はてなキーワード: 自己欺瞞とは
私がサードブロガーという言葉を始めて目にしたのはこの記事を読んだときである。
はてな村では「誰が言ったか」より「何を言ったか」とか言うけど嘘だよね。またはサードブロガーアワードでも、γブロガーアワードでも、+αブロガーアワードでも同時並行で勝手にやったらええねん
この記事について私はこのような感想を残している。
順位を気にしてるからこそ「順位なんか気にせず行こう!」って言ってるみたいで、なんか根本的な解決になってない気がする。宇野常寛っぽい。 2013/10/19
http://b.hatena.ne.jp/masudamaster/20131019#bookmark-165863730
「電車に新しい席を作ろう」という話を書いたつもりです
と言っているが、新しい席も何も、インターネットという場には無数に席がある。それこそ無限にだ。
勝手に座ればいいのに、アルファブロガーがうんぬんアワードがうんぬんと言い続けるその姿勢
カースト論そのものがそもそも馬鹿馬鹿しいし、ましてやブログにはそういった類の優劣は無いはずだ。
私のような疑問・違和感を他の人も表明している。
・サードとかフォースとか言ってる人たち
ゴメンやっぱりよくわからない。
この人ら、何が言いたいの?
「僕はアルファーになれない。アルファーになれない僕らは何者にもなれないのと同じ。でも何者にもなれないのはツライから自らが何者かであると自称する。よかったら認めてくれ」って話なの?そうとしか聞こえないわけだが。
それが書き手個々人の自尊心とかやる気にとって意味があるのは何となく分かる。だが、読み手にとってそれ何の意味があるの?個々人が胸の内で持っていればいいことじゃないの?その概念を広めて最終的にどうしたいの?
(略)
そのサードブロガーとやらは、アルファとは何が違うの?アルファと違って何が読み手にとって素晴らしいことなの?別にブロガーにプロアマの違いがあるわけでもないし、「アルファブロガー」の劣化版としか思えないわけで。 サードブロガーとして認められたら何か満たされるの?すでにサードブロガーとして認められた人たちは、何か心が満たされましたか? 何か生活変わりましたか?
自分なりの目標立てて満足したいだけなら、そんな名前いらなくない?
そもそもなんでアルファにこだわる必要があるの?アルファとかにこだわってるの君等だけじゃないの?自分に自信はあるけどアルファは無理、だからセカンド、サード、フォース、フィフス。そんな志半ばで折れてくたびれた人みたいな話に読み手が付き合う必要あるの?
毎日のように「本物のブロガーとは」みたいなこと言ってる人は、本当はアルファになりたいんじゃないの?
「僕らはアルファになれないブロガーです!」と自称する意味がわからないし、それを公表して一体どうしたいのか、とは
誰もが持つ疑問である。ほとんどのブロガーはアルファではない。しかしブロガーはそんなこと気にしないし、ましてや
いちいちそのような自虐めいたことを記事にはしない。
「僕らは競争から降りたんですよ」と言っているわりにはアルファブロガーに対する意識がとても高く、これにも矛盾を感じた。
この時点で、私のサードブロガーに対する印象は最悪である。自分の立ち位置を意識して書かれたブログなどに価値は感じないからである。
このような記事が投稿されたが、私はこれがまったくわからないのである。
何が言いたいのかわからないのである。村上春樹がここで出てくる。
「○○かもしれないし、○○かもしれない」
「完璧な○○など存在しない。完璧な○○が存在しないようにね」
一事が万事この調子で、とても難解な文章になっているし、私や他のはてなユーザーへの回答・反論にはなっていないと言って良い。
なっていないから「サードブロガー」の意味は二転三転したのである。
それはこの池田批判にも繋がる
サードブロガー問題について理解したいと思っている読者に対して何かを説明しようという意図は全く感じられない。説明する前にさらに自分の課題意識を語って問題をさらにややこしくしている。読んでる人完全においてけぼりである。
そうこうしていると、次はトマト祭り(?)なるものが開催され、よくわからないが、この事件には私よりも私以外のユーザーが不満を漏らしていた記憶がある。
たぶん、トマトをお題にブログを書いてブックマークし合う、といったような話であろう。
身内ブクマ問題である。この部分にはあまりコミットしていないので私にはわからない。
そうすると今度は、やけに声の大きいとても目立つブロガーたちが集団で現れた。体調わる子を筆頭としたはてな女子、大彗星ショッカー、まつたけ、etc・・・。
彼らははてなで大騒ぎをした。とんでもないタイトルととんでもない極論をまぶした記事をはてなに大量に投げ込んだ。
はてな移住前のファンを引き連れてやって来た(ホットエントリが確保されていた)。
お金をください、ファンになってください、と叫んだ。自殺宣言をした。馴れ合った。アイコンを女体に変えた。
私は彼らのことをさっぱり理解できず、嫌悪感を持ちながらも考察した。彼らがブログを書く動機や目的は何か。
そして彼らをどうカテゴライズすればいいのか。
そのとき、私やはてなユーザーは、池田氏が提唱した「サードブロガー」という言葉を持っていた。
これを使わない手はなかった。
池田氏の提唱する「サードブロガー」に対する嫌悪感と、新参DQNブロガーに対する嫌悪感が合体した瞬間である。
「まとめて呼んでしまえ」
ここで池田氏は「提唱者が違う」とおっしゃられるかもしれないが、私はこの記事を提示したい。
サードって言葉使うと俺はサードではないとか、まつたけは一緒にするなとか、原義がー事実誤認がーってうるさいんだよ、あいつら。
そんな細かいこと知らないし、ソース当たるために読み返さねーよ…
そこまでしたくなるほど魅力的な人物や文章がない。
かなり口は悪いが、それなりのことは言っていると思う。
つまり我々は、友達でもない人のブログをいちいち過去に溯ってまで読まないということだ。
自分のブログを過去に溯ってまで読まれるということはとても光栄なことであり、それは自分に興味を持ってくれたということでとても嬉しい。
ただ、それはとても稀なことであり、だから私の過去もあなたの過去もほとんど参照されない(それは救いでもある。東浩紀レベルになってようやく参照されまくる)。
池田氏以外の最近のブロガーにも言えることだが、「私はこのときこう言ってるんですけど!」「過去記事見てください!」
