はてなキーワード: 親和的とは
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/twitter.com/FeminiVjp/status/1492453148807811077
grdgs いつもの釣り垢。いいねしてる人見てみたら、もへもへ、海乱鬼、Share News Japanなどに親和的な人が結構多い。あの界隈の一大勢力が晒しのためにリツイートやいいねしていると伺える。まさにマッチポンプだな。
なんかどうもアンチ受けするためにわざと過激なことを言うフェミニストに見えるアカウントというのが横行しているとのことなので、ここにリストを作っていこうかなって思います。
そういうのをフェミが言った!ってことにされるのもそれはフェミニストの人に迷惑だし、アンチの人たちもそういうのに引っかかって無駄にヘイトを溜めるのもよくないしな!
ってことはこのリストにはいる人は「フェミニストに見えるけどフェミニストではない何か」なのだろうか?あるいはフェミニストの定義とは?
広義としては彼らもフェミニストということでよくても、それがフェミニストの総意であると言われると困るわけだし、日本のフェミニストの総意とは一体どこにあるのだろうか?
一人一派ということであれば、全ての女性擁護発言はフェミニストの発言ということでいいのだろうか?(それもちょっと違う気がする)
❝ フェミニストは一人一派だから明らかなネタアカ以外はネタを認めることができない〝悪意を持ってる〟〝その疑いがある〟ことを基準にすべき❞
❝ フェミニストも資格制にしてほしい。 何時間も勉強して資格を取った人だけ、○級フェミニストを名乗れるようにして、釣りの出現を不正でほしい。❞
❝ こういうオタクの悪質なお遊びで世間からドン引きされる歴史は繰り返されるんだよな❞
❝ その集計ごっこをアンチフェミ側がやってる時点で綾野辻子とやってること変わんねえだろう 釣られる心理を見透かされたのが恥ずかしくて逆になんでもかんでもネタ扱いする作戦にしたのか おぞましいな ❞
b:id:omega314 ❝ ネタかマジかも定型か発達かもゼロイチではなくグラデーション。❞
b:id:anmin7 ❝ 綾野は論外として他はみんな立派なフェミニストやろ。他人を属性で括って見下したり罵倒したりが好きな奴がおるだけや。❞
b:id:frothmouth ❝ 一人一派ということなので❞
b:id:siesind ❝ フェミニストは一人一派だから、この人たちも間違いなく正真正銘のフェミニストですよ。❞
b:id:cara10 ❝ 価値がなくなって邪魔になったからって今まで頑張ってきたフェミニストをネタ扱いして切り捨てようとするな。可愛そうだよ❞
b:id:runeharst ❝ 最近キレ芸する芸人(フェミ)が多く目立ってるからネタ切れしてるんだろ。キレッキレだし❞
b:id:Panthera_uncia ❝ ネタでもガチでも関わり合いたくないんだけど、放置しておくと既成事実になるのがまた困る❞
b:id:Fubar ❝はてなのネトフェミを一覧にしてみました。(漏れ多々あり)https://b.hatena.ne.jp/entry/s/fubar.hatenablog.com/entry/2022/02/14/051428 ❞ ありがとうございます!
b:id:xorzx ❝ SNSの弊害なんだろうけど内輪受けでより過激化するって現象はあるよね。❞
b:id:rag_en ❝ “まじめなちゃんとしたフェミニスト”…??????????????? ❞ 言いたいことはわかる。
b:id:kou-qana ❝ 読み方がよくわからない。後でよく読む。 ❞ 読みにくくてごめん…
ttps://twitter.com/FeminiVjp/status/1492453148807811077 ❝ 【驚愕】オタクくんたちが大絶賛するサイゼリヤ、勉強のために行ってみたら...(4年ぶり) ヴィーガンが注文できるメニューが一切なし。私への配慮ゼロ。15分メニュー表見ても何ひとつ頼めない。なにこれ?もう怒りでお腹いっぱいになったので店員さんにメッセージ付き注文用紙だけ渡して帰宅した。❞
ttps://twitter.com/claw2003/status/1492793187114827776 ❝ アンチフェミやアンチヴィーガンを引っ掛けるための #なりすまし の釣り垢❞
ttps://twitter.com/jishin_dema/status/1492727761324351491 ❝ サイゼリヤはヴィーガンへの配慮が無いと言ってる人、以前鬼滅の無限列車に女性専用車両が無いのはおかしいとかも言ってたし明らかに釣りアカウントですね。❞
ttps://twitter.com/ginkanmuri_0202/status/1492689089673547780 ❝ 本当にヴィーガン生活をやっている者が、外食に出掛けるにあたり、行こうとする店の料理が自分基準で食べられるものか否かを確認もせず、案の定食べられるものが無いなどという間抜けを晒すか?❞
ttps://twitter.com/kisama888/status/1492670609985212418 ❝ このアカウント、フォローしてる245人を見たら情報商材屋系のアカウントがてんこ盛りで、フェミやヴィーガン垢がごくわずかなので、たぶんヴィーガンは芸風で炎上芸やってる人ではないかな。❞
ttps://b.hatena.ne.jp/entry/s/twitter.com/FeminiVjp/status/1492453148807811077 ❝ いつもの釣り垢。いいねしてる人見てみたら、もへもへ、海乱鬼、Share News Japanなどに親和的な人が結構多い。あの界隈の一大勢力が晒しのためにリツイートやいいねしていると伺える。まさにマッチポンプだな。❞
❝ でもわざと過激なことを言っているとしか思えないgrdgsさんあたりが強く否定しているところから考えると、逆に普通である可能性が高いとも言えるのでは?❞
言及で提案があったけど、フェミニストあるいはフェミニズム肯定派からの証言がないとフェミニストではないってことにはならないので、フェミニストあるいはフェミニズム肯定派アカの証言URL求む
❝ 三浦よしって滝ガレと遊んだりクソリプ合戦楽しんでるネタ垢っぽくて90%釣り垢だと思ってるけど疑いきれてないんだよな。例えば綾野辻子のサイゼ問題なら 「@minorit403 サイゼリヤってヴィーガン食は多いですよ。ペペロンチーノ、アーリオ・オーリオ、セロリのピクルス、ガーデンサラダ、お子様ポテト店員さんにちゃんとお反しすれば動物性のものを抜いた対応もしてくれます。私のおすすめはアーリオ・オーリオです。」とまともな事を言ってたりと普通の発言もする❞
b:id:dekamassive ❝ 三浦よしは一過性のネタ垢と思ったが想像を大幅に超えて長期間きっちりと活動してて単純に凄いと思う。ネタだとは思うが、その熱量はもはや本物だろ。ネタでなかなかやれるもんじゃないよ、アレ ❞
ttps://twitter.com/kjbhk4/status/1493596119070392325 ❝ 三浦よしの中身は多分ガレソだよ ❞ ttps://twitter.com/takigare3 この人かー。あっほんとだ「専属フェミニズムアドバイザー: @minorit403」って書いてある。あざます!
