさんの側につくとこばるさんは信じているのだろう。
個人的には、正義は我にありと信じてやまない、揺らがない態度というのは、少々怖いものだと思う。
たとえ考えが変わらなく思えても、問い続けることは大事ではないだろうか。
乱文なので、また編集をすると思います。ここまで読んだ人がいたら、お疲れ様です。文意通らないとこあるかもだけど許してちょんまげです。
頓珍漢なこと書いている気もするけど、暫定的に。
「誹謗中傷させろー、俺は間違ってない、正義だ」みたいな人って見かけない
けれど、逆側の「誹謗中傷はよくない」「僕はこんな変わった意見を持ってます」ばっかり
勝手に二項対立を作って当たり前のことばっかり言って、こんなことで自己満足を得る
今回の件だけじゃないけど、これって道徳の授業と変わらないよね
「子供と小児性愛者、どちらかの人権を剥奪しなければならない」という究極の選択を迫られたら、そりゃ小児性愛者の人権を諦めるしかないと誰もが思ってる。
だからそんな二項対立そのものを批判しなければ小児性愛者の人権は守れない。
「小児性愛も同性愛も同じ」と「小児性愛と同性愛は違う」はどちらも同程度にバカな発言だが、「どちらか一方を破棄しろ」という究極の選択を迫られたら前者を破棄するしかない。理由は上記と同様。
だから我々は「小児性愛と同性愛には、同じ文脈で語るべき部分とそうでない部分がある」という事実を指摘しなければならない。
マイノリティの味方をする我々は慎重に言葉を選ばなければならない。そうした上で、異性愛者・成人性愛者のようなマジョリティは決して倫理的責任を追及されないという特権構造を批判しなければならない。「あなた方が言葉を選ばなくても済むのは、それ自体が特権だ」と指摘しなければならない。
3 正義の基準を勝利することにおくのなら政治的な正義は政権与党が手にするものとなる
うーむ……思いついた時は我ながら暴論だとは思ったが、人類史が衆愚政治の集合体でしかないことを考えるにこの屁理屈は大筋として間違ってはいない気がするな。
そもそもをして、勝利以外の何を持って正義が証明されるのかという命題に対して人類は未だにマトモな答を用意できておらず、その癖をして子供に正義と悪という単純な二項対立から道徳教育を始めようとするなら、どうしても「正義はかならず勝つ」という暴論を吹き込むことになるのだろうな。
恐ろしい話だ。
この話を少し飛躍させれば、戦隊ヒーローやウルトラマンを見て育った子供が自民党を応援しているので、もしもそれが間違っていると言いたいなら特撮ヒーローの放送をまずは辞めさせるべきだとすら言いきれそうだな。
いやはや……そもそも子供に対して何を持って正義を教えるべきなんだろうな。
君たちは賢いんだろ?
