はてなキーワード: チェーホフとは
キルアオやウィッチウォッチは良くも悪くも全体にも個々の話にも一貫性があるんだが、グリーングリーングリーンズは何をしたいのかが明確な感じになってない。
要領よく生きてきた凡人が天才になって世界で活躍するという設定に対して、周囲のレベルがいきなり凄い高い。
凡人が天才に食らいついていくという物語は分かるんだが、当の本人がどういう人間なのかがイマイチ見えない。
正々堂々勝負したいのか、勝つためならハンディが欲しいのかも場面ごとにコロコロと変わる。
それが人間臭いテンパリとして描かれるならともかく、作品はさもそこに一貫性があるかのように語ってくる。
なんで?
今週の内容もなんだか、チグハグだ。
「凡人のくせに挑戦した結果、失敗した」という思い出が宿った写真を「変に冒険心を出さない戒め」と語りながらも、それを切り口に始めた話で「俺は本気でやって天才に勝つよ」と口にする。そして、最後には写真を消す。
一見すると話が繋がっているように見えるが、よく考えるとおかしい。
「戒め」の写真を消して冒険に挑むというのは確かに物語としてはそれっぽいのだが、実際にこの写真に写っているのは「凡人だけど挑戦してしまうという気持ちが昔から一貫していた」という部分なんじゃないのか?
100人の漫画家を集めたら95人は、この物語の終わりで「挑戦しちゃうんだよな。結構いい顔してるじゃん、俺」と言ってこの写真を大事にしまいなおす物語を描くだろう。
漫画なら絶対にやってしまう「主人公に一貫性をもたせる」を放棄している。
第三者の目で見ればおかしく見えるような公道を普通に主人公にさせるし、それがおかしいことを漫画の世界は自覚なく描く。
主人この目から見れば、一貫性のない行動に一貫性があることになっているという思い込みが世界を通して我々の目に飛び込んでくる。
漫画というものはどうしても「体を一貫させる*」ということを大事にしてしまう。
起承転結として正しい形を。
チェーホフの銃は撃たなければいけないし、燻製ニシンの虚偽はそれが分かる形にして終わるべきだとされる。
物語として納得の行く着地点を目指して、都合よく全てがトントン拍子に進まなければいけない。
何気ない食事一つから殺人事件のヒントを見つけ、怪しい動きをしていた子供は真犯人に口止めされていなければいけない。
凡人の癖に主人公が強いのは「めっちゃ努力する天才だから」で終わらされており、他の天才も滅茶苦茶努力しているはずなのに追い抜かれていく。
なんで主人公がゴルフを始めたのかの理由は驚くほど薄っぺらいし、主人公の自己認識も言ってることもしょっちゅうブレる。
枠組みに囚われた人間がついつい「これはこうあるべきですよ」と自縄自縛に陥ってしまう所をすり抜けていく。
これは、まるでAIによる出力だ。
人間が常識という壁によって気づかなかった可能性を、ブルートフォースアタックの総当たりで無理やり引っ張り出してくる。
将棋の世界はAIの力によって新手が無数に産まれ、新手を乱発する棋士はまるでAIのようだと評される。
ジャンプという動脈硬化を起こしきった雑誌に吹き込んだ新しい風だ。
皆、読んでくれ。
そして首を傾げてくれ。
「体を一貫させる」ことに囚われないリアルな高校生の無軌道さを楽しんで欲しい。
で、一言で言えばドキッ!ホモだらけの戦国大怪獣のあとしまつ~(生首)ポロリもあるよ!~って感じスね
大怪獣のあとしまつ、我は三木聡ファンなのと山田涼介ら主演の熱演もあって、そんなブチギレなくてもいいじゃん、面白いジャン、て擁護してて
たまたま映画観る前にレンタル落ちDVDが700円で売ってて、700円は高ぇなって買わなかったんだけど、立ち喰い師列伝も500円で買わなかったんだけど、ダイの大冒険が値下げされてついに2000円を切ったんだけど、
俺首であとしまつにブチギレてたゴジラファンの気持ち分かった!
いや、上映前にチラシみたら「笑いあり」みたいな書いててちょっと嫌な予感したんだよな
席もやたら空いてたし…
でも、西島光秀は良かった(テレレレー)。ホモ以外にもシグルった一面もあったり。信長も予告だと心配だったけど、アッパータイプのドSホモでキス魔で中々良かった。
秀長も初っ鼻のパワハラはちょっと…だったけど、そこからは人の善さが出てきてよかった。勘兵衛も陰険って感じはなく、むしろ半兵衛っぽくもあり…鳥取の飢え殺しやって三木の干殺しやらなかったの、タイミングの問題かと思ったけど半兵衛スポイルするためだったんかもな
中村獅童はピンポンのドラゴンのイメージだったから、エンドロール見るまで気付かず、無名の若手芸人とかかと…こういう演技力もあるんすね
一徳利休ももちろん良いスね~しかし、利休・秀吉黒幕説メジャーになりすぎでわ?
ワイはへうげで知ったクチ
そういや、映画関ヶ原はひらパー兄さん目当ての歴史知らん人にはマニアックすぎ、歴史マニアにはチープすぎたらしいが、へうげとセンゴクで歴史を学んだニワカには丁度いいこだわりっぷりで良かったんよね
で、本編の話。ワリとグロだし、生首飛ぶところまでちゃんとやるのは偉い。どーでもいいが、ワイ自身は漫画とか文章のグロは平気だけど映像はキツイタイプ…と自認してたが、これ見て割と平気だったんで大丈夫かも
しかし、淫夢で耐性ついてたはずなのにホモキス、ホモ濡れ場連発はキツかったでよ。
変態道糞武将の村重(香川博之のつもりで見てたらエンケンだった)×光秀はちょっと珍しいカップリングじゃないか?ワイは初見。餅のエピソードをこうするか~と思ったが、それよりディープキスよ。そして光秀、お前めもか
ふぅん、武将にしては珍しく衆道を嗜まなかった秀吉との対比か…と思ってたら猿もホモ!
