はてなキーワード: 四十九日とは
(これを書き始めた7月8日はこう書いていたのですが結果的にこの3週間後亡くなります)(ネタバレ)
トイレ掃除してる際、そういえばここ2、3日💩ないな、いかんのでは!?
と同居人に心配しすぎじゃないのみたいな空気だされつつ病院につれていく。
早い段階で連れてきてくれてよかった、と先生にいわれ飼い主として自信をつける。
その間に点滴の練習も受け自宅で皮下点滴ができるようになる。これでひとまずプロに打ってもらう技術料が浮いた。
1週間の短期間で先生から合格を貰ったのは私が初めてだそうだ。やったぜ。
ちなみに同居人は点滴の準備と輸液の注入(結構力がいる)、私はねこをなだめ動かないようにし注射針を挿すという役割分担をしている。
家では1日おきの点滴。
最初は経過をみる為、5日おきくらい通院したかな。その度に血液検査をする。
翌月からは月1通院。
血液検査 5,000円
ひと月分の輸液セット 5,000~6,000円
慢性腎不全用の療養食が3,000円(元々少食なのもあって1袋4kg = 1.5ヶ月分くらい)
約15,000~18,000円、が毎月かかる。
ちょっと検査項目を増やすと2~3,000円くらい上乗せになる。
我が家では月1万ずつ出し合い猫財布を作ってそこから出すようにした。
2人じゃなかったら詰んでたと常々思う。
飼い始めた時に入ったペット保険は2011年1月~毎年1回約2万円
2020年12月で契約更新不可になって、まあそれはそうだね預けた分は使い切ったしねという感じで2021年からは保険なし。
そんな感じで約2年、合間にクシャミが止まらなくなり風邪のような症状がでたり目やにが酷くなって点鼻が増えたりとたまに2万こえてうちのお嬢はお金がかかるわね……などと言い合う。
ねこの皮下点滴について。
うちのねこは50ccのシリンジで3本を1日おきにしてました。
初めのうちは、ギチギチのところに液体注入するので肩がムキムキになって強そうになりますが
中期後期になると腹水になりやすいので4本を2日おきに。
普段たるたるに2日くらいは輸液溜まってるのに、減り早くない?となったのが始まり。
食べてすぐに吐くことが増え、食べ直しては水を飲みすぎ(これは腎不全による多飲)を繰り返していくうちにご飯を食べなくなってしまう。
カリカリをふやかしたり大好きなおやつを目の前に持っていったり手を尽くすが、ちゅ~るもそっぽを向かれた時はもうだめだと思った。
調べたら「猫は36時間絶食すると肝臓への影響が急激に出る」とあり、これはやばいと定期検診の予定日前に病院へ。
病院に行くと凶暴になるねこ、抵抗する力もないのか唸るだけでされるがまま。
結果は卵巣のコネコチャンが入る管の部分に膿が溜まっていた。
犬猫の子宮図で解説してもらったんだけど人間とまるで違う形状なのでへー!となった。
で、その膿を除くための手術という手段があるのだけど、この子には麻酔に耐えられる体力がないからお勧めできないと言われテレビでよく見るやつだ……!!などと思っていた。
今この診察のイライラでお家帰ったらごはん食べ始めるかもしれないので見ててね、と言われアハハなどと言っていたらマジで帰った途端ごはん食べに行ったのでめちゃくちゃ笑った。ご飯食べたやったーーー!!!
錠剤を粉砕し、ちゅ~るに混ぜて食べさせようとしたら察しがいいのでちゅ~るまで警戒するようになる。直接口に突っ込む「投薬器」を買った。
結果、数値は戻りこちらの件はなんとか乗り越えました。
そう、腎臓です。
腎臓が悪化すると、腎臓から脊髄に「血つくって!」の信号が送られずひどい貧血に。
造血を促す注射を受ける。元は人用らしい。
赤血球の数値が上がるかを一週間くらいで見るとのことで翌週も通院。
の予定が何を察したのか隠れてまっったく出てこなくなったので薬だけもらいに行く。
「逃げる元気があるなら効果は出てるとおもうので、ねこも人間もお互いストレスないよう診れる時に診ましょう」と言ってもらえて泣きそうになってしまった。だいぶ焦りがあった。
月末、改めて病院。赤血球の数値はちょっと上がったけど、今までの残りが働いてこの後減るかもしれない、とこの日も注射する。注射をしても食事が出来ていないと血の素材が足りないのでご飯食べさせるのに必死。
以前はカリカリしか食べずウェットごはんに見向きもしなかったのにウェットじゃないと食べなくなる。
更に翌週、赤血球の数値が19→21でほぼ変わらず、効いていれば30台まではあがるとのことで、造血注射は諦めて食事を頑張る方向に。
カリカリを食べなくなってからはウェットごはんを小皿に入れて与えていたのだけど、ニンゲンが口元までごはん小皿持っていかないと口にしなくなる。
この頃まだ吐くし、寝ててもえづく音で起きてしまう。元々そばでひと鳴きするだけで起きて「ネコチャンどうした」するタイプではあったけど。
貧血で棚の上を歩いて足を踏み外すことも多くなり、フラフラしてるので心配で目が離せなくなる。
我が家は1階・2階のメゾネットタイプなのだけど、途中で動けなくなったら困るのでできるだけエアコンの効く1階にいてもらうようにする。ねこの拠点が棚の上だったので、床にダンボールを横にして置いたらすんなり寝転んでくれたのは助かった。まだ2階に逃げる元気がある。
食事量も減るのでトイレに💩あるとやったーーー!!!💩あるぞーーー!!と宝を見つけたかのようになるニンゲン、ねこに引かれてたと思う。
相変わらずごはんの摂取量が少ないので、リン数値を気にするよりもなんとか食べてもらおうと好きな味のちゅ~るとウェットのごはん混ぜては、昨日は食べたのに今日は嫌なんですか!?こっちに変えますね!!!!など試行錯誤。気まぐれが凄い。
空腹になると胃酸で吐いてしまうので、家にいる時は2~3時間おきにちゅ~る半分やウェットごはんを与える。2ペロで終わるときもある。食え。
🐱7月17日
2階で寝ていたのを1階の座椅子で寝るようになる。どこでも寝られるのが特技なのが役立つ。
これ以降、急激に痩せていくのがわかるようになる。
軽い。
骨と皮だけじゃんやだーーー!!!もっと食え!!4キロくらいに肥えてくれ!!
実際は2.5kg
しっぽの付け根あたり、骨盤部分が骨の形がわかるほどで、褥瘡が怖くて私の枕をあげた。
顔は元々ほっそりしてたので殆ど変わらないのが救いだった。
🐱7月22~25日
4連休の間、久々にネコチャンが「窓の外を見る」ことを思い出したようす。
が、この時にはいつも通り道にしていた30cm程度のテレビ台にも上がれなくなっている。
窓の前にある棚が定位置だけど、いつも前脚を肘置きのようにしてた窓辺の段差7cmが、ガリガリすぎて高くなってしまっていた。
厚めのクッションを置いたり、窓のサッシをタオルで埋める。窓辺に行くために棚を渡っていたので、窓まで緩やかな階段を作る。
窓辺に行きたそうな時は直接連れて行ったので、1回しか使ってもらう機会がなかった。
寝返りや体勢を変えるのもしんどそうにしているので褥瘡怖いしひっくり返すんだけど、一定の方向が落ち着くのかすぐに戻ってしまう。なんでや。
あまりに食べないので、1日1回注射のシリンジで強制給餌を始める。
とうとうこの時が来たかという感じ。
連休中、ちっちゃい💩1回みただけ。
強制給餌で食べてるのに出てないのまずいな、と思う。
🐱7月26日
🐱7月27日
ネコチャンの首輪に「Catlog」を利用しているのだが、昼から「データなし」になっている。受信機が1階で、2階にいると記録しないのは常なのだけど今回ばかりは話が違ってくる。気が気でない。最短時間で帰宅する。
こんなに緊張しながら家帰ったこと無い。
1階の引き戸が開いていた。最悪のパターン、1階にいながらデータなしは回避した。
2階、少し前までよく引きこもっていた押入れの奥で横になっているのを発見する。
生きてた。安心して泣いたけど、ねこはキョトン顔だった。おまえのせいだよ!!
気が気でない。
帰ったらねこはダンボール寝床で寝ていた。ちょっとくったりしている。
というかよくそんな状態で昨日、重めの引き戸開けて脱走したな!?!??
