はてなキーワード: 眼差しとは
嘘ばっかり言うし、ニュース見ないし、ヲチ大好きだし、あげたらキリが無いんですが
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理系の男が性的な意味で好きすぎて理系来たけど向いてないしつら
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きちんとした統計を取った訳ではないけれど、ボーイズラブ・少年愛を取り扱った作品の作者は体感では9割以上が女性だと思う。
何故ボーイズラブというジャンルはそこまで女性達に愛されるのか。好き嫌いの話だから正しい答えなんて初めから無いかもしれないけど、それでも考えてみたい。
「好きなキャラクター同士が絡んでいる所を見たいから」という主張は正しいと思う。ハンバーグに目玉焼きを乗せて食べるのは美味しい。
「推しは受け」という言葉もあるように、一番好きなキャラがグイグイと攻められる可愛い所が見たい、という話をよく聞く。
ただそれなら好きな男性キャラと女性キャラの組み合わせでも良い訳で、無理に男性同士の組み合わせに拘る必要は無い。
上位の女性が下位の男性を攻める作品も無くはないが、一般的なBL作品と比べればあまりに数が少なくはっきり言って嗜好としてはドマイナーだろう。
またBL作品において女性の存在感が極めて薄い事を考えると、BLを嗜む女性は女性という存在が嫌いなのだろうか。
しかしその割にはBLという大きなジャンルの中にはトランスセクシャルや女体化というシチュエーションもあり、それも中々の人気を博しているらしい。
それも「ある日男性が女性になってしまった」いわゆる後天的女体化ではなく、「ある男性キャラがもし女性として生まれていたら」という後天的女体化の方が圧倒的人気があるそうな。
初めから女性として生まれていたら…というifはもう女性キャラと変わらないような気がするけれど、BLの一種としてTSを嗜む人からすればまた違うのであろうか。
また、BLにおける「受け攻め」の受けは女性役として扱われる事が多く、女性のように可愛らしく周囲の男性達に愛され、時には「お姫様」として扱われ、セックスの際には必ず挿入される側でなくていけないらしい。
このセックスの際に挿入する側とされる側がいつも同じである事を「固定」と言い、時々逆になる事を「リバ」と言うそうな。一般的にBLは固定を愛する人間が多く、リバはゲテモノ食いの邪道として忌み嫌われている。
BLはファンタジーという言葉があるように、ボーイズラブで描かれる恋愛は現実の同性カップルの恋愛とは大きな隔たりがある。はっきり言えば少女漫画の女性キャラクターの側を男性に置き換えただけの物が大多数ではないだろうか。
なら何故異性愛では駄目なのか?男性キャラに女性役を演じさせるほど男女の恋愛を見たいのに、そうまでして女性キャラを見たくないのか?門外漢ながらBLや腐女子について調べている内に出会った解けない疑問だった。
ある日、自分にとって結構しっくりと来る解答に出会えた。「BLで男性が女性役になるのは、女性が酷い目に遭う所を読者である女性が見たくないから」という、言われて見ればああ、なるほどなぁ…と理解出来る答えだった。
「風と木の詩」のジルベール・コクトーや「BANANA FISH」のアッシュ・リンクスは魔的な美貌で周囲の男達を骨抜きにする絶世の美少年として描かれる。また、過去に男性から暴行された事のある性暴力の被害者でもあった。
自分はこれらの作品に触れた時「美形なのは分かるけどこの作品ホモが多すぎない?」と違和感があった。ここで、「仮にジルベールやアッシュが男性でなく女性で、絶世の美少女だったら?」と考えるとこの違和感が途端に無くなった。
そうした作画以外で、本作の持つ少女漫画的要素といえば、主人公の白人少年・アッシュが女性的立場で描かれていることが挙げられる。ニューヨークのストリートキッズグループでボスを務めるアッシュだが、美しく華奢な容姿が原因で、幼い頃から同性の大人たちから性的暴行を繰り返し受けてきた。そうした経験は彼にとってトラウマとして記憶と身体に刻まれており、自分に性的な眼差しを投げかける人々に対しては、嫌悪の感情を向けている。だが、彼の立ち振る舞いからは、同時に“諦め”のようなものも感じられるのだ。
こうした諦めの感覚は、男性にはなかなか理解されにくいものかもしれない。だが、アッシュは男性でありながら、我々女性と同じサイドに立っている。理不尽に性を搾取されることへ嫌悪を示し、それに抗いながらも強くあろうとする彼の姿には、女性だからこそ大いに共感してしまうのだ。
アッシュは容姿端麗だが、ただ「強くてかっこいい」、「かわいそうな過去があるから応援したくなる」といったタイプの主人公ではない。女性が自分の姿を重ねられるような存在で、さらに、多くの女性が抱えているのと共通した苦悩を背負いながら彼は生きている。そうした類まれな立ち位置にいるからこそ、女性たちはアッシュというキャラクターに惹かれてしまうのだろう。
「風と木の詩」や「BANANA FISH」がBL作品か否かは意見の分かれる所だと思うけど、何故BL作品に女性が登場せず、男性が女性としての役割を担っているかはこういう意見を見て理解出来た気がする。
BLが好きな女性はある意味男性の事が嫌いなのかもしれない。女性が男性と性的な行為を行う事にどうしようもない嫌悪感があるのかもしれない。だから好きな男性を女性として扱って疑似的な異性愛を楽しんでいるのだろうか。
TSや女体化も同じで、「元は男性」なので女性の体であっても女性ではないという扱いなのかもしれない。女性が男性に犯されるのは可哀想だけど、男性が男性に犯されるのは有りという事なのだろう。
男性向けの作品の中にも似たような空気のジャンルがある。「女性視点」「女主人公」物だ。一般的に全年齢向けの女性主人公作品は女性向けの物が多めだが、これがR-18物になると一気に男性向け作品の数が増える。
一般的に男性向け「女性主人公作品」の主人公は酷い目に遭う。とてもじゃないけれど人間的な扱いがされないのは当然と言っていい。リョナという言葉もあるけれど、冷静になって考えると猟奇的なんて言葉では言い表せない。
これが男性向け「男性主人公作品」となると主人公はサディスティックな人物が多く、マゾ向けと言われている物でも「女性主人公作品」の主人公よりは大分マシな扱いだと思う。
昔「サキュバスの巣」という小説サイトがあったけれど、どれも男性が女性の罠にかかり悲惨な結末を迎える物ばかりだった。そのサイトの管理人であり小説を投稿している作家さんは女性だった。女性だから、書けたのだと思う。
創作物においても同性にはどうして自分を重ねたり同情をしてしまうのでそこまで加虐する気になれず、逆に異性なら何の躊躇いもなくどんな性的な行為をさせても心が痛まない人間は多いのかもしれない。朝から何を書いてるんだろう。
今や、この名を知るものは、学者か、よほどの魚通くらいなものだろう。
かつては大衆魚として日常的に食したという記録が石盤などに残っているが、魚ハンターによる乱獲で生息数が激減。2029年にレッドリストに準絶滅危惧種として加えられて以来、図鑑でも見ることが無くなってしまった。文字通り"幻"となって今年で181年目を迎える。
目黒区役所跡に建つ「世界魚類保存館」では、この幻の魚を現代に蘇らせるべく日夜研究を行っている。
研究所敷地から発掘された遺跡で見つかったサンマの骨らしき組織の遺伝子構造をスキャンして得られたデータを参考に、近縁種であるとされるガーの幼体の遺伝子を加工していく。
