はてなキーワード: ジョージ・オーウェルとは
https://dic.nicovideo.jp/a/%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%94%E3%82%A2
ディストピアとは、「ユートピア(理想郷)」とは逆の社会である。
よくSFなどで題材とされ、「表面的には秩序だって管理の行き届いた世界に見えるが、その内実は極端なまでの管理社会であり言論の自由などがない」社会として描かれることが多い。ジョージ・オーウェルの小説「1984年」などがとくに有名かと思われる。
また、自由な上層階級社会の下に人間扱いされない下層階級が描かれることも多く、ディストピア小説のはしりとされるH・G・ウェルズの「タイムマシン」においては、抑圧された労働者階級が地下に潜り無知な天使と化した旧上層階級を捕食する様子が描かれる。
尚、人類が伝染病や核戦争で滅亡していなくなってしまった世界をディストピアと呼ぶことがよくあるが、これらの世界観はポストアポカリプス「終末の後」と呼ばれる全くの別物であり、誤用である。
どうしようもないね。
しかし、他の人が言うような人権云々を訴えるつもりは毛頭無い。
単に犯罪者に罪を償わせる観点から言えば、終身刑こそが死刑以上に重く、適切な刑罰であると考えているからだ。
そもそも死刑が最も重い刑罰だと言う世間の認識が理解できない。
刑の執行は長くても数時間かからないだろう。それで犯罪者自身の罪は消える。
いや、道徳的には消えないのだろうけれど。
死んでしまった以上、犯罪者にそれ以上の刑罰を求めることも与える事も出来ない。
どんな重罪を犯したところで、犯罪者の命一つを差し出せばそれで終わりなのだ。
果たしてそれで良いのだろうか。私は違うと思う。
自由を絶たれ、希望を絶たれ、日々惨めさを噛み締めながら、ただ老いて行くだけの人生を送らせる事こそ重犯罪者に必要な過程ではないだろうか。
ジョージ・オーウェル1984のウィンストン・スミスの最期を想像して欲しい。
なぜウィンストンは反逆の事実を持って即処刑されなかったのか。
己の罪を認め、悔い改めながら死を受け入れることにこそ意味があることをビッグブラザーは理解していた。
今日のオセアニアでは人々はニュースピークやダブルシンクを通じ認識が操作されるため、禁止や命令をされる前に、すでに党の理想どおりの考えを持ってしまっている。
人類にとって死は究極の逃避行なのだ。重犯罪者にしてみれば尚更である。
それをみすみす彼らに差し出す事は、彼らを苦しみから解放する事は、
重犯罪を犯した犯罪者が死刑にでもなれば世間はさぞかし溜飲が下がる事だろう。
世間の溜飲を下げる目的であれば、それがショーであるならば、私も死刑は正しい選択だと考えている。
しかし、罪を償わせることを目的にしているのであれば、死刑は不適切な刑罰であると言わざるを得ない。
自らの罪を悔い改める前に、自らの命と引き換えに、自らの罪から逃避できてしまう。
いや、我々が逃避させてしまっている。
ジョージ・オーウェルの「大切なことが手の届かない場所に隠されてしまったディストピア」とオルダス・ハクスリーの「大切なことがゴミの中に埋もれてしまったディストピア」みたいな話だな
色んなアニメ(時代問わず)見てて、なんかバッドエンドの作品が少ないなぁと感じる。もっとバッドエンドのアニメが見たい。ジョージ・オーウェルの「1984年」みたいな終わり方の作品無いのかな。
出来不出来のバッドエンドじゃなくて、悲しい結末の方のバッドエンド。バッドエンドの作品は「どうしてこんなことに…」とか「どこで選択を間違えたんだ」「あの時のあれはフラグだったんだ…」みたいな余韻を楽しむのが好き。一方ハッピー・エンドは「いろんな困難もあったり、選択を間違えたりしたけれど、とりあえず良い結末になってよかった」みたいに感じてしまって、そういう余韻を楽しむ気が起きないのが寂しい。ハッピーエンドもバッドエンドも、最後「登場人物の未来に思いを馳せる」という余韻は共通なのだけれど、それは作品を何度も見返すようなモチベーションに繋がりにくいところがあるので…。
アニメはマンガやラノベを原作として採用している事が多いけれど、そもそもマンガやラノベはハッピー・エンドの作品が多いのかも。ターゲットの年齢層が比較的若年で、彼らにはシリアスな作品があんまり受けない、みたいな傾向があるんだろうか。以前アニメのトークショーでとあるプロデューサーさんがおっしゃってたのは「アニメは明るい話からシリアスな話になると視聴率が下がる傾向にある」だそうで、アニメを見る人の多くは「観てて楽しいアニメ」を求めているのかな。
「クロノトリガー」「ディスガイア」「アーマード・コア」「Fable」「フォールアウト」なんかを遊びながら思春期を過ごしたのだけれど、こういうゲームのエンドはよくハッピーエンドともバッドエンドとも言えない感じの終わり方があって、「ほんとにこの終わり方でいいの?」とプレイヤーに訴えかけることで、何周も遊びたくなるように出来てる。ハッピーエンドもなくはないけど、それは大抵「あらゆるルートを攻略した人へのご褒美」みたいな形で用意されていて、一発で到達するのが難しい仕様なことが多い。そういう原体験を持ってるがゆえに、アニメがハッピーエンドを迎える度「えー、一発でそのルート引いちゃうの?」と思ってしまうのかもしれない。
機動戦士ガンダム0080 ~ポケットの中の戦争~(1989)
30年位前の作品。アルを演じる浪川大輔少年の演技がグロテスクに映える。登場人物がみんな身勝手で、とても悲しくなる。続編ではないけれど、DVDとBD発売時のCM演出がとても救いのある内容で、思わずガチ泣きしてしまった。
『機動戦士ガンダム0080 ポケットの中の戦争』 スぺシャルPV(バンダイチャンネル公式)
郷田に超法規的措置しなかったらバッドエンドだった。かといって良い結末を迎えられたわけでもなく。
「人生に劇的なことを期待してはならない」とは貝木泥舟の台詞だけれど、喜劇とも悲劇ともいえない結末を迎えるのが西尾維新作品の好きなところで、特に「しのぶタイム」「なでこメドゥーサ」「傷物語3部作」がとても良い。いや、悪い結末なのだけれど。
「どうしてこうなった」「ゆっくりバッドエンドに向かっていく物語」「幼女を愛でるアニメの皮をかぶった社会風刺」違う意味でもバッドエンドなのだけれど、それに目を瞑っても悲しい結末を迎えた作品。田舎創生をテーマにした作品はハッピーエンドが少ない印象。
近年まれに見るバッドエンド。劇場版として公開された作品だけど、映画館で観た人たちはどうなってしまったのだろうか。1期に至るまでの2年間に思いを馳せると非常に趣深い。
ろくでもない恋愛の末に以下略。音楽の先生が女優の遠野なぎこに見えて、まだまだ受難が続きそうな感じが良い。いや悪いんだけど。
最後、花火大会開けにおける学校シーンの解釈によってはバッドエンドではないのだけれど、あれはおまけみたいなもんなので。ちょっと調子に乗っちゃった子どもとちょっとマセた子どもの間に、何もなかった物語。
教えてよ、素敵なアニメの終わり方
追記
ブコメトラバ全部目を通してます。まず、お礼をば。こんな与太話に付き合っていただいて本当にありがとうございます。ここまで多様な作品を教えていただけるとは…。あとで可能な限り観てみようと思います。ありがとうございます。
mur2 そこにくまみこを入れてほしくない。
くまみこ原作をまだ読んでいないのだけれど「これ、作者に『これそういう作品じゃねえから!』って怒られないんだろうか?」って思いながら観てた。なので原作買おうと思ってる。
