はてなキーワード: ドラマツルギーとは
自分で言い出したことの説明を放り出して「一点だけ答えてみ」ってどのツラ下げて言ってるんだ?
お前が言い出した「一貫性」と「単一機能」の一点だけでもこっちは具体的にお前のデタラメぶりを指摘してるんだから
つまみ食いだけで言い返せてないって言うなら、まずはその理由を自分の言葉で説明してみ?
まあ無理だから「ザコ」だの「単語のつまみ食い」だのとレッテル貼りして説明放棄してるんだろうけど
で、なんか「人間の行動が首尾一貫しないように見える」の定義にこだわってるけど
仮にそれを矛盾と呼ばないと結論づけたとして、今まで書いてきた
要所要所で前に言ったことと後に言ったこととが一致しない行動を取っていて、その動機が説明されていない
主人公の要所要所の行動に説明が付けられないってのは「人間理解の観点でもドラマツルギーの文脈でも何の意味もない」シナリオだと思うけどねえ?
こういう指摘になんか影響あるのか?どれだけ言い方を変えてもシナリオの欠陥は変わらないだろ?
なぜ「仕方なく契約結婚して、でもなぜか子供を作りたくなり、でもなぜか育児は花江に投げる主人公」がいてはならないのだろうか?
要所要所で前に言ったことと後に言ったこととが一致しない行動を取っていて、その動機が説明されていない
お前の言葉を使えば「あるべきシナリオの流れというものが主体としてあって」
登場人物はそれに従って歩いていくだけの「安っすいドラマ」だろ
しかし救いようがないな
「一貫性」と「単一機能」の違いは行動の動機の問題だと説明しても
懲りもせずに「平板な機能キャラが上手から下手に歩いていくだけ」と動機を無視した説明にすり替えて逃げるし
お前から持ち出したドラマツルギーの文脈においてどんな意義があるのかと聞いても
「一貫性」と「単一機能」のすり替えの後は「フェミ風味が気に入らないんだろ」みたいなレッテル貼りの人格攻撃を急に始めるし
相反する行動を作劇の中で成り立たせる例として葛藤や止揚を出したら、理論通りじゃないからダメとかいう主張に変換されてるし
主人公の要所要所の行動に説明が付けられないってのは「人間理解の観点でもドラマツルギーの文脈でも何の意味もない」シナリオだと思うけどねえ?
ボクサーを撲殺したのは僕さ
これから満で数つけるわ
ナンを何枚も食べるのなんて、なんでもないよ
新患の新幹線に関する新刊に新館を立てて震撼し信管が作動する。
ケニアに行ったら生贄や
柑橘類の香りに歓喜し、換気を喚起したが乾季が訪れたので、寒気がした。
塗装を落とそうか。
観光客がフイルムに感光させた写真を刊行することが慣行になった。
サボってサボタージュ
景気が良くなりケーキを食べる契機を伺う徳川慶喜(とくがわけいき)
夫を成敗するオットセイ
つまらない妻の話
竹の丈は高ぇなー
餅を用いて持ち上げる
ロストしたローストビーフ
サボテンの植え替えサボってんな
過度な稼働は可動範囲を狭める
伯爵が博士の拍手に拍車をかけて迫真の爆死をし白寿の白人を白紙にもどす。
紅葉を見て高揚する
甲子園で講師をする公私混同した孔子の実力行使には格子窓も耐えられない。
死んでんのか?「心電図を取ってみよう!」
夜祭で野菜を食べる。
信玄餅を食べながら震源を特定するように進言する新元素を発見した人。
蜂の巣(honeycomb)を見てはにかむ
五反田で地団駄を踏む
ようやく要約が終わった
海溝で邂逅
豪華な業
甲板で甲板をかじる
甲板で乾パンをかじる
店頭で転倒
大枚をはたいてタイ米を買う
醤油をかける人「えっっ?」
神田でした噛んだ
少食な小職
牛の胆嚢の味を堪能する
あの娘にはどう告っても(どうこくっても)慟哭する結果に終わるだろう。
キーンという高音の起因が掴めない。
こんな誤謬は秒でわかるだろ
壊疽した箇所が治るというのは絵空事だ
経口補酔液
痴的好奇心
セントーサ島に行くのは正恩が先頭さ
軽微な警備
冬眠する島民
ベットは別途用意してください
The deserted desert in desert desert.