「魚体を殺した後、食用の塩をまぶし高温に熱するととてもうまいと聞く」
そう嬉しそうに話すのは研究者のベニズワイガニエビミさんだ。大学在学中に知ったサンマの存在に魅了されて研究を始め、先の保存館に入所して15年になる。
母が言うに、彼女の父(つまり私の祖父)は潔癖だったらしい。母も綺麗好きだったし、私もそうだ。私は潔癖症とまでいかずきれい好きの範疇だとは思う。通信簿に「きれい好きです」と数回書かれた程度で、日常に支障をきたすほどではない。
私は性行為をしたことがない。母から結婚するまでするなとしつこく言われてきたのもあるが、そもそもたぶん性欲というものが無いんだと思う。思う、というのは、性欲がどのようなものなのかよく分からないので、「ない」ことを自覚することも今までなかった。お腹が空いたことがない人はきっとお腹が空く感覚がどういうものか分からないだろう。同じことだ。
付き合う人とは大体半年くらいで一方的に関係を終わらせる。よくよく考えると飽きたというよりも、ふとした瞬間に見せられるぎらついた眼差しだとか、さりげなく体を触られたりだとか、口の中に舌を入れらりたりだとか、そういう性行為を暗示するようなものが気持ち悪くて相手の事を一方的に薄っすら嫌いになっていたのかもしれない。それに半年も付き合うとそろそろ…みたいな雰囲気になるし、断るには関係を終わらせるのが手っ取り早い。(言い訳だけど、自分から誰かに告白して関係を始めたりしたことはない)
私はふと最近「子どもは3人くらい欲しいな」と思った。しかし、子どもを作るときには性行為が必要だということに今さら思い当たった。さすがに知識としてなんとなく知ってはいたが深く考えたことはなかった。私が性行為をせずに子どもを作る方法はあるからいいものの、私は驚愕の事実に思い当たった。私は2人兄弟がいる。つまりきれい好きの母は3人も子どもがいる。そして潔癖症だった祖父も2人子どもがいる。潔癖症なのにできるものなのか……?男の人はまあ事後にきれいに洗えそうだからいいとして、女は……?行為の後に風呂場に直行して洗い流しても妊娠できるのだろうか。そもそも構造的にきちんと洗えるのかよく分からない……どうしてるんだろう
出勤する際は意地でも座りたいから鈍行で長時間掛けてノロノロ通勤する。
今回の出勤もいつも通り、端の座席を一目散に確保して周囲を気にせず、スマホで電子書籍を読み耽っていた。
ある駅に着くと、視界ギリギリに入っていた手すりを突然飛び出してきたシワシワの手が勢いよく掴んだ。
ふと目線を上げると「どっからどう見ても婆さん」、という風体の高齢女性がよろけながら乗車してきたのだった。
すぐ後ろにはヘルパーさんか孫か分からないが、30代くらいの私服の女性が心配そうな眼差しで、
婆さんを支えながら様子を見守っている。そりゃ心配だろう。遅めとはいえ通勤通学時間帯だ。
都心に近づくにつれ乗客は増え、周囲には人がごった返しはじめていた。
ふと辺りを見渡すと当然ながらどの座席も完全に埋まっており、8割以上の人々は先程までの自分と
同じく手元のスマホに視線を落とし、そのうち半数以上の人は耳も塞いで、外界との交流を遮断している。
その事実が視認できた瞬間、「ああ、なんて醜い光景だ。」と反射的に感じてしまった。
つい先程まで自分だってその「醜い光景」を構成する片棒を担いでいたのにも関わらず、だ。
「よし、席を譲ろう。」何食わぬ顔で一旦スマホの中の文字列に目線を戻しながら、そう決意した。
ただ自分の中にも若干の葛藤が生まれた。「ここで譲ったら、少なくともあと2~30分はすし詰めで立ちっぱなしだよな。」
「今日何の為に早寝早起きしたんだろう。」・・・いやいや、それどころじゃないだろう。バカ言うな。恥を知れ自分。
この間の思考の変遷は自分でも驚くほど高速に行われた。時間にして20秒くらいではなかろうか。再び視線をスマホから上げる。
定刻通り電車がぐらりと動き出す。婆さんはよろめく。同伴女性は急いで支え、心配そうに声を掛ける。婆さんは小声で礼を言って頷く。
この間も彼女らに誰も席を譲ろうとする人間は出てこない。視線を送るものすらいない。どうなってんだこの国は、ええ?
この事態を認識しているのは俺だけなのか?それとも誰もが薄々気付いてるが、手を差し伸べないのか?
なんというか、やり場のない怒りが沸々と湧いてきてしまった。いや、ここでキレてもしょうがないんだけど。
よーし、このクソッタレな現代社会を象徴する1ページを俺が打破してやろうじゃないか。こん畜生め。
意を決してむんずと立ち上がり、婆さんの前に立ちはだかる。一瞬戸惑う婆さんと同伴女性。
先程まで自分の座っていた座席に向かって上に向けた手のひらを差し出し、「どうぞ」と声を振り絞った。
「いやいや、いいですよ。」婆さんは、はにかみながら言う。いい訳なかろうが!受け取りなさいって!
「いやいや、いいですから。」こっちも折れんぞ。婆さんの目を見据えて力強く、毅然とした態度で続ける。
「ああ、ああ、ありがとうございます。」婆さんはすぐに折れた。頭をペコペコ下げてよろめきながら、席に座った。
そりゃ婆さんも本心では座りたいだろう。同伴女性からも同様の礼と会釈を貰う。これで一丁上がりだ、うむ。
こうして、「クソッタレな現代社会を象徴する1ページ」を打ち破ることに成功した俺は僅かな達成感と大きな気恥ずかしさを覚えながら、
婆さんと同伴女性が立っていたドア脇に陣取り、つい先程まで婆さんの命綱だった手すりに寄り掛かり、再びスマホに目を落とした。
それからしばらくの間、目では文字を必死に追いかけているのに、電子書籍の内容はぜんぜん頭に入ってこなかった。
マスクの中の頬っぺたとマスクを引っ掛けてる耳がジワジワ熱を帯びてくるのを感じた。ああ、マスクしててよかった。
みなさん、もっと席を譲りましょうね。以上。
「あんな酷い仕打ち受けたんだから、神様がそのぶんの罰をあいつらに与えないのは、自分に果報を授けてくれないのはおかしい」
こういう風な、道徳心や信仰心に根ざした見えざる手による調整への期待を心の深いところで持ってたんだけど、それがまずかった。
無職期間長引いたり、生きててとにかく辛かったりしたのはこの「神の眼差しへの期待」が原因だったと今振り返って思う。
上司から親を中傷されたり、先輩から事故の濡衣着せられたり、フロアのみんなの前で直立不動で人格攻撃食らって絶叫謝罪を強いられたり……そういう酷い経験も「こうなったら仕方がない」と受け入れて自分で行動しないと浮き上がってこれないのがこの世の仕組みだとわかった。残酷だけどね。
俺に酷いことしてきた人たちは悪行の報いを受けずに、仕事も順調、家族円満、生き生きと日々暮らし続けているとしても「そういうもんだから仕方ない。神なんていないから、寓話的な展開など発生するかもしれないし、しないかもしれない」と割り切って行動するしかない。
感情のままにこれを書く。
つい先ほど母と喧嘩をした。発端はツイッターで話題の32歳腐女子の独白を私が母とシェアしようとしたことだった。
同じくオタク兼腐女子の私は母にひたすらその文章を読んで聞かせた。読み終わった後に「やばくない?」と聞こうと思っていた。共感を得ようと思っていた。だが母はファッションのくだりで遮った。こっちは興味ないの、と。なんで延々と読み上げるの、あんたは何が言いたいの。
なんで?そんなのこの内容を聞けばわかると思った。20歳になったばかりのお洒落初心者オタクの私にとってこれがどんなにゾッとすることか、普通ならわかるはずなのだ。