というのは文章のコミュニケーションではたぶん有り得ないことだ。文脈の時制を統一するのが文章のやり取りであり、もちろん
日本のインターネットに居るほとんどの人ができているのに、サードブロガーになると途端にこれがダメになる。
「私の過去ぐらい知ってるでしょ?(みなまで言わないわよ)」ときたもんだ。そんなもん知らないのである。
そういう姿勢が、サードブロガーの文章の読みにくさの大きな要因となっている。
話は逸れたが、つまり私や他の多数のユーザーにとって、「サードブロガー」の提唱者・代表者は間違いなく池田氏だということだ。
さて以上が「私がサードブロガーという言葉を使うまで」の私的(主観)歴史である。
サードブロガーという概念・言葉が二転三転した経緯を私はこう捉えている。
他の人はどう考えているのか。最後に私の目に止まったものを紹介して今回の記事を終わる。
kanose 「サードブロガー」が今までのブログとどう違うか明確に説明されず、他人が理解できない時点で、定義がどんどん出てきたのは当然だったんじゃないかな 2013/12/23
そんな絶望した世界にサードブロガーという言葉が定義されました。
だって、そんな名前つけなくてもWebには、小さな世界や日常をを映し出す人達なんていくらでもいた。
トマトブロガーになりませんかって茶化す記事があったときに一緒になって笑っていた。
別の人間も、フォースブロガーでもプラスアルファブロガーでもええやんと言い出した。
いっぽうで、はてなブログの馬鹿騒ぎに苦々しい思いをしている人たちは、
だから、彼らが大して大事にせずにほったらかしにしてた言葉を使うことにした。
この動きがあった時も、大して反論のようなものは見られなかった。
この時点で、もはやサードブロガーは提唱者のものではなくなってしまった。
乗っ取りが完了してしまっている。
(略)
起源などどうでもいいとはいわない。言葉を提唱したこと自体に意味が全くないとは言わない。
だが、サードブロガーという言葉をどのように使うか決められるほど
トマトバイトテロが洗濯機に入って浮かれているときに笑って見ていた。
ところが、「サードブロガー」周辺のやりとりをみるに、このあたりがよくわからない。PVや影響力だけがすべてではない、と主張しているようにみえるけれど、実際、サードブロガーに該当しそうなブロガーがPVや影響力を軽視しているようには見えなかった。既存のはてなダイアリー・はてなグループのブログ群のほうが、よほどPVや影響力を意識せず動いているようにみえたからだ。そして、彼らはお隣さん同士で「拍手」をつけあい、「あしあと」を気にしあうようなプライベート的ブログ文化圏のソレに近いようにもみえた。本人達の思惑はさておき、日本のブロゴスフィア全域を前提として考えた時、第三の極と言えるようなポリシーの鋭利さは見出しえなかった。
http://anond.hatelabo.jp/20131222231100
http://anond.hatelabo.jp/20131209142219
http://anond.hatelabo.jp/20131224125320
http://anond.hatelabo.jp/20131228163827
俺はブログと言う世界で生きている、この世界で偉いのは金持ってる奴でも喧嘩強い奴でもない、土日祝日ブログ書く奴。サードブロガーです!
http://azanaerunawano5to4.hatenablog.com/entry/2013/12/24/170036
めんどくさいがざっくり説明しとくと、
元々、Tumblr界の魔神otsu●e氏が道路を暴走し、それを「情報戦略は始まっとるんや」とウチで茶化したらクマのお医者さんが鉄製の屑籠を振りかぶって
「悪いことは悪いって言わんかい...オマエネタにして調子乗っとったらぶち○すど、このクソ猿ブログが!!」
と怒鳴られ説教されて「やべー!殺される―!!怖ぇぇぇっ!! (((( ;゚Д゚)))」と冷や汗かいてるところを取り囲んでブコメで騒ぐはてな村お馴染みの盛り上がりの一連をyarukimedesu氏が
ブログ記事を沢山書いて、アルファーブロガーになりたいな、なんて思ったこともあったけど。今でも思うけど、こらあかんわ。人生はあきらめが肝心だ。“
と書いた。
それを見たinujin氏が「アルファなんて目指さないでいいんじゃね?」と言い出したところが最初。
だから元々の発祥も「ボクたちサードブロガーはもっとブログ界を盛り上げて...」なんて意味でも無かったんだが、ちょうどその頃新進気鋭でロジック・思考甘々で釣りまがいの記事を挙げまくって軽く炎上するようなブログが(昨日今日も何やら燃えてたらしいが)幾つも出て来たもんだから「新進気鋭のブログ=サードブロガー」と結びついて、その瞬間本来的な「サードブロガー」と言う言葉と概念は死んだ。
(略)
私は原作の漫画は読んでいませんが、アニメは毎週兄と一緒に楽しく見ていたのでその感想を書いてみます。ネットでこころない大人たちによって叩かれすぎだと思うのです。すくなくとも私の周りでは大人気ですし、時代についていけないセンスのない大人たちが若者文化を叩くのを見ると私はとても悲しい気持ちになります(いつの時代もそうだったのでしょうか)。
私はこの作品に触れて、作品内容が類似しているかどうかはともかくとして、アルベール・カミュ『ペスト』、ジーン・ウルフ『新しい太陽の書』、スティーヴ・エリクソン『Xのアーチ』、村上春樹『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』、安部公房『飢餓同盟』、大江健三郎『万延元年のフットボール』などを思い出しました。『進撃の巨人』はこれらの小説のどれにも劣らない深みと非常に高いクオリティを持った稀有な少年漫画なのだと思います。その作風はアニメを見る限りたしかに単純で素朴で荒削りですが、作者の諫山創先生は、世間にあふれる自意識と自尊心だけは一人前の凡庸な作家たちが血も滲むような努力をしたところで一生得ることのできない文学的センスというものを無自覚のうちに獲得していらっしゃるようにわたしには思えます。
