はてなキーワード: 親和的とは
スタジアム建設という大規模なハコモノ行政を実現しようとするのは大体が自民党あるいはそれに親和的な方針の首長なので、反対運動は共産党としては格好の活躍の場になる。
現代にあって大規模な総合競技場が新規に建設されることは珍しいので、畢竟反対運動の対象はJリーグの公式戦に使用可能な水準のサッカー専用スタジアムになりがち。最近だと三ツ沢とかね。
おなじく自民党が推進したサッカーくじにも反対していた。上のURLは2004年だが、下の2020年でもまだ反対してる。
「4年目の実施にあたって」
https://www.jcp.or.jp/web_policy/2004/03/post-272.html
なんだっけ
https://www.jcp.or.jp/akahata/aik20/2020-12-06/2020120603_02_0.html
そもそも「勝手にやってきて勝手に活動している、現地の人たちの意向とは違い、現地に寄り添っていない」かどうかも外部の想像だろう。(むしろそうあってほしい、という外部の願望が見える)
地元民ですがあの人たちは寄り添っていません。一部の人と目的が一致しているだけです。
沖縄の歴史や風土や宗教や生活を知っていたとしても、沖縄で生まれ育った人間と価値観を共有できる訳がないので、本当の意味で寄り添うのは不可能です。
何より内地の人は沖縄でやらかしても帰れる地元がありますよね?
「ヤバくなったら地元に逃げる」というナイチャーをたくさん見てきたので、内地からやってきた基地反対派もそういう目で見ています。
現地の人だって一枚岩じゃない、活動家に対して親和的な人もいるだろうし、反発を感じる人もいるだろう。それを外部が分かったように語ること自体が、現地の感情を蔑ろにしているんじゃないか。
一枚岩じゃないのは事実です。それが分かっているなら、最初の「外部の想像」というは「分かったように語る」ことじゃないですかね。
はてなブックマークやTwitterなどで、「中立」「客観」と言った態度について批判的に論じるものをたびたび見かける。特に、差別や政治など、権力闘争の類で非対称性が存在するときによく使われるイメージがある。それらについて私なりに論点を整理してまとめ、コメントしようと思う。これらの論に親和的な人も、逆に批判的な人も読んでほしい。
まず、当たり前の話なのだが、何かを批判するときは通常複数の論点から批判できる。
例えば、社会民主主義は新自由主義の立場からすれば「市場が政府権力によってゆがめられ、効率的な資源分配が出来ない上に政府権力が不健全に増大する」と批判できるし、共産主義の立場からすれば「結局彼らは資本主義や自由市場と言った搾取を『多少マシ』にしている程度であって、本質的解決には役に立っていない。どころか、革命に向かう人々を減らすという点で有害ですらある」と批判できる。
これを見て、もし社民主義者の人が「アンチ社民主義者は矛盾している。市場原理主義みたいなことを言いながら、資本主義を否定している。彼らは矛盾している」と言うのがおかしいというのは分かるはずだ。あるいは、「新自由主義者は社民主義を批判している。これは共産主義者と同じだ。よって新自由主義者は共産主義者なんだ」もおかしいとわかるだろう。
インターネットではそれぞれの発言と発言主が結びつかず、なんとなく「自分の考えを非難する人」を全部同じカテゴリに放り込む処理をしてしまいがちだ。(なお、話をややこしくするのは本当に矛盾した意見を言うやつも一定数存在することだ)
そんなわけで、いわゆる「中立」「客観」批判者は皆「お気持ち」(ここでは、自分の快不快の問題をシームレスに社会的な問題につなげて、自分の感情に社会が従うべきだ的な発想を持っている人)の人たちだ、という雑な世界観を持っている人も多いが、ここで「中立」「客観」批判の理屈に触れて、「なるほど、こいつらはこういう理由でそういっているんだな。(自分は賛同できないにしても)まあ理屈は分かるな」と思ってくれれば幸いである。
