はてなキーワード: 道筋とは
二人零和有限確定完全情報ゲームで、将棋以上に完成されているゲームはそうそうない。先手後手の差が微差であり、戦術上の大差はない。ルールも簡明で、ルールブックはA4用紙一枚で事足りる。必勝法も全く未知数。「とりあえずこうしておけば間違いない」という道筋すら、十手も指さないうちに幾百に枝分かれする自由度。終盤になるにつれ複雑度が増していくゲーム性。ゲームに求められる多くの要素を将棋は満たしているのだ。
ところで、ゲームのプロの価値は、結局ゲームの面白さをいかに伝えるかという点にある。僕らは豪速球を投げ込むピッチャーに熱狂し、素晴らしいパスワークを見せるミッドフィールダーに酔いしれる。スポーツには全く詳しくないが選手は好きと言うファンがいたら、そのファンはどの競技でもこう言われる。「ニワカ」「応援している自分に酔っている」……。
むろん、楽しみ方は人それぞれであって、否定する気はさらさらない。しかし、そういった人々は、競技自体にはほとんど興味がないのであって、断言するがプロプレーヤーは彼らを考慮すべきではないのである。なぜなら、プロプレーヤーは競技自体の魅力を発信するプロではあっても、決して自らや他選手自身の魅力を発信するプロではないからだ。有りていに言ってしまえば、素人がバラエティ番組を作っても面白いものにはならず、プロならば競技自体を楽しむファンのために競技に集中しろということだ。ただしこれはまた、解説者・評論家・記者等がプレーヤーの魅力を発信しないべきとするものではない。彼らは、業界全体のさまざまな魅力を発信することで、ファンに多様な楽しみ方を提供する職業であるからだ。
ここまでの話を将棋界においてみると、いかに今の将棋界が歪んでいるかがわかるだろう。棋士はソフトより弱くなったことで自分たちが将棋の魅力を伝えられないのではと不安になっている。そして個人の魅力を自ら売り出す方向へ迷走してしまい、棋士の精神性だの勝負の厳しさだのはまだいいにしても、「豊島、強いよね」だのは見苦しすぎて見ていられない。そういったことは専業解説者や評論家が行うべきことなのであるが、残念ながら将棋界においては解説者はほぼ現役のプロ棋士であって、専業解説者というのはほとんど存在しないと言ってよい。そして観戦記者には、棋士個人の魅力に踏み込む者も存在するが、なんら代わり映えもしない将棋の内容について語るだけの観戦記を恥ずかしげもなく発表するような者も多い。こんなことだから、プロは自ら棋士は個人として素晴らしいと思い込み発信していかないと、ソフトが強くなった今はなおさらやっていけないのだ。結局、今回の騒動も、将棋連盟の一部の棋士が棋士の価値について「将棋が強い」以上の過大評価をしたことが遠因であることは論をまたないものと思うが、それはここまで論じてきたように将棋界の構造自体がそうさせたものであって、僕は棋士個人を批判する気にはならない。彼らも被害者なのだ。
現役のプロ棋士は、早く「観る将」と決別すべきだ。彼らを楽しませるべきなのは、専業解説者・評論家・記者であって、決してあなたたち自身ではない。そういった外部の人々に思い切って任せておけばいいのだ、需要あるところに供給は発生するのだから。
そして、あなたたちの将棋は、ソフトより弱くなっても依然としてとても面白いものなのだ。少なくともずっとそう思っている人が一人いることを、ここに書き記しておきたい。
社会的動物としての人間の理想的なモデルの一つは、自分の可能性を最大限活かし、それを発揮することを通じて他者の役に立つことだろう。
その手段の一つが勉強だというだけのことで、芸術でもいいし、スポーツでもいいだろう。
だいたい、勉強は楽しいからやるもので、考えなしに娘に強制する親(トピ主)が悪い。
勉強をしたいと思える環境作りをしていないのに勉強を押し付けているなら、それはおせっかいな虐待だ。
子供がまだ若いなら、今すべきことは勉強を押し付ける前に何かしら興味を持てるものを見出すことを手伝うことだろう。
そして、その方法について、最適な勉強法と同じように、最大限の能力を発揮するための道筋をいっしょに見つけてあげればよい。
ハローサヨコ、きみの技術に敬服するよを読んだ。うーん。甘酸っぱい青春小説を謳っているけど、個人的には微妙な読書感だった。
第一において、全編を通して何がやりたいのかがわかりにくかった。ハッキングの技術に邁進する小説が書きたいのか、お悩み解決系でいきたいのか、恋愛を主軸に据えたいのか。いまいちピンとこなかった。
要素自体はたくさん含まれてるんだけど、それらがうまくかみ合ってないというか一体感が感じられなかった。
友人の恋愛が失敗する展開とか、未来がよくわからない高校生らしさを反映しているのかもしれないけど、なんんか微妙。できれば最後で先輩がわからないなりに真剣に悩んでいる友人のことを認めてあげてもよかったんじゃないかなあ。
そもそも主人公も恋愛を意識すればいいのに。小夜子との関係性が恋愛といえなくもないんだろうけど、最後まで読んでなんかぐっと来ない。いたるところで日数が経ちすぎ。
他にも、例えばパソコン部の部長にしても、友人の妹にしてみてもぱっと出すぎてうまく機能してないように感じられた。というか、ミステリで言うところのワトソンポジションから終始主人公が脱却できないのが全部悪い。
あまつさえ、最後の最後でもワトソンポジションのままこれからも小夜子のことを守っていこうとか決意を固めちゃってるからひどい。
少しは向上心を持ってほしい。多少なりともパソコンについての知識を蓄えようとか、あるいは将来についてある程度の道筋を見出すとか。
それすらなく、昔のことを回想して、忘れちゃってたけどもう迷わない、みたいな決意を固められても困る。そうじゃないだろう。
確かにアマチュアはせいぜい8chのカセットMTR持ってるレベルだったんだよな、20年くらい前までは
中村一義が全部自宅でファースト・アルバムをレコーディングしたってだけでロキノンが騒いだ時代よ
DTMという言葉すら全く浸透してなくて宅録とかベッドルームミュージックとか言われてたんでしょ
レーベルに送られてくるデモテープなんてラジカセの録音機能を使って一発撮りなんてザラだったわけだ
そんでもってパソコンもmp3もなくてCDに焼くってどゆこと?っていう感覚だから
レーベルという業者を通さなければ自分の曲が入ったCDなんか作れなかった
それが今はパソコンとオーディオインターフェースとマイクがあればそれなりのデモが作れちゃうし
やっすい値段でCDをプレスしたりブックレットを印刷してくれるサービスや
素人でも扱いやすいECサイトがあるから、レーベル通さなくても自費出版で一応、アルバムは作れちゃう
そもそもハイスタがブレイクする前だから、インディーズで活動するという道筋が20年前ではあまり浮かんでこなかっただろうな
でももうアルバムをプレスするということにすらもう価値が薄れてきてるよな
レコーディングしてみんなに聞いてもらいたいっていうならYoutubeやSoundCloudにアップすれば事足りる時代
レーベルやハコっていうプラットホームの上で結果出さなくてもミュージシャンとしてやっていけるようになったってことだから
大衆性を過度に気にするような、
定職につかずライブハウスのノルマと楽器代のためにバイトに明け暮れ
レーベルから声がかかったあとは、やりたくもないタイアップソングの依頼をこなしたり
年3,4回のペースでリリースされるシングルのキャンペーンでテレビに出たりして
その合間に行われるツアーを抜いた僅かな時間で年一枚のペースでフルアルバムを量産するような
そんな活動はしなくても良くなった
新人だろうがなんだろうが納得するまで曲作りに時間をかけてもいいし
出たくないならテレビも出なくていい
興味のなかったアニメの主題歌を突然3日後までに作れと言われて
一眼バリバリ使ってる人でも、出来上がった写真はスマホと大して変わらんとか言いはじめて頭痛がしてくる。
そういう人は意味もわからず一眼買って、市場活性化に貢献してくれたらいいと思います。
所有欲を満たすことも大切なこと。どうぞどうぞ。レンズ沼はこちらです。
一番に言われるのは画質の違い。
で、これをわからんと言っている人ははっきり言って一眼レフを使う必要がない人です。
言い換えると、写真を撮るということイコールシャッターを切ることと思っている人。
