はてなキーワード: 全身麻酔とは
彼女はパパ活をしているJKである。つまり、売春しているJKである。バイト先のJKリフレの常連客だった「パパ」に水揚げされ、セックスのたびにお小遣いをもらう形で、これまでのべ500万ほど貢いでもらってきた。JKはそのお金を使い、韓国で大規模に成形してきた。なぜ韓国で?と思う人がいるかもしれないが、韓国では外国人だから親の承諾なんていらないし、まだ効果もわかっていない「最新の」手術をバンバンやってくれるからだ。そうやって彼女が整形するのは、ひとえにある男のためである。JKは大学制までの男をガキっぽいと信じている。だから24歳のその男とセックスしている。雪の中で真夜中まで四時間も待たされても、セックスしないならあわないと言われても、JKはお酒を飲んでセックスしてタバコを吸うという「大人っぽい体験」ができる彼に夢中だ。彼にぞんざいな扱いをされるのは私が附子だからだ。そう思い込んで、JKは韓国の医者が進めるままに高額な整形をやってきた。
そんなわけだから、JKは学校に居場所がない。クラスメイトは休みがちで出席したと思ったら顔がパンパンに腫れている彼女を遠巻きに見ているし、担任ですら彼女を笑う。家族はすべてを受けいれてくれているが、家庭は自分を満足させてくれる場所ではない。そんな時間があればパパとセックスして金でも稼いだほうがマシである。そう思いパパにあったら、パパは関係の解消を申し出てきた。この間やった大きな整形手術韓国のせいで、顔が不自然に歪んでしまい、もう会いたくないというのだ。JKは韓国の病院にクレームを入れたが、相手にされないまま終わった。今はセフレの男だけが心の拠り所だが、こんな顔では嫌われてしまうと、また、手術の予約をした。全身麻酔で骨を削る大手術で、半数は麻痺やしびれなど機能障害が残る大博打だ。もう治すところが骨しかない。手術は一週間後。今はただ整形が成功した自分を思い描くことで自分を落ち着かせている。
当方20代後半
今度全身麻酔で手術する
簡単な手術(らしい)ので大丈夫だと思うけれど、万が一ということがあるので
PCに保存にあった自分史上最高に盛れてる撮れてる写真を遺影用にプリントアウトしてて、メモと一緒に手帳に挟んでおいた。
これで完璧、100年後の子孫に見られても美人なご先祖とインプットされるだろう。万事オッケー。
ってところで気が付いたのだけど、遺影って若い頃の写真じゃいけないのかな。
このまま無事生きられて80歳で亡くなるとしても、どうせ後世に残すのなら自分のいっちばん若くて綺麗だったころの写真がいい。
まぁ家族友人親戚一同には失笑されるだろうけれど、死んだら恥もクソもない。むしろ後世に残る写真の方が大事だ。
って人分かる人いる?
いないか
もう10年以上も前のことだが、一度だけ、ドナー候補になったことがある。
通知が来たときはとても驚いた。
そして、しばらく経ってから、ドナーに選ばれたら、なんとしても提供しなければという
使命感というか熱意のようなものが湧き上がってきたことを覚えている。
登録の時には説明を受けていたので、家族の同意が必要なこと、5日ほど休む必要があることは知っていた。
早速、家族に候補になったことを連絡し、職場の上司にも事情を説明した。
最大の問題は、家族の説得だが、これは正式にドナーに選ばれたら何とかしようと考えていた。
それから、程なくしてドナー候補としての説明をするので指定の病院に来てほしいという連絡が手紙で来た。
指定の病院に行くと、骨髄バンクの担当者(コーディネーターというのだろうか)と説明を担当する医師に会った。
そこで、どんなことを話されたかは、もうよく覚えていない。
ドナーにならなかった場合、検査のために提供した血液の検査結果は資料として保存することに同意してほしい。
こんなことくらいしか覚えていない。
その他の話の内容とよく覚えていない。
しかし、話を聞いているうちに、自分の骨髄提供の意志が萎えていくの感じていた。
何と言うか、医師や骨髄バンク担当者の話し全体の雰囲気が、要約すると
たまたま、あなたが候補になったので仕事として説明しているだけです。
のように感じられたのだ。
もちろん、これは俺の主観であり、医師や担当者の方には、そんな気はなかったのかもしれない。
しかし、俺には、彼らから、ドナーになってほしいという熱意というか雰囲気が感じられなかった。
俺が話したことで覚えているのは、レシピエントとの手紙のやり取りの話が出たときのことだ。
レシピエントからの手紙は要らない、こちらからも手紙を出す気はないと言った。
理由は、もしもドナーとなって骨髄を提供した後に、レシピエントから手紙が来なかったらかなりヘコむと思ったからだ。
自分からレシピエントに出さないと言ったのは、何を書いてよいのか分からなかったのと、上から目線の傲慢な内容なって、レシピエントに負い目を感じさせるのではないかと思ったからだ。
それから、また暫くして、ドナーが別の人に決まったので、俺のコーディネートが終了したという連絡が来た。
自分以外に4人候補者がいたので、自分がドナーから外れる可能性が高いことと思っていたので、とくに残念だったとか、悔しいという感情も湧かなかった。
ただ、あぁ、終わったなと思っただけだった。
自分のほかに4人、同等の提供候補者がいるのなら、別に自分がドナー登録を取り消しても影響は無いだろうという考えと、5年間、連絡が来なかったのだから、今後、連絡がくる可能性は低いだろうと思ったからだ。
https://anond.hatelabo.jp/20171110135732
いやいやおめー、それは一昔前の髄液検査の事でね?
http://www.oceanbridge.jp/taka/archives/2014/03/9_4.html
骨髄提供は全身麻酔で骨盤、というか腰骨のあたりに針をさして採取するから、手術みたいな感じ。
http://www.jmdp.or.jp/reg/chance/flash/sp_chance/chance1-7-1.html
全身麻酔だから万万が一があると死ぬとか後遺症とか言うことがあるわけで。
でも骨髄バンク協会は「過去に海外で4例(血縁者間3例、非血縁者間1例)、
日本で1例(平成2年、骨髄バンクを介さない血縁者間)のドナー死亡事例が報告されています。」
って言ってるわ。
入院中に検査のための骨髄穿刺はしたことがあるけど、そのときは局所麻酔だったし、主治医からは外来でもできる検査だから安心してって言われてた
なんで骨髄提供だと全身麻酔なんだ? と思って調べてみたら、採取する骨髄液の量が段違いに多いらしいね
ちなみに私は手術室ではなく、6人部屋の病室で、自分のベッドの上で骨髄採取しました
(もちろんカーテンは閉めて)
ベッドにうつ伏せに寝て、2人の男性研修医と主治医(男性)と女性看護師1名に囲まれながら、パンツ(下着)をお尻の半分くらいまでずりおろされたときが一番恥ずかしかったですね
あとは局所麻酔ガンガン打って、尻の上あたりに例の極太注射針をねじ込む(?)んですけど、麻酔が効いてるから全然痛くない
例えるなら、下から生えてる親知らずを抜くときみたいな感じですよね
痛くはないけど、なんか工事してる!骨をゴリゴリしてる!!っていう
6箇所も穴開けられたって書いてるけど、その穴の跡、全部茶色いシミになって残ってません?
私は2箇所に穴開けましたが、何年経ってもそのときの跡が消えません
もし自分なら、と考えてみたのですが、赤の他人のために自分の命をリスクに晒し、更に体に一生消えない丸い跡がいくつも残るような骨髄提供はとてもできないですね…
もう1年以上前になるが、骨髄提供をしてみたのでその感想をつらつらと書きます。
そもそも献血が好きだったので、骨髄バンクの登録もそのついでにした。登録はしたけど5年くらい音沙汰はなかった。
「あ、これ、いつもの骨髄バンクニュース送ってきただけじゃないな」ってすぐにわかった。
==
ここから先、■は個人的にめんどくさいこと、★はマジでデメリットだなって思ったことですので、面倒な方は■は読み飛ばしてください
患者さんに提供する骨髄液だから、健康面について聞かれるのはしょうがないなと思いつつ、読むだけでも結構多い。
「貧血に最後になったのはいつか」とか覚えてない。己の記憶力のなさが憎い。
家族の同意が必要なので、親と話し合う。母親がメッチャ反対する。まぁでも「反対された」っていうのは、それだけ大切に思ってくれてるんだなと思い、なんだかありがたい気持ちになった。両親ともに「いいよ(適当)」だったら嫌だったかもしれない(し気楽だったかもしれない)。
一応正社員で働いている身としては会社への説明責任があるわけで、上司はとばして突然社長に直談判した。
家族の同席必須なので、父親に頼んだ。うちの父は自営業なので時間が取れたが、平日のクッソ昼間に社会人2人が病院に出向いて説明を聞いて、弁護士の目の前でハンコを押す。「弁護士とコーディネーターがうちの近くに来てくれるんじゃだめなん?」って思った。医師が必要だからしょうがないか。
■使っている薬の申告をする
これもしょうがないとは思うけど、提供前にちょっと風邪ひいたとか、目が疲れたとか、薬を使うときは「これ使っていいですか」って連絡しないといけない。時間が時間だと「明日にならないとわからない」ってなった。「とりあえず使ってもらって、だめだったら明日中止させてもらうかも」っていう対応だった。私はセーフだったが、安くないお金を使って薬を買って、それを1回しか使えなかったってパターンもあるんだろうな。
これは入院前にもっとも面倒だった。先生が緊急手術で不在の時、時間通りに行って1時間待ちとかね。必要な骨髄液の量が多いと、事前に血液を抜いておいて、手術中に戻すための自己血が必要なのよ。他人の輸血だと、献血できなくなるしリスクも高いからね。わかっちゃいるが面倒。
実は手術前、友達とスカイダイビング付きの旅行に行く計画を立ててた。
でもけがのリスクが高すぎるということで、(遠回しに)スカイダイビングをやめてほしいと言われた。正直、骨髄バンクにキャンセル代は払ってほしかった…
★パジャマ代は実費
手術や入院費は患者さんの保険負担だが、パジャマ代は実費負担だった。何だか知らんがパジャマが1回300円以上する病院だったので、家から持ってきてもらった。普通の病院って1着80円とかじゃないの?
人生初の全身麻酔をした。麻酔か、事前に飲んだ薬の影響下はわからないが、手術後吐き気がとまらず、おなかはすいているのに食べたものは全部戻す状況に追い込まれる。これが一番きつかったかもしれない。
■個室ではない
場合によるんだけど、私は4人部屋だった。目の前の入院患者さんがずーっとうんうん言ってて、なんか不安になった。
暇つぶしがスマホと本しかないが、本は読み終わったのでスマホゲーに移動。wi-fiとんでないので、パケットが死んだ。はじめて通信制限くらった。次回からは3DSを持ち込むことを誓った。
★お金はもらえない
みんなが骨髄提供を嫌がるとしたら、これが最大の理由ではないだろうか。
入院をし、会社を中抜けし、「名前も顔も知らないだれか」のために健康な体の背中に穴をあける。これだけのことをして報酬がないのだ。
ちなみに私は医療保険と生命保険にも入っていたので、問い合わせてみたけど「病気治療のための入院ではないので入院給付金は下りない」と断られた。
なんのための保険だよ!!!!背中に注射器6回刺されてるんだぞ!!!!
