価値観(言葉・概念の)アップデートは、一見「若い人たち向けのアップデート」に見えて
言葉というのは、結局多数決で決まる。たとえ「ありがとう」という言葉が、「有難う、存在することが少ない、貴重、希少故に感謝する」
という原義があっても、100人のうち99人が「お前死ね」という意味で使えば、その言葉の意味は完全にひっくり返る。
1970年代までは、「30代以下の男女」というのは全人口の50%を超えていた。
それまでの「男」や「女」というのはつまり、女だと肌が綺麗で、妊娠能力があり、艶やかで頬が赤らんでいて、血色のあり頬や肌に張りがあり、胸のしぼんでない女性。男は活発に動き、筋肉があり気力に満ち溢れ
金を沢山稼ぐ人を指していたわけだ。
そこでステレオタイプの「男」と「女」のポスターやコピーライトを張ったとしよう。もちろん炎上しない。そのステレオタイプは、当たり前の女と男の形だからだ。
しかし2005年を過ぎると、「30歳以下の男女」は30%未満になっている。2014年には27.6%
つまるところ、70%以上の男女……それも50、60代あたりが多い。2020年はさらに減っているだろう。
現代において、「男」や「女」に定義されるのはつまり、女だとXXの染色体を持ち、(自分の染色体を意識することはないと思うので)若しくは女としての自認を持ち、ひょっとするとちょっと男っぽくなってるかもしれない。肌は皺があっても、妊娠能力があっても、血行が悪くても、胸がしぼんでいても女性という定義になる。そう『大多数が』思っている。
男だと、活発に動けなくても、筋肉が無く無気力でも、金を稼がなくても、働いていなくても、とりあえずXY染色体を持っていて、男としての自認があればよいと感じる。
そこに、「若い男のステレオタイプ」「若い女のステレオタイプ」を張ったとしよう。「筋肉があって元気が無くちゃ男じゃない」とか「肌が綺麗じゃないと女じゃない」とか。
大炎上するだろう。それは「若い人たちの価値観」であって、「老人たちの価値観」ではないからだ。
刺激されるのは購買意欲でも、消費欲でもなく、嫉妬や妬み・怒り。
その感情は、「実際の私たちの定義」によって正当化される。これこそ「ポリティカルコレクトネス」の正体ではないか。
一見ポリティカルコレクトネスは「これからを担う子供たちへの優しい弱者の為の価値観」を担っているように見えるし、ともすれば「実情に見合っていない、ただの綺麗ごと」そうみなされている。
ニートが居てもいい、女っぽくなくても、男っぽくなくても、金をかさが無くても、無気力でも、不幸に片足突っ込んでぬるま湯で生きようとも
でも実際は違う。つまるところ「これから死にゆく強者たちによる自己肯定の価値観」で、「実情に見合っている、ただの醜い現実」なのだ。
ふざけるな、と思う。言葉や概念は、それをこれから使っていく人たちの為にあるはずなのに、ただ消費して貪っていく人たちの為に使われている。
まぁここで二項対立を作っても意味がないとは思う。憎しみを煽っても、怒りを煽っても、圧倒的に少数派である「個人」は勝てない。
結局自分たちにできる事は、自分たちの生き方も正しさも、言葉の定義も、自分で、自分の為に主体に決めていく事だ。