そういわれてピンとこない人はカメラ向いてない。スマホで撮ってSNSにアップして狭い世界で駄サイクルを楽しんで下さい。
カメラというのは、基本的に全て絵作りがされています。これは例外なく全てのカメラがそう。
細かい話は端折るけど、理由は単純。今の技術では現実に存在する全ての要素をカメラで写しきれるわけがないから。
わかりやすいのはダイナミックレンジや色空間。それでわからんて人は勉強してこい。
さらに、ただでさえ絵作りされている中でデジカメが画像データを作成する上で現像という避けて通れない過程がある。
それをカメラ内でしている人は、さらにカメラメーカーの意図による絵作りがされた写真を撮っていること。
もう少し言えば、RAWデータ撮影、現像という行為をしたことがない人。
つまり、画質の違いがわからんという人はこのあたりにいる人たちと置き換えて支障がない。
メーカーは、撮影された写真を少しでも綺麗と感じてほしくてあの手この手で元の写真をカメラ内でいじり倒します。
その傾向の違いによってメーカーの好き嫌いが別れたりするわけです。
そうして作られた写真を見て、画質の良し悪しを議論しようとしても、それはカメラそのものの画質について議論しているのではなく、処理ソフトの性能について議論しているに過ぎません。
つまり、君たちはカメラの話をしているようでソフトウェアの話をしていたというわけ。
そんなものは同世代のカメラ並べて大差があるわけがないし、スマホがその性能を上回ることがあるのも当然といえば当然。
そうやって作られた写真をさらにレタッチしておりじなりてぃとか言ってしまうのよね。うぇーい。
以上。コレで納得できた人は帰ってよし。
でももし、写真を撮るということイコールシャッターを切ることとから脱したい人は、これから先に目を通しておくことをお勧めする。
頑張ってまとめてもこの長さだから無理強いはしない。早く帰れ。
中級機以上のカメラに備わっている機能で、最近ではスマホでも撮影できるようになった。
それこそカメラの素子(フィルムにあたるもの)の性能と、レンズの性能、絞り、シャッタースピードだけで作られた色すら決まってないデータです。
写真にするのに現像という作業が必要で、その差によっては出来上がりの違いに大きな差ができてしまうもの。
カメラの仕組みを理解していないと結局カメラ任せの現像と同じものかそれ以下になってしまうという、まさに初心者お断りながら基礎的な仕組み。フィルムのままでは写真にならないように、これをしないとそもそも写真は出来上がることはない。
でも写真なんて綺麗ならいいんじゃね?って思った?
おめでとう!その通り!それこそが消費者の本音!クライアントも同じこと言う!言うよねー!
だから最初から言ってる通り、そういう人には一眼レフは必要ありません。
スマホで撮って、あとでぼかしエフェクト入れるのが一番安いし綺麗で簡単。
だけど、表現したい人は違う。
メーカーが作った絵作りに乗って、それが自分の作品だなんて口が裂けても言わない。
最後まで人の作ったものの上に乗っかることしかできない世界だけど、少しでも多くの要素を自分でコントロールしておきたい。
そんな人のためにあるのが一眼レフであり、RAW撮影という機能のついたカメラ。
それで、その基本となるRAWデータの画質は、カメラの性能=価格に基本的に比例する。
それが分かる人のために、高いカメラは存在するし、それがわからない人がどれだけいらないと言ってもなくなることはない。
これはレンズにも言えること。
交換レンズもものによって同等のスペックでも価格が全然違ったりする。
違いがわかる人、そういう性能を求めている人がいる以上存在するもので、それがわからない人には不要なもの。それがわからない人は沼に落ちる。それが分かる人の養分になるために。感謝。
まとめると、出来上がった画質はそれほど大差ないということ。
だけど、そこに至るまでに通る道筋や目的が全然違うのだから、そもそも議論が不毛だという結論。
それがわからない人間だけがとやかく言っている問題で、プロが見分けられなかったからって、それはそれで優れた性能ですねって言うだけの話。
もちろんダイナミックレンジやノイズ量、ボケ味などカメラの価格に比例して有利になるものはある。さらにこれは光学的な問題なので物理的に解決することはできない。
ただ、それだからといって写真的に優劣が生まれるかどうかは別。
特に写真には撮影者と被写体の関係性が色濃く現れるもので、写真の評価はどちらかというとそちらに重点を置かれる場合が多い。
そうなればそもそも画質に対する議論なんて不毛そのものでしかなくて、つまりは撮りたい写真に応じた機材を選べばよいということになる。
ただし、そうしたコンパクトで安価なカメラやスマホに比べて、基本的に高級なカメラには圧倒的な違いがある。
決定的瞬間とはまさに瞬間である。
その瞬間を逃さないためには、カメラに高い信頼性が必要となる。
起動の速さ、ピントの精度と速度、連射速度、バッファ枚数、カメラにおけるシーン判断力、あらゆる要求に答えるシャッター速度、暗所における感度とノイズ量、長時間露光に対するカメラの安定性、カメラの操作性、要求に応じたカスタマイズ性、過酷な環境下で耐えられる堅牢性、、、数え上げればまさにキリがないほどの機能がカメラには集約されている。
それに価値を見いだせない人間にしてみれば、高級カメラを買うということはまさに無駄遣いでしかない。
しかし、様々な環境下で失敗の許されないプロが機材を選ぶとするならば、どちらを選ぶかは言うまでもないことだ。
様々なプロがいる中で一眼レフを選ばないプロも当然存在する。それはつまり自らのニーズを正確に判断できているからの選択であって、だからといってプロすら一眼レフを必要としないという結論にはなるわけもないのだ。
カメラメーカーもその辺を曖昧にすることで素人に高級機を売ろうとするのもわかるが、そろそろこんなつまらない議論には終止符を打って頂きたい。
結局はこの辺のことを理解できない層が虚栄心やら妬みなんかの薄汚い感情で、目を輝かせる初心者立ちを追い払っているのが現状ではないか。
そもそも機材は自由だ。
自分がいちばん使いやすいもの、愛着を持ったものを使うのが一番だ。
それでもし、進んでいく先に不満や問題を抱えたのであれば、具体的な悩みを持って色々なお店や信頼できる経験者に相談してみるといい。
もしかしたらそれはカメラではないかもしれない。でもとにかく探すことが大切だ。
カメラ店以外にも、色々な思いつく限りの売り場を回ってみよう。
そうしてはじめて、自分の表現を自分でコントロールしていると言えるようになる。
それは、どんな高級なカメラを使って表現者を気取ることよりも大切なことだ。
はじめに、写真を撮るということイコールシャッターを切ることではないといったのはそういうことだからだ。
表現とは道具の選び方から始まっているし、被写体との関係の築き方、撮影状況に合わせた機材の選択、そのための下見や事前準備、現場に合わせた状況判断、一瞬を逃さないための機材の習熟度、撮影後の現像による仕上げ、人の目に見せる瞬間の演出、運など、数え切れないほどの目に見えない労力を投じてはじめて完成に近づけるものなのだ。
あとの言いたいことは前回とおんなじだ!
http://homepage1.nifty.com/moritake/sougou/usagikame.htm
以下、抜粋。
「昔話にはウラがある」(新潮社)を読みました。昔話に「兎と亀」の話がありますね。まじめに走った亀が勝ち、怠けた兎は負けてしまう。だから、おまえたちもまじめにこつこつと努力しなさい、という話。世界には「兎と亀」の話がたくさんあるそうです。しかしその内容も教訓も少しずつ違うのです。おもしろいなあ、と思いました。
フランスでは、兎は亀を先に走らせておいて、ゴール近くで格好良く追い抜こうと考えていました。しかし、スタートが遅すぎたので、兎は亀を追い抜くことができずに敗れました。教訓は、もう少し早くスタートすればよかった。
イランの亀は頭のいい亀です。競走をはじめる前に、自分そっくりな弟がいるので、その弟を呼んで来て、ゴールに立たせておいてから競走をしました。兎がどんなに速く走っても亀には負けてしまうことになります。教訓は、意味のない競争をするな。おまえたちは、競争はしてはいけないよ!