yuatast 高山文彦さんがお好きなのかな
高山文彦脚本の作品が好きなのか、好きな作品の脚本がたまたま高山文彦なのかまだ分からないので、一通り観てみようと思う。「アリスと蔵六」(ハッピーエンド)はいいぞ。
paradisemaker バッドエンドって作るの簡単だけど、「観てよかった」と思わせるのが難しいんだよね
正直言って、ゆゆゆなんて観なければよかったとか思ってる。とても好きだから勇者の章も観るけど。
minoton 主人公側の活躍でいったんイベントは解決するが、本質的な問題は残る体の "ビターエンド"が好み。エンターテイメント性とリアリティが両立できるから
俺たちの戦いはこれからだ!は続編も作りやすいしとても合理的なので、作品の数はバッドエンドよりも多いはず。がんばって探してみる。
liposo メリーバットエンドとかぞくって来て好きだけどアニメじゃ記憶にないな。
key_llow 20年二次創作畑のオタクを続けて辿り着いた結論は「バッドエンドは物足りなかったらいくらでも自分たちで作れるけど、推したちを幸せにしてやれるのは公式しかいない」です。ご査収ください。
逆転の発想。たしかにそうかも。そういう伏線を貼る作品ならなおさら楽しめそう。「Anotherだったら死んでた」メソッド。
LuneC「長編はラストは必ずハッピーエンドでなくてはならない。読者にそれだけの時間つき合わせたのだから作者には読んでよかったと思わせる義務がある。しかし短編なら後味の悪いものも自由に書ける」Jeffery Deaver
物語が長くなるほどに主要な登場人物が悲しい経験を重ねたとき、その経験量に応じて「救い」が最後にあって欲しいなぁ、とは思う。救いがあればバッドエンドでも良いのだけれど。救いのあるバッドエンドて。
twikkun ひたぎエンドの最後は最高だったよなぁ……あの余韻たまらんわ 僕と友達になってよ
例には挙げなかったけれど、大好きな終わり方の一つ。いわゆるダークヒーローモノのバッドエンドって、良いよね。
deep_one 「バッドエンドの作品が少ないなぁと感じる」いや、全くそう思わない。というか、そのタイムスパンでなぜコードギアスとかが入ってないんだ?単に視野が狭いだけだろう。
そう。実は以前最近のアニメはおもんないって言ったじゃん、嘘つき! 的なアレを書いたのだけれど、アニメをよく観るようになって1年とちょっとくらいなので、まだまだ観てない作品が沢山あって分からないことだらけなんだ。ここ1年ちょっとで観たのはせいぜい120作品くらい。なので、もっと色んな作品を知りたくて、この与太話を書いた。ちなみにコードギアスは近いうちに観る。
REV 「バッドエンドの作品は「どうしてこんなことに…」とか「どこで選択を間違えたんだ」「あの時のあれはフラグだったんだ…」みたいな余韻を楽しむ」 けもフレのことですか
はい。12話はバッドエンドになるのを期待してました。ごめんなさい。ちなみに実際の12話は大好きです。
nomitori ハッピーエンドがいいというよりもあんまり作品に引きずられたくないというか、感情を揺さぶられたくないという思いが年々強くなってきた。これが老いなのかな…
感情を揺さぶられるあの感じが大好きでバッドエンドを求めているフシはある。ちなみにそういう作品は大抵観ててくっそ辛いので、「大好きだけどサムネでさえ二度と見たくない作品」とかがあったりする。「四月は君の嘘」とか。
全部に返信できなくて心苦しいけど、こんなかんじ。
http://www.itmedia.co.jp/business/spv/1702/14/news040.html
[窪田順生,ITmedia]
このITmediaの記事では名指しされていないが、「著名な女性評論家」とは大宅映子のことである。
大宅映子「あのー、メディアっていうのは中立公正なるものを皆さんにお伝えするっていう。そのためにはしっかりした裏付けというのがあるとされている、皆の共通認識として。で、それをしないと捏造と言われて社会的批判を受けるわけですね。
でも今の状況を見ていると、現場、その場の意見に対して、〔トランプ大統領が〕頭からバーンと、嘘であろうがなんだろうが〔オルタナティブ・ファクトを使いまくって自分に都合の悪い話を〕否定してしまうっていうのがまかり通ってるということがね。しかもそれがネットで拡散するっていう。
それで私思ったんですけど、企業の中でもありましたよね。広告でやはり動いているから、ネットの。自分のところの企業に有利になるような偽情報を出すっていうような問題になったりしていますよね。
で、それをどうにかするっていうと、じゃあどこで本物か偽物かっていうのを、今〔ファクト・チェックの格付けをやって〕三角とか黄色とか、プラットフォームがそれを出すっていうのも逆に危ないですよね。判断がね。」
関口宏「そう、そこにもオルタナティブっていうのがありますからね……」
大宅映子「そうそう。そうすると基本的には私たち一人一人が、メディアリテラシーっていうか、判断力がなければいけないんだけれど、こんないろんなことを全部自分で判断なんかできるわけがない。」
姜尚中「うーん。まあひとつの試みとして、〔プラットフォームによるファクト・チェックを〕やってもいいんではないか、と僕は思いますけどね。」
大宅映子「うーん。やっぱり事実は一つにしてほしいです、はい」
以降、他の論者へと発言が移る。
〔〕は引用者による補足。
大宅はトランプ大統領がオルタナティブ・ファクトを使っていることと、企業がインターネットで偽の情報を流していることを批判している。
しかし同時に、大宅は誰かが特権的・独裁的に情報の真偽を決めることにも批判的だ。インターネットのサービスは、プラットフォームの運営会社が偏向していることもありうる。そのため、その運営会社に事実判定の権限を委ねることは逆に危険だと指摘している。
最後のところで出てくる「事実は一つにしてほしいです」という発言はちょっと早口だった。大宅は主張をまとめようと急いだ感じがあって、ここで何を言おうとしていたのか視聴者に伝わりづらかった。
しかし、ITmediaの窪田順生がこの箇所を抜きだして『「ファシズム」(全体主義)以外の何物でもない』などとレッテルを張るのはあきらかな曲解である。
そもそもこの「事実はひとつ」というフレーズは、大宅がスタジオで発言するより前に、VTRの中で山田健太(専修大学の教授、言論法)がコメントしているものだ。この文脈を踏まえずに大宅を非難するのは適当ではない。
VTRでは、ジョージ・オーウェルの小説「1984年」が現在アメリカでベストセラーになっていることを紹介、そしてワシントンポスト(1月25日)の『"もうひとつの事実"は"1984年"の「現実操作」を連想させる表現だ』という一節を引用して、これがどういう意味なのかを山田に解説させている。
山田健太「本来事実というのは一つのはずなんですけど、その事実を否定するために「もう一つ事実があるよ」ということを言って、最初の本来あるべき事実を覆い隠すという意味であります。
このVTRが流れた直後だという点を踏まえるならば、われわれは大宅の「事実は一つにしてほしいですよ」という発言を正しく理解することができる。すなわち、『「もうひとつの事実」なんて言って「嘘」をゴマかす政府はどんなヤバいことをするかわかったもんじゃない』という意味なのである。
従って、ITmediaの窪田順生がやっていることは曲解であるし、これをあたかも「著名な女性評論家」によるオリジナルの発言であるかのように説明するのも間違いである。