❝ 「三浦よしがたまにまともなことを言う」は、(アンフェの「まとも」の定義がよく分からんけど)ただ単に中のオッサンが三浦よしでログインしててアカウント切り替えるのめんどくせえから本音出てるだけだろ ❞ 中の人はおじさんなんすか…!どういうところがおじさんぽいんだろうか…こんど意識して見てみよう…
ttps://twitter.com/zaikabou/status/1348977539297890306 ❝ 「栗栖日那子」「三浦よし」と並んで、「綾野辻子」も釣りだと思うんだけど、一種のビリーバーの可能性も捨てきれない。そしてもはや、釣りとか釣りじゃ無いとか判定することにあまり意味は無く、行為そのもので個別に判断するしかないのだろうな❞
[grdgsさん] b:id:grdgs grdgsさんについては一部異論もあるという証言も一応併記。
[kagecageさん] b:id:kagecage
[font-daさん] b:id:font-da
[zyzyさん] b:id:zyzy (フェミニストではないという意見あり)
[quick_pastさん] b:id:quick_past (フェミニストではないという意見あり)
[RRDさん] b:id:RRD (フェミニストではないという意見あり)
❝ 勘違いしてるけどRRDさんはまったくフェミではないで ❞
b:id:deamu ❝ q氏とz氏は http://archive.is/A8v40 で挙げられ、トラバの「そのひとたちはフェミニストではありません」(300ブクマ超え)で否定された流れでしたが、いつの間にか「まじめでちゃんとしたフェミニスト」扱いへと変わったの?❞
→→→ 上記リンク先「まともなフェミニストはこれをどう思うの」というタイトルで、それはフェミニズムと呼べるのか?という矛盾をはらむいくつかの発言についての言及でした。
→→→ フェミニスト同士で意見が食い違うことや矛盾があることを僕らはどのように受け止めればいいのだろうか?
https://note.com/ky2chui/n/n8fa29651c432
僕は逆の方向から「これはフェミニストに入れたらダメ」っていうリストがあったら更に便利かも?みたいな趣向です。
❝ 「幻集郎さん」 うわダメだこりゃ❞
b:id:IkaMaru ❝ "まともなフェミニストリストは幻集郎さんが作ってます" ズコー❞
https://twitter.com/constructuralis/status/1493540218569629699
幻集郎さんのあのリストってより支持率の高いフェミニストは誰か?っていうリストなので、スコアが高いほど女性やフェミニストの支持を集めてるってことで、つまり民主主義的には、それは正しいか間違ってるかは置いといて、女性やフェミニストの意見を代表してる可能性が高いってことで、重く受け止めるべき意見を言う人ってことだよ。そういう人の意見はなんかちょっと変だな?って思ってもちゃんと聞いてまっすぐ議論しなきゃなんない。つまりそれってみんなが選挙で選ぶ議員っていう存在と同じような存在であるってことだから。ツイッターのスコアで議会政治ができるっておもしろくない?
つかはてな記法つかっても変換されなくない?僕だけ?
なんかおじちゃんたちとても楽しそうで癒やされるよ。
もうタイトルそのままなんだけど、どうしても吐き気がしてモヤモヤが止まらないのでここに書く。
その漫画は私も前から好きな漫画で、その回も非常に良く、ブコメでも絶賛のコメントが多かった。
どうしてこの人達はこの漫画をこんなに無邪気に楽しんでいるのだろう?
大多数は良い、私も同感だ、でもそのうち一部の人達は、表現への攻撃に親和的で、積極的な人達だった。
なんであなた達がコレを楽しめるの?
その漫画は結構人気だから将来、他の企業や公的な団体とコラボして、広告に出たりポスターに成る事は十分に考えられる。
そしてその時公式のイラストが採用されれば、過去の事例の様に炎上させられる可能性も十分に有る作品だ。
いつかあなたが喜んで燃やす表現を、なんでそんな無邪気に楽しむ事が出来るの?
断言するけど、その人達はその漫画が燃やされれば絶対に燃やす側に付く。
そして漫画の方も、作中の要素やイラスト、描写共に可燃性は有る。
この人達はその漫画のポスターが「悪影響が有る」と言われても、「女性蔑視だ」と言われても、「性的モノ化だ」と言われても、「ゾーニングするべき」と言われても、「環境型セクハラだ」と言われても、「性犯罪や性被害を誘発する」と言われても首を縦に振るだろう。
つまりその人達が考える所に依ると、その漫画を読んでいるご本人は今まさに悪影響を受けていて、性犯罪や性加害を誘発されている可能性が有り、女性蔑視的な性的モノ化コンテンツを楽しんでおり、ゾーニングされるべき環境型セクハラになるコンテンツが(追記・年齢制限無しで)インターネット上で公開されているのを放置している。
何考えてんの?
あなたは普段自分がしている主張が、日常のその場その場のタイミングでどういう意味を持つ事に成るのか、まともに考える事すら出来ないの?
何で悪影響が有ると思っているコンテンツを平気で楽しんでいるの?(あなた自身の考えに依れば)あなたが性犯罪や性被害の加害者に成るような欲望や偏見を刷り込まれているのに?自分だけは平気だと思っているなら、その根拠は何?
その漫画には胸が結構大きいキャラが出て来て、それが強調されるような服を着せられたり、線が入ったりしている。
そういう描写を平気で楽しんで、わざと中身のない賞賛のコメントを残して置きながら、その作品がいざ炎上したらすぐさま炎上させる側に付いて「前から問題だと思っていた」とか「公の場に出すべきではない」とかコメント出来るのは一体どういう神経なの?
そういう風に変わり身する自分を「欺瞞だ」と思ったりしないの?何故?どこまで自分に甘く、自省が出来なかったらそんな事が出来るの?
あなたは表現者の生業を奪い、場合によっては間接的に殺す、そういう選択を自ら選び取った人でしょう。
それならせめて、それに見合う態度を常に保ち続けるのが責任というものでは無いですか?何を無邪気に、他の人と同じ様に楽しんでいるのですか?
追記:
「漫画なら許される表現でも、文脈・TPOによっては不適切となる」が抗議側の主張なので、「作品のファンだがこのコラボは問題がある」という意見はこのうえなく首尾一貫している。
いや、そうとは限らないよ。
それは「不適切」「問題がある」という曖昧な表現に逃げることで、矛盾が無いように「見えている」に過ぎないケースが有り得る。
例えば「悪影響が有る」「性差別意識が刷り込まれる」等のよくある悪影響論の場合、コンテンツの中身が同じなら悪影響も文脈・TPOに依らないケースは多い、悪影響論の他にも「表現そのものが性差別、女性蔑視、性的モノ化」とする場合も同様だね、
にも拘らず「文脈・TPOによっては不適切となる」と”嘘”を吐くことで自分を誤魔化しているケースは十分に考えられる。
そうでないと主張したいなら、ちゃんと「不適切」「問題がある」の中身を明らかにして、それが本当に文脈・TPOに依存する事を示すか、せめてその検証が他者から可能な状態に置かない限りは
「このうえなく首尾一貫している」というのは単なる思い込みに過ぎない。(当然今回私はどの作品の事なのか明示していないので、これが現時点で思い込みを超える事は一切あり得ない)
↑以外にもTPO云々等の言い訳が多いので、追加で書きました。
それって本当にTPOなの?