九尾のキュービズム
罹災者へのリサイタル
画家の画架
不納が富農になるのは不能だ
理工がRICOHに利口な履行
I sensed tha it is in a sense sense.
私はそれをある面では扇子だと感じた。
鯖を食べている人と、それを見ている人の会話
鯖 ça va?
ça va 鯖
ça va
ゆめゆめゆめをみるわけにはいけない
早漏で候
凪に難儀
東上線に搭乗した東條が登場
高校を後攻で煌々と口腔で孝行
蝉が転んでセミコロン
道徳をどう説く
写真はフォトんど撮りません
ダリ「絵ぇかくのだりぃなあ」
華美な花瓶のカビに過敏に反応
檻に入っておりいった話をする
夏のおサマー
夜は寝ナイト
渦中のカチューム
渦中のカチューシャ
リスボンでリスがborn
どうないはどないなってんねん
苫小牧でてんてこ舞い
市内を復旧しないと
石狩の石を借りる
おが置いてあるのを見た人「おはおっかねぇーから置かねぇ方がいいぞ」
砂がどしゃーw
東上線に登場した東條が登場
飽きない商い
おなか吹田市
観劇で感激する
側転に挑戦し即、転倒
別件を瞥見
凹地のお家
魚を初めてみた人「うぉー」
カラヤンの頭の空やーんw
豚をぶった仏陀
只見線をタダ見w
菊名でそんなこと聞くなよ
五秒で死んで御廟に埋葬
がらんとした伽藍
有給を使いすぎて悠久の時が流れた
長谷に想いを馳せる
Thinkerの真価
不具の河豚
暗記のanxious
半世紀にわたる半生での藩政を反省
タンチョウが単調増加
ショック死内親王w
カルカッタの石軽かった
天皇のこと知ってんのー
蒋介石を紹介した商会を照会した商會の船で哨戒する
其方のソナタ
先王に洗脳される
防潮堤で膨張した傍聴人
砂漠で鯖食う鯖を裁く
筒に入った膵島
サイコロを使った心理テスト(psychological test)
カラシニコフが辛子個踏んだ
皇帝の高弟が公邸の校庭の高低差を肯定する工程に拘泥した記録を校訂
にようかで酔うか?
うるさい人が売るサイ
どんなもんだい、を、どんなムンバイ、と言い間違える人
透徹した饕餮の眼球
チャカで茶菓を破壊
slimyなすり身
ゆうほど広くない遊歩道
いにしえのイニシエーション
コーランをご高覧ください
K殻の傾角を測定する計画
協賛した共産党員に強酸をかける
負けたのは聖者の静寂のせいじゃ
裏地見るウラジミール
カミオカンデの上に紙置かんでw
県大会がおわり倦怠感を感じる
夕暮れのユーグレナ
ストライキをする公務員に呼びかける人「 Stay calm(公務)」
エド・はるみの穢
祭壇を裁断
腐卵ダースの犬
全然人が集まらないクラブの人「参加数人は我々の十八番ですから。だけに。」
四苦fuck
都バスが人を跳ね飛ばす
怒るカロテン「なにカロテンねん」
嫌がる慰安婦「いやんっ」
かえるがえる帰る蛙
沈厳な青梗菜
トリコロールの虜
布陣を組む夫人
栗けっとばすクリケット🦗
婉容と遠洋漁業
アマルガムで余るガム
ハラスメントの疑いを晴らす
滋賀を書けない人を歯牙にも掛けない
他意はないタイ人の鯛の態度
鯛が蛇足
ダジャレではない↑
割と面白い
ハラッパーの原っぱ
紫に関して思案を巡らす
Huluが夏の風物詩だと思っている人「Huluですなぁ」(風流)
下調べのムニエル
わからないので
意味ない諱
よく分からんリポーター「うわぁ〜美味しそうですね!少なくとも不味そうには全く見えません!」
どうしても下がりたくない人「黄色い線の内側は、境界を含みますか??」
計算ができない人
着ていく服を決めた高橋是清「これ着よ」
enough、enoughは工夫がenough
負け負け山(カチカチ山)
薬師丸せま子
トーマス・マンの書いたふるさと「うさぎ〜おーいし、魔の山〜♫」
その心は
焼結が猖獗を極める
これはstaleだから捨てるか
衒学的な弦楽を減額
完全な勧善懲悪
イボ人の疣痔
イブに慰撫
(訳 ぬるぬるしてるありふれた魚)
盲いるのに飯いるの?
