はてなキーワード: 親和的とは
Twitterにもはてブにもいない「普通の市民」が共産党と連立を掲げてる候補者に投票する訳ないのよ。
この前の広島補選で勝利した宮口はるこは「立憲・国民民主・社民」の推薦を受けて当選した。ここに「共産」が入ってると勝てないのよ。だから推薦も応援演説も拒否するわけ。
長野補選で当選した羽田もそう。共産党の推薦がついてないでしょ?だから勝てた。
もうね、「共産」がついてると普通の市民は入れたくないわけよ。
立憲の中で共産党に親和的な議員(小川淳也とか)も、選挙出るときに「共産推薦」がついてると勝てないわけよ。
「連立組みます」って宣言するのはそれ以上に強い影響力がある。
京都市長で「大切な京都に共産党の市長はNO」って広告が出たのはそれだけ反共に効果があるから
「今の政権に不満があるし、今回は現職に入れるの辞めようかな」って層の受け皿にならない。
むしろ「共産党連立政権を阻止しないと」って気持ちが働いて自公に投票する。
今の選挙制度で立憲が票を伸ばすのは「共産党との連立を否定」+「共産党と選挙協力」しかない。
それが小選挙区比例代表並立制
とにかく共産党支持者は連立とか言うの辞めてほしい。めちゃくちゃ迷惑。
閣外も閣内もあり得ない。「与党外協力」でお願いしたい。
共産党内で連立の夢見るのは勝手だけど、それを公言されると立民の票が減るから。
共産党支持者が「とにかく自公政権を終わらせたい」なら、連立を口にせずに影で立憲のアシストをしてほしい。
連立組んだほうが良いとかいう立憲支持者は、Twitterのノイジーマイノリティに流されすぎ。
それも突然変異のように現れたのではなく、前々から隠然と人々の心のなかに息を潜めて存在していたんですよ。
コロナになって、人々が完全に分断されて、
建前の薄皮一枚で繋がっていた社会の紐帯がボロボロと解けていったのです。
今までは言えなかったけれどコロナ禍の今なら言える、
文句いうだけの立憲民主党その他野党は根絶やしにされてほしい、
遺伝子操作ワクチンなんて作るやつ打ちたがるやつ全員死ねばいい、
等々、分断を糧にあらゆる憎悪が軛から解き放たれて自由を謳歌する時代。
いまはてなブックマークではこの憎悪の自由を謳歌するブックマークコメントで溢れかえっています。
始めに自分のスタンスを明確にしておくと、オリンピックの開催は反対、もし反対を表明するアスリートが居れば非常に尊敬するし支持する。
でもアスリートに反対表明を求めるのは違うと思っている。
この件に関して左翼の人達の反応が思っていたより酷くて驚いている。(勿論例外も居たけど)
殆ど陰謀論の電通による工作と決め付けたり、CMや政治家に成る等のスポーツ以外の利益追求の結果だと勘ぐる人が居たり・・・・。
どうして大きい組織や権力者じゃなくて、立場の弱い個人を攻撃するのだろうか、
全体の為に個人のスポーツ人生を犠牲にしろ、と言うのは全体主義的だし、選手個人の自由を過大評価して彼女らの受ける批判を自己責任に還元してしまうのは極めてネオリベ的な仕草だと思う。
弱い個人への攻撃、全体主義、ネオリベ、それをあなた達は批判して来たのでは無かったのか、あなたは今批判対象と同じ事をしていないか、一度冷静に考え直して欲しい。
一方で「選手個人ではなく主催者であるIOC、IPC、国、東京都、組織委に五輪反対を求めるべき」と言う左翼の人も居て、安心した。正しいと思う。左翼全体が全体主義やネオリベに染まっている訳では無い。
ただやはり気になるのは「私に反対の声を求めても、私は何も変えることができません。」という池江選手のツイートに対する左翼側の批判だ。
「池江選手には影響力が有る、何も変える事は出来ないと言うのは嘘」といった批判が有る様なのだけど、「影響力」というのは抽象的すぎる。
具体的に何が出来ると想定しているのだろうか?
批判側が彼女に求める行動は簡単に分けて2パターン考えられる。
①池江選手は五輪中止を実現できる影響力を持っているので、五輪中止の為に動くべき
②池江選手は五輪中止を実現できる影響力を持っていないが、五輪中止の為に動くべき
この2パターンだ。
①の場合は一部の五輪賛成派から彼女自身バッシングを受けるかも知れないが、少なくとも五輪中止と言う成果を得られる。やる価値は有るかも知れない。
しかし②の場合は彼女のスポーツ人生に深く影響を与え、バッシングも予想される選択を迫っておきながら、五輪中止という結果も得られない、最悪のケースだ。
左翼の人達が①と②、どちらの想定で、どちらを彼女に求めているのか、まずは自覚するべきだと思う。
彼女が五輪中止に対する実効的な力を持っているのかいないのか、という問題は彼女に行動を求める事の倫理的な是非を検討する上で非常に重要な事だ。
では、左翼の人達は池江選手に何が変えられると思っているのだろうか?それを知りたい。教えて欲しい。
個人的には池江選手一人が反対を表明した所で、五輪の中止には影響しないと思う。
彼女には影響力が有る、でもそれは精々中立的な国民が反対派へ傾く程度の影響力で、五輪の開催に実際に権限を持つIOCや組織委や東京都の権限者が彼女の反対で心を動かされる、なんて幼稚な願望に過ぎないと思ってしまう。
私の認識では国民は既に反対派が多い、それでも中止に至っていない五輪に、国民への影響力が特色のユニットが今更大した影響が有るとは思えない。
だから私は「私に反対の声を求めても、私は何も変えることができません。」という池江選手のツイートは正しい現状認識だと思うし、だからこそ彼女に反対を求めるのは彼女にとって損しか無い選択を求める人権侵害では無いかと思う。
彼女を批判する左翼の人達は、そうではない、と言う事なんだろうか。
