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2020-11-23

近所のトイレに住んでいるひと

ぼかして書く。

近所に、車椅子対応のスペースの広い公衆トイレがある。

そこにおばあさんが(たぶん)住んでいる。

白髪で腰が曲がっていて、そういう年齢に見える人なので、おばあさんと書く。

いつも概ね同じ服。いや、服と呼んで良いんだろうか、あれは。

なんて言うか、何々を着ている、と説明できない格好をしている。少なくともコーディネートとかおしゃれとか季節に応じた格好とか、そういうのではない。

上着をいっぱい着ているっぽい。何枚も何枚も。何かの上に何かを重ね着して、一番上になんかこう、白っぽいクリーム色のキルト生地っぽいブルゾンを着ている。「着ぶくれ」と称してもいいのか迷うくらいに着ぶくれている。体型がよくわからいくらいに。

ズボンもたぶん2枚とか履いているように見える。黒か濃い藍色ズボンに、白い靴下?なんていうんだあれは?とにかく布地のものを何枚も重ねている。

頭にもスカーフ…というか布を巻いている。だからたぶんおばあさん。たぶん。

見かける時はだいたいそういう格好をしている。

夏は流石に枚数は少なかったような気がするが、依然として足に何枚も履いていたし上着も長袖を着ていたのでビックリした記憶がある。

そういうおばあさんが、その公衆トイレのところにいて、公衆トイレの近くにはでかい道があって、車も勤め人もいっぱい通る。

それらをおばあさんはよく見ている。

ぼんやり眺めてるというより、敵意なのか何なのか、ちょっと刺々しい感じで睨めつけてるように見える。

それともそれは私が目を合わせないように歩くせいだろうか。

年に2回くらい、通行人とトラブりでもしたのか、怒鳴っているらしいところを通り過ぎたことがある。

でもそれ以外は、誰と揉めているわけでもない。

そういうおばあさんが、最寄駅の近くにいる。

おそらく家はなく、公衆トイレに住んでいる。公衆トイレ周辺であまりにも見かけまくるのと、実際にその公衆トイレから出てくるところを見たりなどしたので、私の中ではトイレに住んでいる人という印象になっている。

この間、渋谷路上生活者女性が殴り殺されたとかい理不尽まりない怖い事件の話を聞いてから、おばあさんのことが妙に頭に引っかかる。

私はおばあさんをどうしたいわけでもない。例えば支援組織につなぐとか役所に言うとか、そういうことも考えるのだが、ああいうのって本人にその意思がないと結局どうにもできないモンだというのは知っている。そして「本人」にそんな話を持ちかけたいとは思っていない。

何というか、あの季節感希薄な着膨れ方が、認知症とかそういうものがある人のように思えるのだ。

あの着膨れ方と、刺々しい眼差しが。

「お前ら全員ろくなことしてこない敵なんだろう」「敵だ」「敵地の真ん中で財産生命線を持てる全ての服をその辺に置いておけるか、常に身につけないと油断ならん」「どうせ不快なことを言ってくるんだろう、話なんぞしたくない」

と、そう言ってるような気がしてならなくて、とても一人では話しかけたりできない。

敵意がある人間と接するほどしんどいことはちょっとない。そして、その敵意をほどくために信頼関係を築いて長い目で見ながら支援して、みたいなことをやる余裕は私にはない。

大体、悪臭がするとかでもないんだし、トイレに住んでると決まったわけでもないんだから相手は言わば自由意志でその辺を出歩いている普通人間なのだ

普通人間に対して私からできることだのやるべきことだの、本来は、無い。

私はただどっかに通報」して私自身の安心を得たいだけだ。道を歩いているだけなのにその都度誰かに敵扱いされるのが嫌なだけ。それが分かってるので何にもできない。

ああ、誰か。

誰かせめて、あそこにそういう人がいるってこと、認識してくれているだろうか?例えば役所とかが。

支援必要そうな人がいて、おそらく支援を拒んでいる可能性もあるが、とにかくそういう人がいるってことを、誰か把握してくれていないだろうか。

殴り殺されるまでもなく、路上生活者結構死んでいる。私はそういうデータを見たことがある。病院入院する路上生活者の再入院率みたいなやつ。そのデータでは、10回とか再入院する人がいないわけじゃないけどかなりのレアキャラで、過半数は初回入院で亡くなるみたいな結果だった。病気になっても軽いうちに医療にかかれないからだと思うが、入院した時点でもうかなり悪くなっていて、そのまま亡くなる。割と若くても。

そんな死に方アリかよ、みたいなキツい症状で死んでしまう。

もちろん、病院管理される生活がイヤで逃げ出す人がいるのも、あまり治療に非協力的すぎて(婉曲表現病院側が出てってくれと言うような人がいるのもわかっている。

あのおばあさんがそういう人でないという保証はない。

でも、最寄駅の近くだからかなり頻繁に見かけてしまうし、見かけるたびにもやもやして仕方ない。そんで自分無責任さに自分で傷つく。

無意味にしんどい。

誰か、知恵があったら貸してください。

無かったら、最近食べた美味しいもののことでも聞かせてください。

anond:20200329175213

私も元増田と同様、レズビアン風俗で初めて性的体験をした。

私の年齢はおそらく元増田より10歳ほど下だが、同じように性的体験をまったくしたことがなく、そのことをコンプレックスに思っていた。

友人同士で話しているときに、他の人が自身性的体験についての話で盛り上がっていると疎外感を感じた。

私は子供の頃から人一倍性的事柄に対する関心が高く、性的事柄に関しては誰にも負けない知識をもっていると自負していた。

しかし友人たちは不完全な知識であっても、それが自分実体験に基づいている。

対して私の知識ほとんどが妄想ネット・本・映像から得たものである

おまけに私はややBDSM的なものが好きで、さらには性的指向が女性特に年上の女性)に向いているので、私が好んで見る性的創作物ほとんどが「きれいなお姉さんが虐げられる」という類のものであった。

・・・。とても他人には言えない。

そのため性的経験がないことと「きれいな女性が虐げられる」創作物を見ることが好きであることに1人悶々と悩んでいた。

一時期はレズビアンコミュニティに入って交際相手を見つけようかと思っていたこともあるのだが、田舎に住んでいるためそのようなコミュニティが近所になかった。おまけに他人自分性的指向について知られるということがとても怖かった。

また、先ほど性的指向が女性に向いていると書いたが、男性に対して恋愛感情がわかないということはなく、これまで何人か好きになった男性はいた。

まり、私は完全に女性のことしか好きにならないというわけではないのである。そして、そういった自分性的指向はレズビアンコミュニティではあまり歓迎されないのではないかという不安があった。あくまでこれは私自身の思い込みであり、事実とは異なると思う。

よって、レズビアンの人と出会って性的体験をする手段が私にはレズビアン風俗しかない!と思い、レズビアン風俗の予約をとった。

私の好きな「きれいな年上のお姉さん」と思われるキャストの方を指名した。BDSM系のオプションについては生身の人間苦痛を与えることがどうにも憚られたので付けなかった。金欠だったということもある。

ここからは実際にレズビアン風俗に行ってみての感想である

実際にそのキャストの方は本当にきれいな年上のお姉さんだった。プレイ内容についても大変満足であった。やはりプロである

1回性的体験したことによって、性的体験したことがないというコンプレックスは解消された。

勿論この体験も「きれいなお姉さんが虐げられる」映像が好きであることと同様に他人にひけらかすことができるものではない。

それでもいいのだ。自分にとって大切なものは心の中にしまっておけばいい。そう思うことができるようになった。

しかし、私はどうにも「きれいな年上のお姉さん」ともう1度性的なことをしたいという気持ちにはなれなかった。

私にとって「きれいな年上のお姉さん」は、役所の受付で二言三言言葉を交わしたり、ちらっとすれ違ったり、(こういった眼差し不快に思う人もいるだろう)、創作物などの映像画像の中で見て1人で勝手に興奮したりするものであって、ともに人生を過ごす存在ではないのではないかということに気づいた。

また、初めて生身のレズビアンの方に出会って女性に対して性的な関心を抱く自分肯定してもらえたことで、女性女性に対して性的な関心を抱いていもいいという当たり前のことに気づき自分性的指向について悩むことがなくなった。女性女性に対して性的な関心を抱くことは何も私だけの特別なことではないのである