https://anond.hatelabo.jp/20220127133753
そうだよ、僕ヤバだよ。
なりすましで署名をやったのが、いたずらか、悪意があってやっているという前提で反応があるけど、「善意」でやっている可能性は結構高いと思っている。
名古屋市の署名活動のは、既に手法化された段階のものだったけど、その手法も伝達される前の、初期段階は運動を盛り上げるための善意だった可能性は高い。
つまりフェミニズムなどに限らず、広範な人の支持を集めるための社会運動は、どうあっても迷惑な善意を無視できないもので、現在のネットの署名活動の形であるオープンレターだから起きたとか、そういう話じゃない。
多分聞いたことあると思うけど、昔の署名活動だって、普通に「家族のお名前も書いてください」とかやっている末端のボランティアとか、ほかの要件の回覧板に用紙を挟み込んで回す地域住人とか、そういう人は普通に出るわけで、本来この手の運動をよくやっている人なんかはこういう可能性を織り込んだうえで活動しているものだ。
だから協力者として公表するときは大抵裏取りというか、話を聞きに行ったりする(電話だけとかの可能性もあったりするけど)。
個人的にはオープンレターの内容はおおむね賛成派(文面には異論はあったり、タイミングやこの表明の他の利用のされ方にはいろいろ言いたいことはある)ではあるんだけど、初期段階から活動の在り方については、高校生の有志ボランティアじゃないんだからって思う所はあった。
まあいろんな意味で日本社会の組織的というか、なんというか、うーん、子供じゃないんだからさぁ。
もうちょっとさぁ……。
匿名活動に否定的な人がいるけど、今回の運営のやり方って、そういう責任を取らない匿名性の高いネット活動と変わらないんだよ。むしろ。
今回の騒動は初期からフェミニズムに親和的でありながら穏当な人がブクマしていない人が多いけど、多分そこらあたりだと思うんだよなぁ。
小学校の先生がなかなか嫌な(婉曲表現)先生で、何かにつけて「男のくせに~~するな」「男なら~~しろ」というのが口癖だった。私はその先生が本当に嫌で、誇張や比喩ではなく学校が怖くて夜にはよく泣いていたし、割と慢性的に自殺を考えたりしていた。そんな経験があったので、私がジェンダー論や性差別に興味を持つのはごく自然な流れだった。「女性になりたい」と思ったことや、「私はもしかしたら"男性"ではないのかもしれない」と思ったこともある。今となってはそれはトラウマや思春期による揺らぎの一種であったと認識していて、性自認に関しては私はシス男性だと自認しているけれども。
私の初恋は、とある絵本のキャラクターだった。絵本や児童文学を読みながら、キャラクター同士の親密な関係(カップリング)や、窮地に陥ったキャラクター(ヒロピン)などに触れて、何かいけないものを見ている気分で、こっそり楽しんだ。同級生達の、「どの女の子がかわいい」とか、「誰とそれが付き合ってる」とか、そういう話は嫌いだった。その頃から私はフィクトセクシュアルだったと思う。
当時放送していたアニメと言えば、『幻想魔伝 最遊記』とか、『しあわせ荘のオコジョさん』とか。テレビゲームだと『テイルズシリーズ』とか。そういうのを見て育ったオタクなので、「オタクたるもの、男でもBLくらい嗜んでしかるべし!」くらいに思っていたし、今でも思ってる。ちょうどニコニコ動画が流行った世代でもあって、(今の倫理観では褒められたことではないにせよ、)「ホモネタ」でケラケラ笑うのも楽しかった。
先にオタクになったのは私よりも兄の方だった。当時の私は兄を「ホモソーシャル(という言葉は当時知らなかったが)に親和的な人」と見下していたが、兄は兄で色々と思うところがあったと今では思う。兄はあまり頭が良くないので、私のように細かく言語化したりはしないが、おそらく私たちの世代の平均的な「オタク」だと思う。美少女と美少年が好きで、百合とBLが好きで、口では「恋人欲しい」なんて言うけど、内心エロゲで満足してる。そういう人。『ガンダムSEED』が「腐女子向け」と叩かれていたのを兄も知らないはずはないが、兄はそんなSEEDに心からハマっていた。『テイルズシリーズ』については私よりも兄の方がハマっていたから、いのまたむつみの美少年絵は兄の琴線に強く触れたのだろうと思う。
兄が好んだ「ちょっとえっち」な漫画やゲームを、私は内心見下しながらも、それは常に身近にあった。エロ漫画について伊藤剛先生が『MANGAの自由 平成から令和へ』の中で、「あんまいいもんじゃないだろうという感じで、手に取ろうとはしなかった。」と語っているけど、私もそういう感じ。読まず嫌いだった。でも実際にはむしろその中にこそ多様なジェンダーとセクシュアリティが描かれていることに気付いた。セックスをパロディし、時に嘲笑うことが、セックスを相対化するのだと。
少なくとも私にとって、ジェンダーやセクシュアリティの呪いから逃げられる空間が、オタク文化だった。
2ちゃんねる(今は5ちゃんねる)というのは、今も昔も治安の悪い場所だった。大学院生から「無敵の人」まで、全く知識・知能・倫理観レベルの違う人々が同じ空間で同じ顔をして過ごしている。まともな精神じゃできない書き込みなんていくらでもあったが、それはほんのひと握りの底辺の書き込みでしかなかったのだろう。そしてそんな底辺の書き込みの一つは「女性蔑視」だった。当時の私はまだ子供で、ジェンダーとセクシュアリティの話題に興味のある子供だったから、それがどうしても許せなくて、「論破しなければいけない」ものだと思い込んでいた。今思えばそれは逆効果だったのかもしれない。私が来る日も来る日も女性蔑視的な書き込みを「論破」しても、その勢力が衰えることは無かった。昨日論破したばかりの同じような書き込みを、今日も明日も繰り返すような、そんな連中ばかりだった。
しかし、ネット空間というものが、誰もが使う表の空間に成り下がると同時に、そうしたネットの闇はあっさりと自然消滅していった。厳密に言うと消滅はしていないが、その権威はもはや見る影もなくなった。犯罪や誹謗中傷は取り締まられ、多くの暴言も各種サービスの規約によって削除されやすくなった。何よりも、そのような暴言を吐くのは、少数の異常者であることが露呈した。
私は安堵した。しかし、そんな時代になっても、「表現の自由」を掲げて「フェミ叩き」を頑張っている人達がいるらしい。私は呆れた。非実在児童ポルノ騒動の時、表に立って漫画を擁護してくれたフェミニストの人々のことを忘れたのかと。
私はほんの少し、Twitterのフェミニストの人々と繋がってみた。とても勉強になる話をたくさん聞いた。その話は納得できるものが多かった。しかし、次第に違和感を覚えてくるようになった。その違和感がなんなのか、すぐに言語化することは出来なかったが、どうも彼らは「フィクションを性的対象とする」というセクシュアリティについて、全くと言っていいほど無知で、配慮がないどころか、むしろ憎んでさえいるのだ。恥ずかしながら私自身、「エロ漫画」や「えっちな表現」というものを読まず嫌いしていた時期もあるから、他人のことは言えないのかもしれない。しかし、ジェンダー論や文学を研究している大学教授などが、そうしたセクシュアリティについて全くの無知で、研究など出来るのだろうかと心配になった。そして怖くなった。現代の「ジェンダー論」というものは、そのような前提の元に立脚しているのかと。そして「エロ漫画は女性蔑視」のような前時代に封印したはずのトンデモ言説が、再び亡霊のように復活しつつあることを。あの「非実在児童ポルノ騒動の時、表に立って漫画を擁護してくれたフェミニストの人々」ですら、彼らが味方する対象ではなかった。