インドの話は、日本と同じ。つまり、兎は昼寝をして亀に敗れます。でも悪いのは亀ということになっています。「もしもし兎さん、目を醒ましたらどうですか」と、なぜ一声かけてやらなかったか?となります。で教訓は、友情を大切にしなくてはならない。
カメルーンの亀は親類の亀たちを集めました。走る道筋に一定の間隔で隠れていてくれと頼み、そして出走。兎が途中で確かめるたびに必ず後ろに亀がいたので、走りに走る。ついにゴールで倒れて死んでしまい亀の勝ち。教訓は、大切なものは準備・知恵・連帯。
似たような話でも、国によってずいぶん違うものですね。ボクはインドの話が一番印象に残りました。こつこつ進むのはいいけれど、それ以上に大切にしなくてはいけないことがあると感じました。
もうすぐ、53歳になる。
よく人から「10歳若く見える」と言われるけど、中身はどんどん古びている。
一番変わったなと思うのは、サービス精神を失ったことだと思う。
会話が得意だった。知らない人ともすぐに仲良くなれた。
最近は、会話が苦手。雑談が苦手。逆に沈黙をあまり気にしなくなった。
わずかな成功で慢心し、たくさんの挫折で心が硬く冷えて折れてしまった。
オタクしゃべりをする自分がかっこ悪くて、そういうのを控えたり。
転職を繰り返して、好きな人達と、ふつーの会社の人達と波長が合わなくて苦労したり。
最近、仕事の都合で、昔の業界の人達と話す機会が何度かあって、
気がつくとビックリするくらいタガが外れてしゃべりまくって、相手が引いていたり。
昔、親切でサービス精神を振る舞っていたのは、自分を好きになって欲しかったからだと思う。
歳をとって、ちょっと偉くなったり、ちょっと成功したりすると、そういう必要を感じなくなって人にサービスしなくなったのかもしれない。
常に若く見られるので、転職するたびに、横柄な態度を取られたり、仕事のやり方がふつーと違うので、摩擦が起きたりする。
あと、最近何度か言われたけど、どうも気がつかぬうちに「俺、スゲーぞ」感を出しているらしい。
それについては、若くて実績のない頃からそういう部分があったと思うのだけど、いろんな実績を作ってきてそれが自信になって、でも回りがそれを知らなくて、余計に違和感が生じているのかも。
そもそも、説明が苦手。趣味はいっぱい喋るくせに、仕事は直感で判断して、相手が理解できないと、相手が上司だろうと「なんで、わかんねーんだ」とゴリ押ししちゃう。それがよくない。
しかし、自分はITとかPCとか詳しいと思っている相手に、「いや、僕はPC黎明期から数百本以上のアプリのレビューをしてきましたから」とか説明するのも面倒くさい。というか、それが根拠になるかもわからない。
最近、痛感するのは、ビジネスで成功する人は、小さな成功で舞い上がらない。お山の大将にならない。
成功しても、部下に対してまで腰が低い。それでいて、リーダーとしてしっかり道筋を示すし、面倒くさがらず、仕事に妥協しない。
誰だって細かいミスはする。判断を間違える。成功もするけど失敗もする。それは若くても偉くなって歳をとっても同じ。
でも、人生で成功するためには、継続して努力し、ときにはプライドを押さえて我慢することが必要なんだと、成功している(しつつある)人を見て思う。
人間はいろんなことを経験すると賢くなるけど、同時に弱くもなる。
年をとると外見は若くて元気に見えても、エネルギーは確実に減って頑張りがきかなくなる。
そんな中で頑張るには、自分がやらなきゃという責任感と、あと、「これは自分の仕事だ」と強烈に自覚できること。
仕事ってのは、やらされる仕事じゃなくて、自分がやらなきゃ、やりぬかなきゃ、と思える仕事じゃないと。
いまの仕事も、ユニークでやりがいのある仕事だとは思う。職場の環境にも恵まれている。
でも、これが本当に自分がやりたい、やるべき仕事なのかはわからない。
我ながら、いろいろできて、いろいろ経験したが故に、天職を見つけられずにいる。
おっさんになっても悩みは尽きない。というか、悩みは増えるばかり。
まあ、結局は承認欲求を満たしたいだけなんだと思うけど、そこが以外と泥沼。
私が、死んだときのこと。
自分が死んだとき、私を弔う人々はそれはもう忙しかったけど、私もそこそこ忙しかった。少し経ってやっと、ほっとする時間が出来て、あの人のところに挨拶をしなくては、と思った。
ところが、冥界にいる私には現世に生きるあの人の場所はわからない。どうやっていけばいいのか、どこにいるのか。途方に暮れていると、いつの間にか、道筋ができあの人の上に抱っこされながら髪を撫でられていた。
「よしよし」
「知っているよ。来てくれて、ありがとうね。」
「道がわからなかったけど、なんだか来れたの。」
「ちょうど、ooのこと、考えてたからなぁ。」
「私のこと想ってくれてありがとう。また来てもいい?」
自分のことを想ってくれている間だけ、その人のところに行けるようだった。
そこで、夢から目を覚ました。頰には涙がつたっていた。
私はなんとなく、墓参りに行きたくなった。
これは普段から映画やアニメを積極的に見ていない層まで取り込んでいるからだそうだ。
確かにプロットも一捻りした謎要素があり、しかし決して難解ではない(見る前からある程度オチが予想できる)
加えて男女の恋愛も盛り込んでいるのだから女性も話に入り込みやすい。
で、だ。
この記録的大ヒットがもたらす今後のアニメの道筋はなんだろうか、と考えた。
主流はやはりTVだ。深夜アニメの数は膨大に膨れ上がっている。
TVアニメの続編、あるいは総集編といった形での映画化は結構ある。
ただそれはTVアニメという土台があり、見てくれる信者がいてこそ、採算が取れるからGOとなった。
かたや君の名は、はどうだろうか。
宣伝がうまかったにせよ、監督のことを知らなかった人も多いはず。
信者以外の人を大勢動員したことで、つまり単発アニメ映画で採算が取れる可能性が見えたのではないか?