(ちなみにだが、私の住んでいる市区町村は骨髄提供をした人への助成金があり、それはもらえた。総額10万以上非課税。骨髄提供を考えている人は、自分の住んでいる市区町村が助成金をやっているか調べた方がいいと思う)
■お礼もあるかわからない
じゃあ骨髄提供をなんでやるのかっていったら、「自己満足と人助け」のためだと思う。
「人助け」ならこれでいいのかもしれないが、私は「自己満足」もほしかった。
なんで献血するかって言ったら「献血ありがとうございます!」の一言が無料でもらえてお菓子が食べられて「いいことしたなぁ」って気持ちになりたいからなんですよ私は。リストカットするよりは健全な血液の使い道だと思う。自己承認欲求の強いメンヘラにオススメ。
お医者さんに「うちに入院してくれてありがとう」っていう一生聞くことがないであろうセリフはきいたが、
一番ほしいのはなんといっても「骨髄をくれてありがとう」の一言である。
私には手紙が来なかった。
ご本人の治療がつらくて、文字が書けないなら、近親者の方が代理でもいいから、とも思った。でも来なかった。
手術後、私から手紙を出した。やっぱりそれにも返事が来なかった。
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私には、2回目の適合通知が来た。
でも、今回はお断りした。仕事が繁忙期だったのが最大の要因だが、正直「提供先が(病気の再発等で)同じ人だったらやだな」って思ったのも事実だ。
でももう一回、適合通知が来たらその時はするかもしれない。
久々に行った献血で、「骨髄提供をしたんです」と言ったときに、お医者さんが「あなたがした最大の功績は、患者さんの家族の救いになったこと」と言ってくれたからだ。
骨髄提供を受けられないまま弱っていく中で、「適合する方が見つかりました」の声は、病室の時間を一瞬とめて、途端に涙であふれさせ、結果がどうであろうとも「最後まで治療をしてあげられた」という患者さんの心の支えになるからだ、という。
あまりのコメントの多さに驚いています。興味を持っていただきありがとうございます。
あと、誤字脱字が多くてすみません。
一番ひどいのは
→「最後まで治療をしてあげられた」という患者さん【とその家族】の心の支え
・いくらだったか思い出せませんが、「入院に伴うお金」は少しいただけますので、そちらでパジャマや日用品は買ってくださいとのことでした。3000~5000円だったかな?1万円はなかった気がする。まぁそれにしたってパジャマ高すぎる
・手紙は、「もらえないかもしれないし強制もできない」ということも事前に説明されていました。理解したうえで「手紙ほしかった~~!!!」とダダをこねています。人間としての器が小さくて…すいません。我欲を捨てられるように、来世の自分に頑張ってほしいです。
・あとみなさんが知りたいであろう手術について書くのを忘れてました。
なぜならあんまり痛くなく、尿道カテーテルのほうがよっぽどイラついたからです。
私は麻酔が効きすぎるタイプのようで、手術室に入った途端寝たからなんにも覚えてないんだなこれが。麻酔解けるのも予定時間を3時間オーバーしました。
退院日翌日には会社に行き、2週間後にはプールに行っちゃうくらい健康だったからです。参考にならず申し訳ない…
なので現金的な持ち出しはあまりありませんし、少しばかりプラスかもしれません。
なお、この骨髄提供を経て失った有給は持ち出しに加算したら大変そうですよね。融通が利く会社でよかったなとつくづく実感しました。おかげで私の有休消化率は110%です(未来から借りました…)
あと、「つらつら」の使い方が違う、というコメント、ほんとすみません。恥ずかしいです。ご指摘ありがとうございます。
さんざん愚痴っぽくなってしまったんですが、ブコメ等すべて拝見して、うれしくて涙が出てきました。
みなさんがこんなに褒めてくれるのに、なんで拗ねた態度をとってしまったんだろうと改めて反省しました。ありがとうございます。
・傷跡について
お察しのとおりきれいさっぱりないです。2週間後のプールでも誰にも何も言われなかったです。
生まれつき背中にでっけぇアザがあるんですが、「お、あるな~~~」くらいにしか思わないので…。
あと、「人を救ったかもしれない証」が背中にあるってオタク的にはかっこいいです。ごめん私思考回路がおかしいから…参考にしないでください…
この記事にコメントくださった、「骨髄提供は最高だった」っていう方すごくない?この方こそ聖人君子じゃんって思いました。親にひどい目にあわされながらも人を恨まずに救うことにためらいがないって…すごい…器が違う…この方、もしもお子さんができたら「私を母親にしてくれた」って子供をすっごく大切にしそうだなって思ったんですが、結婚に興味なしなのか~~
ごはんをおごってくれるとかいて下さった方、日本中のおいしい茶わん蒸しのお店を書いておいて。行くから。
追記の追記の追記→ https://anond.hatelabo.jp/20190212162717 いやほんとごめんって 長くし過ぎだって ごめんって
1ヶ月経ってしまったけれど、読みました。ありがとうございます。
今日体外受精のための採卵をしてきました。手術室に入り静脈麻酔(軽めの全身麻酔のような感じです)をしました。途中麻酔が切れ、激痛に襲われました。痛い痛いと叫びなんとか採卵は終わりました。
不妊治療を始めた時、体外受精までするつもりはなかったんです。そもそも体外受精まで行くとも思っていませんでしたが、怖さで無理だろうなと思っていました。
でもタイミング法も人工授精も全く手応えがなく、後悔するのが嫌で体外受精に進みました。
最近、人と比べてしまう自分自身に嫌気がさし、自分ばかり見つめるようにすべくライフログを取るようになりました。機械的に時刻としたことをずっとメモしていくだけなのですが、これをしていたら考えすぎたり悩みすぎることが減りました。淡々と時間を過ごしていくだけの生活になりました。味気ないですが、精神衛生上、今は楽な気持ちです。
不妊治療は人を壊します。人のおめでたい話を聞けば、最悪の事態を呪うようにして願うようになりました。妊娠のためにいいものの情報を聞けば振り回されます。ストレスを溜めないようにしましょうなんて記事を見た時には「妊娠したらストレスなんてなくなるわよ!」と叫びたくなります。電車に乗れば見知らぬ子や妊婦を呪ってしまうような黒い心に侵され、それにふと気付いた時に酷く傷つきます。
「不妊治療は軽い気持ちで臨みましょう」「絶対に子どもが授かるとは限りません、そう心に留めておきましょう」なんて書いてあったって、不妊治療と向き合っているイコール子どもが欲しいと強く願っているわけで、軽い気持ちで思えるわけないでしょ、なんて思ったり。
取り留めのない文章になってしまいました。ごめんなさい。誰かに知ってほしいんです、きっと。不妊治療って大変です。お金も心も。ちなみに採卵だけで30万くらい今日は支払ってきました。移植にまたお金が必要です。
私は不妊なんて関係ないやって思っていました。不妊治療の話を聞いてもふーんと思って聞き流していました。当事者になるとこんなに大変なんだと思うようになりました。抱えてる病気については友人にサラッと言えるのに、不妊治療だけはどうしても言えません。どうしても言えないのです。苦しいです。でも誰かに伝えたって改善されるわけでもないですし、一人で抱えていればいいのかもしれません。
出口の見えない暗い迷路でずっとずっと彷徨っている気分です。不妊治療に負けない心が欲しいです。
生後3ヶ月から大学病院で経過を見てもらっていたけど、主治医に早めた方がいいと勧められ、1歳を待たずに手術することになった。
朝の9時に採血して、それが終わったら他の検査をして、午後になったら入院。
検査結果が問題なければ、次の日の朝イチで手術というスケジュール。
でも旦那に、平日朝の車移動は時間が読めない。それに事故渋滞が起きたら、確実に検査に間に合わない。
電車なら他の路線に乗り換えできるだろと言われ、しぶしぶ電車を選ぶことにした。
選んだは選んだけど、せめてベビーカーを回避しようとして荷物を整理してみた。
患部以外は問題なく、すくすくぷくぷく育った我が子は約10kg。
それからお気に入りのおもちゃと絵本を持って、徒歩で30~40分。(最寄り駅までと、ターミナル駅から病院まで)
もし途中で転んだら目もあてられないと考えて、さすがに断念した。
それで朝早く出ようとして、利用可能な路線の混雑率をチェックしたら、6時に家を出るよりも、8時台の方がむしろ空いているくらいだった。
季節は真冬。
5時台に出ても、居場所はどこにもない。
入れてファミレス。
でも電車やバス内で過ごす10分でさえ、いつ泣き出すかとハラハラしているのに、あのスペースで3時間も過ごせない。
往生際悪くも調べに調べた挙句、やや混みの電車にベビーカーで乗ることにした。
世間が電車のベビーカーに厳しいのは知っていたから、気分は憂鬱なんてものじゃなかった。
少しでも空いている分数と車両を、鉄オタさんのサイトで調べ。(めっちゃ参考になった)
一番ましな場所に乗り込むために、駅構内図を見ながら、頭の中で何度もシミュレーションした。
当日。
定刻通りにやってきた電車は、想像していたより混んでいる印象だった。
パッと見た感じ、ギリギリ入れるかな…というくらい。
でも、これを逃せば次はもっと混んでいる。
もうどうしようもないから、すみませんを連呼しながら乗り込んだ。
乗り込んだ瞬間、周囲の視線がベビーカーに集中したのがわかった。
いたたまれなくなって、誰に言うでもなく小声で謝り続けていたら、逆側のドア付近に立っていた初老のサラリーマンと目があった。
その人は手招きをして、真ん中は危ないよって言いながらベビーカーの前の方を持って、うまいこと角に収めてくれた。
ありがとうございますって伝えたら、お母さん大変だねえって言って次の駅で降りていった。
ベビーカーが収まったすぐそばに、ゲームをしてる若いサラリーマンがいた。
画面は明らかにモンハンだった。
熱中してるみたいだったから声かけるタイミングがなくて、ずっと謝りそびれてた。
どうしようかと悩んで、何駅か過ぎてチラッと見てみたら、いつの間にかゲームをやめて窓を見ていた。
どうやらそっぽを向いたまま鞄につけていたキーホルダーを揺らし、うちの子をあやしてくれているようだった。
その人はイヤホンをしていたので会釈でお礼を伝えると、ペコッと頭を下げてくれた。
ついに駅について降りようとしたら、ホーム側にいた人が、何も言わずベビーカーを降ろすのを手伝ってくれた。
あんなに悩んでたのに。
ブラウザのタブをいっぱい開いて、何日も何日も調べたのに。
気がついたら、病院までの通い慣れた道を歩いていた。
助かったと思いながら歩いているうちに、通院中のいろんなことを思い出した。
大学病院に行くたび見知らぬ人に話しかけられて、こんなに小さいのに病院通いなんてかわいそうと言われたり。
その人の元気な孫の昔話を聞かされたり。
手術を親に知らせたら、赤ちゃんが手術して本当に大丈夫なの?って聞かれたり。
万が一が起きた場合の免責事項が書かれている、手術用と全身麻酔用の同意書に署名したり。
公園で数回しか会ったことないママさんに、麻酔は猛毒だって書いてある謎の紙を渡されたり。
そんな記憶と、電車で助けてもらった出来事がグチャグチャに混ざって、頭がいっぱいになった。
しばらく目と鼻を熱くしたまま歩いていたら、ベビーカーの方から大人顔負けのおならの音がした。
思わず笑って、それで熱いのが一気に消えていった。
ベビーカー論争を目にすると、魔法のような出来事と、あの立派なおならの音が一緒になって返ってくる。
この体験を元に、電車のベビーカーについて良いの悪いのと語るつもりはない。
子供がしゃべるようになって、おならをすると「ブーした」と報告するようになったから、なんとなく思い出話をしたくなっただけ。
◼️ポリープあるってよ◼️
健康診断の婦人系項目でいつからか必ずといっていいほど、ひっかかるようになり、早数年。
自宅に届く健康診断結果に、さらりと書いてある「E判定 要精密検査」に最初はビビっていたものの、ここのところはすっかりあーはいはい、またね、といった具合に慣れてしまった。
ぶっちゃけ、あの流れ作業的な中で行われる健康診断の検査項目は、数値で計れるもの(体重、血液、○○値みたいなもの)以外は、人によって見方が違うから専門医でない限りアテにならないと聞いたことがある。
確かに、Aという項目でひっかかって再検査してるのに、いやBの方が問題ですよ、といわれることもしばしば。
そんなこんなで、今回も右卵巣がなんやらで判定が出てしまったので、不妊治療でゆるく通っているかかりつけ医に診てもらうことに。
そしたら、まさかの健康診断結果とは違う左の方が腫れてると言われるし、左腫れてるけど基準値内、周期のホルモンバランスの影響でしょう、と。。
そして、むしろ、子宮内膜にポリープが3つ程あると!まじかーい!