だとしたら、具体的にどういうシナリオで彼女は五輪中止への影響を持つと考えているのか、教えて欲しい。
彼女がIOCや組織委の上位者達に言う事を聞かせられる権限なり能力なりを持っていると思っているのか、それとも彼女の反対の声で国民が蜂起し五輪を中止に追い込めるのか、
彼女のその影響力は彼女固有の物なのか、それとも五輪参加予定の選手なら誰でも五輪を中止させられる力を持って居るにも拘らず、全員が現状それをしていないのか。
或いはN人以上の選手が反対を表明する事で中止に出来るのか、その場合Nはどの程度の想定なのか、等々、具体的に教えて欲しい。
その内一部は、五輪開催に反対を表明したアスリートが現れれば検証できるだろう。五輪反対を表明するアスリートが出現したにも拘らず五輪が中止に至らなかったら、批判側の根拠は棄却され、池江選手の「私は何も変えることができません」という想定が正しかったことが証明される可能性が有る。
もしあなたが今想定している「彼女に何が出来るか」が実際には正しくなかった場合の事も考えて欲しい。間違った根拠で彼女に反対を求め、批判し、陰謀論や勘繰りをしていたとしたらそれはどれくらい非倫理的な行いなのか、もしあなたの根拠が崩れた時はどういう手段で贖うつもりなのか、具体的に考えておいて欲しいし教えて欲しい。
「影響力が有る」なんて曖昧でぼんやりした表現で、反対を迫ったりそうしない事を批判するのは、池江選手の自由を抑圧する行為で、倫理に悖る行為だと思う。批判するなら、彼女が何を出来るのか、具体的に想定し、それを表明してからでは無いだろうか?
なんで「一人だけ」の前提なのかね。そりゃ一人だけなら変わらないでしょうよ。こういうのって同調者を募って大きいムーブを起こして変えていくものでしょ。その運動を起こす力を「影響力」と言っているのでは。
え・・・・?「或いはN人以上の選手が反対を表明する事で中止に出来るのか、その場合Nはどの程度の想定なのか、等々、具体的に教えて欲しい。」と書いてありますよね?明らかに「「一人だけ」の前提」じゃないんだけど、なんでこのコメントに成るの?
ドン引きなんだが、日本語読めてる?単純に馬鹿なの?それとも読んでないだけ?本当に怖いんだが、このレベルなの?ここの人って・・・・。それともこの人が特別馬鹿なだけ?流石にこれは無くない?
で、「その場合Nはどの程度の想定なのか」教えて欲しいんだが、大体で良いので。
風向きを変えられる/恐らく影響力のある選手が反対を示せば、それに追随する選手はいる。池江さんがそれをしないことは個人の選択だと思うけど「なにも出来ない」ことは事実ではない。(「しろ」と言うかは別の話)
風向きって・・・曖昧過ぎない?それはどの位信頼性が有るものなの?「恐らく」って何?他の選手が追随しなかったor追随しても何も変わらなかった場合の責任はどう取るつもりなの?
悪いけど今私は池江選手へ反対を要求し、それをしない事を批判している人たちの話をしているんだわ、それは文章を読めば分かるよね?
他人の本来「個人の選択」である事を要求、批判しておいて、その程度の信頼性で本当に問題無い認識なの?
聞きたいんだけど、それは他の件でも同じ考えなんだろうか?私は成るべくこの事を覚えておいて今後のあなたのコメントを読むつもりだけど、今後どの問題についても同様の認識だと考えて大丈夫?訂正しなくて大丈夫ですか?
あと、私が聞きたいのは具体的なシナリオです。少なくとも他者の「個人の選択」に要求、批判するに足る程度の、実現性と現実性を備えた具体的なシナリオです。
「風向き」等と言う曖昧な言葉では無く、具体的に誰辺りが追随する希望があり、それによってどういう影響が有って、最終的に中止に行き付くのか、教えて貰えますか?
ブコメでは足りないと言うなら、あなた確かブログやっていましたよね?文字数制限は無いですよね?
それとも、「ブログに書くかどうか」というあなたの「個人の選択」だけは、池江選手のそれとは違って、要求されるべきでない不可侵の権威を持っていたりしますか?だとしたら申し訳御座いません。謝ります。
(一応書いておきますが、私自身のスタンスは池江選手の場合と同様、あなたが書くかどうかも完全に自由です。仮にそれをしなかったとして、それを責める事は有り得ませんし、しない事はあなたの如何なる落ち度でも有りません)
一応、個人的には特に最終的にIOCや組織委や東京都のどこの(もしくはすべて?)具体的などの権限者に届いて中止に至る算段なのかと言う点が特に曖昧だと感じています、その点を明らかにして頂ければ尚幸いです。
また、今後池江選手(又は他の選手)が反対を表明し、その結果として「風向きが変わらなかった」と言う結果が出る可能性は有ると思いますが、もしそうなった場合にあなたがどういう風に責任を取り、或いは贖うつもりなのか(それとも贖いは不要と考えるのか)非常に興味が有ります。
少なくともグレタの演説のあと、欧米は化石燃料の排除に動いた。#KutooもBLMも最初は少数の人間が始めたムーブメントだったろうよ。いつまで個人と社会を切り分けてんだ?一人で諦めてろ。
欧米だったら意味は有ったかもしれないとは個人的には思うよ。(まぁ欧米だったら、この極めて日本的な自己犠牲の強制(自粛”要請”の様な)がそもそも通用し許容されたかは疑問だが)
しかしそれがIOCや組織委や東京都に同様に適用できると思う?
こう言っちゃなんだけど、随分信用してるんだね、私は正直に言えばそこまで信用できない。何でそこまで高評価出来るのかが分からない。その評価は他の場でも一貫している物ですか?場合によって都合よく上下したりはしていない?
