はてなキーワード: 道筋とは
高校生で妊娠してもぜんぜん駄目とは思わないよ。 でも、高校が休学を勧めるのも駄目とは思わない。
だってさ、配慮が必要っていっても、じゃあ配慮って具体的に何すればいいんだって話。 体育を免除すればそれで良しとはならんでしょ。 これからは配慮していかなきゃならんなぁというのは正しくても、どういう配慮が必要なのかは実際の状況を見て知見を積み重ねていかなきゃしゃーないわけよ。 そんで、その最初のケースはやっぱり不足することはいっぱいあるわけ。 もしかしたら、致命的な、流産とかしかねないことだってあるかもしれない。
責任もてねーべ。 本人の責任でそれでも学業は必要だってのならいいけど、絶対に学校になんか言うでしょ。 リスクを回避したいのは当たり前だよ。
休学した上で復学への道筋を用意することの方が重要だと思うし、それが社会的に不利になるのならその社会が間違ってる。 どうしても今、妊娠している状態で無理を推して学校に行かなきゃならないというのが間違ってる。 妊婦ならのんびりしてろよって思う。
多くの会社説明会に参加する中で、どうにももやっとすることがある。
「収入、福利厚生はどうなっていますか?休みはどのくらい?なんて聞いてくる学生ばかりで、入社後の目標や成し得たい事を持っている学生が少なすぎる!」
会社説明会の中で、このような就活生の意識の低さを嘆いたコメントはよく聞いてきた。
待遇よりも、就職した後で自分がどうなりたいのかをよく考えるべき、というのは至極もっともな意見だと思う。
けれど、ここで一つ分かって欲しいことがある。
”入社後の目標や成し得たいことを持っている学生が少なすぎる?”
当たり前だ。入社後の目標や成し得たいことを持っていないのではない、先ず考えられないのだ。
社会人と、就活生では欲求のレベルに差があることを分かって欲しい。
マズローの欲求段階説を例にすると分かりやすいので、マズローの欲求段階説を参考に説明する。
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社会的欲求 / 所属と愛の欲求 (Social needs / Love and belonging)
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欲求の順番は非常に重要で、下にある欲求が満たされて初めて、上部の欲求に移行すると考えられている。
生きるか死ぬか、自身の身の安全が分からない状態で、まず先に誰かに認められたいと考える人は少ないだろう。
親から独立して、1人で生活していかなければならないという意味では、まず安全の欲求を満たそうと意識が向いてしまうのは、当然のことである。
企業側が、目標を持て、というのもわかる。社会的欲求、所属と愛にの欲求を満たした社会人ならば、承認や自己実現への道筋もしっかりと見え、考えられるだろう。そこで、同じビジョンを見よ、と言うのだ。
そもそも同じ土俵に立っていないのに同じビジョンが見えるだろうか、考えつくのだろうか。
下層の欲求すら満たされていないから、自己実現の欲求なんて考えられません、と言うつもりはない。
けれど、その捉え方が、道筋が、社会人の人と同じぐらい明確に見えるわけではないこと、そして明確でないからこそ、社会人の人と同じビジョンが見たくて、考えてはもがいていることを知って欲しいと思った。
日本サッカーの低迷の原因は、長所を理解せず、短所を武器に戦おうという愚かさに集約されている。 - Togetterまとめ
このまとめについてなのだが、サッカーの事はあんま詳しくないのであるが、身近な観測範囲で常に思うのは、「みんな『自分が判断して行動を起こす』という事を、間違えたら手足もがれるほどの重罪に値する位の感覚で非常に重大に捉えているんじゃないか」という事と、「『頭を使う』という事と『技術を使う』という事を混同している」という事であるのです。
不肖増田は制作系のお仕事で、企画営業ではない内勤のポジションをしているのであるが、同じ事の繰り返しばっかでつまんねえなと思い、ある日、勝手に企画を作って営業にプレゼンをして、まあオマケの小企画として採用になった。
その事を後輩ちゃんに自慢した時に帰ってきた言葉が、「勝手な事するなってやな顔されないんですか?」であった。
されねえよ。
されないように考えて作って、「これこれこういう風に話持ってきゃ、営業の力で何とかなんない?」って道筋かんがえれれば相手もこっちの絵図に色つけて動いてくれるっつーの。
誤解なきように言っとくと、後輩ちゃんは素直で才能あふれるいい子であって、白痴でも無能でもない。
しかし、「自分は判断する立場になく、立場にない自分が『判断する』のは規律を乱す重罪である」と思い込んでるようなのだ。
その時にどうすべきかを話し合った結果は、だいたい「コミニュケーションをちゃんととろう」「作業を効率よく行おう」であった。
具体的な何かが生まれると言うより結局「仕事に対する向き合い方の問題」に回収されるのであった。
増田は別の後輩くんに言ったね。
「俺らさぁ、技術は使ってるんだけど、頭は使ってないんじゃないの?」
そもそも、部署では人日の仕事量の計測も予測も立てて無かった。
なので、簡単なエクセル様の表を作って予測を立てただけで、無茶苦茶な作業分担はだいぶ減った。
今でも後輩くんたちがそれを使っていると知った時、長く役立つものを作って嬉しい反面、「君らいつまでそれ使ってんだ。そんなふっるいものより改善したもの作りなさいよ」と思った。
なんつーか、腕力以外はざっくり「頭を使う」でまとめられてて、「技術」と「知的作業」に違いがあるって事をそもそも考えてない様なんだよな。
とは言えこのような場所を好きこのんで読む層に当てはまる話でもないとは思うのだけど、まあ自分の備忘録として。
最近、大学生のお話を聞く機会が増えたのだけど、彼らの大半はどうも自分の内面の発露、表現方法に関して悩みあるいは問題を抱えてる場合が多い。
で、これが彼らにどんな影響を及ぼすかと言えば、卑近であれば就職活動でのエントリーシート、あるいは面接そのものにおいて非常に苦戦するという事態を招く。
彼らはさほど程度は高くないとは言え、大学生なのでそんなにそういう機会が無かったのだろうか、と思うのだが、考えてみれば学部生の論文やゼミ発表などはある程度形式ばったものだったのかしらん、とも思い直すわけである。
つまり、ある程度客観的で指向性のある、極端な話マニュアル化が簡単に可能な表現であれば彼らは十二分にこなせるのだが、それが自己について自由に述べよ、となるとお手上げになってしまうのであろう。
彼らの「自己PR」はまず、感情の言語表現が非常に乏しい。就活における質問として学生時代の熱心に取り組んだものを聞くようなものがよくあるがこれに対し――具体的な例は避けるが、○○が楽しかった、嬉しかった、感動した……と概ねこれで終わってしまう。もちろんちょっとした就活本やウェブでの情報でもこの手の何も言っていないに等しい表現は避けるべしとあるし、彼らも承知しているわけだが、じゃあどうしようかと、煩悶してしまうわけである。
より具体性のある表現を使えとアドバイスするのだけど、それがわからない。で、どうなるかと言えば今度は具体的に偏って、事実の羅列になってしまう。まあ多少マシになったとは言え、これでは自分が何者なのかがあまり伝わらない。この手の質問で企業が求めるのは人間性がわかるエピソードであると思われるので、事実だけ羅列していてはやはり説得力に欠けてしまう。というよりそんなものは履歴書でいいのである。
次にいわゆる「盛り方」があまりに稚拙である。嘘も方便とはよく言うもので、ものを売り込むときにはある程度色を付けるのが世の常であるが、彼らの場合どうにもそれが見え見えであるということだ。
