はてなキーワード: 披露宴とは
ずっと独身で生きてたし、これからも独身で生きていくつもりだけど、やっぱ世帯年収多い方が得だなぁという現実も否定できない。
でも恋愛が向かないことはこれまでの人生でつくづく思い知ったので、メリットとしての結婚しかできないし、興味もない。
結婚式とか無駄だし、披露宴とかもってのほかだし、新婚旅行もいらないと思っている。
そもそも性行為が絡む恋愛感情というのは人から理性を奪ってしまうので、望ましくないと思っている。
上記を前提に、お互いに利益を共有できる良き友人としての結婚ができれば今より少し幸せになれるかもと思った。
そんな都合のいいことは起こり得ないので全部妄想であり夢物語だけど。
ちな私のスペ
30歳 / 独身 / 女 / 年収600万 / 都内23区在住
- 理由としては自分の遺伝子を継がせることがかわいそうすぎて無理
- できれば犬も飼いたい
- 魚は好き
- 焼き鳥なら食べられる
- ヴィーガンではない
- 麻雀テンゴまで
- 競馬G1レースに1000円とか、多くても3000円(天皇賞とか有馬みたいな特に大きいレース)だけ
- どっちも買ったり負けたりトントン
年収300〜400万くらいの相手なら子なしで埼玉か千葉あたりに引っ越してそこそこ楽できねぇかなと。
私の人生観として生きることにあまり積極的ではないので暇つぶしのような生き方に付き合わせることになるけど。
なおゲスい考えってのは理解してるし、だからこそ実現不可だと分かっている。
でも本音で話したらこういう風に考えてる人間って少なくないと思う。
ただ私の場合、男女ともにNG喰らいやすい要項が多い(子どもいらない、タバコ・ギャンブル、家事外注、性交渉なし、など)から、たとえ共同生活パートナーとしても選ばれない自信しかない。
こんど、友人の挙式に参加することになったのだが、興味半分劣等感半分で若干辛い方に寄っている。
まあそもそも出来ないという現実は置いとくとしても、オレは挙式をしたくないと思ってる人間だ。呼べる過去の友人がいないし、基本プライベートは隠したいので披露宴で生い立ちを振り返られる演出されると死ぬ。
多分写真は取って、両家揃ってのこぢんまりとした会食やって二次会もなしに終わりって感じかなあ。挙式それ自体はやっても良いけど披露宴はしたくない。披露するだけの身の丈を自分は持ち合わせていないからだ。そういう妄想を結婚という概念に抱いている。
それなりに飢えを感じずに生きてはこれたが、親の離婚を経験し、血の繋がっていない父親が自分勝手なことして勝手に消えてって、結局片親のまま今に至る。一人暮らしもせず、貯金も無く、ただただぼうっと生きている。
これを恵まれてないとは言わない。もっと辛い境遇を生きた人など掃いて捨てるほどいる。ただ、現実の辛さから目を逸らして生き続けてきたオレだからこそ、結婚には程遠い人間になってしまったのは言うまでもない。
これを後悔と断定する人間とは付き合いうまくいかなそうだとは思ってる。後悔は今のところ無い。こう生きるしかなかった。それがオレの人生であり、結果だ。
世の中は結婚を、子を成すことを善としている。少子化が叫ばれるだけ叫ばれて久しい。そんな世界にあって、結婚が人間のステータスと判断されるのは正しい。というかヒト科の生物の本能として種を存続させなければならないのだから、それは自然の摂理とも言える。
対してオレはどうだ。社会の常識を疑い、当たり前を嫌い、人付き合いをめんどくさがり、体脂肪率は基準値を大きく超えて肥えている。健康診断が怖くてたまらない。結果を見ようともしない。その結果が、今このオレ自身なんだ。
そうだ。どうせ早死にする身で何を遺すというんだ。死んだところでオレを構成する肉塊と、片付けることもせず部屋に溜めるだけ溜めたガラクタしか無い。
死後の世界など無く、死ねばそこでオシマイ。悲しむだけムダだ。どうせ数年経てばオレの顔を覚えている者は片手の指くらいになる。意識的に写真に写らないように生きてきたのだから。死んだ後の世界で死を悼まれてもオレには何の得もない。
こんなこと言って自殺でもするのかと言われても、別にそんなことをする気はない。そうするだけの勇気が無いし、理由もない。ただ、己の身体が死に至る時に死ぬだけなのだ。それが、年金をもらうより早いだろうというだけの、なんでもない話なのだ。
友人の挙式に行くこと自体は(次の機会なんて無いと思うので)人生経験として行きたいと思ってはいる。そこまでの縁を感じてもいるし。ただ、二次会とかには参加せずとっとと帰るがね。それくらいのワガママはさせてもらうよ。
幸せな家庭を築くことが夢だった。
結婚出産しても働けるように「手に職」をつけようと思い、高校生の時から医療職を志した。
化学も数学も大嫌いだったのに無理やり薬学部に進学した。6年間しがみついて勉強した。花嫁修業として毎朝お弁当を作って大学に通った。
大学6年間は、将来性のない男とは付き合わなかった。地元に帰って就職したいとか、結婚願望ないとか、そういう人は避けた。
マッチングアプリとか街コンとか婚活パーティーを駆使して、理想の男性に出会ったのが25歳の時。
お互いの両親に挨拶もしたし、結婚の話もしてた。でも貯金ためてから結婚しようとか、奨学金の返済があって自信がないとか、色々引き伸ばされて、29歳の時に振られた