あと#KutooやBLMは告発者や発言者自身の意志で行われるもので、他者から強制されたり要請される物では無いという認識なのです。間違っていますか?
「いつまで個人と社会を切り分けてんだ?」は意味がよく分からなかったんだけど、非常に全体主義的な思想を感じさせる言葉なんだけど、自覚は有るのだろうか?
社会的な要請で個人の自由を侵害できるという考えだとすれば、それは限り無く右翼思想に近いし、保守思想に親和的だと思うんだけど、あなたはあなたの個々の意見や思想が実際には(自らの意図を離れて)どの様な意味を持ってしまい、悪用され、悪影響を与え得るのか、ちゃんと考えていますか?
最後に、「一人で諦めてろ」と言っている先は誰ですか?私はここで「池江選手が諦めている」話をしています。あなたの意図如何に関わらず、その文脈上、「一人で諦めてろ」は池江選手へ向けた言葉として意味を持ちます。
他者に自己に不利益になる行動を要求し、それをしない事を批判しておきながら、「一人で諦めてろ」とはどういう意味ですか?
一人で諦めている人にわざわざ口を出して自己に不利益になる行動を要求し、それをしない事を批判しているのはあなた達でしょう?
あなたはあなたの言っている言葉の意味の意味を本当に理解して書き込みをしているんですか?自分の文章がどのような意味を(時に意図に反して)持ってしまうのか、本当に理解しようとしていますか?
もしそうでないなら、あなたはあなたの言葉の悪影響を制御する能力に欠けているし、その様な幼稚さに安住している限り、今回の様な倫理的にバランスを取る事が難しく、常に誰かを傷付けたり蔑ろにしてしまう危険を持つ問題に言及するには適任ではありません。
言っている意味が分かりますか?あなたは子供です(あるいは子供レベルです)、人を傷付け得るような場所では遊ばないで下さい、危険です。
呉座勇一「炎上」事件で考える、歴史家が歴史修正主義者になってしまうということ | ハーバー・ビジネス・オンライン
https://hbol.jp/241894 @hboljpより
ブコメ→
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/hbol.jp/241894
そもそもの発端が網野善彦先生であったというのに、網野氏が最も嫌悪した「党派性」でしか発想できない貧相なコメントが多いのは、憂うべき事態だわ。
網野氏がまず嫌悪したのはスターリンの「民族」観の転向により始まった1950年代の「国民的歴史学運動」で、運動内では、民族を近代の発明としていた歴史家たちは「近代主義者」として「査問」され「自己批判」を迫られた。
(まあ、査問された中には、元々のスターリンの公式に沿っていただけの人もいたかも知れないが)
国民的歴史学運動は、信じられないことに、1955年の権力闘争による日本共産党の方針転換、俗に言う六全協で終わりを告げる。
内部に葛藤を抱えない人間は、今でもこうした運動に乗せられてしまう。
北守氏の記事が深まらないのは、「歴史は誰のためのものか」という、網野氏もまた生涯をかけて葛藤し向き合った歴史学の問いに、「歴史修正主義者」というレッテルや、「つくる会と親和的かどうか」という軸だけで答えてしまう点だ。
「国民の物語」は別に、悪しきナショナリズムのためだけに求められるわけではない。
最低限のナショナリズムがなければ、「日本の歴史」を我が事として捉えることも不可能になってしまう。
なぜ戦後間もない時期に、それが盛り上がったのか考えてみたことはあるのだろうか。
その意味で求められる「国民の物語」に接近するだけで、「歴史修正主義者」のレッテルを貼るのは、およそアカデミシャンのする事ではない。
網野氏だけでない、呉座氏も亀田氏も、そして今回は被害者である北村氏も、その「国民の物語」に対する葛藤を理解して発言していた。
北村氏は網野氏について「ロマンティックがとまらない」としていたが、このロマンこそ国民の物語に対する距離感だ。
網野氏はそれこそ「実証的でない」という評価を受けることの多い歴史家ではあるが、北村氏をしてなお「その愛と情熱、ロマンティックが分からないのも問題だ」としている。
全くその通りだ。
北守氏の限界は、つくる会やラムザイヤーを「悪」の運動とし、その運動を無力化するためだけに論を張ってしまう所にある。
【追記】
分かっていての揚げ足取りだろうし、こんな説明をするだけ野暮だけど、
いわゆる「歴史修正主義者」は大問題ですよ。実証性に欠けることが多いからね。
北守氏は、
⑴
・いわゆる典型的な歴史修正主義者と「国民の物語」という問題意識を共有した、あるいは関わりを持った
だけの歴史家について、「歴史修正主義者だ!」と一段跳びに断定してる。
「リバタリアン」は自身の正義としてアファーマティブアクションが許し難い、ってとこに古典的にはラディカルフェミニズムと分類されるであろう現代フェミニズム(特にTwitter)との相性の悪さがある気がするんだぜ! リバタリアニズムは自身の力で成功してきた(いわゆる文化資本の問題があるので正確には自身の力だけではないんだけど)階層・人とは親和的なので、結構ハマりがちかもね。
だってあの人自身にそんな明確な主義やポジションなんかねえじゃん
論破王っていうのも昔っからずっとそうで、その時その時で論破しやすい方に憑依しているだけ
だから主張の一部だけ切り取ればリベラルそのものということもたまにある
(たぶんリベラルさんにはそういうとこが一番ムカつくんだろうね、論法だけは借りるけど俺らに忠誠を誓うわけではないっていうのが)
「ヤクザ」ならともかく、「オウムみたい」っていうのは単純に2chとひろゆきをダブらせてるだけで、あいつの本質ではない
ちょっと前のフェミみたいに「2chの管理者だったからこいつはミソジニーの親玉!」みたいな短絡的な発想をするバカがいるんだけど、あれもうただの恥さらしだからね
もちろん、そういう輩や誹謗中傷をする連中に場所を貸していたことに、全く道義的責任がないわけじゃない