すっかりトイレには行けなくなってしまい、シートが濡れてないかを確認する回数が増える。
横になるのが嫌なのか、近くの隙間にはまって香箱座りになりきれてない体勢でじっとしている。
連休中、横になっていると前脚の先だけ曲げて上半身起こしてて、変な体勢するようになったと思っていたのだけど、あれは香箱座りしたくても内側に前脚をひっこめる筋力も無くなってたんだな、と前脚を伸ばしたままのねこを見て思い至る。
🐱7月29日
少し仮眠、と朝4時~5時半まで寝る。
ちゃんと息してるのを確認して安心するも、完全に横たわり、呼吸が浅い。
内蔵に負担がかからないよう抱いて、しばらく撫でていると急にむせ始める。
慌てて横に寝かせ、顔と体を撫でながら声をかけていると、一度大きくむせて、そのままねこは止まってしまった。
この間30秒もなかったと思う。
こんな急に動かなくなるんだ。ねこの目と口を閉じる。
直後に同居人が起きてきた。
あと1分早く降りてきてたら……と言っていたが見なくて良かったんじゃないかな。
私も抱かなければよかったのかなと思ったけど、この後どのみち強制給餌だったので抱いて撫でてる時で良かったのかもな、と思うようにしている。
ねこを抱き上げると、首がすわってない赤ん坊よりすわってないので完全脱力したねこは液体だった。
まだ6時にもなっていない早朝、ねこは亡くなりました。
こういう時ってどうるすん?市役所?という同居人に「こんなこともあろうかと、私は事前に頼むところを決めていました」とペット葬儀社のURLを送る。
勝手に決めるのも気が引けたんだけど、卵巣炎症の時点でもう夏保つかどうかの覚悟を決めていたし、それくらいのことを考えてて欲しかったのもあったので。あと夏だし。
春先に実家のねこが無くなった時は、母がお寺でお坊さんにお願いしてたけど、
午前中にいけるかと思っていたら、19:30の予約になったのでびっくり。
直前に同居人がもうひとりの人が休みだから休めない……などと言い出し
「なる……」
と半休だけでももぎ取るという話をした後だったので、全然余裕で仕事して帰ってこられる時間じゃん、と出勤していく同居人。そりゃ電車でカメラロール眺めてたら急に泣き出す不審者にもなろうよ。
その頃私は家で思う存分泣きたくねーー!!と叫びながらひとり号泣していた。
ネコチャンが拠点にしていたダンボールに10時間保つアイスノンを敷き、この時のために事前にストックを増やしていた保冷剤をペットシーツに包み、ねこのそばに入れていく。
片付けるか、と猫砂や爪とぎをゴミ袋に入れ、ねこのごはん皿や水皿、それを置く台を洗う。
いきなり全部片付けるのはネコチャンも「急になんで!?」ってなるかもしれないなと思って、袋に少し余ってた猫砂をトイレに入れ、水皿に水をいれて台に置いた。
ねこにも適応されるかは知らんが四十九日くらいまでは置いときたいな。
冷たくなっていくねこ撫でながらゲームしてた気がする。冷たくなっても毛艶が良い。さすがうちのねこ。
鼻や口から体液が漏れ出てくるのでキッチンペーパーをあてがい、汚れに気づいたら変えてあげた。
動物病院に電話したな。話してるうちに先生も涙声になってて、そりゃ動物好きじゃなかったら獣医なんてならないか~って
考えてるうちに話せなくなったので、また挨拶に伺いますと切ってしまった。
予約時間、葬儀社のスタッフが棺替わりの籐かごを持ってやってくる。ちゃんと絹みたいなきれいな布で、薄手の布団みたいな敷物もセットされてた。
小型犬くらい入りそうな大きさだったのででかい。ねこ横たわらせても半分くらい余る。お花もっと買っておけばよかったな、と笑ってしまう。
お清めや小さい数珠も用意されてて、スタッフが作業するのかと思ったらこちらがやるらしくて、あ、やっていいんだと思いながら体を拭いたり、前脚に数珠を通した。
抱けるのは最期なので、と言われ固くなったねこを抱く。冷たい。
カゴに戻し、お花やカリカリを入れていく。一番好きなおもちゃが「レシート丸めたボール」という超絶安上がりねこだったけどさすがに入れるのはやめた。
ワゴン車に備え付けられた火葬炉にカゴを置き、扉が閉じられる。
ねこの写真をAirDropでスタッフさんに渡したのでこの間に事務所戻ってメモリアルカード作ってくれてた。
生まれ日、没日、四十九日の日付入りのラミネートされたカード。
四十九日あとで調べようと思っていたので助かる。
小さい骨壷で帰ってきたねこ。
遺骨カプセルのキーホルダーもプランに入ってたようで用意してくれていた。
一層ちっちゃくなっちゃったねえ。
🐱8月6日
今受け持ってる中でも一番コントロールが難しい子だったので、本当によく頑張ってたと思います。って言われてそっか、頑張ってたのか。
朝6時半には出勤するので朝の投薬のために毎日5時台に起きたり、は意外と苦じゃなかったなあ。ごはん食べてくれない方がしんどかったしな。
写真を見せたり色々話してるうちに、今こんなこというのも何なんですけど……
といつかまたねこを迎えたくなったら保護猫検討してくださいね、うちも「子猫リレー」っていって預かってる場合があるので、と教えてもらった。
いつか機会があれば今度は多頭飼いしたいな。
🐈💨💨 💨 🐾 🐾 🐾 💸 💸 💸
6/10 ¥6,820 隠れて病院行けなかった日(2週間分の輸液セット)
6/30 ¥19,360 血液検査、造血促進の注射、輸液セット
7/7 ¥14,960 血液検査、造血促進の注射、輸液セット
7/23 ¥18,400 血液検査、造血促進の注射、輸液セット
検査内容が増減したり、輸液セットが1週間分だったり2週間分だったりで幅がでてる。
2ヶ月で¥74,698か……頑張ったな…
6/10はセミントラもあったんだけど、病院の先生が「1回うちのねこに使ったやつだけどあげますねー」ってくれたのでめちゃくちゃ助かった。30ml・6,000円するので(輸入品なので病院によって値段違うと思う)
病院に最後の挨拶行った時に余ってた輸液セット持っていったら返金してくれたんだけど1万5千円返ってきて笑った。多すぎ。
普段から失敗した時用に注射針の予備ももらうんだけど、私失敗しないので予備が減らなかったり、最後頻繁に行ってた時の差分が管理出来てなくてわちゃわちゃですよ。
ねこ財布に入れたままにして、今後は月5,000円づつ入れてってそろそろヤバそうな洗濯機や冷蔵庫やコンロがいつ壊れてもいいようにするんだ……。
まあこれだけかかるので、話題になった東大の「腎臓病の治療法を開発」は全てのねこ飼いにとって大きいんですよ。
この記事読んだからこれだけお金絡ませた日記書こうと思ったくらいなので。
「ネコの宿命」腎臓病の治療法を開発 寿命が2倍、最長30年にも 東大大学院・宮崎徹教授インタビュー
https://www.jiji.com/jc/article?k=2021070800906&g=soc
ねこの腎不全は高齢猫は高確率で発病すると言われているので、飼おうとしてる人は
きちんと保険に入るなり金銭面を盤石にしてから挑んでくれよな。
愚痴。
母親が死んで四十九日も終わったんだが、父親がずっとすんすんめそめそしくしくしていて迷惑。
自分がいるせいもあるかもしれないが、口を開けば思い出話、迷惑極まりない。
死んだ人は死んだんだよ、話して伝わるとでも思ってんのか?
向こうで死んだ犬に会えてるかなだとか、好きなフラダンス踊ってるよねだの、同意を求められたときは吐きそうになった。
ほんとうに反吐が出る。
死んだら終わりなので、何もありません何もしてませんよ。
もういい加減立ち直れよ、うざったいなぁ。
毎朝毎朝、大音量でお経読むのもやめてくれ。
あのな、お前はもう老人で早く目が覚めるのかもしれないが他人の邪魔はするな。
寝ているところを無理矢理起こされた恨みは大きいぞ。
事実、これまではちょっとうるさいな、くらいだったもんが、お経で起こされたせいでこの増田を書くにいたったんだからな。
まじで、まだ泣いてるのほんとに気持ち悪い。
めそめそしすぎ。
なぜ?
死んだら死んだんだよ。
ほんとに嫌だ。
母、父、僕、妹
母は去年の春にガンが見つかったときにはすでに末期だったらしい。
らしい、というのは、僕は実家から新幹線で3時間の距離に住んでいる。
母の闘病を手伝えたのは最後の一ヶ月だけだった。
母のガンがみつかってからは、父と妹が母に付き添ってくれていた。
(妹は僕とくらべれば実家の近くに住んでいる)
母はとにかく明るく前向きで真っ直ぐな人だったため、闘病も最後の最後、一切の治療ができなくなった時まで緩和ケアという選択はしなかった。
昨今の新型感染症の影響で、最後の家族旅行に行くことができなかったのが悔やまれる。
(これに関しては抗がん剤治療で一気に体力がなくなってしまったため。行くなら抗がん剤治療を始める前のほうがよいのだろうな、というのが反省である)
感染症の影響もあり、母の病気が見つかってからは、去年の夏と、最後の一ヶ月の二度しか会うことができなかった。
今年の春になって、母の容態がさらに悪くなったと連絡を受け、しばらく仕事を休んで実家に戻った。
母はガンが全身の骨に転移しており、顔の形が変わってしまっていた。
去年の夏から半年でここまで悪くなるのか、と悔しい気持ちでいっぱいになった。
この時、母はまともに食事がとれなくなっていた。
僕は気づかなかったが(どのくらいの食事量が正常が知らなかったため)、その異変を父が感じ取ってくれて、母を入院手続きするところまで実家で手伝いをした。
感染症の影響で、面会謝絶であったため、僕にできることは何も無くなった。
そして、母の容態も最後の状態になり、母は退院して実家に戻ってくることになった。
退院後、母は9日間、家で過ごして、そして亡くなった。
最初の4日ほどはまだずいぶん元気で(完全なる寝たきりではあったが)、実家にいたころの楽しみであったミステリドラマやipadでのゲームなどを楽しんでいた。
最後の3日は、毎朝計測していた血圧がちょうど10ずつ下がり、最後の日は聴診器では血圧を測れなくなったため、脈拍を指で確認しながら血圧を測ってもらっていた。
母が息を引き取った時、僕は母の右手を、妹が母の左手をさすっていた。
当時の僕は、母が亡くなる日が今日だとは思っておらず、また連日の看護でまともに眠れていなかったため、正常な判断力もなかったように思う。
母が呼吸をしなくなったことを、看護師さんを家の外でまっていた父に伝え、妹と、ちょうど来ていた妹の子供達とみんなで母に別れを伝えた。
妹の夫(僕からみたら義弟)もありがたいことに駆けつけてくれた。
看護師さんが来て、担当のお医者さんを呼んでくれ、お医者さんがやってきて、死亡診断書を書いていただいた。