これは厳密には『中立』『客観』を否定していない。どころか、不徹底な『中立』『客観』を批判し、本物の『中立』『客観』を目指そうとする方向性も見受けられる。
実際問題、はてなやTwitterでは、『中立』『客観』(それからこれと似ている『是々非々』など)を「右」と「左」(あるいは任意の対立する二大勢力)のどちらも全肯定/全否定しないことだと思っている感じがする人が複数見受けられる。まあ確かに、「右」のいう事を全肯定/全否定、とか、「左」のいう事を全肯定/全否定すると最初から決めてかかるのは紛れもなく党派的な姿勢であり、中立的でも客観的でもない。しかし、そもそも「右」がどうとか「左」がどうとか党派性を意識し、この二者のいう事には従わないぞ!みたいに決めてかかっているのは、全く同じではなかろうか。ようは、「中道」という第三の党派に過ぎない。そうではなく、中立や客観というものに自分は完璧に到達できないのだという事を自覚し、他人が中立的であるか客観的であるかは究極的にはジャッジできない(もちろん明らかにこいつ主観的に過ぎるやろみたいな人はいるけど、そう思っている私の方がおかしい可能性は否定できない)という事を踏まえなければ、「中立」「客観」という言葉は単なる党派性の御旗にしかならない。
これは実のところ、「正義の暴走」論とよく似ている話だ。正義の暴走を非難する人は正義が嫌いなのではなく(まあそういう人もいるが)正義のために正義の暴走は抑止した方がいいという話をしている。正義の暴走とは、やっている本人たちが勝手に正義と思っているだけで、実際には悪である、というロジックだ。同じように、「中立」「客観」の濫用を非難する人が「中立」「客観」を否定していないのも当たり前の話だ。彼らが否定しているのは「中立」「客観」を装った「党派性」「主観」だからだ。(面白いのが、「正義の暴走」論を持ち出す人の多くは「中立」「客観」の濫用の問題を考えず、「中立」「客観」を批判する人は「正義の暴走」論を持ち出されると不満を表出することが多い事である。両者はほぼ同じことを言っているのだが)
まあ、つまりこの批判は「お前は自分が客観的と思ってるかもしれないけど本当は違う(かも)しれないぞ!」というものである。個人に向けるときは喧嘩する気がなければ使わない方がいいとは思うが、一般論としては(特にわたしのような『中立』『客観』が大好きな人間ほど)よく頭に刻んでおいた方がいいと思う。
こちらは、『中立』『客観』的な態度を、ある一分野のみについてとはいえ明確に否定している(と私は思う)ので、論点①とは様子が違う。
まあ言っている事は正直分からなくもない。この手の人たちが良く比喩として使うように、「足で踏んでいる人と踏まれている人」の間で『中立』『客観』的な議論を成立させろ、というのは無茶である。差別されている人と、その差別をたとえ直接はしてはいなくても差別によって得られる利益を(その自覚なしに)享受している人の関係は、「足で踏んでいる人と踏まれている人」のそれよりはるかに複雑で見えづらいものがあるが、似たような関係性であるという事は、その是非は別として、可能ではあると思う。なので、倫理的な個人が差別問題について論じるときはその辺に気を付けて論じてもよい、論じた方が好ましいくらいのことは私も思う。
しかし、この考えを強い規範として言論空間に導入することに対しては私は警戒心を抱く。
「誰が加害者か」「誰が被害者か」「どこからどこまでが『差別問題』か」「どんな事実を適示すればそれが『被害者非難をあおっている』と言えるか」