ITmediaの記事はくだらないので、いちいち論評するつもりはないが、ここからさきは私見を述べさせてもらう。
番組中では言及がないが、山田教授のコメントはおそらく『1984年』に登場する「二重思考」を念頭に置いている。
二重思考(にじゅうしこう、ダブルシンク、Doublethink)は、ジョージ・オーウェルの小説「1984年」に登場する思考能力であり、物語の中核をなす概念。それは「相反し合う二つの意見を同時に持ち、それが矛盾し合うのを承知しながら双方ともに信奉すること」[1]である。作中の例でいえば、舞台となっている全体主義国家では民主主義などは存立しえない、という事実を信じながら、なおかつ、国家を支配する「党」が民主主義の擁護者である、というプロパガンダをも同時に信じることを指す。
二重思考は作中の全体主義国家オセアニアの社会を支配するエリート層(党内局員)が半永久的に権力を維持するため、住民(中間階級である党外局員ら)および自分たち自身に実践させている思考能力である。二重思考を実践していると、自分自身の現実認識を絶えずプロパガンダと合致する方向へと操作し、しかも操作したという事実をどこかで覚えている状態となる。
「二重思考」とはニュースピーク(新語法)による単語であり、オールドスピーク(旧語法、我々の知る英語)に直せば、「リアリティー・コントロール」(真実管理)となる。
「二重思考」についてはWikipediaの項目を読んでもらえば十分だろう。事実がたくさんあると考えたり、そのたくさんある事実をすべて同時に信奉しようとする態度こそ、オーウェルがこの小説で批判した二重思考である。
『1984年』の世界では、政府がでたらめなプロパガンダをおこなったとき、国民はその嘘や矛盾に目をつむって忘れてしまうことが要求される。だから、政府が言うことはどれもこれも必ず事実となる。そしてすぐ次の瞬間、政府が先ほどと明確に異なるようなことを事実だと述べ始めたとすれば、国民はそれをもう一つの事実なのだと納得して信奉しなければならないとされる。
「事実はひとつ」という前提は、この二重思考に陥らないために必要なものである。われわれはこの前提に立脚することで、複数の矛盾する話の中から、何が事実であり何が虚偽であるかを探ろうとする。これは政府がでたらめなプロパガンダをおこなったときに、国民がそれに抵抗するための最も根源的な力となるのだ。
書名 | 著者 |
---|---|
SEALDs 民主主義ってこれだ! | SEALDs |
時代の正体 | 神奈川新聞「時代の正体」取材班 |
右傾化する日本政治 | 中野晃一 |
社会を変えるには | 小熊英二 |
デモいこ! | TwitNoNukes |
私達は"99%"だ | 「オキュパイ!ガゼット」編集部 |
革命のつくり方 | 港千尋 |
デモ!オキュパイ!未来のための直接行動 | 三一書房編集部 |
希望の政治学 | 布施哲 |
日本人は民主主義を捨てたがっているのか? | 想田和弘 |
立憲主義について | 佐藤幸治 |
ぼくらの瀕死のデモクラシー | 枝川公一 |
政治はなぜ嫌われるのか | コリン・ヘイ |
日本国憲法新装版 | 学術文庫編集部 |
法とは何か | 長谷部恭男 |
憲法とは何か | 長谷部恭男 |
読むための日本国憲法 | 東京新聞政治部 |
タカ派改憲論者はなぜ自説を変えたのか | 小林節 |
憲法は、政府に対する命令である。 | C.ダグラス・ラミス |
国家の暴走 | 古賀茂明 |
検証・法治国家崩壊 | 吉田敏浩、新原昭治、末浪靖司 |
ソフトパワー | ジョセフ・S・ナイ |
リベラルのことは嫌いでも、リベラリズムは嫌いにならないでください | 井上達夫 |
キング牧師 | 辻内鏡人、中條献 |
I Have A Dream! | マーティン・ルーサー・キング・ジュニア |
隷属への道 | F.A.ハイエク |
世界を動かした21の演説 | クリス・アボット |
戦争プロパガンダ10の法則 | アンヌ・モレリ |
精読アレント「全体主義の起源」 | 牧野雅彦 |
ヒトラー演説 | 高田博行 |
劇画ヒットラー 復刻版 | 水木しげる |
悪あがきのすすめ | 辛淑玉 |
独裁者のためのハンドブック | ブルース・ブエノ・デ・メスキータ、アラスター・スミス |
輿論と世論 | 佐藤卓己 |
永遠平和のために 啓蒙とは何か 他3篇 | カント |
アメリカのデモクラシー(1上下・2上下) | トクヴィル |
国家(上下) | プラトン |
自由論 | ミル |
一九八四年[新訳版] | ジョージ・オーウェル |
動物農場 | ジョージ・オーウェル |
イェルサレムのアイヒマン | ハンナ・アーレント |
人間の条件 | ハンナ・アレント |
ソース:
http://pbs.twimg.com/media/CSmpHEIUwAAOfO2.jpg
http://www.junkudo.co.jp/mj/store/event_detail.php?fair_id=10696
絶賛劇場公開中の楽園追放を観てきたので感じたことを列記したい。
ネタバレを含むので注意。
映画館の環境で観るべき作品なので、BDレンタルを待ってる人は迷わず足を運ぶべきだ。
DVDで見ようと思ってる人は機会損失となることを予言する。今すぐ考え直せ。
「楽園追放-Expelled from Paradise-」
からだにぴったりと纏わり付くスーツ(というかタイツ)は、およそ進歩的な人類を服装で表現する時にありがちな手法だ。観始めたとき、スタッフがスター・トレックの呪縛から逃れていないのではと思った。おそらくそれはあくまで地球残市民との対比をわかりやすく表現することと、特定の市場を意識した結果だろう。緑色の装飾品の意味はアンテナ?それとも光合成するとか?これは最後まで分からなかった。
16歳といえば日本では法的に婚姻できる歳。アンジェラは「他の捜査官を出し抜きたかった」といって物理的な身体の生成時間を早め、16歳の少女の身体を持ち地球に降り立つ。降り立つ時は子宮をメタファーとした卑猥なディティールで表現された。ディーヴァでは人類が考えうる精神的探求を経験したアンジェラだが、地球で生身の人類と出会い、「大人」になるためには、最低限16歳となり、生まれる必要があったのだ。映画の最後のシーンでは、地球で、フロンティアセッターを旅立たせることに意味を見出し、身体的な異性と接触する。ディンゴに抱かれた時アンジェラが顔を赤らめたのには意味がある。
日々進歩するテクノロジーニュースに賑わう私たちの世界にとって、理解しやすい範囲で、そして400年後には思想的に陳腐化していることを心配したくなるテクノロジーが使われている。しかしこの映画にとってはテクノロジーそれ自体は主題ではなく、グレッグイーガンのようについていけないぐらいの言語環境を構築する必要もない。この映画が語りたい言葉は、観客側の現実世界の、テクノロジーに溢れた社会での人間性を表現することにあるのだから。
映画の冒頭部分でアンジェラがディーヴァで公安捜査を行っているとき、突如ハッキングしてきたフロンティアセッターの犯行からアクセス元(!)を割り出し、回線(!)の中で捕まえようとアンジェラが文字通り電気信号となり、何故か金平糖のようになったフロンティアセッターと光速のアクションシーンを巻き起こす。映画館の音響環境で見たときは疑いようもなくゲームの「REZ」だと思ったし、エレクトロミュージックは最高にシビれた。