。
他に好きな人ができたらしい。
付き合ってた間頑張ってきた。
料理の腕前もかなり上げた。
忙しくても会う時間は作ったし、見た目にもいつも気を使った。デート代は折半。
結婚はしたいけど、別に海外旅行に行かなくていいし、披露宴もなくていいし、結婚指輪も新居費用も折半で良いと思ってた。結婚したかったから就職してから5年間で600万貯めた。
そして彼と別れ、結婚相談所に登録し、30歳になる。妥協しなきゃと分かってるけど前の彼氏と比べてしまう。
沢山書いたやで
・実名主義
80年代末まで偽名でも銀行口座が開けた。だから複数の社会的人格を持って経済活動する事ができた。
職場で旧姓を使い続けても問題無かった。1986年に米国でマネロン規制法、その後1990年までに国際的取決め、日本もそれに倣い口座の実名証明必須になり社会でも実名主義が当然になった。
MDMAが非合法化されたのは1991年頃(うろおぼえ)。クラブシーンやレイブパーティでは当たり前に使用されていた。
心臓発作を惹起する為に規制。m.o.v.e.のmotsuが所属していたMORE DEEPの曲には「エクスタシーをキメていた頃」というフレーズがある。
90年代のクラブではマリファナは普通に喫われており、自分は使わなくても中に居ると副流煙で景色がとろけてくる、肉体遊離感が起きるというのは当たり前だった。また自衛隊員も米兵経由で入手する者がおり、除隊後に北海道野生パカロロツアーとかアムステルダム飛びツアーなどを企てる人もいた。
・式場での結婚式
1970年代からブライダル産業が隆盛し一般化した。これ以前は神前式、キリスト教教会一般的。
団塊世代のロマンチックラブイデオロギーのため。この以前、地方では婚姻の自由は憲法上の絵に描いた餅であり、親が決めた相手と結婚して神前式を挙げるのが当たり前で共同体から排除されないための義務だった。
団塊世代はそこからの逃避の為にフォークソング等でキリスト教式を称揚し、そのニーズに答える産業が発展して定着した。
古い評論を読むと戦中派、戦前派が式場での披露宴に憤っている文章がよく出てくる。
1990年頃まで日本人の公共空間でのマナーは先進国ぶっちぎりで最低であり、酔って吐く、道にゴミや噛んだガムを捨てる、タンを吐くなど当たり前であった。終点近くの長距離列車車内はぶん投げたゴミだらけだった。
・外国で旅の恥をかき捨てない
かつて旅の恥はかき捨てで、特に海外での不行跡が酷く日本人旅行者(特に団体)は眉を顰められる存在だった。
遺跡に名前を彫ったり、腹巻で目抜き通りを歩いたり、コンダクターに痴漢行為をしたり、名跡で立ち小便したり、売春ツアーをしたり、現地女性に「ハウマッチ」と聞いたりもの凄かった。
これを西洋は宗教倫理の文化で日本は恥の文化、共同体の外では恥の羈束力は働かないからだ、と説明されていた。
電話には加入権というものがあり、契約時に設備負担金を払う必要があった。金額は7万円と高い。
この為に電話加入権を売買したり、質に入れるという商売があった。2003年頃から段階的に廃止された。
森内閣の「IT革命」まで自治体や省庁のホームページは夜には繋がらなかった。これは庁舎内のドメインコントローラWindowsNTサーバのIIS(インターネットインフォメーションサーバー)サービスでHPを提供していたため。
終業時間になるとサーバとルータの電源を落として帰っていた。サイトの作成は役人の趣味みたいな感じで作っていた。
1998年ごろまでLANを構築していないオフィスというのが結構あった。プリンタはパラレルポートで繋がれていたので、このパラレルケーブルを切り替える「プリンター切り替え器」というKVMのような装置が使われていた。
駅のトイレにはトイレットペーパーが無く、入口に100円の紙販売機があるのでそれを買っていた。
民営化したJRが紙の常置を始め、1990年代前半に他社も倣った。
90年代中頃まで路上駐車は当たり前に見逃されており、国道などの最左端は駐車車両で埋まっていた。駅近くでは駐車車両とタクシーの客待ちで二重駐車になっていた。
2000年頃から増える。警察が路上駐車取締強化してから10年ほど、駐車場が無いのに路上にとめると必ず検挙という無茶な状態が続いていた。
和室は必ず設定されており、末期には3畳の納戸だけが和室なんてケースもみられた。1990年代前半に無くなった風習。
家電量販店が増えて競合で出来るようになると消耗品以外の商品価格は隠され、店員と交渉で決めるという風になった。この為に店員は電卓を持ち歩き、電卓を叩いて値段を表示した。
客足が減る悪習なので1990年代頃に取りやめられた。
バブル後の都の財政難の打破を喧伝して都知事になった石原慎太郎(1999年~)は増収策として無断で道路にはみ出し設置されていた自販機と建物袖看板の道路使用料徴収を持ち出した。これまで自販機は当たり前に道路にはみ出して置かれていた。
これに対応して既存機の撤去とスリムタイプへの交換が進み、他県でもはみ出し設置にならないスリムタイプが標準となった。
以前は富士通系の親指シフト配列を好む人が居たり、電源のオンオフ、リセットなどの余計なキーが付いている配列があった(誤爆シャットダウン頻出)。
2006年ころに一世を風靡したネットブックでSSDが一般化したが、最初の数年の製品は数秒に一度ごと動作が止まるなど酷いものだった。