良性のものが多いけど、妊娠を望む女性にとってやっかいなものらしく、
着床障害を起こし、不妊の原因の可能性の1つらしい。個人差はあるけどとったら妊娠した、という事例もあるそうなので、ポリープを残しておく理由はない。
であれば、とってしまえ!!と思い、手術予約をとったのでした。
◼️初めての全身麻酔手術◼️
まあ、書き方おおげさなんだが、、局所麻酔は経験あるのだけど、眠らされる経験は初めてなので、記念に書いておこうと思い、今に至るのである。
まず、手術タイミングについて。子宮内膜の厚さが周期によって変わるため、手術時期が限られているとのこと。
生理開始から1週間後の内膜が薄くなっている時期が、ポリープがしっかり見えるのでその時期なんだとか。
手術前日、21時以降は絶飲食。
しかし、仕事の帰宅が間に合わず、22時前に夫が買ってきてくれた焼き鳥を食べノンアルコールビール飲んだのはここだけの話。。
水は24時頃までなら少量okとのことで飲む。なんとかなるでしょ。
当日。午前9時に自宅にて事前に処方された、痛み止めの座薬注入。
予約していた10時に病院に到着後、程なくして診察室に呼ばれる。
手術はすぐ行われるわけではなく、まずは子宮を広げる薬と布?みたいなものを入れられる。
うぅー、ちょっと痛いよ、先生。。あの、パッカーンの診療台での診察、何度やっても慣れないわ。。
そのブツが、入った状態で2時間程ベッドで休み、ブドウ糖の点滴も打ってもらう。
あぁ、病院のベッドで点滴なんて何年ぶりだろ。仕事大丈夫かなー(その日は金曜日で、仕事がかなり忙しい日)とか色々考えながら過ごす。
13時くらいに看護師さんが呼びに来る。
点滴つけたまま2つ隣くらいの部屋に移動し、パッカーン診察台に座らせられる。
よくテレビで見る、心電図と指にはめる脈測るものを装着し、医師が3人くらい登場。おいおい、まあまあ本格的やないか、、と心配になりながらもなされるがまま。
そして、女医さんが点滴から何かを入れ、次第に眠くなりますよーと言われたのが最後の記憶となるのでした。
◼️気づいたら、、◼️
意識が朦朧としているんだが、下腹部の激痛と、車酔いみたいな気持ち悪さで頭がクラクラする。。
下腹部の激痛といっても、冷静に今思えば生理痛のもう少し重い時くらいの感覚なんだけど、なんせ、麻酔により本当に眠らされてショック?だったのと、何が起こったかわからないプチパニックになり、思わずナースコールを押してしまった。
30分ほどで落ち着きますよ、といわれ耐え続ける。
ん?パンツがはかされて、ナプキンもつけられてる。。まじか。記憶がない。
看護師さんに聞いたけど、手術時間は15分から20分くらい。手術後車椅子でベッドまで運んでくれたというではないか。
くそー記憶がない。パンツはかせてもらったことも、運ばれてきたことも。。
初めての経験の衝撃と痛みと気持ち悪さで動けないのでしばらく横になって休む。痛みがだんだん落ち着き、軽い生理痛くらいになった時看護師さんが来てくれた。
無理しないでもう少し休んでもいいですよ、と言われたが、タクシーで帰るだけだし、早く家に帰りたいし、お腹すいたし帰る準備を始める。
最後に、薬を4日分処方され、経過観察のため1週間後にまた来てください、お風呂はシャワーのみで、といわれ、その日は終了。お会計は20000円弱でした。
病院をでた頃はすでに16時をまわっていた。
◼️最後に◼️
今回色々調べてわかったこと。
子宮内膜ポリープが不妊の原因の一つの可能性がある、ということ。
まだ、手術終わったばかりでその効果はわからないけど、不妊治療の色々な検査をしても異常がないのに、なかなか授からなくモヤモヤしていたので、やってよかった。
1週間は断酒だけど、また頑張るかな!
https://anond.hatelabo.jp/20170805221741
ホットエントリーに入っていた上記を読んだ。
自分の体験と違った部分と、その数年後に結婚し出産して分かったことを書く。
自分は全身麻酔で20万円。全麻じゃないクリニックはもっと安かった。手続きではパートナーの同意が必要だったが私の場合はパートナーが海外にいたので代筆で通した。
・麻酔
手術前日の夜からシールのようなパッチのようなものを腕に貼った。麻酔の効きを良くするためだった気がする。
・手術
当日、1つめの麻酔で夢うつつの状態になり、その状態で手術台まで連れて行かれる。そこで本格的な麻酔。その時には無意識に恐怖心が沸いて抵抗した記憶があるが、身体を抑えられて麻酔が入ると瞬時に意識を失った。あとは目が覚めたら処置が終わっていた。
術後に意識が戻ってから猛烈な吐き気とめまいがあった。全身麻酔だと吐き気が出る人がいるらしかった。目が覚めてからおそらく1時間くらいは病院で休ませてもらったが吐き気がおさまらず、病院近くのカフェで休んで(たぶんこれも1時間ほど)、ようやく帰れる感じになった。(記憶が曖昧で、どれくらいの時間で落ち着いたかは定かでない)
術後の吐き気以外だと、排尿時に陰部がものすごく染みた。その痛みで、「ああ自分は手術したんだ」ということを改めて実感した。
・その後の心境
各々の状況によってかなり異なると思うが、自分にとっては処女喪失の時の感覚と似ていた。体験する前はものすごく重大で怖いことと思っていた、最中はあっという間に終わった、終わった後は痛みがあったがそのうち痛みも引いた、そしてそのことは誰も気付かずにいつもと同じ日常に戻る、でも自分の中の何かは確実に変わった、と。
ちなみに、なぜ手術をしたかというと、愚かにも避妊に失敗してしまったからだ。当時の彼氏はちょうど仕事で海外に行ったばかりで1年は戻って来ない、自分はまだ社会人2年目で結婚も出産も早すぎると思っていた、かつ当時の彼氏と結婚する決意も持てなかった。それなのに彼氏が出立する直前の行為で避妊に失敗した。結局、彼は予定より早く帰国し、その後一緒に水子供養に行った。その数ヶ月後、別れた。
中絶から数年後に別の男性と結婚し、妊娠した。産院では妊娠回数と分娩回数を聞かれる。妊娠経験があり分娩経験がない=流産や中絶ということになる。私は夫や自分の家族には中絶のことを絶対に知られたくなかったため、過去の妊娠回数は誤魔化した。もちろんネットでも色々調べた。中絶経験は診察で医師にバレるのか、申告内容は秘密にされるのか、等々。ネットでは様々な意見があった。多かった意見は、経産婦かどうかは絶対に誤魔化せないが妊娠初期での中絶は分からない、申告内容は秘密にしてもらえる、という意見だった。しかし私は申告しなかった。それでも妊婦検診などでは全く問題なかった。実際に分娩間近となった際、私の産院では、再度妊娠回数と出産回数を確認された。最後の最後に申告すべきかどうか一瞬迷ったが、やはり、隠し通した。結果、それは正しい判断だったと思う。
何故なら、産院から出された出生証明書に妊娠回数と出産回数の記載があったからだ。(追記:すみません訂正します。出生証明書に記載されるのは妊娠回数ではなく22週以降の死産を何胎か書くようでした。トラバのご指摘ありがとうございました)
産院の出生証明書は自治体への出生届の提出に必要だった。我が家は私の入院中に夫が出生届を提出しに行ったため、正直に申告していたらそこでバレる可能性があった。危なかった。(追記:出生証明書には死産を記載のようなので、堕胎はバレないということですね。産後数日でのヘロヘロの状態だったため早とちりした模様…。勇んで勘違いの内容を書いてお恥ずかしい)
中絶経験があって、それを隠して出産するか迷っている人の参考になれば、と思う。
終わり
基礎体温が下がった。生理が来るだろう。まただめだった。妊娠はしなかった。ずっと不妊治療をしていて、次は体外受精をすることになる。怖いな。調べてると全身麻酔するみたい。
子どもが減ってるこの時代に子どもを欲しがってるのに、全然出来ない。ちゃんと卵子もできてるし、痛みで発狂しそうな検査も受けたけど問題なかった。夫の検査にも問題は特にない。
なんでてきないのかわからない。タイミング法も、人工授精も、する度に、排卵確認をした後には子どもを持つ私自身の姿を想像してしまう。かき消してもかき消しても妄想は私の頭を占領する。
そして生理が来るたびに涙が出る。死んでしまいたくなるような悲しみが毎月襲う。努力が実る問題ではない。どんなに努力したって叶わない。診察で毎回股を拡げ、内視鏡を突っ込まれる。何度繰り返しされたって心がえぐられる。排卵前後にはしょっちゅう筋肉注射を打ち、毎日処方された薬を飲む。まだ見ぬ子供のためにそうしてるのだけど、毎日薬を飲む度に「子どもが出来ない」と言う事実を突きつけられている気がする。
子どもが出来たって障害を持った子どもがうまれるかもしれない。子どもを持ったって襲う苦悩はいくらでもあるだろう。そう考えていくと、子どもはいらないと思えて来る日もある。けれど、薬を飲む行為を前に私は子どもを欲しがる行動をしているのだと再確認させられる。矛盾していく心に疲れていく。
もっと忙しければ、悩むこともなく、文字通り心を亡くせるのだろう。でも私は平日に半日のパートしかしてない。理由は不妊治療のためだ。住んでいるこの田舎には不妊治療の出来る病院なんてなくて、遠くの街まで通う。その街だって世の中から見れば十分田舎なのだと思う。東京の病院なら、夜遅くまで不妊治療を受けられるのかもしれない。フルで働いていても不妊治療を出来るのかもしれない。でもこの田舎ではそうはいかない。不妊治療をするなら仕事を諦めざるを得ない。先日男友達と会ったら「暇な時間何してるの」と聞かれた。不妊治療とも言えずに適当に答えた。子どもがいてバリバリに働く彼の奥さんと比べられ、蔑むような目で見られた。そう思った。私だって働きたい。お金も欲しい。不妊治療ってどんどんお金が飛んでいく。人工授精は2万いかないくらいだけど、毎回の診察で2000円強飛んでいって、交通費もバカにならない。でも、そんなことよりも私は社会的地位が欲しいんだと思う。それなりの学歴だってあるし、資格だってある。スキルを生かして働きたい。私だって不妊治療をしたくてしてるわけじゃない。治療なんかせずに自然と妊娠したい。なのに全然妊娠はしない。私より後に結婚した芸能人達が妊娠しただの出産しただのニュースで流れて来る。他人の話とは思えど、少し傷付く。女友達だってそうだ。新婚旅行でさっさと作れてしまった友人、2人目の出産を終えた同級生。人生のステップを上がれずにどんどん置いていかれる。一方でこの歳になっても結婚しない友人には理解が出来ないと思い、どこかで見下している私を見つけ辟易する。他人がどうなったって私が妊娠するわけではないのに、関係がないことなのに、考えてしまう。理解はしているのに心が追いつかない。人と会うとその人の人生と比較してしまうのが怖くて、そして、まだ子どもが出来ないのだと思われるのが怖くて、人に会いたくなくなった。実際私に対して友人がどう思っているかは知らないし、そんなことを思ったりしていないかもしれないけれど、他人と会うのが怖くなる。