そしてまた来てくれた看護師さんが母の体を綺麗に拭いてくれた。
今回の経験で、最後を看取るための医療にかかわる方々には、ただただ尊敬の念を抱いたことを覚えている。
葬儀社に連絡し、母の体をドライアイスと冷房で保たせるようにした。
葬儀は母が大好きだった花をいっぱい飾り付けしてくれるように手配した。
母が亡くなってから3日ほどは、僕はずっと泣いていたように思う。
3日目に、学生の頃の友達に最後の別れをしてくれるように集まってもらい、20年ぶりに心の底からくだらなくて楽しい話をしたことで、僕の悲しみはだいぶ和らいだように思う。
母は葬儀の都合で一週間ほど家で過ごしたため、ご近所さんが相次いで挨拶にきてくれた。
通夜、葬儀は母の兄弟の子どもたち(僕からみたら従兄弟にあたる)が、母の兄弟の代理としてきてくれた。
母と父の若い頃からの友人(僕も子供のころに大変お世話になった)も来てくれた。
母を棺にいれてもらい、花で満たし、そして火葬場へ向かい、荼毘に付してもらった。
最近の火葬場は、骨を拾いやすいように火葬場の人が丁寧に並べてくれるんだなぁという発見もあった。
母が亡くなったことの届け出を大量にこなし、遺産整理(金額は小さいがやることが細かくたくさんあった)をして、僕は自分の生活に戻った。
もうすぐ四十九日と納骨だ。
父が亡くなった。84歳だった。
ものが食べられなくなり、胃瘻や延命措置も断ったので、老衰といってもいいと思う。
慌ただしいながら滞りなく葬儀が過ぎ、四十九日の法要も終わり、私の手元には父の腕時計がある。
私が初任給で買ってプレゼントした国産の腕時計。値段は1万円ほど。
もう30年も前の話だ。
よくお酒を飲んでは、「これは○○にもらったやつで、水に濡らそうがびくともしない、電池も変えることもなくいつまでもちゃんと動いているいい時計だ」(単に防水でソーラーだっただけだが)
と自慢げに満足そうに笑っていた。
形見としてもらった時はもう動いていなくて寂しかったのだが、陽にあててしばらくするとまた、動き出した。
なんだ。まだ動くんだ。
聞きかじった話だからあやふやだけど、仏教の目的のひとつが「見送った人の心を整える」だったような。
自分も去年家族を見送った(因みに家族葬)けど、心が千々に乱れそうになる度にその事を思い出して正気に戻れた。
そして増田は心を整えるためのお葬式がかえって傷を深めるのは本末転倒なので
とにかく温かくして、美味しいものを食べて、ご両親共々少しでも元気になってほしい。
増田の判断は正しかったと思う。親戚一同感染リスクを避けられて本当によかった。
そもそもコロナで亡くなった人を棺すら開けられないまま直葬したら信心足りないなんて理屈はおかしいんだし。
でもどうしても気になるなら、四十九日法要の報告がてら親戚に直筆の手紙を書くのはおすすめ。
弔意に感謝して、でもお葬式を平時のように出来なくて申し訳なかったと。
とにかくお疲れ様でした。
はっきり言ってこの文脈において鬼滅の刃はそこまで重要じゃないんだけど、要は生まれ変わりの話である。
鬼滅の刃は最終巻を除いて全て読んでいるし、一年以上前からジャンプ本誌を購読していて大体の展開は知っている。三島に関してはこれまで十冊くらい読んだ。仮面の告白、金閣寺、豊饒の海。そういうやつだ。
要するに生まれ変わりの話である。三島由紀夫は東大を卒業して官僚になった後で小説家に転身した。諸々の経緯を省くと最終的に自衛隊基地で生涯を終えることになる。この事件には様々な思惑が見られるのだけれど、それはそれとして三島由紀夫は生前生まれ変わりというものへの執着を小説において大いに語っていた。勿論、それはポーズだったのかもしれない。荒唐無稽でナイーヴな小説家としてのポーズを取ることで、あるいは自分の目的を推測されまいとしたのかもしれない。
いずれにしても、豊饒の海シリーズを読んでいる限りで彼はかなり真剣に生まれ変わりというものを信望していたように思われる。三島事件だってそうだ。彼が事件を起こしたのは彼の誕生日である一月十四日の四十九日前だった。つまり、事件から数えること四十九日後に、彼は改めてこの世に生を享けようとしたのである。少なくとも三島由紀夫の研究においてはそれが定説だ。
鬼滅の話どこ行ったねんというツッコミが聞こえてきそうなので言及しておくと、鬼滅は正直面白いと思っている。下弦連中の粛清とか柱合会議あたりから特に面白くなったよね。俺はかなり好きだ。上限の六の兄妹鬼のエピソードのラスト辺りとかも特に好きだ。
鬼滅の刃においては、人と人との因縁、因果、あるいは、極言すれば生まれ変わりについて表現が散見される。生まれ変わり、そんなものが本当に存在するのかどうかは確かめようがない。だから、この議論は率直に言ってナンセンスだ。そんなものは分からないのだ。このテの命題にそもそも述語を接続しようとすること自体間違っているのだ。そんなことは我々には分からないし、発言の余地はない。生まれ変わりについてはそれで話が即座に終わる。オーヴァ。本来なら。
とは言え三島由紀夫は明晰な頭脳を持ちながらに生まれ変わりをラディカルな部分で信じていたように思われる。少なくとも、自分の小説でそのようにアピールしている。生まれ変わりを自分は信じているのだと。どうやら、彼は周囲に口にしなかった個人的な体験によって生まれ変わりを信じるようになったのではないかと思われる。彼の遺作である『豊饒の海』の最終巻『天人五衰』が脱稿されたのは三島事件の二日前で、つまり、彼は事件の後で『天人五衰』が出版されるように計らったのであり、『豊饒の海』シリーズにおいて「生まれ変わり」が大体的なテーマとして描かれていたことからも、彼が自身の存在を「生まれ変わり」の信望者として印象付けようとしたことは明らかであった。遺作のテーマは生まれ変わり――そして事件を起こしたのは誕生日の四十九日前であり、これまた生まれ変わりを示唆しているのだ。当然この二つの事象はリンクしている。
『豊饒の海』シリーズにおいて、主人公は松枝清顕と本多繁邦であり、本多は松枝と死別するが、生前松枝の身体に刻まれていた脇の下の三つの黒子を巡って彼は様々な生まれ変わりの事実に直面する。三巻『暁の寺』において登場する東南アジア某国の姫君ジン・ジャンは、本来知り得ようもはずもない前世の詳細な記憶を本多に向かって詳細に語ることで、少なくとも作中において生まれ変わりの事実が明確にされることとなる。
脇の下にある三つの黒子、というのがキーになっているこの連綿とした転生は、恐らくは三島本人の人生においても見られたのではなかろうか。三つの黒子とまでは言わずとも、身体的特徴の極度なまでの類似、そして死者と当事者しか知らぬはずの記憶が語られること。それらによって三島は生まれ変わりの事実を、自身の人生においても確認したのではないか――? 無論こんなことを考えるのはナンセンスだ。そんなことは三島当人にしか知る由はないし、重ねて、生まれ変わりに何らかの述語を接続してはならないのだから。
因みに、彼の遺作のタイトルである『豊饒の海』はミスリードを誘うもので、本来このタイトルは、ヨーロッパにおける月のクレータの異称を指している。
古来よりヨーロッパにおいては月に存在する巨大なクレーターのことを「豊饒の海」と呼ばうのだ。
それは、月に存在する一滴の水も存在しない茫漠とした荒野のことである。「豊穣」という言葉とは裏腹な、無益と徒労を象徴する荒野の存在が、彼の作品には浮かび上がっている。
「遠くの親戚ほど文句を言う」(だったかな)とはよく言ったものですが
金も出さない手も貸さないのに要らぬ口ばかり出すのは本当にやめましょうね
あなた方が放り出した親の介護やら寺関連の諸々やら親戚付き合いやらですが
だいたい挨拶してもシカト、たまに口を開けば嫌味しか言わないような人に
人の道なんか諭されたくないんですよ
お寺に早く着き過ぎて時間が余ったので、墓地の隣にある公園を夫と散策した
夫も何十年かぶりだそうで「だいぶ変わっちゃったなー」などと言いながらも懐かしそう
公園中央にある小さな丘は、子供の頃ママチャリで駆け下りた思い出深い場所だそうだが
夫は現在進行性の難病で歩行が日々困難になりつつあって「登ってみたいけど無理かなぁ」と寂しそう
「せっかく来たし登ろうよ!」と励まし、えっちらおっちら2人で何とか登り切った!
丘からの景色はだいぶ変わってしまったそうだけれど、この眺めはしっかり脳に焼き付けようと思った
次来た時にはもうこの高いところからの景色は望めないかも知れないから
天気もよくて、いい思い出になったなぁ…
と、とてもいい気分だったのに、小姑のアレコレで台無しだよ!
供物が安物だの誰それ呼ばないとはどういうことだ(コロナで寺から最小限でと言われていた)だのグヂグヂと…
こっちは夫の病気への対応で精神的にも経済的にもいっぱいいっぱいなんだよ!!!!!
思い出したら腹立って寝られなくなってきたのでここに書き殴って義母の魂と共に昇華する
読んでくれて有難う
知恵袋みたいにアンサーが欲しいわけでもなく、でも自分の思いを誰にも知られないのが寂しくて誰か一人でも自分の気持ちを知ってもらえたら楽になれるかもしれないと思ってここに書く。
2歳6カ月のバハムートが死んだ。
バハムートの平均寿命は2歳〜2歳半だといわれているので寿命を全うしたといわれればそうだし、良くこれまで生きてくれたと思う。
でもやっぱり1日でも長く生きて欲しかった。
もちろん、ゆったりとした変化は感じ取っていて、例えば回し車で遊ぶ時間は前よりも少なくなったし、起きている時間も前よりは少なくなった。
バハムートは別荘を所有していて、時々放してやった、飼ったことがある人は分かると思うのだが一度放すと中々出てきたがらない。
お家に戻すときにエサを囮にして別荘から呼び出すのだが、前は一直線にエサに飛びついていたのに、最近は時々エサとは別の方向に向かうこともあって、目が悪くなったか、もしくは脳の病気になっているのかもしれないな、と思うこともあった。
でもそれでも、食欲はモリモリだし、下痢をしたこともあったけど今はそれも治って、歳の割には元気でその日もいつものように別荘出せコール(ケージをガジガジ)をしていた。
それで時間が経っていつものようにエサを囮に呼び出しても全然出てこなくて、探ってみたら、別荘に行き着く寸前のところで固まっていた。
生きている間はあまりじっくりと触れることはしなかったけれど、それをよくよく触ってみると背中の右側が明らかに左側よりぼこっとしていて、腫瘍ができていたのかもしれないな、と思った。
しかし、知恵袋に書いてあるような、くるくる回ったり、歩きづらそうにしていたり、食欲がなかったり、そんなことは一切なく、元気なじじバハムートだった。