私はロボットが出てくるアニメを観るたびに「何故その形状なのか」に意識がいきがちとなってしまう。今回も、何故人型で銃型の武器やわざわざ剣や盾を使って戦わないとならないのか、または運転席でバイクに跨らないとならないのか、最後まで理解できなかった。宇宙スケールでの戦闘を表現するために「ロボット」という記号を使わないこと以外に方法がないのだろう。
地球に残された人類は、400年も経っているというのにナノハザードから時間が経過していないかのような荒廃した世界に住んでいる。廃墟都市のイージーなイメージであるアジアンな看板と雑多な路地そして個人商店。ディンゴはゆきずりの傭兵であり、西部劇のようなアンジェラとの出会いはディンゴのキャラクターをよく表していた。
劇中では骨、つまり身体で感じる音楽というものについて、電脳世界にのみ生きてきたアンジェラが首を傾げる。これは物語のテーマを象徴するデータと身体性の対比についての比喩である。
なぜ400年もの間、リソースについて有限ではあるが最高権限を持つディーヴァ首脳陣がおよそ意味を見い出せるとも思えない自治を続けているのか。同じバージョンのシムシティを数百年繰り返して飽きない自信は私にはない。進歩を繰り返した結果がジョージ・オーウェル的なディストピア?まぁ所詮は故郷を捨てて自分達の世界に引きこもろうとする人間達だったのだから仕方ないとも言える。
押井守のスカイ・クロラよろしく、キャラ立ちした少女たちが金太郎飴のように、アンジェラと同じく露出の高いスーツでバイクに跨り戦闘が行われる。この戦闘ではアンジェラはフロンティアセッターの演算能力を使い、ディーヴァ側の捜査員達より一歩秀でた戦闘能力を発揮する。お互いの戦闘方法に進歩した戦術といえるものが見い出しずらいが、そもそも進歩した人間が未だ殺し合いで解決しようと考えるのは400年後にとって果たして合理的であるのか。余談だがバイクとロボットが男性の象徴であるとするのは考えすぎだろうか。
ディーヴァとの戦闘が終わり、ディンゴによって人間と承認されたフロンティアセッターが宇宙へと旅立つ。と、この見送ろうというシーンで初めてアンジェラのブーツの固い足音が私の耳に障った。まるでこれから地球に足をつけて暮らそうと言っているかのような耳障りな音。このシーンの後、靴を脱ぐシーンがあるかと思ったが、それは野暮というものだろう。
以上、観た勢いで思ったことを綴ってみた。
都合がつけば来週にも、もう1度は劇場で観たいと思っている。
全体主義はものすごーくネガティブな印象がつきまとっている。現実世界ではナチスドイツ、スターリン時代のソ連、北朝鮮。
そして、ジョージ・オーウェル『1984年』をはじめとしたディストピアというSF小説のジャンルなど。
しかし、洗練されたユートピア的全体主義を実現した会社があった。それがジョブズ時代のApple。
------------
カリスマ性:大
汚職:少
立憲的多元主義:無
合法:有
------------
ジョブズ統治下のAppleにほぼすべて当てはまるのではないだろうか。
独裁者ジョブズのカリスマ性にそぐわない製品はリリースされてこなかった。そして、だれでも使いやすい製品(機能の幅が限られている)、美しいデザインはジョブズの私欲も少なからずあると思うが、公に働きかける意思あって作られたものだと思う。
そして、AppleのOS。MacとiPhoneどちらのOSもAppleだけのものであり、そのOSで使えるアプリケーションもAppleの(そこそこ厳しい)審査を超えてリリースされる。開発のことは詳しくは専門分野の人に説明してもらうとして、たしかMacでしか開発できなかったはず。
プレゼンによって人々の興味を最大限に高め、それだけでなく使った人に対しプレゼンで得た熱狂のさらに上を行く体験を提供した。
過去に崩壊してきた全体主義は、プレゼン以上のものを一度は提供し政権を獲得するもののなぜ崩壊したのか。自由を奪う代わりにそれ以上の快適さを国民に提供しなかったからだ。
まとめかたがわからないのでここでおわり。Apple信者でもなんでもないので、詳しいことがわからなすぎるけど外から見たジョブズ時代のAppleは見事な全体主義だなと思ったんで書きました。
話題になった中国の田舎の公衆便所みたいに人目を遮る壁が無い場所で思考の排泄物をTLに垂れ流している
そして他人の排泄物の左向きや右向き、色、形、挙句の果てには過去の排泄物の状態まで上から目線で評して
楽しみ合っている
「この排泄物は右向きだ、いや左向きだ」
「あなたの排泄物の色は良くない 私の言う通りにすれば状態が改善します」
「汚い排泄物を公共の場に撒き散らすな、綺麗な排泄物なら良し!善し悪しは私基準です」
「あなたのこじらせ詰まりを解消するには匿名という壁のついた場所がお薦め」
「誰も反応してくれない」
「すっきりしなくて苦しんでいるのにここで排泄するなという人が現われた!」
「この排泄物は酷い 醜悪だ 拡散してどんなに酷い排泄物をいかなる人がしたのか
他人がネットに残した言葉など私にとってはそれ一言では只の思考の排泄物にしか見えない
排泄物と共感が世の流れを作る時、そのきっかけになった言葉として見る事はあっても
長年ネットを見続けてきた者として特定のクラスタに排泄物を垂れ流すなという流れをここ数年で作ろうと
している人たちのやり口は幾つかちとヤバいなと思ってる
ネットは善悪老若男女民族関係無く万人のものだし イナゴ&粘着クレーマー達の「これはひどい」
国家にされてもね
脅しをほのめかして誰かの排泄物を止めようとするそういう人たちが、他所のクラスタのネットでの
排泄を止めさせようとする どんな正義を振りかざそうが善意を振りかざそうが思惑が見え透いていすぎて
賛同できない
そんなことをこの数年つらつら考えていた
今ステマじゃないんだけど、岩波文庫の赤、ジョージ・オーウェルの『パリ・ロンドン放浪記』にブレヒトの『三文オペラ』と
を読み上げたところ『パリ・ロンドン放浪記』を読むと無職・非モテ・ワープア・ブラック飲食サービス業が
人の精神状態にどのような影響をもたらすか読んでいて楽しいね。昔も今の日本の貧しい民の生活も対して変わらない。
ネットでよく見かける貧困がもたらすネガティブな悩みの多くが被っている
http://yuma-z.com/blog/2013/05/student_books/ という人のエントリを見て、自分も(学生じゃないけど、)読んで楽しかった本をまとめてみたくなった。
この長い本の紹介を読んで、読んでくれる人や、ほかにおもしろい本を紹介してくれる人が続いてくれたら自分はうれしい。まだ微修正中で、加筆・修正するかもです。
これから紹介する本の順序について、あまり意識していないけれど、なんとなく読んでいる人が多そうな順。下に行くにつれて、読んでいる人が少なくなっていくと(書いている自分は)予測してます。
このエントリで紹介するのは以下の本です。つづきは http://anond.hatelabo.jp/20130530045256 で。
宮部みゆきさんの小説。一人の女性が婚約後にいなくなってしまう。主人公はその女性の捜索を頼まれて、懸命に消息を追う。そして、調べていくうちに、現代資本主義社会の底しれぬ闇が見える――。
とても有名な作品で少し前にテレビドラマにもなったようだ。物語の始まりが冬の寒い時期のせいだろうか、自分は冬の時期に読みたくなる。三日間くらいで読了できるとおもしろさが持続すると思う。