余談ではあるが、レズビアン風俗に行った後しばらくして友人の男性と付き合うことになった。本格的なお付き合いはこれが初めてである

女性のことが好きだから男性のことは好きになってはいけない」といった思い込みが解消されたことも、初めて他の人と付き合うことができた一因であろう。

まとめると、私にとって「きれいなお姉さん」が好きな自分、つまり性的事柄が好きな自分との距離の保ち方を学んだということがレズビアン風俗に行った1番の成果であった。

元増田とは随分と違うレズビアン風俗体験レポになってしまったが、何かの参考になればと思い記しておく。

自分性的嗜好について赤裸々に書いてしまったため、不快気持ちになった方がいたら申し訳ない。

2020-11-19

anond:20201118185733

性的眼差してる作品を作った者から血液タンクとして搾り取るべき。

女性を性消費したんだから、代償として血液女性のために消費してもらう。

合衆国大統領選挙不正への眼差しと態度について

 以下の記事のごときものは、自分管理するブログを持っているから、そこで書いて発表すれば良いのだろう。だが、私のブログは人の訪れるものでない。そこでよりは人の目に触れて、多くの人に読んでもらえもするかと想像して、ここに投稿する。

 大統領選投票日以降、いわゆる確実な証拠を挙げよとの要請を口にして、あちこちから報告される選挙での不正に関心を向けることを否定し、さら不正に目を向けながら、大統領選帰趨について論評することを控えるべきであるとする人たちがいる。

 この眼差しの持ち方と態度を守る人たちの中で、次のような人たちのことは、私は特に気にしない。例えば、バイデン民主党候補応援している者、トランプ大統領の退場を望んでいる者。これらの者たちがそうあるのは当然のことであろうから

 私が気になるのは、トランプ応援しているし、トランプ大統領の2期目に期待していると口にして、しか不正への関心を抑制し、それから視線を外して、どちらの候補大統領になるか、もはや自分たちの論評すべきものでない、と口にする者たちである

 代表として上念司、奥山真司の二人の名前を挙げておこう。とは言え、この二人に限るわけではない。彼らは、他の者たちよりは多少は筋道立てて、先の眼差しと態度をとる理由説明しているから、私には扱いやすいのである

 ところでお気づきの人もあろう、私は Youtube虎ノ門ニュース、アメ通 Live をこの一年、大変勉強になると感じて視聴してきた。加えて、上念司チャンネル文化人放送局DHC テレビニュース女子なども、興味深いと視聴を続けてきている。ついでに加えれば、SakuraSoTV とか、古是三春篠原常一郎チャンネルさらにはラジオ文化放送局、おはようちゃんなども、同じ関心に叶うところから視聴している。つまり私は、これらが人々に伝えて、解説する時局、情勢の認識批評が、現状の政治社会を、他のところでのものよりよく捉えていると評価しているし、自分理解を形作る参考にしているのである

 さてそれで、先の二人が自らの態度について言うところは、いくつかの論点から成り立っている。ここで彼らの議論論点全てを取り上げはしないし、そのまま辿ることもしない。同意できるところをあらかじめ挙げておけば、未確定情報に振り回されないようにすべき、選挙不正の論評にいたずらに促されて米国への評価自体を損なってはならない、などの主張を、私もしかるべきものとひとまずは同意しよう。

 だが、総評的にか、つけたりなのか、まるで根本的な姿勢の取り方の如きに、私たち米国大統領選挙権があるわけではない、他国指導者選択であって自分たちの指導者を選ぶわけではない、かように申し立てるところは、さしあたって尤もなことと感じながらも、何かうまくいなされた気分を覚えてしまう。

 さらにまた、不正については、裁判で決することができるのだから、その判断を待つべである不正は訴えることができるのである裁判を起こす権利が彼らにはあるのである三権分立が云々と教え諭されるところになると、いやどうも不正目眩して冷静さを見失っていましたと反省させられる。

 がしかし、先のいなされた気分の中で、この反省を自らに強いてみると、何かおかしものしかもどこか剣呑さを持ったものが潜んでいる不安に、私は囚われるのである

 それが何かと自らに問うてみるに、例えばこんな風に先の主張を言い直してみよう、すなわち、他国重要政治選択は、他国民の決めることであって、こちらが論うことではない、他国政治不正については、他国政治制度か、なんらかの強固な社会規範解決するのを、こちらはただその行く末を見ているべきである、まずはこのように言い換えてみよう。

 そして、他所の国や社会存在していると知らされたり、生じつつあると報じられたり、行われる可能性があると訴えられる不正について、私たちは須く他国政治解決に待つべきなのである他国政治社会能力に期待すべきなのである、このように答えて恬然自若としているべきなのであろうか、このように問うてみよう。

 この記事主題であり、私が気にかかるところの、大統領選挙での不正に対する眼差しと態度に沿うならば、この問いに対しては、然りそうあるべきである、と肯定的に答えることになろう。

 ここに私の不安は、むくむくと大きな黒い影となって、私の胸を塞いでくる。

 なんとなれば、それならば中国でのウイグル人の例の話題や、香港のことも、同じような態度をとって、それらは中国政治選択政治能力処置すべきことであって、不正だの不正義だのと感情を昂らせるようなことではない、中国政治解決に期待して、その帰趨を見ているべきなのである、このような主張も肯定してしまうことになるからである

 中国共産党独裁で、人権もないが、アメリカ民主主義国で、権利と法とがあり爾斯く斯くと言っても、なんの反論にもならない。何故なら、不正からは目を逸らして、ことの成り行きを待とうと説く者たちは、その態度から当然引出される主張として、バイデン大統領就任することになったならば、そうなった米国を見据えて、どう米国と接していくか、どんな外交技術でもって日本国益を実現させていくか、このことに注視せばならないとも力説しているのである

 ここで再び指摘しよう、それならば中国の例の件についてもまた、中国でどんな推移を経ていくのか、それを見定めて、その上で、どう中国と接するか、どんな外交でもって日本国益を実現させていくか、その工夫に腐心すれば良い、かように唱えるのが主張するところに忠実な態度であると言わねばならないかである

 我々は米国民ではない、だから米国大統領選について、なんら口を開くことはできない、物を言ったとしても、なんの意味もない、かように言うならば、これと同じくまた、我々は中国人民ではない、中国人民の状況について、なんらの口を開くべきでもなく、他所の国の我々が何かを指摘したとしても、なんの意味もない、このように言うべきことになるからである

 名前を挙げた二人についてみれば、上念司不正に対する感情を、自らにおいても他者においても、抑制せねばならないと留意するところから、先の態度を唱えているように見受けられる。その抑制理由も、私かに慮れば、納得できないものでもなく思える。しかしながら、政治への冷静さを得るための距離を取らんとして、政治的無関心・アパシーへと導く主張に近づいているように、私は思うのである。そして私がこれについて恐れるのは、政治不正への無関心を理屈だてる主張の、その一歩先に、人々の無関心によって批判されることなく、剥き出しの欲望自由になっている、そんな地平が広がっていると考えているかである

 他方奥山真司については、私の貧しい知識ながら理解する地政学よりして、選挙での不正といったものも、人権侵害といったものも、そうした政治価値に反することや、あるいは何かしらの理念に悖ることなどは、さしあたって考察の中になく、いやおそらく関心を向けるところですらなく、そんなことはどうであっても、つまり習近平中国共産党独裁国家らしいあり方をし続けていくのに対して、またバイデン米国民主党主導で営まれていくのに対して、日本国が自ら所持し、かつ国際的に構築できる政治的な力・リアルなパワーを行使して、日本国益を実現していく道筋を見つけることが、彼の主たる関心であり、もしかしたらそれが全てではないかと思える。

 いつ頃までのことであったろうか、昔は、ジャーナリズムというものが言われていて、それを実践するに努めたテレビ新聞報道では、何かしら政治不正が行われている国が、ことの重要性に応じて、熱心に取材され、分析され、そして批評されて、テレビ番組や新聞記事となっていたものである

 一つの話題が集中的に報じられるときには、国際世論喚起という風に目的づけか性格けがなされたもので、問題ある国に対して、国際社会には厳しい批判非難が湧き起こっているぞと感じさせて牽制を与えることで、その国の不正が深刻なものとならないように働きかけるのだ、そんな意義づけもなされていたと覚えている。

 今から思えば、そうした国際報道も国際規模でメディアを利用しての政治工作、そんなものと感じないでもないが、たとえそうであれ、米国の今回の大統領選挙では、こんな不正、こんな暴力、こんな悪事が行われているのだと、盛んに話題にするならば、外国でそんな風に言われてしまっていることが、よしやごくわずかなものとしても、それなりの牽制になるだろうと、やはり私は思うのである