先ほどの具体性の話もそうだが、就活マニュアル的なものではよく具体的な数字を使えとあるという。なるほど的確な数字は説得力を持つし、たとえそれがウソであってもそう証明する事は非常に難しい。少なくとも彼らが日々こなす論文などで示すものよりよほどハードルは低い。
しかし、彼らはそれが上手く使いこなせない。例えばこれもよくある質問として学生時代の功績を聞くようなことが多いが、これに対しよく彼らはパーセントという形で数字を使う。よく考えてみて欲しい。例えばメンバーに声をかけ部の参加率を上げた、ということに対してパーセントで功績を強調してもあまりにも「ミエミエ」で実質的な説得力が無いように感じられないだろうか。これでは先ほどと同じように「何も言っていないに等しい」。それなら何人に声をかけて、あるいはどれだけの期間を費やして、部の参加者を増やしたという方がよほど説得力があるし、そこでの具体的エピソードも盛り込みやすい。(もちろんウソだって構わない、バレないのであれば)
総じて見るに、どうも彼らはステップを省略し安直な結論を提示する傾向(ここでは触れないがこれに付随して外部の「答え」を求めようとする傾向も見受けられる。無論そんなものはない)にあるようで、結果として全く説得力を伴わず、「自分」を明確に伝えることに出来ない「自己PR」を作り上げてしまうようである。論文は日々書き慣れているにもかかわらず、である。
とはいえ、彼らがあるいは我々がそういった事態に対処する術を学ばなかったかと言えばそうではない。反応は様々であろうが,この国の教育には今なお「読書感想文」というものが存在する。
大学生ともなるとそういう機会もないが、読書感想文を書くことはその実自己の内面表現そのものであり、なおかつそれを相手に明確に伝えるための文章を書くと言うことでもある。その一方で、「本」というガイドラインがあるので書くべき道筋がわかりやすく、自分の考えに対して何から手を付ければいいのかわからないということにもなりづらくなる。その道筋を通じて、人に順を追って伝えるというということに対してヒントを得ることも出来よう。
もちろんこれは本でなくたって良いわけで、ドラマであろうが映画であろうがゲームであろうがアニメであろうが、なんだって構わない。要するにそれらを通じて自分が何をどう考えたのか、と省みる機会があれば良いわけで、その上でそれを過たず明確に文章化できれば良いのである。
そして出来上がったそれらを読み返すことで、自分の表現のどこに説得力が足りないのかということも見えてくるだろう。また、人に読ませることを意識すれば、どうしたって多少の見栄も張りたくなるし、あまり好ましくない考え方も書きづらくなるだろう。そういった自分の内面と他者の視線というものをバランスよく取り入れた「ウソの付き方」も磨くことが出来るはずだ。一石二鳥である。
読書感想文というものがこの国の教育においてどのように位置づけられるか、と言えば、「事象と感想、意見などとを区別するとともに、目的や意図に応じて簡単に書いたり詳しく書いたりすること」と「書かれている内容について事象と感想、意見の関係を押さえ、自分の考えを明確にしながら読むこと」を目的とする授業の一環として行われるという。卑近な例ではあるがこうして見るとまったくそれは必要な作業ではなかろうか。これらの中には論文の作成方法も含まれ我々はそれを並行して学んでいくが、外側の事実を対象とするそれだけでは、我々は「自己の内面を誰かに伝える技術を磨く」ことは出来ないのではなかろうか。
確かに自己表現といったものを過度に求める就職活動や、そもそも現実に行われている読書感想文の指導法にはあるいは問題もあるかも知れないし、その是非は問われるべきかも知れない。しかし教育や就職活動といったものから、あるいはこの国の国情から離れたとしても我々が高度に社会性を持ち、他者とのコミュニケーションなくして生活できない生き物である以上、こうした自己を誰かに伝える能力はどのみちどこかで必要になるのである。
自己の表現に関して正解などない。しかしそれはその技術を磨かなくてもよいと言うことは意味しない。たとえ正解が見いだせないものであっても、コツコツと磨き続けることは思いもよらないところで自らを助けることもある。
昨日は周辺に警察がやたらと沢山出てきてて、
「うざいなー」と思ってたんだけど、またヘイトデモがあったんだね。
この問題に対して、否応が無く考えざるを得ない身としては、
最初に断って起きたいんだけど、自分は外国人排斥や、極度に国粋的な考え方を
持っていたり、支持したりする人間では無いということ。
そうでなきゃ、こんな中国人やその他アジア各国の外国人だらけの土地に住まないわな。
ヘイトスピーチを排除すれば問題は解決されるとでも考えてる方々には、乗れない。
カウンターといわれる方々にはパンクロックっぽい雰囲気があって、
中高生のころパンクロックとか大好きだった自分は乗れそうなもんなんだけどね。
成長しちゃったのかな。
まず言いたいのは、ヘイトスピーチを排除することが根本的な問題の解決になるとは思えないこと。
規制をしたところで彼らは地下に潜って先鋭化するだけ。
臭いものにフタをしただけ。中でどんどん腐っていくだけだと思うよ。
そもそも考えて欲しいよ。
何故彼らがそんな極端な考え方を持つようになってしまったのかを。
簡単だよ。
彼らは自分に誇りを持てないんだよ。
ここで何が問題解決となるか。
これも簡単だよ。
彼らに自分を誇りに思える何かを与えてやればいいんだよ。
「では、どうやって?」となると色々難しいと思う。
このまま社会は分断されていって良いと思う人には分からないかもしれない。
でも、自分はヘイトスピーチを行う人間と同じ社会に住む一員として、責任を感じる。
分かってくれる人がいればいいな。
「未経験でも数ヶ月でエンジニアに!」とかいう記事をよく見るわけで。
初心者向けweb開発記事のブックマーク数を見ていても人気なのが目に付く。
やはり何だかんだで「面白そう!」とか「こういう仕事やりたい!」っていう人が沢山いるんだなと実感する。
就職する事を目的にしていなくとも、趣味でプログラミングを習得しアプリ開発をしている人も多数目に付く。
素直に「凄い」としかいえない。
当人の勉強方法が優秀なのか、はたまた開発者との繋がりがあったりするのか検討も付かないが、まったくの素人なのにあれよあれよと成長し作り上げてしまう彼らの速度に驚かされる。
情報さえ得られれば未経験でも簡単にスキルが身につくのかと思いきや、実際そんな甘い話では無いわけで。
自身も興味はあったので、動画学習サイトなどを参考にウェブサイトを作成してみたのだが、しょうも無いところで動作が不安定になってしまったりと全くといって良いほど成長が無い。
つい先日もvimについての記事を見て、「将来的にはこのエディタを選んでいた方がいいのか」とvimの操作練習で数日過ごしていた。
未だにエディタの選び方で右往左往している自分は何をしているんだと思ってしまう。
サービスなんかでもそうだ、「GitHubとかいうのも知らないといけないのか!?」と登録はしたものの利用はしていない。
自分に必要な情報と、覚えなくてもいい情報の取捨選択が出来ていない。
膨大な情報に目を通して、「あれはやっておいた方が良いのか!」と時間を取ってしまう。
「ある程度」のレベルに達すれば、必要な知識を持ち合わせているから解決方法を推測して円滑に進められるようになるんだろう。
そこまで達するための、初速が上がらない。
必要な場所が理解できている初心者は、数ヶ月で形となるモノを作り上げる程の力が発揮されているのだろうなと。
ましていとも簡単に成し遂げている彼らを見てしまうと、同時に虚無感が襲ってくる。
人のやり方しだいで可能性が広がる作業だからなのか、その膨大なやり方に自分は翻弄されている。
確かにプログラミング自体は楽しいし、作りたいモノがあるからそこを目指しているわけだけども、そこに到達するまでの手段を得ることが目的になっている。
はたまた、実際のプログラミング学習はこんなものなのだろうか?