崩壊寸前の現場は、君の名はの成功を見て、劇場で見るアニメの可能性を模索し始めているのではないかと想像した。
そもそも発声可能上映だとかペンライトがんがん振りながら見るとかある種の「異空間」を演出できるのが、今の映画館の強みだ。
3Dだって4Dだってアイマックスだって可能性はてんこ盛りんぐ。
ニコ動でコメント打ちながら見るのが新しかった時代は終わった。
これからは、誰かと同じ空間で同じ興奮を味わいながら楽しむ、「ライブ感」が重要になる。
君の名は、はそういったライブ感とは違うけど、皆が見てるから俺も私もという連鎖に入っている。
オタクはもう引きこもっているだけじゃ物足りなくなってしまったんだ。
そして制作側も、あわよくば一般層を引き込める劇場アニメに魅力を感じるかもしれない。
少し怖い夢を見た。自分をコントロールできなくなり、自分の狂気をさらけ出し、周りの人々がせめて苦しまずに殺せと懇願してくる夢。実際に自分が明確に殺すと言った訳でもなかったと思う。つまり少しズレている部分がその人に恐怖を感じさせ、自分が周りの人々を殺し始めるのではないかと恐れる、といった流れだったと思う。
もちろん、現実の人々がそう弱くない事も分かっている。つまりこれは自分自身の心を投影した動きなんだと思う。周りの人を抑えつけたいという願望。そうでないと他人は何をしでかすか分からない。自分に危害を加えるかもしれない。つまり恐怖で人を縛ろうとしている。
そして夢から醒めて、ふと周りの静かさが怖くなった。一人という事がすっかり怖くなってしまった。だからこうして日記を書いている。
思うに、弱くあれる人が真に強い人なのだと思う。私は夢から醒めて一人が怖くなったと書いたが、それでいいんだと思う。一人は怖い。自分という人間はちっぽけで、自分一人でできる事などたかが知れていると理解し、周りの人は自分に危害を加えないと信じられる、そういった人が真に強い人なのだと。
もちろん現実には危害を加える人もいるかもしれない。でも少なくとも、その人の事を信じてみるのはどうだろう。
普通、実際は、周りに怖いと思った人がいた場合、逃げるか距離を置くといった人が大半だと思う。だから難しい。私は今とても難しい事を言ってると、自分でも感じる。それは理想論だと。でも分からないなりに考えてみるに、そういう時、心理的か物理的か、どちらか片方だけでもその人の隣にいる事はできないだろうか。半分だけでもその人の事を信じる事ができないだろうか、と思うのだ。
私は弱い。とても弱い。
色々な神経症を抱えながら、結構毎日ギリギリで生きている、と思う。けど、それで逃げずにいられるのは、今の職場で少なくとも何人かは私を信じてみようという人がいるからだ。そうして何とか私は生きている、生かされている。人は信じていい存在なのだと教えてくれる人がいるから。そうする事が正しいのだと。冒頭の様に、人を抑えつける様にして生きていく、それに疑問を持っている自分を思い出させてくれるから。
人は一人だが、独りでは生きてはいけない。
人は独りだが、一人では生きてはいけない。
つまりは精神的か社会的(他にも金銭面とか)か、どちらか片方だけでも満たせるなら、何とか生きていける。ただ、バランスを常に取る事が大事で、自分の本当の気持ちを素直に感じ取って、自分が片方満足していないな、と感じるなら、自分から自分を満足させるよう動く。それが(ぎこち無くても)できる様になれば、自分はこれからもやっていけると段々と信じられる様になっていくんじゃないだろうか。
希望的観測だけど、何となく自分の進むべき道筋が少しだけ見えてきた気がした。だから誰かに、この今の気持ちを共有したくなったのだ。
>もっとちゃんとした就職予備校設置してほしいけどそういう変革は無理なんだろう。
↑
でもたぶん本質的にはあまり変われないところが多いんじゃないかな。
半端な時期に実施される検定ありきの専門学校が、半年のカリキュラム制に合わせられるか超疑問だけど。
▲専門職業大学創設を答申 文科省、3年後の開学目指す:朝日新聞デジタル
http://www.asahi.com/articles/ASJ5V3HL0J5VUTIL00J.html
>パソコンのご本を読めるようになるのが難しい、という感じのお話。独学? が難しい。
>全体的なビジョンがないわけ。実際の世界がそれで動いてるようなビジョンが。だから読めない。
↑
→わかる。そういうことじゃない、ってやつだよね。丁寧さはそこに求めないというか。
→でも丁寧に作らねば、苦情来るので、丁寧になる理屈もわかる。
>僕は社会の役に立つことを直接学びたかったよ。社会がどういう風に動いてるかみたいな話をさア
>技術の実態みたいなやつ。そういうのは学校で教わらないんですよね。
→実際のコードとか見れたら最高ですもんね。でも実務のそれは守秘義務で出せないから、技術者がプライベートで造ったものくらいしか見せられないジレンマ。
>優秀な人はバイトとかやって知ってるっぽいけど、それみんなバイトでやるの? みんなはやらんでしょ。
→意志があるひとは飛び込むやろな。
>というかバイトみたいな形で社会参画しないと学べない知識だったら、それはそれでやばくないですか? という提起でもあります。
→やばいけど、安定しない市場規模だから、なかなか学生育てる体制がな整えられない状況だし、状況が変わる見込みも少ないという。
>そういう知識があれば、大学の図書館に置いてあるような「技術本」っぽいやつ? の扱い方がわかるんだろうなーと思う。
→うん、その通りかもしれない。(そうか、学生は、「技術本」の拾い読みの仕方がわからないことに今気づいた…)アルバイト大事。
>僕が何を期待しているのかって?それは実務のうちで難しいお話が出てこない、環境の話、という感じ。
→?
>あるいは別にアプリなんか作ってないのかもしれないよな。とすると何かしらサーバーを使って捌くようなシステム・サービスの細かい調節のお手伝いをしてたりするわけだ。
>その具体的なトラフィックがどうだからどうのこうの、というお話をしたり、アクセスの仕方がどうの脆弱性がどうの、新しい技術がどうの、という話だと思うんですけど、
>端的に言ってそういう話がぜんぜんわからない。そういう話がわかるとスンナリ進めるはずなんだけどな~と思いながら。
>親の金で大学行ってるのに、なんかもっとこううまくできるはずなのに……という感じでつらい。
→これはわかる超わかる。出資者の親への申し訳なさ。でも親は子がしあわせそうだったらお金払う価値感じるから、
学び取りきらなくても、せめて増田が学業を楽しんでれば、それが孝行になっているはず。
>そういうの、本とか、自分の足りない知識とか、おそらくその辺にあるんだろうな~と思いながら、でもバイトで働くにも微妙にプログラミングの知識が必要で、「これまで何作ってきましたか?」と言われても、
→いや、ホント1つ完成させるだけでいいんだと思うよ。スペシャリスト期待してない。新卒に。どちらかというと、0から実装する発想力とか、完遂力とか見てるんだと思う。自分は求人担当した時にはそれだけ見てた。
>絶対手打ちより良いやり方あるはずだけど、僕は知らんし、知らない以上何が効率的に作れるのかもよくわからないし、わからないことにはできるだけ手を出さない方がいいな、と思う。
→いや、そこはやった方がいい。愚鈍でも。
→なぜかと言うと、あったとしても、まずは手打ちの手順理解してないとそれのメンテが全然できんからね?メンテしないで済むフレームワーク(ツール)は存在しないですん。
>同年代で「めちゃくちゃプログラミングできちゃいます!(漠然)」みたいな人間いるけど、僕が例えばどういう本読んでどういう道筋を歩んだらそういうカンジになれるか、かなり見えなくてつらいし、
で、それを実装するための手法を、泥っぽくても良いから考えろ。これな。
→それ繰り返してる内に、『調べる力』がまずつくし、点がたくさん生まれて、その内つながるから。
>「でも本当に役に立つ本って開いた瞬間に読みやすいのでは?」みたいな信念がある。 これが原因なのかな。でも、この信念、少なくともこれまでめちゃくちゃ役に立ってきたものなんだよなあ……。
→それだな!それは『教科書がある世界』までのお話や。先人がいる世界までの話。
→温故知新じゃないが、先人が残したものの先からが私たちがやるべき領域で、独自の領域になってくる。(学問の「研究」が指すところ)
独自の歩みを始めると人口がぐっと減るから、読みやすさ極めた本はなくなるぞ。じゃなきゃ英語のリファレンスなんか読まないんよ……。()
