はてなキーワード: 自己欺瞞とは
はてなにしろ2chにしろ、00年前後ははわりとぽわぽわしてて礼儀正しく、害があっても広がりにくかったし、各ポータルサイトもゲスさは無かった。
2chは便所の落書きと言われてはいたが、馴れ合いによる相互承認や、情報を求める意識を持った参加者たちで良い空間を作ろうみたいな意識もあったし、クソくだらないジャーゴン(オマエモナーなど)を共有して生まれるゆるい一体感もあった。
今はそうではない。
陰湿で、攻撃的で、快楽主義であり、セクト意識(裏切り者を許さない)はあるけれど共同体意識(助け合いと相互承認)はほぼなくなった。
2chで「氏ね」ではなく普通に「死ね」と使われ始めて久しい。もうみんな心のブレーキがなくなっている。
ネットは「叩くことで上に立ったかのように振る舞う、安上がりな自己欺瞞や他者へのアピール」でありふれている。
中には「叩くこと」への快楽に目覚め、それを目的化し、それを正当化するための言い訳としての「誰かの失敗」と「正論」を求める人もいるように見受けられる。
なんでこんなになっちゃったんだろう?
00年代頃はまだ限られていたインターネット利用者だが、格安ブロードバンドで普及を見せ、その後スマホを介して国民のほとんどがネットの参加者になった。
社会に出て一生懸命働いている人たちや真面目な学生は平日昼間にネットに入り浸ることは少ない。
平日昼間のネットを支配しているのは、無職、ニートである。その中で暗い要素を持った集団を抜き出すと「仕事にあぶれて苛立つ求職者」「世の中を諦めた世捨て人系無職」「登校拒否の延長の引きこもり」「うつ病神経症統合失調症といったメンヘル」「発達障害などで社会に適応できなくなった人たち」「終わらない家事と身近なストレスで心の許容量が狭くなった鬼女」「世の中舐めてる陽キャのニート」「レールからそれて戸惑っているニート」「世の中に喝を入れたいリタイア組」・・・。まあ、とにかくたくさんいるわけである。
もちろん、悪意のある抽出であり、心のきれいな方々もたくさんいるのだが、悪貨は良貨を駆逐するものだ。
そういった人々は暗い感情や怒りを、炎上の快楽で気晴らしするのである。いわばweb放火魔だ。
火を生み出す力の喜び、何かが燃えていく光景を見つめる陶酔、生贄を取り囲む祭りの高揚感・・・。
彼らは毎日ネットに入り浸るうちに中毒になり、炎上が目的化する。
ニコニコ黎明期のようにクリエイティブな方向で承認を求めていれば平和だったのだが、今のニコ生はDQNのほうが受けやすい。
はじめしゃちょーやヒカキンみたいな発想力とパフォーマンスを持っているわけでもない人たちは、過激な毒のショッキングさで目立つしかない。
これはネットの言論空間にも言えることで、有吉や張本みたいに「きっつい毒舌」「鋭いお叱り」を出来る人間が承認されやすい。
熱心な語りもいらない。消化しにくいからだ。
つまり、ワンフレーズで響き、嘲笑と「俺たち情強だよな」といった満足感を生むネガティブな言論をしたがり、見たがるようになっているのだ。
問題は、そういった平日昼間の言論が「ネットの声」「ネットの常識」とされて一般層へ輸出され、ネットの文化となり、新たな放火魔を教育してしまうことだ。
本来ただの過激派、愉快犯にすぎない言論が、いつの間にか「民主主義」になってしまう。
現実でも起きうる/起きているかもしれない事態が、ネットではものすごい勢いで波及している。
誰かが火を消さなければいけないのではないか、誰かが防火壁を作らなければいけないのではないか。
ホッブスによれば自由とは混沌であり、万人の万人に対する闘争だなのだ。ネットはそちらに向かいつつある。
東浩紀はネットにルソー的社会を求めたが、あんなものは絵空事である。
「私達には関係ないこと」と高みの見物を気取る人たちは、いつか自分たちが悪意の生贄にされるかもしれない未来を予期していない。
自分のところまで悪意が登ってくる可能性を考えていないのだろう。しかしすぐとなりをよく見てみると良い。
シェルターの中にいる隣人が、悪意の炎を瞳の奥に隠しているかもしれない。
大人たちが壊れてしまう空間なのに、子供にリテラシーとかいう頼りない防御策を教えて何とかなると?
ネットの治安を維持するための善意の言論を発信していくべきだろう。強硬的な手段ではなく、新しいモラルを共有できる仕組みを考える段階に来ている。
それと同時に平日昼間勢の心を癒やす必要がある。彼らの本当の問題はネットではなく現実にある。現実が変わらなければ彼らは変わらないだろう。
ネットと現実はリンクしており、ネットは日本の未来の実験室である。このまま手をこまねいて見ていれば、現実社会も今よりさらに厳しいものになっていくだろう。
http://anond.hatelabo.jp/20161028135531
なんか男性が化粧をすることを押し付けているみたいな前提で話してるけど嘘じゃないですか。
そうじゃないでしょ。フェミニズム的に正しいとか正しくないとか置いておいて、正直に言おうよ。
だいたい男はすっぴんに騙されたくないから、すっぴんが見たい、すっぴん万歳というくらいしか考えてないですよ。
なのに男性が化粧をすることを強いていますか?イスラム教がヒジャブを強いるように?この21世紀に?
女性が化粧をする理由は男性に強いられているからではないですよね。
知り合いに合うときすっぴんは嫌だなと思って、あるいは自分が綺麗に見られるように、あるいは戦闘服を纏うように
化粧をしている訳ですよね。
それって男性が無精髭剃ってるのと同じですよ。
無精髭みっともないなと思われるかもと思って、まぁ髭剃った方がさっぱりして受けいいしなと思って剃ってるのと同じですよ。
現に化粧を電車の中でするのが許されるかどうかみたいな話してますけど
「女性は男性に公共の場に化粧をして外出するように強いられている」って嘘じゃないですか。
つまり、出勤なり何なり知り合いに会う前に化粧を済ませておきたいというのが理由であって
男性に押し付けられているとかいうロジックは成り立ってないですよね。
いや、僕は会ったことないですけど「すっぴんはビジネスマナー違反だ」だと面と向かって指摘するデリカシーのない男が世の中に存在するのかもしれない。
でも、それってツチノコくらい極少数でしょ。
ビジネス女性誌(日経ウーマン的な)のマナーコラムでそういう言説を見るより少ないですよね。
あるいはファッション女性誌で化粧の盛り方のコーナーでそういう言説を見るより少ないですよね。
そうであれば「女性誌が化粧を押し付けている」ということも可能ですよね。
でも、そうは言わない。
あるいは、女性同士が化粧しているから同性同士の見栄の張り合いもありますよね。
同僚の女性たちがビシっと決めてくるから、こっちも決めないといけないという。
「女性同士のピア・プレッシャーで化粧同調圧力がインフレしてる」と言った方が適切では?