ホ
モ
ま
つ
り
新撰組ホモの御法度とかあったし、そっちの戦国版かな?でもそれがテーマというワケでもなく。でも、男女の濡れ場が一切省かれてるのはある意味新しいかも。ヒロインとのキスシーンとか、ポリコレが言われるようになっても必ずってほど入ってるし(シン仮面ライダーで恋愛じゃないとか言ってたのは意識的だと思う)
ヤスケ、モブでピンボケしてる時からやたら存在感あったけど出番も割と多かった。ただ、チェーホフの銃じゃないけどSSR首ごと物語から退場されても困る。いつ再登場するんだ?って無駄に気になっちゃってたし
ニワカなので高天神城と高遠城混同してて、長篠キャンセルか~って考えてたら始まって混乱した。やり手婆の柴田選ぶのは分かってても面白かったけど、ギャグと見せかけて…ってのはまあ…しかし柴田の演技力、こう見えて女優なだけはある
家康あっさり死んだのは、おっ、影武者徳川家康!?と思いきやただの影武者っつーね。
老獪に生き延びるってのがやりたかったのはわかるが、本物が死なないとギャグとしてはあんまり。半蔵と利三(だよな?)の空中バトルも、中途半端さが…トリックみたいに唐突にゴムゴムし始めるくらいして欲しかった
猿が家康に連れ込まれるのはホモレ…と思いきやその後のコント見るによくわからん。秀長のキャラはいいが、弛緩しすぎて秀吉じゃなくたけしになっちゃってるのはどうか…
暗黒JKはこいつに尺使いすぎじゃね?あっまたホモか…あ、そういうこと…ってのが予想外ではあるし、やりたかったことは分かるんだけどまあ…
清水宗春は嫌儲の清水宗春思い出してちょっと笑ったが、コント自体は史実とのギャップありにしてもあまり…これも首のひとつってのは分かるけど。
神戸信孝がチラっととは言え出てたのは良かった。
怪傑ソロリは御伽衆だから史実バリアーあると思いきや死んだのは予想外だった。道糞もどうせ生きてると思ったが死んだのか?
渡河でゲロ?吐くのはわかるようなわからんような。溺れかけるとかのがわかりやすくね?ただ、ソロリの死から歴史が歪んでるっぽいからこの後アッサリ病死したりして…
オチの前、天海出てくるかと思ったら出てこなかったけど、あそこで死ぬのは悪い意味で予想ついてた。
大オチも、いいたいことは分かるが弱いっつーか、モスケの方を蹴った方が分かりやすくねーかなー
で、あのホモの踊り子はなんだったのか…?多分お国なんだろうけど
ウェルベックを「終わってる村上春樹」と例えてるのを見て村上春樹にちょっと興味持った。
中学の頃1Q84読んでみたけど、何がなんやらさっぱりだった。スノッブでやたらセックスをするくらいの前印象しかなくて、確かにくらいに思った。途中で読むのやめた。
空豆みたいな名前で美人だけど顔がアシメントリーな殺し屋がセックスしたりなんか線路だか高架だかに靴を脱いでなんかやってるシーンしか覚えてない。
あとあと現文で村上春樹が翻訳したって小説も読んだけど、そっちはマジで手榴弾(手投げ弾って表現についてなんか解説を受けたような気がする)が出てくる事しか覚えてない。
この間ドライブ・マイ・カー観て、喪失と再生がテーマだ、的な受け売りをコンパスに何となく言わんとしてる事は読み取ったような気分になった。
演劇は自分の心の声を聞くことだなんて語ってみるけど、もっと地に足のついた悩みは抑圧してしまっている事にも気がつけない。理屈を超えて悲しむべき時は悲しんで、どうにかこうにか生きていくしかない。的な。チェーホフの劇中劇がかなり内容と密接に絡んでるっぽかったから、ちゃんとそのメタファー(直喩か?)を意識しながら観てたらちょっと疲れた。
10代の頃読んだスノッブセックスデカダンス小説も今読めばまた違った感想になるかもしれない。
この間人間失格を読んでみた時も、多分中学の時に読んでたら違う感想になってただろうなって思ったし。当時なら「これは自分だ……自分だけが本当の意味で彼を理解できる……」って思ってた気がする。今読んだ限りでは総じて自意識の肥大したナルシストの自己弁護じゃん。社会性として、エクスキューズとして自罰的な風を装ってるだけで、自分大好き人間じゃん。ケッ、って感じだった。ただ所々人間の普遍的な悩みを明確な輪郭で描いたパンチラインがあって、そこは自意識を突っつかれたけど。
でもおれが興味あるのは人間存在の不条理とか実存主義みたいなテーマだし、村上春樹よりはカミュとか読んだほうがいいのかもしれない。
辛うじて趣味といえるものが読書ぐらいしかないから、読書好きコミュニティに登録してる相手にばかりいいね!している。だがコミュニティというのは目に留まるようとにかく沢山登録することが推奨されるものだから、プロフィール文の趣味は全く別であることの方が多い。
運よくプロフィール文で読書好きといってる人を見つけても、あまりにも一般的な趣味ゆえに嗜好が合致することはほとんどない。こちらは「辛うじて趣味といえる」程度の読書量で、かつ流行りなど一切無視して読みたいものを無軌道に読んでるだけだから尚更だ。最近何読みました?がマッチング後最初の常套句だが、返ってくる作家や書名は(有名なものでも)99%読んだことがない。
しかしそこで知らないと言うと話が終わってしまうから、その後の応答は必然的に2つに絞られる。まずそれがあまり有名でない作家の場合は、面白そうですね!と興味のある風を装いつつ、作品のディティールや周辺のジャンルについて聞き出してゆく。メジャーな作家の場合は、適当な作品のあらすじを調べて矛盾のない(漠然とした)感想を捏造し、昔読んだが詳細は忘れてしまったふりをする。そしていずれの場合も、話題となった本をAmazonで即時買い求める。