裁判から逃げて金も払わないという行動に至っては擁護のしようもない
せいぜいどこにでもいるただのネオリベ
https://anond.hatelabo.jp/20210318200022などから
ウマ娘のオタク達の対応に関連して彼らの欺瞞が明らかになったのでまとめておきます。
フェミニストがウマ娘を批判し、オタク達の間で言う「放火」を行っているという噂はデマでした。
アフィブログと自由戦士のエア炎上であった事が既に明らかになっており、
むしろフェミニストはウマ娘そのものに関しては概ね好意的に見ているのが実態です。
ウマ娘の権利元であるCygamesが、エロに対して厳しめの規約を発表するや否や、
過去繰り返し「何がエロかわからない」を連呼していたオタク達が一斉に何がエロかを理解して明確にわきまえました。
要するにわからないなんてのは大嘘で、論理ではなく単にフェミニストや女性が気に入らないから突っぱねていただけ。
オタクの「何がエロかラインを示せ」などというのも、単なるシーライオニングであった事が明らかになりました。
オタクは「二次創作は権利者の黙認、winwinの信頼関係で成り立っている。なので権利元の意向には従う」と弁明するも、これも嘘。
過去に公式が二次創作に釘を差した例は幾らでもあり、その度に反発するオタクは絶えませんでした。
最近の事例でもエヴァのガイドラインに文句をつけ、「実質的な黙認ではないか」と言い出す人も出る始末。
冷静に考えてみても、プリキュアなど児童向けの作品でエロや強姦を描く二次創作がwinwinであるはずなどなく、
オタクの態度の問題点に関して、とても的確なコメントをされているブクマカがいたので引用します。
フェミが焼いたみたいなデマを元にしてる時点で評価できない。そもそも自分たちがやってること、消費してることに対しての危険性を自覚しろ。開き直るな。それこそ同じオタとして迷惑だ。
フェミニズムに親和的な人間もそれぞれの趣味に傾倒するし創作もするよ。そのなかで誰かを傷つける可能性に葛藤も悩みもするよ。だからこそ不誠実な「何がエロかわっかりませ~~ん」に怒るんだよ
このお二方の言葉を胸に刻んでください。
オタクは創作物(主にエロや萌え絵など)に対して無謬性をあまりに過信しています。
普段あなた達が消費している表現が誰かを傷つけ、差別を助長、肯定している可能性がある事を自覚してください。
コンテンツを消費する事そのものを咎めはしませんが、危険性を念頭に置いた上で鑑賞する習慣をつけてください。
そしてフェミニストを始め、作品や表現に対する指摘や疑問に対して真摯に耳を傾けてください。
また、オタクの方達はしばしばフェミニストは表現物に関心が無い、生産者でもないような言い方をされていますが、それは誤りです。
上記の方が仰るように創作を行うフェミニストも大勢います。私も趣味で絵を描きますが、表現には最大限の注意を払います。
一次創作二次創作問わず、オタクの表現者の方達は自分の表現が誰かを傷つける可能性にもっと悩んでください。
そして、くれぐれも開き直るような真似はやめてください。
フェミニストはオタクコンテンツそのものを敵視しているわけではありません。
適切な配慮がされていればフェミニストは表現者を応援しますし、現にオタクとフェミニストを両立させている方もいらっしゃいます。
https://anond.hatelabo.jp/20210318200022
この増田について、ブックマークのコメントで気になったものに返信させていただきます。(長すぎて切れてしまったので増田を分けることにしました)
碧志摩メグの件で不快感を示す海人さん達を叩き、映像研で作者を叩いた人達たくさん居たよね。権利者が言ってるのにそれはないだろうと思う。あと、オタク兼フェミニストも沢山いるので勝手に対立させないでくれ
碧志摩メグさんの件は実はこの件に関して物凄く重要な例だと思っています、ナマモノとそうでないものの境界だからです。後程詳しく説明します。
映像研の作者さんはこの文章を書く上で念頭に置いていました(具体的には(ここにも例外はあり、明確な基準を出すケースもあります)辺りで)、ただ「叩いた人達たくさん居た」と言うのが自分の印象と異なっていて驚きました。恐らく観測範囲の問題だと思うのですが、自分の見える範囲では大部分のオタクに受け入れられていたので自分の中では「一次創作者が基準を出し、受け入れられた例」として記憶していました。
あとオタク兼フェミニストが居るというのは文章中も書いた、と言うより結論部で強調したはずですが・・・・どういう意図のコメントでしょうか・・・・・?
対立しているとも書いていませんし(集団間に信頼関係は無いとは書きましたが・・・・)、互いに信頼関係の無い集団の両方に属する人が居るのは当たり前の事です。
オタク兼フェミニストが存在するという事実は私の論旨にとっても非常に重要な事実です。既に書いた通り、それは二次創作を取り巻く環境の特殊性を知っているフェミニストの方が居るという事ですから。
そもそもウマ娘に関しては騒いでる「フェミニスト」というのは最初から存在せず捏造デマの嘘松エア炎上だったで決着してたはずやがこの増田はいったいどこの「フェミニスト」に向かって言ってんのや?
誤解がある気がするので詳しく説明します。私が念頭に置いているのは以下の増田さんの冒頭で引用されているツイートです。(尚、この増田さんの文章はフェミニストへの敵意が露わになって居る為、閲覧には注意が必要だと思います。内容としては似通ったことを言って居るかも知れませんが、態度に私は同意出来ません)
https://anond.hatelabo.jp/20210317235416
ここで引用されているツイート主の方は別の所で見た事も有り、フェミニストの方だと認識していますが、それ以前にツイート内で「フェミニスト」と「それに「どこからエロくてどこからエロくないか線引きなど出来ない」と言う人」が登場します。
ここで質問なのですが「ウマ娘に関して騒いでる「フェミニスト」」とはどのような人を想定されているのでしょうか?