私はすっかり失念していた。母が自分の容姿や自己投資に無頓着なことを。50代の母はメイクをほとんどしない。使うものは免税店で売るようないいものだが、ファンデーションと口紅、それだけだ。育児で忙しいとかそういうことではなく、昔からそうなのだ。服だってユニクロの服を着たりする。私と服をシェアすることだって日常的にある。母はそういう人なのだ。自分のためにお金を使うことはあまりなく、かといって特に趣味があるわけでもない。ただの50代のおばさんだ。しかし、母は、美人なのだ。
自慢ではない。思い込みでもない。母はどうにも、美人なのだ。バランスの良い輪郭、ぱっちりとした二重で上品さをたたえた目、知的な眼差し、天然ものにも関わらず落ち着いた印象を与える整った眉、しっかりと通った鼻筋、大きすぎず、薄めで形のいい唇、笑ったときの頬も大人の成熟さが感じられて素敵だ。私はそんな母の顔が好きで、母に似ていると言われるのを待ち望んできた。しかし、そんな機会は一度もなかった。いや、嘘だ。一度だけある。授業参観で私の母を目にした同級生が、「〇〇ちゃん、お母さんに似てるね!雰囲気が!」と満面の笑みで言ってくれたことはあった。倒置法で期待をへし折られるのはなかなか辛かった。
そう、私はなかなかのブスなのだ。額が狭いくせに見まごうことなき面長顔、ふっっっとい眉、一重で笑うと目が消滅するひきわり納豆並みの小粒目、ほこりを取るという本来の機能すら果たせないレベルの短い睫毛、ヴォルデモートよりはましレベルの低い鼻は団子鼻のおまけ付き、ゴボ、黄歯、タラコの三重苦を備えた口、ろくに対策をしなかったせいで顔中にはびこるしみ・そばかす、手は小さく爪は短く指は太い。加えて大根足。主張の激しい尻。別にブスマウントが取りたいわけでもないし、私よりましですよ!なんて言ってほしいわけでもない。これが、私の顔、しいては体型を構成しているのだ。さらについ昨日自分の頬骨がだいぶ横に出っ張っていると自覚した。死にたい。
私は自他共に認めるブスだ。空港でパスポートを確認する係の職員が私のパスポート写真を見て軽く噴き出した時、私は笑われるレベルの顔面なんだと実感した。それ以来写真には極力写っていない。
話を戻そう。母は問うた。なんであんたがこの話をそんなに気にするの。あんたは周りの人を顔や容姿で判断するの。なんであんたは周りからの印象や意見に過剰に反応するの。大学に入ってから服だの髪だの化粧だのそんな馬鹿馬鹿しいことばかりじゃないの。偏りすぎてると思わないの。お母さんを見なさいよ。私なんて50過ぎてるのにろくに化粧もしないで安い服着て仕事に行くんだよ。
問いかけは次第に説教へと変わっていった。こういうことは今に始まったことではない。今までにもこんな議論は何度もあった。私がダイエットをすると言って食べる量を減らしたとき、私が整形をしたいと言ったとき、私が汚い男爪をなんとかしようとして爪を長く伸ばし始めたとき、私たちは同じことを繰り返した。そして私は決まってこう返すのだ。
「お母さんは綺麗だから」
綺麗であれば装備は少なくてもなんとかなるのだ。元々のスペックが高いのだから。美人な人は他人からの評価なんて気にする必要がないのだ。その顔や容姿でこれまでに不利益を被ったことがないから。美人は皆言う。人間顔じゃないよ、中身だよ。
うるせ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
わかってる。美人でも自分磨きを怠らない人がたくさんいるのも知っているし、逆にブスでもデブでも自分の外見に無頓着な人がたくさんいるのも知っている。ブスだとか美人だとか関係ないのだろう。母が言いたいことの一つはそういうことかもしれない。でも私が気にしてるのはそう言うことじゃないんだ。なんで「ただしイケメンに限る」みたいな言葉があると思ってんだ。幸せはお金で買えないって言うけどそれなりの幸せはお金で買えんだよ。それと同じだ。私は何も小松菜奈とかアンハサウェイみたいになりたいなんて言ってない。それなりの美貌がほしいんだ。あわよくば美人が自分磨きサボってるレベルの美になりたいんだ。写真で撮られても怖くないように、ちゃんと笑顔で笑えるようになりたいんだ。褒め言葉をお世辞じゃないかって疑うんじゃなくて、素直に受け止められるようになりたいんだ。
私みたいなブスがそこに追いつこうとしたらもっと努力を重ねないといけない。だから歯のホワイトニングを始めた。全身脱毛のカウンセリングを予約した。インスタでファッション、美容、いろんなアカウントをフォローした。爪のケアや二重にする練習も頑張っている。朝をオートミールに変えた。初めて万超えの服を買った。メイクの勉強も始めた。イエベブルベ骨格も自分なりに把握したし、ファッション用語の勉強も始めた。コテも買った。ちゃんとした美容院で髪を切ってもらった。シンプルなアクセサリーも買った。毎日顔のマッサージをしているし、前より姿勢に気を使うようになった。
母はそんなのまだ早いと思っているのかもしれない。だがそれらはみんな大学受験が終わったらやりたかったことで、みんな今より綺麗になるためにしたかったことで、それは自分から見た自分のためでもあり、他者から見た自分のためでもあった。他者から見た自分は醜くて嫌いだった。だから自分から見た自分のことも嫌いになった。そこからずっと抜け出せなくて、歳を重ねても自分でかけた呪いから離れられなくて、ずっと苦しかった。私は中身もできた人間じゃない。幼稚だし飽き性だし教養もない。可愛い子には嫉妬するし、僻んだりもする。心の狭さ、浅さもなかなかクズだ。承認欲求もすごい。強欲すぎて我ながら引く。
異性や芸能人は顔で判断したりもするし、正直に言うと現実の友人の中にも私よりもブスだと思っている子がいる。もっと言えばブスだし性格もよくないしで救いようがねえなって思っている人もいる。今の私と同類だ。
今よりもう少し綺麗になれたら、自分と周りの目に怯える必要のない心の余裕が持てるほどの美人になれたら、世の美男美女が言うことの意味もわかるような気がする。そしたら私は母のような素敵な人になれるのだろうか。
見た目が全てではないのは分かっている、が、中身が全てでないことも分かっている。
私は今見た目に、そして自分自身に完全に意識が向いている。母から見て私が足掻いている馬鹿馬鹿しいことは全て、私が中身にも、そして他者にも目をきちんと向けられるようにするためのステップなのだ。私は見た目を諦めてまで中身の段階へ行きたくはない。そこそこの美貌に満足できるその日を現状のゴールとして、私は私のやりたいようにやろうと思う。
「美味しさ」は絶対善では無い。つまり、「美味しさ」も光量や音量と同じで、料理は美味しければ美味しい程良いというものではないのだ。
ということを他人に何回話しても、なかなか理解してもらえない。
多くの場合、「美味しくないより、美味しい方がいいでしょ」と返されてしまうのだが、その美味しさが自分が想定する以上に存在するのはラッキーでも何でもなく、単に邪魔だと言いたいのだ。
例えば、天才数学者がアイデアを思い浮かべながら定食屋に入ったとする。提供された料理が彼の思う美味しさをはるかに越えていて、その味に意識を奪われアイデアを忘れてしまった場合を考えてほしい。
調理者はそのはるかなる美味しさに自信を持って、評価を笑顔で期待するだろうが、客である数学者に怒りの眼差しを向けられるのは当然だろう。
言いたいのはそういうことであり、必要以上の「美味しさ」を与えられることは私の意識を奪うという点で、暴力さえに値するような事項なのだ。