嘗ては電気電話水道など公共料金というのは各社の窓口か郵便局、銀行で「公共料金振込用紙」に書いて振り込むものだった。
当然平日3時までしかやっていない銀行に会社員が行けるわけがない。
そこで振り込みの為に仕事を中抜けするというのが黙認されていた。自動引落設定、コンビニ払いが一般化した1990年代後半頃に消滅。
18才は未成年で飲酒できないはずだが、大学生は成人したものと見做され飲酒は黙認されていた。
ゼミの飲み会で普通に教授も参加して飲んでいた。警察も何も言わなかった。
・線路を歩かない
都電やローカル線などでは近道の為に線路を歩いていく人が普通にいた。電車進来時に警笛を鳴らされるが線路わきに避けていればそれ以上の事は何も言われない。トンネルや鉄橋で出くわすと流石に怒鳴られるがそれだけ。ストの時は皆線路を歩いて行く。家の玄関が線路に向いている家も普通にあった。引っ越し作業は大変。
90年代中頃に写真撮影する鉄オタの事故が連続し、その後厳しくなっていった。
初代のスーパーカブの取扱説明書などには「ビールコップ一杯程度なら良いが、ウイスキーは酩酊するからダメ」と書かれている。
・小銭を所持しないで外出
1000円札の読み取り装置が一般化したのは1980年代中頃。それまでは鉄道の券売機でもバスでも小銭しか使えなかった。
この為、小銭の所持数が足りないとお金が払えないというのが当たり前だった。売店でガムなどを買って両替するのが必要だった。万券を両替する為に少額商品を買うのは喧嘩を売るのに等しく勇気が居る行為だった。常に所持している券種と小銭額の把握は必要だった。
1989年の消費税導入まで物の価格は全て10円刻みになっていて1円玉は公共料金以外殆ど使われていなかった。
・個室
和風の家の部屋割りは個室という概念が無い為、都会を除いて1960年代までの日本人はプライバシー空間というものが無い生活をしていた。個人あての手紙は親が勝手に開けて読んでいた。
・個人
家にプライバシーが無く、また会社もイエが準用される社会だった為に「社員のプライバシーに踏み込む」という感覚が余りなかった。
「会社以外の自分」も大事だと言い始めた団塊世代は「個人主義」と罵倒され、80年代世代は「新人類」と宇宙人扱いされた。
ウオークマンは街で個人的空間に浸るものだとして批判の対象になった。個人主義はそれ自体が罵倒文句だった。
全共闘運動はあらゆる権威を攻撃し、大学の知の権威というものも破壊した。この為その後大学教授というのは学生に対して尊敬されない状態が継続。やがて学生は脱政治化したが大学や学問には敬意が持たれず、特に文系では学生が誰も勉強せずレジャーランド化した。
90年前後の大学改革でICUや上智の比較文化など厳しいカリキュラムに注目が集まり、学生が勉強するという当たり前の状態が復活した。
この為に卒業年1994年頃を境に知識やモノの考え方で極端な程の違いがある。
・様々な塩製品
塩は国家専売品だったので専売公社の製造する塩以外の岩塩、ミネラル入り塩、胡椒入り塩などは製造販売禁止だった。塩の小売りには国の許可と標識の掲出が必要だった。
・「メイド喫茶」などの語
「メイド」は放送禁止用語だった。基本住込みで働く為、身分制や階級制の象徴のような職業であって、戦後の身分平等にそぐわないと見做された為。メイドは家政婦と言い換えられ、住込みでなく通勤が一般的な「雇用」となった。
一周回ってメイドの構造が過去帳入りした為に「メイド喫茶」などで使うのが問題視される事が無くなった。2005年頃。
・キャノーラ油
キャノーラ油の原料は菜種。
米国では菜種油を食用販売することが禁止されている。この菜種油の成分を調整して販売を認めさせたのがキャノーラ油。
米国で生産量が増加した後に日本に入ってきたので、一般化したのは1990年代。
過払い金などの広告が出来るようになったのは弁護士法が改正された2000年から。それまでは屋号や執務時間などの表示のみ。
1991年に大店法が改正されるまではデパートの閉店時間はPM6時、スーパーの閉店時間はPM7~8時というのが相場だった。更に定休日もあった。
基本的に地元の商工会の意見で決められていた(大店法の定めによる)。これの改正が商店街の全滅に繋がった。
・生ビール
ビールは酵母菌により発酵するが、発酵が進みすぎて飲み頃を過ぎると酸っぱくなってしまう。飲み頃に提供するのが生の地ビール。
この為ビン缶詰では熱で酵母を全て殺してから詰める必要がある。
1970年代末にサントリーがフィルターで酵母を除去する製法を開発。飲み屋への営業力を活かしてジョッキ生を広めた。この為初期は生=サントリーだった。後に各社が参入して生戦争が勃発。
だから地ビールの生はずっと昔からあったが、全国流通製品の生ビールはサントリー生が1970年代末、その他の各社は1984年ごろから。因みにサントリー生より生じゃないキリンラガーの方がずっと美味い。
バブル期の好景気期に端緒。残業上限規制が導入され36協定があっても残業上限40(80かも)時間/月の行政指導が主に大手企業に行われた。
それまで残業代はフルチャージだったが計算上打ち切るという慣行が発生。それらの会社はタダ働きしてると奇異の目で見られた。