予想以上の助言の数々に衝撃を受けた。
まずはこのような発言に反応していただいた事に感謝を申し上げます。
コメントなどからざっくりと判断すると次のような改善策が浮かんだ。
・目標を明瞭化する。
・むやみな情報収集をやめる
・小さな完成を積み重ねる。
・有識者との繋がりを持つ。
学習においては初歩的な事なのだろうが、地に足が着かない状態で学んでいた自分にとって指標となる部分が出来た。
独学という部分に特段こだわりがあったわけでは無いので、これからはどうにかこうにか交流の道も増やしていこうと思う。
一番の問題は大量の情報にとらわれ、学習難易度を自分で上げていた部分かと。
まずは最小限の作業環境に絞り、必要に応じて継ぎ足して行く事を心がけよう。
最初から全篝火最大にして巡回しているようなものだなと。人間性が足りなくなるのも納得。
そうすれば、以前よりも大量の情報に飲み込まれず、自身の望む情報を得られる状態に進化している。
という形で良いだろうか。
語るだけなら簡単だが、現状闇雲に勉強するよりは可能性が感じられる。
この形で行動を起こしてみよう。
現状、プログラミング以前の学習態度すら未熟な部分があるが、今回の皆様からの意見で気付かされた点、参考になる知識は多数あった。
思い違いを起こしている部分もあるのかも知れないが、今までの不明確な道筋よりはずっと進みやすそうだと。
何気ない発言のつもりだったが、わざわざ記事をまとめてくれた方まで居たのには驚いた。
自分に合った情報提供者がいる事が、これ程大きい事なのかと実感致す。
言葉足らずではあるけれど、本当に皆様忙しい中ありがとうございました。
うちは教授が方針たくさん学外から取ってた。俺は学部は東大の工で修士は新領域に行ったんだけど、新領域ってまあ名前の通り新領域なことをやるのが本義なのね。本郷の○○学部でやっていけなかった先生が流れてくる場所じゃいけないんだよ。それ○○学部でできるじゃん、って研究ばっかりな中で尖った研究してたのは外部から入ってきた人たちだった。研究室内でも議論するときにはとてもいい刺激になった。修士くらいってまだまだディシプリン身につけなきゃいけないレベルなことが多くって、やっぱその意味で粗削りすぎるだろって感じになったことは自分の研究についても反省するところだけど、まあその分学んだことも多かったよ。
まさに君が問題を指摘している「研究テーマだけは壮大ですが、その実質は…」というやつだね。要はバランスだと思ってる。分散が大きい中で、良いバランスや相互作用を出すように配分したら、そういう例が出てきて当然だし、その担い手が「ロンダ」っぽい人に偏るのは必然だね。構造的欠陥ってやつだ。
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ある夜、喫煙所で ―君が言うロンダ組は喫煙率もやったら高いんだよね― ひと悶着あったんだ。あんたみたいな人が、そのままそういう内容を本人たちに向かって口にしたわけよ。結局、みんな適当にスルーしたけど。場を離れた後、学部東大出身の先輩がブチ切れてて。「あんなクソみたいなやつらの言葉に耳貸す必要ないわよ!」ってね。他大出身の後輩の中には、萎縮しちゃった人もいたので、迷惑ーって思ったね。
「多様なバックグラウンドを持った学生による、革新的で斬新な分野の研究」という理想の実現はそう簡単じゃない。せっかく賢いなら、その「ロンダ」に対する視線の代わりにもう少し建設的なことをお願いしたい。もし、入ってきた人間が、その研究室に関わりのあることで君が学ぶべきところが全くないとしたら、そもそも十分に研究の議論をするような雰囲気を作れていないとかそういうことを疑って改善すべきで、その研究科の入試が極端に杜撰だとか、君が perfect human だとか仮説立てるのはセンスが悪いと思うよ。もちろん雰囲気とか機会とかの問題は教員の問題も大きいのだろうけれど。
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ロンダがしやすいと言われている場所ってのは、教員たちが既存のディシプリンで一次元的に測れる能力以外の部分をなるべく推し量って、政府流行用語つかえば「イノベーティブ」な研究教育を志向して体制組んでるんだよ。それがロンダと揶揄されるのは、その試みが十分に成功していないという問題でもあるんだろうけれど、少なくとも既存のディシプリンに浸かった上にそれに反省がなさそうな君(「学部の継続で修士に進み」というあたりを自信たっぷりに言ってるあたり)が批判しているのを見ると、君みたいな学生を取ったことの方が間違いだと思う。それは君が無能だという意味ではなく、相性の問題で。別にディシプリンしっかり身に着けているに越したことはないけれど、「多様なバックグラウンドを持った学生による、革新的で斬新な分野の研究」を目指すのに一緒にやっていける学生を取るべきだから。もちろん、冒頭で少し漏らしたように「本郷の○○学部でやっていけなかった先生が流れてくる場所」という側面もあるし、現実はそう単純じゃないけどね。境界めいたことをしてきた大物の先生たちに飲み会でどういう道筋をたどってきたか聞いてみるのも面白いよ、いろんな転換をモノにしてきている先生が多い。
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元増田に批判的な書き方になったけど、学際領域が抱えるあるある問題で、ちょっとその点に関する研究教育の在り方が進歩しなさすぎだよね。もう少し研究室間とかで良い相互作用を起こすための知見とかが共有されるべきだとか、研究科としての改善は必要だと思う。元増田も関係しそうな読者もロンダと言われている人たちへのマウンティングではなく、学際領域での研究教育の問題として捉えなおして考えて欲しい。
同人音声の闇的な話 http://togetter.com/li/944737
↑のブクマやコメントを見ると誤解している人もいるようなので、プロでも発注側でも業界ゴロでもないが一応の事情を書いてみる。
大前提として、「声優」と「同人声優」では身分に大きな違いがある。
《声優事務所と通称される、声の仕事に特化した芸能事務所とマネジメント契約を結んだ人》
が「声優」である。例外的なケースを除き、アニメや吹き替えの仕事は声優事務所と無関係な人間が受けることはできない。
逆に、事務所と契約した経験を持たない人とか、事務所と名乗っているが実際には声の仕事をマネジメントする能力を持たない所に籍だけ置いている人は「ネット声優」「同人声優」と呼ばれたりするが、要するに「自称声優」であって、普通の人が「声優」と聞いて連想する、アニメや吹き替えの仕事にありつける可能性はほとんど存在しない。
※同人ゲームでも音声が付いている率が上がり、また、アプリも音声付きの物が飛躍的に増えたことで、声の仕事への需要は増え、声優ビジネス自体の変化などもあり、「同人声優」から普通の「声優」への進路が多少は開けたように見える、かもしれない。その辺は長くなるので省く。
現在の日本で一般人が声優になる方法は事実上一種類だけであり、専門学校や養成所と呼ばれる専門の養成機関で勉強して、卒業時に行われる「所属オーディション」に合格するしかない。
※一応、たまに行われている一般人を対象にした大規模公募型オーディション(実質的にはアイドルのオーディション)に合格するという道筋もあるけれども、これも合格後は結局はどこかの養成機関で勉強することになる。
さて、養成機関で勉強しても、声優になれるのはほんの一握りである。
以下の数字はモデル化して丸めたものなので実数とは何割かの誤差はあるが、まあ、そういうフローがあると思って読んで欲しい。
このうちの「卒業しても声優になれない者:年間3800人」が本題である。
簡単に言えばこの人達は演技力か才能か外見上の魅力か才能かコミュ力か、とにかく何らかの不足があって、契約を勝ち取れなかった人たちである。
その後の進路を更に書くと(再度断っておくが、モデル化した数字であって実数とは小さくない誤差がある)以下のようになる。
全部足すと年間3800人より多いがこれは
などを含めたら、この位になる、という形である。前者は文字通りだが、後者については補足しておく。
先述のように声優志望者は極端に多く、声優の仕事は有限であり、事務所としても芽の出ない人間をいつまでも抱えておくわけにはいかない。
本人の人生のためもあり、見込みがない、と判断された人間は、一度契約しても1年とか2年で契約を切られることがよく行われている。業界としての正確な統計はないが、新人声優の半分ぐらいはここで契約を切られる。
最初に契約した事務所に切られても、まれには他の声優事務所に拾われてそこで芽が出る人間もいる。が、9割以上の人間にそんなことは起きず、大人しく声優業を諦めるか、諦めずに「自称声優」になるしかない。
先に書いたとおり、この人たちは何らかの不足があって「声優」になれず、やむなく同人声優・ネット声優になった。
ネットがなかった時代ならば問答無用で引退するか、アマチュア演劇ぐらいしか身の置き場がなかったはずである。
それが、音声付きの同人ゲームやアプリが増えたことで、なんとか声の仕事が回ってきている、というのが実状である。
当然、依頼する側にすれば「安く上げる」「無茶が通せる」以外で使う理由はほぼない。
予算があり、真っ当な仕事内容であれば、普通の声優事務所に依頼して、知名度や実績のある普通の声優を使えばいい話である。
さらに言うと、声優事務所は自社や関連会社で音響スタジオを持っていることが多く、そういう所に頼めば、多少の追加費用だけで、プロが編集して扱いやすく加工された音声データの形で納品してもらえる。
まとめにあるように『編集とかについてもやってあたりまえでしょ?が浸透しすぎてい』るのは当然だと言える。
「知名度も演技力もないのに使ってやっているんだ。編集ぐらいそっちでやってこっちに手間をかけるな」と言われても仕方ないぐらい立場が弱いということである。