結局私は苦しくなってTwitterもやめてしまった。トランプが大統領に当選した時、オバマは「国の歩みはジグザグだ」と言った。もしもわたしが第三者の立場であれば、昨今のフェミニズムの暴走も、「ミソジニーに対する反動」として呑み込む事が出来たと思う。「今はまだ無知でも、時間が解決してくれる」と、民衆の成長を待つことができたと思う。でも残念なことに私は当事者だった。私は、性差別を憎む二次元性愛者の一人だった。
とにかく怖くて仕方がない。苦しくて仕方がない。そして、憎い。ああ、これは、かつて2ちゃんねるで女性蔑視の書き込みを見た時と同じ感情だと思った。
今では私は子供ではないから、もう少しだけ冷静に論じたいと思う。でも、行動を多少抑えることは出来ても、感情それ自体を抑えることは難しい。悔しいとか情けないとか。無力感とか徒労感とか。
2ちゃんねるで女性蔑視を批判した日々は無駄だったのだろうか。実際、無駄だったのかもしれない。でも、せめて、それをした私自身のことは誇りたい。誇りに思えるだろうか。彼らをのさばらせた責任の一端は、私にもある。
赤松健は「非党派的にマンガ表現規制に反対する人」としては最も政治的な力を持っていた。その力の源泉は何よりも「党派争いから中立である民間人」であるところに負っていたと思う。
いっぽう山田太郎は「表現規制反対を国会で訴える議員」であることに存在価値があった。議員でなければ彼はさほど著名とはいえない実業家であり、彼の力の源泉は議員であることそのものにある。
したがって、山田が自民党に入ったのは、まあわかる。彼は票田とするオタク界においては「余所者」だからだ。彼は赤松や竹宮惠子のように有名作品の著者であるわけでもなければ、本人が熱心なオタクであるようにも見えない。彼は「村の声を聞き、代弁してくれる国会議員」ではあっても「村の名士」ではない。彼がオタク村において有力者として扱われるためには国会議員であり続ける必要があり、そのために最も手っ取り早い手段が自民党への入党なのだろう。
それに比べて、赤松は人気漫画家としての知名度と人望を持ち、長年政界へのロビイングをやってきた「村の名士」だ。国会議員でなくともその声には重みがあるし、あくまで「村の利害」の代弁に徹し、党派的でないからこそどちらの陣営とも話をすることができた。オリジナル笑顔で駆け抜けられた。言うまでもなく、「党派的に中立であること」は山田が持ち得ない政治的資源である。国会議員である以上はいずれかの党派に所属することになってしまうのだから。
しかし、今回赤松は自民党の議員候補になることを選んだ。それは「党派的ではないこと」という彼の政治的資源を自ら捨て去ろうとする行為だ。政治に目覚めたばかりのトキメキ弾けそうなのかもしれないが、安直にすぎる行動だと思う。アンチ自民党のオタクは大勢いる。彼らは『ラブひな』や『魔法先生ネギま!』の作者の話には耳を傾けるかもしれないが、自民党の国会議員の言葉に耳を傾けることはないだろう。つまり、表現規制反対派は「どちらの陣営とも話ができる村の名士」を1人失ったことになる。かくいう増田もアンチ自民党オタクなので、残念ながら赤松には投票できない。
だが一方で、近年、フェミニズムに基づく表現規制を訴える人びとが急激に共産党や立憲民主党に根を張り、ついには先日の衆院選で共産党が「社会的合意」に基づく表現規制を示唆するに至った。言うまでもなく、到底受け入れられる政策ではない。これらの勢力の伸長が赤松に旗幟を鮮明にすることを選ばせたのだとしたら、支持できないにせよ非難もできないかなぁとは思う。ひょっとすると涙隠した笑顔に気づいてほしいのかもしれない。
それにしても、吉良よし子に1票を投じたオタクとして、彼女があんな主張をするのは本当に残念でならなかった。池内さおりの落選はシャーデンフロイデな朗報だったが、彼女に代表される路線は今後とも共産党の中枢に残り続けるのだろう。彼女たちのような勢力が実権を持っている限り、共産党への投票は選択肢に入らない。一票ごとドキドキ色づくこの選挙が未来地図になるのだから。
立憲民主党については、共産党のような上意下達型の政党ではなく、また本来の意味でのリベラリストもそれなりに多いので、選挙区では是々非々で対応することになると思う。自分の選挙区に立った立民の候補が表現規制にもオタク蔑視にも与していないならその候補に票を投じるくらいの信頼は置いている。積極的にオタク向けアピールをしろとは思わない(もちろん、してくれるに越したことはないけれど)。表現規制に賛成せず、オタクを侮蔑するようなことを選挙民に見えるところで言わないでいてくれればそれでいい。出会い系サイトを使って辞任したどこぞの元知事も、温泉むすめ関係での雑な発言などオタクを侮蔑するようなことさえ言わないのなら支持してもいいのだが、世間ではああいうことを言うと支持者が倍増したりするのだろうか。
しかしそうなると、仮に自分の選挙区が与野党一騎打ちの構図になり、自民の候補が赤松のようなオタクに親和的な表現規制反対派で、立民(or共産)の候補が池内のような限界フェミだったとしたら、投票先に迷うだろうと思う。公文書の隠滅、統計の改竄、五輪の誘致、災害対策における無能っぷり、人権条項を削ったやべー改憲案、いつまでも選択的夫婦別姓や同性婚に反対し続ける固陋さ、そういった諸点を鑑みるとどう考えても自民党への投票なんてできないのだが、しかし他方で表現規制推進派の限界フェミにも投票できるわけがないので、仮にそうなったら白票でも入れる以外に道はなさそうだ。幸いにして、増田の選挙区の立民候補はまともな人のようなので、安心して投票しているが。政策の先へJumpしたら受け止めてくれるかな?
キャンセルカルチャーをキャンセルするには?――対抗戦略の具体的検討|青識亜論 @BlauerSeelowe #note https://note.com/dokuninjin7/n/nd5ab25632c6f
これを読んで思ったことを書く。
ここでは青識氏は、松戸市を拠点に活動するVtuber・戸定梨香氏が、同市の増田かおる市議率いる
全国フェミニスト議員連盟によって「キャンセル」された事件(以下「松戸市VTuber事件」)に対し、
表現の自由を重んじる側が対抗手段として署名活動を行ったことを取り上げている。
大田区議を筆頭とした有志連合の積極的な活動によって7万1千筆以上の署名が集まり、
これは、当事者であるVTuberの運営会社の板倉社長(これも女性だ)も署名活動に参加し、
女性対女性の構図に持ち込んだ事が今回のような状況に持ち込めた理由だと考える。
もし、板倉社長が私のような「キモいおじさん」だったとしたら、
今回のように、フェミニストへの疑問の声が7万1千筆も集まっただろうか?