そんな中では、おっさんが、化粧はほどほどでいいのにと思っても言えないし、言っても効果ないし、言ったらセクハラですよね。
でも、あくまで「おっさんが女性に化粧を押し付けている」という言説が正しいかのように叫ぶ訳です。
「おっさんが化粧を押し付けているから(?)化粧を電車の中でするしかない(?)」というぐちゃぐちゃのロジックが叫ばれる訳です。
わかります。「おっさんが女性に化粧を押し付けている」というロジックは、おっさんを潰せば解決します。
ですが「女性同士の同調圧力により化粧を誰も止めようとしない」というロジックに希望はありません。
女性が化粧を毎日するのは大変だと思いますし、その努力には敬意を表します。
なんかいちいちマナーに文句つけてくるうっさいおっさんがうざいのは分かります。
しかし、自己欺瞞でぐちゃぐちゃのロジックを吐くのはどうかなと思います。
男性も「女性がみっともない顔で来るなと髭剃りを押し付けているから(?)髭剃りを電車の中でするしかない(?)」というロジックで対抗すべきではないでしょうか。
まあそんな頭のおかしい人は誰の支持も得ませんね。
隣でおっさんに髭剃られたらうっとおしいですよね。
伝わらなかったのは読者たちの責任ではなく、完全に自分の責任だ。伝わるように書けなかったのだ。今読み返したらわれながら酷い。
自分が苛ついていたことをもう一度冷静になってみると、「ブコメ」や「世の中」という言葉は出てこない。
一言でいうなら、根っこは思考活動をゲームの一環に組み込んでしまうことへの嫌悪感だった。はてブの存在意義とか、世の中が変わる変わらないというのは二次的なことだった。快楽がどうとかも関係がない。もう一度自分のためにまとめて直してみようと思う。
文字列の中に落ち度を探して指摘する作法を学ぶのは簡単だ。相手がエラソーな言い方をしていれば「何様だよ」「だったらお前はどうなんだ」という言葉で払いのけ、自己矛盾に対しては「ブーメラン」で済む。そういうノウハウがどんどん上達していくことは醜い。人の言葉を一定の規則に従って次々と検品していくようなことを思考だと呼びたくない。
お気軽に思ったことを書ける場があることは素晴らしい。何に代えても死守すべき権利だと思っている。しかし、特定の場にずっと身を浸していると、思考様式が一定の方向に傾いてくる。これは確実にある(もちろんそうでない人はたくさんいて、そうでない人もいることで問題は伝わりにくくなる)。「~な時点でお察し」「良記事」「○○案件」というすり減った言葉を気軽に繰り返し使うことになんの抵抗もない人がいる。むなしさも感じないし、ものを考えているつもりで生きている。
結果的にコメントの集積が「日本死ね」のときのようなセンセーションを生み出すとしても、それに参加していたある個人の心に隠れている卑しさは消えない、と思う。俯瞰で見たときに何が起こっているかは重要じゃなかった。もっとミクロな話だった。ネット上で意見を発信し続けている誰か(それが「おまえ」かもしれない)の内側に自己欺瞞はないか? という話だった。
で、こういうことに文句を言うのは限りなくゲスの勘繰りなので、絶好のツッコミ所となる。「そういうお前はどうなんだ、反響があってうれしかったんだろう?」と笑われる。そのサイクルがこれからも続くのが予期できてしまうことが、自分はとにかく嫌なのだ。
シン・ゴジラを観た。
だが同時に庵野および日本映画の限界を示すドキュメンタリーのような映画でもあった。
この映画は、
復興ありき、
再建ありき、
日本にはまだ力がある、
立ち直れる、
そういう答えがもう先にある。
出来レースっぽい。
これは映画に限らず様々な場面で3.11の震災後なんども繰り返されていることだ。
力があるって主張をかたくなに、ほとんど反駁不可能なイデオロギーのように保持しているのは、
俺は出来る!って盲信しているやつは、強いんじゃなくて自分の弱さを直視できないだけだ。
もっとも、3.11以降繰り返されてるそうした自己欺瞞的な合唱に飲み込まれることは、まぁ仕方ない。
この作品を取り巻く精神的な状況からして、ほとんど不可抗力であるし、それだけで作品のすべてを否定するつもりはない。
しかし、せっかくゴジラほどの大怪物を召喚しておいて結果やっぱり俺らスゲーの大合唱かよ、と思わざるをえない。
俺らスゲーの出来レースはゴジラ以外の他のテーマでやってくれ、と言いたくなる。
ゴジラというキャラはもっともっと掘り下げるべきテーマを蓄えた宝庫なのであって、ゴジラをそんな自己欺瞞の物語のなかに埋もれさせて浪費してはいけないのだ。
新たな危機に直面すればこそそれに見合った国の体制を改めるよう反省を強いられ、
新たにテーマを掘り下げればこそそれに見合った映画の手法を発明するよう強いられる。
しかしそうした危機とテーマである当のゴジラが、ほとんど空虚な存在であるがゆえに(たしかにわずかだが神として語られ、放射能の脅威を連想させていても、しかしそれが物語の構造そのものに関わることはない)、
日本万歳のその国の概念そのものに反省を迫る映画にはなっていないし、その手法に関して言えば新たな手法の発明どころかエヴァンゲリオンとさして変わらない。
(たとえばキャラクターについて言えば、感情を押し殺したようにして淡々と語る綾波は市川実日子に、外国語を混ぜたご機嫌なアスカは石原さとみに、真意のわからぬまま無理難題を突きつけてくるゲンドウは〈あの国〉アメリカに、それぞれ入れ替わっただけである。)
シン・ゴジラはエヴァンゲリオンで庵野が確立した様々な設定を忠実に引き写している。そこには反省も発明も見つけられない。
もちろん何の変化もないわけではないが、
そうした変化が結局は日本の閉鎖的で差別的な視野に同一化する点、
自分に力があると信じたいがために他国と異性に対する偏見を利用する屈折した日本男性の視点に同一化する点は、
たとえばエヴァンゲリオンにはなくてシン・ゴジラには見られる新しい部分は、政治の前景化であるとともに、(それがつねに〈日本の〉政治である限りで)他国の政府との交渉だろう。
ここに石原さとみが登場するわけだが、彼女のキャラクターは、自信を回復したがる日本男性の閉鎖的で差別的な欲望に奉仕している点で、やはりこの映画を保守的なものにしている。
石原さとみのチャラけた演技は真剣に事案に対処している他のキャラクターに比べかなり浮いて見えるが、
しかしあれは日本男性の閉鎖的で差別的な欲望からすると必然的な役柄になっているといえる。
演技がわざとらしいために良い演技とは言い難い、と思う観客もいるだろうが、しかしそういう演技も含めて必然的なキャラのあり方だと思う。
日本と米国の間に女性が入るというのは、日本からみて心理的な必然性をもっている。
日本と米国の関係はいわばスネ夫とジャイアンであって、ジャイアンのマッチョなところがあまりに出すぎると(たとえばジャイアンの力のみで事件を解決したり、その力がスネ夫である日本に向かったりすると)、日本を守る日本人男性たちのプライドや虚栄心が傷ついてしまう。
そこで米国代表としてか弱い女性を置くことで、日本人男性が日本人男性の力で国を守ったという体裁が保たれる。
かつ、あの日本語と英語を織り交ぜたヘンテコな日本語は、彼女をか弱い存在だけでなく変な奴として提示する。国際的な観点からでなく、あくまで日本人の側から見られた変人だ。
ここでは常識人と変人の対は、内部(日本人)と外部(外国人)という対と本質的に繋がっている。変人が変人であるのは、その者が外部から来た外国人であるからだ。