このとき、前者の場合でも本を買ったことはまだ話さない。二言三言話しただけでいきなり買いました!と来られるのはあまりにキモいだろうから。やり取りが続いて直接会うとなった際、そういえばこの間言ってたあれ読んでみたんですよ~と持ち出すのが理想的だ。後者の場合、後々になって奥付を見られても大丈夫なよう古書を選ぶ配慮も重要だ。どちらにしても、届き次第すぐさま読み始めて話題に追い付いておく必要がある。
こう書くと読みたくもない本を無理やり読んでいるみたいだが、不思議なもので今まで見向きもしなかった本でも人に面白いと言われると俄然興味が湧いてくる。これはロゴスのアウトドアグッズを見かけて旅のラゴス(名前だけ知ってた)が読みたくなるような自分の無軌道さのせいかもしれない。星野道夫、ルシア・ベルリン、米澤穂信、徳田秋声、ケン・リュウ、平野啓一郎、チェーホフ……。この1年で本棚のレパートリーはずいぶん広がった。
マッチングアプリは、相手からのメッセージが返って来なければ終わりの世界だ。ほとんどの作家は結果的に話題に持ち出す機会を得られず、手元に本だけが残っている。昨日は木下龍也の『天才による凡人のための短歌教室』が自宅に届いた。誰かと話をするあてはもうないのだけれど、週末はひとつ短歌でも練ってみようと思う。
チェーホフの銃を信奉している人だ
大学を卒業して就職したのが15年前、同じ頃にデビューした作家がまあ当然いるわけだがソイツらへの嫉妬が止まらない。
とにかく就活を成功させて、生活を安定させることを求めながら俺が就活をして、卒論を書いて、ストレスはマスかきで解消していた頃に奴らは代わりにシコシコ作品をしたためて応募していたのだ。
酷い裏切りだ。
だけど実家が細いから、頭もよくないしコミュ障だから、とにかく社会から一度ドロップアウトしたら再合流できる自信がなくてひたすら就活を目指して生きていた。
就活を目指してバイトをし、就活を目指してサークルに入り、バイトと勉強のバランスを待ちがえて単位が不足してバイトを辞め、サークルで人間関係を築けなくてサークルを辞め、最後に残ったのはボロボロでギリギリな単位とゴミのような卒論、それにふさわしい就職先。
いつだって脳内では「いつか作家になって辞めてやる」と思っていた。
一発勝負で一気に突き抜けるしかないと思い込んだ俺のペンは強張り何も作れなくなっていた。
心のなかではいつだって、自分が就活で苦しんでいた頃に実家の太さに甘えて小説を書いては応募して「◯歳の天才!新たなる才能!平成の!令和の!新時代の!」と褒め称えられた同級生作家達への憎しみばかりが渦巻いていた。
そんな中で彼らに負けずに活躍している自分を妄想し続けるうちに、俺は遂に星雲賞 長編・短編同時受賞を3年連続で果たすのだった。
このままでは来年も俺が星雲賞を取ってしまい他のSF作家が腐ると危惧し私は星雲賞震災委員会と競技して自分を星雲賞殿堂入り作家として受賞対象から除外するように決めた。
何を言っているだ俺は……。
ちなみに俺の作家としての必殺スタイルは「序盤必殺<ブリーチング・ロケッティア>」「終盤滅殺<クロスファイア・チェーホフ>」「竜頭龍尾(ダブルドラグーン)」だ。
恐ろしいだろ……俺はもう社会人15年目だ。
何をしてきたんだろうか俺は……。
俺はこの人生を一体どうしたいんだ。
もう若くもない。
青春を歩めず、朱夏もあらず、白秋も望めず、黒冬にたどり着くこともなく死ぬ。
無限に続く土用の狭間、人生の季節は唯一つ永遠のモラトリアム。
助けてくれ……
以下簡単に箇条書きで
なんか皆して口を噤んでいる感じがする。
マクロスにおける2みたいな扱い。
各キャラクターの後日談を描くエピローグ集としては悪くなかったと思うんだけどな。
それぞれが失敗と成功を繰り返しながら地道に生きてる感じで。
ただ4年間という月日の割には全体として歩みが遅いようには思った。
社会人としての4年なんてそんなもんだって話なんだろうけど夢に近づいてる感じがないんだよね。
戦艦の映画を作る話だから「これ七福神発進だろ」と期待してたら全然そんな話にならんかったのもしっくり来ない。
いや、これがリアルなんだよと納得する人もいるんだろうけど俺は「ぶっちゃけSHIROBAKOってこれで話が閉じるんだからもうチェーホフの銃は撃っちゃえば?」と思ってしまったわけだな。
「そこをあえて外して俺たたにするのがリアルなんだよ」と伝えたかった映画なのか?
でもフィクションにそんなの求めてないよ。
フィクションに求めてるのは夢であって、リアリティは夢が見終わる前に夢だと気づいて覚めてしまわないようにするための時間稼ぎの麻酔みたいなもんでしょ。
そういうのは純文学とかアート系映画とかでいっぱい実績があると思うぞ。おれもめちゃ詳しいわけじゃないが、チェーホフとかエルフリーデ・イェリネクとか、アレクセイ・ゲルマン『神々のたそがれ』とか、アレクサンドル・ソクーロフ『モレク神』とか、エミール・クストリッツァ『アンダーグラウンド』とかは個人的に推したいし、この分野は探せばそういうものの蓄積がめちゃめちゃあるはず。
途中で自分で声優の話してるからうすうす気づいてるんだろうけど、セリフ音読してみろ
とてもいえないような「高速増殖炉もんじゅ」とかいれてねえか?