アーヘンで阿片を吸った人「あー変」
毒吐く独白
明借りるアスカリ(車)
丁寧な砂浜「Could you九里浜」
ゴーンと奉公
その心は
サンクチュアリに山窟あり
熟れたウレタンは売れたんか?
清澄な声調を静聴し成長
プエルトリコで増える虜
象さんを増産
兄弟が今die
Dose heで始まる疑問文に答える京都人、Yea, he どす
ソフィカルのソロカル
美人局に筒持たせる
十把一絡あげ
篤信な特進が涜神を得心
これは何という植物かな?ムユウジュでは?あそっか、なるほど。
クートゥを食うとぅいいよ
マイソールで昧爽に埋葬
ドクサは毒さ
暗殺で朝死んだ
クラシックについて語る人をそしる人「弦楽なんてペダンチックだなあ」
凛々しいリリシズム
衛生的な俳人
御髪も亂とはオクシモロンだ
コロナ後の世界を分析する学問→postcoronialism
影響が色濃いイロコイ諸族
あてのあてないアテナイ
ドラマツルギーというのは劇作術と言って、ドラマをよりドラマらしく仕立てるために使われる方法論であったり、信念であったり、あるいは独自の法則のことを言うのである。
例えば、有名なもので言うと「チェーホフの銃」という、「劇中に登場した銃は必ず使われなければならない」という法則がある。つまり、ドラマの中に無駄な道具立てや登場人物は存在してはならないという、ある種の劇作術における信念を表しているのがこの「チェーホフの銃」というドラマツルギーなのである。
他にも卑近な例を上げるとすれば、『とある魔術の禁書目録』にて「熱膨張って知ってるか?」とか「粉塵爆発って知ってるか?」「電圧が例え数億ボルトでも――」云々、といったように、現実の法則を切り取ってドラマの中に無理やりぶちこむことでドラマを成立させる手法も、一種のドラマツルギーであると言える。これらのことは換言すれば、ドラマの中にはドラマの法則性、そして、現実の法則性とは独立した独自の法則性がはたらいているということになる。コーヒーに浸かった銃がそのまま使用できてしまえばその時点でドラマは終わってしまうのである。ドラマと、現実は違うものだし、時にはそれは大きく食い違っていなければならないものでさえあるのだ。
で、最近見られるのはこのドラマツルギーと現実の法則とを幾分混同している人々である。
例えば某漫画における「意識混濁している少女を結婚に誘導する行為に異を唱えたい」という意見は少しズレてる、ってな話なのであって、劇を進行させるための道具立てを批判するという行為がズレていることを俺は人々に知ってほしいのである。そんなこと言ったら刀ブンブン振り回してるキャラクターは現実においては銃刀法違反だし、「味方に当たったら危ないから、もっと安全な短刀を使うべきだ」みたいなカンボジアPKOばりの意見さえ正当化されてしまう。
というか、こういう物語のキャラクターに対する善悪理非とか倫理的瑕疵を検証する姿勢は俺としてはブーイングの対象である。歌劇『カルメン』に登場するカルメンは倫理的に破綻したジプシーだから悪だ! とか言ってる人間がいたら困惑してしまうのと一緒で、「このキャラクターは倫理的に現実と乖離している」って意見全般は、基本的にナンセンスなのだということは知ってほしいんですね。いや勿論そういう意見を一切封殺するのもまた息苦しいんだけれど、某ラノベに即して言うならば「ドラマツルギーって知ってるか?」ってな話なのである。
人形芝居に過ぎない彼ら・彼女らは、仮初の姿と人生を纏って我々の眼前に現れた
彼らは真実足り得るのか、彼らが我々を惹いて止まないのは何故なのか