>そういうのができるようになるのかと思ってたらあんまり学校でも学べる感じじゃない。全体像とは……となっているけど、こういう悩み、自然に解決したりしなかったりするんだろうな。
→自然解決はしないね。地道に自分でトライアンドエラーするしか。で、全体像は、個別すぎて全種類フォローは不可能なので、共通部分となると、理論の話とか、すでに学校でやってる内容がそれなんですな。振出しに戻るみたいになるけど;
→だから、共通部分やった後、大学ではゼミ制になるんじゃないかな。
>できるところからできるところだけ勉強していきたいと思います。それが、僕にとって、よくわからない本をじっと読まなきゃいけない義務から抜け出した罰の引き受け方っぽいので。
→自分のカンを働かせて調べようとしてるこの姿勢こそ、この記事での悩みの解決策になると思う。とてもよい増田。
→これが遠回りだとしても、これも一つの近道(学生にとっては必要な過程)だから、まずやってみて、そしてまた詰まったら増田に投稿してほしい気がする。
→これは個人的なレスだが、まずは「何を作りたいか」「何をやりたいのか」を持つと、自然とやることや調べる事も見えてくるから、それを大切にするのが一番近道だと思う。
こういう投稿するってことは、悩みを外に伝えて
前に進もうとしてるってことだから、
すごい成長するにおいがする。
学問の徒として生きるのは完全に諦めてるし、大学もはや無駄と思ってるけど、無能でない俺ですら無理と思う道であってこんな補助金出してガバガバ教育してる日本金の使い方無駄すぎ……とは思う
もっとちゃんとした就職予備校設置してほしいけどそういう変革は無理なんだろう。
そういう話じゃないのか。今回はそういう話ではないです。
パソコンのご本を読めるようになるのが難しい、という感じのお話。独学? が難しい。
パソコンのご本、あんまり知識がちゃんとしてない人は読めないようになっているっぽい。
後述するけど、わかりやすいように作られたスクショまみれの本とか。
全体的なビジョンがないわけ。実際の世界がそれで動いてるようなビジョンが。だから読めない。
僕は社会の役に立つことを直接学びたかったよ。社会がどういう風に動いてるかみたいな話をさア
そういうのがあれば、パソコンのご本を読めるようになるんだろうなという感覚がある。
実務の話!! 実際に「IT系のおしごと」というのがやってるような話で、特にコーディングに直接絡んでくるようなもの。
技術の実態みたいなやつ。そういうのは学校で教わらないんですよね。
優秀な人はバイトとかやって知ってるっぽいけど、それみんなバイトでやるの? みんなはやらんでしょ。
というかバイトみたいな形で社会参画しないと学べない知識だったら、それはそれでやばくないですか? という提起でもあります。
はてな民の人IT系で働いてる人多そうだけど、そういうところ、そういうところなんですよね。
そういう知識があれば、大学の図書館に置いてあるような「技術本」っぽいやつ? の扱い方がわかるんだろうなーと思う。
いや別にやってきたことは何も無駄にはなってないんだけど。ハードよりの話もしたり、基本的な数学とか物理とか電子とか論理学とかシャノンの話とか。
でも、パチョコンは実学も以前に学問というか、実際に使えてナンボな部分が(いまこの想定してる話では)デカすぎるのに、
そんな環境的な、Linuxでサバ建てしましょーねーみたいな話も三年後期になるまでやらなくて、そんなん人が立ててるの見たら一発で覚えられることだし、みたいな。
みたいな。
そう、なんというか本が読めないんですよね。これ人がいたら一発なのに……というようなことだらけで、絶対間違った道に来ちゃってるよという感じがする。
↑
(焦ってるんじゃないのか?一冊だけをしっかりやれよ。と思ったりするし、言われそうだけど、それが一番の正解なのかな…やっぱり)
つーか本読みながらチンタラチンタラ比較するの嫌になるわけですよな。わかる。
スクショがいっぱい貼ってあったからといってわかりやすくなるわけではないし……。
てかスクショ貼ってあると古くなるとすぐ対応できなくなるから本当に困りますわよね、という話もあります。
僕が何を期待しているのかって?それは実務のうちで難しいお話が出てこない、環境の話、という感じ。
プログラミングをやれと言われても、それIDEはなによ?っつー話ですわな。WindowsだとVisual Studioとかになるのかな。
Eclipseはよくわからない。Javaでアプリ作るっていうのそんなに真剣にやったことないし……
っていうかそもそもプログラミングのお仕事??がよくできる人たちはプログラミングで何をしているの?
アプリを作っているんですか?それだったらヴィジュアルモードのチェックが簡単なやつ必要だよね、という話で。
あるいは別にアプリなんか作ってないのかもしれないよな。とすると何かしらサーバーを使って捌くようなシステム・サービスの細かい調節のお手伝いをしてたりするわけだ。
その具体的なトラフィックがどうだからどうのこうの、というお話をしたり、アクセスの仕方がどうの脆弱性がどうの、新しい技術がどうの、という話だと思うんですけど、
端的に言ってそういう話がぜんぜんわからない。そういう話がわかるとスンナリ進めるはずなんだけどな~と思いながら。
親の金で大学行ってるのに、なんかもっとこううまくできるはずなのに……という感じでつらい。
僕は人の役に立つ仕事のおべんきょおがしたいんですよ。なのに図書館で借りられる本、自分が何を知らないから理解できないのかもよくわからない感じで……
日経Linuxとか読んでみて、去年のやつにプロセスとかスレッドの説明あったけど、僕はまだOSの基本的な話もマトモに理解できていないなので、
そういう人間には難しすぎる (というか抽象的すぎてかなりわからなかった) スケジューリングの話はされたので、プロセスが対象なの?とか、そもそもCPUがアセンブリ命令ADDとか?を実行しつつ、
OSがそのアセンブリ命令をセットにした実行単位を用意して、OSがスケジューリングしてくれる、みたいな話なのかな……? と思った
(でも明らかにプロセスとスレッドがわからない人間には伝わらないような程度のフワフワ説明しかなくて、これ、誰向けだ?とか思ったけど、やっぱり身近に聞ける人間がいる人のための本なのかもしれないですなあ)。
そういうの、本とか、自分の足りない知識とか、おそらくその辺にあるんだろうな~と思いながら、でもバイトで働くにも微妙にプログラミングの知識が必要で、「これまで何作ってきましたか?」と言われても、
そういう、あんまりしっかりしたものを作ったことないし、C言語、gccで可変引数までやって、でもアセンブリがどう実行されるんですか、という話はよくわからない。
Javaも習って、まあそれっぽいお話はいっぱいされたんですけど、アプリ作るの難しかったし、GUIはクソだね、というか、手打ちでやったんですけど、こんなん絶対手打ちより良いやり方ありますやろと思いながらやっていた。
絶対手打ちより良いやり方あるはずだけど、僕は知らんし、知らない以上何が効率的に作れるのかもよくわからないし、わからないことにはできるだけ手を出さない方がいいな、と思う。
いや~なんつーかこういうことばっか書いてると「甘えんなカス。氏ね」とかコメントされて、2000回くらいは殺されちゃうんですけど、それは甘んじるとして、でも何というか……みんなそうなんですかね。
同年代で「めちゃくちゃプログラミングできちゃいます!(漠然)」みたいな人間いるけど、僕が例えばどういう本読んでどういう道筋を歩んだらそういうカンジになれるか、かなり見えなくてつらいし、
そもそもそういうのを職業にできるスキル高く磨けるような人って、いったいどういう生き方してきたらそうなるんだろう、と思っている。
これで情報系の研究室いって、なんとか乗り切って就活して、プログラムがんばって書きましょうー!というような職場に行ったら、
それはもう「学生じゃないんだから。もう社会人なんだから自分で調べて」となるんですよね。マンガとかでたくさん読みました。それは死ぬほどつらいでしょ。現に人死んでるじゃないですか。
結局周りに聞ける人間がいる環境ってなに? 今もいないし、大人になってもいないんでしょ? だからはてブで「プログラマーはやっぱ自分で本読んでスキルアップしなきゃ死ぬぞ!」みたいなやつがホッテントリになったりするわけでしょ?