これが平成不況時に残業代は基本支払われずに長時間労働という慣行に変化していく。当初の指導の対象外だった中小企業ではずっと残業代フルチャージだったがこれらにも悪習が伝播していった。
1990年から。1970年代にも導入が試行されたことがあるが全く普及せず直ぐに撤去された。例えば地下鉄では1974年開業の有楽町線池袋駅だけに自動改札機があり、同駅の入場だけにしか使われていなかった。これも後の1986年頃に一度撤去。札幌地下鉄などでは当初より継続して使われていたのと対照的。
1995年以降。それまでササニシキが絶大な人気だったが、冷害に弱く1993年冷夏で全国的な米の不作が発生、大騒動になった。
冷害に強いコシヒカリ系の後継種、あきたこまち、ひとめぼれが席巻するようになった。
駐車違反にバイクと車の別はないが、バイクの駐車違反は2006年まで摘発されていなかった。摘発を民間に委託してインセンティブを付加し原付まで摘発するようになると店舗に駐輪場が無い都心ではバイク移動が不可能になり、バイク市場が干上がる効果となった。
・大学生の専攻無し
学部でも一部以外では専攻は必ず取るものだったが、1990年代初頭の教育学部ゼロ免課程の流行や福祉大などの開学で専攻無しの学生が増加。1990年代後半から。
ガン告知を受けて2ヶ月で亡くなった。
(※最初に断っておきますが、非常に自己中心的な考えなので不快に思う方がいらっしゃったら大変申し訳ございません。)
のどっちかかと思われる。
新郎新婦やそのご家族がしきたりに厳しいようなら、喪中の出席はやめておいた方が良いかなと勝手に思う。
私の場合は大親友だったので、相手は私の母親が亡くなったことも知っているし、私も「喪中だけど出席して問題ないか」と聞いてOKをもらったから参列することにした。
さすがに忌中だったら友人の許可云々以前に辞退してたけど。
中座のエスコートを頼まれていたくらい、とても仲の良い友人なので私も結婚式にはなるべく参加したかったしとても楽しみにしていた。
母親が死んでからずっと抱いてきた鬱々とした気分も、お祝い事を目の前にすれば吹き飛ぶかもしれないという考えもあった。
結果、「親友の花嫁姿を見られて良かった、でも結婚式の演出がしんどくて出席を後悔した」というのが感想。
「自分で出席すること選んでおいて後悔とか言い出すの常識ねーわ」ってのはわかっている。
でももちろん親友本人にはそんなこと言ってないから見逃してほしい。
挙式、披露宴で随所に差し込まれる、「父親・母親・娘(花嫁)」の3人が揃っていることを大前提とした演出がしんどかった。
調べたらいろんな事情で親が結婚式に参列できない場合の演出方法もあるらしい。
もし親を亡くして数年経っていたなら落ち着いて見ていられたのだろうが、両親がいることを「完璧」として、どちらか一人でもいなかったら「欠陥」とみなされているようでとてもつらかった。
また、母親が生きているうちに結婚できなかった自分も責められているような気になってしまった。
披露宴で泣いたが、感動して泣いたわけではない。
自分の母親は亡くなったということを改めて突きつけられているようでつらくて泣いたのだ。
中座のエスコート役をやると、カメラマンが花嫁とのツーショットを撮ってくれる。
カメラマンに「笑って〜!」と何度も言われた。
笑えたら笑ってるし、笑ってないってことは笑えないということだからなにも言わないでくれと思った。
ただまぁ人の結婚式出て写真撮ってもらうのに笑わない人間は常識がない。
あり出席者側が「今日ちょっと機嫌悪いからムスッとしてる」とかはダメだと思う。(当たり前)
■結婚式後も引きずる痛み
結婚式の最中に感じた悲しみのせいでもあるし、大親友の結婚式に出てもネガティブな感情しか抱けなかった自分への嫌悪のせいでもあった。
家に着いたら、花嫁から「結婚式来てくれて本当にありがとう!!」「大好き!!!!」といったLINEが届いていた。
また悲しくなった。
これに対して私は「めちゃくちゃ良い式だったね!!」とかなんとか、素敵な言葉で返答しなければならない。
今は微塵もそんなこと思えないのに。
喪中なのに参加すると言ったのは私自身だし私がどうしようもないくらい悲しみを感じてしまうのはすべて私に責任がある。
■結論:新婦側の友人の場合、親が死んだばかりなら欠席した方が良い
結婚式からもうしばらく経つが、未だに花嫁である友人とは距離を置こうとしている。
「この友人と会って、結婚式の話になるたびに私はこのとき感じた痛みを思い起こしてしまうのか。」
「そして私はその痛みを隠して友人に当たり障りのないことを言い続けなければならないのか。」
そう思うと会いたくもなくなってくる。
中学生の時からの友人だし、社会人になってからも月1で会っているし、(コロナ前は)年に一回は一緒に海外旅行していた仲なのに、私はもう会いたくない。
結論としては、親が死んで喪中ならやっぱり結婚式への出席は考えた方が良いかもしれない。
また、結婚式を行う側の方々も、もしどうしても出席してほしい大親友が親御さんを亡くされたばかりなら、どうか気を配ってあげて出席辞退しやすいようにしてあげてください。
私は断るべきだったと思うし、もしかしたらこのままこの親友とは交流を断つかもしれない。
二週間後に結婚式を控えている。
家族だけの数人の小さな式を予定していたが、コロナで2回延期をした。