2歳6ヶ月まで生きたことは、普通に考えれば、長生きしたね、と言ってもらえる歳だと思う。
直前まで本当に元気で、いやもしかしたら元気じゃなかったのかもしれないけど、でもケージをかじる余裕はあって、今日もいつも通りの日常がバハムートにも私にもあると信じていたと思う。
もっと分かりやすく何か症状が出ていたら、それなりに身構えることができたのかもしれない。余命宣告でもされていたら、もっと、何かができていたのかもしれない。
そんなこともなく、コロッと逝ってしまった。別荘の前で倒れていたから、ケージから放してすぐのことだったと思う。食いしばったような歯で片目は半開きで横たわっていたから、恐らく苦しんで死んでしまったのだと思うけれど、死ぬ間際までそれなりに元気でいてくれたことは良かったとは思う。
そんな風に、予兆なく逝ってしまうのと、別れを予期しながら徐々に逝ってしまうのとどっちがいいんだろうね。
バハムートにとってはいつ死んでもおかしくない年齢とはいえ、やっぱり1日でも長く生かしてあげたかった。
もし、その日その時間にケージから出さなかったら死ななかったのかもしれない、その日は寒かったから、ちょっと早いけど暖房でもつけていれば死ななかったのかもしれない、1週間前に掃除をしなかったら今日死ぬことはなかったのかもしれない、考えたくないけれど、その日のおやつにははが鮭をあげなかったら死ななかったのかもしれない (でも最後の晩餐が美味しそうに食べていた鮭で良かった) 。
それ以前に、病が原因で死んだとしても、何が分岐点で今日死んだのか、分からないから辛い。
まだ、ケージは片付けていない。いつでも戻ってきていいんだよ、居場所はここにあるよ、寂しくないよ、って思っていることを伝えたいから。親から何か言われない限りは四十九日まではそのままにしておきたい。
でも、知恵袋によると、遺品をそのままにしておくとバハムートは成仏できないらしい。そしてバハムートの魂は遺品に宿るわけではなく私たちの心の中に宿っているらしい。
そういう、成仏とか魂の話は、尖った言い方をすると生きている側のエゴであって、死んだ側には魂もクソもなく、死骸が腐敗して土に還るだけだと思うのだが、実際自分が大切にしていた人や動物が死んでしまうと、しっかり成仏して天国に行ってずっと美味しいものを食べてくれたらいいなと思うし、天国に飽きたら輪廻転生してこいよ、と願ってしまう。
残念ながら、成仏しようが魂が生まれ変わろうが、私の家にバハムートが戻ってくることはもう二度とないわけで、それはとても悲しい。しかし、バハムートに限らずそれは犬にも鳥にも親にも私にも必ずいつかはやってくることで、死は何も特別なことではない。そう分かってはいても、やはり死は悲しい。
私は今でもケージに向かってバハムートの名を呼ぶし、バハムートの匂いを嗅ぎに別荘を覗くこともある。私とバハムートの日常は変化し続けながらも、まだそこにある。
知恵袋みたいにアンサーが欲しいわけでもなく、でも自分の思いを誰にも知られないのが寂しくて誰か一人でも自分の気持ちを知ってもらえたら楽になれるかもしれないと思ってここに書く。
2歳6カ月のハムスターが死んだ。
ハムスターの平均寿命は2歳〜2歳半だといわれているので寿命を全うしたといわれればそうだし、良くこれまで生きてくれたと思う。
でもやっぱり1日でも長く生きて欲しかった。
もちろん、ゆったりとした変化は感じ取っていて、例えば回し車で遊ぶ時間は前よりも少なくなったし、起きている時間も前よりは少なくなった。
ハムは別荘を所有していて、時々放してやった、飼ったことがある人は分かると思うのだが一度放すと中々出てきたがらない。
お家に戻すときにエサを囮にして別荘から呼び出すのだが、前は一直線にエサに飛びついていたのに、最近は時々エサとは別の方向に向かうこともあって、目が悪くなったか、もしくは脳の病気になっているのかもしれないな、と思うこともあった。
でもそれでも、食欲はモリモリだし、下痢をしたこともあったけど今はそれも治って、歳の割には元気でその日もいつものように別荘出せコール(ケージをガジガジ)をしていた。
それで時間が経っていつものようにエサを囮に呼び出しても全然出てこなくて、探ってみたら、別荘に行き着く寸前のところで固まっていた。
死んでいるとすぐに思った。こんなところで寝るはずがない。
触れるのが怖かった。冷たくなってしまったハムに触れてしまうのがとても怖かった。
生きている間こそあまりじっくりと触れることはしなかったけれど、冷たくなったハムを抱いてみると背中の右側が明らかに左側よりぼこっとしていて、腫瘍ができていたのかもしれないな、と思った。
しかし、知恵袋に書いてあるような、くるくる回ったり、歩きづらそうにしていたり、食欲がなかったり、そんなことは一切なく、元気なじじハムだった。
2歳6ヶ月まで生きたことは、普通に考えれば、長生きしたね、と言ってもらえる歳だと思う。
直前まで本当に元気で、いや元気じゃなかったのかもしれないけど、でもケージをかじる余裕はあって、今日もいつも通りの日常がハムスターにも私にもあると信じていたと思う。
もっと分かりやすく何か症状が出ていたら、それなりに身構えることができたのかもしれない。余命宣告でもされていたら、もっと、何かができていたのかもしれない。
そんなこともなく、コロッと逝ってしまった。別荘の前で倒れていたから、ケージから放してすぐのことだったと思う。食いしばったような歯で片目は半開きで横たわっていたから、恐らく苦しんで死んでしまったのだと思うけれど、死ぬ間際までそれなりに元気でいてくれたことは良かったとは思う。
そんな風に、予兆なく逝ってしまうのと、別れを予期しながら徐々に逝ってしまうのとどっちがいいんだろうね。
ハムにとってはいつ死んでもおかしくない年齢とはいえ、やっぱり1日でも長く生かしてあげたかった。
もし、その日その時間にケージから出さなかったら死ななかったのかもしれない、ちょっと早いけど暖房でもつけていれば死ななかったのかもしれない、考えたくないけれど、その日のおやつにははが鮭をあげなかったら死ななかったのかもしれない (でも最後の晩餐が美味しそうに食べていた鮭で良かった) 。
それ以前に、病が原因で死んだとしても、何が分岐点で今日死んだのか、分からないから辛い。
まだ、ケージは片付けていない。いつでも戻ってきていいんだよ、居場所はここにあるよ、寂しくないよ、って思っていることを伝えたいから。親から何か言われない限りは四十九日まではそのままにしておきたい。
でも、知恵袋によると、遺品をそのままにしておくとハムは成仏できないらしい。そしてハムの魂は遺品に宿るわけではなく私たちの心の中に宿っているらしい。
そういう、成仏とか魂の話は、尖った言い方をすると生きている側のエゴであって、死んだ側には魂もクソもなく、死骸が腐敗して土に還るだけだと思うのだが、いざ自分が大切にしていた人や動物が死んでしまうと、しっかり成仏して天国に行ってこいよ、天国でずっと美味しいものを食べてくれよ、天国に飽きたら輪廻転生してこいよ、と願ってしまう。
残念ながら、成仏しようが魂が生まれ変わろうが、私の家にハムが戻ってくることはもう二度とないわけで、それはとても悲しい。しかし、ハムに限らずそれはお家の犬にも鳥にも親にも私にも必ずいつかはやってくることで、死は何も特別なことではない。そう分かってはいても、やはり死は悲しい。
私は今でもケージに向かってハムの名を呼ぶし、ハムの匂いを嗅ぎに別荘を覗くこともある。私とハムの日常は変化し続けながらも、まだそこにある。
先日10年経ったが、いくつかの後悔が折に触れて思い出されるためここに書いて供養したいと思う。
家族の形や関係性は多様だと思うので、一個人の感想だと思って読んで欲しい。
先によかったことを書いておくと、母親はホスピスなどに入らず死ぬ前日まで自力で風呂に入り、自分の布団で寝て、そして自宅で息を引き取ったので幸せだったと思う。
自分は家族全員で最期の看取りができて本当に良かったと思っている。
うちは3兄妹の5人家族と雑種の犬が1匹で自分が長男。当時高校生~大学生。スマホはまだ持っていない時代。
自分は闘病期間中に大学生になったこともあり、長期休暇には病院への送迎や入院中の見舞いなど介助をする時間がたくさんとれた。
海を見にドライブに行ったり、浮腫んだ足をオイルでマッサージしたり、手をつないで病院を歩いたり、寝る前に話をしたり、たくさんの時間を過ごせた。
生前母親も見舞いに来た友人らにそのことを話していたらしく、四十九日で来訪した母の友人からそのことを聞いて泣いた。
ここからが本題。
この10年でよく思い出す後悔は2つ。
母親からの最後のメールが「ツナのおにぎり買ってきて」だった。
スーパーでの買い物帰りに母親からのメールを受信し、コンビニに立ち寄った。その日は母親の好きな手巻き寿司のツナがなく、三角おにぎりのツナしかなかったため自分はおにぎりを買って帰らなかった。
帰宅しそのことを告げると残念そうな顔をしたが、柔らかく煮たうどんを作ったら美味しそうに食べていた。
その翌々日、母親は亡くなった。
自分に最後に来たメールが「ツナのおにぎり買ってきて」だったこと、
それを叶えてあげられなかったことがのどに刺さった小骨のように引っ掛かっている。
だから私は今でも墓参りに行くときは手巻き寿司のツナを買っていく。
当時階段を上るにも、介助をしたうえで手すりを使ってゆっくりとしか上れない程になっていた母親に対し、
次の予定があった私はノロノロと車に乗り込む母親につい大きな声を出してしまった。
やっと乗り込んだ母親が椅子に座ることも確認せず、スライドドアを叩きつけるように閉めた。
大した予定でもなかったのに、どうして優しくできなかったんだろう。
乱暴に支えた母親の腰周りの感触、スライドドアの重みがまだ手に沁みついている。
母親が死んだらもっと楽しく美しいことばかり思い出すと思っていた。
しかし実際は、もっと若いころの話を聞いておけばよかったとか、色んな料理を作ってあげればよかったとか、
目的のないドライブに行ったり、犬をなでさせてあげたり、新しい歯ブラシをおろしてあげたりすればよかったとか、
そんな自分を責めるようなことばかりこの10年思ってきた。これじゃ母親もうかばれないだろうと思う。
幸せだったと死んでいった母親に、自分は今こんなに幸せなんだと子を紹介する。
このお盆を節目にしたいと思う。
お母さんがいなくなった事実がじわじわ精神のバランスおかしくしている。
今日も元気にじゃがいもを5個揚げてフライドポテトにして一気に食べて少し時間をおいてわざと吐いた。