壁の向こうには海があって、海には宝とも言える塩がたくさんあるとエレンとアルミンが目を輝かせて会話するシーンがあったと思います(アルミンかわいい!)。壁の外に真の楽園を夢見ながらも、壁の外の脅威=巨人によって偽りの楽園である壁の内側にとどまるしかない人類。そして偽りの楽園は日々縮小傾向にあり、もはや人類は楽園という夢想を捨て現実に立ち向かう必要に迫られています。もし外からの脅威によって人類の生活圏が縮小しないのなら、人類はこのまま壁の内に閉じこもったまま、一種の自己欺瞞によって自らを制御し動かしながら、秩序を維持することに一生を捧げていたでしょう。そうした変化のない永遠の倦怠ともいえる世界では、いずれ歴史が失われ、始まりも終わりもない空白の永続状態だけが文字通り無意味に残る、いや、それは記録されないので残るというよりは虚空に漂うことになるでしょう。しかし『進撃の巨人』の世界では人類は変化を迫られました。そしてその変化を迫ってきたのは、脅威=巨人なのですが、その巨人とは人類自身だったというわけです。
現状を打破せよ変化せよという声なき声、暗号を発しているのが巨人ですから、巨人とは人類の無意識の飢餓感、欲望のメタファーだと思います。そして人類は自らの欲望の代理人である巨人と戦わなくてはなりません。これは自己矛盾をはらみます。人類はみずから欲望をいだき(巨人を生産)、みずから欲望を抑圧し(巨人を駆逐)、みずから破滅します。いつしか人類の欲望は敵となっています。それは生への意志を否定するものです。みずからの欲望が真の楽園への道を閉ざし、日々縮小する偽りの楽園において鬱屈とした毎日をゾンビのように送るしかなくなっているのです。原始においては槍で戦うしかなかった人類が、科学技術が進歩したことによって、核兵器や生物兵器などのとんでもない力を生み出すようになってしまいました。長い歴史にわたる真理の探求と知識への欲望が私たち人類の生活を豊かにし明るい未来へと導いてくれるはずでしたが、洗練された人類は新たなそれまでとは比較にならない圧倒的に暗愚で野蛮な状態に陥ってしまったのです。巨人に性器がないのは必然で、それは人類の欲望なき欲望だからです。欠如によってしか私たちは未来を示すことができなくなってしまったのです。
そんな行き詰まった世界で人類はどうやって生きていったらいいのでしょうか。巨人を完全に駆逐したとき人類は絶滅するでしょう。これは勝利なき戦いです。かならず負ける戦いです。私たちに突きつけられたこの運命に私たちはどう立ち向かうべきでしょうか。友情によって? 愛によって? 暴力によって? 狂気によって?
現代社会ではみなそれぞれが不安をかかえて生きています。それは生存の不安です。自分の不安に無自覚でいることはもはや許されません。人類の足場はもろくも崩れ去ってしまい、そうしたなかで人類は原始への回帰、裸で樹上生活をしていたころに戻ろうと、立体機動装置で最後のあがきをこころみるのです。これだけの技術力がありながらどうして他の兵器を作らなかったんだという批判がありますが、腰部から射出されるアンカーが射精のメタファーだということを考えればそれが無意味な批判であるということがわかります(そもそも巨人の完全駆逐は目的ではありません。巨人を完全に駆逐したとき人類は絶滅するからです)。人類はアンカーを射出しなければならなかったのです。それが人類の見た最後の夢だからです。かつて液状で運動性に優れていた精液はこの時代においては外的要因によって働きかけられないと動かない冷たい鉄になってしまいました。それでも人類は去勢不安を打ち破るために重い腰を上げてさびついたアンカーを射出しつづけなければなりません。それはまさしく不条理な悪夢ですが、しかしこれこそ現代の私たちがおかれている状況というわけです。
現代は論理的な未来予測というものをつねに逸脱し飛躍し暴走して、私たちの手の届かないところに行ってしまいます。私たちは世界から疎外され置き去りにされ、存在理由をはぎとられてしまっています。人類は人類自身と向き合い戦わなくてはなりません。しかしその戦いには勝利というものがありません。滅亡へのゆるやかな推移があるだけです。
私は『進撃の巨人』は現代社会へ警鐘を鳴らしているのだと思います。私たちは自分の巨人とどう向き合うべきでしょうか。私たちは当然のように幸福を追求しますが、その幸福とはいったいなんなのでしょう。希望なき時代の希望とは? 光なき時代の光とは? 私たちは絶対者、神を殺し、あるひとはそれを人類の勝利だと誇りさえしますが、依然として私たちには難問が残っているのです。
こんなニュースがありました。「進撃の巨人 : 最新巻が初の初版200万部突破 1巻の50倍超、「ワンピ」に続く快挙」(http://mantan-web.jp/2013/12/07/20131206dog00m200072000c.html) やはり時代に求められているので売れているのだと思います。批判している大人のひとたちは自分の愚かさをよく考えてみてください。
※初投稿のため、至らない点が有りましたらご容赦くださいませ…。
だけど僕は、浮気という行為を絶対悪のように扱う事には違和感を覚える。
男も女も浮気をされた人は口々に「裏切られた」と言う。
そうでない場合も「自分が至らなかったから…」などと言いつつも被害者というスタンスを取る事が殆どのように思う。
特に2ch(自分はまとめサイトしか見ないけど)なんかだと、その傾向が顕著なように見える。
浮気を許さないという事は「他人が自分以外の人間にどう接するかをコントロールし、支配する」という事だ。
同性同士の友達関係だったら、コレは明らかに過剰な干渉になる。
「自分以外の(同性の)友達とは関わるな」とがいう人はオカシイだろう。
男女の場合、それが成立しないのは「嫉妬」というか「独占欲」が原因だ。
つまり、自分が嫉妬心で苦しまないため、自分の独占欲を満たすために、相手の行動を縛るという事であり、自分のエゴを満たすための要求を相手にする、という事だ。
別に、それが悪い事だと言う訳ではない。
雄が雌を、雌が雄を独占しようとするのは生物としての自然な感情だ。
ただ、だからと言って、それが絶対的な正しい事か、という話だ。
この世で生涯一人の人間にしか恋愛感情を抱かない、なんていう事はほぼ有り得ない。
また、自分が相手の欲求を全て満たせる事も(自己欺瞞をしない限り)殆ど有り得ない。
相手を自分一人に縛るという事は、自分が相手を(恋愛的な意味で)満たせない部分を、全て我慢するよう強要するという事ではないか。
例えば、時間が無くてあまり構ってあげられない、優しい性格だが刺激を与えられない、話は有るけど趣味は共有できない、体の相性が悪い、etc。
僕達は、そんな大層な事が出来る人間なのか?