答えは否だ、と私は思う。
結局、表現の自由でさえも、弱者を旗印に立てないと、有効な戦術を採る事は出来ない。
更に言えば、火付け人である全国フェミニスト議員連盟は、今もって沈黙を貫いている。
市民の一票を預かる代議士としてどうなんだ、という批判も当然あろうが、
7万1千筆の署名をもってしても、全国フェミニスト議員連盟からは質問状の撤回はおろか、
ステートメントの1つも引き出すことは出来なかった。
署名運動は確かに、「数」という明確な数値で、「空気」に抗いうる手段であっただろう。
しかし、今回のように、
①当事者が賛同しており②署名運動にかかわるキーパーソンがおり③明確かつ妥当な目的がある
これらの条件が奇跡的に揃った状況でさえ、フェミニスト議員連盟に対する「勝利」は得られなかったことを、
発起人である青識氏にはきちんと総括して欲しい。
これについては、青識氏の指摘は一部で的を得ているといえる。
『炎上の担い手であるフェミニストや左派は、必ずしもBL系コンテンツの消費者ではない』
これはその通りだ。極まったミサンドリストは、創作上であっても男性の登場を嫌う。
しかし、例えば社会学者・金田淳子氏の著作「『グラップラー刃牙』はBLではないかと1日30時間300日考えた乙女の記録ッッ」を
キャンセルできれば、一罰百戒、フェミニスト側の不正義を明らかにすることができるのではないだろうか。
只でさえ、社会学系論文は査読にさらされる機会も少なく、アクティビストの色を強く持つアカデミシャンであれば
あるほど、自著によってその論拠を置く事が多い。
ゆえに、正当な、学術的手段で彼ら/彼女らの権威を削ぐ事は極めて難しいを言わざるを得ない。
http://sociology.jugem.jp/?eid=277
ならば、BLではなく、その自著を1冊1冊炎上させることで、彼ら/彼女らの権威を削ぎ、
「社会学・何するものぞ」という機運を醸成していくことは可能だと考える。
(具体的にそれらをどうやって炎上させるのか、という方法論は検討する必要がある)
**【戦略3:キャンセルカルチャーを克服する「新しい文化」の創出】
「実際に消費することによって支援し、「プラス」を届ける戦略もまたありうるのだ」
「キャンセルで生じる損失の何倍もの経済的利益が生じ、何十倍もの暖かな言葉が届けられる」
私は、これこそが一番馬鹿げていると思う。
何故なら、私達オタクがいくらお金を注ぎ込もうとも、「キャンセル」の波は止められないからだ。
フェミニストたちは指先一つで生み出したツイートで経済的・社会的損害を与える事ができる。
確かに私も、碧志摩メグのクラウドファンディングに参加し、支援を行った。
しかし、彼女は今もって、当時のキャンセルによって剥奪された「公認」を取り戻してはいない。
「クラウドファンディングをやります!」
「買って応援!」
聞こえは良い。だが、フェミニストとオタクの間には、「キャンセル」と「支援」の間には、
絶望的なまでのリソース格差が存在することを忘れていないだろうか?
フェミニストは、クラウドファンディングで幾らお金が集まろうが、署名が集まろうが、
フェミニストは、「私達のおかげで知名度が上がり、アップデートできたね!」とまで嘯きながら、
最近は最大野党である立憲民主党も、フェミニストに取り込まれて、その勢力に親和的なツイートや、
政策の打ち出しを行っている。
それに対して我々はどうだろう?山田議員や藤末議員が積極的に動いていただいているものの、
青識氏の唱える「エンカレッジ・カルチャー」が根付くまでの間にも、
しかし、もし次に私の好きなコンテンツが焼かれたとして、その仇は誰も取ってくれないのである。
青識氏でさえも、「エンカレッジカルチャーが根付くまでの辛抱です」として、
達成条件のわからないゴールを呼びかけるのだ。
私は問いたい。
LIVE HAUS店長のスガナミユウ氏が「誰が踏みつけられているか」と題するnoteを公開した。
https://note.com/yusuganami/n/n78c9b96cb4be
https://medium.com/@sos.yu.lh?p=8926b83122e
私は彼の所属するインディミュージシャンコミュニティとでもいうべき界隈に属しているが、周囲の反応は絶賛の嵐といって良い状況だ。noteのリンクを張ったツイートには大量のいいねとリツイートがあり、批判らしき反応はほとんど見受けられない。これはかなりマズイよなーと感じてこの文章を書いている。
まず、前置きとして、このnoteに対する私のスタンスを書く。ちょっと長いので興味がない方は適宜とばしていただけるとありがたい。なお、文中の”リベラル”とか”アンチリベラル”といった記載は一般的にリベラルっぽい仕草・アンチリベラルっぽい仕草と受け取られがちなものとでも思ってほしい。
「誰が踏みつけられているか」はスガナミユウ氏が選挙中の市民運動を通して感じたことを書いている。その内容の主題は、日本にはまだまだ差別や不平等(特に男女差別に着目している)が残置していること、そして特権的な立場にいるスガナミユウ氏をはじめとした「おじさん(大人のシスジェンダー男性)」への自省を求める内容である。スガナミユウ氏はこのnoteを「知り合いのすべての男性に読んで頂きたい」という文章を添えて公開した。もっと言えば、(男女間等において)日本に差別や不平等がないと主張する男性、あるいは女性やLGBTなどの差別のみがピックアップされることに不満を感じている男性を説得しようとする文章であるだろう。 何がマズいと感じたかって、このnoteはスガナミユウ氏の周囲に多い所謂”リベラル”思想に親和的な層には受けても、本来のターゲットであろう”アンチリベラル”な層からは反発しか生まないような内容になっていたからだ。スガナミさんとは親しくこそないものの何度か会話したことはあり、政治思想の差異こそあれど、頭が良く一定のバランス感覚がある人物だと思っている。彼は社会を良くしようと考え、実際に行動に移してきた尊敬すべき人物だ。そんな彼がこんな内側にしか向かないバランス感覚に欠けたnoteを書き、それが大絶賛されている状況は本当に良くない。近年勢力を増した過激なラディカルフェミニズムは強烈なバックラッシュを生み、ミソジニストを増やす原因となったと考えているが、このnoteはそんな流れの延長線上にあると感じる。
わたしは男女平等の実現を望む一人として、このnoteの内容を批判したいと思う。私たちは完璧でないがゆえに、時に差別的であったり配慮に欠ける言動をしてしまうが、個別のそれに対して苛烈な批判を浴びせるのは適切でない。なにより問題なのは、その問題がある発言を周囲が容認してしまうことだ。スガナミユウ氏個人を非難することにあまり意味はないが、このnoteを無批判に受容してしまうコミュニティは大変問題があると感じたのがこの文章を書くにあたった経緯である。
まず、なにより批判したいポイントは、氏の主語の広さである。冒頭で過去のツイートで『おじさん』や『女性』と太字でまとめたことを指して、配慮に欠けたと反省しながら、結局のところこのnoteは「おじさん(大人のシスジェンダー男性)」を特権的な存在として雑にくくってしまっている。