不妊治療のことは特に人に伝えていなかった。親はそう言ったことに理解のない人たちで、相談をもしすれば、知り合い達に「娘がね、不妊治療してるらしいのよ」なんて、さも自分が可哀想なのだと言わんばかりに母親は周りに言いふらすだろう。いつも相談相手は夫だった。でも毎回話を聞くのも辛いだろうなと思い、私はどんどん話さなくなっている気がする。本当に堪え切れなくなったときは話を聞いてもらう。夫は優しく話を聞いてくれる。けれど、先日、神社でお参りをする時に、子どもを授かるよう祈っているわけではないことに気がついてしまった。私はたまに行く神社では必ず子どもを授かるよう祈っていた。少し心のズレを感じてしまった。同じレベルで子どもを欲しがって悩んで欲しいと心の底で思っていることに気がついてしまう。
誰かにもっともっと言えたなら、この孤独感から抜け出せるのだろうか。私はいつになったら解放されるのだろう。いつまで不妊治療を続けるのだろう。子どもはたくさん欲しいと思ってた。大変だけどうるさいくらい賑やかな家庭に憧れてた。もう今は1人でもいいから子どもが欲しい。欲しい。子どもが欲しい。本能なのだと思う。子孫を残さなければと思う生物の本能なのだと思う。本能に抗えている人は凄いと思う。私は本能に飲み込まれてしまう。そして叶わずにいる。私は何のために生きているのだろうとすら思えて来る。歳をとってただただ死に近づく。毎日毎日歳をとっていく。いつになったら産めるのか。
今日、十四年飼っていた犬が死んだ。ミニチュアダックスフンドのオス。名前は書かないでおく。
耳の中に腫瘍ができていて、摘出には手術が必要だったけれど年齢的に全身麻酔は厳しかったこともあり、消毒と薬でこれ以上大きくならないように対処していた。
視力も大分落ちて、いろんなところにぶつかりつつノロノロと家の中を歩いたり、自分で排泄することはできていたけれど、十日ほど前からそれもできなくなった。
一日のほとんどを寝て過ごしていた。頭を撫でると顔を上げて、床に這ったしっぽが左右に揺れたりした。水飲み場にも自分で行けなかったので、こまめにお皿に入れた水を口元に持って行っては飲みたいかどうか確かめていた。
四日ぐらい前から排泄したい、というアクションもなくなって、寝たままおしっこをするようになった。トイレシートを何枚も重ねて引いて、その上に犬を寝かせた。
おしっこをしたらシートを取り換えて、汚れた体を拭いて、また寝かせた。
耳の腫瘍のせいだと思うけれど、体液が耳から鼻へ流れて呼吸が苦しそうだった。鼻水が垂れるたびに拭った。
毎日、今日で死ぬかもしれないと思ったし、こんな状況だけど寝ているだけだからまだまだ生きれるんじゃないかと思った。
呼吸する犬の胸に耳を近づけて、人間のよりもずっと早い心拍の音を聞いていた。
六日の夜、自分が寝る前に犬を撫でた。痩せて、撫でると骨の形がわかる。固形のごはんを受け付けず、痩せぎすな体だけど、温かくて、心臓が動いてて、呼吸していた。
撫でたのは深夜一時過ぎ。犬の短い呼吸を聞いて、それから自分も寝た。
七日の朝四時過ぎ。家族が泣きながら自分を起こした。犬が息をしていないという。
犬に触ると死後硬直が始まっていて、体が硬かった。あー死んじゃったんだ、と思った。動けなくても、寝てばっかりでも、ずっと生きてくれるんじゃないかって思ってたけどそんなことはなかった。
体を撫でても温かくない。でも毛並は変わらなかった。この十四年、撫で続けた愛犬の感触だった。
家族で犬を囲んで撫で合った。それから犬とのお別れ方法を話し合った。結果、市のゴミ処理場のペットを火葬してもらう部署へ連れて行くことにした。
九時前にゴミ処理場を訪れて、犬を預かってもらった。大きい冷蔵庫に案内されて、その一角に犬を置いた。「ばいばい○○」と名前を呼んでお別れした。
アッサリ犬を置いて冷蔵庫から出てきたけど、犬を預ける料金を支払ったり署名をしたりするときに本当にこれでお別れだと思ったら泣けてきた。
今日一日、犬のいない家に帰るのを無意識に避けていたみたいで、映画を見て時間を潰したり、本屋を何軒もまわったり、用もないのに車を出して出かけたりした。
それでも帰らないわけにはいかないから、帰ってきたけど、犬がいないのはショックだった。
毎日犬に話しかけて生活していた。家族がまだ帰ってきてなくても、留守番している犬にただいまって声をかけて頭を撫でていた。もういない。
ついさっきスマホの待ち受けが愛犬だったことに気付いて、可愛らしくカメラに目線を向けている(正しくは自分が犬の視線にカメラを持っていったんだけれど)写真を見ながら泣いた。
随分前から同じ待ち受けにしてたから、犬が生きてる時にはそんなに気に留めてなかったんだろう。
悲しくて、苦しくて、誰かに聞いてほしくて匿名で投稿することにした。
自分のツイッターに書くことはまだ出来ない。ツイッターを開くたびに泣いてしまいそうだから。
十四年、よく生きてくれたと思う。犬に噛まれて血が出たことも何度もあったし、腹が立ったことも数えきれないぐらいある。
なんで犬なんか飼ってるんだってイライラする時もあったけど、でも楽しくて笑い転げる時間の方が多かった。
今は寂しいし、本当に悲しいけれど、泣いてばかりいても生きるのが楽しくないだろうから早く笑顔で犬のことを思い出せる日がくるといいなと思う。
ばいばい○○。十四年間本当にありがとう。とっても楽しかった。ずっとずっと忘れないよ。お星さまになって、みまもっててね。それで私が死んだら、むかえに来てね。
素朴だけど優しく私を愛してくれる夫と2児に恵まれ、幸せな人生を手に入れてそれなりに満足感のある日々だった。
幸せな日常を一瞬にして真っ暗な絶望に追いやった乳がんの発覚。
乳がんは罹る人も多い病気。負担はあるけど、治療なんてさほど難しくないと思っていた。
でも全然カンタンではなかった。
家族、友人、そして自分自身多くの人を深く傷つけ、心身共に疲れ果て全てを失う寸前まで追い込まれた。
判断ミスもあり、軽度とは言えない状態までいってしまった私だが、良き出会い、周りの人の支えに助けられたことは幸運だった。
手術、抗がん剤治療を行い私は今、再発の不安は抱えながらも元の幸せな生活を取り戻すことができた。
いろんな後悔が今も心に残っている。
こんな思いをする人を一人でも減らせたら。そう思って私の体験を伝えてみたくなった。
興味があったら読んでみて下さい。
ほんの些細なこと。
10月1日、夫と食事に出かけた帰りに見かけたピンク色にライトアップされた東京タワーだった。
その時は何も思わなかったが、少しだけ「乳がん」という言葉が頭をよぎった。
それから1ヶ月が経った頃、
朝、着替えの時に左の胸に固い感触を感じた。
違和感を感じ指でふれた。コロコロとした1cm程度の小さなしこりを感じた。
ピンク色の東京タワー、ピンクリボン、その記憶が私にそう思わせたのかもしれない。
ただし、その日は家事に忙しいこともあり、夜にはしこりのことは忘れていた。
夜の入浴時にもう一度触ってみた。朝のしこりはもちろん、あと2個程度小さなしこりを指先に感じた。
大きな病気をしたことが無い私は些細なことでもすぐ心配になるタイプだった。不安にかられ、髪も乾かさずインターネットで幾つかのサイトを調べた。
しこりがある=乳がんというわけではない。40歳未満の場合は良性のしこりの方が多いらしく乳腺線維腺腫の可能性が高いと書いてあった。
人間、不安なときは都合のいい方の考えに飛びついてしまうものだ。
私は、
と勝手に安心し、「こんなものはそのうち消えてなくなる」なんて、根拠もない解釈をしながら、眠りについた。
翌朝、しこりは消えていない。やはり気になる。「もしかしたら」が再び頭をよぎる。
考えないように過ごそうと思ったが、家事が何も手につかない。
今まで感じたことの無いものが私の胸に存在している。その事実から目をそむけることができなくなっていた。
一刻も早く安心したい。その一心で私は病院を探し始めた。乳がんを検査してくれるのはどこか?今まで考えたこともなかったから検討がつかない。
よくわからないが、とにかく近くの産婦人科に行ってみることにした。
そういって若い女性の医師は近所の外科への紹介状を書いてくれた。
その翌日は外科の診断へ。私は一日がかりで色々な検診が行われることを想像したが、触診だけだった。
診断は
違和感があった日に確認した見解と一致していたため、その診断を疑うこともせず飛びついてしまった私がいた。
乳腺線維腺腫は放っておけば3ヶ月程度でしこりはなくなってくるとのことだった。私は安心して、日常の生活に戻った。
「大丈夫でしょう」という自分の安易な判断と、夫に相談せず自分で納得してしまったことがあんなことを引き起こすなんてこのときは思いもしなかった。
それから2年、私はしこりのことなどすっかり忘れて平穏な生活を続けていた。
日々の家事、娘息子の世話、当たり前のことを当たり前にこなす。傍からみれば退屈かもしれないけど、愛のある満たされた毎日。
その日もいつもと何一つ変わらない一日だった。
夫と同じベッドで寝ていると、寝返りをうった夫の手が私の胸に当たった。すると夫が「え?硬っ!」驚いた様子で声を上げた。
暫く自分の胸に意識が向いていなかった私は自分の胸を触り、全身から血の気が引き、突然得も言われぬ恐怖感が襲ってきた。
私がもらした一言を聞いた夫の青ざめた顔が今でも印象に残っている。
夫はすぐに「明日会社を休むから、一緒に病院に行こう」と言ってくれた。
とにかく早くということもあったが、2年前にいった病院は割けるため、隣町の女性クリニックへ診断に行った。すると「確かにしこりがありますね。技師が3日後に来るのでエコー取りましょうか」
との回答。
しかし、今すぐにどうなっているか知りたい。不安が募りの募った私達夫婦は待つことができなかった。
「乳がんの専門医でなくてはわからないのでは?」と夫の意見を採用し、インターネットで調べ最も近くにあった乳腺外科のある病院へ行った。
まずは触診。先生の無表情さが不安を掻き立てる。その後針生検へ。これは正直かなりの痛みがあり、辛かった。
終了後、先生は「結果は一週間ほどで出ます。検査結果によっては大きい病院を紹介する形になります。」と。
もはや1週間を待てる心理状態ではなかった。一刻もはやく白黒を知りたい。先生にお願いをして大学病院への紹介をすぐにもらった。
これらの検査を一気に検査を行うことができた。これで自分が乳がんなのかそうではないのか、ハッキリと分かる安心感はあった。
この一週間は今まで感じたことのない長さだった。
加えて、2年前、なぜしこりが気になった時点でもっと詳しく調べなかったのか、夫に相談しなかったのか、激しい後悔にも襲われた。