僕は、男女が恋愛関係になるという事は、基本的には素晴らしい事だと思っている。
その機会を、自分の独占欲で摘んでしまうというのが正しい事だとは思えない。
それに、自分に対して相手が不満を覚えて、その分自分に対する要求が高くなったり、トゲトゲしい雰囲気になるくらいだったら、その分の不満(欲望)は外部発注して解決してもらった方がマシだと思う。
僕の事を最優先に考えてくれて、ないがしろにしないで居てくれればソレで良い。
勿論僕にも嫉妬心は有るので、恋人には「僕の事を最重要に扱ってくれていれば、浮気しても別にいい。でもショックだから、するならするで絶対にバレないように上手くやってくれ」と言っている。
浮気する気が起きないくらい相手を満たせれば、発生率は抑えられる。
相手を自分の所有物であり、浮気が自分に対する重大な裏切りだと捉えるから、やられたら尋常じゃなく傷つく。
また、自分がそういう息抜きを出来なくなって、今の相手で完全に満足しようとする。でなければ別れる。といった、all or nothing発想になってしまうのではないか。
要するに、「浮気」というか「自分以外の異性に対する愛情表現」に関してもっと皆が寛容になれば、傷つく人や、満たされない人っていうのが減って、日本人全体の幸福度が上がるんじゃね?ということです。
http://anond.hatelabo.jp/20131105232943
確かに自己欺瞞かも知れませんね。
少なくとも悦に浸りたいとまでは思っていないので、
早く自然とS子のことは思い出さない、考えないで済む状態になりたいです。
ちょっと軽くなりました。ありがとうございます。
私は、頭のスペックは決して低くないとは思うのだが、低収入に甘んじているのは、認めたくないが集団生活がぜんぜんできないからだ。特に日本のネチネチした体質の組織はダメ。
誤解してほしくはないが、べつに私はどもって人と話せないわけではない。ルックスだってごく普通で、普通以上に愉快に人と会話をかわすことはできる。だけど「組織の論理」にはまったくついていけない。だから、一つの組織に長く属することができず、いつもアルバイトとかフリーランスとか、組織の周縁でひっそり仕事をすることしかできない。ダウンジャケットの表面にかろうじて引っかかった羽毛みたいに。
思えば、兆候はあった。私は小中高大と学校というものがまるで苦手だった。学校を卒業して心からほっとしたものだ。いまになってみると、成績が悪くても学校で楽しくやれた連中のほうが社会に適応してまっとうに暮らしているよね。ほんと、学生時代の成績なんて長い人生の中じゃさして重要なものじゃない。
とはいえ、いまさら学校時代のリア充みたいに、本音と建前を使い分けて、複雑な組織の中を泳ぎ回るなんて無理だよなあ。たぶん、その方向で努力しても実を結ばないと思う。人間って、苦手な分野をややましにすることはできても、得意にするのはほぼ不可能。人それぞれ得意不得意があるからね。
私は別に死にたいとは思わないから、生きていく上で自分のメシの種だけはなんとかしなければならない。だから、これからもフリーランスとして、少しでも収入を増やす努力をしていくしかないんだろうな。たとえ、やるのが組織の狭間で生み出されたつまらない半端仕事だとしても。自己欺瞞かもしれないが、そこにわずかな面白味を見つけて耐えていくしかないんだろう。
私のような孤立系の人間には、かえって組織の問題がよく見えたりするので、ますます半端仕事の無意味さに虚しさが募ったりもするが…。仕事は仕事。カネを稼ぐ手段と割り切るしかあるまい。
「中二病」かもしれないが、これも個性と思って、人様に迷惑をかけないよう、なんとか苦しさの少ない道を選び取っていくしかないのだろうな。やれやれ。面倒だがこんな自分とこれからも付き合っていこう。
多分これ
ルサンチマン(仏: ressentiment)とは、主に強者に対しての、弱い者の憤りや怨恨、憎悪、非難の感情をいう。デンマークの思想家セーレン・キェルケゴールにより確立された哲学上の概念である。この感情は自己欺瞞を含み、嫉妬や羨望に起源がある[要出典]。フリードリヒ・ニーチェの『道徳の系譜』(1887年)でこの言葉が利用され、マックス・シェーラーの『道徳構造におけるルサンチマン』で再度とり上げられて、一般的に使われるようになった。
大勢がわーわー楽しんでるけど自分は楽しめないという状況に直面すると、人間ってものは暗い感情がわいて出てくるもんだ
多分これも同じ系統の書き込み
これも追加しとくか
確かにおれには自尊心がないな。冷静に自分を見て他人に誇れるような高い水準のものを何一つ持ってないのが明らかだし。
なんつーか、自尊心ある人なんて本当にいるの?と思ってしまう。
虚栄心ある人ならそこらじゅうにいるだろうけどさ。
前まで自分が自尊心だと思っていたものとか、この人の言うとおりただの虚栄心だったなと思う。
世の中のほとんどの人間は平均的な人間だし、そうなると本当の意味での自尊心なんてもの持てないほうが当たり前だと思うのだが。
子供じみた根拠のない自信とか、ただの自己欺瞞でしかない虚栄心なんて虚しいだけだし、それが卑屈でなくなる条件だとしたら、卑屈じゃない奴ははっきり言って異常だろ。
まあこういう言動がまさに卑屈な人間のそれだというのはよく分かるけど、そんなこと言われてもどうしようもねーよ。
《89》 「専門医がいないので」と救急車が断わられた。納得できなくても……
http://apital.asahi.com/article/sakai/2013032500005.html
この問題については、発言する医師に熱血な人が多いせいか知らないが、