これらをみんなが納得いくように定めるのは非常に難しい。間違った基準を定めてしまえば、例えば本来「被害者」である人たちを「加害者」として力づくで非難する事や、本来「加害者」である人たちの罪悪を「被害者」として覆い隠すこともありうる。「被害者」「加害者」の推定が正しかろうと、「被害者非難をあおっていると言える事実」と認定されたものがもし違えば、その事実は公論上での扱いが不当に小さくなりかねない。差別発言自体は言論の自由で守る価値はまったくないのだが、論点②の批判が拡大すると差別発言以外も巻き添えになるリスクがとんでもなく大きくなりそうである。そもそも一国の言論空間なんて政治勢力も右から左からワラワラ湧いてくる場所なんだから、うかつに基準を厳しくしたら、その基準が「万人」でも「マイノリティ」でもなく「特定の政治権力」の都合の良いようになってしまう可能性もある。一方で、剥き出しの、それこそ差別主義者やデマもなんでもござれの「言論の自由」が良いとも思えないし、「中立」を装って攻撃を誘発する人たちを何とかしたいという気持ちはあるので複雑なところである。
(ちなみに、個人としてこの観点から批判すること自体はどんどんやったらいい。問題なのはこの考えが強い規範になることである)
①②は曲がりなりにも論として成立しているが、③は論外である。これこそが「お気持ち」である。
これについて論じることは特にない。まあしいて言うならば、「個人的な感情の表明」自体は何ら悪ではないという事は付け加えておきたい。こういう風に、自分の感情だけで他人を思うままに動かす権利が自分にあると思っている人をまともに相手する必要がないというだけである。
①②③それぞれ、言う層が全然違ってくるということがイメージできるだろうか。
①は、左右問わずおそらくそれなりに頭のいい人、論理的な思考が好きな人が言うと思う。(ただし、論理的な思考が好きな人は左に行きやすいので、左が多い気はする)
②は、明確に左の中でも主張が強めの人が言うだろう。(なお、加害者と被害者の構造を、中国と日本あたりにすれば、右の主張強めの人たちも似たようなことを言っている)ここで重要なのは、彼らの主張は我々と大きく違うが、別に彼らは頭がいいわけでも悪いわけでもない。どちらかと言えば頭のいい人が多いと思う。
③の人は、多分単純に頭が悪い。左にも右にも真ん中にもこういう馬鹿は沢山いる。ただし、バカの中でもわざわざ自分はバカですとアピールしたがるインセンティブが強いのは右左の中でも過激な人たちだろう。
「お気持ちサヨクはバカ」みたいなことを言う人たちは、多分①②の理屈で「中立」「客観」を批判している人に左翼が多いという事と、③の人たちにバカが多い事を混同して、左翼=お気持ち=バカみたいな図式を作り上げているのではないかと思う。あと、「お気持ちサヨクはバカ」と言った同じ口で「リベラル(おそらくこの人はリベラルとサヨクをほぼ同義として使っているはず)は啓蒙思想を押し付けている」みたいなことを言っている人もいた。確かに②は啓蒙思想押し付けのダメな部分全開という感じで、③はバカである。たぶん構造としては②が③の人たちを率いて暴れまわっているという感じではなかろうか。まあそんな感じで、「中立」「客観」大好きな人たちも、③は論外として①②の理屈は普通にそれなりに通っているっていうことをちゃんと意識しよう。(まあ意識できてる人もいるだろうけど)
きょうだいの組み合わせっていくつもあって、その中でも個々の事情は様々なのに
「駄目な例」としていつも例に挙がるのって大抵は「弟のいる長女(姉)」なんだよね
同じく男兄弟のいる長女でも兄のいる長女はOK、同じく第一子の長女でも妹のいる長女はOK、
悪く言われるのはいつも「弟のいる長女」ばかり
これってもはや弟のいる長女に対する差別だと思う
発端になったの西原理恵子の娘の件は兄のいる長女で、兄と格差で大事にされていなかったって事例なのに
弟のいる長女はこれだから駄目なんだ~と
兄と妹で当たり前のように第一子長男を贔屓したり、姉と妹で妹ばかりを幼い可愛いと依怙贔屓したりする事例も多いだろうにそっちは何故か問題視しないらしい
弟のいる長女は妹がいる長女と比べて同性の親と接する機会が多くジェンダーロールを押し付けられて「女性らしい」職に就くので収入が低くなると言われるけれど、そうか?