2020-11-13

23歳だった私から見知らぬサラリーマンの方へ

10年前の夏の夜、東京のどこかの雑居ビルエレベーターのなかで、ボタン操作をしていた30歳くらいのサラリーマンの方へ。

同じエレベーターのなかで、迫りくる大口取引先の40代男性から、もはや泣きそうになりながら、引きつった笑顔で逃れていた私です。

あの時あなたは、なんとなくを装って、酔ったセクハラ取引先のおじさんと私の間に背中を割り込ませてくれましたね。

貴方セクハラおじさんを軽蔑眼差し一瞥したあと、私に助け舟を出しくださったこと、私は気付きました。あなたの行動と正義感、助け舟に今も深く感謝しております。その節は本当に本当にありがとうございました

私は23歳の新社会人で、本配属されたばかりで、あの日人生で初めての接待でした。

私達は直前まで、接待二次会として、上階のカラオケ屋にいました。上司取引先のおじさんと私の三人だけの宴席で、私はそこからすでにセクハラを受けており、肩を撫でさすられたり、肘で胸の横をつついたりされていました。

「失礼のないようにね!」と送り出されたその場所で、大口大手取引先の担当者ということもあり、私はどんなことがあってもニコニコしないといけないと思い込んでいました。

同席していた上司課長は盛り上げに徹しており、助けてくれず、取引先おじさんのセクハラはどんどん熱が篭っていくようで私はもう泣きそうに引いており、しかし何と言って良いのかも分からず「いやいやそんな笑」「えぇ〜笑」などと冗談まじりに口に出してみて、接待の対面を保ちながら、なんとか抵抗しようとするのが精一杯でした。けれど40代おじさん取引先は上機嫌になるばかりで、ついには握られた手の甲を舐められるほど、私は舐められておりました。

男性が怖い、大人が怖い、社会が、仕事が怖い…おじさんがキモい上司もだれも助けてくれない…

そんな絶望感でいっぱいになりながら、雑居ビルにあるカラオケ屋をでたエレベーターの中、酔っ払いセクハラおじさんは私の髪の匂いを嗅ごうとこちらに体を傾けてきました。


エレベーターのなかは、私とセクハラおじさんと助けてくれない上司と、あなたでしたね。

私は見知らぬ他人の前でもこんな風にセクハラされるのかと、恥ずかしさと惨めさと絶望感でいっぱいだったそのとき

助けてくれて、本当にありがとうございました

あのエレベーターから降りてなんとか接待から脱兎し、帰路につき最寄駅についたときには、駅前のベンチに座り込みボロボロと泣くくらいショックな出来事でした(なお同時にセクハラ担当者からは「付き合ってほしい」とメールが入ってきていました)

男性嫌悪する対象になりそうでしたが、セクハラ野郎軽蔑眼差し一瞥し、助け舟をだしてくれたのもまた見知らぬ男性だったことも、ずっと覚えていようと思い、思い直しました。

あなたにとっては大したことではなかったし、気持ちいからなんとなくとった行動だったかもしれませんが、あの時、絶望感でいっぱいだったとき、本当に救われた気持ちになったのです。

最近とある動画をみて、改めて感謝気持ちを覚えたけれど、お礼を伝える術がないのでここに書き記します。あの時の親切、一生覚えていると思います本当にありがとうございました

2020-11-10

anond:20201110170416

もう平行線からこれくらいは認めてくれ、右のポピュリズムにはやたら寛容なのに、左のポピュリズムにはヒステリックなほど嫌悪感を示してる。

これはリベラルトランプに向けている眼差しと同じ。

2020-11-07

anond:20201107184851

増田人間に向ける眼差しが優しいね

ワイは興味ないのは微塵も興味ないぞ

おそらく400時間は一緒に過ごし旅行にも行った相手の顔も名前も思い出せないが

 

もっというと父親の顔がろくに思い出せない

anond:20201107133530

末尾に描いた 快楽ヒストリエ火鳥氏が描く、東方キャラメイドさん下着ムシャムシャ食べるよ

もちろん下着ムシャムシャ食べるようなキャラ東方に出て来ないよ。オリジナル設定だよ

 

けど 火鳥氏は、東方Project公式マガジン東方外來韋編」に連載してたよ

 

そういう眼差しが謎ルール腐女子にも欲しい

 

みんな違って良いのだ

腐女子(BL愛好家・性別女) のイメージは割と悪い

ヨガと同じく人口が多いからいろんな人がいて然るべきなんだけど

メンヘラばっかり目に入って良いイメージ無いんだよな

 

  

腐女子(BL愛好家・性別女)イメージを悪くしている原因ランキング

 

第5位:SPA!とかが喜びそうな男が好き過ぎるメンヘラ存在

 

 

 

 

 

第4位:BLポルノ原作改変に感覚麻痺していつでも垂れ流す腐女子存在(非格闘派)

  • 悪気は無いのだろうけどね。

 

 

 

 

第3位:ミサンドリストホモフォビアミソジニスト女性の権利についてネットで語りたい既婚腐女子婚活腐女子存在

 

 

 

  • いわく、女は弱く様々な手段で男に縋って生きるほかないとのこと。

 

 

 

 

第2位: BLポルノ原作改変に感覚麻痺していつでも垂れ流し+萌えエロ積極的に食って掛かる腐女子存在(格闘派)

  • 説明は要らないよね?

 

 

 

 

 

第1位: 謎ルールを内外に振りかざす腐女子存在

 

 

2020-11-05

主体じゃなくて、客体として描かれている」絵が多いよな。 ←これ

https://b.hatena.ne.jp/entry/4693752107293734658/comment/doas1999

言わんとしていることはわかるんだが、素朴な感覚としては絵に描かれたものって客体にしかなりようがなくない?

少なくとも視覚模倣画像として出力するタイプの絵において、主体ってのはその画像を見ている人のことであって、絵の中には存在することができないはずじゃん。

(だからこそどんなに女が女のためにつくった画像だとしても絶対に男の性的眼差しを完全に排除することはできないわけで)

私は美術に詳しくないので、以下のような疑問をもつわけ。

1. 美術において、描かれるものは客体であり、主体はその画像を捉えている人であるという認識はあっているか?(以下の前提の確認)

2. 主体を画面の中に存在させると言う試みはこれまであったか? あるならば、それはどのようなものであるか?

3. それは「主体」を描くことに成功しているか成功しているならば、どうしてそう言えるのか? 成功していないならば、絵で「主体を描く」試みが成功する可能性はあるのか?

3. なぜ絵を描く人は主体を描こうと試みるのか? あるいは、絵を見る人はなぜ描かれたもの主体であるということを読み取る必要があるのか?

4. これまでの疑問はすべて主体と客体を排反のものとして扱っているが、そこに問題を見出す議論はありうるか

5. 絵を見た人が「主体として描かれている」と感じているとき、実際にその感想が指している内容は何であると言えるか?

どうなんですかね?

詳しい人でも詳しくない人でも教えてください。

2020-11-04

もう自覚的無自覚かにかかわらず、性的眼差し露骨に含んだ作品は「触れないほうがいい」ものになってしまったんだなあ

今回の件をきっかけに企業文脈外での「性的露骨な要素を含む表現」には相当センシティブになるだろうし、世間オタククリエイターにも過度な自重傾向が現れてくると思う

遅かれ早かれそういう時代が来る、来てしまったということだよ

オタク絵柄ってもうかなり若い女絵師の中では市民権を得てて、男の性的眼差しっていうことと無関係表現されてる場合が多くてびっくりするっていうのがここ10年くらいの状況だったと思うんだけど、多くのオタクカルチャーに疎い女性価値観アップデートができてなくて、オタク絵をまだ男だけのものだと思ってたってことなんかな

anond:20201104101226

性欲とはしょせんどうしようもないものであるが、それを無邪気にPRすることはとても無粋で思慮が浅い行為だとは思う。

が、眼差しをなくせというのは、もう男を生んだら〆て男を絶滅させるぐらいの意気込みでないと無理。

男がいなくなって、人類絶滅するまでの半世紀ぐらいは女だけの平穏が訪れると思うので、そういう終わりもまた良いかと思う。

anond:20201104092518

この感覚適用するとレズ公言しとる人が有名企業商品広告にでたら不快でアウトってことになるんかな

それともレズビアンには男やホモみたいな汚い性的眼差しはないからそれとこれとは話が違うってことになるんかな

かにその創作が気に食わなかったのは認めるけど

その絵師を「キモいから」と凍結させたり、復活後も絵師漫画描くとそれを茶化すクソコラ作って本人にリプライで送りつけたりするのは

流石に頭がおかしいとしか思えない

モナアイスをまともに食えなくて出勤前に変な習慣あるだけのバカップル漫画描いただけなのに、なんかひどくないか

風刺や透かしのトリックアート描いてる某アボカドも同じ、創作が気に食わないということでファンまで罵倒し、垢凍結を何回もさせてる

これやってるのが女嫌いのミソジニーか、先鋭すぎる狂気フェミか、人の創作を壊すのが大好きななんJとか、烏合の衆ツイッタラーかは知らんけど

フェミの人が言う「性的搾取」や「眼差してる」やつじゃなくても、ミソジってる人が言う「棲み分け出来てない腐女子」「白ハゲお気持ち」「嘘松嘘柱」でなくとも、ただ気に食わない創作だったというだけで迫害される

息苦しいし、ヲタ萌え絵なんかよりこの流れが一番気持ち悪いわ

2020-11-03

女向けの商品は全部エロい

グルシャン勢とかいるんだからジャップオスの性的眼差しから逃れられると思うなよ

女性性的まなざしはいけない、了解!!