「僕らも専門外の救急を受け入れなきゃいけないと思ってます! でも司法が許さないんです!」というような論調ばかり見る気がする
しかし実際の所、司法判断がどうであれ、専門外の病態は医師としても診たくない
少なくとも僕はそうだ
この酒井ドクターだって、以前まったく専門外である幼児の心肺停止を受けてしまって、恐ろしかったと書いている
僕が同じような状況に置かれて、尚且つ専門の医師のヘルプが無かったら、たとえ家族や本人が許しても、
「専門の人に診てもらえば、もっとましな治療が受けられるのに…」と罪の意識を覚えることは間違いない
そういうのが嫌で、僕は救急指定病院を辞めた
しかし現実問題として、ここまで極端な例ではないが、夜間救急をやっていた時は似たようなことがしょっちゅうあった
そういう時は、救急隊から問い合わせを受けた時点で「専門の医師は居ませんがよろしいですか」と患者に確認してもらっていた
一応自分に対応可能かどうか(この場合は最適な治療ができるという意味ではなく、朝まで持たせられるという意味)、
救急隊の報告から判断してもいるが、何しろ実際に診てみるまで本当に対応可能な病態かは分からない
まあ口約束など訴訟になればほとんど効力は無いのかもしれないが、自分に対する気休めである
しかし一方で、そんな自己欺瞞を用いてまで無責任にベストでない治療を引きうけている自分に、また嫌悪感が募る
まともな知識もない癖に病人を囲い込んで重症化させるトンデモ代替医療と、僕との間に、どれほど差があると言うのだろう?
そういう意味では心タンポナーデ事件のような判決は、むしろ僕のような医師の恐怖感に正当性を持たせてくれたと思う
見当違いの治療をして助かる命を損ねてしまう恐怖を押さえてまで、救急を受け入れるのは問題であると明言してくれた
「『生保患者』がイヤだから」ってのは叩かれるに決まってるけど(患者の抽出が恣意的すぎw)、
「非常識な患者がイヤだから」っていう拒否権っていうか選択権が基本的に無いよね医療従事者って。
いや、あったらあったで大変なことになるの解ってるんだけど。
でもそこんとこで、施術者はある意味自由意志とか全く無い状態で働かざるを得なくなってるよね。
従事する側に立って考えると、人の命だ健康だ背負って臨むようなストレスフルな仕事を
自由意志でもなく言わば半強制的にやらされるって、そりゃ逃げたくはなりますね。
でもコレこういう嫌な患者が生保に多いっていうんで≒生保クソみたいな論調だけど、金払いが良くても嫌だろこんな患者。
「金を払うからマシだよな」っていう自己欺瞞の材料にしかならない。
もうそう言うのが欺瞞だってことはみんな気付いちゃったんだよ。
いやほんとはもう少し前から気付いてたんだけど、
公に「気付いてるぞ」って言うことにしたのが今回以降かな。
一部に経済的な面から苦言を呈する官僚やメディアは居たかもしれないけど
大半は「いいぞ!よくやった!当然だ!」だよ。
「日本を怒らせて有形無形の援助が滞ったら私は困る」ということであってさ。
日本が怒り出さない限りはどれだけ侮辱や挑発をしてても誰もなんにも異議を言わない。喝采する。
日本の反応がいつもと違うので「おいおい俺の利権が困ったことになるんじゃないのか?」って焦りだしたのが一部に居る。
こういうのは友好っていわない。
人間関係でも同じだけど
ねじれた怨恨や侮りっていうのは
表面的な友好を結ぶことや恩恵を与えることでは絶対に消え去らないんだよ。
韓国は重職の人間も平民も、「本来日本には何をしてもいい」っていう了見では一致してる。
MBに反対する一部の人間は、日本への友情でMBを咎めてるんじゃなくて、日本からのもらいが減ることだけを心配している。
韓国全体が日本に対する敵意を決して捨てない国だって言うのはもうバレバレなんだよ。
一部の人間がどうこうという話の矮小化・話逸らしのインチキはもう飽きられてる。
韓国人が聞いたら侮りの薄笑いしか浮かべないような白昼夢から覚めて、、
「あれは根本的に敵対的な国だ」という認識で対処すればいいだけ。
それで戦争になるわけでもなし。
静かに、落ち着いて、きちんと、敵対的な国に対する対応をするだけのこと。
海の向こうに友達が欲しいなら、日本と仲良くしたいと思ってる韓国よりマシな国はたくさんある。
どうしてそういう返答が出てくるのか理解できねえ。
おれにも、自分ではよく書けたと思うエントリに、まるで反響がない、(今のお前みたいな)表層的なあげあし取りすらない、という経験があり、リポストしちゃおうかという気持ちはわかる。でもやらない。本当に意味のあるエントリなら、ちゃんと注目されると信じているからだ。真に重要な言葉は一言発すれば足りると信じているからだ。
同じ内容を一週間たってリポスト、しかも前の記事は消す、そういう姿勢は、自分の記事の重要性と読み手の知性の両方を信じていない以外に解釈のしようがない。まったく無意味な行為であり、自覚的にやっているのなら自己欺瞞だ。自らを貶めるものだ。それはこのおれがおおいに軽蔑するところであると言ってしまっていいだろう。
つまり消してリポストの増田は馬鹿な上にプライドもない人間ってことだ。そして、プライドのない人間は、他人を攻撃したりしないから、おれとは違う。そういう意味でお前の指摘はまるで的外れだ。
http://ulog.cc/a/fromdusktildawn/17378
フロムダさんは結局のところ絶対の価値なんて存在しないと思ってる。
「ほんとうにいいもの」だとか「ほんとうによいこと」や「ほんとうのしあわせ」なんて存在しないと思っている。
そして、だからこそ一定の程度でルールとして価値を測れる軸は存在するべきだと思ってる。