以上の内容はかなり単純化しており、実際にはそれなりにまともな事務所に所属している人(がそちらでは鳴かず飛ばずに近いので、やむなく同人向け・成人向けの別名義で事務所を通さず活動している)や、それなりの数の作品に出て知名度やファンや定評をある程度掴んでいる人もいる。
それでも、実態としては、プロとしての自覚が持てず、クライアントの言いなりに使われる以外に選択肢がない人が多いのも確かである。
「そんな仕事しか来ないなら辞めちまえよ」と言いたくなるのだが、もともと、
「お前声優にはなれねーよ」と言われてそれでも辞められなかった人が大部分なので、そんなにあっさり諦められたら苦労はない。
悪意あるクライアントからすれば、無茶を言って断られても代わりはいくらでもいるし、仮に酷い扱いで相手の心が折れて引退したり絶交されたとしても、養成所の卒業シーズンになれば、また新人自称声優がいくらでも生まれるのが分かっているので気にならないのであろう。
本来、依頼主が真っ当な思考の持ち主であれば、ビジネスの継続性を考えて、演者とはきちんとした信頼関係を構築しようとするはずである。が、そういうところは当然、一度信頼関係が築けた相手との関係を重視することで、結果的に新しい人に依頼する率は下がる。
一方、悪質な依頼主は、言いなりになるような弱い相手を求めて数打ちゃ当たる戦法で声をかけまくることができる。彼らはジャンルに愛着も何も持っておらず、
「こっちの水は甘そうだ」と「超低コストで労力も最小限で作れそう」だから手がけているだけである。こういう手合いにクリエイターとしての自負心や、演者へのリスペクトなどを求めても無駄である。評判が悪くなっても、儲かりそうなうちはサークル名や表向きの代表者を変えて同じ事を繰り返すだけだろう。
つまり無茶な依頼には、受ける側が毅然として対応するしかない。
だがしかし、それだけの「余裕」を持っている人はそうそうおらず、強く出られるとつい受け入れてしまいがちである。そういう人に
「プロとしての自覚を持って無茶なクライアントは断れ」などと説いてもある意味では無駄である。シャアに
「ならば今すぐ自称声優ども全てに仕事を授けてみせろ!!」と言い返されるのが関の山だろう。
繰り返しになるが、プロ、つまり本当の声優になれなかった人が、それでも諦めきれずにしがみついているのが同人声優というポジションである。他人から「お前プロにゃなれねーよ」と言われた経験がある以上、自己評価が低いのは仕方ないことである。
それに、そのまま何の仕事も受けなければ「自称声優」でしかないのが、どんなデタラメなクライアントからでも依頼を受けて仕事をすれば、その間は確かにプロであると感じることができる。うがった言い方をすれば、契約トラブルで揉めるのだって、ある意味でとても「プロっぽい」イベントである。
このような構造では、抜本的な解決策は望めない。ジャンル自体が下火になって、業界ゴロっぽい連中が減れば被害も減るだろう、程度のことしか言えない。闇である。
オススメと言いつつ他人からの引用や個人の趣味が入り乱れてて、そも年200本が大したことない上にそれでも本数に見合わないチョイスだから一言いいたくなるんだと思いますよ。ひとつひとつは小さいツッコミ所が集まって爆発したというか。
例えば年200冊マンガ読む人がドラゴンボールやワンピースと低俗霊day dreamer勧めてる微妙感というか…非常にモヤモヤするんですな
あとジャッキーブラウン前後のタランティーノってファッションとして映画観る層にもウケてて、それがジャッキーブラウンで離れて行ったことがあって、まあ藁人形といえばそうなんだけどそいつら思い出してムカつくってのもあるのかなーと。というか個人的にそう。ジャッキーブラウンを外すタラ好きは一瞬警戒します。
んでオススメの話題に戻ると、ネットとかで間口広く映画をオススメするんなら、今の話題作や人気作からそれと似た趣向だったり関連する作品を掘り下げるのが一番だと思うんだよね。
例としてオデッセイなら、
・宇宙で生き残るため試行錯誤する→ゼログラビティ・アポロ13
とかさ。後半ギャグだけど。
これなら今の映画界に貢献できる上に過去作の活性化にも繋がって映画ファンを増やす道筋を提示できるし、著者が過去に観てきた作品の本数は説得力の材料にもなる。まあ要するに真っ当な評論家がやるようなことですな
あれなあ、ほんと考えれば考えるほど根深い。
最初に自分の意見を明白にしておくと、俺は恋愛禁止なんて人権侵害だし契約として不適切だと思っている。いつぞやのお泊りがバレて坊主頭にしたアイドルの件は、心底あれを許しているこの社会がヤバいと思った。しかしじゃあ過払い利息よろしく恋愛禁止契約自体を禁止すればいいのかというと、俺はそれでいいと思ってるんだけど、実のところ事はもっとずっと複雑なんだよな。
さしあたって恋愛なりお泊りなりがバレたアイドルが謝罪するのは、別に拳銃を突きつけられているからでも謝らなければ何千万円の違約金を取られるからでもない。前に恋愛禁止条項を破ったアイドルに事務所が損害賠償金を払わせることを裁判所が認めたというニュースがあったが、同様の裁判で逆に賠償を認めなかったというケースもある。司法的にもまだ結論の出ていない話ではあるのだが、いずれにしろ彼ら彼女らの支払い能力を超えるような巨額の賠償が認めれられることはまずないと言っていいだろう。では彼ら彼女ら――もっぱら彼女らではあるのだが――はなぜ公共に向けて謝罪するのか?
言うまでもない。それは一人でも多くのファンをつなぎ留めて自分の商品価値を守るためだ。処女性が失われた時点で去っていくファンがいる事は避けられないが、全力で謝罪すればその中の何割かは引き止められるはずだからこそ頭を下げる。こないだのベッキーとゲス男との不倫でベッキーだけが謝ったのも全く同じことで、あれを男女差別だという声もあったが別にこの件でそれは関係ない。そもそも不倫というプライベートな問題で男も女も第三者に謝る必要などないが、それでもベッキーが謝罪したのは不倫によるイメージダウンがゲス男にとってはさして痛くないのにベッキーにとっては致命傷になるからだ。その差はベッキーは清潔感のあるイメージで売るタレントでありゲス男はCDを売るアーティストであるという職業上の特性の差に由来しているのであって、男女の違いではない。
全く同じことがアイドルの恋愛禁止にも言えてしまう。アイドルが恋愛できないのは、あれこれ道筋をカットして結論だけを書くなら恋愛するとファンが離れてしまうからだ。である以上たとえ契約上の恋愛禁止条項が違法化されたとしても結局恋愛はできない(もしくはバラせない)という点はなんら変わりない。ファンはもちろん自由意志でアイドルを応援している以上、どんな理由でファンを辞めても咎められるいわれはない。恋愛を禁止されていなくたって、「私は彼氏作りません!」と宣言するアイドルに支持が集まるなら他のアイドル志望者もおそらくは「自発的に」それに追随するだろう。
英ガーディアン誌はベッキー謝罪に絡めて日本のタレント事情を論じた記事でこう評している。
彼らのほとんどは、様式的なエンターテイメントのスキルを持っていません。事務所にとっての彼らの価値は大衆からいかにヒトとして好かれているかという点のみなのです。ゆえに彼らのプライベートも事務所に所有されてしまうのです。
結局はここに行き着く。枷から飛びだして自由に恋愛も仕事も充実させるためには、処女性を求めないファンだけでも充分にやっていけるだけの実力を備えるしかない。
ところで、別にアイドルでなくてもこの日本に恋愛禁止という名の人権干渉はありふれている。恋愛禁止の学校、恋愛禁止の部活、恋愛禁止の会社……。特に社内恋愛禁止のルールは特に抗議の声も上がらず受け入れられていることが多いように思う。みんな大人なのに。
家庭内にすらそういう事はある。「恋愛なんかにうつつを抜かすな」と親から禁止されている子どもは決して少なくない。特に女子の被害者が多いだろうが、男子でも親が受験戦争に入れ込んでいたりするとなんでもかんでも禁止にされてしまう。
恋愛という、いわば究極的にプライベートな事柄に他者が干渉し更には禁止までしてしまうことに人々は慣れすぎている。恋愛禁止条項なんていうヤバげな契約が堂々存在できてしまうのもなにも処女信仰だけが原因ではなく、「なんらかのそれらしい理由さえあれば恋愛を禁止するというルールがあっても良い」と多くの日本人が自然と考えているからだ。いやはや窮屈な社会だよなあ。
はじめまして!大学生の皆様は、ちょうどこの時期ぐらい、試験が終わって春休み!って方々が多いのではないでしょうか!?
まだの方はあと少しですね……!頑張ってください!!
今回の記事では、題字の通り、大学での配属研究室の決める際について、筆者が思うこと、感じたこと、こうしたらいいのかなーっと思ったことをつらつらと書いていこうと思います。
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記事内容に筆者の主観が多く含まれておる可能性があるかもしれません。以下読み進め、参考にする場合はその点を何よりも留意してお願いいたします。
あと、筆者は学部卒で大学院には行っていないため、院志望で考えてる方は、その点も留意してお願いいたします。
最後に、普段ちゃんとした文を全く書かない人なんで、とても読みにくい文章かもしれませんが、その点もご留意ください……。
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■なぜこんな記事を?
筆者も去年まで大学生でした。いわゆる駅弁大の工学部です。その中で、勤勉で優秀な人が、研究室配属後に日々つらそうにしてたり、研究室にこれなくなったり、完全失踪したりという例をたくさんみてきました。
1つ2つじゃないです。それはそれはもう、たくさんです。(理系らしく定量的じゃなくてすみません……。あんまりこういうのも細かく書くのもアレなんで)
こういった実情を目の前にし、理系の研究室選びはとても大切で慎重にせねばならないと感じました。本当に、研究室選びは大事なんです!!めっちゃ大事!!!