遠方から来る家族が不安を訴えていたし、みんなが少しでも安心して出席してもらえるように考えての延期だった。
コロナの感染人数も減ってきて、少しは安心して結婚式ができるだろうと思っていたら、コロナの出ている都内に行くことはできないから出席できないと親や兄弟から連絡が来た。結果新郎新婦と新郎母の三人だけの式になってしまう。
みんなが喜んでくれるように考え準備してきた結婚式だったが、お金がかかるだけで披露宴までする意味もなくなってしまった。
来れないと伝えてきた家族に嫌な気持ちを抱いている自分が嫌だ。
親すら来れない寂しい式を挙げる自分が恥ずかしい気持ちもある。
誰にも祝われない自分が情けない。
コロナが憎い。
具体的にどこのサークルとまでは聞いてないけど同じド田舎の大学で会った。
男性:そのころはニヒルで役者みたいだった父(高卒で就職して企業内留学)。タバコは吸わない。背は高い。読書家だがアウトドアも好き。寡黙(多人数兄弟から養子に出されて一人っ子の育ち、すごく静かな家庭で育った)。麻雀で授業料の足りない分や生活費を稼いでいた。即降りダマテンピンフのみで負けない麻雀(つまらないのでよく呼ばれたなと思う)。
女性:めちゃ頭のいい高校から進学。長女。背は低めでかわいいが気が強い。よくしゃべるし喜怒哀楽が激しい。たぶん女性側から声をかけて付き合った。
男性と女性はド田舎高校の同級生で美男美女カップルで高校のうちに結婚しようという勢いだったらしいがのちにいろんな理由で書類上離婚した事実婚状態。
1,2を身近に知っていたがめちゃくちゃ面食いでダメな異性をひいて2~3回離婚。最終的に年金を分けたくない独占したいという理由で離婚されてもういいや的一人暮らし。
工業高校卒と高校卒が中小企業でであった。男性側が8歳年上(に見えない)小柄な女性に惚れこんだが年の差が気に食わない実家にめっちゃ反対されて半ば駆け落ち状態で結婚し専業主婦へ。営業職で転勤・転職が多く家族で全国を10回ほど引っ越しで渡り歩いたが男性はわりと根っからお祭り男なので引っ越しをあまり手伝わないので呆れられていた。それ以外は喧嘩一つなし、実家とも孫の顔をつかって和解。
上の世代の年の離れた末っ子で20代なら昭和50年代ごろには結婚していたはずだが忙しくてなにもできず。同じ職業の人の娘さんでよくわかってる人とお見合い。結婚してからも忙しくて家庭も育児も全部おまかせ。よくわからないお金の使い方をしている(あれだけ稼いでいて赤字すれすれ)ようにみえるが幸せならそれでよいとおもう
同じ専攻やサークルのコンパやカラオケや試合旅行などで絆を深めた。
おなじ職場で同僚だったりセンパイだったりで絆を深めた。(たまに患者と看護師とかのクライアントとの結婚もあり)
平成:なぞ×3
「お見合い」や「結婚相談所」や「居酒屋ナンパ」だった結婚式は出会いが謎っぽくぼかされる(当人にあまり出会いについてつっこまないでねっていわれた)けど披露宴ではちゃんと「運命の出会い」とさらっと流されて祝われます
私もレズビアンだけど「レズに挟まりたいww」みたいなセクシャリティをシスヘテロ男のオナニーの道具みたいにしか未だに使われないし、多様性について語る割に「彼氏いるの?」って当たり前のようにヘテロだと思って話しかけてくるやつの多さ。
同性婚できない今の婚姻制度が差別的とか言いながら自分はちゃっかり利用してんのウケるんだけど。人を踏みにじりながらかわいそうとか言ってんのなんなん?
おヘテロ様たちは頼んでもいないのに、夫が、旦那が、嫁がってセクシャリティをカミングアウトしてくる上にご祝儀と言う名の金を徴収して同性愛者と違ってヘテロであるおかげで税制優遇も受けられま〜すとアピールする披露宴なんかまでやる。
ほんと傲慢なんだよね。
一人で暮らす喜びを手放したくないのに、来るべき自分の老後や親の介護、社会からの責任を果たせというプレッシャーに、婚活なるものがしたくなってきた。
単にそれらから早く逃れたいというだけで、別に他人と暮らしたいわけではない。代替案や免罪符が得られればそれでいい。
自分の生活もなるべく変えたくない。努力もしたくない。この婚活のゴールはどこにあるのだろう。
(追記)
書いてて思いだしたが、結婚したら親からの干渉が色々ありそうで、怖くて手が出せないのだった。
例えば、子供欲しくないのに産めと迫られそう。趣味バレして、大人なのにと禁止されそう。親の持つ道徳観を強制されそう。
だから、希望の異性とか考えたことがない。どうせ親に「辞めなさい」と言われるはずだからだ。
親の干渉なく私の思い通りに結婚生活が送れて、相手に何も無ければ、まあまだ耐えられるかもしれない。
友達関係もろくにないので、結婚相手もたまに会う友達くらいのレベルで十分お腹いっぱい。
タイトルのとおり。
昨年予定していた結婚式・披露宴が延期→中止になって、前撮りと家族のみの挙式を行った。
もともと式を挙げたかったのは私というよりうちの親・祖父母なんだけど、私自身も仕事でいろんな企画を行うことが多いので、打ち合わせや段取りの9割以上は私が行った。
打ち合わせは夫婦で出席するけど、夫や両家の親といろいろ話して計画表を書いたり、演出を提案したり、各種リストを作ったりするのはほぼ全部私。
プランナーさんや花屋さん、カメラマンさんと電話やメールをするのは完全に私。