そして、その根拠のかなりの部分を市場メカニズムに求めている。そして、それは一定の程度正しい。
なにせ、そもそも「ほんとうの価値」なんて存在しないのだから。
「学術的には価値があるが、市場的には価値がないものに対して、公的にどれだけ支出してもいいか」という問いに対して
「その学術的『価値』って何なの、あやふやすぎないか」と思う人は少なくないだろう。
そんなものよりも、市場的価値を軸にした方が明解だと思っても不思議ではないだろう。
需要と供給。提供できるものと、人が欲しがってるもの。それが釣り合い、高い価格がつけられる。明解だ。
そして、それはまた一定の程度欺瞞を含む。
「市場メカニズムで評価されているものなのだから、それは肯定すべきものだ」という言い訳に容易くつながる。
僕はソシャゲーのプランナーが実際にそう語っているのを聞いたことがある。
そして、その需要や欲望をゲーミフィケーションや己の持つ技術を駆使して操作して最大限に利益を貪ることは正しいことだと。
彼は本気でそう考えているのだろう。骨の髄まで市場メカニズムを内面化させているのだろう。
そうやって心の底ではくだらないと思っていることで、洒落たオフィスで働き高収入を得ていることに対する罪悪感を消し、自分を正当化させている。
そう僕は考えるから、これを自己欺瞞だと勝手に断定する。そして自己欺瞞であるが、一定の程度正しい物言いでもあるのだ。
なにせ、そもそも「ほんとうの価値」なんて存在しないのだから。
そして、この経済ゲーム、市場ルールという価値を測る軸に対して、
「そもそもある種ソシャゲーって違法じゃん」という法律ルールという価値軸による反論がある。それも正しいのかもしれない。
ただ、「クソ」なソシャゲーについて、市場メカニズムも法律も、合法か違法か、儲かっているか儲かっていないかしか答えない。
倫理や美意識や価値について答えられない。それが本当に「クソ」なものであるかについて答えられない。
というよりも答えない。
あらゆる価値軸というものは「一定程度」正しくて、「一定程度」間違っている。
世の中はゲームとルールというシステムでほとんど全てのものが動いている。貨幣ゲーム、政治ゲーム、恋愛ゲーム、権力ゲーム、道徳ゲーム、etc
すべてを超越する価値を想定し、他人に押し付けることはできない。ある一定の範囲である一定のルールが定められたある一定のゲーム内での結果が出るだけだ。
付け加えれば、「人生ゲーム」だとか「超越的価値ゲーム」なんて存在しない世界に僕らは生きているというのが、ウィトゲンシュタインやニーチェのお話だ。
だから、法律をギリギリの線で見切って、ギリギリ法律内で市場メカニズムにおいて稼ぐものに対して、確かな答えは出ない。結局、個人的な答えしか出ない。
だから「多くの人がソシャゲーはくだらないと思っているが、着メロのようにささやかな幸せを提供するものだ」と言うことはできる。
そしてフロムダさんが、ここの部分で「もののような気もする」とふんわりと述べているところに一定の揺れを僕は感じるのだ。
「ソーシャルゲームで金を稼ぐこと自体が社会的に無価値であるかのように言うのは、ちょっと違うんじゃないかと思うのだ。」というのも
「金のために作ってるクソ商品の方が顧客を幸せにしたりする」というのもレトリックだ。
「合法のソシャゲーが社会的に無価値である」ということを断定することはできる訳がないし、
金のために「クソ」なものを売ったって、市場メカニズム内で評価されていれば、それは「クソ」ではなく「顧客を幸せにしている」と定義づけることも可能だろう。
ただ、そこから「合法の範囲で市場メカニズムで稼ぐことは正しいことだ」という価値観に走ることは容易い。
「オレはこんなクソみたいなものをビジネスにして楽しいわけがないが、金が儲かるんだからしかたがない」という信条と
1 :考える名無しさん:2012/02/08(水) 16:54:38.50 0
しかし、脳内には物質以外の「何か」がある(筈)と考える人が居ます。
分泌する神経伝達物質で、他の神経細胞に情報を伝えるだけです。
分子生物学と生理学の対象分野「分子レベルの現象」が全てです。
「この宇宙」で人間の脳だけが「特殊な物質」であるとする科学的根拠は
全くありません。人間の脳も地球上における「物質の進化」の一過程に
すぎず、人間の脳が造り出す『意識』も何ら「特別」ではありません。
「何を思うか何を意志するか」は、あらかじめ物理・化学法則により
決定されております。自由(意志)感は文字通り『感じ』にすぎません。
量子論の「不確定性」は意識には何の関係もない「単なる観測問題」です。
以上が「超・大統一理論」=量子論と相対性理論の統一後に残存し得る
誰かに決定論を論破してほしい。
本当は意味や価値の世界で生きていきたいのに、私の意志は力なく因果の海に漂うだけ。
死にたい。
増田自身に向けて書いてるんだろうが、俺のことかとオモタ
だから、非コミュを辞めたければ、自分の都合の良いようにしか考えない自己中を辞めろ。
都合が悪くなると、すぐにばれる嘘をついてでも自分を守ろうとしてしまい、滑稽に見える。
体に染み付いた悪癖というか、直そう、直そう、と思っていても、いつもやってしまい、直後自己嫌悪に陥る。
バカなんだろうな
多くの若者が会社を立ち上げ、明日のザッカバーグの夢を見ている。
(その夢の姿は往々にして『ソーシャル・ネットワーク』そのままだ。)
だがきっとその夢は一生叶うことはない。残念ながら。
グレアムの言葉にしたがって楽天家を演じている日本人起業家の皆さんは
私に向かってこう言うだろう。「どうして君はそんなこと言うんだ?