それはつらい。ご本読んで理解できないの、というか読めてないの、ウチにあるだけで目が上滑りして「全体像がよくわからないからな~ しょうがないよな~~」と言いながらろくに読む気も起きなくて、
「でも本当に役に立つ本って開いた瞬間に読みやすいのでは?」みたいな信念がある。 これが原因なのかな。でも、この信念、少なくともこれまでめちゃくちゃ役に立ってきたものなんだよなあ……。
学生の今、自分が考えてて不安に感じてることが、「追いつけない」みたいな不安が、イマイチわかり切ってないし、
だから具体的な質問として一言で言える話の羅列としてわかってないわけじゃなくて、もっと漠然とわからない。こういうこと感じてるの、僕だけじゃなくてパソコン知りてえ~~となって大学に来た人のうちけっこう多いような気がするんですよね。なんか生半可に甘えた環境だから。
----------------------
とりあえずこれ書いてたら少し気分落ち着いたので、要点をまとめると、
「本で勉強するのつらいよなあ~ そんなんじゃどんな分野行ってもつらいだろうなあ~」
ということです。
そういう有象無象の本をスパッスパッと切って、「この辺のこの本読んどくとこういうことができるようになるだろうな~」というモデルがまだあんまりできてない。
そういうのができるようになるのかと思ってたらあんまり学校でも学べる感じじゃない。全体像とは……となっているけど、こういう悩み、自然に解決したりしなかったりするんだろうな。
とりあえず、これは自分メモの今後の方針です。OSより下の階層、たとえばALUとメモリの組み合わせで、program counterを進めながら動いてるんだよーという感覚はあるので、
それがOSとどういう風につながってるのか、とか、100均で売ってる電卓、あのデジタル表示の部分がどういう仕組みで動いてるの、ということを考えたり、
インターネットプロトコルでパソコンが具体的にどういうパケットを送信しているんだろう、というような話を攻めて、これが全体像とやらが見えるようになる一助になるかはわからないけど、
できるところからできるところだけ勉強していきたいと思います。それが、僕にとって、よくわからない本をじっと読まなきゃいけない義務から抜け出した罰の引き受け方っぽいので。
シン・ゴジラの真価は、これから広がるであろう一見さんによる批評の中にこそ有る。
つまり、「満点からマイナスされうる特撮映画」が帰ってきた、と言う意味だ。
1週間ほど前に話題のゴジラを見に行った。面白かったは面白かった。
が、事前ハードルが上がりすぎていたのか、粗(に私には見えた)の部分が結構気になってしまい、正直世間で言われている程に「大傑作」にはあまり見えなかった。
確かにその通りで、それは欠点だ。
それは、長年特撮ファンが受けたくても受けられなかった指摘だ。
「まあ、子供向けの怪獣映画にしては良く出来てたよね」という感想からの脱却。
「対象年齢を考えても酷い」とか「大人の視聴に耐えうる人間ドラマ」とか
そういった「オヤクソクを共有している視聴者」向きの話じゃない。
つまり、「ファインディング・ドリーと比べて」とか
だからこそ「大傑作」であり、それ故に「まあまあ面白かった」という感想が併存しうる。
最近は「ゼロからプラスして積み上げる特撮映画」しか無かった。
「(全体の質はハリウッドと比較しようも無いけど)特撮部分は良かった」
「(全体の質はハリウッドと比較しようも無いけど)ドラマパートはヒドイ」
みたいな「邦画の予算規模で制約の多い特撮映画において」という限定が常についていた。
粗はある。荒削りでもある。
それでも恐らくは邦画の現場における特撮映画のベストを尽くした映画だと思う。
それは特撮ファンなら邦画の環境に絶望せずに希望を見いだせる一筋の光であるし、
一般人から見れば、「怪獣映画だけど面白いらしいよ」と観に行ける映画になってる。
「日本の特撮映画として100万点」のシン・ゴジラで終わるならソレまでだ。
でもきっと「世界の映画の中で70点」のシン・ゴジラだと評価してもらえる。
怪獣を通じて、日本の災害を正面から描き、国のあり方をポリティカルな視点から捉える。
世の中は稼いだものが正義で、投資してもらえるのは評価された作品だけだ。
その意味で、きっと一般人からみても、投資に一口のれる出来じゃないだろうか。
ダシに使ったので、不満点に共感しつつ、違う視点を提供しておくよ。
映画観に行った後のファミレスでダベってる感じで読んでもらえればと思う。
(人は感じたことが全てであり、反論しようとは思っていない)
主人公の矢口が会議中に巨大生物に言及するのだが、この時点で矢口がそう判断に至った材料は精々ネットの動画程度であり、あそこでアレを「生物」と考えるのはかなり不自然だ。
シン・ゴジラの主人公格である長谷川博己演じる内閣官房副長官の矢口蘭堂は、
竹野内豊演じる内閣総理大臣補佐官(国家安全保障担当)の赤坂秀樹から
「会議は結論ありきで進んでいる。かき回すな」と助言を受けている。
また、エレベーターの中で、立場が上の人間に対して「楽観やこうあって欲しいという願望が、先の大戦で何百万人も殺した」とワリとハッキリ苦言を呈している。
矢口は生物と断定しているのではなく、「巨大生物の可能性を俎上に載せないのはマズイ」と判断しているのではないだろうか。
(ネット上の映像がフェイクであれば、それを作った人間の動機がテロで無いことを確認するまで安心しないタイプ)
ニュース映像での「巨大生物の尻尾」について、ニュースの真偽を問うシーンがないのは映画の都合だと思う。
ニュースの第一報だと見るのが妥当なシーンだし、それならアレは何のジョークだと笑うのが現実的ではなかろうか。
同種の別個体については、検討は並行で続けているが、映画の都合でカット、じゃないかな。
別個体だとすると、観客は「ゴジラ対究極生物なのか?」という疑念を抱きながら観ることになり集中力が削がれる。
(一つは倒れるマンションから逃げ遅れた家族、一つは溢れた川から逃げる男性、もう一つどこかで同じことを思った気がするが覚えていない)
たぶん、残りの一箇所は、自衛隊の戦車が潰れるシーンか、注入第一部隊の全滅の部分じゃないかな。
マンションの荷物を詰めていてマンションごと押し倒される家族、川からの逃げ遅れ(たぶん画面の奥側に向かって走る男性)は、
災害の描き方の問題で、ゴジラによる人死を描いているわけではないと思う。
あの一連のシーンで感じる「いまどこに災害が近づいてきているか一般市民には把握できない」という恐怖は演出として一貫していると思う。
(状況把握のしようがなく、気がついた時にはもう遅いという恐怖は、5年たってやっと直視できるようになった映像だと思う)
病院とか今まさに災害の現場は出てこず、災害が通り過ぎた後の映像だしね。
密室と俯瞰した映像に寄る災害描写は、予算制約を逆手に取った脚本の作り方の問題であり、
その意味で「巨大不明生物がなぎ倒したビルにも当然人が残っている」というのを伝える手法に限界があったのかな、と思う。
ほぼあの家族しか直接の被害は確認できないのに、それ以後の緊迫感は違う。
だけど、アレ入れて欲しくない、というのも判る。
浮いてると思うよ。これはシナリオの歪みが集中してるせいだと思う。