診断結果を聞かされた瞬間、私は頭が真っ白になった。
先生が言っている言葉は聞こえるが頭に入ってこない。隣の夫も呆然としていた。同じ状態だったのだろう。
何も考えられない、何も声発せない状態が3分は続いただろうか。
我を取り戻した私は、
「どうすれば治りますか」と先生に聞いていた。
結論は手術。
私は家族と一日でも長く幸せにくらしたい。その思いが人生の最優先だと強く認識した。
女性として葛藤もなかったと言えば嘘になるが、全摘を選択した。
医師から告知を受けると今度は身内や親しい人に話をする必要が出てくる。
まずは娘と息子に12歳の娘、10歳の息子。
ともに私が大変な状況にあることは理解してくれたようで、神妙な顔つきをしていた。こんな状況だが「泣いたり喚いたりせず立派だな」と成長を感じ少し嬉しい気持ちもあった。
次に両親へ説明をした。福岡に住んでいるのでまずは電話で話をした。母が出た。
母とは昔から何でも話し合える仲だ。あまり回りくどく説明しても仕方がないと思い、率直に「乳がんになった。手術をする」と伝えた。
と私に声をつまらせながら何度も何度も謝った。
親の前ではやはり自分は子供に還るのだろうか、今まで必死に堪えていた恐怖心や悔しさ、絶望感があふれ、私も涙が止まらなくなった。
仲の良い友人にも伝えておく必要があると私は考えた。
私のこの考えは安易だったのだろう、結果闘病前に友人関係で心のダメージを負うことになった。
仲が良いと思っていた主婦仲間、ママ友に告知をすると
という反応。
特に親身になって欲しいとかそういうわけじゃない。何が欲しいのかもわからないけど、何か嫌だ。そんなダダっ子みたいな自分も嫌になった。
更に追い打ちを掛けたのは「親友」だった。
中学校からの友人、由美とは今でも週に一度は会う仲で、何でも話せる間柄。
私と由美はまるで姉妹のように、同じような進路を辿り、同じようなレベルの男性と結婚し、同じように幸せな家庭を育んでいった。
昔から進路の話、異性の話、結婚してからはお互いの家庭の話、旦那の愚痴。家族ぐるみでも付き合える最高の友人だった。
由美になら何でも話せる。親兄弟よりも私の気持ちをわかって親身に寄り添ってくれるそんな勝手な期待をしてしまったのだろう。
由美にも率直に
と伝えた。
ただ、由美にだけは同じ女性、同世代ゆえに全摘によって片胸が失われることに関しての悲しさがあるという話をした。
するとA子は
と言い放った。
彼女は明るい性格だ。彼女なりに私を励まそうとしたのかもしれない。
死を意識する日々、あまりに多くのものを失っていく毎日、私があらゆるものに敏感になりすぎていたのかもしれない。
ただ、この一言はどうしても受け入れることができなかった。
私が置かれていた状況は私の平常心を奪っていたんだろう。滅多に感情的になることがなかった私が怒りを抑えきれず、由美に対して激しい言葉をぶつけてしまった。
これまで長年にわたり育んできた暖かな友情に大きなヒビが入ってしまった。乳がんはまた一つ私から大切なものを奪ってしまった。
家族の不安、両親の涙、友人との離別、多くのネガティブな感情を抱えながら私は手術に挑む。
スケジュールが出た。
手術は診断結果が出た日から20日後に決定。全摘を選択したために術前の化学療法はなし。
手術2日前から入院となった。前日からは食事も取れない。当日は朝から各種検査を行い以異常がなければ全身麻酔をして手術開始。目を覚ませば手術が終わっている。
手術は予定よりも2時間遅れて終了。遅れた理由はリンパ節への転移が見られたから。麻酔が切れて朦朧とした中で、病室で夫がずっと手を握ってくれていたことは記憶の中にうっすらと残っている。
乳がんが発覚し自分の信じていた世界が全て崩れてしまったと思っていた。
でも夫だけはどんな状態の私も暖かく包んでくれていた。こんな時だからこそ夫の愛情を強く感じることができた。手術が終わった安堵感と、愛を感じられたことによる充足感か、そのまま深い眠りに就いた。
翌朝の目覚めは心地よかった。起きたら包帯でぐるぐる巻きだ。まあ夢ではない。現実だ。左のおっぱいないよなー。と思って触ってみるとやはり・・・ない。
わかっていたけど、現実を突きつけられると涙がこぼれた。
術後に体内にたまるリンパ液や血液を出すためのドレーン管が二本入ってたが。ここから液がでなくなれば退院だ。
7日後、遂に退院が出来た。退院時の値段は50万円だった。私はがん保険には入っていなかったので正直この金額は厳しいものがあった。備えあれば憂い無し。
そんな言葉が頭をよぎったが、今は無事に退院ができたことの喜びの方が勝っていた。
左の胸がなくなってしまったことへの喪失感はあった。お風呂に入るときなど自分の身体から目を背けたくなる時期もあった。
でも、疑似おっぱいの性能が以外と良く、服の上からでは見た目にわからない状態になった。そこからはだいぶ気分が楽になった。
気分は元に戻ってきたが、治療はまだ終わりではない、手術から30日経過した時点で今度は抗癌剤治療が始まった。
期間は3週間を1クールとして、8クール、複数の抗がん剤を組み合わせての実施。
抗癌剤治療と言えば、ドラマでも度々その様子が描かれる。そのためわずかに恐怖心があった。でも生きるため。
抗がん剤治療は想像していたよりはキツくはなかった。最初の一週間は特に異変もなかったけど、8日目辺りから吐き気と貧血が出始めた。割りと調子が良くなってきた17日後に遂に髪の毛は完全に抜けてしまった。「あー、やっぱこうなるのねー」と思った。
覚悟は出来ていたので、思っていたよりはショックは少なかった。
2クール目は特に問題なく過ごすことができた。まあ抗がん剤の点滴の際は気が重いくらいかな。
3クール目に入る前にはかなり抜け落ちてきた髪が目立つので、ウィッグを買いに行った。季節をまたいでの治療なので冬用と夏用を両方買った。
それにしてもケアグッズも高い。
あまり大きな声で言う人はいないと思うが、乳がんは治療以外にかかる金銭的負担も大きい。
4クール目に差し掛かる頃には髪の毛は全て抜け落ちた。髪だけでなくまつげ、眉毛、体毛全てが抜け落ちた。顔色も悪く自分を鏡で見るのがちょっときつくなった。
いつも看病してくれる。夫も私の姿をみてどう思っているのかな。。。と少し気になる時期だった。
こうして、長かった化学療法も遂に8週で無事に終わりを迎えることができた。もう吐き気に悩まされることもないと思うとかなり気が楽になった。
楽しい時期は2ヶ月なんてあっという間だが、治療となると1年間のような長さに感じる。
抜け落ちた髪も徐々に生えてきて、昔に戻れるのかな-と淡い期待を抱かせてくれた。
化学療法を無事に終えた私は最後の治療、放射線治療に入ることになる。
放射線治療は、全部で30回。毎日通院が必要で、一ヶ月半ほど平日は病院通いが必要になった。経済的な負担も引き続き大きかったが、仕事の調整をして一緒に通院してくれた夫に負担をかけているという罪悪感も多くあった。
放射線治療にも副作用がある。軽い火傷のような症状だ。熱い、かゆい、痛い。放射線を当てている患部は赤黒くなってしまい、見るからに痛々しい感じだ。
ただ化学療法と違い体外的な副作用しかなかったので、辛さで言えば全然問題なかった。
手術をしてから約半年が過ぎて、ようやく私の乳がん治療は全て終了した。
毎日毎日通った病院。乳がんを発見してもらった病院にそのままお世話になって本当に良かったと思う。
検査のときは無表情で怖かった先生も病に真剣に向き合って時には優しく、時にはハッキリと私が不安にならないように、また過剰な期待を抱かないように上手に説明をしてくれた。
お陰で私は現実と向き合い、治療の目的を正確に理解しながら集中して治療を受けることができた。先生本当にありがとう。
そう言えればどれだけ幸せだろうか。
一般的ながんは5年再発しなければ完治と呼ばれるが、乳がんは10年後20年後も再発の恐れがあるために、ほぼ一生に渡って再発の恐怖との戦いになる。
こんな人生を送ることはまっぴらごめんだ。
そのなかで私の心は強くなっていた。がんを再発させないように生活を改善していけばいいじゃないか。そうポジティブに捉えることができるようになっていた。
乳がんによって手に入れられたこともあるのかなと思うと、最悪なことばかりではないかと思った。
幸いといっていいかな。見た目以外は正直、乳がんが発覚する前とあまり変わらない状態だ。
ただ髪の毛はやはりなかなか生えてこずまだ5cmほどしかない。出かける時、来客のときは帽子を被るようにしている。
左胸がないことにはさすがにもう慣れてしまった。残念に思うのは大好きだった温泉に行きたくなくなっちゃったことかな。
胸のコンプレックスが薄くなった今なら親友の言葉も笑った受け流すことができたのになーと思うと少し心が痛む。
以前は特にお肉が大好きでカロリーは紀にしながらも好きなものを食べていたけれど、今は野菜を中心とした食事と抗酸化作用の高い食品をメインにしている。
そのおかげもあってか、再発は今のところなく、検査結果も良好。適度な通院も生活のリズムを整える意味で意外と気に入っている。
家族との結束は乳がんによって以前より固まった気がする。長女は14歳になったが私の身体を察してか、家事も積極的に手伝ってくれるし、反抗期の気配もない。12歳になった長男もだいぶ私を労って自分のことを自分でやるようになった。時々一緒にお風呂に入るが胸のことには触れてこない。なかなか優しいやつだ。モテる男になるかも。
夫は病気の前から優しい人ではあったが以前に比べて、私を心の底からいたわってくれている。先週末、酔って帰ってきた時に話していたが、乳がん告知の際、私を失うかもしれないと思った時に本当の愛が溢れてきたそうだ。
先日からかったら、覚えていないと本人は言うが、どうだかは知らない。
親友との関係は残念ながらまだ修復には至っていない。先日スーパーで顔を合わせたが会釈程度で終わってしまった。今の精神状態なら素直に私から謝ることができる。彼女との関係修復は今の私の一番の課題だ。
こんな感じで意外と悪くない日常を過ごすことができている。
でも、今こうして、振り返ると悪くないことも多いなと思うに至った。
どうしても後悔はある。それが今回私が体験談を語ろうと思った理由。いまでも本当に後悔していることは一つ。
乳がん発覚の2年前、最初に気になった時点で乳がん早期発見の機会を逃したこと。
もしここで、私の治療をしてくれた大学病院までたどり着くことができていたら・・・
早期発見というくくりの治療となり切除も再発のリスクも存在しない状態で治療が終わっていたと思う。
親友との離別も家族への過度な負担。これらも起こることはなかっただろう。
10月1日ピンク色に染まった東京タワーを見た時にもっと深く乳がんを自分ごととして考えられていればな-なんてことまで思ってしまう。
