はてなキーワード: 遺産整理とは
母、父、僕、妹
母は去年の春にガンが見つかったときにはすでに末期だったらしい。
らしい、というのは、僕は実家から新幹線で3時間の距離に住んでいる。
母の闘病を手伝えたのは最後の一ヶ月だけだった。
母のガンがみつかってからは、父と妹が母に付き添ってくれていた。
(妹は僕とくらべれば実家の近くに住んでいる)
母はとにかく明るく前向きで真っ直ぐな人だったため、闘病も最後の最後、一切の治療ができなくなった時まで緩和ケアという選択はしなかった。
昨今の新型感染症の影響で、最後の家族旅行に行くことができなかったのが悔やまれる。
(これに関しては抗がん剤治療で一気に体力がなくなってしまったため。行くなら抗がん剤治療を始める前のほうがよいのだろうな、というのが反省である)
感染症の影響もあり、母の病気が見つかってからは、去年の夏と、最後の一ヶ月の二度しか会うことができなかった。
今年の春になって、母の容態がさらに悪くなったと連絡を受け、しばらく仕事を休んで実家に戻った。
母はガンが全身の骨に転移しており、顔の形が変わってしまっていた。
去年の夏から半年でここまで悪くなるのか、と悔しい気持ちでいっぱいになった。
この時、母はまともに食事がとれなくなっていた。
僕は気づかなかったが(どのくらいの食事量が正常が知らなかったため)、その異変を父が感じ取ってくれて、母を入院手続きするところまで実家で手伝いをした。
感染症の影響で、面会謝絶であったため、僕にできることは何も無くなった。
そして、母の容態も最後の状態になり、母は退院して実家に戻ってくることになった。
退院後、母は9日間、家で過ごして、そして亡くなった。
最初の4日ほどはまだずいぶん元気で(完全なる寝たきりではあったが)、実家にいたころの楽しみであったミステリドラマやipadでのゲームなどを楽しんでいた。
最後の3日は、毎朝計測していた血圧がちょうど10ずつ下がり、最後の日は聴診器では血圧を測れなくなったため、脈拍を指で確認しながら血圧を測ってもらっていた。
母が息を引き取った時、僕は母の右手を、妹が母の左手をさすっていた。
当時の僕は、母が亡くなる日が今日だとは思っておらず、また連日の看護でまともに眠れていなかったため、正常な判断力もなかったように思う。
母が呼吸をしなくなったことを、看護師さんを家の外でまっていた父に伝え、妹と、ちょうど来ていた妹の子供達とみんなで母に別れを伝えた。
妹の夫(僕からみたら義弟)もありがたいことに駆けつけてくれた。
看護師さんが来て、担当のお医者さんを呼んでくれ、お医者さんがやってきて、死亡診断書を書いていただいた。
そしてまた来てくれた看護師さんが母の体を綺麗に拭いてくれた。
今回の経験で、最後を看取るための医療にかかわる方々には、ただただ尊敬の念を抱いたことを覚えている。
葬儀社に連絡し、母の体をドライアイスと冷房で保たせるようにした。
葬儀は母が大好きだった花をいっぱい飾り付けしてくれるように手配した。
母が亡くなってから3日ほどは、僕はずっと泣いていたように思う。
3日目に、学生の頃の友達に最後の別れをしてくれるように集まってもらい、20年ぶりに心の底からくだらなくて楽しい話をしたことで、僕の悲しみはだいぶ和らいだように思う。
母は葬儀の都合で一週間ほど家で過ごしたため、ご近所さんが相次いで挨拶にきてくれた。
通夜、葬儀は母の兄弟の子どもたち(僕からみたら従兄弟にあたる)が、母の兄弟の代理としてきてくれた。
母と父の若い頃からの友人(僕も子供のころに大変お世話になった)も来てくれた。
母を棺にいれてもらい、花で満たし、そして火葬場へ向かい、荼毘に付してもらった。
最近の火葬場は、骨を拾いやすいように火葬場の人が丁寧に並べてくれるんだなぁという発見もあった。
母が亡くなったことの届け出を大量にこなし、遺産整理(金額は小さいがやることが細かくたくさんあった)をして、僕は自分の生活に戻った。
もうすぐ四十九日と納骨だ。
5年の介護の末、父が死んだ。今日は忌引きで休みだ。先週末にかけて通夜、葬儀とおわり、遺産整理やら名義変更やら自治体通知やら法的対応は山ほど残っているが、こうして増田をかける。
痴呆症だった。最後は日に数分起きる暮らしに落ち着いた。最後の最後は目を覚まさず、ただ、呼吸をやめた。自宅での見取りとなった。それが父の希望にかなったのかは、介護の間からわかりえなかった。ひとりの老人を死ぬまで生かすために、大勢の大人と多額の資金と、終わりがみえなくてもおれない心と、無限のような時間が必要だった。人と金以外は自分で用意するしかなかったのがもっともつらかった。
そして、父は死を恐れたのだろうか。痴呆症の彼は死を知覚、認識できたのだろうか。明日死ぬ、午後に死ぬ、五分後に死ぬ、もう死ぬと迫ってくるのを理解したのだろうか。
僕も最後は痴呆症になりたいと願った。死ぬのを理解しなくていいのなら、もっとも気軽に死ねるのではないだろうか。介護をしながら、父のその最後にあこがれた。もう、彼の時間は止まってしまい、主観的には死んでいたのかもしれない。あれは何が生きていたのかもうよくわからない。ただ生かさなければならない、その社会要求に、僕が答え続けただけだった。偉そうに。
5年の介護の末、父が死んだ。今日は忌引きで休みだ。先週末にかけて通夜、葬儀とおわり、遺産整理やら名義変更やら自治体通知やら法的対応は山ほど残っているが、こうして増田をかける。
痴呆症だった。最後は日に数分起きる暮らしに落ち着いた。最後の最後は目を覚まさず、ただ、呼吸をやめた。自宅での見取りとなった。それが父の希望にかなったのかは、介護の間からわかりえなかった。ひとりの老人を死ぬまで生かすために、大勢の大人と多額の資金と、終わりがみえなくてもおれない心と、無限のような時間が必要だった。人と金以外は自分で用意するしかなかったのがもっともつらかった。
そして、父は死を恐れたのだろうか。痴呆症の彼は死を知覚、認識できたのだろうか。明日死ぬ、午後に死ぬ、五分後に死ぬ、もう死ぬと迫ってくるのを理解したのだろうか。
僕も最後は痴呆症になりたいと願った。死ぬのを理解しなくていいのなら、もっとも気軽に死ねるのではないだろうか。介護をしながら、父のその最後にあこがれた。もう、彼の時間は止まってしまい、主観的には死んでいたのかもしれない。あれは何が生きていたのかもうよくわからない。ただ生かさなければならない、その社会要求に、僕が答え続けただけだった。偉そうに。