さっきのツイート主の方の事でしょうか?であれば存在します。そうではなく例えば「ウマ娘自体を(性的であったり、動物を女性化しているという理由で)批判しているフェミニスト」という意味であれば、私はそのようなフェミニストの方をそもそも想定していませんし、文章内でも触れていないはずです。(もしそうであれば、どこからそういう発想が出て来たのか良く分からないです・・・・)
私が想定し、理解を求めているのは「オタク(二次創作者)は一次創作者とフェミニストで態度を変えているじゃないか」と違和感を持つフェミニストの方です。そうした方の存在は先のツイートで居るのだと認識して書きました。
同様の誤解を与えてしまって居そうな方を挙げます。私の文章が分かり辛く、すみません。
今のところ私は「ウマ娘を叩くフェミニスト」を見たことないんだが…なんか仮想敵作ってシャドーボクシングする案件増えてないかなあ…。
本作品で「エロいから/女性の性的消費だから引っ込めろ」的な「いつものフェミニスト」の過激主張ってそんなに大きかったっけ?エア炎上は有ったがまさかソレが既成事実化しててその前提であちこち話が広がってる?
フェミが焼いたみたいなデマを元にしてる時点で評価できない。そもそも自分たちがやってること、消費してることに対しての危険性を自覚しろ。開き直るな。それこそ同じオタとして迷惑だ。
ウマ娘は「『フェミが炎上させてる』は嘘だった」が知られているし女性にも人気なのでそっとしたいてほしい。オタクは嘘炎上でも構わないから女叩きがしたいんだ、とまとめて敵視されたくもない。テイオーかわいいよ
恐らく同様の誤解を与えてしまって居ますね。申し訳ございません。
恐らく想定されているような「ウマ娘を叩くフェミニスト」はこの文章では元々想定していません。あくまで「オタク(二次創作者)は一次創作者とフェミニストで態度を変えているじゃないか」と違和感を持つフェミニストの方向けの文章です。
「一次創作者と二次創作者の信頼関係」に対して、「フェミニストとオタク」を当てはめてる意味がわからないんだけど。せめて、「フェミニストと表現者」では? 「オタク」というのはどういう存在なの?
これは実は非常に重要な点です。実は先の元になったツイートで私も良く分からないのがこの点なのです。
ウマ娘における曖昧な基準でも受け入れられる暗黙の関係は、ご説明した通り「一次創作者と二次創作者の信頼関係」で成り立つ特殊なものです。
一方でツイート主の方が想定されている「どこからエロくてどこからエロくないか線引きなど出来ない」とする人の大部分は恐らく一次創作者でも二次創作者でもありません。つまりそこに二次創作の特殊な事情で成り立つ関係が同様に適用出来るという発想が私には不思議なのです。(そのような意味で、「せめて表現者を想定するべきでは?」という疑問は私も共有します)
ただしこうした関係が二次創作の特殊な事情に依るとそもそも知らなければ、おかしな発想ではありません、そこで私はそのような想定でこの文章を書こうと思った次第です。
また、勿論二次創作者とオタクを兼任する人は居ますので、兼任する人だけを想定している、という考えはあり得ると思います。そのような想定も念頭に置いて書いたつもりです。
「オタク」については「「どこからエロくてどこからエロくないか線引きなど出来ない」とする人」では長過ぎるので、言い換えています。「「どこからエロくてどこからエロくないか線引きなど出来ない」とする人」かつ「「ウマ娘のエロ絵は禁止」の一声で「何がエロだと受け取られ、馬主を不愉快にするか」をきちんと自分達で考え始めた人」の集合ですね。
増田はあなたがあなた自身で二次創作者に向けて「自分の作品に」配慮して欲しい旨を伝えたことがあるのだろうか。編集部などではなく自分自身で二次創作の過激なエロを止めて欲しいような事を発言したことが?
私自身は自分の作品の二次創作は自由に遣って頂いて構わないので、そういう発言をした事は無いです。
ただ、自分以外の方の例を見て、発言すれば意図を汲んでもらえそうだなと思う事はあります。
あと映像研の作者の方の件は受け入れられた認識だったので(そうではない可能性が出てきましたが・・・)、そこでも一次創作者の意図は組んでもらえそうだと考えていました。
上っ面で敵意がないとか言いながら俺らは昵懇なので口出すなって言ってしまう無能な増田だ。都合よく選んだステークホルダ間に閉じたオレオレ信頼の話じゃなくて社会一般に開いた話をしようね。
対応の差は元々問題と思わないので異論もないが、表現においてOK/NGの基準が暗黙裡に共有されるって相当特殊な状態なわけで、部外者にそれを求めるのは無茶かと。オタク差別的な表現を非難する時に基準などないでしょ
このお二方は私の文章と同じ趣旨の事を、反論という形で書かれています。つまり誤解を与えてしまって居るという事ですね、申し訳ございません。
私の文章はまさに「社会一般に開いた話」に「都合よく選んだステークホルダ間に閉じたオレオレ信頼」と同じ対応を求めるのは無茶である、と言う趣旨です。
また「表現においてOK/NGの基準が暗黙裡に共有されるって相当特殊な状態」を「部外者同士(フェミニストとオタク)の関係間にも求めるのは無茶」という趣旨です。