つまり、食事においてはハプニングを期待していない。食事には何かを思うことで、思考のリソースを割きたくないのだ。だから、逆に「美味しさ」に関する評価を求めてくるのも辞めてほしい。
その点では、「人間失格」でだったか、太宰治が子供の頃、家族で食卓を囲むのが最も苦痛な時間だったって話も理解できる。食事というのは「美味しさ」を中心とした多大なコミュニケーションコストを伴うのだ。
というか、口に物を入れるなんて一番命に関わるリスクだ。伊藤計画の「ハーモニー」では、食事の度にその飲食物を摂取することの危険性がディスプレイに示される様子が描かれているが、今後は酒類やタバコに限らず、菓子でも野菜でも実際にそうすべきかとさえ思う。
同書の世界では、「プライベート」という言葉が性的な意味合いを帯びて表現されていたが、食事という行為も性行為ぐらいの「プライベート」な存在感になればいい。そうなれば、食事の嫌いな人が居ることや、「美味しさ」の暴力的な一方性を理解してもらえるだろう。
個人的には、イーガンの「順列都市」のように、オプションで、食事不要でも生存できるスタイルが選べれば一番良いのだが、そうでなくとも、藤子不二雄のどっちかの「21エモン」で登場したような、一回の食事はタブレットを何粒か飲むだけで済むという世界になればいい。
(タブレットではないが、今のところは、菓子パンのカロリーの高さに救われている。カロリー÷口への投入回数、という指標において、菓子パンはコスパが良い。「美味しさ」はどうでもいいのだ。)
「なんの役に立つのか」
「世の中では人気がないみたいだ」
「悪趣味だと思われたらどうしよう」
そんなものは本当の好きではないんだ。
過去でもなく現在でもなく、ただ一心に未来だけを見据えているから、それができるんだ。
それをそんじょそこらの新興宗教などの安っぽい信仰などと一緒にしてはいけない。
なんら好きを持たない人々には信仰と信念の違いが分からず、簡単にオタクを蔑む。
だが、オタクはそんなことでめげたりしない。
そこがまた、オタクのすごいところだ。
高い次元の戦いでは、一瞬の躊躇の差が明暗を分けることも多々ある。
そうした意味では上を目指すなら、オタクでなければ論外と言っても過言でない。
普通の人々はもっと、オタクからモチベーションアップの方法を学ぶべきだ。
冷静に考えてみるとオタク知識が義務教育になってないのがおかしいぐらいだ。
ジャンルを問わずあらゆす分野の競争でなにより大切なのがモチベーションの有無だ。
世間は平等などと綺麗事を言うが競争社会はますます激しくなる一方だ。
ハッキリ言ってしまえば、オタク知識と比較して学ぶ価値のない科目はいくらでもある。
いや、極論だがモチベーションさえ身につけることができれば他の科目は全部不必要とすら言えよう。
だがオタク知識が義務教育でないこともまたオタクのすごさを物語る。
誰かに強制されたんじゃなく、自発的に正しい答えを見つけ出したというのもオタクのすごさのひとつだ。
オタクのすごさとは、言い換えると本質を見抜く鋭い洞察力のようなものなのかもしれない。
オタクのすごさを昔から知っていたインターネットのベテランユーザーは、なにを周回遅れのことを言っているのか、と思われるかもしれない。
だがインターネットが普及したのと同時に、半ば化石化した古い世代がここでもまた大きな顔をし始めた。
だからオタクのすごさを強調して強調しすぎるということはない。
職場に私と同い年で育児休暇明け時短勤務のママさん社員がいる。
娘さんはまだ2歳で、保育園に預けて時短勤務なので、何があっても定時で帰らねばならないそう。
さらに娘さんが体が弱いらしく、保育園から電話が来ては、熱が出た、はたまた蕁麻疹が出た、と午前中で帰ることも日常茶飯事だ。
定時で帰るのは当たり前で、保育園からの呼び出しがあった時は、どんなにややこしい案件があっても引き継ぎもせずにいなくなることもざら。
どんなにややこしい案件でも、客先でトラブルがあって予断を許さない状況でも、
商談中でこちらから連絡を入れるアポを取りっぱなしの状況でも、彼女は定時で帰るのだ。
置いてきぼりにされた仕様書、見積もり、その他から状況を探り出し、業務が間に合う様に奔走し、
待ちぼうけを食らったお客様に謝り倒し、
引き継ぎがされてないと途方に暮れてる他スタッフに指示を出す。
私が、彼女が娘の為に放り出した業務の歯車を正常に戻そうと疲労困憊し消耗しても、そこに労いはない。
彼女の、熱を出した娘の元に一刻も早く駆けつける姿は称賛されても、
正直言って割に合わない
正直言うと
母親だからって職務放棄状態の時短勤務ははっきり言って迷惑だよーーーー!!
母親だからしょうがないって帰った後に残された仕事はそのまま泡になってお空に登ってキレイになる訳じゃくてそのまま私の残業になってんだよ!なのに目の下真っ黒にして片付けた仕事に「私だったらもっとこうする!」とか言われたくねーわ!テメェでやれや!
子供だってテメェが好きで産んだんだから仕事がキツいだ、子なしとはいいよねーとかいうなや!
掃除の話もメイクの話もご飯の話もテメェが聞いてきたくせに「子供いたらそんな余裕なくなるよー」じゃねえわ!!!
もっかい言うわ、それはテメェが好きで子供産んで無くなった余裕だわ!!!!
コロナの影響で保育園に娘さん預けられずにMAX2ヶ月休んだ後に戻ってきて、会社の経営状況が悪化して社員のリストラ人員削減も視野に入ってる中、
闘いはまだ、終わらない。
ということで、部屋探し2日目スタートです。
文明の利器、素晴らしい。
昨日ぶりの担当さん。
さすがプロ。
とマウスを渡された。
え、それでいいのか?
カチカチ…
「これはダメか…」
「これ…も微妙だなぁ」
なんて言ってたらしばらくして
「ほんとですね。昨日はなかったのに…あ!今日掲載された新着ですよ!!」
歓喜!
さっそく内見へ。
少し遠いので車で向かう。
結構いい感じのお部屋。
「こういうありきたりな造りの部屋の方が住みやすいんですよ」
と担当さん。
昨日の反省を踏まえてとりあえず店舗に戻る前に管理会社へ再度確認。
「もしもし。今、内見終わりました。まだ申し込みはされてないですか?…ええ、はい。まだ物件の前で、店舗に戻るまで少々時間が…」
あれ、ちょっと不穏な感じ…?
「ちなみに1時間以内にお送りできると思うのでその間ストップできたりなんてしない…ですよね?…ああ、そうですか。分かりました。失礼します。」
聞いてるこっちがめちゃくちゃ緊張するじゃん。。どうなんだ??
「今、7社から申し込みしたいと問い合わせが来てるみたいで…どうしても早いもの勝ちになってしまうので急いで戻りましょう。」
ひぇ〜…
敵が増えとるやないかい…
物件まで車で大体20分くらいかかってたし、今から急いで戻っても間に合わないだろうな…
と半ば諦めながら車に乗り込む。
「今内見終わって、管理会社に確認したら7社から問い合わせ来てるみたいで…はい、多分もう終わると思います…」
とか言ってて、いやそれ、私の前で言うか??
諦めと疲れで車内で無言になってたら、
「万が一の可能性もあるので急いで帰りましょう!」
とスピードを上げる。
(え、カッコいい…やるじゃん担当さん!!)
と半分以上妄想なのに勝手に見直しているくらい私も疲弊していた。
どうか間に合ってくれ…!!
なんとか店舗に到着。
着いて早々書類を渡され書き始める。
ペンを握る手に力が入る。
「もう申し込みってされちゃいましたか?…あ、そうですか。分かりました。」
え、それは…どっちなの??
「まだ申し込み来てないみたいです!急いでください!!」
え、まさかの?!