では、どう慎重に選ぶのか?
以下では、研究室をどう慎重に選ぶのかを、経験や見聞、持論を織り交ぜて伝えていくことができたらなと思います。
■まず成績!!
研究室を決める時に外せない問題として、まず成績だと思います。
各大学、各学部学科ごとに研究室の決め方はいろいろと思いますが、希望が被ったり、だれも配属されない研究室が出てきた場合、おそらく持ちだされるのは成績です。
かくいう筆者も4年生に学年最低評定で進級したため、誰一人希望が集まらなかった研究室に飛ばされましたw
まずは成績がある程度ないと、どんなにうまく研究室を見極めても、それは無意味となってしまう可能性があります。
高いの狙える評定は狙っておきましょう。てか無理そうな教科は完全に捨てるも勇気です(不可じゃなくてハイフン的な)。平均評定を成績としてみられる場合、この決断は非常に大事です。
■どのような基準で選べばいいのか?
・拘束時間は短いか
・現時点で自分が全然興味ない(むしろやりたくない)分野の研究内容ではないか
かと。
ここがまずいと大変なことになります。もちろん、人間同士、性格の一致不一致あると思いますが、あまりにもアレな教授や准教授、助教、先輩がいるところにあえて飛び込む必要は無いでしょう
また、体育会系のノリが強い、オタク系のノリが強い、女性がいるかいないか……そういった点も把握しておき、自分と合う雰囲気のところに配属したほうが、精神的にも大いに楽になると思います。
放置系研究室ないし激務系研究室は避けよう、ということです。具体的にその2つの何がいけないかということなんですが、自分を指導してくれる人がいないという点です。
人間、誰しも指導ありきで成長します。研究室に入ったばかりの学生は、前提知識はともかく、まだ研究をする人間としては赤ん坊同然。文献を読むだけでは身につかないこともたくさんあります。そもそも研究テーマとその道筋を、入ったばかりの研究生が建てられるわけがないですよね
それを指導してくれる人間がいないところは危険です。それにより闇を抱えてそうなところは避けましょう。おそらく心労が半端ないです。
・拘束時間は短いか
重要です。長いと心労が半端ないです。そもそも拘束時間が長いところは、配属生みんながみんな好きでずっと研究しているかというと、そうでない可能性もあって、『全体的に配属生が課されている研究が重すぎる』『研究以外の雑務雑用、資料作成が多い』『用もない、効率も下がりまくってるのに帰れない環境がそこにある』といった理由かもしれません。上の例と組み合わせて『指導がないので具体的になにをしたらいいかわからないが、成果が出ないため、雰囲気的に帰れない』というコンボもあります。最高ですね!
最悪研究したくてたまらん!って人は、拘束時間が短いところでも勝手に自主的に残ってやってたり、家で自学してたり、留学や他大学院へのロンダでどっかに行ってるでしょう。
研究室全体がずっとみんな残って、ってところはちょっと要注意かもしれません。本当に配属されてる人の全員が全員、研究をしたくてずっと研究室にいるのか?
そこのところもチェックすべき事項と思います。これは一部の分野の研究内容は避けられない問題かもしれませんが……(合成バイオ系等)
・現時点で自分が全然興味ない(むしろやりたくない)分野の研究内容ではないか
文の通りです。……なんか弱くないですか!?やりたい研究ができるのは一番なのでは!?と思うかもしれません。
もちろんそうです。しかし、この辺は、もう実際研究室に入り、テーマを与えられ、着手してみないとわからない部分だと思います。いろんな研究室を回って、いろいろ調べて、興味を持っても、研究してみると、『少し違う!』ってこともあるかもしれません。
ただ、注意してほしいのが、本当の本当に、全然興味のない、むしろ嫌いな分野ではないか、ということです。
研究室の環境がよくとも、内容が本当に無理すぎる!ってなった場合は厳しいです。入るまでの段階の調査では限界はありますが、ある程度、自分の比較的興味のある分野から大きくかけ離れた分野の研究室を選ぶ場合はご注意ください。
やはり理系なんで定量的に……ということで。その研究室に院生がはいるか?その院生も、配属研究室が変更されず、学部生からそのまま院に進学した院生か?
統計的に見て、院生が少ないということは、その研究室に学部卒志望の人間が多く集まったか、ロンダしたくて別の大学院にいった人間がいた、別の研究をしたくなったので別の研究室にいった人間がいた……など、様々な理由が考えられます。しかしその中で、研究室がやばいから別のところへ逃げたひとがいた、といった理由もあるかもしれません。あくまで統計では、ですが、重要な指標になるはずです。
■なにを手がかりに情報を得たらいいのか?
上記では研究室を決める際に重要と思われる指標について記述しましたが、ではその判断材料はどこから持ってくるのか?
・観察による調査
正直これが一番大事です。一番、頼りになります。前項の研究内容以外、全部これでカバーできるかと。
まずは知り合いに聞く。先輩に聞く。学生実験のTAに聞く。先輩がいない場合は同期を通じて!誰か一人でも知り合いがいればその人を通じて情報収集をしましょう。聞いてるだけの身じゃ情報もあんまり入ってきません。
ただ、同期であんまり共有し過ぎると、露骨に希望がかたまり、成績順になります(成績がいい人はそれで問題なしかも……)
普段ぼっち気味でもなんでも、ここばかりは必死になりましょう。冒頭で述べたとおり、研究室選びは大事なんです!!
・観察による調査
教授陣が忙しそう、休講が多い→忙しいみたいだけど、配属生の指導にはきちんと手が回っているのかな?
毎晩遅くまで研究室の明かりがついている→ちゃんと帰れてるのか?
とか。また、提出物を出しに行った時に見える研究室内の様子とか。いっぱいおるなーとか、昼なのに全然おらんなーとか、ゴミ箱レッ○ブルだらけやんけ!とか、カップ麺だらけやんけ!とか、生活用具一式揃っちゃってる!!……とか
このように、研究室の様子だけなら、外からだけでもなんとなく予想はできると思います。
もしかしたらイベントとして強制でやってるところも多いかもしれませんね。ここで研究室の全容は知ることはできないでしょうが、情報をできるだけ多く得ておくことは重要です。研究内容について一番情報を得ることができるのはまぎれもなく研究室見学かと思います。ここで研究室ごとのあらかたの研究分野を知っておくのは大事です。したい研究はもちろん、前項で述べた『全然興味ない(むしろやりたくない)分野の研究内容』を見極めのに研究室見学は重要です。
以上となります。とりあえず書きだめもせずに走り書きなんで、拙い文章になっているかもしれませんがご了承ください。必要があれば適宜修正いたします。
タイトルを記事内容に合ったものに変更しました。内容は変えていません。
http://twitter.com/InsideCHIKIRIN/status/535980176283566080
「円安が好きな人ってほんとーにわからない。自分の国を安く売って何が嬉しいのかな。」
http://twitter.com/InsideCHIKIRIN/status/534181673152565248
「消費税が逆進的だ(所得の低い人に厳しい)という人は多いけど、円安もかなり逆進的だよね。円安で利益がでるのはトヨタなど大企業ばっかり。
その一方、格安な輸入食材&商品が軒並み、円安で値上がりして、低所得者層は出費が増える。」
この2つのツイートへの返答をマクラにしつつ、アベノミクス(このダサいネーミングはなんとかならないのか)の良い点と悪い点、
民主党執行部への愚痴(これがメイン)なんかを書いていこうと思います。
ここ15年ぐらいずっと言われてきた「デフレ不況」、デフレとは、物価が持続的に下落している状態を指します。
単純に考えればモノの値段が下がることはうれしいはずなのに、なんでデフレが問題なんでしょうか。
そんなことわかってるよと思われるかもしれませんが、順を追って説明するために書いておきます。
物価が下がって企業の売上が減ると、企業収益が減ります。企業は利益を出すためには費用も減らさなければいけません。
今回はこのうち、人件費を抑える、というポイントにしぼって話をします。
物価が下落したのと同じ割合で社員全員の給料を減らせれば何の問題もないのかもしれませんが、そういうふうにはできないですよね。
正社員の給料は、物価が下落する割合ほどには下がりません。これを「賃金の下方硬直性」と言います。
リストラされずにすんで定収入がある人たちはデフレで少しずつ得をしますが、その分をリストラされて収入が無くなる人がかぶるんです。
結局この被害を一番受けるのは、これから社会に出て仕事をしようとする若い世代です。求人が減って有効求人倍率が下がります。