古来より、借り物を人は愛してきた
演劇に、神楽に、落語に、舞踊に、宗教に、神話に、童話に、小説に、風俗に
盆栽や箱庭が見立て遊びの系譜であるように、人はそこにない筈のものを「あたかもそこに在るかのように」仮定し、偽物であることを仮借した
何故なのか
逆説的ではあるが、偽物であればあるほど、そこに描かれたものが、描こうとしたものが真実になるからだ
真実、Vtuberの彼ら・彼女らが生きる現実が偽物であればあるほど
彼らの感情は、すなわち偽物の世界ですら成り立たせんとする輝かしい意思こそが本物なのである
切り株にすら登れず、生きることの現実感すら剥奪されたカオナシのような生き様の我々にとって
仮想の世界ですらドラマを作り上げられる鮮烈さを、きっと何者にもなれない「ドラマツルギー」な我々は、やはり憧れるのである
もっと逆説的なことに
「本物が欲しい」と願い、現実感のない世界に喘ぎ苦しんだ者達の中から、澆季溷濁の俗界を霊台方寸のカメラに収めようと辛苦した果てに、一人のVtuberが生まれる
なぁに、すぐだ
第三章に続く
注:Vtuberに対して「中の人」という言葉を使うのは、何か間違っている気はしますが、適切な言葉を知らないので、「中の人」という言葉を使います。
「バーチャルさんはみている」見ました。きつかったです。
もう見ることはないので、内容については置いておいて、そもそもVtuberとアニメって相性悪くないですか、という話を。
自分はVtuberの動画全然見ていないので、想像でしかないんですが、
Vtuberの良さって、「中の人」が演じているというのはなく、「中の人」のスタンド?別人格?アバター?的な存在であることだと思っています。
台本なんて全く存在せず、あくまで、ある人格を持った生命体が自由に振る舞っているように見えるというか。
(視聴者に意識されているかが重要で、実態として存在するかは重要でない)
そして、そこがキャラクターを声優が演じるのと異なる魅力を生み出していると思うんですよ。
で、そこへきてアニメですよ。アニメに台本があり、声優がキャラクターを演じていることなんてみんな知っています。
そして、その意識は「バーチャルさんはみている」に対しても同様に働くわけです。同じアニメなのですから。
つまり視聴者から見ると、誰かがあるキャラクターを台本通りに演じているように観測されてしまうわけです。
そして、Vtuberと「中の人」の関係は一気にキャラクターと声優の関係に変わってしまいます。
これはVtuberのアイデンティティの喪失にもつながってきます。
「バーチャルさんはみている」に対しての蔑称として、「高級クッキー☆」というのを見かけました。
つまり、金のかかっているが同人レベルのアニメだって罵倒されているわけです。
そして、これは面白いくらい的を射ています。(そして実際めちゃくちゃ笑いました。)
そりゃそうですよ。活躍している声優は発声・演技の練習をし、厳しい競争に勝ち残ったプロばかりです。
そしてそれは、別に中の人の演技力の低さが悪いという話ではなく、むしろ中の人は演技をしてはいけないということです。
正確には、演技であることが外に漏れ出てはいけないといった感じでしょうか。
そして、素が求められる普段の動画と、演技が求められるアニメ、相容れないのは当然です。
なぜなら、視聴者からはVtuberがある別の人物を演じているように見えるだけで、Vtuberと「中の人」の乖離を生じさせないからです。
ただ、これには大きな穴があって、Vtuberの見た目がアニメアニメし過ぎているという点です。