「〜アルヨー」とか「〜デース」とかいう言葉遣いのキャラが、日本人の側から見られた変な奴の象徴であるのと同じで、
彼女の奇妙な日本語は、他の日本人男性と観客とに米国でなく日本側からの観点を持たせ、その外部から来た変人として石原さとみを見させる。
視聴者たちが米国の目線から日本を弱小国として見る可能性が排除される。
このようなわけで、この映画は日本男性の精神性の問題をそのうちに含んでおり、その点ははっきりと批判されるべきであるが、
しかしその限界をはっきりと映画のなかで示しているという点においては、そうした限界の記録として、ドキュメントとして、歴史的な価値が大いにあると思われる。
これほどありありと、日本的および日本男性的想像力の限界を示した作品はなかなか見つからないのではないか。
あの映画は、機械オタクの男が設計室に引きこもってひたすら戦闘機の流線型のフォルムにうっとりしているだけで、その戦闘機がどれだけ戦争の悲劇を生んだか、とか、そうした男の機械オタクたちが生んだ戦争技術によって死んでいった女性への視点が欠如しているだとか、政治的またジェンダー的な観点からさまざまに批判を呼んだが、
しかしそうした戦中日本の精神の限界性をはっきりと示していたという点においては、ドキュメントとして大いに価値をもっている。
したがっておそらく、この映画において賭けられているのは、シリアスとコミカルの関係性ということになろう。これはどういうことか。
さしあたりこれまでの論述で明らかになったことは、この映画は限界を証言するドキュメントとしては優秀であるが、それはいわば限界にはっきりと居座っているからであって、丁寧になぞっているからであって、限界を越えようとしているからではない、ということであった。
つまり、エヴァンゲリオンを踏襲し、ナショナルなものとジェンダーの領域において日本男性の閉鎖的で差別的な欲望に奉仕するこの保守的な映画は、
限界を自ら反復し、演じている、ということであった。
日本の男性政治家が米国の女性とシリアスにセリフを交わす場面で、自身の力への欲望は満たされるだろう。
しかしまた、あることを反復し演じることは、つまりそれを真似することであり、その虚構性を示すことである。
そしてそれに応じて、批判されるべき部分は、評価されるべき部分ともなるのである。
したがって、このように問うことができるだろう。
限界を反復することは、限界に居座ることであると同時に、限界を茶化すことでもあるのではないか。つまり限界を批判することでもあるのではないか。
たとえばエヴァンゲリオンの設定を踏襲することは、新たな手法の発明の努力を放棄することであると同時に、反復しているその設定を茶化し、批判することでもあるのではないか。
そうであれば、シン・ゴジラへの正しい反応とは、それを積極的に笑うというものではないだろうか。
つまり、シン・ゴジラが何かを反復している限りでシン・ゴジラを笑い、またその反復によってシン・ゴジラが茶化しているものを笑う、と。
あの映画は、諸手を挙げて受け入れられているように見える。
われわれ働く増田の会は、日本の保育園によって育てられ、いわば日本の保育園はわれわれの父でもあり兄でもあり、母でもあり姉でもある。その恩義に報いるに、このような忘恩的発言に出たのは何故であるか。
かえりみれば、幼きわれら増田は3年、あるいは保留児となったかも知れぬ過去を父母の加護により隠蔽し、入り得た保育園で一片の打算もない教育を受け、またわれわれも保育園を愛し、もはや園の柵外の日本にはない「真の日本」をここに夢み、ここでこそ終戦後ついに先達の知らなかった豊かさを知った。ここで流したわれわれの涙は山川純一であり、憂国の精神を相共にする同志として共に園の庭におしっこした。このことには一点の疑いもない。われわれにとって保育園は故郷であり、生ぬるい現代日本で凛冽の気を呼吸できる唯一の場所であった。保育士諸氏から受けた愛情は測り知れない。しかもなお、敢えてこの挙に出たのは何故であるか。たとえ強弁と云われようとも、保育園を愛するが故であると私は断言する。
われわれは失われた二十五年の日本が、経済的繁栄にうつつを抜かし、保育の大本を忘れ、保育園精神を失い、本を正さずして末に走り、その場しのぎと偽善に陥り、自ら魂の空白状態へ落ち込んでゆくのを見た。政治は矛盾の糊塗、自己の保身、権力欲、偽善にのみ捧げられ、国家百年の大計は森元らに転がされ、五輪紋章の汚辱は払拭されずにただごまかされ、保育園卒園者すなわち日本人自ら日本の歴史と伝統を涜してゆくのを、歯噛みをしながら見ていなければならなかった。
われわれは今や保育園にのみ、真の保育、真の保育士、真の保育再興の魂が残されているのを夢みた。しかも法理論的には、待機児童の現状は自治体および日本国の行政不作為が問われる状況にあり、国の根本問題たるべき待機児童が、御都合主義の法的解釈によってごまかされ、待機の語義を永遠の諦めにすり替えることによって、親となった増田たちの魂の疲弊、道義の頽廃の根本原因を、なしてきているのを見た。もっとも名誉を重んずべき保育が、早期解決すべき待機が、実質を重んずべき一億総活躍の美名が、もっとも悪質の欺瞞の下に放置されて来たのである。保育園は元号を平成に変えてから国家の不名誉な十字架を負いつづけて来た。待機は待機の本義を与えられず、女性活用も一億総活躍もその対象も明確にされなかった。われわれは失われた二十五年のあまりに永い保育園の眠りに憤った。保育園が目ざめる時こそ、日本が目ざめる時だと信じた。保育園が自ら目ざめることなしに、この眠れる日本が目ざめることはないのを信じた。憲法改正によって、保育園が福祉の本義に立ち、真の男女均等となる日のために、国民として微力の限りを尽すこと以上に大いなる責務はない、と信じた。しかるに、誤って目覚めたのは宮崎であった。
われわれは悲しみ、怒り、ついには憤激した。地方行政は自らは何もできぬという。しかし行政に与えられる任務は、悲しいかな、最終的には増田らの民意からは来ないのだ。シヴィリアン・コントロールが民主的保育園の本姿である、という。しかし英米のシヴィリアン・コントロールは、保育園行政に関する財政上のコントロールである。日本のように人事権まで奪はれて去勢され、変節常なき政治家に操られ、党利党略に利用されることではない。
この上、政治家のうれしがらせに乗り、より深い自己欺瞞と自己冒涜の道を歩もうとする保育園は魂が腐ったのか。ゆりかごから墓場までの理想はどこへ行ったのだ。魂の死んだ巨大な遊戯所になって、どこかへ行こうとするのか。
われわれは二十五年待った。最後の一年は熱烈に待った。もう待てぬ。自ら冒涜する者を待つわけには行かぬ。しかしあと三十分、最後の三十分待とう。共に起って義のために共に死ぬのだ。保育園を真姿に戻して、そこで死ぬのだ。生命尊重のみで、魂は死んでもよいのか。次世代の生命以上の価値なくして何の保育園であり一億総活躍だ。今こそわれわれは生命尊重以上の価値の所在を諸君の目に見せてやる。それは自由でも民主主義でもない。保育だ。われわれの愛する歴史と伝統の保育だ。これを骨抜きにしてしまったこの国に体をぶつけて死ぬ奴はいないのか。もしいれば、今からでも共に勃ち、共に死のう。われわれは至純の魂を持つ諸君が、一個の男子、真の増田として蘇えることを熱望するあまり、この挙に出たのである。
増田 公威
聞けい。聞かぬか。そうか。
本当にわからないことに、
あれなんで?