実際の打ち合わせのときは和気藹々と夫婦で話すけど、「じゃあ次回までにこの項目を」みたいなやつを全部私がやってた。書いてて思ったけど9割どころじゃないなこれ。
別にそんなに結婚式に憧れがあるわけでもなく、仕事も忙しい時期で面倒だな…と思ったこともあるし、何よりコロナ禍でいろんなイレギュラー・変更点があってそれなりに大変だった。
それでも前撮りは楽しかったし、夫の格好いい姿も見られたし、当日もひっそりとしたセレモニーだったけど家族に感謝の気持ちを伝えられて概ね満足したし、「やってよかった!」と素直に思った。
挙式後、専用サイトに写真データがアップされるので、それをレイアウトしてアルバムをオーダーする。(よくあるフォトブックのサービスとほぼ同じ)
思った以上に綺麗な写真で、出席人数の少なさも感じさせず(友達や親戚の写真がないのはやっぱり残念だけど)、祝ってくれた家族の表情もよく写っていてとてもよかった。一生懸命頭をひねって、バランスよく写真をチョイスし、いちばんいいレイアウトを考えた。
そして。つい先日、完成したアルバムが届いた。
夫はほとんどネットショッピングを利用しないので彼宛に荷物が塗届くことは珍しい。
「(夫)さーん、宅配です」と呼ばれて「なんだろう?」と受け取りに行き、差出人が結婚式場の運営会社だったので「え???」と感じた。
一瞬でいろんな考えが浮かんでは消えたけど、まず直感的に、一気に蔑ろにされたように感じた。
打ち合わせのとき、確かに毎回二人で行ってたけど、私が主体だったじゃん。
「両家」・「夫婦」のことだけど、それでも明らかに「窓口」としては私だったじゃん。
正直、今まで「妻の車を買いに行ったのに営業担当者は夫にばかり話しかける、資料を渡す」「共働きで(なんなら妻のほうが稼ぐ)マンションを買うのに(以下同様)」「夫はきちんと名前で、妻は『(その)奥様』と呼ばれたり書かれたりする」というつぶやきを見るたび、「別にえーやん、気持ちは分かるけど便宜上…とか、その業界では実際にほとんどが夫メインで理にかなってるとかでしょ」と思ってた。
自分が同じような経験をして初めて分かる、ということは世の常だけど、まさにそれだった。
なんだかなー。
式場からはこれまでもいろんな郵便物が届いてたけど、いつも「山田 太郎様・花子様」と書かれてたし、見積書や請求書もその宛名だったから、当然アルバムもそうだろうと思ってた。
(ちなみに、話が前後するけど、式の代金は私名義でとりあえず一括入金してる)
「式の後、ご住所の変更はありませんか?送り先はこれでよいですか?」と、それだけ訊いてくれたらよかったのに。
もしくは今までどおり「太郎様・花子様」でよかったのに。(ここで「妻が下側じゃん!」と言うつもりはない)
一年半くらいの積み重ね(ちなみにプランナーさんはじめ、スタッフさんとは円滑だったし嫌なことを言われたこともない)やまだ記憶に新しい思い出が、最後の最後に思わぬ形で少し苦くなった気分。
ただの気持ちの整理、書き残しなのでこれ以上の議論は要らないし式場に文句を入れるつもりもないけど、夫婦を相手に仕事をするみなさん、少しだけでも頭の隅に置いておいてもらえたら嬉しいです。
もう飛び込むしかない!
行くわよ!
カンパーイ!っていったら乾杯ですからね!って言う一番嫌われるやつあるわよね。
もう飲んじゃったよ!みたいな。
あのさ、
私思ったんだけど、
あそこをお漬物にして
よく婆ちゃんが作ってくれてたんだけど
よくよく考えたら囓った後のものを漬物にするってなんか食い意地張ってる感じの夏の風物詩でもあり
風物詩の夏でもあるわよね。
白いところ多いなーって思いながらスイカ漬物食べてた様な気がするのよ。
今なんか白いところが全くないというか少ないというか、
カントリーマームの小ささなどお菓子がいつの間にか小さくなっていると思ったら、
私たちが大きくなっていたって、
縮尺がよく分からないわ。
きっと誰かが夏休みの自由研究でスイカの白いところの巾を研究した自由研究少年少女もしくは
電話をして見破られないように
スイカの白いところが少なくなってきているんですが!って
6歳なのによく気が付いたね!って褒められたいの!
でもまあ食べるところが美味しくなったら良いので、
実際私はあのスイカの白いところ漬物より赤いところがたくさん食べられたらそれはそれで嬉しいんだけど、
真ん中だけの美味しい甘いところを隅々まで行き渡らせる美味しいスイカの名産地の研究は進んでいるのかしら?って思うの。
一所懸命考えていると思うのよ。
八百屋さんで
スイカは丸ごと1玉まるごとを買う方が断然美味しいぜ!って教えてくれたけど
白菜とかスイカとか丸ごと買っても使いきれるかどうか問題あるじゃない。
そう言うこともあるから
あれだと
同じぐらいカワイイじゃない。
やっぱり小さくまとまっている方がいいのかなーとも思うの。
外国のさー
虎のお寺あれ今あるかどうかまだ分からないけど、
騎虎って一度は憧れるじゃない。
流石に小さいからカワイイって理由で子どもの虎に乗っかるのは流石に無理そうだけど、
大人の大人しい虎なら背中に乗って大冒険しても怒られないと思うんだな
でもあれって
虎のやる気をなくすために鶏肉しか与えてないという切なくもあり
虎のお寺って虎ン禁止になったんじゃなかったっけ?