「バーチャルさんはみている」のように全員Vtuberのドラマが万一月9に放送されようと、アニメにしか見えないでしょう。
もしかしたら、背景を現実にするだけでそれっぽく見えるのかもしれませんが。
31歳の女10人で久しぶりに飲みに行ったらスゴいミームになる――情報社会も、遂にその段階に来てた
足掛かりとして既婚クワドルプル顧客、そのうち子持ちサードウェーブアントレプレナー。
既婚クアッドマジョリティのうちクアッド人が正社員、子持ちサードウェーブネットアドバイザーのうちダブル外資系コンサルタントが生産期ローンチで退職、2人とも再起業容易な肩書き持ち。
勉強もせず怠惰子育てを楽しんでいつつパラレルでタスクを消化している模様。
シングルセクスタプルビジネスパーソンコンテンツクアッド人がアシンメトリーコミットメント雇用及び派遣及びワークボランティア。
「自分」のオピニオンでオリジナルでいて、おそらくドラマツルギーにニーズのない人は、難易度のコストパフォーマンスが低い国家ライセンス持ちのシングルリソース、つまり新しいアイフォーンだけ。
なにが分かれ道だったか論理的思考(ロジカルシンキング)するとBBT大学生活の当時の企業理念の無さだったとシナジーを感じる。
ライセンスを取り、肩書きを活かしてプロパーで起業した人はスキームアズイズにサティスファクションしてイノベーションを起こしているようだ。
不測の事態に備えて意識の高い学生の集まる場所だったり、自分の手が汚れるのも厭わず率先してレモンを絞ったりモチベーションがアンダーなまま進学する、そして結果にコミットすると、ズルズルとこんな筈ではないというより、あえてしなかったとプレゼンすることにコンセンサスを得てしまう。こういう日本を変えないといけない。
なりたい自分になれる肩書きとキャリアは未来への自分の投資なんだなと肌で感じました。
重ねて既に少子化は止まらないのではなく、敢えてやらないね。リアリティをマクロ的な観点から見たポテンシャルがその後、銀座のフレンチレストランで食事をする。
あまり話題にはなってない作品なのかもしれないど、これってかなり面白いことしてると思うんだよね。
女の子が艦船に乗って戦うみたいな、いっけんガルパンの亜流みたいに見えるんだけど、実はぜんぜん違うのです。
ガルパンの物語構造は、基本的にスポ根的なドラマツルギーに基いていて、ラブライブ!とかとほとんど同じです。
要は、「努力、友情、勝利」のジャンプメソッドmeets美少女なわけ。
ガルパンは戦車を、ラブライブ!はアイドルを素材にして美少女スポ根を展開してるわけで、その先祖はトップをねらえ!あたりかな?
で、ハイフリなんだけど、これって冒険小説的ドラマツルギーなんだよね。
アリステア・マクリーンとかギャビン・ライアルとかの古き良き冒険小説。
不可解な敵や、限定された状況下でのサヴァイヴとかまさにそんな感じ。
これで、内輪に裏切り者とかいたらまさに古典的冒険小説な展開だよ。
ラストシーンが期待通りのものじゃなかったっていうのが大きいね。期待外れと言うか、それまでの文脈にそぐわないラストというか
しかしそれでも俺は『あの花』に対してある種の好意を抱いてもいる
というのも、『あの花』という作品がある特定の人々を傷つけるようなシロモノであるからだ。
「傷つける」ということは一体どういうことなのか? ということはこの場では一旦後述に回すとして、まず、『ある特定の人々』が一体何を指すのか、について言及することにする。
『ある特定の人々』。それは誰か?