ちょっとびっくりして固まっていたら
「手動かして!!」
と急かされ、いや私お客様だけど?!と思ったりもしたけど、
って感じで殴り書きの書類を、書き終わった瞬間に奪い取って送る担当さん。
束の間の沈黙…
「今申し込み書をお送りしたんですけど、何番目に届きましたか?…本当ですか。ありがとうございます」
電話してる姿を固唾を飲んで見守っていた私に、親指を突き立てて笑う担当さん…!
「ギリギリ間に合いました!!」
おおおお!!!
目と目が合って指が触れ合うその時全ての謎が解けるのよ〜♪
緊迫したカーチェイス(何も追ってないし追われてもない)、ギリギリに滑り込むハラハラ感。
「店舗でご契約いただいて、一緒に写真を撮っていただいた方に抽選で10万円当たりますのでぜひ。撮った写真はあんな感じで店舗に飾ります〜」
と言われ、
多分、高揚と安堵で緩み切っただらしない顔をしていたので
知り合いが同じ不動産屋で部屋を探しに来ないことを切に願う。
私は物忘れがとても酷くて色々忘れちゃうから忘れない様に何度も読み返して記憶に焼き付ける為にメモする
末期癌の父をさっき自宅で皆で看取った
昼間訪問した時はまだ反応があったんだけど0時過ぎぐらいから呼吸がちょっとおかしくなったというので、母から2時に電話が来た
誰も歩いていない真夜中の静かな町を早歩きで向かう
徐々にご飯が食べられなくなって、父は骨と皮でゴツゴツになってしまっていた
総入れ歯だったからごっそりげっそり頬がこけちゃってねちょっと不憫でね
誰も泣き叫ばず静かに看取る真夜中
掌の中で命が消えていく哀しい時間
段々目の焦点が合わなくなって、白目が濁るってのかな?瞬きとかの動きが減っていき、亡くなると体温が失われて肌の色が変わっていくんだね知らなかった
その時を迎えた父は、寝た様に見えた
ぽかんとクチ開けていつものパジャマ着て酔って寝ちゃったみたいに
だけど、違う
腹膜が1mmも動いてない
それを見て、ああもう呼吸をしてないんだなって痛感した
開いた口と閉じた瞼
苦悶さは一切見えない
モルヒネの力で苦しさはなかったみたいだけど、目頭に残ったこの液体は、たぶん父の最期の涙だ
まるで着くの待っててくれたみたいだ
昼間は自力でベッドから起き上がって座る位置直したり動いたりしてたって言ってから、今夜逝こうと決めたのかな?
それぐらい不思議な早さだった
末期がんの診断出て2年
思っていたよりも長く父は生きた
その後抗がん剤で髪が抜けてしまって、でも抗がん剤止めたら髪が生えて生命力すごいなーなんて言ってて
末期がんって判ってから仕事辞めて家にいる事になった父は家具作りやスマホや家事や料理を始めた
引っ越したばかりの団地の部屋を得意の家具作りであちこち整え、スマホを学んでネットで競馬したりLINEやyoutube視聴やポケモンGOもしだした
炊き込みご飯を勧めたら気に入ったみたいで美味しいのを作る様になったし、カレーも作った
庭いじりが好きな父は四季折々庭を整えられて少し楽しみを持ててたみたい
あとめだか飼いだしたけど上手く育てられなくてすぐ死んじゃうから悲しくなって飼うの止めたって聞いてちょっと辛かった
今回は自宅で看取れたので良かったと思う
祖父の時は病院で心電図モニタありで音が結構辛くてイヤだなって思ってたから今回は無しでいくって聞いてたので良かったと思う
お医者さんも看護師もいない自宅だから、逝こうとする父を皆で静かに見守れて良かったと思う
今コロナで休業期間で家族全員が毎日じっくりゆっくり看取り期間があったから徐々に覚悟が出来た
って母がずっと言っていた
…お父さん
私もありがとうって思ってるよ
朝が来た
真っ白な光の風景
暗かった闇が潮の満ち引きみたいに引いて朝が来た
父がいなくなってから初めての一日が始まる
しっかり務めるよ
一日後に見た父はダブルのスーツ着せてもらえてて安置してもらってた
顔は一日前に見たままだった
胸には花束が載っていた
父が庭で育ててた花で作った花束
ピンクと白の綺麗な花で、ちょうど咲いたんだそうだ
もう一度、声をかける
訃報を送ったら、会社の人とか私の周囲の人達が私が父の面白話をちょこちょこしてたからか、話した事すら忘れてた父との小さなエピソードを覚えててくれて、それが嬉しいねーって話をしたり、孫が父に書いた手紙があったりしたのでそれを見せてもらった
出棺後はお別れの時間がないよと言うので、僅かだけど二人きりにしてもらった
線香をあげてから、頭を撫でる
暖かかった頭
髪の毛は一日前と同じ柔らかでふわふわだったけど、髪の毛の先、皮膚からはすでにドライアイスでかっちこちの冷え冷えの身体
変わっちゃってて、最期に撫でた頭の温もりとのギャップ感がかなり激しかった
斎場へ
先に行った私達から遅れて父と母が車で着いた
車はクラウン
ああ、トヨタなんだ
父はレンタカーはトヨタって決めてるぐらいトヨタに絶対の信頼を置いてたので、ちょっと笑ってしまった
(偶然なのか帰りに捕まえたタクシーもトヨタ製だった。どこまでトヨタ好きなんだ)
白っぽい棺が台車に載せて運ばれてきて、お花を入れてあげてと言われた
ここでも庭から摘んだ花を入れてあげられた
庭いじりが好きで実家も深い山の中の人だから、あっちに行ってもきっと珍しい草木を見つけて育ててるだろうねなんて言いながら皆で父を花で埋めていく
注文してた花と育てた花で棺が埋まっていく
ダブルのスーツをパリッと着て綺麗な花に埋もれた父のその姿は、見ていても不思議と決して不幸な感じはしなかった
余談なんだけど、遠い昔、親戚の葬儀に参加した時、棺に釘を打つ作業があった
知らない親戚だったけどあれは二度とやりたくなかったから、この斎場ではそれがなくって良かったなと思った
粛々とやる事が進んで、やがて焼き場の扉前に棺が運ばれる
みんなで父にお礼を言った
泣きながら 泣き崩れない様に支え合いながら 涙そのままに 既に涙が枯れてたり
各々の別れ方だった
そして、横、縦と閉まっていく扉
その時は終わった
それは死んだ珊瑚みたいで骨に見えなかったし、これが父だったんだとはちょっと思えなかった
物を骨壷に入れて、布巻いて、木箱を母が抱える
ようやく終わったなー。そんな感じ
真夏の様に暑かった昨日とはうって変わって、とても凉しい皐月らしい午後のお別れだった
三週間前ホスピスに入院になったけど、何とか実家に戻ってきた父
整えてなかった実家の不便な所のビフォーアフターを済ませ(DIY好きの父なのであちこち整えてった)、身の回りの物の整理や、搬出搬送しやすい様に動線の整理も済ませ、亡くなる3日前、栄養のない点滴に自分の意識で切り替えたとも聞いた
二年半、末期がんの父を皆で思い思いに看病をし、逝くまでを皆で見られた事
祖父の時出来なかった事を全て出来たと思う
言い方悪いけど、母の時にまたやる事になるだろうから、その覚悟も出来たと思う
私もこんな風に逝けたらいいと思えた葬儀でした
モルヒネで意識が混濁してた父ですが、最期には目があって何度かアイコンタクトを交わせたのですが、その眼差しと動きには心残りや苦痛な感じは一切見受けられなかったので、悔い無かった様に感じられました
性風俗産業およびその従事者に差別的な眼差しが向けられている客観的なデータはあるのか?という問いですが、ありませんが私の印象ですし、そうは間違っていないと考えていますので撤回するつもりもありません。
性風俗産業に差別的な眼差しが向けられていないという主張のほうが驚くべき偏見としか思えませんが、どうでしょうか。
発端の岡村隆史氏の発言と、風俗産業に対する差別意識が密接に関係しているという主張が何かおかしなものでしょうか?