普通は「買った」ですむとこを「購入」みたいな硬い音読み言葉を自然にセリフにいれてしまってないかのチェックに、音読はなるんだ
一度発音してみれば「こうそくぞうしょくじょ、ええとアレ」みたいにどうしてもなることがわかる
どうしても原語のままつたえたければルビ(逆ルビ)を使う手もある
パン咥えたまま発音するやつのセリフの「んもももももっもっも」のルビに「んなこといったって」といれる 抑揚で大体伝わってるんだなってわかる
あと音便 促音便撥音便きっちりいれてこ 「なんでオレがンなことやんなきゃいけねんだ!」みたいな感じ
二葉亭四迷以来、耳で聞いたままのセリフを小説にかいていいことになったんだぜ、感謝だな
パクリ元→ https://anond.hatelabo.jp/20210212080317
だって楽しそうだったから...(自分は文学的な教育は受けてないし、誰かと読んだ本の感想を共有することなんてないので、元増田に文学サークルとか友人とか出てくるのがうらやましい)
ネタバレありだけど、ちゃんと確認せず書いてるので記憶違いがあるかも。あと、後半になると全然読んでなかったわ。
オデュッセウスがトロイ戦争から帰る途中で船が難破して右往左往頑張るのを眺めるお話なのだけど、勇敢で直情的な普通のおっさんなので苦労するところは苦労してて良い。あと、イリアスと比べても昔の神話らしく出てくる人物とか神様の類がガチで理不尽なので良い。話がズレるけど、イリアスにはディオメデスというやつが主人公然として出ずっぱりなのだけど、オデュッセイアの回想には全く出てこないし、アガメムノンとかアイアスとかと違って他の作者の物語にも出てこないのだけど、あいつなんなん?
途中で読むのをやめた記憶がある。
エディプスコンプレックス(父親に対向心を燃やし、母親に恋慕する、的なやつ)の語源だと聞いて読んだら、全然そういうノリの話じゃなくて「へぇ」ってなったやつ。オイディプス自身は預かり知らぬところで運命に弄ばれて、最後にはすべてを理解してしまって絶望する可哀想な話なのだけど、どうでもよいことで人を殺したことがトリガーでもある(それも運命ではあるのだけど)ので、自業自得感もある。気楽に人を殺してはだめ、絶対。シェイクスピアの悲劇とかもだけど、「100%落ち度がない悲劇の被害者」ってあんまり昔の物語には出てこないね。
タイトルすら知らないやつ、その1
いまいち印象に残ってないけど、なんかずっと酒を楽しんでて幸せそうだなって思ったような気がする。
地獄編の半分くらいまで読んだ。作者(ダンテ)が古代の詩人だか哲学者だかに褒められて地獄めぐりを導いてもらうところから始まって、自分の嫌いなやつ(政敵とか批判者)が地獄で苦しんでるのを巡ってはひたすら口汚く罵って回るという、その性格の悪さというか根暗さに嫌気がさして読むのをやめた。原文だと詩的というか言語的な美しさとかあるらしいけど、こちとら娯楽としてしか本は読まないので日本語で読むからそんなん知らん、こいつは陰湿。
確か冒頭に「酒でも飲みつつゲラゲラ笑いながら聞くためのもんだから」みたいな説明が入るのだけど、そんな感じ。すごいでかい巨人の話だけど、家を椅子にしたと思ったら小便で洪水を起こして家を押し流したりするので、巨人としてのサイズも大概統一性がないんだったはず。なんか「人間の絆」だったかで、大真面目なキャラがラブレーを手放さなかった、みたいな描写があった気がするのだけど、ニュアンスがわかるようなわからんような...と思った記憶がある。
シェイクスピア作品は、意図はどうあれよく「様々な作品の元祖とも言えるものなので、読むと後続の作品がより楽しめる」的に紹介されるのだけど、普通に単体で楽しめると思う。そもそも、別作品を読んでて「あ、これシェイクスピアで見たやつだ!」ってなったからって楽しいか?という感覚が個人的にはある。ひとつ上にラブレー云々も別に良い要素だと思わなかったし。で、ハムレットはシェイクスピアの戯曲の中でも登場人物の精神性の完成度が一番高いと思っていて、劇的さでは「オセロー」とか、キャラクターの鮮烈さでは「リチャード三世」とかには劣るかもしれないけど、舞台装置としてのキャラクターではなく、"異なる価値観、教育etc...の元に自分で考えて行動する登場人物たちがつくる物語"としての面白さが本当に高いと思う。歴史的価値とかは忘れろ、楽しめ。
パルケエスパーニャにいた。
巻末の解説すら読まないことが多いので、アイルランド云々の話をパクリ元で見て「そうだったんだー」ってなった。それぞれの国には短編小説くらいの分量しか滞在しないので、それぞれ短編SFとか的なノリで読んで面白かった記憶がある。自分は自然科学系の研究者なので、科学なき探求(無為)をひたすらやってる国の印象が強い。なんかおまじない的なやつで作物の収穫量が増えるのでは?ってそれを試してるんだけど、当たり前に効果はまったくないし、それを評価するというプロセスが存在しないので無限に無為を繰り返してた。
タイトルすら知らないやつ、その2。
「目玉の話」は読んだけど、その結果として「悪徳の栄え」は読まなくて良いかな。ってなったやつ。
最強天才のファウスト博士が悪魔と契約して、「悪魔の力で楽しませてやる代わりに、人生楽しみきって満足したら魂もらうからな」って契約をする話なのだけど、すべての学問を修めた最強天才のはずのファウスト博士は普通に精神的に未熟なおっさんなので、酒飲んで暴れたり恋愛ごとやったり神話的な体験したりと色々していくなかでの言動がいちいち子供じみてるのが面白い。最後の理想国家のために働く的なパートでいきなり聖人的になってたり、全体の流れが説教臭いのが多少鼻につくのだけど、ラストシーンの迫力は自分の読書歴の中でトップクラスだと思う。ちなみにこの作品は「時よ止まれ、お前は美しい」って言葉の元祖なのだけど、これってファウスト博士からの「この世界を楽しみ尽くして満足した。これ以上の瞬間などこれ以降はありえない(だからもう魂を持っていって良いよ)」という悪魔への宣言で、なんかラブロマンス的なシーンで使われてるの見ると、「ん?」てなるんよね。