読まれる方は、Wikipediaのあらすじにネタバレの要素があるので注意されたい。Amazonの書評にも、ややバレる要素があるかな。この小説についてはあまり詳細について語ると魅力が半減してしまう気がする。読まれる方はできる限り事前の情報収集を避けて読んでください。
1995年にそれまで350年にわたり証明されなかったフェルマー予想が証明された。そのフェルマー予想をテーマにしたノンフィクション。著者はサイモン・シンさん。翻訳は青木薫さん。
著者のサイモン・シンさんはこの後紹介する「ビッグバン宇宙論」においてもそうだが、説明がとても丁寧だ。わからないことを教えてもらおうとして、わかっている人に聞いたときに下手な比喩でたとえられて、全くわからないという経験をした人は自分以外にも大勢いるだろう。サイモン・シンさんの比喩はわからないという気にならない。なぜなのだろうか。
数学をテーマにした本なので、数学が嫌いな人は手に取ることもないかもしれない。しかし、そういう人もぜひ読んでみてほしい。というのも、この本は数学の「問題そのものを解く」ということが主題ではないから。むしろ数学の問題はどのように生まれるのか、それを解こうとして350年にわたり数学者たちがどのような試行錯誤を続けていったのか、そのもがき苦しんだ歴史の本だからだ。
海外の本はしばしば翻訳調とでもいうべきか、文が堅く読みにくい感じがすることもあるけれど、この本はとても翻訳が丁寧で読みやすい。青木薫さんのすばらしい仕事だ。
自分は単行本(ハードカバー)で読んだ。文庫版だと新しい翻訳者のあとがきなどがついているかもしれない。
ジョージ・オーウェルが書いた小説。ユートピア(物質的・精神的に豊かになる、健康で長生きできるといったような人間の社会が幸せで良い方向に向かう社会)小説の反対、ディストピアを描いた小説。
ここまで暗く描かれるとむしろ読む方の気分は明るくなるような、そんな気にすらさせてくれる小説。ただし、それは読後の感想であって、読んでいる最中は暗いままだけれど。
村上春樹さんの1Q84はもしかしたらこの小説に関連があるのかもしれない。今ググったら、どうやらそうらしい。自分は村上さんの方は読んでいないので何も言えません。(すみません)
この小説が書かれた時期も意味があるし、この小説の中で登場するニュースピークという言語体系の設定は、そもそも言葉とは何なのかを考えるきっかけにもなるだろう。
火車と同じくWikipediaはあまり見ないで読み始めた方がよいだろう。
大崎善生さんの小説。純粋な小説というよりも何割かはノンフィクションかな。
自分は将棋のことは駒の動き方くらいしか知らないのだが、羽生善治さんやほかにも何人かくらいは将棋指し(棋士)の名前を知っている。この棋士の方々は、奨励会という将棋のプロを養成する機関の中で勝ち上がってきた人たちだ。勝ち上がってきた人は晴れて棋士になるわけだが、では、「敗れ去った人たち」はどうしているのだろうか。その人たちをテーマに据えた小説だ。
この小説はけっこうずしりとくる。最初に挙げた宮部みゆきさんの「火車」は小説の範疇ということもあるせいか、なんとなく怖さを感じることはあるが、現実的な切実さ、哀しさまでは感じないかもしれない。この「将棋の子」は、何かを一生懸命やってうまくいかなかった人の哀しさがよくわかるし、そういう体験をしてきた人(あるいは今そういう一生懸命何かに取り組んでいる最中の人)にはこたえるものがある。
ファインマンというアメリカの物理学者の自伝的エッセイ集。著者はリチャード P. ファインマンさん。翻訳は大貫昌子さん。この本もすばらしい翻訳だ。
エッセイ集ということもあって、好きなタイトルから読み始めることができる。エッセイ集なんてつまらんだろう、などと思っている人は読んでみてほしい。物理学者とは思えない言動の数々と、物理学者だからこその言動が少々。そして、その間に驚かされるような洞察が垣間見えるのだ。場合によっては論語みたいな読み方もできるかもしれない。
全般に明るく楽しく描かれているけれど、これは意図的なものだろう。第二次世界大戦のロスアラモス時代には、自分の心にとどめるだけの悲しい出来事も数多くあったのではないか、と自分は想像している。
最後の「カーゴ・カルト・サイエンス」の節はできれば最後に読んでほしい。この節だけは特別だ。物理学がわかれば、もっとファインマンさんのことをよく知ることができるのだろう。それができないのは残念だ。
「プー横丁にたった家」は「くまのプーさん」の続編だ。「くまのプーさん」というと、単なるハチミツが大好きな黄色っぽいクマだと自分は思っていた。そうではなかった。
この本は子供向けの童話だと思われるかもしれないが、読んだことのない大人の方も読んでみてほしい。自分も大人になってから読んだ。著者はA.A. Milne。翻訳は(童話のジャンルでは高名な)石井桃子さん。
プーさんはもともと、著者が自分の息子に聞かせるためのお話だったようだ。こんな話を子供時代に聞かせられたらすごいことだ。
ところどころでプーさんが代弁する著者の考え方は、Amazonのレビューにもかかれているけれど中国の思想家のような、どこか超然としたところがある。このクマがほかの動物たち(と一人の子ども)に向かって話しかける姿が良い。それとプーさんと行動をともにするコブタ(ピグレット)が健気だ。自分は大人になってから読んだせいか、出てくる動物たちの役割に目が向いた。すなわち、物語の筋よりもおのおののキャラクターが人間のどういう面を強調したものなのかを考えてしまいがちだった。子供の頃に読んだならば、もっと無邪気な読み方ができただろうと思う。
サイモン・シン氏の2作目の紹介になる。翻訳も前に紹介した「フェルマーの最終定理」と同じ青木薫さん。(本自体は「フェルマーの最終定理」→「暗号解読」→「代替医療のトリック」(共著)→「ビッグバン宇宙論」、で四冊目だ)
大人になるにつれて、子供の頃に「なぜだろう」「どうしてだろう」と単純に不思議に思えたことへの興味がだんだん薄れていくと思う。すくなくとも自分はそうだった。どうして鳥は飛べるのに人間は飛べないのだろう、なんでお風呂に入ると指がフニャフニュになってしまうのだろう、どうしてテレビは音が聞こえたり絵が見えるのだろう、泥だんごはうまく丸くなってかちかちに固くなることもあるけど、そうでないこともあるのはなぜだろう、カブトムシはかっこいいけど、クモはすこし気味が悪いのはなんでだろう…、などなど。
そういう疑問の中で、人間がずっと追いかけて考えてきた疑問の一つが「この人間が生きている空間はどういうものなのか」だろう。その考え方の歴史をまとめたものがこの本だ。この本をひもとくと、この百年の間に予想もし得ないことが次々に見つかったことがわかる。ビッグバンという言葉はほとんどの人が知っていて、宇宙は一つの点から始まったと言うことは知っているだろう。意外に思えるけれど、今から百年もさかのぼれば、ビッグバンという言葉すらなく、そう考えている人も科学の世界において異端扱いされていた。
宇宙論という非常に大きなテーマを扱っているため、「フェルマーの最終定理」よりも分量があって読むのが大変かもしれない。ただ、自分が読んだ単行本(ハードカバー)には各章にまとめがついていて、おおまかな筋はそこを読めば追えるように配慮されていた(これはうれしい配慮だ。)文庫版のタイトルは「宇宙創成」のようだ。
読み終わったら、ぜひ上巻のカバーと下巻のカバーのそれぞれの色に着目してほしい。