大前提として現代の日本社会は男性が有利な傾向にあることは私も同意する(特に経済的な側面において)。しかしそれはあくまで傾向の話である。割合は適当だが、例えば7割の大人のシスジェンダー男性は平均的なその他のジェンダーよりも恵まれているかもしれない。しかし残りの3割はより不遇な立場にあるだろう。傾向の話だけでも、シスジェンダー男性の平均が不利な傾向にある場面も多々存在する。死亡率の高い労働は男性比率が圧倒的に高いし、自殺率もホームレスの数も男性が上だ。職業的な話でも、例えば保育士になるハードルは男性のほうが圧倒的に高いだろう。当たり前ではあるが、切り口はジェンダーだけだはない。年齢・健康・容姿・性格・能力・人種、なんでも良いが差別や不平等を生む原因は無数にある。これらの意見は典型的な”アンチリベラル”の物言いだと感じるかもしれない。しかし彼らを説得したいのであれば当然このような主張に対する応答は必要なはずだ。なにより”アンチリベラル”が怒っているのは、”リベラル”が特定の差別や不平等だけに着目し、それ以外を矮小化・無効化しようとする態度だろう。ここを無視して「おじさん」は特権的な立場にあるとだけ言っても当然反発を生む。典型的に”リベラル”には受けるが”アンチリベラル”には説得的でない主張となってしまっている。ある側面における男性優遇を批判するにしても、それは慎重に対象を選ぶ必要があるはずだ。
次に批判したいポイントはバズワードになりがちな「平等」という語句をどのような意味で使っているかが何ら書かれていない点である。性差別に関する論争でよくあるのが、”リベラル”は(結果平等を指して)「日本社会において男女は不平等である」と言っているのに対し”アンチリベラル”が(機会平等を指して)「日本社会において男女は既に平等である」と言い合い、すり合わせもないまま不毛な罵倒合戦をやるパターンだ。氏は文中において、差別・不平等が残置されている例として選択的夫婦別姓・同性婚・LGBT平等法が実現されていないことを挙げているあたり、結果平等を念頭に置いてこの文章を書いているのだろうが、”アンチリベラル”の多くの反応は「法律的にはどれも男女間で差異が無いのに何を言っているんだ?」というものになるだろう。細かいことをあげつらっているように感じるかもしれないが、やはり対抗論者の考えを想定していない内向きの文章になってしまっている。そもそも例として挙げられている選択的夫婦別姓・同性婚・LGBT平等法をジャンダー感の不平等という文脈で扱うことに個人的にかなり違和感があるが・・・・・(ジェンダー間の問題もあるだろうが、それ以外のイデオロギーの違いによるものがよほど大きいのではないか)。
最後の批判として、氏が「おじさん」に対する差別に無批判な点である。私が気になったのは『みんなの未来を選ぶためのチェックリスト』の記者会見において町田彩夏氏が受けたマンスプレイニングに関して言及している箇所だ。記者のマンスプレイニングに対して町田彩夏氏が返した「あらためてこの場において、特定の、所謂、ある年代以上のおじさんたちが司っている”国会”というのは日本社会に重なるものなんだなということを実感いたしました。ありがとうございました」という発言はマンスプレイニングを行った記者個人の言動を広げて「ある年代以上のおじさんたち」一般に拡大した差別的な発言である。大前提として、私は町田彩夏氏を非難する気は毛頭ない。記者のマンスプレイニングは本当に酷いものであるし、その反論が皮肉交じりになって問題のある表現が含まれてしまうのは理解できる。氏の毅然とした対応にむしろ好感を持っている。前置きでも書いたが、私たちは完璧でなく、時に差別的であったり配慮に欠ける言動をしてしまう。個別のそれを非難しても建設的ではないし、重要なのは周囲でありコミュニティがそれを容認しないことだと私は考えている。このnoteがジェンダーの不平等を訴える内容である以上、この町田彩夏氏の発言に対しスガナミユウ氏が言及しないのは不誠実ではないだろうか。少なくともその非対称な振る舞いは”アンチリベラル”が反発する最もたるものだと感じる。
ここまで読んでいただけるとわかると思うが、「誰が踏みつけられているか」はとにかく説得対象である”アンチリベラル”的な考えを持った対抗論者の思考をトレースできていないと感じる。そして自分と同じ”リベラル”的な思想だけを考慮したこのnoteは”リベラル”内でだけ盛り上がり、”アンチリベラル”には反発され、結局のところ分断だけを生むものとなってしまっているのではないか。誰かを説得したい時には、賛否はともあれまず相手の主張を理解するところから始めるべきだろう。この「対抗論者の考えをトレースするのが絶望的にできていない」点は近年のリベラル勢力に多い典型的な欠点だ。上記の私の批判にも多々問題はあるだろうが、少なくともこのnote「誰が踏みつけられているか」が無邪気に賛同一色となるコミュニティは絶対に健全でないと思うのだ。なんだかんだと書いたが、私自身はどちらかと言えば”リベラル”に親和的な考えを持っている。スガナミさんの主張に賛同するところは非常に多いし、全体的に見て日本社会は男性優遇の傾向にあると考えている。しかし社会は多面的で、一概に男性、女性、LGBTとくくってしまえるような問題はほとんど無いはずだ。いまいちど”リベラル”は自分自身の思想を俯瞰して考えられるようにならないと、本当にマズイ。
だから生きた人格のある人間とセックスする方がはるかにキモいし性暴力と親和的だと何度言えば。
20代前半の大学生や新入社員を泥酔させて「同意」を捏造してレイプするのが対人性愛者。
「同意があればセックスしても誰も傷つけない」とかいう言い訳をいつまで続けるつもりなんだろう。自分の身勝手な欲望が社会にどんな悪影響をもたらして、それがどんな被害を産むのかということに自覚的であって欲しい。
そもそも同意を得るためにセックスの話を他人に持ちかけること自体がセクハラだろ。
それに比べてエロ漫画やドールを性的対象とする文化による悪影響なんて瑣末なものだし、真面目な小児性愛者のように対人性愛者もエロ漫画やドールを代替品として満足できるように意識をアップデートするべき。
なんか「オタクは統一教会に取り込まれてる!」って話が盛り上がってるけどさ、
それを言うならリベラル・フェミニストさんたちも大概なんだよね。
オリンピックに乗じてコンビニからエロ本を排除しようという運動、統一教会が煽動してたじゃん。
あれは実際に排除されて(劇画系が復活したりしてますけど)、ポリコレやフェミニズムの成果の一つということになっているけど、運動のきっかけ、コアな部分には統一教会が噛んでいる。
「本当の表現規制は保守・カルトがやること!」ってよくフェミ・オタク系の喧嘩でフェミニスト側が言うけど、
統一教会の運動に乗っかってコンビニからエロ本排除して世の中が綺麗になったって喜んでるなら同じ穴の狢じゃないですか?って思っちゃうよね。
自分に都合の良い運動ならカルトでも乗っかるっていうのは派閥陣営問わず両方やってるんですよ。