「面白かったな」という感想を持った記憶はあるのに内容はまったく思い出せない。なんか年上美人と若者が恋愛する話だったと思う。多分登場人物が本気で生きてる感があって各シーンは面白いって読めたけど、全体の流れにはさほどの興味が持てなかったタイプの話だと思う。
うだつの上がらない貧乏役人のおじさんが一念発起して外套を新しく買うのだけど、可哀想な目にあう。っていう胸糞の悪い類の話。どこかユーモラスなので面白がりつつも、「可哀想じゃんヒドイよ!」って思いながら読んだ。みじめな人間をみじめな人間の視点で描ききるって案外すごいことだと思う。でもゴーゴリのナンセンス小説ならもっとポップな「鼻」のほうが好きだし、大真面目な雰囲気でナンセンスをやっている感のある「死せる魂」も良い。死せる魂は未完だけど、なんだかんだ一つのエピソードがちゃんと完結してるので、未完だからって敬遠しないで良いと思うよ。
タイトルとあらすじを知ってて、なので読んでいない。
主人公の女性の半生記的なところがある物語なのだけど、主要登場人物であるキャサリン(主人公)やヒースクリフの主観的感情があまり描写されない(まったくされない?)ので、なんかヒステリックで意味不明な言動のキャサリンと内心が読み取れないヒースクリフが読者を置いてけぼりにしながらすごく力強くて迫力があって得体のしれない物語を作っていく話だったと思う。主観的情報がないからこそ感じられるキャラクターたちの感情の力強さってなんかあるよね。
クジラに関する雑学(どう考えてもガセのものがある)がしょっちゅうはいってくるクジラ漁船の物語(体感で全体の3割)。エイハブ船長とクイークエグのキャラクターの良さを傍観者主人公の視点で楽しむ感じだった気がする。ラストシーンの映像的な迫力は「ファウスト」のラストシーンの迫力にも匹敵するものがあると思う。文章の映像的迫力ってなんよ?って自分も思うけど、なんかそういうのはあるんだ。多分。
間違えなく読んでるし、面白かったと思った記憶もあるけど内容が思い出せないやつその2。多分、貴族の恋愛ものってジャンルはいろんな作品があるので、自分の中でごっちゃになってるところがあるんだと思う。あらすじを読むとなんとなく思い出すのだけど...
ディズニーの映画って、ノートルダムの鐘とかを筆頭にとんでもなく改変されてるもんだけど、不思議の国のアリスについては、その「不思議の国」感は素敵に映像化されてると思う。一方で、原作の「ひねくれイギリス人が伝わるかどうかは無視してそのアイロニーを子供にぶつけてる感」はなくなってるので、そういうひねくれたおっさんのノリのために読んでみても良いと思う。
ドストエフスキーはノイローゼ(死語)患者の独白を描かせると人類史最強だと思っているのだけど、この作品でも割とそういうところがある。ノイローゼ感のヤバさだけなら地下室の手記とか白夜でも良い。でも個人的には「罪と罰」の主人公の単純なノイローゼ患者ではないせめぎあい感が一番好き。
由緒ある一家が没落していくんだけど、正常化バイアスなのかなんなのかどこか他人事で、お母さんなんて特に事が進む毎に悲しんではいるんだけど、一切その精神性が変わらなくて(成長しなくて)、「多分この人死ぬまでこうなんだろうな...」感があってすごい。ラストにお年寄りの使用人に対する家族全員に関するシーンがあるのだけど、それがすごい印象的で、チェーホフの他の作品や戯曲を抑えてこれが良く代表作として出てくるのはこのシーンのせいだな、って個人的には思ってる。自分はチェーホフは戯曲より小説のほうが好き。
5冊だか6冊だかにのうちの一冊目だけ読んで続きを読んでなかった。忘れてたわ。
読んだけどあんまり好きになれなかった記憶がある。カフカは基本的にキャラクターに人間味がないのが面白いところなのだと思っているんだけど、「変身」とかの短編ならともかく、「城」とかこれくらいの分量になると、人間味のないお話は自分には楽しめないのだな、と思った。
読んでないけど、なぜかあらすじは知ってる。
読んでない。「ダブリン市民」があまり楽しめなかったという記憶があって手を出していない。ダブリン市民はどんな話だったか覚えてない。
結核患者の療養施設であるところのサナトリウムで生活するおっさんの話。ワナビー小説家だか学者だか(主人公ではない)のエピソードや、立派な紳士とその子供の印象的な挿話があったかと思うと主人公と別の患者の哲学かなにかの論争がてんやわんやあったり、女性患者との恋愛未満関係の話があったりと色々な要素がある。ただ、どの部分でも人物の精神性についてバリエーション豊かで不思議なリアリティのあるキャラクターが独特な言動をするので楽しめた。でも、突然こっくりさんをはじめたときは「作者どうした?」って思ったよ。なんなら今でも思ってるよ。
タイトルすら知らないやつその4にして作者名も知らないやつその2。
タイトルすら知らないやつその5にして作者名も知らないやつその3。自分は1900年あたりを境に新しい作品に苦手意識があってあんまり読んでないんだなって実感する。