お母さんの葬式の前日の夜にケンタッキーを6ピース買って全部食べて一気に吐いたことを思い出した。
お母さんが死んですぐはいつも通りの日常を過ごそうと思って、洗濯も料理も掃除も力を入れて頑張った。
でもここ最近風呂にも入らず自動販売機とコンビニしか行ってない。
毎日料理してスーパーで野菜を買って、作り置きをしたり魚を食べたりご飯の量をはかったり健康的だったのに最近食べるのは揚げ物とか出来合いばっかり。
昨日も今日と似たような食事内容で、キットカット一袋と出来合いのカツ丼、チーズに衣をつけて揚げたジャンキーなチーズフライ、じゃがいも4個分のフライドポテトと大量のマヨネーズとケチャップ、三ツ矢サイダー・・・
あとほかにも色々食べたけど忘れちゃった。
夜中の12時過ぎにどうしても我慢できなくて自動販売機のお菓子を買いに行った。それもキットカット。どんだけキットカット好きなんだよって感じだけど今年に入って初めて食べた。昨日。
全部吐けてる気が全くしないけど、一気にたくさん吐けると気持ちよくてそれが癖になっちゃってやめられなくなってきた。
どうしたらいいのかわからない。
極端なやせ型ではないどころかむしろ太ってるから、拒食症でも過食ってほど量も食べてないから病院に行ってもしかたない
というか今かかってる心療内科の医者は全く信用できないから言う気はないでも言ったほうがいいのかな。
お母さんに会いたくても会えないし、誰もトイレで吐いてるの心配してくれないし私個人のことを本気で考えてくれる人はこの世に一人もいない。
お母さんは私のことを本気で心配してたように見えたけど最後には自分のことで精いっぱいだったように見えたから本当に一人もいなくなっちゃった。
自分が生まれてこなければお母さんの人生はもうちょっと穏やかだったと思うし、悲しい思いもさせずに済んだし、地震がくるたびに極度におびえて、新しい仕事に行くたびに泣きわめくのを面倒見たりしなくて済んだ。
でも私のことをかわいいって常日頃言ってくれてたしありがとうって感謝の思いでいっぱいだけど、なんで私のことおいてったのという疑問ばっかりでありがとうって言いたい気分にならない。
いつもいろんなところに出かけて、近所だけど。なんでそれなのにお母さんと私は珍しく何週間もあってないなんて不思議で仕方ないし、お母さんは骨になっちゃった。
今からまた食べて吐くけど、お母さんのせいじゃないと思う。
トイレににおいがついたかもしれなくて、対処方法がわからない。
体調大丈夫って急に聞かれたからにおいで吐いてるのばれたかもしれない。
でもそれ以上何も聞いてきてくれないから、聞いてくれるように今日も吐いてみる。
吐いたりしちゃだめだよって言ってきてくれないと気が済まない。隠れてこそこそ吐くの疲れた。
キットカットとかのごみを片付けたいのにごみ袋がもうなくなっちゃって買いに行かないといけないのにどこに売ってるか知らなくて困ってる。
今日は何食べようかな~って思うんだけどむなしい
コンサートもなにもなくなって明日いいことはおこんないんだろうなーって思いながら寝るのがつらい。
睡眠のリズムは今のところ元気だから多分元気なんだろうけどなかなか元気になりきれない。
抗不安薬の頓服もらいに行けってキレられてもらったけど結局飲んでない。
昨日もおとといも薬飲み忘れた。今日もまだ飲んでない。
お母さんに会いたいって思うと涙が出てくる
一生お母さんに会えないで生きていかないといけないなんて信じられない。
お母さんに何にも教わらないでいて何してたんだろう
お母さんにいろいろ聞きたいことあるのにどこで聞けばいいんだろう
あの世に行って、あの世でお母さんは私に会ってくれるかわからないし、あの世にいくには私は若すぎるからあの世でまたお母さんに悲しい顔させるの確定しちゃうからまだいけない気がする。
お母さんがどこからかフラっと帰ってきてくれるような気ばっかりしちゃって毎日毎日だらだらしてたら呆れてくれてしっかりしてたら褒めてくれるような気がする。
お母さんに会いたくてももう会えないのがつらい。
お母さんに会いたい。
お母さんの代わりになってくれる人はいないしお母さん以上に大好きな人なんてこの世にいない。お母さんの声が聴きたい。
もう会えないのが受け入れられない。
この前派遣の仕事の最終日でもらったお菓子の中に火葬場で食べたお菓子が入ってて嫌だったんだよ。
筋トレも何日もさぼってるんだよ。
なにも通常通りじゃないよ助けてお母さん
お母さんが戻ってくれば全部解決することばっかりだから戻ってくるなら今しかないよ。
四十九日っていうのがまだだから、みんな今戻ってきてくれたら喜ぶよ。お願いだから戻ってきて
また一緒に買い物にいってうどん食べて、コメダに行って家電屋さんに行っていつも頑張ってるからって言ってなんか買ってほしいんだけどいつ帰ってきてくれるの?
お母さんまた会いたい一緒にかき氷とすいか食べよう、回転寿司行っていろいろ食べよう
お母さんに聞かないと何にもしたくない
お母さんに電話したいお母さんにプレゼントがしたいお母さんに会いたい
これから先お母さんがいないなんて考えたくないお母さんがいないのがさみしい
この冬に亡くなった父方の祖母は、祖父の初婚の相手が病没してからの後添いで、最近は後家でもあった。
彼女が祖父と再婚したとき、すでに父も伯父も成人していたので、祖母を慕うでも疎むでもない、いわゆるおとなの距離感だった一方、私と母は祖母とずっと仲良しだった。
祖母と血縁関係がないことを知ったのは小学生時代の半ばだったが、「あ、まじ?」くらいのかんじで、祖母のことは変わらずずっと好きだった。
80歳になった頃から認知症が出始めて、以降はちょっと若返り、ずっと79歳で通した。
90歳近くになっても「80歳になったら遺言状を書く」と言い続けていたので、遺言状書くのが潜在意識レベルで億劫だったんだろう、気持ちは79歳のまま、91歳で亡くなった。
歳もとしで、生存してる知己も皆無のため、葬儀では町内会長が弔辞を読んで下さった。
会費払うくらいの活動しかしてなかった祖母に対して「〇〇地区の発展のためおおいに尽力されました」は、いくらなんでも高齢者汎用弔辞丸出しだなと思われたから、私が親戚代表でお別れのことばを読めてよかった。
私は次男の娘、しかも結婚して姓も変わったというはんぱなポジで、完全に押し付けられたかっこうだけど、彼女のことを好きだったから、そういう人が読んだほうがいいと我ながら思ったのだ。
祖母は私達家族がたずねると、「今くるところと思っとったとよ」と言って迎えてくれ、帰るときは「もう帰るとね。泊まっていけばよかやんね」と送ってくれた。
電話を掛けると、「今かけようと思っとったとこやった。気は心たいね」と言った。
それが大好きで、もう聞けないと思うと寂しくて仕方ないと、そうお別れのことばをのべながら私は泣き、母も泣き、その後の進行でも泣き通しに泣いていたのだが、式の最後、死に水をとる段(祖母の地域では、菊の葉っぱに飲料をつけ、遺体の唇を湿らせる行為)になって涙が引っ込んだ。
死に水がオロナミンCだったのだ。
葬儀場の人がすんごいしめやかに「オロナミンCをご用意いたしました」って言いだしたとき、死んでるのに元気ハツラツもあるかよ、と思い、さっきまで泣いていたのに急転直下で笑いをこらえるはめになった。
のちに、伯父が気を利かせて手配したと発覚するのだが、それにしたって死に水がオロナミンCとは……と思うと同時に、私はかすかな違和感を覚えていた。
生前祖母はたしかにこの手の飲み物を愛飲していた。夏場に行くと茶色い瓶を差し出し、増田ちゃんも飲まんね、と勧めてくれた記憶もある。
ならばオロナミンCを飲んでいたのだろう。よく生協からとっていたという記憶もまた、あるにはある。
葬儀後、伯父は、我ながらオロナミンCはナイスプレイだった、祖母子さんは(伯父も父も、決してお母さんとは呼ばない)オロナミンCが好きやったけん、と自ら言いまわっていた。伯父は祖母と敷地内別居をしていたので、離れて暮らした私よりよほど祖母の生活に詳しいはずではある。
そんなわけでオロナミンCで死に水をとったのち、祖母は骨だけの姿にかわり、四十九日を納骨の日と定めて再度集まった。
その日、葬儀のときは訪ねなかった、祖母が亡くなる直前まで暮らした家に寄り、私はそこで、おもいもしなかったものを目にした。軒下に大量の茶色い瓶が置いてある。
あーほんとに大好きだったんだな、おじいちゃんに怒られるくらい飲んでたよな……と思って瓶の群れに近付き、私は雷に打たれたような衝撃をうけた。
瓶が……でかい!
これは、オロナミンCの瓶ではない……!
「それはもうデカビタやんか」
とかえってきた。
葬儀のときになんとなく感じた違和感の正体はこれだった。いま、瓶を見てはっきり思い出した。
大きな瓶のデカビタだったのだ。
おばあちゃん、死に水をエナドリ(?)にされるという素っ頓狂な目にあったうえに、銘柄を間違われてる……。
そのことがわかったとき、私はほんとうにほんとうに、心の底から悲しくなった。
実子のない後添いの、そして後家の、なんとつらく悲しいことかと思ってしまった。
成人してから出来た継母への興味なんて、そりゃ愛飲しているのがオロナミンかデカビタかもわからない程度のものなんだろう。
町内会長にはなんの罪もないどころか、参列の上弔辞まで読んで頂き感謝しかないが、あの汎用弔辞や、祖父の前妻が眠っているからという理由で一族の墓とは別に用意された納骨堂のことも、全部全部悲しく、やりきれなかった。(が、私が祖母なら納骨堂に入りたいなとも思った)
そして何より祖母に会いたくて仕方なくなってしまった。書いている今も祖母に会いたい。
が、あの世に向かって全力チャージしてしまった祖母とは、永遠にとは言わずとも、当面会う事はできないだろう。
どうしていいかわからないし、どこにもこの気持ちを持っていきようがないから、とりあえず、オロナミンとデカビタで、利きエナドリ(?)をやってみたいと思っているし、できたら両者区別がつかないといいとも思っている。
という話を、葬儀後、大学時代のサークル仲間で餃子パーティをしたときに話した。
その場の人たちは、参加したい、どうせならドデカミンやリアルゴールド、ミラクルVなども加えて盛大にやった方がいいと言ってくれたが、直後のコロナ禍でまだ開催できていない。
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(追記)
半年以上、祖母の死に水オロナミン事変についてもやもやしてたのもあり、長くまとまらない吐き出しだったのに、たくさんの人に読んでもらえていてびっくりしました。ありがとうございます。コメント全部読みました。これからもらえる分あったらきっとそれも読みます。祖母を悼んでくださった方、本当に恐れ入ります。これを自分で言うのも野暮ですが、リアルゴ……実話です。