スタッフだ
特に、中心的なスタッフであればあるほど、あの作品によって多かれ少なかれダメージを受けているに違いないと私は思っている
何故なら、あの作品がいわゆる商業用ジュブナイル作品であるのが一つ。そして、もう一つはあの作品が失敗作だからだ
あの作品は商品であると同時に、ある種の内的な息遣いというか、核となる生命力のようなものを欠いた作品だからだ
あの作品において核となる生命力が欠如していることは、そもそもの作品のコンセプトを省みれば一目瞭然である。
というのも、あの作品のコンセプトが如何なるものかと言えば、
“何か特別な力を持っていない虚しい人間でも(まあ霊視のことはさておき)、人生を肯定するに足る思い出なり価値なりを享受できる”
ということに尽きるのである。
つまり、『あの花』はその基底となるコンセプトから言っても、中心的な何かを欠いた、ある種の虚しさを湛えた作品であるといって差障り無いのだ。
ただ、ドラマツルギーとは往々にしてそういうものだ。それ単体ではさしたる価値を持たない物事の羅列が、ある種の偶然によって価値を持つようになるのは、ドラマツルギーの特徴だ。
私は別に、そのようなドラマツルギー全般のことを空虚なシロモノだと言って否定しているわけではない。
しかし、あのスタッフたちは、特にその中核的なスタッフたちは、あの作品によって生み出されたドラマに、どれほどの価値を感じているだろうか?
『あの花』とは、その程度の作品だ。
しかし、私はそれ故に、その不甲斐ない出来の故に、『あの花』にある種の魅力が芽生えるのを感じるのだ。
それは、あの作品が製作者たちのジュブナイルを、多少なりに切り売りした形で生み出された作品だからである。
そして、そのように思い出を切り売りしてまで作った作品に、あの程度のドラマ性しか付与できなかったということが、恐らくは中核的なスタッフの心をえぐり、ダメージを与えているからである。
ジュブナイル――つまりは彼らの思い出そのもの――というものを、はした金の為に切り売りして、そして結局あの程度のドラマしか作れなかったという事実は、恐らくスタッフの中の数人の、ナイーブで温かく息づいていた部分を傷つけたことだろう。
そしてそのような失敗作としてのダイナミズムを持っているからこそ、私は『あの花』に対して好意を抱いているのである。
スタッフの方々、貴方達の後悔はすぐに貴方達本人によってさえ忘れられてしまうだろうが、しかしそのひとときの味わいが甘美であることには、間違いあるまい。
たとえば新房作品が古人の糟粕嘗めまくりで陳腐である、と正岡子規ばりの批判を展開するとして、
我々の感じる作品の陳腐さ(洗練度合い)のうまい指標はあるか、と考えると、エンディングテーマに
カバー曲を使っているか否かというのは有力な候補に思えるし、ましてエンディングテーマをカラオケ
大会にするとかいうのはそれこそ糟粕の糟粕の糟粕ばかりに御座候、と切り捨てることができる。
たとえば「ぱにょデジ」はでじこ本編よりも陳腐さが高い、という判断ができる。
作品のテーマが陳腐、とか、ドラマツルギーが安易である、というのは古今を否、万葉を是とする立場から
すれば問題とはならないのであって、同工異曲といわれても新規に書き起こし意識的に何か固有の著者を
もつ作品からの引用を行っていないことが重要となる。最悪、誰か他人の作品を丸コピーしたとしても
そこに原著者のクレジットが一切なければこれは万葉型の表現ということになる。
マーケティングの結果最終的に選ばれる表現が万葉型になるのか古今型になるのか、というのは
主に対象年齢層と作業(典拠の確認や権利処理等)のコスト、企画者のリスク回避度によって
決まってくる(おっさんにウケる作品すべてが必ずしもおっさんホイホイではないけれども、
リスク回避的な企画者は当然おっさんホイホイを選好する)。ただ、「ゆとりに伝統を教えてやる」と
いうことで意図的に古今型の表現が選択される事例も多い。これはアーカイブの権利者に近いほど
やりたくなる戦略でもある。
いや、とくに結論というのがあるわけではなく。
追記:ええ、一連の「歌よみに与ふる書」をちゃんと読んでいませんが、日本酒の醸造工程の
アナロジーで、現代でいうところの「劣化コピー」に相当する語であることは理解しています。
楽曲の再利用のさらに再利用をしているわけではないので確かにあまり的確な表現ではないのですが。
追記:たとえば『トレインスポッティング』でキルケゴールが言及されている(記憶によれば)
僕は、ブゥ編の最後、地球上のみんなにサタンの呼びかけによって元気玉の元気をもらったシーンちゃん!