今まで見てきた本を読むとわかるかもしれないが、あまり自分は昔の小説を読むことがなかった。一つには風俗や文化が違いすぎて、いまいちぴんとこないからだろうか。そう思って昔の小説を読むことがほとんど無かったけれど、このモンテクリスト伯はおもしろかった。著者は三銃士でおなじみのアレクサンドル・デュマ。翻訳は竹村猛さん。自分は上に挙げた岩波少年文庫版を読んだ。
復讐劇の代表的な作品だそうだ。「それってネタバレでは?」と思う方もいるかもしれない。そうと知っていてもやっぱり楽しい。引き込まれるようなおもしろさがある。
少し前に「レ・ミゼラブル」が映画になって、そちらの原作も良かった。境遇は何となく似ているのだけれど、「レ・ミゼラブル」が愛の物語なのに対して、モンテ・クリスト伯は純粋に復讐劇だ。その痛快さ。モンテ・クリスト伯の超人的な活躍が楽しい。
自分はまだ一回しか読んでいないせいか、下巻の最後の方のあらすじはうろおぼえになってしまった。もう一度読む楽しみが増えた。今度は岩波文庫版で読もうかな。
森博嗣さんの小説。もともと「まどろみ消去」という短篇集の中に「キシマ先生の静かな生活」という短編があって、それを長編ににしたものだ。
(科学系の)研究者の世界とはどういうものなのかを丹念に追った小説であり、若干の事実が含まれているのかな?と思っている。森博嗣さんは某大学の研究者であった(今では退職されたようだ)人で、その知見がなければ書けない小説だろう。
今Amazonのレビューを見たら、「自分には残酷な小説だった」というレビュー内容もあった。自分は、心情、お察しします、という気持ちだ。ただ、主人公は喜嶋先生と出会えたことは僥倖だったに違いない。この小説の中で登場する喜嶋先生の名言は、本家よりもむしろ心に残る。
北村薫さんが選ぶミステリーを中心とした選集。あるテーマを設定して、そのテーマの中で北村さんが編集者と対談形式でさまざまな物語を紹介していく形式だ。テーマは「リドルストーリー」であったり、「中国の故事」であったり、「賭け事」であったりと様々だ。
編集者との対談は実際の編集者ではなくて、北村さんが頭の中で生み出した架空の「編集者」であるけれど、この対談がとても読んでいて楽しい気持ちにさせてくれる。いろいろな本が紹介されて読みたくなる。そういう罪深い(?)本だ。これを元に幾冊か叢書が組まれた。
その叢書の中で、自分が気に入ったのは「私のノアの箱舟」と「なにもない猫」だ。このシリーズはまだ全部読んでない。だから、気に入ったものは変わるかもしれないし、増えていくだろう。
自分は中国の故事や旧仮名遣いの本は読みづらく感じてしまうので、「真田風雲録」は読めないかもしれないなあ。
海外の人を中心にした伝記シリーズ。主に子供を対象としているためだろうか、シリーズ全体として、文は平易で図や写真を多用している。そう書くとありきたりな伝記に思われるかもしれないが、装丁、ページの中の文と写真の配置の良さが際立つ伝記集だと思う。
全体として、割とマイナーな人も取り上げていたりするし、平和に貢献した人たちを取り上げている点も特徴だろう。気になった人がいたら、その人を読んでみてほしい。
星新一は、多くの人がショートショートと呼ばれる一連の作品群で読んだことのある作家だろう。その人の評伝だ。著者は最相葉月さん。
星新一さんはその作品を読むとところどころに冷徹さが垣間見える。その冷徹さがどこから生まれたのかがわかるだろう。もともと幸せな境遇に生まれ育ったが、途中からどうしようもない災厄に見舞われるからだ。それだけが冷徹さの理由ではないだろう、ほかにもこの本を読めば思い当たる点がいくつかある。それらも書くと紹介としてはやや度が過ぎるのでやめておく。
最後の方で著者は有名な芸能人にもインタビューする機会を得て、実際に星新一さんについて尋ねる。そこも印象に残る。その芸能人はちょうど星新一さんの逆の人生をたどるような状況になっている。
自分はこの評伝を読んで、がぜんショートショートに興味を持つようになった。
SF小説はあまり読んだことがないのだけれど、この小説は良かった。著者はケン・グリムウッドさん。翻訳は杉山高之さん。
SFのよくある設定として、「もし過去に帰ることができるとすれば、その人の人生はどう変化するのだろうか」というものがある。その王道設定を利用して、すばらしい小説になっている。
この小説が書かれた時代は1988年なので、やや風俗や文化の描写が21世紀の現代と比べて現実離れしている点があるけれど、それを差し引いてもすばらしい小説だ。
あまりあらすじをかかない方がよいだろう。http://anond.hatelabo.jp/20130530045256 で紹介する「心地よく秘密めいたところ」と全然違う話なのだけれど、自分には似たものを感じる。
この本は近年読んだ中で最も良かった。
自由への長い道は南アフリカ共和国でアパルトヘイト(人種隔離政策)が撤廃されるまで闘った人々のノンフィクションだ。著者はネルソン・マンデラさん。翻訳は東江一紀さん。
アパルトヘイトという言葉とその意味は何となく知っているけれど、それが具体的にどんなものかを説明できる人は日本の中で多くないのではないかと思う。ネルソン・マンデラさんとその仲間たちは、それをなくそうと政治活動を繰り返す。そしてその度に時の政府の激しい妨害に遭い、その結果そういったグループを作ること自体が違法になり、グループの首謀者たちは収監されてしまう。そこからが圧巻だ。
いかにしてそういう逆境の中で自分の政治信条を保ち続けるか。自分たちの仲間を増やして支持を広げていくか。そして時の権力機構に対して、アパルトヘイトの「非道さ」をアピールし、撤廃にこぎつけるか――。
仲間の反乱分子やスパイへの対処、国際社会へのアピールなど、常人には思いもよらない方法でアパルトヘイト撤廃に向け前進してゆく。ところが、前進したと思ったら後退したりすることが何度も繰り返されるのだ。
この本はネルソン・マンデラさんがアパルトヘイト撤廃後の大統領に選出された直後に出版された本なので、結末に近づくにつれてかなり筆が鈍って、慎重な言い回しが増えていく。現在進行形のことを縷々書くと信用問題になるからだろう。それでもこの本は読んでいて楽しい。
この本を読んだ人は「ネルソン・マンデラ 私自身との対話」もぜひ読んでほしい。自分もまだ途中までしか読んでいないが、より素直なネルソン・マンデラさんの言葉と考え方がわかると思う。(「自由への長い道」についての言及もある。)
ほかにも映画「インビクタス」や、「マンデラとデクラーク」など、映像作品もある。後者の「マンデラとデクラーク」は「自由への長い道」と同じテーマだ。ついでに、youtubeにあった国連の広報映像(日本語訳付き)もリンクしておく。
PARANOIA(パラノイア)というTRPGがあります。1984年出版。ジョージ・オーウェルの『1984年』で描かれた年です。
狂ったコンピュータに管理されたアルファ・コンプレックスというディストピアが舞台のSF。共産主義(過剰)批判を風刺する内容で、詳しくはググってリプレイなどを読んだり見たりするといいでしょう。
パラノイア(RPG)とは (パラノイアとは) [単語記事] - ニコニコ大百科
パラノイアの最も有名なセリフに、コンピュータ様または人間の最高権力者ウルトラヴァイオレット様の「市民、幸福は義務です」があります。アルファ・コンプレックスにおいては言葉通り「幸福は義務」なのです。
今年に入って、立て続けにこの「市民、幸福は義務です」あるいは「hoge、fugaは義務です」と言いたくなるような事案が発生しているので、それをまとめてみました。
Twitter / @watanabe_miki: 労災認定の件、大変残念です。四年前のこと 昨日のこと ...