オロナミンはデカビタの上位互換なので大丈夫、という意見が散見されてかなりとほっとしました。
1月、家のまえにいた迷子のおばあちゃんをご自宅まで送っていったときのことを増田を書いたら、思いがけずいろんなコメントをいただけて、それを読んで少し気持ちが整理できたということがあった、その直後に祖母が亡くなり、まさかのオロナミン事変。
こんどは自分のおばあちゃんの葬儀についてなかなか気持ちのか整理がつかず、もう一度……と思って増田に吐き出したら、笑ってもらえたり、やるせなく感じた部分をわかってくれる方もいてうれしかったです。
深夜に変なスピリチュアルの広告読んでゲラゲラ笑った後に、ちょっと思うことがあったから思いついたから書いただけなんだ。
乱雑だし、プロット作りも推敲も何もしていない。ただずっと抱えていたものを吐き出す場が欲しかっただけなので、とりわけ目立つものもない。
これを書いている私は、いま地方大で歴史を学ぶ大学院生だ。ストレートで大学院まで上がった位の年齢だと思ってほしい。
私の専門は歴史だが、そこから興味が広がって宗教や、それに関連する文化の話も好きだ。本来専門ではないけれど、色々本を読んでみたりしている。
そこで思うことがあった。宗教・信仰は本当に人の暮らしに密接に関わっていると実感した。そして、勉強を続けたからこそ気付く事や、それまで抱えていた自分の気持ちに整理をつけることができた。
この記事はそんな私の20年ちょっとの人生で触れてきた宗教に関する思い出の覚書だ。
私の家の目の前には、カトリック教会があって、附属幼稚園が教会のすぐ隣にある。ミッション系というやつだろう。
家からすぐということもあって、私と妹はそこの幼稚園に通っていた。
朝幼稚園に来たら、シスターたちに挨拶をし、玄関のマリア像の前で十字を切る。朝礼やお昼のお弁当を食べる前には「主の祈り(天におられる私たちの父よ~のやつだ)」を唱えたし、クリスマスの時期になれば、年長クラスの子たちがキリストの聖誕劇をやるために練習をしていた。
ああそう、あとメダイもちゃんともらっていた。確か聖母子像か、聖母マリアのものだったはずだが、年に数回会うおじいちゃん(どう考えても教会の神父だ。園長って呼んでいたけど)から、新年度になるたびに名札につけてもらっていた。
そんな幼稚園でキリスト教に触れる生活を送っていた幼少期。年長クラスはクリスマスに聖誕劇をしていたけど、年中クラスや年少クラスだって讃美歌を歌ったり、合奏をしていたので、どこの幼稚園もこういう歌を覚えているものだと思っていた。
卒園式のお祝いには、聖書を分かりやすくまとめた絵本をもらった。絵本といっても結構文字が書いてあるし、ハードカバーの大型絵本だった。聖書の教えも何度か聞いていたはずだが、私がきちんと聖書の物語に触れたのはあの卒園式の日だったに違いない。
既に本の虫だった私は、それなりに漢字も読める方の子どもだった。だからその絵本も気になって、天地創造から長い時間をかけて読み通した。
当時6歳の私は、意味はあまり分かっていなかったけど、ところどころの挿絵のインパクトは強烈だった。
洪水に翻弄されるノアの方舟、モーセが海を割るシーン、キリストが茨の冠を被せられ、鞭うたれるシーン。幼い私は、もうそれはそれはびっくりしたのだ。
それから数年経って、小学校を卒業して中二病が芽生えるような年になった頃、私はイキってまた聖書に関心を持ってみた。
西洋美術が分かるやつはかっこいいし、その元ネタが分かるとなおかっこいいと思っていた。恥ずかしい話だが。
そこでもう一度聖書のストーリーを絵本(今度は妹がもらってきたやつだ。まったく同じ絵本だが)を読んでおさらいし、やっぱり意味は理解しないままミルトンの『失楽園』とかを読んでいた。
この後、ぼんやり興味を薄く抱き続けたまま、今一度大学院に入ってからちゃんと勉強をしようと思い、現在に至っている。世界史とかは大事な要素だしね。
こうしてみると私はクリスチャンのように見えるのだが、家には仏壇があるし、今の興味の原点がある幼稚園時代にはその仏壇で「まんまんちゃんあん(関西で仏壇やお墓でお参りをするときに言う幼児語)」をしていた。祖母は今でも毎朝、犬の散歩から帰ると仏壇の前でお経を上げる。
父方の祖母と同居しているのだが、祖父は私が生まれる1年ほど前に亡くなっている。祖母は幼いころの私の面倒を、共働きの両親に代わって見てくれていたから、幼稚園から帰ると「おじいちゃんにまんまんちゃんあんして、ただいま言うんやで」と言われるがまま、お鈴を叩いて手を合わせていた。今でも何か報告(たとえば大学に受かった時や、卒業認定をされた時)があるときは仏壇の前に座ることがある。
お盆やお彼岸には、お墓参りはできるだけしようと思っているし、昨年京都に行ったときは私の家の宗派の本山のお寺にもお参りした。これは本当になんとなくだったけれど、行ってよかったなとは思っている。
だから私は、今のところは仏教徒で、ごく一般的な日本人の宗教観なのだけど、困ったことに、私はとある宗教の3世にあたる血筋でもある。
名前を出すのは少しはばかられるので婉曲的な表現をするが、先述のように私の家は仏壇のある仏教徒の家だ。宗派を言えば浄土真宗。
ただ母方は宗派が違い、日蓮宗なのだ。分かりやすく言えば父方の祖母は「南無阿弥陀仏」と唱えるけれど、母方の祖母は「南無妙法蓮華経」と唱える。
この時点で察しの良い方はお分かりかもしれない。母方の祖母はいわゆる「学会員」だ。
だから、母方の祖母の家に遊びに行くと某新聞が置いてあったし、本棚を見れば某氏の著作が置いてあった。
母自身は学会員ではない(嫁いでいるし)し、母の姉夫婦もそうでないのは知っている。私自身会員ではない。
だから3世を名乗る立場ではないのだが、私は学会員としての祖母の姿を見て、ああいった宗教に対する疑問を抱くようになった。
実際あの学会について「おや?」と思ったのは、私を可愛がっていた母方の祖父が亡くなった数年後だった。
祖父が亡くなった後、葬儀や四十九日の法要に関しては違和感を感じることはなかった。後になり、伯父がかなり骨を折ったことを知ったのだが。
違和感をはっきりと感じたのは母方の伯母夫婦、大叔母、そして私たち家族と祖母が参加した七回忌の法要だ。
いわゆる法事だから、自分の認識では「お坊さんを呼んで、お経を読んでもらって、そのあと親族で食事をする」というものだった。事実父方の祖父の法事はお坊さんを呼んでいる。
まず、お坊さんを呼んでいなかったのだ。黒スーツに黒いネクタイを締めた見知らぬ男性(見た感じ祖母とそれほど歳は変わらない人だった)が居て、私の知らない親戚かと思っていた。最初は。
いつになったらお坊さんが来るのだろうと思ったら、法事が始まるから仏壇の部屋に来いと言われた。言われるがまま妹の隣に座り、数珠を持っているとその男性が仏壇の前に座って、読経を始めた。
「は?」と思った。なんでこのオッサンがお経読んでるねん。お坊さん来られへんかったん?違和感しかなかった。
どうやら件の学会ではその地区で一番偉い学会員が法要の読経をするということを知ったのは、さらにそれから2年ほど経った頃だ。
ただ法事の時に、伯父が「僕はちゃんとした日蓮宗のお寺に骨を埋めてもらうように言っている」と若干怒気をはらんだ口調で言っていた理由が、理解できた。
母方の伯母夫婦とは、その七回忌の法要以降会っていない。いや、何度か伯母とは会ったが、伯父とはそれ以来もう何年も会っていない。
昔はよく祖母の家にお盆や正月の折に触れて来てくれていたのだけど、仕事の関係で来れない、と言うのが聞いている理由だ。でも、多分彼はきっと、学会員である祖母宅周辺の人に会いたくないのだろう。少しだけ言い合いになっていたし、伯父が祖父の葬儀に口出ししたことで何かがあったのだろう。
同時に、祖母が熱心に読経を一日に何度も行う理由、祖母の家にあった新聞や書籍がなんだったか、芋づる式に分かってちょっとだけ嫌気がさした。
祖母よりも熱心だったのは大叔母(祖父の姉)で、会合(というのがあるらしいが、この辺りは詳しく知らない)にも熱心に参加していたみたいだ。
別にこの記事で批判をしたいわけじゃない。けれど、どうしても伯父の言葉がずっと心に引っかかっているのだ。
「お義父さんの事も、ちゃんとお弔いしたいのにそれが出来ないのはほんまに悔しい」という伯父の言葉が。
いま色々な宗教の事を学び、宗教が社会に与える影響の強さを知った上で、私は伯父の言葉に同意したい。
信仰は自由だ。それはこの日本で認められた権利だ。けれど、大好きだった祖父のことを、あんなジジイの安い読経で弔いたくはないのだ。
そしてああ言った新興宗教団体が、親族との軋轢を産んでいることを伯母夫婦の一件で身に染みて実感したのだ。
母方の祖母と我が家の仲はいい。祖母はいま一人暮らしだし、私も長生きしてほしいと思っている。
けど、少しだけわがままを言うなら学会と縁は切ってほしいかな、と思わなくはない。
少し愚痴っぽくなったが、最後にその新興宗教がらみの話をちょっとだけ聞いてほしい。
大学進学以降そうした新興宗教がらみのトラブルやエピソードは少なからずあると知った。友人も巻き込まれたことがあったらしい。
大学の最寄駅前には某証人の人達が冊子を配るために立っているし、家にも何回かチラシがポスティングされたり、勧誘がそもそも来たりした。迷惑だから帰れ、と総スルーをかましたが。
去年なんか、右翼のおっさんが一般人に絡んで暴行しかけた事件の証言を、某会の勧誘をしていた女性二人がしていて「情報量が多い!」と内心ツッコミを入れた現場を目撃した。
彼らも、それを信仰するのは自由だけど、私のように嫌悪するまでもないがもやを抱えた人間を周りに産んでいるのではないかな、と時折思わなくない。
スピリチュアル系のトンデモ科学に関するツイートがTwitterなどでも話題になりがちだが、そういうのを見ても「ああ、なんというか、かわいそうだな」と思ってしまう。
思ってしまうだけで、それを思いっきりネタにして笑い飛ばしているあたり、私はかなり嫌な人物だなと自戒しなくもないが。
何度も言うが、批判する意図はない。あなたがもしここまでに挙げた何かの信者であっても、私は知らない。
ただ、ひとりの学生が格好をつけて、自分は何を信仰しているのだろうな、と思い返すための文章だから、大した感想も求めていないのだ。
藤原さんの四十九日も過ぎたところで、世の皆様に伝えたいことがある。
それは、病気の状態には「闘病中」と「完治」の他に「寛解(かんかい)」という状態があるという事だ。