企業はすでに雇用している人を解雇するよりも先に、新しく入ってくる人を減らすので失業率が高くなります。真っ先にこの影響を受けるのは若者です。
これがデフレを問題視するべき大きな理由です。若年失業者が増え、世代間格差が拡大していきます。
物価上昇率と失業率にははっきりとした相関関係があって、フィリップス曲線と呼ばれていますが、物価上昇率が低いと失業率が高くなります。
ここまでに書いたとおり、景気変動によって不況時にはデフレによって失業という経済問題が起こります。
また、好況時にはインフレーションという問題が起こってしまいます。だから過度のインフレもデフレも望ましくないのですが、
経済は常に循環してるのでほっておくと景気変動は避けることができません。
金融安定化政策とは、このような景気変動を平準化するために政府がとる政策のことです。
インフレ時には世の中に出回るお金の量を減らすことで景気の過熱をおさえて、デフレ時には出回るお金の量を増やすことで景気を温めます。
この政策の効果がよくわかるのは、リーマンショック以降の各国の金融政策です。
中央銀行(日本だと日本銀行)が供給している通貨の総量をマネタリーベースと言います。
リーマンショック以降、アメリカは大規模な金融緩和によってマネタリーベースが急増しました。
それに対して日本はあまり増えていません。不況下でも出回るお金の量を増やさなかったことでデフレ不況が加速していきました。
また、出回るドルの量が増え円の量が増えなかった影響で円高ドル安も加速しました。
ドルはたくさん出回っているから安くなり円はあまり出回ってないから高くなります。
ここで大事なのは、通貨の交換レートというのは出回っている量の比率で決まるものでしかないということです。
最初に紹介したちきりん女史のツイートでの誤解はここにあって、円が高いか安いかと、自国を高く売るとか安く売るとかはなんの関係もありません。
その国の通貨がどのぐらい出回っているかは金融政策によって決まりますが、それは好不況の影響を平準化するための結果でしかありません。
リーマンショック前には1ドル110〜120円だったのが、2011年には1ドル70円台というとてつもない円高ドル安に突入しました。
円が高くなったからと言って日本が豊かになったわけでないのはご存知の通りです。
アベノミクス(もう一度言うけどこのネーミングはダサすぎると思う)ではこのデフレ不況に対して、やっと金融緩和をして出回るお金の量を増やしました。
今まで金融緩和をしてこなかったのが異常なだけで金融政策に関してはごくごく普通の政策なんです。
ここからが本題です。というか民主党支持者としてのただの愚痴です。はぁ…
日本銀行には、第一次石油危機の時の高インフレや、バブル経済の時代に金融緩和をしすぎた記憶から、インフレは悪だという認識が根強くあります。
デフレでも良いからとにかくインフレにならないような金融政策を行ってきました。
38度の熱を出してしまったトラウマが忘れられなくて体温を34度に保って体を鍛えようとしている人がいたらまず36度ぐらいまで体を温めろよと言うと思うんですが、
体温を上げるのは絶対に許せないと言う考えが日本銀行には強くあります。
それと、マスコミや知識人に多いのがイデオロギー的に金融緩和にアレルギーを持っている人たちです。バブル時代、自民党政権は好景気の中で金融緩和を進め
赤字国債を発行し財政支出を増やしていきました。この時期の「自民党的」な政策に対するアレルギーから、金融緩和政策に対して脊髄反射的にバブルの再来、
という言葉を使いたがる傾向があります。バブルを知らない私にはこの感覚が全くわからないんですが、バブルのトラウマはこんなにも大きいのか、と心から思います。
ただ、ここまででも書いたとおり金融政策はイデオロギーとは関係ない技術的な問題です。
インフレ時には引き締め、デフレ時には緩和する、それ以上でも以下でもありません。
国の経済政策についての学問であるマクロ経済学には、大きく分けて二つの考え方があります。「新古典派」と「ケインズ学派」です。
おおざっぱにいうと新古典派の経済政策というのは、経済活動は市場に任せていれば最適化されてうまくいくから国はなるべく介入すべきではない、という考え方です。
それに対してケインズ学派の経済政策というのは、新古典派経済学は特殊な環境でしか成立しないから、国が環境をうまく整えるべきという考え方です。
金融安定化政策というのは、ほっといたら物価は勝手に上がったり下がったりしてひどいインフレやデフレになったりするからそれを安定させようとする政策なので、
当然ケインズ学派に属する政策です。ケインズという経済学者が書いた「雇用・利子および貨幣の一般理論」という本の中で提言されていて、
アベノミクス(ry)が設定した3つの論点は1,金融政策2,財政政策3,成長戦略です。経済学的にも妥当な論点の設定だと思います。
タイトルにも書いているように私は民主党を支持していますが、現政権の政策で経済政策に限らず私が唯一支持しているのが1の金融政策です。
そしてこの点についてずっと民主党に不満をもっています。金融緩和アレルギーの項で、金融政策を体温の上げ下げに例えましたが、とにかく36度ぐらいまで体温を
上げないと何も始まらないという現政権の金融政策を否定する理由は特にありません。ただ、その上でどんな栄養を取るかだったりどういう風に体質改善するかについて
は全く支持できません。金融緩和は短期的(2~5年)に企業収益を押し上げ失業率を低下させます(個人的にはこの失業率低下が超重要!)。
そして長期的(10年以上)なスパンで考えると制度疲労がおきている仕組みを変更したり不要な規制を撤廃するための体質改善やトレーニングが必要です。
この体質改善の部分については民主党を支持しています。だからこそ民主党に金融緩和をしてほしかった。そして実際にそのチャンスもあったと思っています。
でも結局できなかった。なぜなのか私なりに感じていることを書いてみます。
民主党政権時代に民主党議員を中心とした超党派のデフレ脱却議連というのがありました。遅すぎるだろうという不満はともかくとして、
デフレ脱却のために金融緩和をすべきということを民主党内にも真剣に考える議員達がいました。2010年6月と7月にはこんな記事がでています。
新政権で金融緩和、円安進む-民主のデフレ脱却議連事務局長http://www.bloomberg.co.jp/news/123-L3GOBZ0D9L3501.html
民主デフレ脱却議連、インフレ目標導入など財務相に提言http://jp.reuters.com/article/businessNews/idJPJAPAN-16524520100730
でも結局政策として実現することはありませんでした。民主党の最大の問題点はガバナンスだと思います。人材がいても執行部のイデオロギー的な好みで実現しない
ことが多すぎるのではと思っています。デフレ脱却議連の人達は今の海江田代表&枝野バカヤロウコノヤロウ幹事長体制をどう見てるんでしょう。
2012年に民主党の野田首相と自民党の谷垣総裁、公明党の山口那津男代表が三党合意によって10パーセントへの増税をおまけみたいな景気条項つきで決定しました。
実際には景気の悪い時に増税して、財政再建が成功した例は世界的にみてもありません。この後、年末の解散で安倍政権が誕生して金融緩和が始まりましたが、
あのタイミングで金融緩和をせずに増税してたらと思うと本当に恐ろしいです。
歴史的に見ても、名目GDPが増えない限り、財政再建には成功しません。日本でもかつて2005年から2008年くらいまで、名目GDPが多少増えた時には、
一番大事なのは、まず経済が成長することです。成長することで税収を増やしていく。
実際に2013年度に関しては、経済成長のおかげで3.6兆円ほど税収が増えています。
こういう話をすると結局カネかよ、という反応をされることがあります。正しい政策を主張しているのはこっちなのに景気さえ良ければいいのかと。
リベラルに一定数いるこういう浮世離れした反応が正直に言って一番苦手です。安倍政権は大嫌いだし自民党には投票しないけど支持が落ちない理由は理解できます。
自民党に投票する人を見下して笑ってれば支持が増えると思うならそうすればいいですよ。安倍首相は表舞台からいなくなってる間、デフレ脱却のために真剣に
マクロ経済の勉強をしたおかげで、いまだに支持率が40パーセント以上あって長期政権になりそうです。このことを民主党の政治家はを本気で考えてほしいです。
最初に書いたとおり定収入が保証されていたり資産が十分にある人にとってデフレは得なんです。
そして何度でも言うけどデフレ下での金融緩和は直接的に失業率を下げる効果があります。実際に下がっています。
あまり報道されていませんが、中小企業景況調査報告書を見ると中小企業の景況感も良くなっています。