・転職先を教えてよ、俺が掛け合ってやる。
・今のプロジェクトが終わるまでやめるな。
・有給消化はさせない。
・退職については上司がみんなに告知するからお前からは絶対に周りに言うなよ。
回答
→おまえら上が愛想尽かされるような会社経営してるからこうなるんだろ。
なんでお前の了承をいちいち取らないといけないんだよ。
何度も「お時間ありますか?」って相談したのに忙しいっていって時間とらなかったのはお前やんけ。
→人が抜けることなんて想定できる範囲なのに何で経営側のお前がそれに対してリスクヘッジしてないわけ?
→人が辞めないような環境を作ったり、人が抜けても大丈夫なような仕組みを経営が作れよ。
・転職先を教えてよ、俺が掛け合ってやる。
→そうやって転職先聞き出して有る事無い事言って、内定潰そうとするんじゃねーよ。
だいたいお前何様だよ?勝手に人の間に入るなや。
・今のプロジェクトが終わるまでやめるな。
→プロジェクトが続けられるように経営が法律遵守の雇用環境つくれよ。
・有給消化はさせない。
→法律くらい守れよ。時季変更権をギリギリまで行使して、取らせなかったら、
結局、後でネットにこの会社はひどい会社ですって書かれるんだぞ?
そしたら今以上にまともな人間は受けにこないけど、そこまで考えて判断したら?
・退職については上司がみんなに告知するからお前からは絶対に周りに言うなよ。
→最終出社日にいきなりプロジェクトメンバーに伝えたって現場が混乱するだけだろ?
みんなの生活を守るために頑張っているという妄想に取り憑かれてるのはわかる。
だけど、雇用契約署の内容を無視して、法律違反な働かせ方をして、
「一緒に頑張っていこう」なんて誰が付いてくるの?
自己欺瞞はなはだしい。
逆に違う見方があったら教えて欲しい。
けっこう好きな芸能人とか身近な人が死んでも悲しいとは思わないんだけど、
悲しいとは思わないのは死ぬことそのものは悪いことだとは本気で思っていないからだろう。
(死ぬまでの過程での苦しみや痛みは極めて悪いと思っている。)
あと気になることは、ぼんやりと本人にとって基本的だったり重要だったりすることが
充足されることは多ければ多いほどよいって俺が思っていることと、
悲しみを感じないことは整合的かってことだな。自己欺瞞ではないのか。
たぶん俺は、確実かつ苦痛なく死ぬ方法が簡単には手に入らないからには、
その人のする活動のうち、苦痛を伴う上に馬鹿げていることの割合が少なければ少ないほどよいとは思っているが、
そのよい状態が、かならずしも長ければ長いほどよいとは思っていないってことだろうな。
「生きるのは辛い。でも死ぬのは怖い」というのを、何とか誤魔化す為につくった、防波堤のようなものさ
もちろん、思想だけでは死の波を防ぐだけの由はないが、無いよりはあった方がマシである
それに、いくつあっても困るものでもないしね
「死にたけりゃ死ねばいい」なんてのは、ガキの理屈にすぎないですよ
ただ、悲しきかな、人間だけが死ぬ事に拘るようになってしまった
動物は余計な事を考えられないので、死ぬこともないだけの話である
ホントの事なぞ、言わないでもよろしい
敬虔な宗教者になり、心底まで人の編んだ理屈に浸れるなら、強いのである
それも生きるための理屈にすぎませんよ
(そんな事を言っても詮無い事ではありますが)
宗教と言うのはそれを良く分かっているので、神とやらを作ったわけです
実存主義なんて、いけない
彼らはよりよく生きるために、生き続けるというたったそれだけのために、人間を見ろという
人間の素の姿、そんなところを探してもなぁんにも出てきやしないんです、砂漠です
藪を突いて蛇を出すなんてものじゃない
それは自殺に近いのです
そこにある不動のもの、あふれる光の強さに目が焼け、死ぬか、狂人になるに過ぎません
しかしそれは、焦げた肌がかさぶたになり、生きているという熱に強くなっただけの事です
生存と言うどうしようもなく、生々しいものを露呈し、それでも我に恥じなしとふんぞり返っているだけです
それは道化に過ぎませんよ
悲惨なのが、自分自身は真実に近づいていると思いつつも、目が焼けているので却って常識的な目線に欠けるているので自分の姿が見えていないところです
人間存在の真実を見たと言いながら、いつまで経っても実存的で在れないところが悲劇的である
一歩間違えるとそうなってしまう
そんなものはないと思うがね
ここまで書いて、私はもうやめることにした
そもそも、書いても書いても終わらないのだ、生きることについては
書くことで救われるなら、終われるなら、こんな楽な事はないし、宗教以上の発明であるだろう
しかし、書く事でしか救われないというのも、これもまた人の編んだ理屈にすぎないよ
不変なものは、人には作れないよ
もう、10時を回る頃です
ここらでそろそろ、私も私の救済を編み始めなければならない
ひとまずは、目の前にある仕事と言う名の救済を、ね
「一つ一つ、目の前の事を片づけなければならない」と誰かが言う
残る者にこそ意味はあるのです
最後に立ってたものが強いのであって、強いから勝つのではないのですよ
私も、立ち続けなければならない
よく噛み砕いていて面白い、と思ったが一般人にノイマン型アーキテクチャはピンとこないと思うので、なんというギーク向けwそのニッチぶりとのギャップがまた乙。
かつて蟷螂の斧を持つ弱者が”一寸の虫にも五分の魂”の文脈で「ペンは剣よりも強し」と言ったけど、近年のペンは拡散力を得て大量破壊兵器なみの攻撃力を持った上に、戯言力で世論の向きを操作し強者を追い詰める技術も一般化して、本当に剣より強い。
書き手がその攻撃力を軽く見積もるか、あるいはわかっていてなお「ペンは剣よりも強し」と韜晦する。
風刺画ではなく強者によるただの排斥となっていることに気づいていない。あるいは気づいていてなお風刺と言い張る自己欺瞞に満ちた悪意そのもの、であったりなかったりw
動的型の言語が嫌いで、RubyとかJavascriptは動的型だからダメだみたいなことをよく発言するんだけど、そうするとスクリプト言語の信者は動的型の言語のメリットを説いて反論してくるのな。
「UIのような変更の多い部分は柔軟な動的型の言語が向いてる」みたいな。(俺は変更の多いコードにこそ静的型の言語が向いてると思うけど)
俺はスクリプト言語のよい所は記述が簡潔なところで、静的型の言語もどんどん記述が簡潔になってきている今の流れからすると、スクリプト言語の役目は終わりつつあると思ってる。
世間でスクリプト言語が受けたのも動的型だからではなくて記述が簡単だからだと思ってる。
でもスクリプト言語の信者は視野が狭いから、自分の好きな言語は全肯定。欠点はない。欠点であるところの動的な型だって自己欺瞞や屁理屈で肯定してくる。
で、swiftが登場したわけだけど「Rubyに似てる」とか「Javascriptに似てるところもある」とか、スクリプト言語の信者と思われる連中まで好意的に持ち上げてるのな。
俺が思ってたとおり、スクリプト言語のいいところって型が動的だからじゃなくて記述が簡潔だからじゃねーか。
動的型がスクリプト言語の長所だと強弁してた連中は、swiftが「***に似てる」とかほめてないで、長所が失われてるって指摘しないといけないよな。
でもそんなこと言ってるやつ見たことない。
動的型であることが欠点だと認めないで俺を煽ってた連中は、謝れとは言わないけど自分の見識の無さを恥じてほしいわ。
そうじゃないって言うなら今からでもswiftが静的型なのは「後退してる」「欠点だ」ってネットで声を上げろ。
以上。
ここ最近もやもやがたまってるので(もやもやしすぎて頭が働かなくてちゃんとした文章が構成できないけど)、はてダ使うの初めてではてな記法とか間違ってるかもだけど考えを整理するの兼ねてここで愚痴らせて
某大学の物理系にいるM2なんだけど、博士いくつもりで就活とかも全然してなかったのに今になって研究の行き詰まりがむっちゃ露呈してかなりやる気喪失してる
心当たりとしては
2. そもそも自分は実はそんなに研究をやりたいわけじゃなかった