このへんはすごい現代的なんだけど結構好き。現代的というのは勝手な自分の定義なのだけど、この辺の世代になるとやっぱり文章が少なからず技巧的になって、観念的な表現とか比喩とかが増えてくるので、「うるせぇ、自分の感情はもっとわかりやすく説明しろ!」って要求をしたくなるのだった。でもこの話は割とそれでもなんだかんだ心理がわかるので楽しめた。
このお話はすごい好き。南北戦争前の南部(黒人がバリバリ奴隷として使われてる時代・地域)のある町にトマス・サトペンというヤバげなおっさんがやってきて領地を開拓し、南北戦争を挟みつつ色々する話なのだけど、時系列で出来事を追っかけずに何人かの周囲の人達の回想などでだんだんとそのおっさんの人生の全体像を見せてくる構造になっていて、ただのヤバげなチンピラおっさんだったサトペンが、相応の過去と野望をもったクソチンピラになっていく(自分の中で)のがすごい迫力満点で面白かった。この作者の有名どころの読みにくさは、「響きと怒り」>「アブロサム、アブロサム!」>「八月の光」なので、この逆順に読むのがおすすめ、短編集から読むのも良いけど、「ウォッシュ」だけは「アブロサム、アブロサム!」のネタバレだから後に回すのがおすすめ。
タイトルすら知らないやつその6にして作者名も知らないやつその4
そこまで好きにはなれなかった。説教臭さとも違うなんか面倒臭い思想みたいなものが全体に漂ってる感じで、個人的にはそれが鼻に付いたんだろうなぁって思う。
読もうと思ってたけど読んでなかったのを思い出した。読もう。
なんか意味がありそうで(少なくとも自分が考える限りは)何も意味がないという、意味ありげさで成り立っている戯曲。ただ、それぞれのシーンが映像としてかなり印象的なので、その力でのめり込みながら読んた。で、読んだあと思い返すんだけど、結局何がなんだったのかイマイチわからないのだった。偉そうなご主人様とその奴隷のシーンとかあったけど、結局なんだったんだあいつら。
タイトルすら知らないやつその7にして作者名も知らないやつその5
読んだはずだけどちょっと印象が薄い。同じ作者の「愛人」がそうだったと思うのだけど、登場人物の心情描写が変に淡々としていて、でも行動はどこか直情的で不思議だなぁと思いながら読んだ気がする。その不思議さを楽しむのかな。なんか村上春樹の小説の登場人物の行動を感情的にしたような感じ。
タイトルすら知らないやつその8にして作者名も知らないやつその6。自然科学の研究者なのにSFは全然読まないのだった。でも、SFに興味のない研究者って外部の人が思うよりは多いと思うよ。そもそも本を読まない人をおいておいたとしても。
ラテンアメリカの文学って魔術的リアリズムとかなんとかって、「なんかありそうにない魔術的なシーンだけど、不思議とリアリティがある」みたいな評価がされてるらしいのだけど、それってヨーロッパ人の感性で日本人はヨーロッパ文学も大概魔術的なものとして受容してるところあるよなって思う。ただ、それはともかくとして、この作者の作品ではその言葉がしっくりくるとは思う。同じ作者の「族長の秋」とか短編の「エレンディラ」とかは割とお話全体のストーリーが意味と(場合によっては)ある種の寓意を持っているのだけど、この作品だけは全体の流れとかはあまり意味ないんじゃないかと個人的に思う(何度も読めばなにか見えるのかもだけど...)。それぞれのシーンをただただ楽しんでいたら、読む前に覚悟した長さの4分の1くらいの体感長さで読みきっていた。
タイトルすら知らないやつその9にして作者名も知らないやつその7。なんかすごそうなあらすじだね。
詩はたしなまないから知らない。ツエランはなんか親が読んでて好きだと言ってた気がする。ブレイクって多分宗教画を描く人でもあると思うんだけど、この人の絵はどっかで見てすごいなぁって思った気がする。
ちなみに、「哲学・思想」のパートと「日本文学」のパートは両方合わせても5~6作品しか読んでなかった。多分後30年経ってもさほど増えないだろうなと思う。
(1)はこちら。anond:20210212080317
好き。ただし、当時の人にしかわからないパロディやジョークが多く、というかこの本を通じてしか残っていないのもあるので、純粋に笑えるかどうかはわからない。とはいえ、わからないなりにナンセンスさは楽しく(「ぽっぺん先生」シリーズにも引き継がれている)、トーベ・ヤンソンなどいろいろな人の挿絵も楽しめるし、こじらせ文学少年・文学少女とも仲良くなれるかもしれない。大学時代の読書サークルは楽しかったなあ。
ドストエフスキーの小説は基本的に頭がおかしい。ドストエフスキー自身がギャンブル依存症でユダヤ人嫌いのヤバいやつだし。
登場人物は基本的に自己主張が激しくて感情に溺れやすく、数段落数ページにまたがって独白する。プライドが無駄に高くて空想癖がひどく、思い込みが激しくて人の話を聞いちゃおらず、愛されていないのに愛を語る。そしてそんな奴らが大好きだ。
ぜひとも増田をロシア文学沼に落としたいのだが、いかんせん「悪霊」を含む五大長編から挑戦するのはハードルがあまりにも高いので、「永遠の夫」か「賭博者」か「地下室の手記」か「白夜」からがおすすめ。ロシア文学はいいぞ。
ところで、高校時代の友人曰く「ドストエフスキーにはまるのは自己愛と自己嫌悪の衝突を必死にプライドで支える人間、言い換えるとモテない」とのこと。ひどい。
こっちはスマートなほうのロシア文学。一家が没落して家や土地を売らないといけないのに、家の経済状態をわかっておらず(認めず)すぐに物乞いに金貨を上げちゃう、現実の見えていないお母さんのキャラが強烈。ギトギト描写するドストエフスキーに対し、勘所をびしりと抑えるチェーホフ。