タイツメーカータイツフェチの半エロ絵をPRとしてリツイートするのはまあ意味不明だしバカだな〜と思うわけですが、それはそれとして

ただ防寒のためにタイツを履いただけで性的に眼差されるという、女性日常的に体験する地獄

みたいな話も出てきており、いち男性としてはちょっとツラい感じもある

しかし、いやいや普通に生きてるだけなのにキモいから性的目線を向けられるほうがツラいっすよと言われたら反論できない(好きじゃない人から好意・性欲を向けられる気持ち悪さってあるよね、俺もうっかりハッテン場のサウナに行ったことがありヒジョー不快だった)

やっぱもう男が気合精神的に去勢するしかないってことなのか 

セクハラ発言をするとか盗撮するとかそういう言動じゃなくて「眼差す」時点でアウツ!って話っぽいじゃないですか

俺はできるだけ言動には気をつけてるつもりだけど、しか電車でいい感じにタイツ履いた女性おったらちょっと見てしまう 性的眼差してるのでアウトっぽい

正直やりたくてやってるわけじゃないんだよな

俺は子供まったく欲しくないし、性欲なんて基本的にジャマなだけだ、マジで

シコるために無駄にした時間は1000時間じゃ効かないし、仲良くない女性と話すとき無駄に緊張するのは性欲由来っぽい マジでウンコ

性欲自体存在するにせよ「目玉の模様が描かれた赤色の円柱にしか興奮できない」みたいな性的嗜好になったほうがよほど楽だと思う 性犯罪に走る可能性が激減するしな

しかし、男に生まれ普通に生きて、性欲にはどちらかというと苦慮していても嫌悪感を向けられるっていうのはちょっとキツイものがあります

外科手術しないで性欲を完全に消す方法ってなんかないのかな それともドラゴンで抜きまくってケモナーになればいいのか?

2020-10-20

anond:20201019021425

子供受けと両輪で大人にも刺さってる。何故かというと「鬼にも鬼になるべくしてなった経緯があって好きで悪をやってるわけではないんだ」という炭治郎の眼差しが、同調圧力社会を生きる大人にも受けてる、とのこと。

2020-10-05

子供囲碁教室のお手伝いをしてきた日記

 今時、保護者会のある習い事って珍しいんじゃないかと思う。しか文化系でっていう最近じゃあ野球サッカーのチームでさえ、子供じゃなくて親のいざこざでチームが瓦解するので親はかませないという所ばかりなんだけどなぁ。でも、囲碁教室保護者会は人数が少ないせいか、前からいる人達人徳なのか、そんなには居心地悪いとかはないので助かる。一時期、お当番に参加するのがいつもの少数しかいないってキレてた人もいたけど。

 保護者会で何をするのかというと、一番大きな役割は、教室のお手伝いだ。具体的には、宿題の丸つけと、対局の勝敗記録をする。

 丸つけは解答を見てやればいいし、別に子供達に教えなければいけない訳じゃないから難しくはない。ただ、人数分をなるべく対局が始まる前に終わらしておかないと忙しくなっちゃうのが大変っちゃ大変かもしれない。

 対局の記録は、不慣れだと大変だった。まず、誰と誰が対局するかマッチングしなきゃならないのだが、先週の手合いであまり対局してない子同士を優先するとか、棋力の差が大きくない相手と組ませるとか、そういう気配りをしなきゃならない。子供達が組み合わせについて意見を一度に言って来るしワガママも言うので、汲むべき意見・なだめるべきワガママなどに対応するのが難しい。

 マッチングが終わり、いざ対局なのだが、先生が忙しくて目が行き届かないときは、一々何目のコミ出しなのか、ハンディ表を見て子供達に指示しなきゃいけないこともあるようだ。

 子供達は速打な子もやたら長考な子もいて、対局を終えると次々にこちらにやって来て、結果を報告していく。せっかちな子は、こちらが他の子達の記録をしている最中にも結果を言い放ってどっか行っちゃうので、引き止めて順番に結果を言い、ちゃんと記録表に間違いなく記録されたことを確認してから行くようにさせる。こんな何人もの子供達を相手にすることなんか日常にないので、苦戦してしまった。

 でもって、総当たり戦用のあの対戦表!表の左端と上端にメンバー名前がずらっと書かれていて、左上端から右下端に向かって斜線が引いてあるあれね!書き込みづらいんだなぁ。書き込み間違うと子供達、がっかりしてしまうので、何度も見直した。子供達の立合いの場で書き込んでるのに見直してみたら間違えてたりして震える。

 不慣れな私があたふたとマッチングや記録を取っているとき子供達はもう容赦ないので、

「これちゃんとどういうことか分かってますか!!」

 とツッコミを入れてくる。私は、

すみませんぶっちゃけよく分かってないので、教えてください、すみません

 平身低頭、頭を下げて子供達に教えを乞うしかない。なんていうか、久しぶりに無力感を味わったよね……。子供達の方が、よっぽどしっかりしてる。

 普段囲碁教室には我が子を送迎するだけで子供達と関わることがほとんどなかったから、誰が誰だかわからなくて、対局結果を報告する子供達の名前を一々聞く。もう歳だもんで、すぐに人の顔を覚えられないのもあり……。すると、特に同性のきょうだいのいる子なんかあからさまにがっかりするよね。「この人私ときょうだいの区別ついてない」みたいな。すいません!めっちゃその通りです!!どっちがどっち!?……と、開き直る訳にもいかないので、間違って記録しないように、もう一度お名前教えてくれる?って聞いた。子供達の軽蔑眼差しが痛い!ちょう痛い!!

 どうやら、お当番に参加出来る保護者はまたごく少人数に限られているようなので、月1くらいのペースで当番が回ってくるようだ。来月もまた頑張ろう。

2020-09-12

anond:20200912115221

自分たち就職相談的な話題の時には大手に入りたがったり、転職ステップアップして大手に入ろうとする事はむしろ羨望の眼差しなのに、こういう時に「大手だけで優遇庶民には…」とかすぐに言うのな。本当に弱者しぐさくだらねえ。大阪なおみなんて大金持ちのセレブなのに「踏みつけられた側の気持ちが…」とか言うのと一緒で、そういうポーズだけなんだよ。お前ら大手企業に勤めてたりしたら、許さねえからな。

2020-09-10

両親の話

しょうもない話です。長いかもしれない。

 

 

私は両親が死ぬ日を待っている。

 

 

母は若くして私を産んだ。

そして弟、妹と次々産み、三人きょうだいをほぼワンオペで育ててくれた。

専業主婦だった。

父も若く、五人家族一馬力で回していたので経済面はいつもカツカツだったときいている。

(幼い頃、母が「お金がないお金がない」といつもイライラしていた。)

 

父はギャンブル浮気こそしないものの、酒タバコを嗜みとにかくお金ルーズな人だった。

そして短気で、暴力的で、一度怒り始めると手がつけられない大男だった。

そのくせ怒りが鎮まると「俺は家族を愛している」というのだ。

 

そんな男と結婚した母は管理的で、人を貶すことに長けていた。

よく「褒めると調子のるから褒めないよ」と言われていた。かけっこで一等賞になった日も、めいっぱいおしゃれした日も、受験合格した日も母が私を認めることはなかった。

ヒステリックで、他人悪口を好み、周囲を見下して生きていた。

 

そして毎日毎日悲劇のヒロインのように「ママはかわいそうなの」と口癖のように言っていた。

些細なことで父に怒鳴られ、殴り蹴られる子供たちに対して「助けてあげたいけど、そしたらママがやられるから。」と悪びれもせずいた。

頭を下げれば受け入れてくれる実家もあった。

必死に働けば出来ないことはなかった。

しかし母が私達を暴力から救いだしてくれることはなかった。

お金がない・パパが嫌いだ・私はかわいそうだと毎日言いながら、抜け出そうとはしなかった。

 