本当に重要な事なのですが、「二次創作者と一次創作者」の暗黙の関係の方が特殊で異常なのです。だから社会一般の殆どの関係でそれと同様の対応を求めることは出来ないし、「フェミニストとオタク」の間にそれを求めるのも不可能、という事なのです。
うーん・・・・これでも分かりにくいかも知れませんね・・・ただこれ以上どう詳しく説明すれば良いのか、苦慮している状態です。表現者としてなっていませんね・・・・。
あとは最初に言っておいた碧志摩メグさんの件について書きます。
実は碧志摩メグさんの件はこの話で非常に重要な論点です。何故かと言うとウマ娘における馬主や競走馬達と似た(しかし微妙に異なる)立場に海女さんの方々が置かれた例だからです。
まず重要なのは「碧志摩メグさんはナマモノなのか」という事です。ウマ娘の場合、限りなくナマモノに近い、と言うより個人的にはナマモノと言ってしまっていいと思います。実在の馬に対し、個体を識別できるレベルで二次創作を行っています。
対して碧志摩メグさんはと言うと、実在の海女さんという職業を対象にしていますが、個人を識別できるレベルの二次創作ではありません。海女さんという職業を対象にした萌えキャラ化という認識です。
ただし注意しなければならないのは、「職業を対象にした萌えキャラ」を全て同等だと考えるのは危険だという事です。
例えば駅乃みちかさんは恐らく鉄道スタッフを対象にした萌えキャラですが、彼女と碧志摩メグさんを同等に考えるのは危険です。何故なら海女さんという職業に就く人の少なさに加え、「伊勢志摩」という地域の限定もかかっている為、個人を識別出来るレベルでないとしても絞られる人数の規模が異なるからです。
私の書いた文章では、まず第一に法律レベルで尊重されるのは一次創作者の様に作品の権利を持っている場合か、ナマモノの様にその人自身が肖像権等の権利を持っている場合だと考えていました。
通常、職業を対象にした創作について、その職業の方が権利を持つ事はありません(例えば漫画家が「漫画家の萌えキャラを描かないで」と言っても効力は有りません)、しかし単純にそれを碧志摩メグさんに適用するのは危険だと私は考えています。
これは個人的な考えですが、碧志摩メグさんの例は、一次創作者やナマモノの対象者の様な権利者と、職業萌えキャラの間ぐらいに位置すると考えるべきだと思います。
恐らく(素人なので分かりませんが)法律的に海女さん達が碧志摩メグさんに権利を持つ事は無いと思います。しかしだからと言って彼女たちの意志を無視するのは倫理的に問題がある、というのが私の考えです。
そしてウマ娘ではまさにこうした問題に対する対応が行われています。法律的には競走馬の馬主の方々やファンの方々はウマ娘について権利は持っていないそうです、しかし権利を持っているCygamesが馬主やファンの方々の意思を尊重する姿勢を明確にしています。
こうした関係は理想的ですし、碧志摩メグさんについても同様の対応がとられていれば良かったのではないか、と考えています。
すみません、そのような前提では書いていません。
フェミニストの方の中にはオタクも、腐女子も、ウマ娘を愛好する人も、ウマ娘と二次創作者の現在の関係を理解し肯定する人も、二次創作者も、一次創作者も、その他色々な人が居る、という前提の下書いております。
特にフェミニスト兼オタクや腐女子、二次創作者や一次創作者の方は、私が説明するまでも無く二次創作を取り巻く環境の特殊性は理解されている、と言う認識で書いております。
フェミニズムに親和的な人間もそれぞれの趣味に傾倒するし創作もするよ。そのなかで誰かを傷つける可能性に葛藤も悩みもするよ。だからこそ不誠実な「何がエロかわっかりませ~~ん」に怒るんだよ
フェミニズムに親和的な人も創作する事、存じております。と言うよりも(隠していた訳では無いですが)私自身フェミニズムに強く共感している創作者の一人です。
ただ、それ故に「何が不誠実なのか」を論点先取する事には一定の躊躇を覚えます。「エロ」というものの定義困難性や明確化の困難への懸念や警戒を「何がエロかわっかりませ~~ん」へと翻訳することについてもです。
一人の創作者でありかつ創作の受け手でもある人間として、「エロ」というものの難しさに向き合うことにも誠実でありたいのです。
「何がエロなのか決めることが難しい」事が本当に不誠実な態度なのか、まずはそこを決め付けずにもう一度詳しく検討したり、議論したりすることが誠実な態度なのではないでしょうか?
フェミが焼いたみたいなデマを元にしてる時点で評価できない。そもそも自分たちがやってること、消費してることに対しての危険性を自覚しろ。開き直るな。それこそ同じオタとして迷惑だ。
この方の後半についてなのですが、ここは私自身の立場がややこしいというか、難しいのですよね。
私自身勿論オタクでもありますが、同時にその「消費」を提供する作者でもある訳です。
創作者側としては、割と好きに消費して欲しいという思いもあり、この件に対しては複雑な心境です。
また私の描いたキャラクターが特定の属性の消費に繋がるか、という事についても・・・・余り私自身の情報で変な予断を増やしたくないので暈しますが、例えば私が女性で、女性のキャラクターを消費し易い形で出したら、そこにはどのような問題が有るでしょうか?