俺たちは世界を変えるんだ。大変かもしれないがそれは不可能ではない。Facebookを見ろ。」
オーケー、オーケー、確かに起業家は世界を変える力を持つ。それはすばらしいことだ。
自問してみよう。残念ながら違うことに気づく筈だ。あんた方はただの”タレント”だ。
それはこう言い表せる。
”変質的なまでの人物志向、つーかプロダクトなんてクソ食らえ!!”
日本のスタートアップ環境は、企業の評価を人物のみで行う。その人が有名であるか否かでだ。
有名人がプロダクトをリリースすれば、クソみたいなプロダクトでも盛んにRTされ、絶賛される。誰も使わないが。
一方、無名の人が素晴らしいプロダクトをリリースした場合、それはほとんどフックアップされない。
さっきRTしてた連中は、TechCrunchに取り上げられるまでは自分から面白いサービスを見つけようとしないし、
そもそも面倒くさがっている。うーん、話が見えづらいかもしれない。つまり、こういうことだ。
アメリカ「このFacebookってサイトはCoolだね。誰が作ったんだ?ザッカバーグか。すごいな。」
日本「あのザッカバーグがプロダクトリリースしたぞ!!すごい!すごい!さすがザッカバーグ!で、何てプロダクトだっけ?」
圧倒的なまでの人物本位。プロダクトは二の次。プロダクトを生み出すのが起業家なのに!!
「でも、その人物に実績があれば良いじゃないか。僕はジョブズが何か新しいことをすると聞けば
ワクワクするよ。彼はいつも素晴らしいプロダクトを生み出してきた実績がある。」
オーケー、確かにその通りだ。それは認める。僕だってiPhone5には期待している。
だが実績の面でも日本のスタートアップは何かがおかしい。例えば日本では、
”学生”というだけで起業家が評価される。まだプロダクトもリリースしていないのに!!
(そして、実際リリースされるプロダクトもだいたい・・・だ。悪いけど。)
実績評価においても日本のスタートアップ環境は”プロダクトなんてクソ食らえ”を貫いているわけだ。
涙が出るね。いやほんと。
こんな状況で今恐ろしい事態が起こっている。素晴らしいプロダクトを生み出す人よりも、
Blogで名前を売るのが得意な人のほうに注目が集まっているんだ!!彼らはBlogに時間をかけて、
”いかにも起業家でござい”というようなことをしきりに書く。読者に”この人はすごそうだし、何かやるぞ”と思わせるわけだ。
そして注目が集まった時点で起業する。あとは、さっき言った通りクソみたいなプロダクトがでて、RTされて、誰も使わず終わる。
でもカンファレンスとかに呼ばれて、”僕は起業家だ。”というどうでもいいプレゼンをする。彼らは残念ながら、
”自分を売り込んで偽装する才能”はあるが”起業家としての才能”はない。
まだ信じられない人がいるかもしれない。だが見てみろ。Twitterでは、
自分のプロダクトが流行っていないのに、自分の考え方を熱心に説いてる自称起業家がいっぱいいる。
彼らはタレントだ。当てにするな、耳を塞げ。ほらあっちにも起業家だ。
Blogでは良い事ばっか書いてるが、リリースされたプロダクトはクソだ。あれもタレントだ。
残念ながら、この状況で日本からGoogleやFacebookを生み出すことを期待するのはよした方が良い。
日本のスタートアップ環境は、薄暗い部屋でコードを書き続け、未来を作っている薄汚いギークよりも、
世間の空気に媚びへつらい、自分を偽装するのがうまいタレントを欲している。ジョブズは何で有名になった?
Macという素晴らしいプロダクトだ。ページとブリンは?Googleという素晴らしいプロダクトだ。家入一真は?
ロリポップという素晴らしいプロダクトだ。決して、人物から有名になったわけではない。今の状態が続けば、
素晴らしいプロダクトは生み出せないが起業家ぶるのが上手い人物だけがのさばることになる。
そこに渦巻くのは自己欺瞞だけだ。”世界を変える”なんていうのも、陳腐なパフォーマンスに成り下がる。
もし、この記事を呼んで状況を変えたいと思う人がいるのであれば、
代わり映えのしないBlogやTwitterをたたんで、雑音を閉ざし、
そのプロダクトを誰がやっているのかは関係ない。ただただ素晴らしければ、
力になってあげれば良いんだ。プロダクトのみが自己表現。そんな人だけを見つけよう。
PS.