子供達は成長するにつれそんな家のおかしさに気づき距離をおこうとした。

私は高校生になりアルバイトをはじめて自然と帰る時間は遅くなり、家に寄り付かなくなった。

すると厳しい門限を設け、バイト時間制限されるようになった。破れば父は私を殴り、母は私の荷物ゴミ袋に詰めて外に出した。

 

大学生になってからほとんど家に帰らなくなった。奨学金を借りて看護大学に通いながらアルバイトをして、交際相手の家に帰った。

こんなに人生楽しいのかと胸がいっぱいになった。

たまに顔を合わせると母は「お前は逃げる男がいていいよな」と吐き捨てた。

 

 

大学卒業して就職一人暮らしをはじめた。

交際相手との結婚同棲は許されず、勝手を働けば勘当すると強く言われ、父が怖くて逆らうことは出来なかった。

情けない人間だったと思う。

 

ただ働きはじめてからの両親は優しいことしかなくなった。今までの感情の起伏の激しさが嘘のように、引越しを手伝い差し入れをしてくれ、しばらくたつと今までの反対からは考えられないくらいあっさりと結婚も許された。

物理的に距離を置くことはやはり正解だったのだと思う。

 

職場では辛いこともあったが配偶者に恵まれ、何より両親と離れられたことで何物にも変えがたい幸福感を得られた。

ここにいれば怒鳴り声に怯えることも、暴力で苦しむことも、朝無意識に泣きながら目が覚めることもないのだ。

 

結婚して数年経ち、子宝に恵まれた。

私の家族にとっては初孫だったので、両親はとてもとても喜んでくれた。

絶交すれば良いのに、私は両親を完全に拒絶することはできなかった。

恐怖感もあったし、「お前らから離れた私はこんなに幸せになった。何もかも手にいれたんだ。」とわからせてやりたかった。

どうにかして母に私を認めさせたかったのだと思う。

 

腹の底にドロドロした気持ちを抱えながら、一見穏やかな親子になった私たち

父は老いた。孫をみる優しい眼差しに胸がキュッとなった。そんな風に私のことも愛してくれた日があった気がする。

 

母は私に「あんなに殴られて泣き叫んでたのに、普通に話せてるしトラウマになったりしてないんだねー」と笑って言った。

心の中ではきっと私に申し訳ないと、絶対許されないほど恨まれているのではないかと、ちゃんとわかってくれていると思っていたので、これは心にズシンときた。

両親は何も思っていないのだろう。

 

「その方がうまくいくから、そういうふうにしているんだよ」とだけ伝えた。

結局私も若き母と同じなのかもしれない。

  

  

この薄暗い気持ちは両親が死んだら消えると信じている。

2020-09-06

中王区褒めそやして「ヒプマイの世界でも男はクソ!中王区かっこいい!」と豪語する腐ェミが大量発生しててきもいな〜

そういうお前らは男キャラ性的眼差し勝手同性愛化したあげくレイプだの未成年との性行為だの青姦だのやりたい放題じゃんwwww

世の中の無理解に苦しむ同性愛者や男性レイプ被害者、街の清掃員の方々に申し訳ないとは思わないのかな??

2020-08-31

anond:20200831141058

性的眼差し関係ない」ことの定義は難しいと思うけど、「性産業関係ない」ことの定義普通に可能だと思う。(私の手によって可能だという話ではなく、法制度的に十分に共有されている「性産業」の定義があるはずなので、専門家なら可能だろうという話。)

まあ、後者だとして、悪い人というのは法の抜け穴を探すだけだからなぁ、という問題提起はわかる。現状、ポルノまがいのイメージビデオみたいなもの普通に野放しなわけで。

まり後者論点そもそも本質ではなく、前者のような論点について語るべきだという話なのでは。

2020-08-15

夏の懺悔

終戦の日は、Y君の命日です。

高校時代同級生Y君とは、それほど親しくありませんでした。同級生とは言っても、三年間で同じクラスだったのは一年生の時だけでした。その後は、時折廊下などで会った時に軽く話をし、稀にメールをする程度の仲でした。

Y君は、予備校の友人と二人で海水浴場に行って事故に遭ったそうです。酷く天気の悪い日で、彼らの他に誰も泳いでいなかったと伝え聴いています。それ以上Y君の死の理由は誰も話しません。みな察しがついているからです。

しかし、僕は彼の死の理由と向き合う必要があります。悼むだけでは足りないほどの仕打ちを、僕は彼にしてきました。

Y君と最初に話したのは、高校入学初日です。僕らの高校は、マンモス私立高校で、大概は公立高校受験に失敗した人間が行く学校でした。お世辞にも賢い学校とは言えません。それでも、それなりの生徒を集めて、特進クラスが二クラス編成されます。僕らのクラスはその一つでした。

入学からしばらくは、みな口々にどこの高校に落ちてこの学校に来たのかを話していました。例によってY君も学区一番の難関公立高校に落ちたそうです。最も、僕らの高校の進学クラスの大半は、その高校か、県下トップ公立高校を落ちてきた人間でした。

はじめは出席番号の近い者同士で輪になるものです。彼と僕の出席番号は二番違いでした。ゴールデンウィークに入る頃には友情の再編成が済み、僕らは別々の交友グループに加わって行きました。

から見ていて、グループの中のY君の地位は極めて低かったと記憶しています。彼らのグループはみなテニス部でした。Y君はいつもいじられる役回りを演じていました。自分から話を切り出しても「調子乗るなよ」という言葉を掛けられている様子をよく見かけました。

入学式が終わってすぐに、実力試験を受けさせられます。Y君の試験結果がどうであったか僕は知りません。少なくとも、僕より上ではなかったことは確かです。学年トップ十人は公表され、僕は四位でした。

第一志望でこの高校に進んだ僕は、周囲から奇異の目で見られていました。ただ一人、Y君だけは、周囲と少し違う反応をしていたのでよく覚えています。Y君の同じ中学校で、学区トップ合格間違いなしと言われて落ちた二人を、僕は下しました。そのことをY君は自分のことのように喜んでいました。

「四位なのに、第一志望でこの学校にきたんだね。」

「こういう人も来るくらいの高校なんだから俺も勉強しよう」

その時の僕にはまだ、そんな理由勉強をはじめようと思う理由理解できませんでした。彼にとって高校はどのような意味をもった場なのかと怪訝に思いました。今になって思えば、不本意入学した学校について、明るく思える理由を見つけられた日だったのでしょう。

とは言っても、その後Y君が試験ライバルとなることはありませんでした。二年生からは、進学クラス文系理系とで別れてしまい、一緒になることはありませんでした。英語の授業だけは進学クラスクラス合同で、レベルごとの三グループに別れて開かれていたが、ついに一緒になることはありませんでした。二年間、Y君は成績下位クラスから上がって来ませんでした。

交友グループが完全に別れてからも、僕はたまにY君と話す機会がありました。というのも通学に使う電車の駅が同じだったのです。そうかと言って一緒に通う約束をするような仲でもありませんでした。遭えば多少話をするといった具合でした。Y君はよく話しかけてきましたが、僕から何か話しかけたという記憶はあまりありません。

彼の家はごく近所でしたが彼の家に遊びに行ったことはありません。詳細な場所も知らず、団地の名前で知っているだけでした。僕は中学卒業後にこの街引っ越してきたので、同じ中学校出身というわけでもありません。彼が普段通学路にしていた道が、僕の部屋の窓から見えますしかし、駅との直線距離上に住んでいる人と思っているだけでした。

Y君はテニス部に入部していました。中学から続けていたと聴いていますしかし、同じクラステニス部から伝え聞くかぎり、部の中での実力ははじめから下位だったそうです。Y君は小柄で、先も細く、よく中学生のようだとからかわれていました。

Y君と同じグループテニス部員は、高校二年にあがるまでに部活を辞めてしまいました。部員の層は厚くないものの、後輩にも実力で追い抜かれ、Y君は引退まで団体戦メンバーに入ることはなかったそうです。

とき一年生の頃にY君と同じ班だったM君は強豪のサッカー部員でした。髪を染めピアスをしていたM君は、Y君に対していつも高圧的な態度をとり、掃除当番を押し付けて、誰よりも早く部活練習に行き、後にレギュラーの座を得ていました。少なくともY君はそのような気概を持ち合わせてはいないように見えました。