また、私が「差別すべきだ」と主張している、とあなたは主張していますが、私は差別すべきだなどと一言も申しておりません、むしろ元エントリでは差別すべきではないと明確に申しております。
はっきり申し上げて、あなたは私が差別主義者であるという前提を一切変更するつもりがなく読んでいるため、全く真逆のことを書いている部分はなにかの詐術、詭弁だとして読み飛ばし、「風俗業は賤業」と書いてある部分の言葉尻のみを捉えて反応していらっしゃるとしか考えられません。
もう一度いいます、私は差別すべきなどと一言も申しておりませんし、差別すべきでないと申しております。
なぜ「風俗業は賤業(として扱われている)」という強い言葉を使ったのかと言えば、これは先にも説明しましたが、実際に差別されていることを直視しなければいつまで経っても問題が解決に向かうことがないと考えているからです。
私自身に差別意識があるから言葉遣いの中にそれが漏れ出たわけではありません。
冷静になって考えて欲しいのですが、風俗業への差別意識を糊塗する為に差別を否定したんだとするのならば、わざわざ二度も「風俗業は賤業」などという言葉を使うでしょうか?
まだ「たとえそうだったとしても、あのような物言いで傷つく風俗業関係者もいるだろうし、あなたの狙いを達成するのならもっとこのような表現にすべきだった」のような反論であれば、私にも得るところがあるものなのですが、
とにかくあなたは私が風俗業を差別する意識及び目的であの文章を認めたという前提を覆すことがなさそうですので、もうこれ以上なんとお話すれば良いのか、ほとほと困り果てています。
一体あなたの中で、風俗業を差別する意識に基づいて「風俗業を差別するな」という帰結になる文章を投稿する人間(あなたに取っての私のことですよ)というのは、一体どんな人間なんでしょうか?
おそらくこれ以上何を言ってもあなたは絶対に私の差別意識を確信し続けるでしょうし、このあたりで筆を置こうと思います。ありがとうございました。
https://anond.hatelabo.jp/20200503121929
https://anond.hatelabo.jp/20200503204026
風俗嬢とカツオの比喩がよく話題に挙がっているが、話がなかなか深まらないのでずばりいいたいと思う。
風俗業とカツオの漁師の端的な差は、賤業かそうではないかです。
先ず、カツオの漁師が需要減に依って不利益を被る中で価格の低下を喜ぶことは悪なのか?ということについてですが、私達の社会における自由競争の中では、誰かの損益と誰かの利益がつながっているというのは当たり前の話です。
何処かの会社が画期的な新商品を開発して売上を大きく伸ばせば、同業他社は不利益を被ります。廃業ということもあるかもしれません。
だからといって、その事に心を痛めて利益の追求をやめるという選択は馬鹿げた話でしょう。需給ギャップによる価格の低廉化というのも極当たり前の市場原理であり、いち消費者が倫理的な問題として考えるのは馬鹿げています。
ただ、この新型コロナウィルス禍に於いては少し事情が特殊で、そのような不利益配分が単なる損失というだけでは済まず、数多くの人が経済的困窮に陥り生活が破綻する恐れがあるという事を皆が漠として思い描いているのでしょう。
その結果として多くの人が「健康で文化的な最低限度の生活」をすら保てなくなるのではないか?という問題ですが、それは憲法で保障された国民の権利の問題になります。
民主主義国家に於いては主権者は国民ですから、その範囲では国民には国家に対してそのような自体に陥らぬようにさせる政治的責任があるとは思いますが、
市場活動の中での商取引一つ一つに於いてその倫理に基づいて感傷的になるべきだ、というのはかなり筋違いの話であると考えます。
では本題ですが、性風俗業についても上述のカツオの話と同等にただの自由競争の中の話と言えるのかということですが、これは言えないと多くの人間が思っています。
性風俗業は賤業です、理由は多岐にわたりますがいくつか挙げてみましょう。
国地域時代ごとに文化は異なると思いますが、現代の本国に於いて不特定多数の人間に体を委ねる女性というのは性倫理に反すると思われています。
そのような考えは女性差別で前時代的な産物だという考えもあるとは思いますが、そうは言ってもそのような倫理性が各人に植え付けられているというのも一つの事実ですから、
業としてそのような行為を行うことには躊躇があって当然でしょう。
1つ目の理由と地続きですが、そのような反道徳的な行いに身をやつすことは被差別的な眼差しを向けられることにも繋がります。
そもそも風俗業というもの自体が管理売春であり、法律的にも限りなく黒に近い灰色と言っても良い業種です。
そういった業に就いている事実は、通常あまり公にして得のあることではありませんから、そのような業への就業が寿がれることはないでしょう。
性風俗業には健康リスクがあります。不特定多数の客と粘膜的に接触することはエイズに始まって多種多様な病気への感染リスクを齎します。
業態に依っては妊娠というリスクもあるでしょう。そういった身体的なリスクがまずある上に、精神的なリスクもあります。
個人差はありますが、汎く言って不特定多数と望まず性的な関係を持つという事は当人の精神に負の影響を与えるものです。
そのような統計があるのかは知りませんが、多くの風俗嬢が何らかの精神的な問題を抱えているものと私は感覚的に思っていますし、そう大きくは外れていないでしょう。
このようなリスクは性風俗業特有のリスクであって、カツオ漁師とは比較にならないことです。それを理由として皆は岡村隆史氏の発言に憤りを感じました。
ですが、前段で挙げたような種々のリスクというのは風俗嬢に対して差別的なんじゃないか?という疑問があると思います。
どれも事実として存する事柄ですが、別に風俗嬢個人に還元して良い話ではありません。
性倫理なんてもの自体絶対ではないし、それを破ろうがどうしようが他人がとやかく言う話ではありません。望まず性倫理を破らなければならないのならそれは貧困の問題です。別の手当が必要でしょう。
また、その当人を差別的に扱うなんてことは言語道断であってはならないことです。法的にグレーだというのならきちんとそれを整えるべきなのであって、当人の非行のように言うのは欺瞞です。
心身のリスクについても出来る限り低減させるような取り組みがもっとあって然るべきだし、当人に健康リスクがあることを以て当人が忌避されなければならない謂れは全くありません。
この社会では、差別は許されないということになっていますが、差別を語らないことが差別を許さないことになったと誤解している人が多いように感じられます。
本来差別が許されないことであるのと、差別が存在することは両立します。
差別は許されないが、差別は現存しており、被差別的な扱いを受け(させ)たくないという感情もあるので、人は差別を遠ざけようとする為、差別は再生産されます。
カツオと風俗の比較という話に対するレスポンスの多くが、体表を撫で回しているだけで終わるような表面的な話に終始し、風俗業の被差別性という本質に全く切り込まないことの理由がこれで、でもそれでは駄目なのです。
この社会で性風俗というものをどう位置づけるかを考える良い機会ではないですか?単に岡村隆史をバッシングしていればいいという話でもないと思うのですが。
わたしはなぜこのブログを書いているのだろうか。もういまさらわたしが口出しすることでもない。それでも今日が記念日ということに気づいてしまった。気づいてしまったのだからしょうがない。しょうがないことにしてほしい。
今日は、すこし特別な日なのだ。ほんのすこしだけれど。2年前までだったら、かなり特別な日だった。
うれしくて、ふわふわして、気持ちが浮いて、地に足もつかなくて、そんな日だった。だって、あなたたちの誕生日だから。あなたたちが生まれた日だから。あなたたちに名前がついた日だから。
ジャニーズJr.という世界は、このブログを読んでいる人が思っている以上に厳しいし、わたしたちが思っている以上にシビアだ。ジャニーズJr.に、約束などない。
たとえば、次のコンサートが終わると同時にグループが消されることもあるし、昨日まであったグループが突然消滅していたなんてこともある。酷いときはコンサート中に解散が発表される、なんてこともあった。正確に言えば「様々なグループから色々なジャニーズJr.を選抜してのデビューを発表した」になる。解散が発表される、とは少し違うがまあ同じようなものだ。ジャニーズJr.とは、そういうものだ。