http://www.chusho.meti.go.jp/koukai/chousa/keikyo/137keikyo/137sokuho.pdf
定収入がある人達の賃金アップはその後に来ます。金融緩和は上位3パーセントだけが得をする政策だと一生懸命に主張している人達には
下位5パーセントは見えていないのか、それともイデオロギーのほうが大事なのかどっちなんでしょう。
私が民主党を支持する理由をあえてイデオロギーを強調して書くと、保守が再分配に興味を持つよりもリベラルが金融緩和するほうが可能性があると
今でも思っているからです。それなのに、実際にこの二年間でデフレ脱却のための道筋をつけた現政権の支持者を馬鹿にしてる人とケンカになったりすると、
一回まとめておきます。私が望む経済政策は、金融政策によって過度なインフレやデフレを抑えつつ、子育て世代や社会的弱者への厚い再分配や余計な規制の緩和、
同一労働同一賃金を実現して世代間格差の緩和や財政健全化を目指すことです。そんな政党があれば今すぐ飛びつきます。飛びつきたくてしょうがないです。
それなのに現状デフレ下で金融緩和に賛成している政党は自民党以外だと維新の党や次世代の党、もうなくなったけどみんなの党みたいに
再分配に興味がない政党ばかりで泣きそうです。どんなに失業率が少なくなっても失業者がゼロになることはないです。
この二年で雇用を増やして失業者を減らしたけど、それでもまだ失業している人への再分配には興味がないのが現政権で、
再分配に興味はあるけどその原資のために景気を良くしたり失業率を下げるための政策を最後まで採らなかったのが前政権です。
知らん。誰か教えてください
Twitter を見てると、太陽系の天体が螺旋運動するこのデマ動画が、いまだにRTされたりして拡散しているのでうんざりしてきた。
「太陽系 公転」「太陽系 運動」「太陽系 移動」「太陽系 回転」などで検索すると、この動画を真に受けて紹介しているブログなどが検索上位にヒットしてきて、さらに誤解を広める一因となっている。
あまつさえニコニコ動画にも転載され、字幕までつけられている。
結論から言うと、これはトンデモ信者が思い込みだけで作った信憑性ゼロの動画である。映像の出来だけはよいからか、昨年の3月頃からかなり広まっており、天文学者フィリップ・プレイト氏がブログでその間違いを指摘した記事を出している。プレイト氏は『イケナイ宇宙学 間違いだらけの天文常識』の著者で、世にはびこる間違った天文・宇宙ネタを斬って解説するブログ Bad Astronomy で知られている人。
この記事の和訳版が以下にあり、大変ありがたいのだが(動画が話題になってすぐのタイミングで和訳まで出たのは本当に感謝している)、残念なことに誤訳が目立つという指摘があり、いまもって修正されていない。
翻訳が不自然な箇所を以下にテキストで逐一指摘してくれている方がいたが、行きつ戻りつ確認しながら読むのが大変なので、勝手ながら指摘箇所を中心に翻訳を修正して以下にまとめ直した。いまだに信じて動画を広めてしまっている人に「それ間違いですよ」と指摘しようにも、記事の誤訳が多かったりするとちょっとなぁ、となるので。
なお、もし元の翻訳記事が適切に修正されれば本記事は消すつもりだが、和訳した方は当時Twitter で指摘されてこの校正テキストを読んだはずなのに、もう1年半ほど放置されているのであまり期待していない。
間違いを打ち消すために、まともな太陽系の公転運動を描いた動画があれば知りたいものである。
なめらかな動きでコンピューターアニメーションが太陽の周りを周る惑星の動きを、天の川銀河を周る太陽軌道のように解説する動画について、ツイートやメールがたくさん来ている。とてもきれいな動画に、説得力のある音楽、ていねいな作りの画像。
しかし、問題がひとつある。間違っているのだ。間違いは表面的なものではなく、間違った前提からきた根本的なものだ。中にはいくつかの有益な視覚情報があるが、私は(銀河サイズの)話題のタネだと思っておくよう警告する。
なぜか? 彼の主張の基礎は、「惑星は太陽中心の軌道を描いているのではなく、銀河の周りを渦巻き状に移動している」というものだ。
私は普段、こうした話題の間違いを暴くような面倒なことはしない。奇抜な主張はいつでもあるし、たいていは自滅していくからだ。しかし、この件についてはたくさんの人が私に知らせてきたし、明らかにかなり人気を博している――たぶん表面上は正しく見えるし、画像も大変きれいだからだろう。また、科学を知りつつもそこから離れて久しい人たちによって広まっているのではないかと見ている。このような話題を扱うときには、いつも少し深く掘り下げる手間がかかる。
そこで、シャベルを取り出してみよう。
動画の作者DJ Sadhuは明らかにコンピュータグラフィックスの才能がある。しかし科学は……まあ。私にはすぐさまこの動画が何を目指しているのかわかった。彼は率直に、太陽系の太陽中心モデルは間違っている、と述べている。しかしながら、この Sadhuの主張ははなはだしく間違っている。重力は存在しないと言っているようなものだ。
地動説とは、太陽が太陽系の中心にあるという考え方で、惑星はその周りを周っている(他にもいくつか大事なことがあり、たとえば惑星の軌道は楕円であるとか、軌道は同一平面上にあるのではなくて互いに傾いているとか)。この考え方は、地球が太陽系の中心だという古い天動説にとってかわった。天動説は、それをちゃんとした物理のモデルだと考えると、あらゆる種類の奇妙な仮定をしてやらないとちゃんと機能しない、とてつもなく複雑で考えすぎの物理モデルになってしまう(タイレノールなどの頭痛薬があるなら、epicyclesの項を見てみよう)。地動説はそれよりもずっと物理的に正しいし、ずっとうまく機能している。
私は、どちらのモデルにもそれぞれの使い道があると言いたいのだ。もし特定の惑星が天のどこにあるのか知りたいなら、天動説の座標を使うことになる。われわれは地球に住んでいて、地球は動かずに天の車輪が頭上を回転して動いているように見える、それは理にかなっている。しかし、もし惑星へ宇宙探査機を送りたいなら、太陽中心のシステムが必要なのだ。地球も惑星も両方とも動いていると考える方が、はるかに計算は簡単になる。
Sadhuは、地動説が間違っていて、実は惑星は渦を描きながら太陽を周る動きをしているのだと主張している。彼が実際に言わんとしているものは、渦ではなくらせんである。この2つは名前が違うだけでなく、物理的な動きもその特徴も全く異なる。らせん軌道を描く粒子は、太陽系のようにお互いには干渉していなくてもよいが、渦を描く粒子は抗力と摩擦を通じて互いに干渉している。
しかし、意味論的な論争はよそう。もう一度動画を見てみよう。Sadhuは太陽が惑星を先導しているかのように、太陽が惑星よりも前方に出て銀河を回っているかのように描いている(2番目のビデオだともっとそれは明白だ)。これは単に誤解を招くだけでなく、完全に間違っている。惑星は、われわれが銀河系の中を巡るとき、ときどき確かに太陽の前に出たり、ときどきその後ろをついてゆく(太陽を周回する軌道上のどこにいるかによる)。実際に夜空の惑星を見たことのある人にとっては明白な真実である。なぜなら夜空の一部は、地球や太陽が銀河系を周るときの進行方向にあたるわけだが、惑星はその部分にだって観測されるのだ。
ここでも、細かいことをあれこれ議論するのはやめよう。後述するように(「こうした考え方はどこからもたらされたのか?」の項)、惑星が銀河系内を動くときに太陽の後ろをついていくという考え方は、Sadhuがらせんについて述べるときの思考基盤となっている。しかしまずは、もうちょっと見てみよう。
太陽が銀河の中を移動していく様子を示している、彼が二番目に公表した動画では、もっとひどい状況だ。
公平のために言うと、今回彼は惑星の動きについて「らせん状」だと正しく記述している。しかし、まだ惑星が太陽の後ろをついていくように描いていて、これは間違っている。また特に動画の冒頭では、太陽中心モデルと、らせん運動についての彼の説明を具体的に比較しており、誤った「太陽主導」の考え方を補強している。
彼の動画における太陽中心モデルの動きを注意深く見てみよう。銀河を周る太陽が動く方向は、惑星の軌道平面と同じに描かれている。しかし、こうではないのだ。太陽系の平面は、車の前方への動きに対してフロントガラスが作る角度のように、銀河系に対して約60度で傾いている。
これは本当に重要な点だ。らせんモデルでは、銀河を周る太陽の動きにあわせて、太陽を垂直に周回するような惑星が描かれている。お好みなら「正面向き」といってもいい。これが間違っている。なぜなら、惑星の軌道は60度で傾いていて、90度ではない。惑星はときに太陽の前に、ときに後ろになる。これだけで、らせん描写が正しくないことがわかる。地動説という現実のモデルにおいても、順行-逆行運動というものは存在し、現実の空できちんと観測できる〔訳注:詳しくはこちら参照〕。