そんで、
虎で思い出したけど、
虎ダイエットって言うのがあって、
虎は獲物を捕らえるために何百キロも歩き回って獲物を探すってことで
車とかで通常行く買い物を徒歩で行って虎のように歩いて行くってのが虎ダイエットの神髄らしいわよ。
ってそれ普通の行動を徒歩に置き換えただけじゃないって言われそうだけど
徒歩だけにトホホとは言わないけど、
これはさすがに時間がいくらあっても足りないわよね虎ダイエット。
押しちゃうの!そしたら一休さんはびっくりして虎の穴に入っている分だけ
アピールタイムがゲット出来るって仕組みでその時にアピールした場所が虎ノ門って今でも名前が残っているぐらい
なるほどねー!って思ったし
虎のお寺のように虎のやる気をなくすために鶏肉を与え続けていて虎が大人しくなったところを
捕まえに行こうと思ったら虎の子どもがめちゃくちゃ鶏肉食べて育っていて大人の虎になっていた!って
結局一休さんはそのことを忘れないように屏風にその大人の絵を描いたの。
あの屏風の絵は実は一休さん自身が描いていたってことになっているのよ。
なかなか虎屏風のあの話しも奥が深いと思わない?
私はそう思うわ。
まあ今日は
うふふ。
暑いしさー、
もう美味しいものを食べるっきゃないってことよ。
ガブガブ飲めちゃう!
水分補給はしっかりね!
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
以前は殺してやろうかと思うほど怒りを覚えていたが、どうでもよくなってきた。
ファミレスに車で行く道中で弟と少し小競り合いをしていると、突然ブチ切れて道をUターンして帰って部屋に閉じこもったり、
ハシの持ち方がおかしいと、突然怒鳴りだして、俺の顔を叩いたりしたこともあった。
両親と手をつないだことも抱きしめられたこともない。とにかく静かにしていろとだけ言われていた。
子供自体に身に着けるべきマナーは何一つ教えてもらえなかったから、小学生高学年になって息が臭い、体が臭い事に気づいて、ようやく自分で風呂に入ったり、歯を磨く習慣を身に着けた。
中学生になってからは、服を洗ってもらえなくて、同級生にやっぱり臭いと言われて、母親に洗濯をしてほしいと念を押して頼んだが、洗ってもらえず、自分で洗濯機で洗おうとすると、
母は、だんだん臭いことを理由に学校に行けなくなった自分の首を絞めて、学校に行かないなら殺すと言った。
無理やり学校に連れて行って、結局、登校できずに帰る道すがら、学校に行かないんだったらお前を殺すと言って、急ハンドル急スピード急ブレーキの暴走運転をしたりもした。
高校に行かずにプラプラするようになった自分に対して、バイトしないなら家から追い出すと怒った両親は、以降、自分がどんな努力をしても全力で叩き潰す方針にしたらしく、
ファッションに気を遣えばダサイと言われ、中学校時代の同級生が有名になれば(オリンピック選手になった学生がいた)、あの子はこんなに活躍しているのに、息子はこの程度だと笑い、
大学入学資格検定を勉強し始めたら、「お前は一生底辺だから学歴は必要がない」と怒った。
俺はうつむきがちの自己肯定感の低い人間になったが「暗い人間だな、気持ち悪いな」と父はことあるごとに親族に言っていたらしい
親を殺すか、親に殺されて、自分の人生は終わるんだろうなと、10代から20代のころは漠然と考えていた。
正社員になることができた会社を3年でやめた時も「つらいなら辞めればいいんだよ」とか言って優しさを見せたと思ったら、退職したその日に、「退職したのは自己責任だからな」と言って笑う。
幸い20代中盤で伴侶を見つけ、家を出た。
親と親の顔合わせで、妻の両親と口論になり、結婚式や披露宴はしなかった。
妻と自分の両親の顔合わせをした時には「こいつは精神病だから結婚には向かないと思うよ」と妻に父は諭した。
その時ばかりはいい加減にしてくれ。俺を不幸にするのが趣味なのか?と思ったが、幸い、妻は気にせず結婚してくれた。
結婚後も、俺の名前で勝手に作ったクレジットカードを満額まで使い切り(しかもリボ払い)
請求だけ回ってきた時は心底驚いた。
結局、弁護士をいれて、返済させた時点で、親との縁はほぼ切れた。
絶縁状みたいなものを俺の住所に送ってきたので、こちらも戸籍を外して、閲覧制限をかけた。
弟と連絡は取りあっているが、モラハラ息子とか、帰ってこない親不孝息子などと母は吹いているらしい。
俺みたいな男の子供が幸せになるとは思えないし、子供をまともな人間に育て上げたり、幸せにしてあげられる自信がない。
でも妻は子供を望んでいる。
毒親に育てられた俺は、毒親ではなく、ちゃんとした親になれるのだろうか。
何事に対しても自信がもてない
白饅頭氏のnoteを読んで感慨深くなり勢いでツイートしてしまったので深掘り
https://note.com/terrakei07/n/n0024690e307c
助けられなかった友達……。10年近く音信不通の後に帰って来たことがあった。「助けてくれようとしたのはわかったけど、惨めな姿をお前らに見せたくなかった。でも、あの励ましがあったからみんなから逃げた後に気持ちを入れ替えることが出来た」と