わたしはそれを去年の1月に知った。知識としてそういうことがあったことは知っていたし、実際に突然干されてそのまま全員で退所していった一部始終も見ていた。5人グループが6人グループになったところも見ていたし、名前が突然変わったところも見ていたが、まさか自分がその当事者になるなんて思っていなかった。わたしはあの日、突然渦中の人物になった。大好きだったグループの、愛していたグループの突然のメンバー加入発表。増員発表。
ジャニーズJr.に「絶対」がないことは知っているつもりだった。覚悟もしていたつもりだった。でも、だけど、それは「つもり」でしかなかった。心のどこかで(そんなことが起こるのは人気のあるメンバーだけだし、デビュー路線にのったグループだけだ)と思っていた。はっきり言ってしまうと、わたしが応援していたひとは人気というわけではなかった。アンチはいないけど、ファンも少ない。そんなひとだった。グループとしてもデビュー路線から少しずつ外れ、舞台班としての道が見えていた。わたしは当然そちらに進むものだと思っていたし、ファンとして最低なことを言うと舞台班になることを祈っていた。一年に一度大きなツアーがあるだけなんてわたしには耐えられなかった。毎月毎月会わないと、生で見ないと息ができなくなってしまうのではないかと錯覚するほど毎月現場があったからだ。
あぁ、わたしはなんて馬鹿なんだろう。こんな記事を書くのだからと、久しぶりにあなたたちのプレイリストにしたのが間違いだった。想いのつまった曲が流れ始めてしまった。つらいなぁ。だいすきだったんだ。愛していたんだ。わたしがかけられるだけの時間もお金もかけてきたつもりだった。それじゃ、不満だったのか。まぁ、当然か。生活がかかっているわけだし、いつまでも「アルバイト」のようなジャニーズJr.という不安定な立ち位置で満足なんかできないだろう。「正社員」に近いデビュー組を目指すのは当然だ。
あなたたちは、この曲をどんな気持ちで歌ってくれたの?歌詞に自分たちの名前を入れて、ペンライトは誰のメンバーカラーでもない白にして、おたくが踊れるような振りにしてくれた。涙を浮かべて歌ってくれたあの景色は嘘だったの?
涙で滲む約束は、あなたたちで果たしてほしかったのに。人数が変わってしまったら意味がなかったのに。もう少しなんて言わなくたって、ずっとそばにいるつもりだった。手を離したのはどちらなんだろうか。まあ、当然わたしなのだ。だってまだそばにいる人はたくさんいるのだから、わたしがあの増員に耐えられなかったのはわたしの責任なのだ。わたしが悪い。
「気持ちが強すぎた」なんてそんなことは口が裂けても言わない。わたしが単純に聞き分けの悪いお子ちゃまだった、それが正解なのだから。
ただ、わたしの生活にはあまりにもあなたたちが入りこみすぎた。四季折々共に過ごしてしまったから、春にも夏にも秋にも冬にもどの季節にも思い出がある。いまだに聞けない音楽がある。行けない劇場がある。言えない言葉も聞きたくない言葉もたくさんある。
だけど、時間というものは残酷だ。出来事というものはその瞬間に記憶になる。記憶は思い出になり、思い出はいつか薄れてなくなっていく。そういうふうにできているのだ。なんて残酷なのだろうか。あなたたちと過ごした思い出も、苦しんだあの日々も、ぜんぶいつかは消えてしまう。たとえ今は結成日が忘れられていなかったとしても、だ。間違いなくいつかは消えてしまうだろう。
だけどなかったことにはしないでほしい。腫れ物を扱うように当時を振り返らなくなるのはやめてほしい。わたしの大切な日々であり、消したくない青春なのだ。
6という数字に縛られるのだろうか。
6人組のアイドルグループに羨望の眼差しを向けなければならないのだろうか。
どれも答えはわからない。わたしがどれだけ見ないようにしたとしても、わたしの周りにはあなたたちのファンがたくさんいるし、テレビにだってたくさん出ている。
デビューとはこういうことだ。見たくなくても目に入ってしまう。聞こえてしまう。今まで、わたしがどれだけ好きだと叫んでいても見向きもしなかった友達が「かっこいい」「好き」と言っている。掌を返したように何人も何人もだ。あの日わたしに「かっこいい人だれもいないしJr.とかガチすぎてこわいよ」って引き気味に言ってきたあの子でさえそのうちの1人なのだ。興味も持たなかったくせに。
だけど、この「今」を彼らは望んだ。彼らは願った。わたしが願っていない未来を、彼らは願っていたし、わたしが嫌な今を、彼らは喜んでいる。そういうことだ。彼らの望むこれからは、わたしの望まないこれからだ。彼らに必要ないのはわたしのような人間だ。そんなこと1番わかっている。だからファンと名乗ることをやめた。無理矢理別の人を好きになった。
もし今、似たような状況の人がいたとしたら無理矢理別の人を好きになるのはおすすめしない。好きだったのに。大好きだったのに。そんな風に思いながら生活からそのひとを切り離したおたくの成れの果てがこのわたしだ。
春になれば春の思い出で泣き、
夏になれば夏の思い出で泣き、
秋になれば秋の思い出で泣き、
冬になれば冬の思い出で泣き、
そんな風に考えてしまう自分に、簡単に泣いてしまう自分に、こんな文章を綴ってしまう自分にうんざりする。わたしは、こんなわたしが嫌いだ。すごく、すごく嫌いだ。自分で自分の首を絞め続けて、感傷に浸って、悲劇のヒロインぶっている、救いようのないほどの馬鹿で阿呆な自分が嫌で仕方ない。
だけど、たぶん簡単には変わらない。何年間も毎日あなたたちのことを考えて生きてきた。言葉では言い表せないほど、愛してきた。そんなに簡単にわたしの中から消えてもらっては困る。かけてきた時間もお金もそれなりな、わたしの大切な青春だから。
だから、何年も何年もかけて悲劇のヒロインから一般人になれればいい。いつかあの日々を笑って話せたらいい。「好き」と決してかえってこない片思いに似たような日々に浸ればいい。この傷が時間によって癒されてしまうまでの期限付きだ。
わたしのなけなしのプライドでグループ名もタレントの名前も出さなかったけど、ここまで読んでくれた誰かが理解できるように書けているのだろうか。降りてまで迷惑かけたくないから出すつもりもないが。
岡村氏の風俗に対する発言が物議を醸している。これは到底擁護出来るものではないという見方が強く、インターネット上でも彼を非難する意見が大勢を占めていると言っていいだろう。
しかし個人的には、彼を非難するだけで良いのだろうか?非難している側にも問題があるのではないだろうか?という疑念が湧いてくるのだ、本稿ではそれをまとめてみたいと思う。
世間は彼の発言を「この先美人な女性が不幸にも風俗に身をやつすことで、金の力を以て性的に搾取出来ると期待している」と解釈しているように思うが、これは正しくないと思う。
このような見方は、単純に言って風俗嬢=弱者 客の男性=強者という力関係を前提としており、その権力構造の中で男性による女性に対する性的搾取が行われている、という世界観に基づくものだろうが、おそらく岡村氏自身及びリスナーにこのような考え方は全く馴染まない。
風俗に行くような男性というのは、まあいろいろな例外はあるにせよ基本的にはモテない男性である。
自由恋愛の中で性的な関係を満足に築けない男性が、お金を払って女性に相手をしてもらう為の場所であり、少なくとも本人の自意識の上で客というのはヒエラルキーの最底辺に属するものと思われる。
つまり岡村氏の視座から見れば、風俗嬢というのは最大限に言っても対等な関係であり「今後極短期間だけ風俗業に従事するかもしれないが、まだ従事することのない美人」については、これは当然雲上の存在である。
そんな雲上人がもしかしたら自分たち下々と同じ地平に一定期間だけでも降りてきてくださるかもしれない、ということを彼は楽しみしているわけで、
世間が思うような上から目線の搾取の希望などはなく、とてもとても下から目線の弱者視点なんだろうと思う。
それがリスナーという一般人の非モテ男性に憑依したことで獲得された態度なのか、自身のもともとの女性に対する屈折が招いたものなのかは定かではないが、
そんな超一流売れっ子芸人とはとても思えない弱者的な眼差しから齎された意見なんだということが誤解されていると感じる。
しかし、仮に上で類推した意図が正しかったとしても、この先美人女性が望まぬ性風俗への就業を余儀なくされるというのは一般的には不幸なことで、そのような不幸を喜ぶ態度は非難されて当然である。
という反論が出てくるだろう。だがこの反論には2つの問題点があると感じる。
まず一つには、女性の望まぬ性風俗への就業を支えているのは、上述したようにまさしく望まぬ禁欲主義(Involuntary Celibate:インセル)的な男性の欲望である。
風俗嬢がいなければ欲求の解消も出来ない男性たちが、性風俗への就業を「本来なくさねばならない不幸」と捉えることが、果たしてどのように可能だろうか?