実家のお母さんと(特にお金関係で)うまくいっていない人におすすめ。
未読。怪作「木曜日だった男」は読んだんだが。ミステリはあまり読んでいないのでそのうち読む。
誰もが冒頭のマドレーヌの香りから想起されるママンとの思い出についてしか語らず、たぶんみんなちゃんと読んでないからなのだが、実は無職のマザコンが自分の性の目覚め(野外オナニーを含む)やソープ通いや失恋の思い出について延々と語っている話で、何度語り手に向かって「働け!」と言いたくなったことか。
しかし、実のところ登場人物の九割がLGBTという当時としては非常に先進的な小説で、さらに当時炎上していたドレフュス事件という両陣営を真っ二つに分断した冤罪事件をネタにもしているので(今でいえばMeTooやBLMに相当する)、実は差別反差別についていろいろ語っている増田たちにすごく刺さる内容だと思う。俺差別してないし~、あいつは〇〇人だけどいいやつだよ~、的な態度もぐさりとやられている。最高でしかない。
ちなみに、金に苦労しないボンボンがうだうだ恋愛で悩む小説が好きになったのはこの本のせい。「アレクサンドリア四重奏」とかね。
不条理ギャグすれすれで訳もわからずひどい目に合う小説。いきなりこの小説にチャレンジするのはしんどいので、まずは「変身」か岩波文庫の短編集を読んで、カフカのノリが気に入ったら読むといいんじゃないかな。
読んでいるとカフカがお父さんのことめちゃくちゃ苦手だったってのがびりびり伝わってきて気の毒(カフカは線の細い文学青年、父は叩き上げのビジネスマン。想像できるでしょ?)。お父さんとの関係がこじれている人におすすめ。
最高のダメ人間小説。精神勝利法なることばはどこかで聞いたことがあるんじゃないだろうか。作者は当時の中国人の意識の低さを批判したつもりらしいが、万人に刺さる内容。
ちなみに自分はダメな人間、情けないやつ、どうしようもないやつが大好きなので「指輪物語」のゴクリ(ゴラム)だとか、「沈黙」のキチジローだとかが大好きです。
さえないおっさんが妻の浮気を知りながら一日中ダブリンの町をウロウロするだけの寝取られ小説で(途中で女の子のスカートをのぞいて野外オナニーもする)、このリストの前に出てきた「オデュッセイア」のパロディでもある。
これだけだと何が面白いのかよくわからないのだが、実は当時の反英的な機運の高まっているアイルランドの空気を活写している。それだけではなく小説の様々な実験的手法の見本市みたいになっており、和訳もすごい。たとえばある章では英文学の様々な文体を歴史順に真似て英文学の発展をパロるのだけれど、和訳ではその章は祝詞に始まって漢文になり、漱石や芥川の文体を経て現代小説になるという離れ業で訳している。これがもっと無茶苦茶になると「フィネガンズウェイク」になるのだけれど、すでに言語の体をなしていないのでまだ読めてない。
上記の説明でドン引きしないでください。「ダブリン市民」をお勧めします。
結核療養サナトリウム小説。北杜夫ファンの間で有名な「ねーんげん的」の元ネタ。あらゆる知識を山のサナトリウムで吸収した主人公の運命やいかに! 「ノルウェイの森」で主人公が京都山中の精神病院にこの本を持っていくのは村上春樹なりのジョークか。
ただし、やっぱり長いので美少年萌えな「ヴェニスに死す」か陰キャの悲哀「トニオ・クレーゲル」にまずチャレンジするのがおすすめ。
はまったら「ブッデンブローク家の人々」や「ファウストゥス博士」を読もう。
洗脳エンドのディストピア小説なんだけど、増田で「一九八四年」が古いと言われてしまうんだったらこれはどうなるんだろ。読むんだったら他の「すばらしい新世界」とか「ハーモニー」とかと読み比べて、ディストピアの概念が現実の社会の変化に合わせてどんな風に発展してきたからを考えながら読むと面白いのかも。
未読。長すぎる。
未読。
文学サークルの友人に勧められて読んだんだけど、とんでもない小説だった。あらすじとしては、野望に取りつかれた南部の人種差別主義者が自分の帝国を作るために理想の女性と結婚するが、その女性に黒人の血が混じっていたために離婚して別の女性と結婚することから始まる、二つの家系の因縁話なのだが、時系列がしっちゃかめっちゃかなのでとにかくその男の妄念とその子孫の不幸ばかりがじりじりと迫ってくる。あまりにもすごかったのでフォークナーの他の作品は読めておらず、黒人差別を扱った小説も怖くて読めていない。
未読。
読んだがよくわからなかった。うつ状態のときには時間の経過さえも苦痛で、それを救ってくれるのは音楽だけだ、的な話だったか。とにかく本を読み漁っていたころ、新潮文庫のサルトル短篇集を意味も分からず読んでいたのを思い出す。わけもわからないままヌーベルヴァーグを観ていた頃だ。さっき出てきた高校時代の友人曰く「フランス映画のあらすじはセックスして車で逃げて殺されるだけだ」とのことだが、起承転結に還元できない小説を楽しむようになったのはこの頃からだった。
未読。
短いのですぐ読める。ゴドーはいまだに再臨しないキリストのアレゴリーだという説もあるが、実際のところはよくわからない。意味の分からない話だけど、僕らの人生も結構意味不明だよね、みたいな感じか。
未読。「愛人」は読んだが記憶のかなた。まだ幼くて没落する富裕層とその爛れた愛を十分に楽しめなかった。
どうでもいいが自分が年上萌えに目覚めたのは「海辺のカフカ」のおねショタシーンです。
レムの作品の中では一番好き。たとえ出てくる科学技術の描写が古くなっても(SFだとこういうことはよくある)、理解できない対象として立ちふさがるソラリスという惑星の描写は古びない。