あたりで、ネットでいろいろブログとか検索してるとやっぱりこういうので悩んでる人多いんだね
1のほう、d:id:next49:20081019:p2とかd:id:next49:20081207:p1とか「なにこれ自分じゃんやば…」ってなってしまった
大学院入るときに分野をわりとがらっと変えたせいもあるけど、研究に必要なレベルにまだ基礎知識があんまり追いついてないのに「研究」をやらされるのでリンク先にあるような叱られまくりの学生になってしまって辛い
このあたり2のほうとも絡んできて、その辺はd:id:next49:20090222:p2とかd:id:next49:20080205:p2がすごいしみる
自分が物理あんまりわかってないので、指導教員が「これこれこういう方針でいってみては?」って提案してくれて、ほうほうそういうものなのね、ってそういう方向でやってみて、で結果をみせたら「この報告からは君が何をやろうとしているのかわからない、これによって君は一体何を主張したいの?」みたいに言われるとえー急にそんなはしごを外されても…ってなって、でもやっぱりそれじゃ研究する立場としてはダメすぎるよね。
本当に自分で「自然な疑問」を持って問いを立てる、っていうのが全然できない
なんというか、理系の人の大半が例えば法学での甲という学説と乙という学説の対立なんか別にどっちでもいいよ、って感じてるのと同じくらいに物理のあれこれに対してえー別にどっちでもいいよ、って感じててあんまり「これを明らかにしたいんだ!」っていう目的意識を持つのが難しい感じ
いやそんなんじゃなんで大学院行ったんだよって話だけど、一つには周りの人に「君は学業が優秀だから」っておだてられたのといまやってる分野が将来的にもっと盛り上がりそうだったから、っていうのでそもそも「この研究がやりたい!」って動機じゃあんまりなかったのかも。前者に関しては「優秀な人間だって勘違いしちゃったじゃない!」のあのマンガまんまだしだいたい分野変えた時点で少なくとも学部の頃での評価なんてなんの役にもたたなかった、後者に関しては物理でそんなのあるんかいな、って思うかもしれないけど詳しく書くと身バレしそうだし割愛。
実際のところ院に入る前に「自分はこの分野に興味があるんだ!」って思ってたのは実は自己欺瞞(本当は別に研究するつもりもなかったけど、それじゃ大学院行く意味ないし適当な理由付けとして)だったのかも
とにかく、このブコメhttp://b.hatena.ne.jp/entry/d.hatena.ne.jp/next49/20080205/p2にあるような
「研究の対象にも研究すること自体に対しても興味がないから考えないのだと思う。どうでもいいと思うことについて人は頭を使わない。「正解」があるならもうそれでいいですって感じになるよな。」
っていうのはマジで心当たりありすぎる。ていうかそれをM2の今になって気づく脳タリンな自分に辟易するけど、それでもまだなんとか指導教員に自発的に「これこれこういうところが分かりません!」て質問できれば状況はマシだったのかも。
でもアスペルガーのサバイバル術でよくある「質問されたときは理由で返すな、そういう時に相手が聞きたいのは理由ではなく謝罪だ!」みたいなのを高校生くらいのときにふんふんそういうものか、覚えとかなきゃってやってたせいか上で書いたみたいな状況で指導教員に「これはどういうことなの?」って聞かれてもむっちゃ身構えちゃうしそこであなたがそう考えた理由を教えて、って言われてもえーそういうこと今まで求められてなかったよー、ってやっぱりはしごを外された感しかない。最近はこういう質問なげられたときにしどろもどろになってろくな返事もできない自分にたいして指導教員もかなり呆れ顔になってるな、ってわかってしまうので精神的にけっこうきつい。
上のブコメのリンク先とその追記先を読んで思ったのは、例えば就職面接のコピペで知られる「1+1は何ですか?」っていう質問にたいして大学教員のほうとしては「私は1+1=2だと考えます。それには3つ理由があります。1つ目は…以上の理由により、1+1は2とかんがえるのが妥当だと私は主張します」って学生が答えるのを期待してるのかもしれないけど、自分が今まで生きてきて当たり前に求めらてた解答は「(1+1が何であることがこの人の期待してることだろう…)→(その答えを察して返事する)」だったし、ていうか研究室の一歩外にでれば今でも普通にそう振る舞うべき場面ばっかりじゃん。「気立てがいい」って要するにそういうことじゃん。
ほんとなんかもう、ただただ自分が研究に向いてないってことが改めてわかったというだけの1年半だったし修士すら終わらせられる気がしない(修了要件に学会発表を1回はしなきゃ、みたいなのがあるけどできる気がしない、未だにぜんぜん結果がでてない)、でも退路も立たれてどうしようもなくて大学いく電車の中ですら辛くて泣き出す始末、いままで期待していろいろサポートしてくれた家族にも申し訳なくて大学院無理そうですって言えないし、いまはすごく明日の月曜が来るのが嫌すぎてつらい
かといってここで逃げたら「自分で選んだ道すらまっとうできない」ダメ人間の烙印はずっとついて回るし、親や教師の言うことがよく聞けるだけの聞き分けのいい子が大人たちの考える「正しい答え」をひたすら暗唱し続けた結果がこれだと思うと情けないと思う反面、しょせんは自分の頭で主体的に考えられない人間の末路にはお似合いだねっていう感じもするしもう一生誰かの言いなりになって言う事を聞くだけで生きていければな、っていう希望しかない
・優しいから別れる
自己保身や臆病さ、卑屈さはそこにないのか
そう思うなら、自分が成長すればいいのに、そうしないのは何故か
・優しいから別れない
自立的ではなく、自分が傷つきたくないから相手の決断を待っているのではないか
別れるのが正しいか、別れないのが正しいか
相手を本当に思いやり、成長させる事とはないか
そこに傲慢さや偽善、相手を支配しようとする思惑が働いていないと言い切れるのか
自分を知り、答えを探し、克己するべきか
そこに自己欺瞞や理想化、歪んだ自尊心の発露、自己否定や卑下、恐怖心が働いてないと言い切れるのか
あなたの決めた答えに、あなたの真実はどこまで含まれているのか
こんな記事がYahoo!ニュースのトップに上がっているのを見て、
「昔は俺もそうだったなぁ。。。。」と感慨に耽ったわけであるが、
まずは結論ファースト。
「安いキャバクラに行け」
駒込や巣鴨と言ったややマイナーな駅や、八王子・立川と言った西の方がオススメである。
以下、その理由について説明していく。
「キャバクラとは、キャバクラ嬢と呼ばれる女性が客席に付き接待を行う飲食店。」(Wikipediaより)
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小学校 → 共学
とまあ、「女子が1割もいるのか!!」という驚き方をするような
「あーあー、チャラ男はイヤだね」
と自己欺瞞しつつ、内心忸怩たる思いを抱えて幾星霜・・・オッサンになっちゃった感じである。
そんな自分が、社会人になって合コンに行くようになっても、まあ盛り上がらない。
「仕事は−?」「うけつけー」「そうなんだー。大変そうだねー。」「そうだねー・・・」「・・・・・・・」
という感じで、いつのまにか、6名の飲み会での話しの中心が自分のいない側に徐々に移動していく。
自分ははじっこの方で、ビールをあおる頻度があがり、中心の話題に合わせて笑うだけ・・・
みたいな感じで、あふれ出るキョロ充ボッチ感がハンパなかったのである。
「そんな自分も安キャバメソッドを3ヶ月続けたら、雑談力に自信が出てきて、周囲に明るくなったと言われました。
また合コンとかでも軽妙なギャグを飛ばせるようになり、女子からもメールの返信がくるようになりました。
おかげで、仕事もばりばり進むようになり、上司にも気に入られ、今度銀座のクラブに連れて行ってもらえる事になりました!