これは女性が自身を自由に表現してよいか、という女性自身の自由にも関わる話であり、この議論はそうした様々なパターンを想定した上でなければ(つまり男性が女性を消費すると言う様な典型的なケースだけ考えるのでは)意味が無いと思うのです。
「昨年の0.84人にはコロナの影響が反映されていない。今年、来年に反映されるはずで、来年は0.6人台に落ちると予想される」。
深刻な展望だ。しかも少子化対策の責任者がそのように見ている。大統領直属低出産高齢社会委員会の徐炯洙(ソ・ヒョンス)副委員長は2日、中央日報のインタビューで「昨年の合計特殊出生率0.84人、出生児数27万2000人は、戦争や大災害を除いてどの国も経験したことがない極めて特別で深刻な状況」と診断した。徐副委員長に新型コロナの影響と対策について尋ねた。
「今年、来年に反映される。昨年4-12月の婚姻件数は13.8%(過去最大の減少)減少した。さらに保健当局が妊婦の新型コロナワクチン接種を制限した。当事者には『妊娠するな』というメッセージとして聞こえるかもしれない。婚姻を遅らせ、出産を遅らせる」
--どう予想しているのか。
「今年の出生児は25万人以下(24万人台)、来年は20万人台序盤(22万人台)に減少するとみている。出生率は今年は0.7人台、来年は0.6人台と予想する。2015年の1.24人から7年間で半分に減りそうだ」
--その状態が続くのだろうか。
「初婚の年齢がさらに遅れれば、難妊年齢(満35歳以上)の該当者が増え、第2子の出産が急激に減少する可能性がある。先に延ばしていた結婚・出産が2023年に反騰することを期待するが、容易なことではない。うまくいけば反騰し、30万人に近づくかもしれない」
--その間、200兆ウォン(約19兆円)を投入したが、なぜこうなるのか。
「大きな誤解がある。低出産予算を出産奨励予算と理解し、効果ないからなくして出産奨励に直接的な効果がある政策に回そうという。明確に言っておきたいが、低出産予算のうちに出産奨励だけを目標にするものはほとんどない。地方自治体は出産すれば奨励金を出すが、中央政府はそのようにしていない。シンガポールにはある」
「それは間接支援予算にすぎない。住宅購入・賃貸資金貸出、公共賃貸住宅事業予算、青年就職支援と雇用安定などの予算も同じだ。こういうものが低出産予算の60%を占める。間接的、派生的にも出産奨励につながる事業なら、すべてを集めて低出産予算を膨らませた。この予算は別の政策目標があるため、出産奨励のために削減したり転用したりすることはできない。児童手当・保育料などの直接支援予算も厳密にいえば家族福祉や児童福祉予算であり、出産奨励が1次目標ではない。出産奨励をしない状況になっても家族の貧困減少のためにこうした予算は維持されなければいけない。さらに家族福祉予算(国内総生産の1.5%)も先進国の半分にもならない」
「そうだ。先進国もそうする。2022年に0-1歳嬰児手当を新設し、2025年まで月50万ウォンに増やすことにした。これでコロナの影響でさらに深刻化した状況を防ぐには十分でない。2023年の出生率反騰のため特段の対策が必要だ。出生率反騰の最後の機会といっても過言でない。それで第1子は100万ウォン、第2子は150万ウォン、第3子は200万ウォンに増やす案を予算当局と協議する。0、1歳の嬰児養育の負担を減らすことが重要だ。嬰児がいる親の不安を緩和する対策が求められる。今は十分でない。第2子を産もうとすれば、夫や親が否定的だ。こうした状況を減らそうとする配慮が必要だ。第2子、第3子はさらに手厚い支援をしなければいけない」
--選挙が続くが。
「来年の大統領選挙では(嬰児手当の拡大が)争点になるだろう。どこかでこうした公約(0、1歳の第1子に月100万ウォン)が出て、選挙のビッグイベントになるかもしれない」
--嬰児手当を2021年の出生児に給付してほしいという要求がある。
「法令を改正しなければならず、予備妥当性調査を踏まなければいけない。地方政府との協議も必要だ。こうした準備期間を勘案すれば2021年の出生児に給付するのは現実的に難しい」
--李洛淵(イ・ナギョン)民主党代表は児童手当を18歳までに延長しようと話している。
「7歳以上に児童手当を拡大することも重要だが、その年齢帯は私教育費を減らそうとする努力がもっと重要だ。まずは出産が重要であり、児童手当の拡大より初期の0、1歳嬰児期の養育負担を減らすことの方が優先順位が高い」
--何をしても効果がないため、少子化対策をあきらめようという話も出ている。
「さまざまな事情を勘案すると、韓国の適正人口は3000万人などという声もあるが、たとえ適当なラインと言っても、それが維持されるには出生率2.1人(人口代替に必要な水準)が維持されなければいけない。そこまで進む過程ですでに社会の均衡が崩れる。社会の扶養費用が急激に増えるが、その過程で我々の社会が持ちこたえることはできない。過渡期の歪曲現象を考えずに話しているのだ」
--少子化が続けば、日本のように青年の就職にはプラスになるのでは。
「雇用市場への進入についてはある程度は緩和されるかもしれない。しかし日本の例をみると、賃金総額が増えていない。1人あたりの人件費が減った。増えた雇用は高賃金の良い職場ではない。高齢化が進み、老年層が老後不安のために消費を減らし、生産が萎縮すれば、雇用にマイナスの効果が表れるだろう。出生率の低下が就職難の解消や所得の向上に有利だと速断するのは難しい」
「少子化を緩和しようとする努力も必要であり、すでに進行中の少子化に適応する政策も必要だ。2つの政策の調和と協力が重要となる。少子化に適応するには教育・産業・雇用システムの根本的な変化が必要だ。そうすれば低出生率も自ずと緩和すると信じる。過去の年間出生児童70万人、80万人時代の社会システムは最近の20万人台時代には機能しない」
「今は保健福祉部が福祉レベルで人口政策と低出生率緩和政策を担当し、企画財政部の人口政策タスクフォース(TF)が低出生率適応政策を担当している。これを統合する必要がある。人口政策を福祉部から企画財政部で移管しなければいけない。福祉部が数年間、小学生の放課後教室問題を調整できずにいる。人口政策は社会資源の配分の領域であり、社会・経済政策の領域だ。これは企画財政部がしなければいけない。企画財政部人口TFを人口政策室や局にするのがよい」