これ、後でちょっと付記するけど、「シナリオの都合の上で」リアリティラインは高く見えるようにしてあるんだと思ってる。
例えば、東京駅前に当然あるはずの広大な敷地について劇中一切言及されていない。明らかに不自然。
筋論として、日本が米国に頼り、米軍が日本国内で武力行使する、という流れのハズ。
仮にも主権国家に対して、他国が熱核攻撃を短期間に強行する理由がない。
日本が壊滅するまで自由にさせておき、主権が及ばないところに出てからの攻撃になるはず。
ちょっと日本以外のまとまりが良すぎるというか、世界があまりにも日本に対して冷淡すぎる。
「ゴジラを生み出したのは、牧元教授という日本人では?」という点、
外務省や駐在武官を無視して政権が直接軍事について外交を行うと言う部分を抑えると
祖母が原爆による被害者であり、日系人でアメリカ政権に対して一定の譲歩を引き出しうる通常外交ルート外の存在は、
石原さとみ演じる米国大統領特使のカヨコ・パタースン以外であっても、
やっぱり荒唐無稽に見えるだろうし、どうしても浮いてしまうのは仕方がないと思う。
彼女はシナリオの不備による歪みを一手に引き受けて浮いているのだと思う。
まあ、じゃあどう直せば良いかって言うと、アメリカ側を描くには予算が足りなそうだな……
ゴジラに原子炉載せて、排熱への対処(生存本能)で進化するって道筋つけると、焼却 or 凍結ってのは判りやすい。
シナリオの都合でアメリカに熱核攻撃を担わせると、日本が特撮的な花である爆発(焼却)を使うのは難しい。
そもそも「カタルシスを得られない」ということそのものが、演出意図なのではないかなと思う。
一応、血を流すことから排熱に血流を用いているのではってのは合理性があるし、血液凝固材も30種類?試して効くのは確認してる。
元素変換する相手ならどこに投与しても一緒って意味では、口に見える部分に引っ掛けて体内注入するってのは効果的とも思う。
仮定に仮定を積み重ねて、地味な作業で原子炉の終息にもってくってのは、福島第一原発事故対応への直喩だろうし。
「ショボい」処理で、しかも「まだ終わってない」ってのを、東京駅に凍結させたゴジラで示しているのでは、と。
(政府が冷温停止を宣言したのも、冷やし続ける必要があるってのも、同じ構図だよね)
加えて、ヤシオリ作戦に関しては、矢口の陣頭指揮の部分にも中途半端さに違和感があり、これまで徹底して「対策室で対応する政治家」を描いてきて、結局最後は「主人公が現場の陣頭指揮を取りに行く」というのを描くのか、というのに少し落胆した。
一応は、逃げ遅れた人がいるかもしれないけどやる?とか、線量が予定よりも多いけど続行するのか?とか、判断はあったと思う。
どっちかというと、多分最初に感じたであろう「え?総理大臣は逃げるの?残らないの?」みたいな感覚を
「いや、指揮官は後方に控えてないと死んだら終わりだから」に観客の気持ちを変えたかったんじゃないかな、と思う。
それでもまあ、良くあるヒーロー映画みたいにゴジラに触れるような最前線までは最後まで行かないし、良かったんじゃないかな。
(良く言われる「陣頭指揮」を観客がどう捉えるかが、映画を見た後で変わったのではないか)
正直に言えば、予算の都合で、東京のみの話にしないと収拾が付かないと思う。
「福島第一原発事故」が「東京駅」で起こったとして、煽りじゃなくて日本としての機能がどうなったか考えるとゾッとする。
その俺の思いと重なるが、何度も「経済的」な話が出てくる。
経済的には莫大な損失とか、熱核攻撃を受けて世界から支援を受けないと復興できないとか。
損得勘定で熱核攻撃を仕方がないと受け入れる「論理」と、象徴的な意味で核攻撃を受け入れられない「感情」との対立軸にも見える。
「国」とは何なのかを観る人に問うシナリオになってたんじゃないかな、と。
まあ観たひとに届かないのであれば、そりゃ成功してないわけだけど。
まあ、観たひとに届かない思いは独り善がりなワケでダメなんだと思うけど、
最初に書いたように、そういう「普通の映画のダメ出し」してもらえるところにシン・ゴジラの価値がある。
と、思うわけで、やっぱり気になる点を俺も最後に列挙して置こう。
熱核攻撃をあの付近で行うことに対して、日本人が触れないってのはあり得ない。
「彼らはここがニューヨークでも同じことをするそうだ」とはセリフにあるけど、あれ「ワシントン」じゃないんだよね。
(あくまでも経済の中心であるというセリフであって、象徴的なんだけども)
突然地上にさまよい出た、排熱の為に進化した、冷却のために海に戻った。
突然さまよいでることも、デタラメに動くのも、再冷却の為に海に戻るのも災害っぽい。
進化の方向性として陸上に特化してしまったとして、海水を捨てて地上に出てくる理由が不明。
牧元教授が好きにした結果、ゴジラを生み出して、意思を方向づけたなら判らなんでもないけど。
(配偶者を原爆で亡くし、国と核を憎んだ牧元教授なら、先の大戦の直接の責任者である国の象徴にまず向かい、その後アメリカ上陸を目指すのは理にかなっている)
途中、スパコンの計算能力貸して欲しいって海外の研究機関に依頼するときに、
一旦「ウチの技術を盗むかもしれないから断ろう」みたいなセリフがあるんだけど、
もしも「間に合わなかったら首都が熱核攻撃を受ける」みたいな状態なら、
「ひとを信じよう」みたいなのんびりした話にはならないと思う。
(秘密裏に国連安保理が熱核攻撃を容認するって、日本は外交力ゼロってことになる)
(そうすると、フランスと裏取引する外交技術との整合が取れない)
シナリオが福島第一原発事故を念頭に置いてるからなんだろうけど、
ゴジラに対して調伏(焼却or冷却)しか選択肢が無くなってるのに違和感がある。
保護が無理、退治が難しそうなら、通常は追い出しの手段を検討するんじゃないか。
餌で釣るのか、行動パターンを読むのか、押し返すのかは別にして。
追い出しにリソースが避けないって言う描写は欲しかったかな……
(これはほとんど「他の個体についての言及がない」ってのと同じポイントだな)
映画を見ながら、実際に災害になったらどう逃げようか俺は考えた。
かなり踏み込んで災害を描いてるような気がするけれども、どうかな。
どれだけ頑張っても欲しいポケモンが手に入るかは結局運ゲーじゃん。
これまでのポケモンは、狙いのやつの居場所さえわかればあとはそれに向けて準備していくだけだった。そしてそれが楽しかった。
GOみたいにぜーんぶごった煮で確立ゲーだと、道筋が見えないから苦行感がすごい。ポケビジョンなんてものが生まれたのもそいうことでしょ。
ガチャ回す作業が移動することに変わっただけで、スマホゲーのキャラコレクションとなんら変わらない。しかもそれすら地方格差がある。それだったらせめて移動距離ごとに確定出現とかにしてほしかった。
さらには強化と進化が運ゲーというクソさ。誰だよアメとかいうシステム考えたやつ。レベル上げチマチマやる楽しみはどこいったの?その積み重ねが確実に力になるのがおもしろいんじゃねえか。レベル上げがないからポケモンへの愛着も薄くなる。メインに据えてるやつだって、自分のレベルが上がってより強い個体が手に入ったら養分になるだけだし、どいつも常に替えがきく存在という感じ。
CP10だろうが俺は最初に捕まえたやつを最強にしたいんだよ。MAX強化してCP650のピジョットはどこで戦わせてあげればいいんだ?ジムで負け戦やれってか?