エネルギー波を飛ばしたり、月や惑星を軽々破壊したり、月を見ると巨大猿化したり、瞬間移動したり、
国王が犬だったり、三つ目だったり、鼻がなかったり、しっぽが生えてたり、
柱に乗って飛んでいったり、舌だけで人を殺したり、一度倒された後、改造人間になって現れたり。
でも、そんなことよりも、あれはずっと現実離れしていると思う。
「多くの人になにかを分かってもらう」という行為は本当に難しい。
どれだけ広告や広報の方法論が進化したとしても、多くの人に伝えるのはなお難しい。
パロマのガス器具の回収は全戸に郵便した上、毎日CMで延々と告知していた。
それでも全部の回収は終わらなかったはずである。
地上波デジタルも裁判員制度も、もうすぐ来るというのに、世間の多くの人はまだなにも知らない。
そう考えると、あのシーンが一番メルヘンだと思う。
しっかし、バトルマンガの最後がテレパシーで決まる、ってのも興味深いものがあると思うんだ。
強大な敵を倒すために、(世界の)みんなから力を借りる、というのはドラマツルギーとしてよくあるんだよね。
なるほど!納得したよ!
ヲタ受けの良い萌えだとかを保持したまま、大衆性の取り込んだ事によるエロゲ文脈の変化はわかったよ!
「古今東西あらゆるドラマツルギーは13種類のいずれかに分類できる」
この辺の詳細はまったく知らないから、ちょっと調べてみる事にするよ。
単にどこにでもありがちな泣かせ話
ですねー。昔ッから「古今東西あらゆるドラマツルギーは13種類のいずれかに分類できる」とか言いますし。感情なんて頑固で動物的だから、決まり切った筋道でしか動かないものなんですよ。それが「ドラマ」。ドラマと対をなす「物語」だって−−プロップやトンプソンの物語類型、果てはちょっと前に流行った(笑)ノックスの十戒を見れば分かるように−−大衆が受け容れられる範囲には数えられるくらいのバリエーションしかないんです。で、
高尚なエロゲってなにが「高尚」なん?
だから、それまでのエロゲはその13種類すら踏まえられていなかった、ッてことじゃないですかね。ようやく土俵に上った的な。どこぞの踊り手が言ってましたが「格式(セオリ)を踏まえた上でそれを壊すことを『破格』を言うのであり、最初から壊れているのはただのクズ」みたいな。筒井康隆とか思い浮かべるといいんじゃないですかね。ナーーーンセンス!
じゃ、そんなマンネリズムの固まりみたいなシロモノが、なぜ僕たちをここまで惹きつけるのか。
要するにソレですよ。
ネタ。
語り口。
古典落語がなぜいつまでもおもしろいのか。談志のらくだと志ん生のらくだがまるで違うからだよ。
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追記ー
エロは抜き目的なんだから、の実用派の方もいらっしゃるようですが。
昔からエロメディアってのは、そういう実用派のかたを食い物にしてにパトロンになっていただいて、好き勝手(その時点では)マイナーな文化的趣味を発露する場でもあるんですよ。現在の邦画はにっかつロマンポルノを、萌えというジャンルはロリコンポルノ雑誌をそれぞれの母胎としている、というのは常識でございますがね。いずれ世間様からはじき出され、それでも表現に執着する業の深いモノどもの吹きだまるところは、決まっておるのでございます。