Google様は全てにおいて最高です! - 村上福之の誠にデジタルな話
朝日新聞デジタル:「飲みニケーション」脚光再び 飲み代補助、義務化も - 就職・転職
国民の「幸福度」、高齢ほど低下 内閣府が初の意識調査 - 47NEWS(よんななニュース)
日本国憲法改正草案 | 政策トピックス | 政策 | 自由民主党
大阪市・家庭教育支援条例 (案) ――― 全条文 (前文、1~23条)
電力需給:「節電」新料金で不足2.6%改善 関電提示- 毎日jp(毎日新聞)
なお、この日記のセキュリティクリアランスは全体がウルトラヴァイオレット、タイトル部分がブルーです。もし見たレッドのクズがいたら自害しろ。
翻訳は、村上の作品を組み立てる原理だとさえ言えるかもしれない。
彼の作品は翻訳されているだけでなく、翻訳についてのものだと考えられるのである。
村上的ストーリーにおける至上の愉しみは、とても普通の状況(エレベータに乗っている、スパゲッティを茹でている、シャツをアイロンがけしている、など)が
突然非日常(不思議な電話を受ける、魔法の井戸に落ちる、羊男と会話する、など)へ変貌するのを見ることだ。
言い換えるならそれは、登場人物が存在論的に盤石な立場から完全な異世界へと投げ込まれ、
たどたどしくも二つの世界の間をとりもつことを余儀なくされる瞬間だ。
村上作品の登場人物はある意味でいつも、根底から異なるいくつかの世界のあいだで翻訳をしている。
言い換えれば、彼の全作品は翻訳の作業を劇に仕立てたものなのだ。
村上の車の後部座席に戻ろう。
多くの企業の本社や、巨大な船のかたちをしたラブホテルを通り越していく。
およそ1時間後、風景は急峻な山道になり、私たちは村上の家に到着した。
木の生い茂る丘の上、山と海の間にある、こぎれいだが平凡な外観の二階建てだ。
靴をスリッパに履き替え、村上に連れられて彼のオフィスへと入る。
自らデザインした小部屋であり、『1Q84』のほとんどはここで書かれた。
同時にそこは彼の膨大なレコードコレクションの住処でもある。
(10000枚くらいだろうが、怖くて実際に数えてはいない、と彼は言う)
オフィスの幅広い壁二つは、床から天井までアルバムで覆いつくされている。
山々に向けて突き出している窓の下、部屋の端には巨大なステレオスピーカーが君臨している。
室内のもう一つの棚には村上の人生と作品にまつわる思い出の品々がある。
彼が『海辺のカフカ』で殺人者として想像したジョニー・ウォーカーを描いたマグカップ。
はじめてマラソンを完走したときの、くたくたの彼を写した写真(1991年ニューヨーク市にて、3時間31分27秒)。
壁にはレイモンド・カーヴァーの写真、グレン・グードのポスター、ジャズの巨匠の肖像がいくつか。
村上がもっとも好きなミュージシャン、テノールサキソフォンのスタン・ゲッツの写真もある。
私はレコードをかけてもらえないかと頼んでみた。
『1Q84』の始まりを告げ、その物語のなかで繰り返し鳴り響く曲である。
それは速く、アップビートで、劇的──まるで普通の曲が5つ、ペンキの缶のなかで決闘しているかのようだ。
同時にそれは熱狂し、ねちねちとした、暴力的な『1Q84』の冒険の主題曲として、もっともふさわしい。
村上はその奇妙さを買って「シンフォニエッタ」を選んだという。
「オーケストラの後ろにトランペットが15人いた。変だった。すごく変だった……その奇妙さがこの本によく合う。この物語にこれ以上よく合う音楽は思いつかない」
彼は何度も何度もその曲を聴いて、そして開幕のシーンを書いたという。
「シンフォニエッタを選んだのはまったく人気がない音楽だったからだった。でも本を出版してから、日本では人気が出た。小澤征爾さんに感謝されたよ。彼のレコードがよく売れたからね」
「シンフォニエッタ」が終わると、私は最初に買ったレコードは何か覚えているかと尋ねてみた。
彼は立ち上がり、棚をごそごそと探して、一枚のレコードを手渡してくれた。
「The Many Sides of Gene Pitney」。
カバーを飾るのは、華やかな姿の Pitney。60年代前半のアメリカのクルーナー歌手である。はまだらのアスコットタイに艶のある赤いジャケットを着て、髪型は崩れ落ちる波を凍らせたようにみえる。
村上は13歳の時、このレコードを神戸で買ったという(当初のものは擦り切れたため、何十年か前に買い直している)。
針を下ろすと、流れ出す Pitney の最初のヒット曲「Town Without Pity」。
劇的な、ホルンの即興とともに Piteny の歌声が黙示録的な叫びを歌う。
「若者にはつらいことがある、たくさんある/分かってくれる人がほしい/助けてくれよ/土と石でできたこの星が壊れるまえに」
終わると村上は針を上げ、「バカな歌だ」と言った。
『1Q84』を書いているあいだ、『1984年』を読み直したかと尋ねてみた。
彼は読み直したといい、それは退屈だったという。
(これが悪い評価だとは限らない。野球のどこが好きかと尋ねた際、彼は「退屈だから」と答えた。)
「始まりはいつも暗く、雨で、人々が不幸せそうにしている。コルマック・マッカーシーの『The Road』は好きだし、よく書けているけれど、でも退屈だ。暗いし、人間が人間を食べるし……ジョージ・オーウェルの『1984年』は近未来小説だけど、この本は近過去小説だ」
『1Q84』について「我々は同じ年を反対側から見ている。近過去なら退屈じゃない」
「オーウェルと僕はシステムについて同じ感じを受けていると思う」と村上は言う。
「ジョージ・オーウェルは半分ジャーナリストで半分小説家だ。僕は100パーセント小説家だ……メッセージを書くことはない。よい物語を書きたい。自分は政治好きな人間だと思うけれど、政治的メッセージを誰かに向けることはない。」
とはいえ村上はここ数年、彼にしては珍しく、政治的メッセージを大々的に言明している。
2009年、批判のなか彼はイスラエルでエルサレム賞を受賞しに行き、そこでイスラエルとパレスチナについて語った。
この夏、彼はバルセロナでの受賞式典の機会を利用して日本の原子力行政を批判した。
一度目はまったくの被害者としてだったが。
バルセロナの演説について尋ねると、彼はパーセンテージを少し修正した。
「市民として言いたいことはあるし、求められればはっきりと言う。あのときまで原発について明確に反対する人はいなかった。だから自分がやるべきだと思った。自分にはその責任がある」
演説に対する日本の反応は概ね好意的だったという。
人々は津波の恐怖が改革への媒介となってくれることを、彼と同じように、期待していたのだ、と。
「これは日本にとって転機になると、日本人のほとんどが考えていると思う」
「悪夢だけれど、変化のチャンスでもある。1945年以来、僕たちは豊かになるために働いてきた。けれどそれはもう続かない。価値観を変えなければならない。どうやって幸せになるかを考えなければならない。お金でもなく、効率でもなく、それは人格と目的だ。いま言いたいことは1968年から僕がずっと言っていることなんだけれども、システムを変えなければならないということ。今は、僕たちがまた理想主義者になるべきときなんだと思っている」