仮に運が味方してゼニガメを捕まえたとしても眺めるだけになる。育てたいのに育てられない。「キミに決めた!」「強いポケモン、弱いポケモン~」あたりの哲学はナイアンティックには理解できなかったらしい。
シン・ゴジラのカタルシスは散々言われ尽くされてる事だが、ゴジラのブレス攻撃第一波に尽きる。
主人公側(政府側)のステートマシン図を書きたくなるような目まぐるしい報告と対応も凄かったが、
その凄さは恐らく「敵が無能だと強さ引き立たない」という理由で演出されたものであり、
観終わった後も「あの攻撃だけでももう一回見たい」という気持ちが強く、
で、あの攻撃の何が凄かったのか数時間考え続けて、一応の結論が自分の中で出たので、書き留めておく。
まずあのブレスが設定上どういう位置づけかという点だが、あの攻撃は、波動砲(ガミラス視点)だったのだ。
発射に至るまでの溜めの長さといい、ゴジラ自身が制御しきれない巨大なリスクを伴った手のつけられない破壊力といい、
庵野つながりで巨神兵ブレスと見ても良いのだが、巨神兵との違いは、巨神兵が最終的に大海嘯に押し切られて自滅するのに対し、
とにかく撃ったら終わる無敵兵器の位置づけなので、巨神兵よりは波動砲に近い。
(とはいえ、後述するように最後は「ガス欠」が敗因なので、そこは巨神兵と同じと言える)
見てる人は皆同じことを思っただろうが、今回のゴジラはブレスを吐くまで攻撃らしい攻撃を全くしないのである。
町の中をのたくってあっちこっちを押しつぶしたのと、煙の中から橋をちゃぶ台返しした事以外は、実に忍耐強いというか、攻撃をしない。
神心会のデンジャラスライオン加藤清澄にパンチされまくっても欠伸してる夜叉猿Jrのように、まるで何もしない。
ゴジラが攻撃するのは「有効な攻撃」をされた時だけなのである。
これは別にゴジラが「攻撃しなければ無害であり、本当は戦いたくないのだ」などという甘っちょろい事を意味してるわけではない。
ゴジラは移動するだけでも甚大な被害を発生させる存在であり、「放置しておくと増大するリスク」そのものなのだ。
いるだけでも迷惑だが、取り除くために行動するなら痛みとリスクを伴う癌細胞。それが今回のゴジラだ。
だから、有効な攻撃を食らうまではゴジラも攻撃しなかったのだ。
今回の映画で政府側は何度となく「民間人に被害が出るけど攻撃するか」を問われるが、
ゴジラが最初からブレス撃ちまくりながら侵攻してきていたら、その葛藤は描けなかっただろう。
で、テーマ上の都合は上記のとおりとして、
ゴジラの都合に立ってなぜ攻撃しなかったのかを考えると、ブレスの「奥の手」としての悲哀が見えてくる。
ゴジラの負けが決まったのがいつかという点を考えると、それはあのブレス攻撃が終わってゴジラが活動停止した時だろう。
あの攻撃で「ガス欠」という決定的な弱点を晒してしまった事で、
主人公側はゴジラに血液凝固剤を投与するための道筋が見えてしまった。
確かに「止め」を刺したのは血液凝固剤を飲ませた事で、その点はショボく見えるのだが、
重要なのはそれより前に無人機による波状攻撃によって放射能を撃たされて、意図的に再度ガス欠にさせられてしまった事で、
あの状態になったらもう血液凝固剤でも口の中に爆弾でもバンカーバスター釣瓶撃ちでもなんでもできるわけで、
ガス欠がバレた時点でゴジラの勝ち目はなくなっていたのだ。
その意味で、勝負が決したのはゴジラが奥の手であるブレスを使わせれた第一波が全てだった。
総理はゴジラのブレスで死んだが、ブレスを撃たせたことでゴジラの死も決まった。
神羅カンパニーのミッドガルキャノンvsダイヤウェポン戦と同じで、あのブレスシーンは、総理以下内閣首脳とゴジラが刺し違えたシーンだったと考える。
あの総理大臣は2つ印象的なシーンがあり、一つはゴジラ第3形態の時に巻き添えになる民間人を見過ごせず、攻撃中止を決断したシーン。
もう一つは米軍によるゴジラへの攻撃で東京の空が赤く染まっているのを見ていたシーン。
特に前者の方は、直後のゴジラのしばしの停止とも相まって、日本政府の弱みを敵の眼前に晒したシーンであり、総理のその後の敗北を強く暗示する物だった。
ゴジラが鎌倉に再上陸した後東京に向かい、登場人物が「なんでこっちに来るんだよ」と嘆くシーンがあるが、
要は、民間人を救おうとしたことで勝機を逸したと同時に「人がいる場所なら攻撃されない」と舐められたわけである。
その事が、熱核攻撃というリスクの拡大再生産と、最終決戦での主人公が民間人に巻き添えが出ようが何だろうが攻撃する決断につながったのであり、
またゴジラが東京駅で活動停止した理由も、人の多そうなビルの近くが一番攻撃されにくいという判断によるものかもしれない。
攻撃するべき時に攻撃できなかったことで、リスクを東京消滅の寸前まで大きくしてしまった総理。
決断力あり過ぎに描かれていると非難も多い日本政府だが、それは彼らが死んだ時に「その後」の日本政府の人材欠乏ぶりを際だたせるためのものだろう。
この手の話になるといつも思うんだが、憲法9条を改正するだけで日本の軍事力がいきなり高まるくらいに思ってる人っているよな。
軍備拡大への正当性はある程度獲得できるかもしれないけど、実際にやろうと思ったら金も人も技術も全部足りてない訳じゃん。
歩兵一人にしたって、先進国の歩兵ともなれば十分な教育、最新鋭の装備、充実した訓練、命を賭けるに足るだけの給与と相当な金がかかる。
戦闘機や戦車、艦艇となればさらにアホみたいな金額がかかるし、単純な頭数を揃えるだけでもこれから若者が減っていく日本にとっては大きな負担になる。
その点に対する議論はほとんどされてないように見える(軍オタの人とかはそういうのも気にしてるとは思うけど)
軍事力強化への道筋も定まってないのに憲法9条だけ改正しても無駄に仮想敵国を刺激したり、在日米軍が日本から撤退したり大幅に派遣規模を縮小したりする口実にされるだけなんじゃないのかなぁって思うんだけど。
それに少なくとも対外的には日本が日中戦争→太平洋戦争と泥沼に突っ込んでいったのは軍部の暴走にあるということしてる訳だから、その二の舞を踏まない為の仕組みをきっちり作って抜け穴もばっちり塞いで、そういうことはもうないですよって海外に向けて胸を張って言えるようにする必要もあると思う。
それ無しでは外交的にあまりにもリスクが大きすぎる(あったとしてもハンデにはなる)。
でもそこに対する改憲派の意見やら議論やらあんまり聞こえてこないというのも結構な不安要素だと思う。
現状の憲法のままで例えば中国との軍事衝突を回避しつつ国益を確保するというのは余程高い外交力が求められると思うんだけど、与野党、外務省などを見回してもとてもそんな力量があるとも思えない。
攻撃を受けた際への対処も護憲派内でも意見がまちまちだし、その中にはあまりにも非現実的な考えも多い(端から見ると念仏代わりに9条唱えれば敵が退散するくらいに思ってるんじゃないかって人もいる)
ただ9条を守れと叫ぶだけではなく、9条を維持した上でどう日本という国を守っていくのか? という点に対する議論を深める必要があると思う。
一般人の中で改憲派の人達の根底にあるのは仮想敵国(主に中国)に対する不安なんだからそこを解消しようとしない限り何を訴えても無駄でしょ。
というかこうやって書いてみて思ったけど、改憲派も護憲派もお互いが正しいと思う事を叫ぶだけで相手を説得しようしてる感じ全然ないよな。
俺が知らないだけかもしれないけど、そういう人をほとんど見ない。
政治ってこういう意見の衝突を摺り合わせて現実的な選択を探ることにあると思うんだけど、なんでそういう流れにはならんのだろうなぁ。