自分も弟のいる長女だけど父親と接する時間が長かったと思うし、学歴も収入も弟よりも高いしジェンダーロールを押し付けられて育った記憶はない
寧ろ弟と一緒に遊んだ経験から男性が多い分野の趣味や特技に親和的だし、そういう人は多いと思う
自分の場合弟のいる長女である事にコンプレックスを感じるのはけして親やきょうだいからの影響なんかではなくて、ネットのこういう言説のせいだわ
仮に弟のいる長女が「女性らしい」ジェンダーロールの職種に就く傾向があるとして、そういった仕事に低い収入しか与えないのは社会の問題だろうに何故個々の家庭の問題に全てを押し付けようとするのか、疑問でしかない
元増田だけど、知ってて書いてるよ?
R-18コーナーを置いてそこに男性向けと女性向けを並べればええやんけ……
上で書いたように、R-18コーナーに男女の区別をつけなければいいじゃん(もちろんコーナー内で棚は分けるとしても)。そうすれば「男女ともに入るエロ本コーナー」になるだけだから、女性ばかりに粘着するやつが来る確率は減るよ? っていうか、普通に知り合いにBL読む男性はいるし、ますます男女で分ける意義なんてないと思うんだが(BL趣味の男性が女性向けエロ本コーナーに足を運ぶのをまさか否定はしないよね?)。
結局「自分たちだけのエロ本スペースが作れない」というところがネックになってるってことみたいだけど、それは「自分たちだけの」にこだわる方の問題じゃん。そのこだわりのせいでゾーニングができない、って言ってるみたいだけど、それがすごく都合の良い主張だってのはわかってる?
何度も言うけど、一貫性が取れてるならそれでもいいよ。「女性向けはR-18コーナーが作れない……だから男女問わずR-18のゾーニングを撤廃しよう!」なら原則派として筋が通ってる。堂々と原則派として都条例の改廃を訴えればよろしい。
でも、ゾーニングに親和的な人が「でも女性向けには事情が……」とか言うのおかしいでしょ。青少年の健全な育成のためのゾーニングよりも女性向けエロ本を気兼ねなく買える方が大事です、って言ってるのと同じじゃん。子供は保護されるべきみたいな建前どこ行っちゃったの?
結局、ゾーニングという建前を掲げながら自分たちの欲望を優先させるから批判浴びるんだよ。素直に「いや青少年の健全育成とか知らんです。ゾーニング反対」って言っときゃいいだろ。そうすれば「表現の自由戦士だ……」と思われるかもしれないけど、表現の自由戦士から裏切り者扱いはされない。自分たちはゾーニングを理由つけて拒否るくせに「ゾーニングは本来すべき」みたいなこと言うから裏切り者のコウモリ扱いされるんだよ。もっと表現の自由戦士の顔をしろ。
っていうか、
例えばBLコーナーを全部R18にしたら今度は学生が入れないとか(中略)そもそも目立ちたくない消費者がいて無視できなかったり
こういうこと書くから男女平等派から批判浴びるんでしょ。あのさぁ、男子学生は現在のゾーニングではエロ本コーナーに入ることを許されてないんだけど? なんで男子学生に認められてない権利を女子学生には認めようなんて思えるの? 男子学生にもエロ本コーナーへの自由な出入りを認めるか、女子学生をエロ本コーナーから排除するかの二択でしょ。女子学生をBL売り場から排除したくないなら男子学生が女体エロ売り場から排除されてる現状には否定的であるべきでしょ。
そこでダブルスタンダード使うから男女平等派は呆れてるわけ。「男女平等なんて知らん! 我々は女の利益だけを考える!」と高らかに宣言するのは自由だけど、そうすると男社会で女が不利受けるのは仕方ない、男が男の利益だけを考えるのは当然、ってことになっちゃうよね。ちゃんと男女平等をやりましょう。
そもそも元増田で書いたけど男性だってエロ本コーナーへの出入りは恥ずかしいよ。その先に欲しいものがあるから羞恥心とかをねじ伏せて入ってるだけ。女性はその負担をしたくない、というのはわかるけど、だったら男性もその負担から解放されるべきでしょ。
結局、現状がそうなってるってのは知ってるけど、その現状を支える理屈がゴミすぎて相手にならんわけよ。ダブルスタンダードをやめろ。ちゃんと男女平等や青少年の健全育成をやれ。話はそれからだ。