僕らの通った高校には、進学クラスを中心とした三泊四日の受験勉強合宿がありました。合宿中は山のように課題を出されました。ホテルに着いて早々、会議室に籠ってひたすらに特別授業を聴かされました。それが終われば翌日までに解いてこいとプリントを大量に渡されました。まともに取り組んで解き切れる量ではなく、教師もその事を知った上で出していた節がありました。それでも僕らは、教師の鼻を明かしてやろうと思って夜を徹して問題を解いていました。

Y君は、ちょっと問題を解いては周りに話しかけていました。「どこまで進んだ?」「この問題どう解くの?」と。そして周囲が邪魔そうな顔をすると自虐的に謝った後、「よし、俺も集中する」と宣言して問題に取り組み、三十分と保たずに振り出しに戻るのでした。

高校二年の頃、しばしば僕はY君のクラスでごく親しい友人と受験勉強ノウハウや、進行状況について情報交換をしていました。そこに、部活休みになってY君が加わったことが何度かあります

Y君が、自分勉強について詳細を語ったことはありませんでした。自分より成績の良い人間発言には同意をし、自分と「同等程度以下」と思っている人間発言にはあまり信用していないような素振りをしていました。しかし、前者が後者発言賛同すると、途端に賛同し出す、風見鶏な態度で話に加わっていました。

僕らはみな自分に合わせて勉強スタイルを組み立てていました。Y君には、そのような節はなく、彼の尊敬する誰かの勉強の仕方を真似しているだけでした。正確には、真似している「つもり」なだけでした。

僕がセンター試験模試で九割をマークした時、Y君が英語勉強内容について尋ねてきました。その頃僕は学校で配られた基礎的な問題集で文法問題毎日大量にこなしていました。ケアレスミスを減らしつつ長文問題に十分な時間を確保するためでした。自宅学習英語の長文に充てられるよう、学校での細切れの時間文法勉強していた方が都合よかったのです。

そのような事情は告げず、学校で配られた問題集を解いているとだけ告げると、Y君は基礎的な問題集にずっと取り組んでいました。かなり後になってから知ったことですが、Y君は毎度の模試では長文問題で大量失点を繰り返していました。長文を読む訓練からはじめるべきだったのに、同じ文法問題集に何周も取り組み続けていたのです。その後も彼は模試の度に取り組んでいる問題集を尋ねに来ましたが、僕は同じ問題集だと答え続けていました。

時を同じくして学年上位の人間が「単語力が足りない。」と言ってハイレベル英単語帳に噛りつくと、Y君はそれを無条件に肯定し、同じ単語帳に取り組み出しました。

学年上位の彼女場合、元から基礎的な語彙力・単語力がしっかりあり、それに支えられて文法問題を解きこなし、身に付けた語彙・文法で長文を読み解き、総合的な英語力を身に着けた後に、日々取り組む実践問題の中で単語力の不足を感じていたのでした。Y君は、そのような事情を知る由もありません。

すべての教科の勉強がこのような具合で、Y君の受験勉強は日々、一貫しないものになっていきました。誰かが「基礎をしっかりしないといけない」と言えば同意をし、しばらく基礎的な勉強を繰り返し、また誰かが「基礎ばかりで実践レベル問題が解けない」と言えば、応用問題を解き始めました。Y君は、自分の実力を冷静にみて勉強する習慣がなかったのです。

試験が終わっても模試が終わっても、Y君はいつも「次で挽回する」とだけ言って答案用紙を二つ折りにして閉まってしまい、自分が何を間違えたのか何が不足しているのか反省をしているようには見えませんでした。僕らは答案を見せ合い、点数をひけらかし合い、同時に何を間違えたのかも見られ、ときには馬鹿にされ、それを恥じ、次には同じ過ちをしまいと心に誓ったのです。そして口々、「次の試験では負けない」と言い合うのでした。

Y君は、ただひたすらに成績上位の級友に勉強方法勉強内容を尋ね、それを真似してみるだけでした。あるいは、それで成績の落ちた級友に反省点を尋ねてみるだけでした。自分の頭を使って、自分必要勉強をして成績を上げようという姿勢が見られませんでした。

高校二年の秋頃から、学年トップ十人の常連の内で、制服に細工をするのが流行りました。理科実験から拝借してきた薬品で五円玉や五十円玉を磨き上げ、ブレザーの左胸にある校章の裏に挟むのです。すると鳥をあしらった校章が後光の差したように見えます。上位三人が五円玉を、残り七人が五十円玉をはさみ模試のたびに奪い合うのです。

事情を知らぬ者が見れば、何のこともない遊びです。どんなにかよく言っても「お洒落」程度のことです。何も知らないでY君がそれを真似して校章に五円玉を挟んでいたのを、僕らは影でクスクスと笑いました。自分の手で掴む喜びを知らないで、努力する苦しみを知らないで、努力した者の成果にだけ憧れるY君の態度を、僕らは気づき、そして内心侮蔑眼差しで見ていました。鈍い色の五円玉が、それを象徴しているように思えたのです。

勉強をしたかテストの結果が伴うのだという自信が、僕らの中にありました。また、勉強していないから全国模試で他校の人間に負けるのだと悔しがっていました。進学クラスの同志とともに学内順位一喜一憂するのは全国模試で泣くほど悔しい思いをした腹癒せであり、本懐はみな志望校への合格でした。

正直に言えば、僕は心底彼を見下していました。大した進学校でもない私立高校の成績上位だけを見て、「◯◯君、勉強できるもんね」と言えてしまうY君の姿勢を、僕は内心唾棄すべき存在だと思うようになっていました。

僕は、努力方向性を間違える人間愚か者だと思っていました。そして努力すらしようとしない人間軽蔑していました。他の何もかも投げ打って練習に取り組むわけでもなく実りのない部活動にただ漫然と時間を費やすY君の姿勢は、まさに軽蔑対象でした。「三年の夏に部活引退したら、本格的に受験勉強をする」というY君の弁に至っては、この時点でもう勝負はついていると僕は思いましたが、哀れな奴だと思うことにして黙っていました。

当時進学クラスの上位面々にしても、実際には大した学力は持ち合わせていませんでした。勉強すればするほど募る不安を振り払うべく、ビックマウスで自分鼓舞させ、歯を食いしばって受験勉強に打ち込んでいたのです。

みな手の内を知っているから言い合えた言葉がありました。「普通クラスの連中が努力して行くような大学から日東駒専は滑り止め」「明青立法中はセンター利用入試で一学部学部抑えて、あとは試験慣れ」「本命早慶国公立大学

Y君が目指したのも、早慶文系学部でした。折りに触れ志望学部を聞いた時に「受かったらいいなぁ」という言い方をしていたので、どこまで本気で受験していたのか分かりません。また彼が将来どういう職業に就きたくてその大学を目指したのかも知りません。いずれにしても、当時のY君の実力からすれば、合格絶望的なので記念受験だったと思います

日本で双璧をためす有名私立大学どころか、当時のY君は本気で日東駒専第一志望にして対策を組んで然るべき成績でした。それにも関わらず、十分な対策をしていなかったのでしょう。そのレベル大学を「滑り止め」として受験し、行き場がなく浪人が決まりました。

先にテニス部を辞めたある級友は、有名私立大学合格しました。Y君から学業面で「同等程度以下」と思われていましたが、彼は初めからY君より成績は良く、そして努力甲斐あって志望校合格しました。Y君が、センター利用試験で抑えるつもりだったレベル大学です。

高校卒業式で、Y君は自宅浪人をするつもりだと話していました。図書館勉強している方が集中できるからだと本人は話していました。それを聴いて、受験勉強のやり方を根本から間違えているのだから予備校に通わなければY君は同じ失敗するだろうと、僕は思っていました。

僕も浪人が決まっており、同じ境遇の友人らと、どこの予備校に行くか、予備校が始まるまでどう過ごすか情報交換をしていました。しかし、僕は、彼と同じ予備校に通うのは自分精神衛生に悪いと思い、誘いませんでした。

僕は気心が知れた戦友二人と予備校生活を送りました。定期的に他の予備校に通っている元同級生とも食事に繰り出し、情報交換とリフレッシュをしていました。時には勉強会を開き、時には悪い遊びに繰り出し、予備校生活を満喫しました。僕はY君に対して意図的に声をかけませんでした。

Y君が亡くなった後、彼がどのような浪人生活一年目を送ったのか、聴いて回っても誰も知りませんでした。分かっているのは結果だけです。一年後の再戦にY君は敗れました。彼が受かったのは、日東駒専文系学部一つでした。浪人してそんな大学行けないと、二浪することを決めたそうです。Y君と伴に最後までテニス部にいた普通クラス出身者が、予備校生活の後に地元国立大学教育学部合格したのも少なからず影響があったと思います

