はてなキーワード: 死の欲動とは
>私は、たゞ一個の不安定だ。私はたゞ探してゐる。女でも、真理でも、なんでも、よろしい。御想像にお任せする。私はただ、たしかに探してゐるのだ。
>然し、真理といふものは実在しない。即ち真理は、常にたゞ探されるものです。人は永遠に真理を探すが、真理は永遠に実在しない。探されることによつて実在するけれども、実在することによつて実在することのない代物です。
>真理が地上に実在し、真理が地上に行はれる時には、人間はすでに人間ではないですよ。人間は人間の形をした豚ですよ。真理が人間にエサをやり、人間はそれを食べる単なる豚です。
幸せの背景は不幸とは、何の事を言っていたのか
CARNIVALにおける幸福、馬の鼻先にぶら下げられた人参の意味とは
マズローやロジャースにおける自己実現には、自己欺瞞は存在しないのか
攻撃性を発揮できず、自分を守ることなく、死ぬ事を自己実現として定め、それを幸福とし、自分の生に後ろめたさや罪悪感を感じ、自分への攻撃性を肯定する
「自分なんか、壊れてしまえ」というメッセージが、死の欲動が、涅槃原則がそこには伝わってきて、読んでる者を誘ってしまう
蠍の炎、よだかの星、グスコーブドリ、雨にも負けずのデクノボー
人は、死を含むものに惹かれて、それを喰らおうとする
まさに人参であり、「探されることによつて実在」するものである
つまり、そこには真理がある、真理が幸福であると考えられている、救いがあるのだと考えられている
死とは何だろう
生きて居る限り、死を体験することはない
死によってもたらされる幸福もまた、ない
死は実在するけれども、生きて居る限り、人間の人生には実在しない
その攻撃性を自分に向けるか、相手に向けるか
ある人はそれを他人に向ける
ある人はそれを自分に向ける
ある人は、両方に向ける
そして、またある人は何にも向けず、その攻撃性を変質させていく
幸せはどこにあるのか、そういう話です
我を通さない生き方だ
我を通す生き方だ
どちらも辛い
我を通す生き方をしてる人が身近にいる
彼女は、自分と周りの差に敏感で、話が合わず、波長を合わせられない
彼女は、批判的であるかもしれない、狭量であるかもしれない、考え不足なのかもしれない
けれど、辛そうである
そして、彼女最大の不幸は「例え我の通さない生き方をしても辛いことには変わりがない」という予測があるという事であろう
彼女が自分と周りの差を埋め始め、話を合わせ、波長を合わせ、受容的になり、寛大になり、思慮深くなったとする
それは彼女にとって新しい苦痛の始まりで、自分を偽り否定する事になり、「自分のしたい事」と「自分に望まれている事」の間で葛藤することとなる
「I never promised you a rose garden.」という言葉がある
統合失調症者が寛解し、現実検討能力が戻った事で葛藤が生じて、それを医者に訴えた後に言われている
生きる事とは苦しさも受け取る事である
死や逃避を選択してしまえば、楽になるのに、死の欲動や涅槃原則に従って、自殺をしてしまえば悩まなくても済むのに
けれど、それが彼女にとって本当に幸せな事とは言えない気がするのだ
主観的世界において苦痛を最大限取り去る手段である「死」を目指す所に、どうして快楽原則の彼岸など見出せるものか
快楽と死は地続きであり、それはラカンの「リビドーの変遷の最後の段階は、石の平穏へと戻ることである」という言葉がこれを確認する示唆に富んでいると考える
個体としての人間はその主観的視点において、快楽原則の奴隷とならざるを得ない
原初の快楽原則は現実原則のベールをかぶり、超自我の指導を受けるが
それでもなお、欲求の断念が継続する場合に「欲求そのものを抑圧、もしくは消しさる」という方向に自我は動き出す
その究極の形が、欲求を生み出して、それを断念させ、峻厳さと不寛容さを生み出す原因となっている「私」そのものの打倒という形でなされる
それは人が持つ内向性の周縁部に位置しており、外向性の周縁部で人を殺める現象が起きる事とのシンメトリーとなる
しかし、内向であるからと言ってそこに外界の存在がないわけではない
矛盾するかのように聞こえるが、私はそこに一定解釈を持ちうると考える
すなわち、「私」そのものの打倒とは、何によって行われようとするかについて再考する事でそれが得られる
先に書いたように、欲求への不寛容を生み出す「私」を打倒する方法の一つとして死がある、自殺がある
けれど、「私」が、自我がその断念を繰り返し、超自我の不寛容を強めたのは、紛れもなく現実からの影響に他ならない
さらに言えば、人が人として成長せざるを得ない時、自分を自分として成長したい・適応して現実での快楽を得たいと思った時に、必然的に自らへの不寛容を強めざるを得ないという事だ
快楽原則に従って現実原則を生み出す事が、一見して快楽原則を否定し対立するように見えるのは非常にパラドキシカルである
閑話休題、この説で言いたい事は簡潔に言うとこうだ
「私は「私」を打倒するが、「私」とは現実つまり欲求断念の原因となった事物人の象徴である」と
現実の規則、すなわち父や法や規律や道徳や能力の制限というものが、欲求断念を生み出している
欲求の断念は超自我の不寛容を生み出し、その不寛容が涅槃規則を生み出す
であれば、涅槃規則で生み出された死の欲動が打倒せよと叫ぶのは、象徴的な意味での父であるともいえる
「生まれてこなければよかった、消え去りたい、自分を殺したい、死にたい」という言葉は、内在化された父を消し去ることとなる
また同時に、快楽原則に従いながらも他の快楽原則を打倒せしめんとする涅槃原則は、快楽原則が母的な側面を持つ事からも、象徴的な意味での母を殺す事になるだろう
私的ではあるが
恒常性を維持するという働きは、主に体内で起こる
血圧・体温・血糖値などが変化した場合、それを正常値に戻そうとする事だ
これにより常に同じような体内環境を維持している
心理学においてはこれを一次的欲求の説明に使った
つまり、食・性・排泄等々が充足されていない状態から充足されている状態へと戻そうとする
その為に人は何かしらの行動を行うのであり、そうでなければ行動は生じないというものである
フロイトはホメオタシスの逆にヘテロスタシスがあり、こちらは変化(成長や自己実現)を促すものであるとした
そしてこれが死の欲動に繋がるのだとした
ホメオスタシス、恒常性の維持の機能だけでも自殺は起こるのではないだろうか
死ぬということはつまり、あらゆる精神活動が止まるということだ
もし、自分の持つ処理能力では葛藤や情緒的不安定状態を解消できないとしたら
その時に生じる対処法は概ね不適応だろうが(例えば否認、投影、乖離といった防衛機制)
ホメオスタシスを維持しようとする為に、それを処理する・感受する機能の停止=自殺を選ぶという事だ
通常は、あらゆる防衛機制によりそれを防ぐが