「統一教会がどれだけ危険かわかっていない!オタクやVtuberは脇が甘すぎる!」って言ってる人も脇が甘いよ。
だいたい「オリンピックやるから世界に恥ずかしくないように街を浄化しよう」なんて完全に保守・パターナリストの言い分だし。
矯風会の廃娼運動が「醜業婦が公然と存在するのは日本の恥だから」という理由で駆動していたのと似てるよね。
そんでフェミニズムの中で少なからぬ存在感を示してしまっているTERFにしたって、
「左派はトランスジェンダリズムに親和的だから右派に頼るしかない!」っつって反トランス言説読むためにWiLL買ったと報告してるネトフェミがいたりするわけじゃないですか。
フェミニズムのためにWiLL購読するフェミニストって意味わかんないけど、彼ら彼女らの中ではそれは女性の安全のために正しい行いということになっている。
TERFのインフルエンサーが翻訳したりして拡散する海外の反トランス言説にしたって、トランプを支持するネトウヨメディアなんかがかなり含まれているんですよ。
はてなの一部の方々もこういうのに簡単に乗っかって「女性の安全が大事だ!」ってやっちゃってますよね。
まあその辺のネトフェミだけでなく名のある学者なんかがこういうのを拡散してるのが本当に危険だと思うんですが。
トランプと言えばQアノンにしても日本で最初にリーチしたのは山本太郎れいわ支持者界隈だったりします。
Jアノンが大規模すぎて忘れられてるけどね。
今回の統一教会の話にしたって界隈まとめて「取り込まれてる」ってほどのもんでもないと思いますけど、
それを「取り込まれてる」と言うならあなた方の側にしたってもう随分「取り込まれてる」んじゃないですか?って思います。
まあカルトは左右問わずどこにでも浸透しようとしているし、ときに浸透してますよという話。
cloq 陰謀論の特徴の一つに「敵」のサイズ感が大きすぎる=裏で全部つながっていてなんでもかんでもできちゃう、ってのがあるからなあ(その意味では増田の主張もやや危うい)
いや、その程度で界隈全体を「カルトに取り込まれてる」って言えるなら、
それを言ってるあなたたちも同じくらいには「カルトに取り込まれてる」って言えるんじゃないの?っていうのがこの記事の言いたいことであって、
別にカルトがリベラル・フェミニスト陣営を裏で操っておりカルト思想に染めようとしているとか主張してるわけではないですが……。
『公助は削って、福祉は家族による相互扶助を基本とする』に対して、そんなことしたら社会が貧困化するよという主張が感想レベルだからダメですかそうですか。そもそも自助や互助で貧困は防ぎきれず、その貧困への対策が共助、公助なわけなんだけども。こんなことは常識の範疇と思っていたよ。
この自助・共助・公助という3分論は、自民党の綱領(平成22(2010)年)で政策の基本的な考え方として採用されている。「自助自立する個人を尊重し、その条件を整えるとともに、共助・公助する仕組みを充実する」とある。菅氏の発言は自民党員として、党の綱領に忠実であったともいえる。また、社会保障制度改革推進法の第2条には、「社会保障制度改革は、次に掲げる事項を基本として行われるものとする。一 自助、共助及び公助が最も適切に組み合わされるよう留意しつつ、国民が自立した生活を営むことができるよう、家族相互及び国民相互の助け合いの仕組みを通じてその実現を支援していくこと。」とあり、法律の文言にもなっている。
総理大臣になった菅氏が、この社会像としての3分論を具体的な政策の中でどのように生かしていくのかは分からないが、これまで、介護保険制度の創設と運用にかかわり、自助・互助・共助・公助という4分論を唱えてきた筆者としては、共助の主体に地域とともに家族が含まれていることと、地域以外に共助の主体が想定されていないことに若干のコメントをしておきたい。
われわれは、人生の途中で、老化に伴う日常生活上の困難や思いがけない病気、事故、災害など、さまざまなリスクに直面する。このように何か問題が生じて解決を迫られたときに、まず、本人が自助努力で対処する。しかし、それでは無理なときは、本人の身近にいる家族・友人・隣人などが手を差し伸べる。これがインフォーマルな支援、すなわち互助である。自助と互助ではカバーしきれない場合にはシステム化された地域・職域の自治組織が支援する(共助)。この共助システムではなお解決しえない場合に行政が支援する(公助)。この4分論も、いわゆる補完性の原則に基づく社会形成の考え方であるが、自助と共助の間に互助を考え、共助としては地域以外にも社会保険を想定している。
個人が直面するリスクを、その本人の自助努力だけで克服せよというのは無理な話で、社会は、何らかの形で共同してリスクを分担する仕組みを備えていなければならない。自助から出発するにしても、自助の次に互助を想定せず、家族の支えを「共助」に包摂してしまうと、例えば、いつまでたっても家族を老親介護の責任から解放できないのではないか。家族は大事だが、それに頼りすぎては家族が参ってしまう。
互助は、自発性とゆとりと思いやりに基づく支え合い活動であって、その活動範囲も支援能力も限定的である。それは、家族・友人・隣人が無償で行う支援活動であるからである。しかし、自助のすぐそばに、この互助が息づいていることが自助の励みになるのである。老いて心身が弱っても、自分の生活に関することは自分で判断し、できるだけ自分で行おうとする個人の自助努力を尊重し励まし支援する、それが互助の意義である。自然災害のときにも、真っ先に頼りになるのは自助と互助の結びつきである。新型コロナ禍の困難の中でも自助に寄り添う家族・友人・隣人の親身な支援こそが大事である。
わが国にはシステム化された地域の自治組織として、自治会・町内会があり、近年は地域運営組織が台頭し、これらは市区町村行政と相互関係をもって活動している。この地域が共助の主体として期待されている。ただし、同じ共助のなかに、リスクを共有するもの同士で助け合う社会保険制度が存在し、国と自治体の行政(公助)が関わっているから、共助の主体は地域だけではない。共助システムである医療や介護の社会保険制度は、経費の約半分を国と自治体の公費(租税)で賄っているし、介護保険では保険者を市区町村にしているから、この共助システムは共助と公助の混合型といえる。それだけに、公費負担をしている国から、システム運用を通ずる効率化圧力が絶えず加えられる結果、公助から共助へ、共助から自助へとリスク負担を逆流させようとする動きが出てきやすい。要注意である。
共助、公助の成り立ちと役割については、このリンク先の厚生労働省白書に良くまとまっている。https://www.mhlw.go.jp/wp/hakusyo/kousei/12/dl/1-01.pdf
(工業化に伴う人々の労働者化により、血縁や地縁の機能は希薄化した)