しかしそれだけではない。動画では、太陽が銀河を周ることを見せていて、らせんに沿って上昇、下降している。最初の動画のように、一部正しいところもあるが、大方は事実からかけ離れている。
われわれの銀河は、中心部が膨らんでいる平たい円盤で、端から端まで約10万光年の距離がある。この円盤は無数の星を内包し、その重力が合わさって、銀河中心を周る軌道に太陽を留めている。ちょうど、太陽の重力が惑星を軌道に留めているのと同じだ。
太陽が銀河系を一周する軌道の長さは、およそ2.4億光年ではない。銀河を周回するときには、だいたい動画にあるように、太陽は実際ぴょこぴょこアップダウンを繰り返している(とはいえ大体1周につき4回ぐらいなのに、Sadhuは動画内で数十回もアップダウンするように描いている)。〔訳注:太陽系が銀河系内を周回する軌道の図参照(垂直方向は強調されている)〕
このような運動が起きるのは、銀河円盤での重力の働き方のせいだ。ここが非常にクールなところだ。円盤よりほんのわずか上にあるものは、円盤に向かって全体的に下へと引っ張られる。円盤が巨大な物質の板であると想像してみて、太陽がその円盤よりも上にあるとする。円盤の重力は太陽を下へと引っ張る。星と星の間は遠く離れているので、太陽は円盤の間を通り抜けて下へ降りていく。そうすると今度は、下に来てしまった太陽を円盤がまた引っ張り上げる。このとき、太陽の動きはだんだん遅くなり、そして止まり、向きを逆にしてまた円盤へと急激に突入する。太陽は、銀河円盤の中心から上下にそれぞれ200光年ぐらいの浮き沈みをするが、円盤は1000光年の厚みをもっているので、結局私たちは銀河円盤の中にしっかり留まっている。しかしこうした摂動は永遠に続き、太陽は大海のコルクのように浮き沈みを続ける。
太陽は銀河を周回しているので、合わさった動きはすてきな波のパターンになり、浮きつ沈みつ回転木馬のようにまわり続ける。ゆえに、Sadhuはこの部分に関しては(多かれ少なかれ)正しい。
だいたいはね。しかしここに3つ目の要素が加えられている。ひねったらせんを描く太陽の道筋を、彼は歳差運動の性質だとしている。この部分は間違っている。非常に間違っている。
歳差運動は物体が回転するときにてっぺんをぐらぐらさせる動きで、回転の中心軸からずれた向きの力をてっぺんに加えたときに起きるものだ。コマのてっぺんを突くとぐらつく、それが歳差運動だ。地球自身も太陽と月の重力に引っ張られて歳差運動をしており、その軸の1回の揺れ周期は2万6000年だ。
明らかにSadhuは、動画の中でこれを表現している。しかし、ぐらつきは太陽にまったくなんの影響も与えていない。それはただ、地球が何かしているだけだ。しかし、Sadhuは銀河を周る太陽の動きに付け加えていて、それは意味をなさない。動画では銀河を周るコークスクリュー(コルク栓抜きのような螺旋運動)を描いているが、ときには銀河の中心に寄り、ときには遠くへ離れる動きを何度も何度も繰り返している。回転木馬のたとえでいえば、馬が真ん中で回って、上下に、また左右に動いているようなものだ。しかし、それは太陽の本当の動きではない。左右の運動なんてない(軌道ごと何度も銀河の中心に向かったり離れたりするなんて)。Sadhuの示すコークスクリューパターンは、間違っているのだ。
動画と解説文において、Sadhuはかなり頻繁に、座標系と力と運動を混乱させている。
彼はなぜこんな正しくない運動を描くのだろうか。それを掴むため、彼が元にした文献をあたってみた。
動画と彼のサイトによると、SadhuはPallathadka Keshava Bhatという人から学んだそうだ。Bhatによる「らせんの渦巻き:太陽系の動的プロセス」(“Helical Helix: Solar System a Dynamic Process”〔リンク切れのためこちら参照〕)と題された文章にこの考え方はすべて説明してあり、細かすぎる点は指摘しないが、ちんぷんかんぷんなものだった。まじめな話、どれもまったく意味をなさない。Bhatは地動説は間違っていると主張しているのだが、その主張を補強するために、虚偽のアイディアを次から次へと用いているのだ。彼の主張の間違いを暴くためにページを割くこともできるが、ここは短くまとめてみよう。
私はBhatの主張を何度も読んで、可能な限り好意的に考えようとした。私がかき集めたところでは、彼が言っているのは、太陽の動きによって、太陽を先頭にして惑星が後をついていくという形で、惑星は銀河系内でコルク栓抜き状のらせん運動をする、よって地動説は間違っているというものだ。Sadhuの動画の解説文によると、こうした動きをうまく描いているという。しかし、どれも完全に間違っている。もしそれが正しいのなら、外惑星(太陽から地球よりも遠くにある、火星や木星など)は太陽の反対側に遠く離れて見えないだろう。しかしいつだって、私たちには見えている。
それに、私たちは何度もほかの惑星へ宇宙探査機を送っていて、どれもいまだその軌道上にある。もしBhatがいうように地動説が間違っているのなら、探査機はいつになっても目的の惑星に到達できない。探査機を送るための軌道計算が間違っていることになるからだ。探査機の道筋を計算するときに銀河を周る太陽の動きを考慮する必要なんて全くないから、Bhat氏のいうことは正しくない。
太陽が太陽系の先頭で、惑星はその後ろをついていくという主張も、明らかに間違っている。太陽は、Bhatが主張し(Sadhuが動画で示して)いるように、銀河系を突き進む弾頭のように太陽系を主導したりしていない。惑星は太陽の周囲を周り、全体が一つのユニットとして銀河系を60度の傾きで移動している。これは、銀河の軌道に沿って惑星はときに太陽の前になり、ときに後ろに続くということだ。
これはそう、道を歩くあなたの頭の周りを、端にボールの付いた紐がぐるぐる周っているようなものだ(この円は60度傾いている)。ボールはときに頭の前になり、ときに後ろになる。道を歩くときには常にあなたと一緒だが、歩く速さには関係なく、相対的にはあなたと同じ速さでいつも移動している。あなたが自分の動きを線で表すとすると、ボールは傾いたらせんを描くだろう。これこそBhatとSadhuが説明しようとしたことなのだが、しかし間違った説明になってしまった。
Bhatは、その文章の中でいくつもの間違いと論理的誤ちを犯している。たとえば、Sadhuの地球歳差運動の誤用についてBhatが何と言っているか読み取ろうとした。しかし、とても不明瞭で(それに単純なミスもあり、彼は歳差運動の周期を22万5000年としているが、実際には2万6000年)ゴルディアスの結び目を解いているみたいだった。まだほかにも。彼は、もし地動説が正しいなら、日食は1カ月に1回起きなければならないと考えている(46ページと134ページを参照。ちなみに日蝕が一ヶ月に1回起きないのは、月の軌道が傾いているため)。また、彼は「太陽中心軌道は不可能であると意味しなければならない」と結論付けた部分で、地球が太陽の周りを周る回転について根本的な勘違いをしているようだ(文書の30ページを参照のこと)。実質、私が読んだ文章の1ページごとに基本的・根本的な間違いがあった。
そしてこれが、Sadhuの(間違っているにしてもステキな)動画が基礎としているものなのだ、いいかい? いっておくが、もしSadhuのサイトをのぞいてみたら、あらゆる種類の……んー、おかしな陰謀論……9.11陰謀説から、ケムトレイルから、デイヴィッド・アイク(本気で爬虫類型異星人がデンバー空港の地下に住んでいて世界を支配していると主張している)が怒り狂いそうなのから、名前しかない程度のものまで見つかるだろう。私は、彼のほかの考え方を念頭に置くことにした。
DJ Sadhuの動画は、とてもステキで、そのうちいくつかは真実を元にしたものだ。しかし、私の意見ではBhatのゆがんだ宇宙に対する見方のせいで、その核心が失われてしまっている。
彼の動画は正しいように見える。クールであるように見える。ものごとはこうでなくっちゃ、というセンスに訴えかけるものがある。しかし、物事がどうあるべきかと、実際にどうなのかということはいつも重なり合うわけではない。宇宙は本当にクールな場所で、とてもよく出来た一連の法則に基づいて動いている。私たちはこうした法則を「物理」と呼んでいて、それは数学で記述されている。そしてそういうこと全部を理解しようとする試みが、科学である。
クールなものがすべて科学ではない。しかし科学の全てはクールだ。これは普遍的な法則ではないかもしれない。けれども、私の見てきた限り、これは真実なのだ。