閑話休題。
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さて、ここでなぜ安い(やや場末感のある)キャバクラが雑談力向上に有効なのか?
キャバクラなら、女子が雑談を盛り上げてくれるんじゃ無いのか?
甘い。まず安価場末キャバクラで働いている子は、雑談力とか0である。
あまつさえ「私はキャバクラなんかで働きたくないのにー」というオーラむんむん、なんて人さえいる。
隣に座って「こんばんはー」「こんばんはー」「・・・」「・・・」
といきなり雑談力が無い理系男子にとっては手痛い先制パンチを食らわされることもある。
まあ、安価場末キャバクラにいる、という女子にはそれなりに理由があるわけである。
誰かしらが話題を提供してくれる。
それにフンフン頷いたり、ネタに合わせて笑っておけば、大体なんとかなる。
ところがキャバクラは1対1のサービスを売りにしてるので、基本はサシ飲みである。
しかも相手は、「なんちゃら巻き」みたいに髪をモリモリ盛った、化粧ばっちりの女の子である。
理系男子としては、「え・・・ちょっと」と言いたくなるし、場合によっては畏怖の対象である。
その子達が何の話しに興味があるか、なんてのはかなりの難問である。
当然、思考は空転し、沈黙が続く。しかし誰も助けてくれない。。。。
そうなったら雑談力鍛錬環境としては勝ちであり、雑談的には勝負の始まりである。
まずはベタだと思いつつ、天気ネタから始まり、出身地、趣味、出かける場所、すきな映画、芸能人、来ている洋服・・・・
などなど会話をつなぐ、盛り上げるための様々なネタを繰り出し、玉砕し、ヒットし、たまに会心の一撃を出し・・・・
というのを繰り返していると、段々雑談力がアップしてくる(はずである)
ちなみに、自分が色々と学んだのは、
・「趣味は?」と聞かずに、「休みの日は何をするのが好き?」と聞いた方が趣味的なものが聞き出せる
・相手のことを聞き出したら、次に自分についても話す
・たまに自慢話を混ぜる
などなどである。
結局は、いかに「他人に甘えられず、自分でどげんかせんといかん状況」を作り出すか、つーことですよね。
外から見る分には微笑ましいけど、実際に自分がツンデレになってみると辛いものですよね。
1年前に初めて会って可愛い人だなぁと気になっていた人が、色々あってここ2,3ヶ月くらい距離が近づいた。仕事で失敗するたびに励まして来るようになったり、職場で突然笑顔で遠くから走ってきて話かけてくるし、飲み会では何ヶ月も前の話を覚えていて2個となりの席からいきなり話しかけて来たり・・・
これって気があるんじゃ無いかと妄想しては布団の上で足をバタバタさせたりしてる。
今までこういったことって3回くらいあって、告白もされた事はあるけどなんとなく胸に苦しいものを感じて興味無さそうに振る舞ってしまう。釣り合わないんじゃ無いかとか、この子は別の人と付き合った方がいいんじゃないかと自己欺瞞を抱いてばかり・・・
そんなんだから、いつまでも彼女いない歴=年齢でそろそろ魔法使いになるお年頃なんだよなあ。
ツンデレの直し方が知りたいです。
(追記)
ホッテントリに上がってて驚いた。
反社会性パーソナリティ障害か、内向感情型のどちらのタイトルで行くかを悩んでたけど、土壇場でツンデレという附に落とさない単語が浮かんで良かったと思う。
ところで昨晩は、以前から会社の先輩に「そろそろいけよ」とけしかけられていた日であったので、ご飯に誘って告白しました。
結果、無事OKを頂きました。未だ書いててドキドキです。
元々は同じような境遇の人が意見をくれたら良いかなと思って書いてたけど、なかなか辛辣な意見が多く・・・
ただその辛辣さも自分の内なる声に比べればかなりの甘口(大半がリカバリ案が容易に思いつくもの)だったお陰で気分が軽くなり期限通り告白が出来ました。キモかわポエムを書いた冥利に尽きるというものです。
http://www.j-comi.jp/book/comic/45521
何の予備知識もなくただのレトロゲー漫画だと思って読んで深い感銘をうけたので感想を書く。(※ネタバレ含む)
1979年からのゲームにまつわる著者の少年時代のエピソードを細かい小ネタ解説を交えて
進んでいく前半パートは気楽に楽しく読めた。
細かい文字が多く読みにくい部分はあるものの、スペースインベーダーを模したおもちゃの詳細な解説は読み応えがあるし、
近所のゲームコーナーのヒーローおじさんやお金持ちの男の子などしんみりさせるエピソードなどは
自分より一回り上の世代ではあるが共感とノスタルジーを感じた。
旧友が岡山弁丸出しでMZ-700のゲーム内容を語るシーンなどのギャグセンスは秀逸であり一気に登場人物に
感情移入してしまうが、その後急に内輪ノリでお友達がゼビウスについて語りだしてしまうのは突き放された印象でちょっと興ざめ。
レトロゲーム史の記録にこだわらず少年時代のノスタルジー漫画として割り切ったほうが、読ませる筆力がありそうである。
そのあたりから徐々に自伝的色合いを増し、第10話から話が急展開してゲームからアニメへ主人公の興味が移ってしまう。
3年間アニメ制作に情熱を燃やし尽くした筆者を待っていたのは、「まんが道」における「連続原稿落とし事件」並みの絶望であった。
努力はした、けれども能力が足りなかった。でもみんなで頑張ったんだからよかったじゃないか。
そんな自己欺瞞を「オネアミスの翼」に粉々に打ち砕かれるシーンには胸を打たれる。
「どれだけ熱意があっても、どれだけ精魂を傾けても、クズはクズだ。ぼくはこの時はじめてそれを学んだ」
この後、この挫折をバネに著者がゲーム業界で成功していれば、ゲーム版「まんが道」といってもいい希望に満ちた素晴らしい物語になっただろう。
だがその後モノローグはこう続く
「そして、それは最初であって決して最後ではないことをぼくはこの後何度も思い知らされることになる」
アニメフェスティバルで手塚治虫に会って、一生かかっても恩返ししたかったのだというエピソードのあと、
現在の著者近況に戻って物語は終わる。希望はなかった。ただ傍観者としてゲーム業界の進歩を眺めているというようなラストだった。
おそらくこれはまだ続きを書くつもりなのだと思う。
気になったので著者のその後について調べてみた。
大学在学中に漫画家デビューしたものの売れずその後セガに入社、現在はフリーライターとのことである。
セガガガ(2001年、セガ) - 原案・美術設計・プロデュース
ASTRO BOY・鉄腕アトム -アトムハートの秘密-(2003年、セガ) - ディレクション・シナリオ・背景グラフィック
ガンスタースーパーヒーローズ(2005年、セガ) - ディレクション・シナリオ・背景グラフィック