乳がんは女性の12人に1人がなる病気と言われている。確率は高い。あなたもなる可能性が十分にある。正直発生自体を防ぐことは生活習慣などにもよるし、生活習慣を気をつけていても病気はいつ襲ってくるかわからない。
卵巣のう腫は、卵巣の中になんか出来ちゃうやつ。
中身はまちまち、人によってはお腹がぽっこりするくらい大きくなったりする。
気付かないことも多いけれど、大きくなった卵巣がコロンとひっくり返って卵管が捻れたり、破裂したりすると一大事。
https://jsgo.or.jp/public/ransou.html
私の場合はこうだった、というのを書く。
婦人科系の症状は個人差大きいので、あまり参考にならないと思う。気になることがあったら病院へどうぞ。
※後半に摘出した部位を食べ物に例える描写があるから、苦手な人は気を付けて
1.発覚
社会人なりたての頃に「自治体から子宮頸がん検査の無料チケットが届いたから」とか「生理痛しんどい」とかそんな理由で近所の婦人科にかかった時に、ついでに発覚。
「片方の卵巣デカいですねー。卵巣のう腫でしょう。現状問題ないので年1回くらい様子見ましょう。」とのこと。
この時、痛いとかお腹出てるとかそういう症状はなかった。全然気が付いてなかった。生理痛はそこそこ重かったけど、のちにチョコ菓子を控えるようになったら軽減されたので卵巣のう腫とはあまり関係ないと思っている。
2.手術を決めたタイミング
時は流れて30代手前、「年1で」と言われていた検査のこともすっかり忘れた頃に結婚が決まり、別の病院でブライダルチェックを受けた。
特に問題はなかったけれど、そこでも言われる「片方卵巣デカいですねー」。
近所の病院に通ってた時よりも少し大きくなっていた。この時で6cmちょっと。通常は2〜3cmで、大体クルミと同じくらい。
このままにしておいても問題はないけれど、妊娠・出産を考えるなら早めに取っちゃった方がいいですよ、とのこと。
やっぱり捻れたりするのが怖いし、妊娠中にのう腫を取ることも出来るけど、今の内の方がリスク少ないし楽なんだって。
それまで手術も入院もしたことがなくて好奇心はあったし、その場で手術が出来る病院を紹介してもらった。
3.手術の内容
へそとその周辺数ヶ所に開けた穴からガスとカメラと器具入れて患部を切ってもらうタイプ。術中は全身麻酔、入院はトータル1週間。お腹を切って開ける開腹手術よりも、術後が楽で回復が早いらしい。
「のう腫部分のみ切除します。術後の生殖能力には影響はないですよ」の言葉に安心したのをよく覚えている。
ちなみにこの時点ではのう腫が良性か悪性か分からない。
担当医曰く「検査した結果を見ると良性っぽいけど、のう腫を摘出して中身見ないと分からない」らしい。
なんとなく、生理予定日を避けて手術の日程を決めた。
入院の少し前、採血・採尿・心電図・肺気量・MRI……色々やった。
クリアファイルを片手にスタンプラリー気分で大きな病院内をウロウロ。
みなさん手術や業務の合間を縫って時間を作ってくださったようで、とても忙しそう。
麻酔担当・手術の際立ち会ってくれる看護師さん・病棟でお世話してくれる看護師さん……他にもいらしたかもしれない。
「こんな手術します、こんなケアします、これ準備してください、もしもの場合も一応覚悟しておいて下さい、質問ありますか、では書類にサインを」大体こんな感じ。とにかく書類が多い。
5.手術当日
「浣腸の後、出来るだけトイレ我慢して下さいね。5分頑張って!」と言われたものの、1分で脱落。今入れたものがそのまま出てきた。無力。
病室で手術着に着替えてから、歩いて手術室に向かう。
手術室は予想に反して朗らかな雰囲気で驚いた。
ベッドに横になり、手術担当の看護師さんとおしゃべりしている内に麻酔が始まり、気付いたら病室に戻っていた。2時間は経っていたらしい。
夫と親の顔を確認して、その後は丸一日眠った。
時折、看護師さんが私の股座をゴソゴソと開けてチェックし、時に拭い、そっと戻して去っていった。事前の浣腸、もっと頑張ればよかった。
腕からは点滴、腰付近からは痛み止め用の管、尿道からは私が麻酔で眠った後に入れたらしい管がそれぞれ出ていた。
腰から出た管は小振りな筒に繋がっていて、痛みで辛い時に自分でその筒のボタンを押すと痛み止めを注入出来る。幸い使う機会は無かった。
点滴のおかげで喉の渇きや空腹感はないけれど、口が渇くので看護師さんが様子を見にきてくれる度にうがいをさせてもらった。
6.術後1〜2日目
手術から丸一日経つと、自分で歩いてトイレに行くくらいは出来るようになった。
多少下腹に痛みがあったけれど、それ以上に丸一日寝ていたせいで体力が落ちたのがしんどい。
あまり寝っぱなしでいると臓器が癒着するからどんどん動けと言われたので、トイレの他にも病室近くの談話スペースで漫画借りて読んだりテレビ観たり、ベッドから出てる時間を増やした。
食事も徐々にあからさまな病人食から普通の食事に変化していった。
7.退院
手術したのが月曜日、退院予定は金曜日だったが、木曜の朝に「元気そうだから後で診察して問題なければ今日退院していいよ」と言われた。
執刀医2人と面談、診察してOKが出たので会計を済ませて退院した。こうもアッサリ終わるものなのかと大層驚いた。
退院後1〜2日はゴロゴロしていたが、3日目から散歩に出て、4日目には仕事に復帰した。元々暇な座り仕事なのですぐ復帰出来たけれど、そうでなければもう少し自宅で安静にしていたかもしれない。
摘出したのう腫の写真には、髪の毛がピンピン飛び出した鶏皮の塊のようなものが写っていた。
中身は歯・骨・髪・脳・脂肪等。
流石は人間の素が入ってる臓器、中身のバリエーションに富んでる。実物は見せてもらえなかった。残念。
8.手術痕
私の場合は腹の4ヶ所に穴を開けたらしい。
へそ・へその下・そこから拳1つ分を空けて左右2ヶ所。
小さな穴ではあるけれど、放っておけば勝手になくなるタイプの糸で縫合されていた。
術後数週間で穴の一つから糸が出てきて抜けた時は驚いたが、あとで正直に担当医に報告したら「別にいいですよー、また出てきたら抜いちゃって下さい」と言われてホッとした。糸が残っている間は少ししこりのようなものがあるが、気付いたらなくなっていた。
傷口の赤み・痒みは時間と共に薄れて、今では乳首色で小指の爪サイズの痣が3ヶ所あるだけになった。
いちばん大きな穴はへそに開けたそうだが、見た目は全く分からない。
手術前が決まった頃、会社に指示を仰いで「健康保険限度額適用認定申請書」なるものを用意した。
医療費がめっちゃかかるというのが事前に分かっていれば、最初から自己負担限度額で請求してくれるらしい。
これを出さない場合は、かかった費用を一旦自分で全額支払い、後日全額から自己負担限度額を差っ引いた額を戻してもらう為の申請が必要になる。
どっちにしろ、支払う額は変わらない。
詳しくはこのあたりを参考にどうぞ。
https://www.kyoukaikenpo.or.jp/g5/cat550/1137-91156
私の場合、通院から手術まで全部合わせてトータル10万行くか行かないかくらいだったかなぁ……
もちろんおりた。
それなりに女性特約をつけた生命保険だったので、今回の治療費をペイ出来るどころかあと2回同じ手術受けられるくらいおりた。月々安くない金額払っているだけある。
今回の費用を余裕で払える程度の貯金はあったのでお金については心配していなかったけれど、入院手術で心身しんどかった後にちょっとしたお金が貰えたことで少し気持ちが上向いたのはありがたい。
書くまでもないと思うけれど、貰える金額は各々の契約内容次第なので、私のもらった額は全く参考になりません。
11.その他
意外なことに、術後割とすぐ子作り可と言われた。人によるかもしれないので、同じ手術を受ける人は担当医にちゃんと確認してほしい。
生理周期もズレたりするかと思いきや、変化なし。
変わったことと言えば、他に要因があるのかもしれないけれど、おりものの臭いが軽減され、へその臭いがキツくなった。なんで?
以上です。
小児の片頭痛はどのように診断するか(周期性嘔吐症、腹部片頭痛)
http://www.jhsnet.org/GUIDELINE/7/7-2.htm
http://www.okayama-u.ac.jp/tp/release/release_id300.html
医者は恐らく筋緊張型頭痛だと考えられるが、念の為頭部MRIを撮るかと言ってその日のうちにMRIを取ることになった。MRIはCTと違い放射線ではなく磁気で人体内部を走査するもので、1回に40分ほど、1万円くらいかかった。
3テスラ以上の機械で行うMRIは1600点である。単純計算で4800円である。
この日は初診料、採血なども加わったので1万円程度になったと考える。
そこで初めて医者から「未破裂脳動脈瘤」という単語を聞かされることになった。
http://www.sankikai.or.jp/tsurumaki/disease/brain/miharetu.html
http://neurosurgery.med.u-tokai.ac.jp/edemiru/miharetsu/
未破裂脳動脈瘤について
https://square.umin.ac.jp/neuroinf/medical/102.html
脳動脈瘤の原因について尋ねたが、未だによく分かっていないらしく、先天的に血管の壁が薄いところがあって、そこが年を経ていって膨らんでいくというふうに考えられているということだった。
知られているリスク:
家族歴:1親等以内の2人以上に脳動脈瘤がある場合は一般の人の4倍程度
多発性嚢胞腎では10%程度
歯周病(https://medicalnote.jp/contents/160216-002-PZ)
関東では全身麻酔でやることが多いらしいが、関西ではカテーテルを入れる入り口である太もも付け根に局所麻酔をするだけが多いらしく、関西の病院だったので局所麻酔だけだった。
治療中にどこに血栓が飛ぶかわからんから全国どこでも目が覚めたままでやると思うけれど。
くも膜下出血を起こしてからでは遅い。MRIを撮ったことがない人、特に片頭痛に悩んでいる人は一度MRIを撮ってもらうことをおすすめする。
こういうお勧めはどうかなと思う。今回は片頭痛とは違う痛みだから医師の判断でやったわけでしょ。(たぶんAVMのほうを除外したかったと思う)医者に任せよう。
むしろ頭痛がある人は頭痛日記つけて、頭痛専門医にかかろう、ってアドバイスが良い。
1年前,数日間頭痛が続くことがあり,病院に行った.もともと偏頭痛持ちで小学生くらいのころから定期的に頭が痛くなる体質だったが,そうした偏頭痛は大体半日くらいで治るので心配になったのだった.