産業資本主義の社会では、企業が潰れたり、解雇されれば失業してしまい、また、けがや病気などで働けなくなった場合、労働者は所得を得られなくなる。その一方で、労働者が血縁や地縁の関係から一定程度独立した結果、それら血縁や地縁で結ばれた人間関係を基礎とする支え合いの機能は、近代以前の社会と比べて希薄化しているため、個人にとって、生活が立ちゆかなくなってしまうリスクは大きなものとなる面があった。また、産業資本主義の社会では、労働力の商品化の結果、モノやサービスの生産が「使用者-労働者」の関係を軸に展開するようになる。近代以前の社会と異なり、労働者は自己の労働力以外に機械や原材料などの生産手段を持たない。生産手段は使用者(資本)によって所有され、労働者はそれを借用しながら自己の労働力を提供する。この関係の下では、自ずと労使の力の差が生じる。使用者に比べて力の弱い労働者は、低賃金、長時間労働という劣悪な労働条件を強いられ、解雇のリスクにさらされるようになる。過酷で貧困な生活を送る労働者は増え、労働問題が大きな社会問題になっていった。労働者たちは、同業者の間で相互扶助的組織を設けるなどして生活上のリスクに対応してきたが、これらの組織に加入できたのは、経済的に多少の余裕のある熟練労働者などに限られ、多数の非熟練労働者などは、それらの組織に加入することができなかった。
(近代的な社会保障制度の創設はドイツから始まり、欧州各国に広がっていった)
近代的な社会保障制度が世界で最初に創設されたのは、大陸ヨーロッパのドイツであった。ドイツでは、19世紀終盤に、帝国宰相の地位にあったビスマルク(Otto von
Bismarck, 1815-98)により、法律上の制度として世界で始めての社会保険制度(疾病保険法(1883年)、労災保険法(1884年)、老齢・障害保険法(1889年))が制定された*3。社会保険制度は、事業主の負担と併せて被保険者(労働者等)自ら保険料を負担(拠出)することにより給付の権利を獲得するという関係があるため市場整合的であるとして、多くの工業国で社会保障の手法として第一義的に選好される傾向が強いものとなっていった。そして社会保険による給付は、市場経済的な権利関係の裏付けを欠くために、社会の負担、あるいは自助能力を欠く者との差別や偏見から逃れられず、受給にスティグマ(汚名)が伴っていた恩恵的・救済的福祉の給付とは異なっていた*4。また、あらかじめ生活リスクに備える点で、それまでヨーロッパ各国で主流であった事後的な「救貧」施策から事前の「防貧」施策への第一歩を踏み出した点でも大きく評価された。
(略)
(社会保障は、個人の生活上のリスクに社会的に対応する仕組みとして求められるようになり、産業資本主義の社会と国民国家の発展を支えていった)
このように、産業資本主義が発展する中で、血縁、地縁がそれまで果たしてきた人々の生活を保障する機能は限定的なものとなっていった。それらの機能を代替するため、傷病、老齢、失業などのリスクに公助又は共助という形で社会的に対応する仕組みが必要となり、現在に通じるような社会保障制度が求められるようになったといえる。
そして、社会保障が血縁や地縁の機能を代替*8することにより、人々は経済活動に注力することができるようになったという意味で、社会保障は産業資本主義の社会、国民国家の発展を支えていったともいえる。
(世界恐慌から第二次世界大戦までの間に、戦後社会保障の構想が練られていった)
1929年には、アメリカのニューヨーク証券取引所での株価の大暴落をきっかけに世界恐慌が発生した。その影響は大変大きなもので、1930年代には各国で多くの企業が倒産し、街は大量の失業者で溢れ、社会不安はますます増大した。
(略)
ケインズの理論によって完全雇用に近づければ、失業給付を激減させ、なお残る失業者に手厚い給付ができ、また、社会保障によって全国民に最低限度の生活を保障すれば、有効需要が増え、さらに失業者が減る。このように、ベヴァリッジとケインズの考えは互いに補強しあう関係にあった。これは「ケインズ・ベヴァリッジ主義(体制)」、「福祉国家の合意」などと呼ばれる。その後、ベヴァリッジは、第2次世界大戦中の1942年に、いわゆるベヴァリッジ報告(『社会保険および関連サービス』)を英国政府に提出し、「ゆりかごから墓場まで(Fromthe Cradle to the Grave)」のスローガンの下、新しい生活保障の体系*10を打ち立てた。このベヴァリッジ報告の影響を大きく受け、第二次世界大戦後には世界の多くの資本主義諸国で、経済の安定成長と完全雇用*11、国民福祉の充実を目指す「福祉国家」の潮流が広がっていった*12。
(戦後、どの先進諸国にとっても社会保障は不可欠なものになった)
(1970年代―オイルショック後の経済成長の鈍化等により、社会保障・福祉国家批判は大きな潮流になった)
(1980年代―新自由主義的な政策が採用され、社会保障・福祉国家の「見直し」が行われた)
(新自由主義的な政策は、経済のグローバル化の趨勢とも親和的だった)
(社会保障・福祉国家の「見直し」がもたらした弊害は大きなものだった)
(当初の「見直し」という目的が実際に達成されたかについても、見方は分かれる)
(1990年代以降、社会保障の重要性が再認識され、過去に指摘された問題点に応える努力をしながら、社会保障・福祉国家を再編成する時期に入っている)
(今日では、社会保障は様々な機能を持っており、私たちの経済社会に欠かせない重要な仕組みである)
今日では社会保障は、個人の視点からみれば、傷病、失業、高齢など自活するための前提が損なわれたときに生活の安定を図り、安心をもたらすことを目的とした「社会的セーフティネット(社会的安全装置)」という機能を果たしている。また、それを社会全体としてみれば、所得を個人や世帯の間で移転させることにより貧富の格差を縮小したり、低所得者の生活の安定を図る「所得再分配」や、「自立した個人」の力のみでは対応できない事態に社会全体で備える「リスク分散」という機能を果たしているといえる。
さらに社会保障は、必ずしも恵まれない人たちにも社会の一員としての帰属意識を共有してもらうことで社会的な統合を促進させる。また、消費性向が高い低所得の人たちに所得移転し購買力を高めることで個人消費を促進したり、医療、介護、保育などの社会保障関連産業における雇用の創出を通じて経済成長にも寄与する。こうした「社会の安定及び経済の安定と成長」といった機能も果たしている*20。
このように、社会保障は私たちの経済社会にとって欠かせない重要な仕組みとなっている。だからこそ、支え手である現役世代(働く世代)の人口が減る少子高齢社会において、どのようにして持続可能な制度を構築していくか、若年者等の失業問題や社会的弱者が孤立を深める状況(社会的排除)を改善するためにどのように社会保障制度を機能させていくべきか、経済のグローバル化に伴う国際競争の激化が雇用の柔軟性や流動性を要求する状況など社会保障が前提としてきた雇用基盤の変化や経済の低成長が続く中で、どのような所得再分配や雇用政策が適切なのかといった点は、先進諸国にとって、重要な政策課題となっている。
社会は貧困化するの件が感想でしかないので、感想に対する反論などありません残念でした
人生に遅いということはないよ