ブラック・ジャック 火の鳥編(2006年、セガ) - ディレクション・シナリオ
サンダーフォースVI(2008年、セガ) - 企画原案・美術設計・プロデュース
セガガガはセガファンには有名な内輪ネタゲーであり、この人はやはり内輪ネタで本領を発揮するタイプなのかと思われる。
クソゲーとも言われているようだが情熱だけで独善的に突っ走る著者の性格がまだうまく作用したケースなのではないだろうか。
ASTRO BOY・鉄腕アトム -アトムハートの秘密-は、火の鳥アトム編を補完するGBAの名作として手塚ファンに語り継がれている。
この実績を持って手塚治虫への恩返し云々というエピソードにつながってくるのだろう。
どの程度関わったのかはわからないが、これが現在のところ著者のゲーム業界におけるハイライトと言えそうである。
そして最新のキャリアがあの伝説のクソゲー、シリーズファンから存在を抹消されているサンダーフォースVIであったことを知って
とてもフクザツな気分になった。情熱だけで独善的に突っ走った結果手に負えなくなり、誰も喜ばない作品が出来上がって
「仕方なかったのだ、これはこれでよかったのだ」と自己欺瞞するしかなくなるという高校時代のエピソードとぴったり重なる。
ちょうどこのゲームをリリースしたあとにこのパートを執筆していたというのだから著者自身それを痛感していたことだろう。
思うにゾルゲ市蔵氏は才能豊かな人である。絵も上手いし、曲がりなりにも高校生で二十数分というアニメを完成させている。
自伝をこれだけ客観的で読み応えのある物語に仕上げる才能は相当なものである。
センスが無いのか、悪趣味なのか、思い込みが激しいのか、高校時代のエピソードとサンダーフォースⅥに関しては
情熱を発揮する初期の段階で方向性を間違えていたと思えてならない。
そのようなタイプは大勢のスタッフを引っ張ってプロデュースしていくゲーム制作の仕事が向いていないのでは、とも思える。
もっとも、このマンガも絶版になったうえJコミ無料公開してもそんなに閲覧数が伸びていないので、
漫画家のほうが向いているとも一概にはいえないのであるが、なんとか自分の才能を活かせる表現形態を見つけて欲しい。
>私は、たゞ一個の不安定だ。私はたゞ探してゐる。女でも、真理でも、なんでも、よろしい。御想像にお任せする。私はただ、たしかに探してゐるのだ。
>然し、真理といふものは実在しない。即ち真理は、常にたゞ探されるものです。人は永遠に真理を探すが、真理は永遠に実在しない。探されることによつて実在するけれども、実在することによつて実在することのない代物です。
>真理が地上に実在し、真理が地上に行はれる時には、人間はすでに人間ではないですよ。人間は人間の形をした豚ですよ。真理が人間にエサをやり、人間はそれを食べる単なる豚です。
幸せの背景は不幸とは、何の事を言っていたのか
CARNIVALにおける幸福、馬の鼻先にぶら下げられた人参の意味とは
マズローやロジャースにおける自己実現には、自己欺瞞は存在しないのか
攻撃性を発揮できず、自分を守ることなく、死ぬ事を自己実現として定め、それを幸福とし、自分の生に後ろめたさや罪悪感を感じ、自分への攻撃性を肯定する
「自分なんか、壊れてしまえ」というメッセージが、死の欲動が、涅槃原則がそこには伝わってきて、読んでる者を誘ってしまう
蠍の炎、よだかの星、グスコーブドリ、雨にも負けずのデクノボー
人は、死を含むものに惹かれて、それを喰らおうとする
まさに人参であり、「探されることによつて実在」するものである
つまり、そこには真理がある、真理が幸福であると考えられている、救いがあるのだと考えられている
死とは何だろう
生きて居る限り、死を体験することはない
死によってもたらされる幸福もまた、ない
死は実在するけれども、生きて居る限り、人間の人生には実在しない
その攻撃性を自分に向けるか、相手に向けるか
ある人はそれを他人に向ける
ある人はそれを自分に向ける
ある人は、両方に向ける
そして、またある人は何にも向けず、その攻撃性を変質させていく
私がサードブロガーという言葉を始めて目にしたのはこの記事を読んだときである。
はてな村では「誰が言ったか」より「何を言ったか」とか言うけど嘘だよね。またはサードブロガーアワードでも、γブロガーアワードでも、+αブロガーアワードでも同時並行で勝手にやったらええねん
この記事について私はこのような感想を残している。
順位を気にしてるからこそ「順位なんか気にせず行こう!」って言ってるみたいで、なんか根本的な解決になってない気がする。宇野常寛っぽい。 2013/10/19
http://b.hatena.ne.jp/masudamaster/20131019#bookmark-165863730
「電車に新しい席を作ろう」という話を書いたつもりです
と言っているが、新しい席も何も、インターネットという場には無数に席がある。それこそ無限にだ。
勝手に座ればいいのに、アルファブロガーがうんぬんアワードがうんぬんと言い続けるその姿勢
カースト論そのものがそもそも馬鹿馬鹿しいし、ましてやブログにはそういった類の優劣は無いはずだ。
私のような疑問・違和感を他の人も表明している。
・サードとかフォースとか言ってる人たち
ゴメンやっぱりよくわからない。
この人ら、何が言いたいの?
「僕はアルファーになれない。アルファーになれない僕らは何者にもなれないのと同じ。でも何者にもなれないのはツライから自らが何者かであると自称する。よかったら認めてくれ」って話なの?そうとしか聞こえないわけだが。
それが書き手個々人の自尊心とかやる気にとって意味があるのは何となく分かる。だが、読み手にとってそれ何の意味があるの?個々人が胸の内で持っていればいいことじゃないの?その概念を広めて最終的にどうしたいの?
(略)
そのサードブロガーとやらは、アルファとは何が違うの?アルファと違って何が読み手にとって素晴らしいことなの?別にブロガーにプロアマの違いがあるわけでもないし、「アルファブロガー」の劣化版としか思えないわけで。 サードブロガーとして認められたら何か満たされるの?すでにサードブロガーとして認められた人たちは、何か心が満たされましたか? 何か生活変わりましたか?
自分なりの目標立てて満足したいだけなら、そんな名前いらなくない?
そもそもなんでアルファにこだわる必要があるの?アルファとかにこだわってるの君等だけじゃないの?自分に自信はあるけどアルファは無理、だからセカンド、サード、フォース、フィフス。そんな志半ばで折れてくたびれた人みたいな話に読み手が付き合う必要あるの?
毎日のように「本物のブロガーとは」みたいなこと言ってる人は、本当はアルファになりたいんじゃないの?