Y君の二浪目については、僅かながらに噂が流れていました。僕らが通った予備校とは別の大手予備校に通ったと聴いています。そしてそれはY君の両親の望みだったという話です。しかしそれ以上のことは誰も知りませんでした。

Y君は、限りなく記念受験に近いであろう第一志望の早稲田大学に落ちました。それでも、今度は明青立法レベル大学に手応えを感じていたそうです。高校時代担任教師の元には、今度は大丈夫そうだとメールが来たそうです。滑り止めに受けた日東駒専合格は決まっていました。

しかし受かった手応えを感じていた青山学院大学は、不合格だったそうです。その結果が判明した時、既に日東駒専手続き期日は過ぎていたそうです。二浪して予備校に通い、親に負担を掛けたくない気持ちが働いたのでしょう、Y君は日東駒専入学一時金を払わなかったそうです。

かくしてY君は三浪目が決まりました。その頃のことは、Y君の級友何人かが打ち明けられていました。「一浪二浪までは変換できるけど、三浪って、ケータイ変換できないんだね」Y君からある友人に宛てられた最後メールには、そう書かれていたそうです。

苦しさは後に喜びがあると知っているから耐えられるものです。喜びのために経験する苦しさと、苦しさの後にある喜びとは、価値が全く異なります。失敗の先に成功を掴んだ人間けが成功評価できますしか成功を掴めない人間には、そのような言葉は無力です。苦しさの中でも特に失敗は辛く、とても重ねていられるものではありません。

三浪目の夏、Y君は、予備校の友人と二人で海に行き、事故に遭ったことになっています。酷く天気の悪い日で、盆過ぎの海水浴場には彼らの他に誰もいなかったと伝え聴いています

同行したのが同じ予備校の友人であるのかは分かりません。しかしその新聞を調べてみると、天気予報では、県内は午前曇、午後から雨となっていました。海水浴に出かける天気ではありません。実際の天気を調べてみても、前日から曇り、実際に曇のち雨だったようです。

二人は遊泳禁止柵を超えて、外へ外へと泳いでいったそうです。友人はしばらくして怖くなり引き返し、Y君のことを警察通報したそうです。海上保安庁警察が捜索したものの、Y君が発見されたのはそれから二日後のことでした。

沖に流されて生還した人の体験談を、折りに触れ読んでみました。だんだんと手足の感覚が無くなって行き、全身が重く感じられ、乾きと苦しさと絶望のあまりに、自ら沈もうとしても身体は死を受け入れず、数時間に渡って浮かんでいると言います。その間、Y君は何を思ったのでしょう。

暗く塩辛海の底に引きずり込まれるまでの数時間、海に来たことを後悔するのでしょうか。自らの力の無さを恨むのでしょうか。早くから勉強しなかったことを悔やむのでしょうか。時代を恨むのでしょうか。日本社会を恨むのでしょうか。

人生の遠回りを許さな日本空気に、Y君は命を奪われました、一体誰が仇をとってくれるのでしょうか――僕はそう思うことで、Y君の死は、自分責任ではないと思い込もうとして来ました。そんな綺麗事では済みません。彼を死に追いやったのは僕らです。

彼の学業上の相談に乗らなかったのは、彼が気楽に、好きなことをしていたことに対する妬みです。彼が、僕の思う独善的な「努力」をしないことについて、快く思っていなかったからです。「努力」などと呼んでいいものではありません。自分の味わった苦しみを人も味わえばいいという意識は、酷い嫉妬心に過ぎません。

彼が学業面で悪循環に陥っていると知りながら、僕ら「成績上位者」を誤解していることと知りながら、僕らが手の内を明かさなかったのは不当な仕打ちです。Y君は、級友の受験勉強という、励まされる理由にも自信を持つ理由にもならないものを盲信していました。そして、僕らはそのことの具合の悪さに気づいていながら放置し、影で嘲笑っていました。僕らはY君の話を聞ける関係にあったのに、聞かずに見殺しにしました。

こうまで酷い仕打ちをして、どうして彼の死を受け止めて来られなかったのでしょう。

今なお、僕は「僕ら」でないと責任を背負えない弱い人間です。そんな僕にも毎年夏は訪れますしかし、今に自分一人、罪の念を免れたいがために記憶を上塗りし、忘れ去ってしまうことでしょう。あるいは、もうそれは始まっているのかも知れません。

実家にある、かつての僕の部屋からは、一車線しかない県道が望めます。Y君が三年間、高校に通うために歩いた道です。なんの変哲もなく、田んぼと林に囲まれ田舎風景です。僕が彼から奪ってしまったものの一つです。

今はまだ、入道雲青空に彩られたこ風景に罪の意識を覚えます

8月15日に記しておきたい怖い祖父の話

大正まれ祖父は、坊主頭メガネをかけ、こけた頬に冷たい眼差しを持ち、いつも気難しそうな顔をしていた。息子であるから聞く話でも、私は祖父に対して怖いというイメージしか抱いていない。第一印象も第二印象も、とにかく怖い。祖父を評する言葉はそれ以外に無い。もっとも、祖父は私が生まれる7年前に亡くなっている。だから、私が見る祖父はいつも仏壇の脇に飾られた白黒写真のみであり、その気難しそうな佇まいを見るたびに幼心にピシッとした気分になり、怖い爺さんだなぁと思うだけだった。私にとって祖父は、無機質な写真のみで完結していた。

対照的祖母はとても優しい人で、おっとりしたお婆ちゃんだった。私は末の孫だったこともあり、とにかく甘やかされていたので、特にそう思うことも多かった。祖父とは会ったこともないが、祖母とは長い時間を共にした。私は幼稚園に入る前、母が働いている間は朝から夕方まで祖母の家に預けられていたので、祖母とは二人きりの長い時間をゆったりまったり過ごしていた。かなり幼い頃の記憶だが、何故だかその日々のことは断片的によく覚えている。暴れん坊将軍と蒸し芋が大好きな未就園児だったので、祖母とは気が合い可愛がられた。

祖母は幼い頃の私にとって第二の母のような存在で、お話もたくさんしたけれど、既に亡くなっている祖父遺影インテリアのように飾らせているだけで、その人となりについては何一つ聞いたことがなかった。息子であるはずの父や叔父からも、祖父の話は聞いたことはほとんどない。思い出話も一つも聞いたことがない。祖父がどんな人かと聞いても「おっかねぇ(怖い)人だった」と返ってくるくらいだ。そんなこんなで、私が知る祖父像は極めて薄い。とても薄っぺらい。お前の爺さんだよと言われてもピンと来ることはなく、いつまで経っても白黒写真遺影の人でしかなかった。

そんな祖父遺影の脇には、立派な額に入れられた賞状が飾ってある。内容は、抑留生活を慰労し、銀杯を贈られたという内容で、すでに故人になっている祖父政府が贈ったものだ。戦後日本には57万人以上もの人々がシベリアへ連れて行かれており、祖父もその一人であった。『祖父戦争へ行き、シベリア抑留をされていた』たったそれだけの漠然とした事実が、私の中の祖父像を大きく占めていた。小さい頃から、「うちのじいさん、ロシアに連れてかれたんか」と単純に思っていた。どこからともなくの知識で、多くのシベリア抑留者がそうであるように「終戦時は満州にでもいて、捕まったんだろう。だが、どうにか生き延びて帰ってきた」と思っていた。

去年、祖母が97歳で亡くなった。50過ぎの時にヘビースモーカーが祟って肺癌で亡くなった祖父に反し、かなりの大往生である。そこで私は、葬式での親戚が口にした言葉で「祖母が嫁いだ翌日に、爺さんに赤紙が来た」と耳にした。おいおい、なんだそのタイミングは。ドラマかよ、と思った。そもそも祖父母はお見合い結婚だし、祖父戦後抑留され、長いこと家に帰って来なかったし、つまりそれが事実なら祖母は長々と見知らぬ姑と過ごしたことになる。しかも、ど田舎山中にある村で、家業農家という典型的な家だった。時代時代とはいえ、婆ちゃんは肩身の狭い思いをしていたんだろなぁと可哀想に思った。

その頃から興味が沸いていたんだと思う。

遺影の中で怖いオーラを放っているだけの、実態の無い祖父像について。

私はどこからともなく『兵籍簿』の存在を知り、取り寄せたいと決意して、去年の8月15日実家終戦番組を見ながら父に話を切り出して頼んだ。兵籍簿の取り寄せは三等親まで可能で、孫の私でも可能だが、故人の息子にあたる父が取り寄せた方が、必要書類が少なく済むからだ。父は戦争映画などを見るのが好きな人だし、その手のものに興味があるタイプなので、あっさりOKしてくれた。断られたらどうしようと思っていたので、聞いた時はタイミングを見極めドキドキだった。