ヌルいMMOのほうが女性PLが多いという話しだったし、有名な「FFは遊びじゃない」発言の出る前だったと思うけどUOやFFは殺伐としすぎていてついていけないと思ったので。ぬるオンライン(仮)を始めた。
初めてしばらくはギルドを渡り歩いたりでプラプラして、後にPSOから落ち延びてきた面子を中心としたギルドに入った。そこに、ぐだ男とするか、がいた。ぐだ男は高校生の頃からPSOをやっていたらしくみんなにかわいがられていた。
ウェイなギルドで最盛期には50人(女性約30%)くらいになったのかな。やたらオフ会が多く、飲み会、カラオケはしょっちゅうで、ギルド内でバンド始めた奴らのヘタクソなライブを見に行ったりもしたし、フットサルとかもした。俺も社会人になってからこういう集まりは貴重だと思って良く参加していた。アルファードを買ったアルファオス、アルファ氏に便乗して平日でも関西の徹カラに出かけたりした。もちろん、全く出てこない人もいた。
今で言えば縦の旅になった。パーティーリーダー勢は、アルファ氏はもちろん、本職税理士のギルマス、俺もそうだけど金に余裕があって彼女がいる独身男性、もしくはガチゲーマー男性。女性陣は絶対にリーダーシップは取らないけど半分は中二病、イラスト描けたり声優志望だったり。販売やコールセンター勤務、あとはシンママも。ポスドク東大女子とかもいた。
やがて、ちゃんと定職がある男性と、働いていたり無職だったりの女性ギルメンがくっついたりするようになった。俺らのモテ指導の成果だと楽しかった。
で、問題になったのがパッとしない男性陣である。バイト生活だったり、底辺大学を退学になりそうだったり、そもそも高卒無職だったり。資格試験を勧めたり、就職先を斡旋したりもした。ここで壁にぶつかったのである。パッとしない勢は能力が低いのである。
ぐだ男もその一人で、そして強権的な父が進路を勝手に決める系の毒親家庭環境だった。バイトは家門の恥と言われて三流大は出たものの無職だった。そこまで息子の進路に介入するなら、仕事斡旋しろよとか、もう解放してやれとかギルマスとアルファが説得に出向いたこともある。
さて、正攻法で就職させようと言うことで資格試験の勉強をさせた。手始めに基本情報技術者試験資格、俺らはまがりなりにも全員パソコン大先生なわけで、教科書3冊買って3日で1冊、計9日集中して勉強すれば大丈夫だろうと踏んだ。
一日12時間 × 9日 = 108時間と言うことだ。長めのRPG一本分だ。
しかし、ぐだ男はどんなにつついても一日30分も勉強できなかった。それじゃ、216日かかる。忘れるしサボる日も入れると一年かけても基本情報取れないだろう。ゲームなら一日12時間できるのにだ。
が、よく考えたらパーティーリーダー勢は同じゲームを遊ぶにしても、ギルドの運営に奔走し、攻略情報を集めたりしているのに、ぐだ男は指事に従ってついてくるだけの奴だったのだ。
どうにか俺らにできたのはぐだ男の親を説得して、ぐだ男に運転免許を取らせたことくらいだった。
そうこうしているうちに年月は経ち、ギルマスは当時ゲーム外で付き合っていた彼女と結婚してギルドにはあまり顔を出さなくなった。
と同時に空前の結婚ブームが巻き起こり、5~6カップルが爆誕して披露宴企画が忙しくてぐだ男にはあまり構ってられなくなった。俺もギルドメンバーと結婚した。前の彼女と別れた顛末は俺を十分女嫌いにさせるものであったがそれは別の話しだ。
それはさておき、ぐだ男は誰の結婚式にも来なかった。
その頃には、ぬるオンラインも完全にマンネリ化していてゲームはしないで、SSやイラストを交換しボイスドラマを作ったりと課外活動中心のギルドになった。マビノギやアラドに乗り換えた奴もいれば、スパロボしか遊ばなくなった奴もいる。
ぐだ男は俺たちの前から消えていた。
ネトゲの人間関係は薄いと言うけどそれからもしばらくは関係は続いた。mixiにログインしなくなってからはだいぶ消えたけど。ツイッターに乗り換えたときについてきた面子とはまだつながっているし、産まれた子供同士を遊ばせたりもしている。
今から5年ほど前だったと思う。当時はそれなりにモテていたが今では低収入過ぎて婚期を逃した奴を交えてオフ会をしていたらぐだ男の話になった。
「あ、俺まだぐだ男とlineつながっているよ。あいつはもうお前らには会いたくないって、でも一応毎日働いているし家も出たみたい。『助けてくれようとしたのはわかったけど、惨めな姿をお前らに見せたくなかった。でも、あの励ましがあったからみんなから逃げた後に気持ちを入れ替えることが出来た』だってさ」
少し酒がうまく感じた。
おまけ
学生時代まで巻き戻すと、
助けようとしてみんなで世話を焼いたけど後足で砂をかけて愛想を尽かされた奴とか
いっぱいいるけど彼らはそれなりに居場所を見つけてそれなりにやっているようだ。
俺が代わりに卒論を書いてやったのに教授発表会の前に逃亡した先輩なんか今では医者だ。
おまけ2
ギルドでダンナや彼氏について愚痴を通り越して悪し様に言っている女はヤバい。姫である自分を快適にさせてくれないダンナや彼氏をなぜか見下す存在ばかりだった。