※なんだ、そんなの知ってるよ、という方は、以降を読む必要はありません※
寛解とは、治療行為により一時的に病気の症状(痛み等)が消失したが、いつまた再発・再燃するかわからないので治療や
もう再発しないという状態になって初めて完治と言えるのである。
何故私がこんな事を言うかというと、2019年の春頃、インターネット上でこんな発言を目にした事があったからだ
↓ ↓
「藤原さんは完治してる。でも今の声優が役を手放さないから、野原ひろし役に復帰できない」
この時期、既に藤原さんは「ゴクドルズ」等で仕事に復帰していた。つまり藤原さんが声優界に復帰したのに
ひろし役に復帰しないのは代役の森川智之さんのせいだ、というデマである。
病気の状態に関する概念を「療養中」と「完治」の2種類しか持っていないから、こんなデマ発言につながるのだ。
藤原さんの病気は癌であった事が逝去後に発表された。一般的に、癌の場合、寛解が5年続けば完治である。
つまり藤原さんは寛解状態であるが完治はしていなかったのだ。退院後少なくとも5年間は、1クールの仕事は引き受
けても、長寿アニメであるクレヨンしんちゃんへの復帰は難しい状態だったのである。
以上です。藤原さんの出演作の思い出もいろいろ書きたいが、それについては稿を改めたい
(センター試験で話題になったけど、全文読めるところが見つからなかったので)
底本:原民喜戦後全小説 下(講談社文芸文庫)1995年8月10日第1刷発行
I
私が魯迅の「孤独者」を読んだのは、一九三六年の夏のことであったが、あのなかの葬いの場面が不思議に心を離れなかった。不思議だといえば、あの本——岩波文庫の魯迅選集——に掲載してある作者の肖像が、まだ強く心に蟠(わだかま)るのであった。何ともいい知れぬ暗黒を予想さす年ではあったが、どこからともなく惻々として心に迫るものがあった。その夏がほぼ終ろうとする頃、残暑の火照りが漸く降りはじめた雨でかき消されてゆく、とある夜明け、私は茫とした状態で蚊帳のなかで目が覚めた。茫と目が覚めている私は、その時とらえどころのない、しかし、かなり烈しい自責を感じた。泳ぐような身振りで蚊帳の裾をくぐると、足許に匐っている薄暗い空気を手探りながら、向側に吊してある蚊帳の方へ、何か絶望的な、愬(うった)えごとをもって、私はふらふらと近づいて行った。すると、向側の蚊帳の中には、誰だか、はっきりしない人物が深い沈黙に鎖されたまま横わっている。その誰だか、はっきりしない黒い影は、夢が覚めてから後、私の老いた母親のように思えたり、魯迅の姿のように想えたりするのだった。この夢をみた翌日、私の郷里からハハキトクの電報が来た。それから魯迅の死を新聞で知ったのは恰度亡母の四十九忌の頃であった。
その頃から私はひどく意気銷沈して、落日の巷を行くの概(おもむき)があったし、ふと己の胸中に「孤独者」の嘲笑を見出すこともあったが、激変してゆく周囲のどこかに、もっと切実な「孤独者」が潜んでいはすまいかと、窃(ひそ)かに考えるようになった。私に最初「孤独者」の話をしかけたのは、岩井繁雄であった。もしかすると、彼もやはり「孤独者」であったのかもしれない。
彼と最初に出逢ったのは、その前の年の秋で、ある文学研究会の席上はじめてSから紹介されたのである。その夜の研究会は、古びたビルの一室で、しめやかに行われたのだが、まことにそこの空気に応(ふさ)わしいような、それでいて、いかにも研究会などにはあきあきしているような、独特の顔つきの痩形長身の青年が、はじめから終りまで、何度も席を離れたり戻って来たりするのであった。それが主催者の長広幸人であるらしいことは、はじめから想像できたが、会が終るとSも岩井繁雄も、その男に対って何か二こと三こと挨拶して引上げて行くのであった。さて、長広幸人の重々しい印象にひきかえて、岩井繁雄はいかにも伸々した、明快卒直な青年であった。長い間、未決にいて漸く執行猶予で最近釈放された彼は、娑婆に出て来たことが、何よりもまず愉快でたまらないらしく、それに文学上の抱負も、これから展望されようとする青春とともに大きかった。
岩井繁雄と私とは年齢は十歳も隔たってはいたが、折からパラつく時雨をついて、自動車を駆り、遅くまでSと三人で巷を呑み歩いたものであった。彼はSと私の両方に、絶えず文学の話を話掛けた。極く初歩的な問題から再出発する気組で——文章が粗雑だと、ある女流作家から注意されたので——今は志賀直哉のものをノートし、まず文体の研究をしているのだと、そういうことまで卒直に打明けるのであった。その夜の岩井繁雄はとにかく愉快そうな存在だったが、帰りの自動車の中で彼は私の方へ身を屈めながら、魯迅の「孤独者」を読んでいるかと訊ねた。私がまだ読んでいないと答えると話はそれきりになったが、ふとその時「孤独者」という題名で私は何となくその夜はじめて見た長広幸人のことが頭に閃いたのだった。
それから夜更の客も既に杜絶えたおでん屋の片隅で、あまり酒の飲めない彼は、ただその場の空気に酔っぱらったような、何か溢れるような顔つきで、——やはり何が一番愉しかったといっても、高校時代ほど生き甲斐のあったことはない、と、ひどく感慨にふけりだした。
私が二度目の岩井繁雄と逢ったのは一九三七年の春で、その時私と私の妻は上京して暫く友人の家に滞在していたが、やはりSを通じて二三度彼と出逢ったのである。彼はその時、新聞記者になったばかりであった。が、相変らず溢れるばかりのものを顔面に湛えて、すくすくと伸び上って行こうとする姿勢で、社会部に入社したばかりの岩井繁雄はすっかりその職業が気に入っているらしかった。恰度その頃紙面を賑わした、結婚直前に轢死(れきし)を遂げた花婿の事件があったが、それについて、岩井繁雄は、「あの主人公は実はそのアルマンスだよ」と語り、「それに面白いのは花婿の写真がどうしても手に入らないのだ」と、今もまだその写真を追求しているような顔つきであった。そうして、話の途中で手帳を繰り予定を書込んだり、何か行動に急きたてられているようなところがあった。かと思うと、私の妻に「一たい今頃所帯を持つとしたら、どれ位費用がかかるものでしょうか」と質問し、愛人が出来たことを愉しげに告白するのであった。いや、そればかりではない、もしかすると、その愛人と同棲した暁には、染料の会社を設立し、重役になるかもしれないと、とりとめもない抱負も語るのであった。二三度逢ったばかりで、私の妻が岩井繁雄の頼もしい人柄に惹きつけられたことは云うまでもない。私の妻はしばしば彼のことを口にし、たとえば、混みあうバスの乗降りにしても、岩井繁雄なら器用に婦人を助けることができるなどというのであった。私もまた時折彼の噂は聞いた。が、私たちはその後岩井繁雄とは遂に逢うことがなかったのである。
日華事変が勃発すると、まず岩井繁雄は巣鴨駅の構内で、筆舌に絶する光景を目撃したという、そんな断片的な噂が私のところにも聞えてきて、それから間もなく彼は召集されたのである。既にその頃、愛人と同居していた岩井繁雄は補充兵として留守隊で訓練されていたが、やがて除隊になると再び愛人の許に戻って来た。ところが、翌年また召集がかかり、その儘前線へ派遣されたのであった。ある日、私がSの許に立寄ると、Sは新聞の第一面、つまり雑誌や新刊書の広告が一杯掲載してある面だけを集めて、それを岩井繁雄の処へ送るのだと云って、「家内に何度依頼しても送ってくれないそうだから僕が引うけたのだ」とSは説明した。その説明は何か、しかし、暗然たるものを含んでいた。岩井繁雄が巣鴨駅で目撃した言語に絶する光景とはどんなことなのか私には詳しくは判らなかったが、とにかく、ぞっとするようなものがいたるところに感じられる時節であった。ある日、私の妻は小学校の講堂で傷病兵慰問の会を見に行って来ると、頻りに面白そうに余興のことなど語っていたが、その晩、わあわあと泣きだした。昼間は笑いながら見たものが、夢のなかでは堪らなく悲しいのだという。ある朝も、——それは青葉と雨の鬱陶しい空気が家のうちまで重苦しく立籠っている頃であったが——まだ目の覚めきらない顔にぞっとしたものを浮べて、「岩井さんが還って来た夢をみた。痩せて今にも斃れそうな真青な姿でした」と語る。妻はなおその夢の行衛を追うが如く、脅えた目を見すえていたが、「もしかすると、岩井さんはほんとに死ぬるのではないかしら」と嘆息をついた。それは私の妻が発病する前のことで、病的に鋭敏になった神経の前触れでもあったが、しかしこの夢は正夢であった。それから二三ヵ月して、岩井繁雄の死を私はSからきいた。戦地にやられると間もなく、彼は肺を犯され、一兵卒にすぎない彼は野戦病院で殆ど碌に看護も受けないで死に晒されたのであった。
岩井繁雄の内縁の妻は彼が戦地へ行った頃から新しい愛人をつくっていたそうだが、やがて恩賜金を受取るとさっさと老母を見捨てて岩井のところを立去ったのである。その後、岩井繁雄の知人の間では遺稿集——書簡は非常に面白いそうだ——を出す計画もあった。彼の文章が粗雑だと指摘した女流作家に、岩井繁雄は最初結婚を申込んだことがある。——そういうことも後になって誰かからきかされた。
たった一度見たばかりの長広幸人の風貌が、何か私に重々しい印象を与えていたことは既に述べた。一九三五年の秋以後、遂に私は彼を見る機会がなかった。が、時に雑誌に掲載される短かいものを読んだこともあるし、彼に対するそれとない関心は持続されていた。岩井繁雄が最初の召集を受けると、長広幸人は倉皇と満洲へ赴いた。当時は満洲へ行って官吏になりさえすれば、召集免除になるということであった。それから間もなく、長広幸人は新京で文化方面の役人になっているということをきいた。あの沈鬱なポーズは役人の服を着ても身に着くだろうと私は想像していた。それから暫く彼の消息はきかなかったが、岩井繁雄が戦病死した頃、長広幸人は結婚をしたということであった。それからまた暫く彼の消息はきかなかったが、長広幸人は北支で転地療法をしているということであった。そして、一九四二年、長広幸人は死んだ。
既に内地にいた頃から長広幸人は呼吸器を犯されていたらしかったが、病気の身で結婚生活に飛込んだのだった。ところが、その相手は資産目あての結婚であったため、死後彼のものは洗い浚(ざら)い里方に持って行かれたという。一身上のことは努めて隠蔽する癖のある、長広幸人について、私はこれだけしか知らないのである。
II