医者は恐らく緊張型頭痛だと考えられるが,念の為頭部MRを撮るかと言ってその日のうちにMRを取ることになった.MRはCTと違い放射線ではなく磁気で人体内部を走査するもので,1回に40分ほど,1万円くらいかかった.
結果が出るのには1週間程度かかると言われ,その日は家に帰った.私は緊張型頭痛だったのかと安心し,それから数日して頭痛が収まったので,MRの結果をうっかり聞くのを忘れたままそれから1年が経った.
ある日,病院から手紙が来た.手紙には頭部MRの検査結果でお話したいことがあるという旨が書かれていた.頭痛はすっかり良くなっていたが,私は心配になり,1年ぶりに病院へ足を運んだ.
そこで初めて医者から「未破裂脳動脈瘤」という単語を聞かされることになった.
未破裂動脈瘤という病気がある.未破裂動脈瘤は動脈血管の何らかの理由で薄くなった部分が風船の様に膨れる病気で,それが破裂すると大量の出血が起こる.この未破裂動脈瘤が脳の動脈に起こるのが未破裂脳動脈瘤である.
逆に,破裂さえしなければ,瘤が相当大きくない限り(そもそも瘤が破裂せずにそこまで大きくなることは稀)何らかの症状が出ることはまったくない.また破裂するタイミングは予測ができない.
脳と言っても,瘤が脳を覆っているくも膜の内側にあるか外側にあるかで破裂した場合の結果が変わってくる.
脳動脈瘤がくも膜の内側で破裂した場合はくも膜下出血となり,1/3の患者が死亡,1/3の患者が重篤な障害,1/3の患者が特に何もなく日常生活に復帰できるという話だった.外の場合は硬膜外出血という別の病気となる.
私の場合は左目の奥,くも膜の内側にあるためくも膜下出血の恐れがあるということだった.
聞かされたときはなんだか現実感がなかった.「この一年で破裂しなくてよかったですね」「そうですね.ははは」という会話をして再度MRを撮るということになった.
脳動脈瘤の原因について尋ねたが,未だによく分かっていないらしく,先天的に血管の壁が薄いところがあって,そこが年を経ていって膨らんでいくというふうに考えられているということだった.
タバコやアルコールが後天的な原因と考えられているらしいが,私はタバコも吸わないし,アルコールも一滴も飲まない.なりやすさは遺伝するらしいが,くも膜下出血で亡くなった近しい親族はいない.男性より女性の方が若干なりやすいということだったが,私は男性である.なぜ動脈瘤が発生したのかはよく分からなかった.
再度撮ったMRの結果としては,瘤の大きさは1年前と変わっていなかった.未破裂動脈瘤は破裂する前に大きくなることが多いため,期せずして1年間観察することになったが,とりあえずは安定しているように見えるということだった.
動脈瘤の手術を受けられる病院への紹介状を書いてもらい,今度からはその別の病院に通うことになった.
新しい病院で脳血管造影を受けた.これは造影剤を流すためのカテーテルを腕から脳まで入れてCTで血管の三次元構造を撮影するもので,血管の様子を3Dモデルとして見ることができるという優れものである.
造影剤が流された瞬間,血管がカッと熱くなるのが分かり,普段は意識することのない自分の脳内の動脈がどこを走っているのかが体感として分かるという斬新な経験をした.
理由はよく分からないが,CTを撮っている時に,閉じている目の裏に飛蚊症のようなつぶつぶが動くのが見えた.
検査の結果,私の動脈瘤は細長い形をしており,長径が4mm,短径が2mmほど,先端に乳房に対する乳首のようにぽっちりと膨れている部分があることが分かった.
「通常5mm以下で形が均一なものは様子を見るということが多いが,君の場合は5mm以下だが形が不均一で,daughter sac(ぽっち)があり,かつ平均余命から考えて君はまだあと30年は生きてもらう必要がある.手術したほうがいい」医者が言った.「普通,君の年齢でこうした未破裂の脳動脈瘤が見つかることは珍しい.ほとんどが破裂してから病院に運び込まれて緊急手術して死んだり障害が残る」「破裂する前に見つかってよかったね」
破裂する確率はどれくらいか尋ねると,形や大きさにも依るが君の場合はだいたい1年で1%から2%くらいじゃないかなということだった.「君が80歳のお爺さんなら様子見するところなんだが」長く生きるならその間に破裂する確率は累積してやはり高くなる.
「そんなベルヌーイ試行みたいなことを言われても」と私は思ったが,実際そんなもんなのかもしれなかった.要は不発弾がいつの間にか脳内に埋まっていたということなのだ.
昔からある偏頭痛はこの動脈瘤と何か関係あるのか問うと,「全く関係ない」ということだった.「偏頭痛は生まれつきのもので,治るということはなく,それぞれの患者さんが偏頭痛の起こるきっかけを把握して予防するしか無い.ちなみに60を過ぎると起こらなくなることが多い.今は良い頓服薬があるから出しておこう」というので偏頭痛用にマクサルトという頓服薬を貰った.「頭痛があったからこそ今回動脈瘤が破裂する前に見つかったわけで,何がどう転ぶか分からんね」
私は病院からの帰り道に死ぬまでに破裂する確率を計算してみた.医者が言うように1年で破裂する確率が2%とすると,98%の確率で来年も破裂しないまま今と同じように生きているということだ.2年後も破裂しないままでいる確率は0.98*0.98でだいたい96%すなわちこの2年間の内に破裂する確率は100-96で4%ということだ.同様に平均寿命である80歳まで生きるとすると,残りの寿命は54年,0.98^54は0.34.34%の確率で破裂しない.逆に言えば,80歳までに66%の確率で破裂するということだ.
実際のところは破裂しても1/3の患者は日常生活に復帰できるので,80までにくも膜下出血で死ぬか重篤な障害によって死んだ感じになる確率は0.66*(2/3)で44%ほどと言える.
手術せず破裂しないのを祈るのは分の良い賭けとは言えなかった.
同様に,今から24時間で破裂する確率はどれくらいだろうと考えてみた.1年で破裂する確率を同様に2%とし,1年を365日とする.1日24時間で破裂する確率をxとすると,(1-x)^365=1-0.02であり,これを解くとxはだいたい0.000055となる.
すなわち0.0055%で24時間以内に破裂するということだ.後で調べて分かったが,これはだいたいスマホのガチャゲーで一回の試行でトップレアを引くのと同じくらいの確率である.私はとりあえず安心した.
同時に,自分って死ぬんだなと思った.幼い頃に死んだ祖父の冷たくなったゴムのような手を思い出し,それから交通事故で亡くなった小学生の時の親友を思い出した.
思い返すと,私は日々を死んだように生きてきたなあと思った.そしてこのまま突然死ぬのは嫌だなあと思った.死んだら何もかもどうでもよくなるので,生き残った場合に備えるべきだと思った.今まで研究にも就活にも後ろ向きな態度だったのを恥じた.
出すつもりのなかった研究予算に無理やり応募し,興味のある企業のインターンに応募した.
脳動脈瘤の手術のやり方は2種類ある.ひとつは頭を割り開き外からクリップで瘤を留める方法,もうひとつはカテーテルで血管の内側からプラチナ製のコイルを瘤内に詰める方法である.私の場合は瘤の位置がかなり脳の奥にあり,クリップで留めるのは難しいということだったので,カテーテルでコイルを詰めることになった.SFが好きなのでいつか身体に機械をインプラントしたいと思っていたが,まさか治療のためにこうして脳内に物体をインプラントすることになるとは.
コイルが詰められた瘤は血が血栓として固まって破裂しなくなり,二週間程度で膜ができて固まった血栓が飛ぶ心配が無くなるということだった.ただし,術後二週間は血栓ができにくくなる薬を飲む必要がある.
治療の過程でカテーテルの様子をCTで観測する必要があり,そのため長時間放射線に被爆することになるが,最近の機械は少ない放射線でかなり見えるようになっているので,そこまで気にする必要はないらしかった.昔は皮膚が放射線でやけどして赤くなったり,まれに白内障になったりということもあったらしいが,今はそんなことはまったくないとのこと.実際に放射線で皮膚や目に異常が起こることはなかった.
手術の成功率はだいたい97%程度ということだった.単純に考えて2年様子を見るくらいなら手術したほうが良いということだ.私は手術を受けることにした.
結論から言うと手術はうまくいった.関東では全身麻酔でやることが多いらしいが,関西ではカテーテルを入れる入り口である太もも付け根に局所麻酔をするだけが多いらしく,関西の病院だったので局所麻酔だけだった.
なので手術中は自分の脳内でカテーテルが動いているのが分かった.血管自体に痛覚を感じる神経は無いらしく,違和感だけで痛みはなかった.術中はバルーンで血流を一部止めるということだったが,脳というのはよくできていて,一箇所を堰き止めても全体の血流が滞らないように根本の血管が輪になっているので大丈夫だという話だった.後で医者曰く,「いつもは破裂してくも膜下出血を起こして運ばれてきた高齢者の動脈硬化した動脈瘤ばっかり手術してるんだけど,未破裂だし動脈硬化も無いし手術はやりやすかったよ.血栓による脳梗塞も見たところ起こってない」とのこと.
結局のところ手術のための入院で最も辛かったのは尿道カテーテルだった.脳に異物を入れるのよりも尿道に管を入れるほうが痛いというのも妙な話だが,入れるのも痛かったし,抜くのも痛かったし,抜いてから排尿するのも勇気を振り絞る必要があった(痛いが思い切って出すのがコツ).抜いた後排尿しようとして時折尿道から空気が出てくるのは奇妙な感覚だった.
手術直後は凄まじい頭痛が起こった.偏頭痛とよく似た慣れた痛みで,今までの偏頭痛では見たことのなかった歯車のようなギザギザしたものが空中に見えた.朦朧とした意識の中でこれが閃輝暗点というやつかと思った.気分も最悪で手術後にコイルの様子を見るためのMRを撮っている途中で我慢しきれず吐いてしまった(大変申し訳なかった).
翌日になるとだいぶ頭痛は収まったが,それでも一ヶ月ほど偏頭痛のような頭痛は続いた.最初の一週間は眠れないくらい痛い時もあった.他の脳動脈瘤の治療をした人の話を調べると術後にこうした頭痛を起こしている人はいなかったので個人差があるようだ.
1日経って,シャワーを浴びるために頭に湯をかぶった時に,左目に奇妙な筋が走った.明るいものを見て目が部分的に眩んだような感じだ.初めは何か明るいものを見て焼き付いているのだろうと思ったが,いつまで経っても消えなかった.閃輝暗点の一種だろうかと思い,しばらく様子を見ることにしたが,一向に消える気配が無い.翌朝眼科を受けたところ,左目の網膜の一部に浮腫ができているということが検査で分かった.原因は不明で,考えにくいが詰めた動脈瘤から血栓が網膜の血管に飛んだ恐れがあるということだった.通常,血管にはそうした血栓を通さないための仕組みがあり,そうした血栓が目に行くことはあまりないことらしい.