その理想主義はどんなものか、アメリカ合衆国をモデルケースとして見ているのか、と尋ねた。
「いま、僕たちにはモデルケースがない。モデルケースを作り上げなければならないんだ」
地下鉄サリン事件、阪神大震災、そして今回の津波……現代日本の数々の災害は、驚くほどにまで村上的だ。
地下での暴力的な衝動、深く隠されたトラウマが大量破壊を引き起こすものとして現れ、地上の日常を襲う。
彼は深さのメタファーを多用することで知られる。
登場人物たちはカラの井戸に降りていき、東京の地下トンネルに生きる闇の生き物に出会う。
(彼は別のインタビューで、井戸のイメージをあまりに何度も使って恥ずかしくなったため、8作目以降、できるだけ使わないように心がけたと話している)。
毎日机に向かい、集中力に満たされたトランス状態の中で、村上は村上的キャラクターになる。
それは、自らの無意識の洞窟たる創造性を探検し、見つけたものを忠実に報告する、普通の人物である。
「僕は東京に住んでいる。ニューヨークやロサンジェルスやロンドンやパリのように文明的といっていい世界だ。
魔法じみた状況、魔法じみた物事に出会いたければ、自分の中に深く潜るしかない。だから僕はそうしている。
魔法的リアリズムとも呼ばれるけれども、自分の魂の深みのなかでは、それは単なるリアリズムだ。魔法ではなく。
書くときには、非常に自然で、論理的で、リアリスティックで、合理的に感じる。」
執筆しないとき、自分はどこまでも普通の人だと村上は強調する。
彼の創造性は「ブラックボックス」であり、意識的にアクセスすることはできないという。
彼はシャイであり、メディアにあまり登場したがらない。道端で読者から握手を求められた時にはいつも驚く。
人が話すのを聞くほうが好みだと彼は言う。
実際に、Studs Terkel の日本版のようなものとして彼は知られている。
1995年サリンガス事件があったとき、村上は被害者65人と被疑者らを1年かけてインタビューし、
その結果を分厚い2冊組の本として出版した。
のちにそれは『Underground』として、大幅な簡略化をしたうえで英語に翻訳された。
この会話が終わったとき、村上はランニングに誘ってくれた。(「僕が書くことについて知っていることのほとんどは、毎日のランニングを通して学んだ」と彼は書いている)
身軽で、安定していて、実践的だ。
たがいの走り幅がつかめて1、2分たつと、村上は自分が単に「丘」と呼ぶところに行ってみないかと尋ねてきた。
それは試合の申し込みか警告のように聞こえた。
そんな言い方をした理由はすぐに分かった。
というのもまもなく「丘」を登り始めることになったからだ。
もはや走るというよりは、急な坂にさしかかって足をとられているというほうが近く、
地面が傾いたランニングマシーンのように感じられた。
道の終わりに向けて一足踏み込むと同時に私は村上に向けて「大きい丘でしたね」と言った。
そこで彼は指をさして、先にジグザグ道が続いており、私たちはまだほんのひと曲がり目を終えたにすぎないということを教えてくれた。しばらくして、二人の息が切れ切れになってくると、このジグザグ道には終わりがないのではないかと心配になってきた。
上へ、上へ、上へ。
しかし、やっとのことで、私たちは頂上に着いた。
海ははるか下に見えた。
それは秘められた巨大な水世界、日本とアメリカのあいだの、人が住まない世界だ。
その日見たかぎり、水面は静かだった。
そして私たちは下りを走り始めた。村上は村を通る道に誘ってくれた。
大通りのサーフショップ、漁師の家がならぶ界隈を通り過ぎた(彼はそのあたりの庭に古くからの「漁師神社」があるのを指差して教えてくれた)。
空気は湿っていて塩のにおいがした。
私たちは並んで浜まで走った。
村上がかつて名もない翻訳者だったころセントラルパークでジョギングをともにしたジョン・アーヴィングについて話をした。
セミについても話をした。
何年も土のなかで生き、地表にぽっと出て、わめき、最後の数ヶ月を木の上で過ごすのは、どんなに変だろうかと。
走り終えて家にもどると、私は村上の来客用バスルームで着替えた。階下で彼を待つ間、食堂のエアコンの風を受けて立ち、大きな窓からハーブと低い木のある小さな裏庭を見ていた。
最初それは鳥 – おそらくはその飛び方からして変な毛をしたハチドリのようにみえた。
が、すぐに2羽の鳥がくっついているようにみえだした。
飛ぶというよりはふらついているといった感じで、体の一部がそこかしこから垂れ下がっているようだった。
最終的に、それは大きな黒い蝶だと私は結論づけた。
見たことがないほど変な蝶だった。
浮かびながら、異星の魚のようにひらひらしつづけるその姿に幻惑させられ、
私はそれを既知の何かに分類したくなりかけたが、成功することはなかった。
それはひらひらと、およそ村上と私が走った道を引き返す形で、山から海に向けて飛び去った。
蝶が去ってまもなく、村上は階段を降りてきて、食堂のテーブルに静かに腰を下ろした。
見たこともない奇妙な蝶に遭遇したことを伝えると、彼は自分のボトルから水を飲み、私を見上げて言った。
「日本には色々な蝶がいる。蝶に会うのは変なことじゃない」
ttp://d.hatena.ne.jp/chikuril/20100314/1268577995
今回の民主党の子ども手当ですが、「扶養控除・配偶者控除の廃止(家族の税制メリット消滅)」「子供を育てる際の、国家関与強化」など、このソ連式家族解体の匂いがたちこめて、怖気が込み上げてきます。
おまけに民主党は夫婦別姓や戸籍制度廃止など、家族解体に向けた様々な施策をパラレルで進めていますので、冗談抜きに1930年代のソ連を目指しているとしか思えないわけです。
実際、一部の左翼系(ガチガチの売国左翼系)学者が、子ども手当について「子供を国家が育てるシステムにするための第一歩だ」などという発言をしているそうです(八木先生情報)。
国家が子供を育てるなど、とんでもない話です(ヒットラーユーゲントですか・・・)
子供とは、親が育てるものです。そして、わたくし達の子供たちが、将来、自分の子供を育てるのです。
ところで、ソ連による家族解体は、物の見事に失敗いたしました。なぜならば、離婚を推奨し、子供を親から切り離し、家族の絆を切り離した結果、少年たちが愚連隊化してしまい、その後、少子化が一気に進んでしまったのです。(この時代のソ連こそが、ジョージ・オーウェルの「1984年」のモデルなのです。)
人口が減ると、共産主義の「兵士」が増えないということになりますので、
「あ、こりゃあ、困ったな」
となり、ソ連は慌てて「家族の絆こそ最も尊い」と、方針を転換しました。プラウダが、いきなり結婚や家族の尊さを謳い始め、離婚が蔑まれるようになりました。
ソ連は「共産独裁国家」であったからこそ、家族解体やら家族の絆重視やらに、方針をクルクル変えることができました。日本で「民主的手続き」の下で家族解体が進んでしまった場合、取り返しがつかないことになる可能性があります。断固として、民主党路線(と言うか、はっきり言えば民主党事務局にいる社会主義協会の連中の路線)を阻止しなければなりません。