兵籍簿の取り寄せは案外簡単だ。やり方は調べればネットに載っている。うちの祖父陸軍なので、県の恩給科に電話で問い合わせ、手続きを始めた。ちなみに、海軍だと厚生労働省になる。陸軍であれば『〇〇県 兵籍簿』あたりで調べれば、どこの県もやり方を導いてくれるだろう。発行に際して必要ものは、対象者が故人の場合申請者との繋がりがわかるための除籍謄本戸籍謄本といった、役所簡単に発行してもらえる書類。あとは申し込み用紙を書いて郵送する。コピー代などで数百円かかるが、あまりにも簡単なので、もっと早く取り寄せればよかったと思った。

まぁ、取り寄せた所で、どうせ祖父はちょろっと満州にいて、そのままシベリアに連れてかれていたんだろう。祖父は誰にも戦時の話をしなかったので、家族の誰しもがそう思っていた。語らずに亡くなったがために、語るまでもない軍歴だったのかと、我々は思い込んでいたのかもしれない。みんなが祖父戦争について知っていたのは、彼が『シベリア抑留されていた』たった一言事実のみであるのだから

待望の兵籍簿は一か月かからずに送られてきた。

当時の書類ということで、読み難く難解な旧字も多かったが、やはり同じ日本語なのでほとんどは解読可能だった。それもネットで調べられた。

読み解いてまず驚いたのが、祖父1940年から43年2月まで、きっちり軍生活をしており、一度は満期除隊をしていたということだ。その時は主に満州国境警備をしていたらしい。大きな作戦戦闘に関わることなく、晴れて日本へ戻っていたのだ。もしかしたら亡き祖母は知っていたかもしれないが、祖父は息子たちへ語らずに亡くなったので、満期除隊をしていたことなど誰も知らなかった。

次に驚いたのは1944年2月祖父除隊からほぼ一年後に再び徴兵されており、(祖母が嫁いですぐに赤紙が来たエピソードは日付けから事実だと裏付けられた、祖母マジでお疲れ様すぎる)今度は満州ではなく、北海道の先にある『千島列島』に行っていたことだった。私は先入観からてっきり、祖父満州終戦を迎えたと思っていたので、想像していた祖父人生はガラリと色を変えた。

千島列島……千島列島……たくさんの島が連なる北海道の向こう側……北方領土……。そうか、そこにいた人たちもシベリアへ連れて行かれたのか……。そりゃそうか。

千島列島といえば、日本降伏後にソ連が乗り込んできた占守島の戦いが有名だが、祖父は『新知島(シムシル島)』から途中で『得撫島ウルップ島)』に回され、その二度目の徴兵では約一年半の千鳥列島生活を送り、終戦を迎えていた。兵種はずっと砲兵終戦時は上等兵だった。祖父はヒョロ長い体を駆使し、轟音の轟く砲をぶっ放していたのだろうか。なんともたくましい。

お恥ずかしいことに、私は新知島のことも、得撫島のことも、「なんか名前は聞いたことあるなぁ〜」程度で何一つ知らなかった。千島列島ソ連が攻め入った経緯すらも、占守島の戦いの名前漠然としているだけで、よくわかっていなかった。

どんな所か調べたくなった。特に長くいたらしき得撫島について。当時の千島列島について。

祖父のいた部隊結果的には戦闘をしておらず、言わば活躍をしたわけでもないので、ほとんど資料がなくて見つけ出すのには苦労した。

得撫島はもとより、千島列島自然の宝庫であると同時、一年を通してほとんど霧に包まれ、風も強く、ましてや長い長い冬を有する極寒の地。白夜であり、夏の夜は極めて短い。夏でも長袖は欠かせない。ほぼ無人島。そんな場所で「はい今日から暮らしてね〜」となったら苦労していないわけがない。制空権を奪われていたので、空から米軍攻撃もあった。制海権も奪われており、艦砲射撃が降り注ぐ。戦時中その海域では民間人も含め、2-3万人の人が亡くなっている。祖父のすぐ後に続いて小樽港を出港した同郷の部隊は、魚雷を撃ち込まれ沈没。冬の海に投げ出され、当時は軍機密に隠され2000人以上が死んでいた。祖父もほんの僅かな順番が違っていたら死んでいた。私もこの世にいない。数奇な巡り合わせで今の私は生きている。

得撫島ラッコの島と呼ばれるほどラッコがいるらしい。オットセイもいるらしい。祖父は間違いなく野生のラッコを見ただろう。自然豊かな大地。現代人の私が見たこともない美しい景色を、祖父は計らずとも見ていた。不本意戦時下に望んでもない場所へ飛ばされてはいるが、愛くるしいラッコちゃんとの遭遇が顰めっ面の祖父の心を癒してくれていたことを願わずはいられない。

兵籍簿には、祖父召集や転属などの略歴が淡々と日付けと共に記されていた。必要最低限の事務的情報であるが、その一つ一つの行間にも目に見えぬ多大な苦労があったはずだ。

昭和20年

8月15日終戦

9月29日ソ連により武装解除

10月19日ソ連により得撫島出発

10月24日ソ連ポートワニー上陸以降土工作業従事

昭和23年

7月22日舞鶴上陸

古ぼけた紙は語っていた。戦争8月15日に終わっていなかった。南方の激戦地のように食糧に困る事はなく、敵と遭遇することも戦闘もしなかったとはいえ祖父戦後も長らく闘い続けていた。自分血縁である祖父が歩んだ具体的な数字を見せられ、これはリアルなことだったと肌身に伝わってきた。日本がしていた戦争と、祖父存在への深みが増した。

シベリアでの日々を、祖父の白黒写真の顔と合わせて想像してみた。マイナス40度の永久凍土で働く、ろくな装備もない日本兵たち。栄養失調。ひもじい。所々にシラミが沸く。病気流行る。ご飯は堅い黒パン。粗末なスープ戦争は終わったのに、周りがどんどん死んでいく。いつまで経っても日本に帰れない。故郷よりももっと寒い、極寒の異国の地。日本には結婚生活を1日しか送らなかった嫁が待っている。祖父は雪深い土地で生まれ育ったから、シベリアでも適応能力が多少なりともあったのだろうか。そう思うことが唯一の救いである。

祖父が何も語らずに亡くなったのは何故か。千島列島を盗られた背徳感か。過去抑留生活に蓋をしていたのか。赤化教育を受けたことによる偏見を隠すためか。南方の激戦地に比べたらと、自分の半生は話すまでもないことだと思っていたのか。祖父の心を知る事はできない。私は想像することしかできない。祖父日本に帰ったが、一切を語らずに亡くなった。故郷山村とは掛け離れた四季の彩りのない場所で、途方もない八年もの戦争と闘ったのに、一言も喋らずに亡くなってしまった。

ここでは政治的な話はしない。

兵籍簿を読むことによって、それまで漠然としていた祖父存在がぐんと近づいた。存在のものを実感した。祖父ちゃんと生きていた。過酷時代を生き抜いた。ドラマ映画主人公になるような経歴ではないが、私が一分で根を上げるような過酷環境に長々と身を投じていたのは明らかだ。じいさんすごい。マジでお疲れ様すぎる。生き抜いてくれてありがとう。じいさんが頑張ってくれたおかげで、私はこんな平和世界ツイ廃をしながら、ソシャゲに夢中になれて、推しに心血を注ぎ、それを通して素晴らしい友人と出会うことが出来た。夏にはクーラーの効いた部屋でアイスを食べられるし、冬には暖かい部屋でアイスを食べられる。平和は素晴らしい。色んな国の友達もいる。その中にはじいさんが憎んでいた国の人もいるかもしれない。私は紙切れ一枚で戦地へ送られることなく、空や海からの脅威を感じることもなく、当たり前の明日をのほほんと待ちながら好きなように生きている。これは素晴らしいことだ。そんな当たり前のことを、強く思った。

兵籍簿を取り寄せて良かった。兵籍簿はどこからともなく知った物だが、私はこれを読まなければ自分流れる血に関してとても大事なことを知らずに死んでいた。

仏間へ行き、再び祖父遺影を見上げた。祖父は相変わらず怖い顔をしている。けれど、もうそれだけではなくなっていた。その遺影漠然とした無機質なものではなく、凄惨時代を生き抜いた血が流れているのだ。仏間を見下ろす祖父は、計り知れない威厳を背負っていた。

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