私としては熱いシャワーを頭に浴びたのがよくなかったのではないかと思う.それで血管が広がり血栓が通過してしまったのではないか.眼科医は「時間がかかるだろうが,浮腫は軽度のもので年齢的に若いから治る可能性が高い」と話した.神経の修復を促進するためのビタミン剤と血行を良くする薬を処方された.もしかしたら左目はずっと一部が見えないままなのかとウンザリしたが,見えていなかった左目の奥の動脈瘤という危険な穴が,命を脅かさない代償として目に見える位置に移動したのだと考えることにした.
退院後は血栓を作りにくくする薬を二週間飲んだ.応募していた企業のインターンが受かったため,それから二ヶ月の間インターンに参加して企業で結構忙しく働いたが,最初の方は頭痛が残っていた以外に動脈瘤の治療が何かの問題になることは無かった(目も実際のところそんなに気にならなかった).痛みや症状がある内は不安で頭が一杯になるかもしれないが,少なくともそうした不安がずっと続くことは決してないということが分かった.人間は適応するのだ.
それから数カ月が経ち,今現在は左目の網膜上の浮腫もほぼ無くなった.目が暗順応する過程でもやもやとした揺らめきが時折視界の外側に見えることがあるが,ほとんど日常生活する上では気にならなくなっている.
また,あれだけ頻発していた偏頭痛がほとんど起こらなくなり,起こっても以前ほどの痛みを伴わなくなった.思えば偏頭痛で毎回痛かった部分が動脈瘤のある場所だったのでやはり何か関係があったのではないかと思う.
手術前に応募した研究予算はやはり燦々(*1)惨憺たる結果だったが,インターンさせてもらった企業からは内定を貰ったので,来年から務める予定である.
脳動脈瘤は年齢に関係なく成人の5%程度が持っていると言われている.ほとんどの人にとって知り合いの内の数人は持っているということだ.ほとんどの脳動脈瘤は小さく,破裂することは稀だが,それでも全ての脳動脈瘤は破裂してくも膜下出血を起こす恐れがある(というかほとんど全てのくも膜下出血は発見されていなかった未破裂動脈瘤が破裂することで起こる.逆に未破裂脳動脈瘤が無い人はくも膜下出血を起こすことはほぼ無い).
くも膜下出血を起こしてからでは遅い.MRを撮ったことがない人,特に偏頭痛に悩んでいる人(*2)は一度MRを撮ってもらうことをおすすめする.
たとえ,未破裂脳動脈瘤があったとしても,パニックになる必要は無い.5%は引くかもしれないが,スーパーレアを引くのは難しい.
(*1) 20170108修正.コメントで多数指摘があった通り「燦々」は誤字.燦々たる結果だったらよかったのだけれど.指摘ありがとうございます.
(*2) 20170108修正.偏頭痛と脳動脈瘤は無関係なのでこういった提案はおかしいという指摘があったが,その通りである.医者の言によれば,脳動脈瘤を持っている人の中には偏頭痛持ちの人もいればそうでない人も脳動脈瘤が無い場合と同じようにいるということだった.ただ,私の実体験として,脳動脈瘤の治療後に偏頭痛の発生する頻度が激減したことと発生しても以前と比べて痛みが軽くなったことから,私の場合は両者には何らかの関係があるのではないかと考えている.しかしながら,これはたかだか一個人の体験から来た本人の推量であるので,一般的な話と考えるのは無理があった.指摘ありがとうございます.
死ぬときはバタバタせずに死ぬだけだとあっさり覚悟ができるよ。
自分の場合はもう3ヶ月前かな、開腹手術中に全身麻酔が切れたときは
2日くるしんで精神安定剤処方してもらって1錠飲んだらもうあっさり治った。
しかもこれ人生で初めてってわけじゃないんだよな、そういえばこういうの前もあったわ。
いっぱい絶望したんだろう(かなり忘れてるけど)。
生きなければならないほうが絶望は深いのかも。
学習がある程度効くのと、
それ以上悪くなることはないんだからまだ楽なほうだ。
若いというのはそういう怯えも含めて若い感性と情熱を持てるんだからむしろうらやましいくらい。
幸せだったから、その環境に満足してしまい、真剣に取り組んでこなかった。
人生ってすごくちょろいと思ってた。
でも、今、自分が窮地に立たされ、迫害される立場になった時、ようやく世の中の不条理、好奇心論理的な考え方などの知力、そして力の大切さを知った。
小さい頃、大人達が口をすっぱくして説明してきたその重要さを、わかった気になっていた。
テキストの問題を素早く正確に解く能力は、必要な知力のうちのわずか一部分であって、もっと重要なものはたくさんあった。
大人のいうことに耳を傾けるべきだった。
本当はその歪みに気づいていたのだけど、受け入れられなかった。
追い詰められてようやく受け入れることができた。
受け入れたら、やるべきことが見えてきた。
そして、いろんな力や知識を身につけた。
でも手遅れだった。
それを駆使しても手に入れられないものがあった。
手に入れるたくても締め切りが過ぎていた。
もし、小さい頃から今の力があれば。
今はそれを夢想することが心の支えになっている。
しかし、その支えも風化し、支柱にヒビが入り始めている。
自分が自分の意識を観測していることや全身麻酔の経験を考えると、自分という主体は物質的なものに起因していると考えたからだ。
生まれ変わり、運良く人間として生まれてしまった場合、同じ過ちを繰り返してほしく無いという想いがある。
明日、手術を受けてくる。
これまで30年近く生きてきて、親知らずを4本抜いたぐらいの手術歴しかなかったが、いよいよ医師の手術を受けることになった。
早い話が、俺が種無しだった。
結婚して2年ぐらい、本腰入れてから半年ぐらいできなくて、試しに泌尿器科へいって精液検査したのが3ヶ月前。検査する前は、採精室に入って俺の浜崎真緒のVがあったりしてよしわかってるなと思ったとか、検査用のプラスチックカップに発射するの超むずい(皮オナ派はイク瞬間までこすり続けないとイケないんだけど最後はカップにインサートしないといけないし、カップの縁がギザギザで痛いから押し付けられないけどこぼしたら終わりだし)からTENGAは楽にする器具を作るべきとか、出したての精液を看護師さんに手渡しするとかどんな羞恥プレイ?とか、「いっぱい出たね」とか言われたらどうしようとかノリノリだったんだけど、顕微鏡の画像見せられてなんにも映ってなくて、さすがに堪えたね。
家に帰るまでも憂鬱だったんだけど、考えてみれば人生の中でこれまで大病も天変地異も綺麗に回避してきたから、こういうことがあってもおかしくないとか開き直って帰って家で話ししたら奥さんボロ泣きで、そりゃそうなんだけれど。で、手術の成功確率は3割ぐらいって言われたけれど、とりあえず可能性があるならかけようという結論に至り、(「手術受けます」って医師に伝えたら「そりゃそうだよね、でいつにする?最短は3ヶ月後だから取っとくね」ってすぐに言われて、果たして本当にそれでいいのかちょっと考えたけれど、あとから思えば悩んだらチキりそうだし、医師GJだった)AID(精子バンク使って妊娠)はしない、なかったら「2人の」子どもは諦めるという話もして、奥さんも共に不妊治療に臨んでくれるとなって、本当に奥さんと結婚してよかったなと思って。
で、いよいよ明日が手術の日で、今日が絶飲食かどうかさえ覚えてないぐらい、手術にかける思いが薄いけど、内心は結構ガクブルで、2cmほどだけどタマの皮を切るからタマヒュンもので、どうなるかわからないのだけれど、1つ救われているのは、俺がまだギリ30いってないし、奥さんも35いってないので、一般的な不妊治療の進行具合よりも超絶先へ進んでいるという意味ではある意味救われているし、現時点の不妊の原因も俺の種無しが原因ってわかっている=対策できるので救われているので、むしろよかったなあと思ってる。まだやってもないけど。
気になる人は検査行ったほうが良いぞ。羞恥プレイ付きで1万円ぐらいで一通りできるしな。
そんな俺に力をください。
<追記>6月18日20時
というわけで手術受けてきた。
うおおおおおおお、みんなのお陰だありがとう!!!!!トラバ勢残念だったなはっはっは。
忘れないうちにオペの様子も書いておく。
手術台に上がって、まずウソ発見器みたいなやつ(酸素を測る機械らしい)と左指に、右腕に一定の間隔で自動で血圧を測る機械を、胸に心電図の機械をつけたのだけれど、自分の心拍数が深呼吸や緊張具合でわかりやすく上下して思わず笑ってしまって看護師さんに不審がられた。
次いで毛を剃られ消毒液を塗られるという一通りの剃毛プレイとローションプレイをやったあと、始めますって言われて局部麻酔を打たれる。医院によっては全身麻酔にしたり局部麻酔を肩に打ったりするところもあるようだけど、今回はマジで局部(足のつけね)に打たれて、これが激痛モノ。もう余裕が一気に吹っ飛んだ。ぐおおおおおおとか唸るように痛みを堪える。看護師さんに力抜いてくださいとか言われたけどできるかってレベルで痛い。気を失うんじゃないかっていうぐらい痛い。
麻酔2本打ったところで痛みがなくなったので切り出したみたいなんだけど、まったく感覚はなくて、もちろん痛みもない。むしろたまに測る血圧計の方が痛い。で、精巣内の組織をどんどん取っていって、その度に胚培養士さんが処理→顕微鏡でチェックの繰り返し。局部麻酔なので何やっているかが全部聞こえてくる。やっぱり途中まではいまいちだね的なことを言われて、まあなと思っていたところ、先生が「これでダメだったらちょっと厳しい」といいながら大きめの組織を取って培養士さんに渡したのがわかった。
それが大当たりで、「元気に泳いでいるのもいますよ」とか聞こえて、先生からも伝えられてホッと一安心。その組織を徹底的に狙っていくことになって、粘って最終的には10本分取れたらしい。この辺りから麻酔が切れ始めて、横腹が走った時みたいに痛い→腹下した時みたいに痛いと変わりつつあったんだけど、もともとゲーリーなので十分に耐えれた。最後は盲腸やった時(この時は薬で散らした)レベルまで痛くなったんだけど、右の丸だけで済んだのでなんとか麻酔2本で耐え切った感じ。
で、待機部屋に戻ってしばらく休んでたんだけど、手術成功でハイになってて、1時間ぐらい奥さんと喋ったり本読んだりして余裕ぶっこいてたら、ハイが切れてきて、麻酔も切れてきて、坐薬入れてたんだけど痛みが盲腸のワンランクアップぐらいして、横になるより座ったほうが楽かなと思って座ったら、血圧低下で倒れた。やっぱり油断してはいかん。
なんか痛い痛いばっかり書いてて、これから受ける人タマヒュンかもしれんが、手術時間は1時間程度だし、実際今こうやって日記書けるぐらいだし、本気で痛いのは麻酔の瞬間ぐらいだし、はてブにもあるけど女性の内診や手術、出産に比べれば屁みたいなもんだと思う。それに無事出産までいけたとすれば「俺もお腹を痛めた子だ」って言えるしw 逆説的だけど、いい経験したなと思っている。これがためらっている人の後押しに少しでもなればって思う。