個人的にはそれは、無理がある話だと思う。
もう一つ、なぜ殊更この先風俗嬢になる人間についてだけが取りざたされるのか?ということである。
望まぬ性風俗への就業というのは、既にしていままでにも幾らでも起こっていることである。だからこの先も非難するな現状追認せよという話ではない。
つまり、望まぬ性風俗への就業自体を問題視するのなら、風俗業自体の解体を唱えなければならないはずだということだ。
仮に岡村氏の発言が「風俗にはほんまお世話になってて、僕風俗なしではやっていかれませんわ」というようなものだった場合、これほど叩かれただろうか?おそらくは全く叩かれていなかったろうと思う。
だが、そのような風俗の肯定はコロナウィルスなどとは無関係に望まぬ性風俗への就業の肯定に他ならず、その点については今般の発言と全く同一の地平にあるはずだ、批判者の中で何が違うのか?
コロナウィルスの被害で性風俗嬢にならざるを得なくなるというのは身近で感情移入可能だが、それ以前にあった貧困や教育機会の喪失による就業は遠い世界の出来事なので切断しているのではなかろうか。
結局そのような世界観は、インセル的な客の男性のことも、現在風俗業に従事している女性のことも切り捨て、善意の第三者として勝手に他者を哀れんでいるような空理空論に思えてならないのだ。
とは言え、彼のラジオ番組は風俗関係者と客だけが聞くようなものではないので、無関係の第三者が聞けばぎょっとして気分を害すものであったのは間違いないところだろう。
ニッポン放送及び本人が謝罪せざるをえなくなるというのは当然の結果ではあると思う。
だが、彼が謝罪することに依って何が起こるだろうか?
謝罪は当然こういった内容になるだろう。
「先般のわたしの発言は女性への配慮に著しく欠けておりました。コロナウィルス被害に依って女性が性風俗業へ従事せざるをえないというのはあってはならない不幸で、そのような不幸を楽しみにするなど言語道断なことでした、ごめんなさい」
しかし実態はどうだろうか?やはりコロナウィルス被害によってそのような職を求める女性というのは増えるだろう。
その事実に対して、上述の謝罪は性風俗への従事=不幸というスティグマ化を強烈に強める効果しか齎さないのではなかろうか。
それは風俗業というものを更に一段下のレイヤーに落として不可視化し、風俗嬢及び客にさらなる弱者意識を醸成させる結果にしかならない。それは控えめに言って地獄であろう。
だからこの騒動を奇貨とするならば、岡村氏の考えなしの発言を非難すればいいなどという無邪気な考えでは駄目で、そもそも社会として性風俗をどう考えるのかを問い直すべきだと私は思う。
当然だが最近のはてブのホッテントリにあがるのはコロナ関連のニュースばかり
根拠なく自論や自分がシンパになっている人物からの伝え聞いたことで醸成された悲観的なヒステリーか、
又は政府に批判的な指摘に意気揚々と同調し、政府を弁護するような意見は陰謀論的な隠蔽工作だとして全て跳ね除けるようなコメントばかり。
そんなブクマカとそれに群がるスターリストはさながら「八つ墓村」の「祟りじゃ」お婆さんか、「ミスト」の宗教おばさんだ。
こういうことを言うとまた政府を擁護しその杜撰な行いを見逃したいのかと、解像度の低い茶々が入る。
僕は本気で、現状の中で最良の経済補償、医療設備の補充、検査体制の強化、行動自粛による第二波パンデミックの収束を実現したいんだ。
そのためにどういうアプローチをすればいいのか、具体的にどんなことを国に嘆願していけばいいのか、Webコミュニティは集合知を高めていくべきじゃないのか。
これは「市民間の努力が結局大事なんだから、政府に頼るようなことばかり言ってたら駄目だよ」っつうネトウヨ的な論点ずらしではない。
現実問題として金が補償されないなら、なんでもいいからみんなが給付制度を頼って今までの経済をちょっとでも維持しようとしなければならないし、そのための情報は重要で、
結果としてあてになるかわからなくても厚生省が雇用調整助成金の存在を今一度アピールする意義はあった。まじで「給付金貰えないんだ、日本終わってるね、俺まじおわた」で思考止まっちゃってる人も多いんだよ。
政府に適切に動いてもらうのと、僕らが生活守るためにやりくりするのは別問題で、「政府が駄目だから、僕ら何もできません」じゃ駄目だ。足掻いて手に入れられるものかき集めて、それと並行して政府にも目を光らせてなければ駄目なんだ。行動がどっちに偏ったら生き残れない。
ブクマカは政府を叩くだけで、生活に火がついてる奴からすれば立川志らくとか坂上忍とかと変わんない。どうせもう大きく自分の生活が変わることなんてなくて、何かでっかいものを叩いて贅に浸ることしか考えてない。社会がどうなろうと知ったこっちゃなくて、むしろ悪くなってくれる方が高みから憂いの眼差しを差し向けるには都合が良いとすら思ってる。
まだ立川志らくとかの方が語りが洗練されてる分ましだわ。
なんで五輪のしがらみがあったにせよなんで緊急事態宣言をもっとはやく出せなかったのか、医療拡大の準備を水面下でもっと出来なかったのか、収入が減った人たちへもっと手厚い補償を促すために僕ら一市民は政府や自治体に具体的にどうアプローチを仕掛けていけばいいのか
、そういう意見の出し合いや、ブラッシングをしなければならない時に中身のないシュプレヒコールに吹き上がるはてブにはうんざりする。
今日も田舎の畦道の真ん中にたたずむ店舗の掃き出し窓からずっと向こうの田んぼを眺めながらレジ打つよ。
こんな日々もいつか終わると思ってたのにさ、
夢なんて言ってやりたいこと諦める心の整理もまだまだついてないのにさ、
もう不安で頭いっぱいだよ。