私は一九四四年の秋に妻を喪ったが、ごく少数の知己へ送った死亡通知のほかに、満洲にいる魚芳へも端書を差出しておいた。妻を喪った私は悔み状が来るたびに、丁寧に読み返し仏壇のほとりに供えておいた。紋切型の悔み状であっても、それにはそれでまた喪にいるものの心を鎮めてくれるものがあった。本土空襲も漸く切迫しかかった頃のことで、出した死亡通知に何の返事も来ないものもあった。出した筈の通知にまだ返信が来ないという些細なことも、私にとっては時折気に掛るのであったが、妻の死を知って、ほんとうに悲しみを頒ってくれるだろうとおもえた川瀬成吉からもどうしたものか、何の返事もなかった。
私は妻の遺骨を郷里の墓地に納めると、再び棲みなれた千葉の借家に立帰り、そこで四十九日を迎えた。輸送船の船長をしていた妻の義兄が台湾沖で沈んだということをきいたのもその頃である。サイレンはもう頻々と鳴り唸っていた。そうした、暗い、望みのない明け暮れにも、私は凝と蹲ったまま、妻と一緒にすごした月日を回想することが多かった。その年も暮れようとする、底冷えの重苦しい、曇った朝、一通の封書が私のところに舞込んだ。差出人は新潟県××郡××村×川瀬丈吉となっている。一目見て、魚芳の父親らしいことが分ったが、何気なく封を切ると、内味まで父親の筆跡で、息子の死を通知して来たものであった。私が満洲にいるとばかり思っていた川瀬成吉は、私の妻より五ヵ月前に既にこの世を去っていたのである。
私がはじめて魚芳を見たのは十二年前のことで、私達が千葉の借家へ移った時のことである。私たちがそこへ越した、その日、彼は早速顔をのぞけ、それからは殆ど毎日註文を取りに立寄った。大概朝のうち註文を取ってまわり、夕方自転車で魚を配達するのであったが、どうかすると何かの都合で、日に二三度顔を現わすこともあった。そういう時も彼は気軽に一里あまりの路を自転車で何度も往復した。私の妻は毎日顔を逢わせているので、時々、彼のことを私に語るのであったが、まだ私は何の興味も関心も持たなかったし、殆ど碌に顔も知っていなかった。
私がほんとうに魚芳の小僧を見たのは、それから一年後のことと云っていい。ある日、私達は隣家の細君と一緒にブラブラと千葉海岸の方へ散歩していた。すると、向の青々とした草原の径をゴムの長靴をひきずり、自転車を脇に押しやりながら、ぶらぶらやって来る青年があった。私達の姿を認めると、いかにも懐しげに帽子をとって、挨拶をした。
「魚芳さんはこの辺までやって来るの」と隣家の細君は訊ねた。
「ハア」と彼はこの一寸した逢遭を、いかにも愉しげにニコニコしているのであった。やがて、彼の姿が遠ざかって行くと、隣家の細君は、
「ほんとに、あの人は顔だけ見たら、まるで良家のお坊ちゃんのようですね」と嘆じた。その頃から私はかすかに魚芳に興味を持つようになっていた。
その頃——と云っても隣家の細君が魚芳をほめた時から、もう一年は隔っていたが、——私の家に宿なし犬が居ついて、表の露次でいつも寝そべっていた。褐色の毛並をした、その懶惰な雌犬は魚芳のゴム靴の音をきくと、のそのそと立上って、鼻さきを持上げながら自転車の後について歩く。何となく魚芳はその犬に対しても愛嬌を示すような身振であった。彼がやって来ると、この露次は急に賑やかになり、細君や子供たちが一頻り陽気に騒ぐのであったが、ふと、その騒ぎも少し鎮まった頃、窓の方から向を見ると、魚芳は木箱の中から魚の頭を取出して犬に与えているのであった。そこへ、もう一人雑魚(ざこ)売りの爺さんが天秤棒を担いでやって来る。魚芳のおとなしい物腰に対して、この爺さんの方は威勢のいい商人であった。そうするとまた露次は賑やかになり、爺さんの忙しげな庖丁の音や、魚芳の滑らかな声が暫くつづくのであった。——こうした、のんびりした情景はほとんど毎日繰返されていたし、ずっと続いてゆくもののようにおもわれた。だが、日華事変の頃から少しずつ変って行くのであった。
私の家は露次の方から三尺幅の空地を廻ると、台所に行かれるようになっていたが、そして、台所の前にもやはり三尺幅の空地があったが、そこへ毎日、八百屋、魚芳をはじめ、いろんな御用聞がやって来る。台所の障子一重を隔てた六畳が私の書斎になっていたので、御用聞と妻との話すことは手にとるように聞える。私はぼんやりと彼等の会話に耳をかたむけることがあった。ある日も、それは南風が吹き荒んでものを考えるには明るすぎる、散漫な午後であったが、米屋の小僧と魚芳と妻との三人が台所で賑やかに談笑していた。そのうちに彼等の話題は教練のことに移って行った。二人とも青年訓練所へ通っているらしく、その台所前の狭い空地で、魚芳たちは「になえつつ」の姿勢を実演して興じ合っているのであった。二人とも来年入営する筈であったので、兵隊の姿勢を身につけようとして陽気に騒ぎ合っているのだ。その恰好がおかしいので私の妻は笑いこけていた。だが、何か笑いきれないものが、目に見えないところに残されているようでもあった。台所へ姿を現していた御用聞のうちでは、八百屋がまず召集され、つづいて雑貨屋の小僧が、これは海軍志願兵になって行ってしまった。それから、豆腐屋の若衆がある日、赤襷をして、台所に立寄り忙しげに別れを告げて行った。
目に見えない憂鬱の影はだんだん濃くなっていたようだ。が、魚芳は相変らず元気で小豆(こまめ)に立働いた。妻が私の着古しのシャツなどを与えると、大喜びで彼はそんなものも早速身に着けるのであった。朝は暗いうちから市場へ行き、夜は皆が寝静まる時まで板場で働く、そんな内幕も妻に語るようになった。料理の骨(こつ)が憶えたくて堪らないので、教えを乞うと、親方は庖丁を使いながら彼の方を見やり、「黙って見ていろ」と、ただ、そう呟くのだそうだ。鞠躬如(きっきゅうじょ)として勤勉に立働く魚芳は、もしかすると、そこの家の養子にされるのではあるまいか、と私の妻は臆測もした。ある時も魚芳は私の妻に、——あなたとそっくりの写真がありますよ。それが主人のかみさんの妹なのですが、と大発見をしたように告げるのであった。
冬になると、魚芳は鵯(ひよどり)を持って来て呉れた。彼の店の裏に畑があって、そこへ毎朝沢山小鳥が集まるので、釣針に蚯蚓(みみず)を附けたものを木の枝に吊しておくと、小鳥は簡単に獲れる。餌は前の晩しつらえておくと、霜の朝、小鳥は木の枝に動かなくなっている——この手柄話を妻はひどく面白がったし、私も好きな小鳥が食べられるので喜んだ。すると、魚芳は殆ど毎日小鳥を獲ってはせっせと私のところへ持って来る。夕方になると台所に彼の弾んだ声がきこえるのだった。——この頃が彼にとっては一番愉しかった時代かもしれない。その後戦地へ赴いた彼に妻が思い出を書いてやると、「帰って来たら又幾羽でも鵯鳥を獲って差上げます」と何かまだ弾む気持をつたえるような返事であった。
翌年春、魚芳は入営し、やがて満洲の方から便りを寄越すようになった。その年の秋から私の妻は発病し療養生活を送るようになったが、妻は枕頭で女中を指図して慰問の小包を作らせ魚芳に送ったりした。温かそうな毛の帽子を着た軍服姿の写真が満洲から送って来た。きっと魚芳はみんなに可愛がられているに違いない。炊事も出来るし、あの気性では誰からも重宝がられるだろう、と妻は時折噂をした。妻の病気は二年三年と長びいていたが、そのうちに、魚芳は北支から便りを寄越すようになった。もう程なく除隊になるから帰ったらよろしくお願いする、とあった。魚芳はまた帰って来て魚屋が出来ると思っているのかしら……と病妻は心細げに嘆息した。一しきり台所を賑わしていた御用聞きたちの和やかな声ももう聞かれなかったし、世の中はいよいよ兇悪な貌を露出している頃であった。千葉名産の蛤の缶詰を送ってやると、大喜びで、千葉へ帰って来る日をたのしみにしている礼状が来た。年の暮、新潟の方から梨の箱が届いた。差出人は川瀬成吉とあった。それから間もなく除隊になった挨拶状が届いた。魚芳が千葉へ訪れて来たのは、その翌年であった。
その頃女中を傭えなかったので、妻は寝たり起きたりの身体で台所をやっていたが、ある日、台所の裏口へ軍服姿の川瀬成吉がふらりと現れたのだった。彼はきちんと立ったまま、ニコニコしていた。久振りではあるし、私も頻りに上ってゆっくりして行けとすすめたのだが、彼はかしこまったまま、台所のところの閾から一歩も内へ這入ろうとしないのであった。「何になったの」と、軍隊のことはよく分らない私達が訊ねると、「兵長になりました」と嬉しげに応え、これからまだ魚芳へ行くのだからと、倉皇として立去ったのである。
そして、それきり彼は訪ねて来なかった。あれほど千葉へ帰る日をたのしみにしていた彼はそれから間もなく満洲の方へ行ってしまった。だが、私は彼が千葉を立去る前に街の歯医者でちらとその姿を見たのであった。恰度私がそこで順番を待っていると、後から入って来た軍服の青年が歯医者に挨拶をした。「ほう、立派になったね」と老人の医者は懐しげに肯いた。やがて、私が治療室の方へ行きそこの椅子に腰を下すと、間もなく、後からやって来たその青年も助手の方の椅子に腰を下した。「これは仮りにこうしておきますから、また郷里の方でゆっくりお治しなさい」その青年の手当はすぐ終ったらしく、助手は「川瀬成吉さんでしたね」と、机のところのカードに彼の名を記入する様子であった。それまで何となく重苦しい気分に沈んでいた私はその名をきいて、はっとしたが、その時にはもう彼は階段を降りてゆくところだった。
それから二三ヵ月して、新京の方から便りが来た。川瀬成吉は満洲の吏員に就職したらしかった。あれほど内地を恋しがっていた魚芳も、一度帰ってみて、すっかり失望してしまったのであろう。私の妻は日々に募ってゆく生活難を書いてやった。すると満洲から返事が来た。「大根一本が五十銭、内地の暮しは何のことやらわかりません。おそろしいことですね」——こんな一節があった。しかしこれが最後の消息であった。その後私の妻の病気は悪化し、もう手紙を認(したた)めることも出来なかったが、満洲の方からも音沙汰なかった。
その文面によれば、彼は死ぬる一週間前に郷里に辿りついているのである。「兼て彼の地に於て病を得、五月一日帰郷、五月八日、永眠仕候」と、その手紙は悲痛を押つぶすような調子ではあるが、それだけに、佗しいものの姿が、一そう大きく浮び上って来る。
あんな気性では皆から可愛がられるだろうと、よく妻は云っていたが、善良なだけに、彼は周囲から過重な仕事を押つけられ、悪い環境や機構の中を堪え忍んで行ったのではあるまいか。親方から庖丁の使い方は教えて貰えなくても、辛棒した魚芳、久振りに訪ねて来ても、台所の閾から奥へは遠慮して這入ろうともしない魚芳。郷里から軍服を着て千葉を訪れ、晴れがましく顧客の歯医者で手当してもらう青年。そして、遂に病躯をかかえ、とぼとぼと遠国から帰って来る男。……ぎりぎりのところまで堪えて、郷里に死にに還った男。私は何となしに、また魯迅の作品の暗い翳を思い浮べるのであった。