この記事を読んだ”優秀なタレント”の皆さんは、その能力をフルに生かして、
上手く”自分はタレントでなく、起業家だ”と偽装することに成功するだろう。
今からでも想像できる。例えば、「僕はこうならないように気をつけている。毎日。RT...」
みたいな感じでだ。クソ食らえだ。文を書くのを辞めろ。プロダクトだけで自分を語れ。
思いのほか、反響が大きくて驚きました。ご質問やご意見に、反応と言うか、意見を書きたいと思います。
観察したり批評するという行為自体が、基本的に上から目線です。絶対そういうことを言われるだろうなと思ったのが自分のブログではなくマスダで書いた理由です。「天皇機関説」「産む機械」「暴力装置」等々、社会科学の文脈で語られた言葉でさえ優越感ゲームで処理されてしまう世の中です。こうした負の連鎖について、学校で教えればいいという意見もありましたが、絶対に無理だと思います。当事者たちから感情的な反発が来て、社会的なリンチにあうのが目に見えているのに誰が火中の栗を拾うでしょうか。お金のこと、キャリアのこと、仕事のこと、本当は中学までに教えておいた方がいいことがたくさんありますが、それがなされていないのにはそれなりの理由があります。
[地主のことが書かれていない]
H町は地方であり郊外ではあっても農村ではないということです。一時的な土地バブルがあったとしても、その恩恵を被ることが出来るのは資産家だけです。農民は、フローは少なくてもストックは持っているので、都市郊外の開発初期には、バブル資産家が続出しました。しかし郊外に住んでいる人はそうした人ばかりではありません。H町は、一度、農村化から工業化の過程を経ているために、住民の大半はプロレタリアート層(あるいは下層ブルーカラー)でした。地方=貧困とじゅっぱひとからげで見るのが間違いであるように、主に都市プロレタリアートの人が言いがちな、地方=資産家の構図も全体に敷衍するのは間違いです。
[戦後にはそういうところから成り上がった人たちがたくさんいる/別にブルーカラーでも不幸とは言えない]
現在は高度経済成長を経て、安定成長の時代も経て、デフレの時代です。そうしたチャンスの時代を経てなおかつ成り上がれなかった人たちが取り残されている問題なのです。「生きがい労働」がどうしたと散々不平不満を言っている今の世代が、ブルーカラーでもそれなりに幸せというのは偽善じゃないでしょうか。選んだ結果ならばともかく、それしか選べなかった、実質的には選ばされている状況で、人それぞれというのは気休めとしか言いようがありません。
[新住民も"上層"下層プロレタリアートに過ぎない]
これはある意味そう思います。元記事は、勉強という切り口から見たのですが、根本の知的好奇心が欠けているのは新住民も原住民も大して変わりません。これは精神論の話をしているのではなくて、根本の欲求がない限り、勉強が能力として身につかないという側面があるので、これは重要な問題です。恐竜博士といわれるような小学生は興味があることについては専門家レベルの知識を持っています。そういう人に、興味もない人が付け焼刃で暗記したところで太刀打ちできません。メリットシステムの上層部は、恐竜博士みたいな人ばかりなので、いずれ新住民も挫折を強いられることになります。それでも、下士官どまりであっても日常的に殴られる二等兵よりはマシです。新住民はその程度のことは理解しています。彼らは将軍になるためではなく二等兵にならないために走っているのです。
[金持ちを引きずり落とす必要がある]
「金持ちを貧乏にしたからと言って貧乏人が金持ちになるわけではない」と某女性が言いましたがこれは間違いです。経済自体はプラスサムですが、経済構造にはゼロサムの部分があるからです。一番わかりやすい例は農地解放です。富の偏在の是正を比較的可能にした戦後日本と、戦後すぐには日本より豊かであったフィリピンの現在の姿を比べれば一目瞭然です。メリットシステムの結果発生した富と、アリストクラシーの結果保持された富はまったく性質が異なります。前者はメリットシステムを強化し、後者はメリットシステムを弱体化させます。少なくとも新住民に「努力の報酬」を与え、原住民に努力の動機を与えるためにはメリットシステムの強化は不可欠であり、そのためには既得権益層を弱体化させる必要があります。
そういう極端な例を言うなら、逆のことも言えます。そういうことを言う人たちは家庭内の虐待を助長しているのではないでしょうか。
家庭には子供を抑圧し、スポイルしてしまう面もあると指摘することが、アボリジニの盗まれた世代に直結するというならば、家庭の不可侵性をことさら言い募る人たちは、親が子供を所有物のように扱い、虐待することを是としているとも言えるのではないでしょうか。物事を多角的に見ずに、だから進歩主義はダメなんだみたいに言いたがる人には、おぞましいという感情しか持てません。
じゃあ、どうすればいいという具体的な解決案が私にあるわけではありません。あるというなら、あると言う人が提示してくれればいいと思います。分かり易い具体的な解決があるならすでに実行されているでしょう。問題だけ示して解決も出さないのが無責任と言われるなら、そう批判されてもしかたがないと思います。しかし問題があるものをないということは出来ません。
不満に思っていない、と言い聞かせている、と私は思います。仮に宝くじにあたって、以前と同じライフスタイル、以前と同じ消費財で満足できるでしょうか。できるというなら、それはそれぞれの好みだと言えるでしょうが、実際にはそうではないわけです。選択可能性があって、初めて選べるのであって、選択可能性がないところで手に入れた物はあてがわれたものに過ぎません。努力をする人、特に自分の子供が努力をするのを引きずり落とそうとするのは自己欺瞞を突き付けられるからではないでしょうか。戦後の、教育熱心なお母さん(北野サキさんみたいな人)とそうした原住民の親の違いは自己欺瞞の自覚の有無だと思います。
原住民の友達の中にはマンガでさえ本というものは読まない子はたくさんいました。そういう子たちも中学の頃には「少女コミック」を熱心に読んでいました。素敵な彼とセックスしてしあわせ、みたいな話です。今にして思えば、小学館は貧困ビジネスをしていたんだなと思います。
[原住民にも向学心はある]
逆上がりができるようになって嬉しいくらいの向学心はあります。小学生の時の「勉強ができない」は本当に簡単なところで理解がつまずいているのですから、少し整理してあげるとパッと分かって、魔法みたい、嬉しいということはありました。ただ、それが続かないのです。それを続かせてサポートする環境がないのです。原住民の子でただひとりだけ、有名大学に進学した子(男の子)がいました。彼は頑張ってそうしたのではなくて、もともとの知的好奇心がある子だったので、勉強しないことの方が苦痛、という子でした。彼とは何でも話せる友達になりましたが、彼は少年時代ずっと、家族からさえ変人扱いされました。彼を励ましてサポートしたのは私と私の家族くらいだったと思います。彼の場合は、たとえ変人扱いされたとしても向学心の衝動があったので、どうしてもそうせざるを得ない結果、勉強したのであって、そういう生まれながらの衝動がない子ならば、そうじゃないならとっくに「かわいがられる方向」にシフトチェンジしただろうと思います。ちなみに彼は私の今の夫です。