SFは考えうるあらゆる可能性を検討し、人類の達成しうることや宇宙の中での意味について想像力の境界をどこまでも遠くまで広げていく文学だ。中には人類がろくでもない理由で滅亡してしまったり、人間など取るに足りないという悲観的なヴィジョンに至ってしまったりするものまであるが、それでさえ美しい。なぜなら、想像力がヒトという種の肉体に縛られまいと羽ばたいた結果なのだから。
最近SFをろくに読んでいないが、元気が出たらまた読みたいものだ。
初めて読んだラテンアメリカ文学。起こりえないことが起こり、名前がややこしいので誰が誰だかすぐに混同され、しかもそのすべてが意図的である。混乱してもとにかく読み進めてほしい。目の前で起きる不可解な出来事をまずは楽しもう。
慣れてきたら、これが不条理としか言いようのない南米の歴史の縮図だとかそんなことを考えてみるのもいいかもしれない。この本のおかげでボルヘスに、バルガス=リョサに、ドノソに出会うことができた。
一説によるとこの本が文庫化されるとき世界の終末が近づくという本の一つ(未確認情報)。新潮社がなぜか頑なにハードカバーしか出さない。ちなみに「薔薇の名前」にもそうした風説がある。
インド独立の瞬間に生まれた子供たちが全員テレパシーの使い手だった! こんな話があの岩波文庫に収録されるんだから世の中わからない。
主人公は裕福な家で育つが、じつはそれは出産時の取り違えによるものであり、誤って貧しいほうで育ってしまった子供が復讐にやってくる。それも、真夜中の子どもたち全員を巻き込む恐ろしい方法で。
インドとパキスタンの分裂、人口抑制政策、そういったインドの歴史をちょっと頭の隅っこに入れておくと面白いが、昼ドラ的な入れ替わりの悲劇の要素のあるSFとして娯楽的に読める。権力を持った強い女性に対する嫌悪感がほんのりあるのが難点か。
ちなみに、「悪魔の詩」も読んだが、(亡くなった訳者には本当に申し訳ないが)こっちのほうが面白かった。あれは当時のイギリスのポップカルチャーがわかっていないと理解が難しい。
独自の神話的なヴィジョンで有名らしいんだが、邦訳あったっけ?
未読。
卒業旅行でパリに持って行った。たぶん時期的には最高だったと思う。とにかく血だとか死だとか堕落だとか退廃だとかそういうのに惹かれる人生の時期というのがあり、まさにそのときに読めたのは幸せだった。もっとも、所詮自分はそれらを安全圏から眺めていただけだったが。
同じく卒業旅行でパリに持って行った。残念ながらフランス語はわからないのだが、フランスのサンドイッチは最高だった。当時はまだピュアだったのでキャバレーやフレンチカンカンは見に行っていない。
未読。
未読。
ドストエフスキーの作品がカーニバル的、つまり一斉にいろんな出来事が起きてしっちゃかめっちゃかになって、日常の価値観が転倒する、みたいな内容。確かにドストエフスキーの作品は爆弾抱えた人間が一か所に集まってその爆弾が一斉に大爆発、的な内容が多い。
ただ、これ以上のことは覚えていない。実はあまり文芸批評は読まない。
未読。
疲れたので続編をやるかは不明。日本文学や哲学・思想は海外文学ほど読んでないし。まとめてみて、遠ざかっていた文学に久しぶりに手を伸ばしたくなった。
ドラマツルギーというのは劇作術と言って、ドラマをよりドラマらしく仕立てるために使われる方法論であったり、信念であったり、あるいは独自の法則のことを言うのである。
例えば、有名なもので言うと「チェーホフの銃」という、「劇中に登場した銃は必ず使われなければならない」という法則がある。つまり、ドラマの中に無駄な道具立てや登場人物は存在してはならないという、ある種の劇作術における信念を表しているのがこの「チェーホフの銃」というドラマツルギーなのである。
他にも卑近な例を上げるとすれば、『とある魔術の禁書目録』にて「熱膨張って知ってるか?」とか「粉塵爆発って知ってるか?」「電圧が例え数億ボルトでも――」云々、といったように、現実の法則を切り取ってドラマの中に無理やりぶちこむことでドラマを成立させる手法も、一種のドラマツルギーであると言える。これらのことは換言すれば、ドラマの中にはドラマの法則性、そして、現実の法則性とは独立した独自の法則性がはたらいているということになる。コーヒーに浸かった銃がそのまま使用できてしまえばその時点でドラマは終わってしまうのである。ドラマと、現実は違うものだし、時にはそれは大きく食い違っていなければならないものでさえあるのだ。
で、最近見られるのはこのドラマツルギーと現実の法則とを幾分混同している人々である。
例えば某漫画における「意識混濁している少女を結婚に誘導する行為に異を唱えたい」という意見は少しズレてる、ってな話なのであって、劇を進行させるための道具立てを批判するという行為がズレていることを俺は人々に知ってほしいのである。そんなこと言ったら刀ブンブン振り回してるキャラクターは現実においては銃刀法違反だし、「味方に当たったら危ないから、もっと安全な短刀を使うべきだ」みたいなカンボジアPKOばりの意見さえ正当化されてしまう。
というか、こういう物語のキャラクターに対する善悪理非とか倫理的瑕疵を検証する姿勢は俺としてはブーイングの対象である。歌劇『カルメン』に登場するカルメンは倫理的に破綻したジプシーだから悪だ! とか言ってる人間がいたら困惑してしまうのと一緒で、「このキャラクターは倫理的に現実と乖離している」って意見全般は、基本的にナンセンスなのだということは知ってほしいんですね。いや勿論そういう意見を一切封殺するのもまた息苦しいんだけれど、某ラノベに即して言うならば「ドラマツルギーって知ってるか?」ってな話なのである。