「僕らはアルファになれないブロガーです!」と自称する意味がわからないし、それを公表して一体どうしたいのか、とは
誰もが持つ疑問である。ほとんどのブロガーはアルファではない。しかしブロガーはそんなこと気にしないし、ましてや
いちいちそのような自虐めいたことを記事にはしない。
「僕らは競争から降りたんですよ」と言っているわりにはアルファブロガーに対する意識がとても高く、これにも矛盾を感じた。
この時点で、私のサードブロガーに対する印象は最悪である。自分の立ち位置を意識して書かれたブログなどに価値は感じないからである。
このような記事が投稿されたが、私はこれがまったくわからないのである。
何が言いたいのかわからないのである。村上春樹がここで出てくる。
「○○かもしれないし、○○かもしれない」
「完璧な○○など存在しない。完璧な○○が存在しないようにね」
一事が万事この調子で、とても難解な文章になっているし、私や他のはてなユーザーへの回答・反論にはなっていないと言って良い。
なっていないから「サードブロガー」の意味は二転三転したのである。
それはこの池田批判にも繋がる
サードブロガー問題について理解したいと思っている読者に対して何かを説明しようという意図は全く感じられない。説明する前にさらに自分の課題意識を語って問題をさらにややこしくしている。読んでる人完全においてけぼりである。
そうこうしていると、次はトマト祭り(?)なるものが開催され、よくわからないが、この事件には私よりも私以外のユーザーが不満を漏らしていた記憶がある。
たぶん、トマトをお題にブログを書いてブックマークし合う、といったような話であろう。
身内ブクマ問題である。この部分にはあまりコミットしていないので私にはわからない。
そうすると今度は、やけに声の大きいとても目立つブロガーたちが集団で現れた。体調わる子を筆頭としたはてな女子、大彗星ショッカー、まつたけ、etc・・・。
彼らははてなで大騒ぎをした。とんでもないタイトルととんでもない極論をまぶした記事をはてなに大量に投げ込んだ。
はてな移住前のファンを引き連れてやって来た(ホットエントリが確保されていた)。
お金をください、ファンになってください、と叫んだ。自殺宣言をした。馴れ合った。アイコンを女体に変えた。
私は彼らのことをさっぱり理解できず、嫌悪感を持ちながらも考察した。彼らがブログを書く動機や目的は何か。
そして彼らをどうカテゴライズすればいいのか。
そのとき、私やはてなユーザーは、池田氏が提唱した「サードブロガー」という言葉を持っていた。
これを使わない手はなかった。
池田氏の提唱する「サードブロガー」に対する嫌悪感と、新参DQNブロガーに対する嫌悪感が合体した瞬間である。
「まとめて呼んでしまえ」
ここで池田氏は「提唱者が違う」とおっしゃられるかもしれないが、私はこの記事を提示したい。
サードって言葉使うと俺はサードではないとか、まつたけは一緒にするなとか、原義がー事実誤認がーってうるさいんだよ、あいつら。
そんな細かいこと知らないし、ソース当たるために読み返さねーよ…
そこまでしたくなるほど魅力的な人物や文章がない。
かなり口は悪いが、それなりのことは言っていると思う。
つまり我々は、友達でもない人のブログをいちいち過去に溯ってまで読まないということだ。
自分のブログを過去に溯ってまで読まれるということはとても光栄なことであり、それは自分に興味を持ってくれたということでとても嬉しい。
ただ、それはとても稀なことであり、だから私の過去もあなたの過去もほとんど参照されない(それは救いでもある。東浩紀レベルになってようやく参照されまくる)。
池田氏以外の最近のブロガーにも言えることだが、「私はこのときこう言ってるんですけど!」「過去記事見てください!」
というのは文章のコミュニケーションではたぶん有り得ないことだ。文脈の時制を統一するのが文章のやり取りであり、もちろん
日本のインターネットに居るほとんどの人ができているのに、サードブロガーになると途端にこれがダメになる。
「私の過去ぐらい知ってるでしょ?(みなまで言わないわよ)」ときたもんだ。そんなもん知らないのである。
そういう姿勢が、サードブロガーの文章の読みにくさの大きな要因となっている。
話は逸れたが、つまり私や他の多数のユーザーにとって、「サードブロガー」の提唱者・代表者は間違いなく池田氏だということだ。
さて以上が「私がサードブロガーという言葉を使うまで」の私的(主観)歴史である。
サードブロガーという概念・言葉が二転三転した経緯を私はこう捉えている。
他の人はどう考えているのか。最後に私の目に止まったものを紹介して今回の記事を終わる。
kanose 「サードブロガー」が今までのブログとどう違うか明確に説明されず、他人が理解できない時点で、定義がどんどん出てきたのは当然だったんじゃないかな 2013/12/23
そんな絶望した世界にサードブロガーという言葉が定義されました。
だって、そんな名前つけなくてもWebには、小さな世界や日常をを映し出す人達なんていくらでもいた。
トマトブロガーになりませんかって茶化す記事があったときに一緒になって笑っていた。
別の人間も、フォースブロガーでもプラスアルファブロガーでもええやんと言い出した。
いっぽうで、はてなブログの馬鹿騒ぎに苦々しい思いをしている人たちは、
だから、彼らが大して大事にせずにほったらかしにしてた言葉を使うことにした。
この動きがあった時も、大して反論のようなものは見られなかった。
この時点で、もはやサードブロガーは提唱者のものではなくなってしまった。
乗っ取りが完了してしまっている。
(略)
起源などどうでもいいとはいわない。言葉を提唱したこと自体に意味が全くないとは言わない。
だが、サードブロガーという言葉をどのように使うか決められるほど
トマトバイトテロが洗濯機に入って浮かれているときに笑って見ていた。
ところが、「サードブロガー」周辺のやりとりをみるに、このあたりがよくわからない。PVや影響力だけがすべてではない、と主張しているようにみえるけれど、実際、サードブロガーに該当しそうなブロガーがPVや影響力を軽視しているようには見えなかった。既存のはてなダイアリー・はてなグループのブログ群のほうが、よほどPVや影響力を意識せず動いているようにみえたからだ。そして、彼らはお隣さん同士で「拍手」をつけあい、「あしあと」を気にしあうようなプライベート的ブログ文化圏のソレに近いようにもみえた。本人達の思惑はさておき、日本のブロゴスフィア全域を前提として考えた時、第三の極と言えるようなポリシーの鋭利さは見出しえなかった。
http://anond.hatelabo.jp/20131222231100
http://anond.hatelabo.jp/20131209142219
http://anond.hatelabo.jp/20131224125320
http://anond.hatelabo.jp/20131228163827
俺はブログと言う世界で生きている、この世界で偉いのは金持ってる奴でも喧嘩強い奴でもない、土日祝日ブログ書く奴。サードブロガーです!
http://azanaerunawano5to4.hatenablog.com/entry/2013/12/24/170036
めんどくさいがざっくり説明しとくと、
元々、Tumblr界の魔神otsu●e氏が道路を暴走し、それを「情報戦略は始まっとるんや」とウチで茶化したらクマのお医者さんが鉄製の屑籠を振りかぶって
「悪いことは悪いって言わんかい...オマエネタにして調子乗っとったらぶち○すど、このクソ猿ブログが!!」
と怒鳴られ説教されて「やべー!殺される―!!怖ぇぇぇっ!! (((( ;゚Д゚)))」と冷や汗かいてるところを取り囲んでブコメで騒ぐはてな村お馴染みの盛り上がりの一連をyarukimedesu氏が
ブログ記事を沢山書いて、アルファーブロガーになりたいな、なんて思ったこともあったけど。今でも思うけど、こらあかんわ。人生はあきらめが肝心だ。“
と書いた。
それを見たinujin氏が「アルファなんて目指さないでいいんじゃね?」と言い出したところが最初。
だから元々の発祥も「ボクたちサードブロガーはもっとブログ界を盛り上げて...」なんて意味でも無かったんだが、ちょうどその頃新進気鋭でロジック・思考甘々で釣りまがいの記事を挙げまくって軽く炎上するようなブログが(昨日今日も何やら燃えてたらしいが)幾つも出て来たもんだから「新進気鋭のブログ=サードブロガー」と結びついて、その瞬間本来的な「サードブロガー」と言う言葉と概念は死んだ。
(略)