教えてくれよ
駒場&内海「お願いしますー ありがとうございますー」
内海「あーありがとうございますー ねっ 今コンドームをいただきましたけどもね」
駒場&内海「ありがとうございますー」
内海「ねー有り難いですよ ほんとにね」
駒場「入れておきましょう」
駒場「いきなりですけどね うちのオトンがね 誇れる称号があるらしいんやけど、その名前をちょっと忘れたらしくてね」
内海「分からへんの? いや ほな俺がね オトンの誇れる称号 ちょっと一緒に考えてあげるから どんな特徴ゆうてたかってのを教えてみてよ」
駒場「オトンが言うには、人生で一度もセックスしたことないらしいねん」
内海「ほー、え、ほーお?それって童貞やないか、オトンセックスしたことないって童貞やないか。え、本当にオトン童貞なん?」
駒場「俺も童貞かと思うやけども、でもこれちょっと分からへんのやな」
内海「そうやなー」
駒場「オトンがいうには、オカンのことが大好きやねんって、毎年夫婦旅行いくねん」
内海「あー ほな童貞と違うかぁ 夫婦ラブラブなのにセックスしたことない訳ないもんね」
駒場「そやねんそやねん」
内海「そんなにラブラブなら夫婦の営みがあって、お前がここにおるわけやからな、ましてや妻帯者でお前がおるのに童貞なわけないわな」
駒場「そやねんな」
内海「童貞っていうのは結婚はおろか恋愛すらできない、誰にも好かれなかった人の称号やから オトンが童貞を名乗ってたらそら病気よ」
駒場「そやな」
内海「あれほなもう一度詳しく教えてくれる?」
駒場「なんであんなに上司にソープに行けって言われるかわからないらしいねん」
内海「童貞やないかい! ソープに行かせたい人間なんて童貞以外いないんやから 北方謙三先生も童貞につける薬はソープやっていうてるやん でも俺はね あれは非童貞が童貞のピュアな心をしらずに経験則でアドバイスしてるからやと睨んでんのよ 俺の心は惑わされへんよ 俺惑わしたら大したもんや」
駒場「まあねー」
内海「ほんであれよーく考えたらね いざ女の子を好きになって、初体験をスムーズに済ますにはどうしたらいいかを教えとるねん 俺は何でもわかってるけど譲れないものがあるの そんなこと言われるオトンは童貞や!そんなもんは」
内海「そうやろ」
内海「ほな童貞ちゃうやないかい! 相性いいって、つまり身体の相性やないかい 童貞はねー まず女性との相性が存在しないから童貞なんや」
駒場「そやねんそやねん」
内海「な? そう段々女性はおろか人との関わりがなくってくるから 最後は孤独死を迎えてしまうねんあれ」
駒場「そやねんそやねん」
駒場「そやねんな」
内海「童貞ちゃうがな ほな もうちょっとなんか言ってなかった?」
内海「童貞やないかい! 陽キャも陰キャもみんな最初は童貞だったんや そして大人になって童貞非童貞の二項対立が生まれるんよ 童貞よそんなもん」
内海「そうやろ」
駒場「オトンが言うには パリピがオフパコのときも絶対呼ぶっていうねん」
内海「ほな童貞ちゃうやないかい オフパコに童貞の出番なんかありせんのよ」
内海「童貞はね 前世のカルマを背負って来世ではイケメンに転生したい非モテの修行僧やねん」
内海「童貞ちゃうがなほな ほなもうちょっとなんかゆうてなかったか?」
内海「童貞やないかい! 童貞はネットどころか憲法でも人権軽視されてるんやから な? フェミニストがもう一段声をあらげようもんなら 俺は逃げるよほんま 童貞や絶対」
内海「そうやて」
駒場「オトンが言うには その称号いうたら皆ひれ伏すやっていうねん」
内海「ほな童貞ちゃうやないかい オトンのこと全く分からんけど そんな権威だけはないねんあれ な? 水戸黄門のように正体告白したら 告白した時瞬間周りから蔑まれるがな」
駒場「そやねんそやねん」
内海「ほな童貞ちゃうやないかい ほなもうちょっとなんかゆうてなかった?」
内海「それはいったらあかん! オマエさんは親御さんの顔が浮かぶのよ ね? お前はオトンとオカンの愛情たっぷり注がれて育ってんやから、そげなこといったらあかんねん」
駒場「そうかー」
内海「浮かぶのちょっとモアイ像に似てる顔だけ 童貞は勘違いに決まりそんなん」
駒場「でも分かれへんねん」
内海「分からへんことない お前はオトンとオカンがセックスして生まれたの元気なモアイの男の子 もぉ」
駒場「でもオトンが言うには かくゆう私も童貞でねって言うねん」
内海「ほな童貞やないかい! オトンが攻殻機動隊のゴウダのように童貞と言いはるんやから 童貞やがな」
駒場「そやねん」
内海「先ゆえよ 俺がお前の出生心配してる時どう思っててんお前」
駒場「んでじいじが言うにはな」
内海「じいじ?」