「低出生率は一気に解決するものではない。家族政策と社会・経済政策で出産に親和的な社会経済システムを築く必要があるだろう。子ども1人を育てるのを村全体が支えるように、企業と地域社会もサポートする必要がある」
--羅卿ウォン(ナ・ギョンウォン)ソウル市長候補や許成武(ホ・ソンム)昌原(チャンウォン)市長の主張のように1億ウォン相当の金額を支援すればよいのか。
「1億ウォン効果は立証されていない。もしこれを支援すれば、受けることができる人とそうでない人の間の分裂、対立を招くだろう。お金のためでなく別の理由で結婚するのが難しい人を傷つけることになる。こうした対策より嬰児期の養育負担を減らすのがよい」
「昨年、第21代国会に入った後、低出産特別委員会を設置する決議案を出した。その後、政争が激化し、細部構成案に合意できなかった。それがずっと続いている」
--現政権の不動産政策の失敗が新婚夫婦の住宅難を深刻にしたという指摘がある。
「その影響がないとはいえない。しかし住宅問題よりも雇用の安定が先だ。青年の雇用が解決し、定期的に所得が生じれば、住宅の問題もある程度は解決すると考える」
--文在寅(ムン・ジェイン)大統領は低出産委員会の会議を正式に開いたことはない。
「新型コロナという特殊な状況のためであるようだ。しかし昨年12月に確定した第4次低出産高齢社会計画(2021-25年)では、文大統領が首席・補佐官会議を開いて2時間以上も討論した。当初、我々の委員会が嬰児手当を新設し、3歳以上の養育手当を廃止する案を作ったが、大統領が『保育施設に通う子には全額支援しながら、家庭養育手当はなぜないのか』と指摘し、なかったことになった。大統領が低出産委員会の本会議の資料を検討し、補完事項を自筆で指示した。国務会議でも議論した。また、2月中に育児休職制度をうまく運営する企業を招請し、第4次低出産高齢社会計画宣言式をしようとしたが、新型コロナのためできなかった」
15歳のとき、ベル・フックスの「フェミニズムはみんなのもの―情熱の政治学」を読み、それが私のバイブルになった。そこに書いてあったフェミニズムの説明を読んだだけで、それが世界を変えるとわかった。地元の図書館にかろうじてあったフェミニズム書籍コーナーに潜り込むや否や、 牟田一恵や田嶋陽子の世界に浸りこんだ。私が進学先の大学を選んだ理由は、その時すでにTwitterで名を馳せていた北村紗衣先生が教鞭をとっていたからだし、ジェンダー論の授業があるからだった。大学を出て最初についた仕事では社内セクハラの撲滅に従事し、プライベートでもTwitterや消費者運動を通じて、男女差別と戦ってきた。ほぼ十年、このために使った時間は知れない。
何が言いたいかというと、フェミニストを名乗れる人間がいるとしたらそれは自分だということ。九州の田舎で育った孤独なティーンエイジャーにとって、フェミニストの冒険譚を読むのは震えんばかりの興奮だったし、目を見開かされる思いだった。周囲にこんな人は見た事がなかったけれど、ネットを通して自分と似たような人が他にいるとわかって希望が生まれた。大学に通い始めてからは、フェミニストでいることにひねくれたプライドをもつ人を他にも何人か発見した。けれどそれはまだ珍しかったし、社会の主流な考え方からはすっかり外れていた。だから、なぜせっかくそれなりの企業に就職した自分が、社内恋愛の末の寿退社ではなく、男受けの悪い反セクハラ活動に血道を上げているのか、誰も本当にはわかっていなかったし、私はフェミニストだと言うと、ほとんどの人が眉をしかめた。月日を経て、私は同じ志を持つ仲間の輪を少しずつ広げた。職場、教育、そしてマンガアニメなどの趣味の世界。それぞれの世界で活動する私たちを、フェミニズムが互いに引き寄せた。そんな仲間の助けがあったから生き延びる事が出来た。けれど仲間を探すのは難しかった。私たちはまだ、社会の中で傍流だったのだ。
でもこの十年、状況は様変わりした。映画やドラマはフェミニズムに則って制作されるのが当たり前になった。アナ雪や逃げ恥を通じフェミニズムは恥ずかしがらずに誰もが楽しめるものになった。
そして、たぶん一番重要なのは、今やフェミニストはカネを、そして権力や地位をも持っているということだろう。世界で一番大きな、そして一番勢い良く成長している企業は女性に配慮し、女性を雇っている。日本の大企業や省庁も女性差別をやめ敬意を示すようになった。強い女性はかっこいい。私たちは勝ったのだ。
そして、そこに問題がある。私たちは未だに自分達が反乱軍かのように振る舞っているけれど、今やフェミニズムは帝国だ。十年前までは私たちはおおむね正しく、批判は的外れで間違っていた。だから他人に耳を貸さない私たちの習性は深く根付いている。それどころか、フェミニストに向けられた批判をスクラムを組んでやりかえすのが絆を深めるためのちょっとしあ儀式になってすらいる。今までは誰かの批判を攻撃するのも、かつては大したことではなかった。一握りのフェミニズムに親和的な人以外にそうした論考が読まれる事はなったからだ。そんな内なる声も、今や大きな問題になっている。フェミニストが本当の権力を振りかざしているからだ。キズナアイやラブライブのポスターへの攻撃、宇崎ちゃんのポスターにまつわる献血ボイコットは、フェミニストの私にとって恥ずべき出来事だった。けれど恐ろしいのは、その暴力的な振る舞いが、フェミニスト界隈に常在する何かと同じ感じがすることだ。それでいいという空気があることだ。ただ驚くしかない。その空気はあっという間に、誰かが大切に育ててきた営みを、無造作に叩き潰すほどに膨張した。ファミリーマートのような主流の大企業ですら、私たちの突きつけた理不尽な圧力に巻き込まれている。今や私たちは、「自分を反乱軍だと思い込んでる帝国軍」なのだ。
だから「日本は未だ後進的な男性社会で、私たちフェミニストはそれに反抗するレジスタンスであり、いつの日か勝利するだろう」みたいな、フェミニスト界隈の通奏低音はすごく違う感じがする。たしかに私たち女性は、かつては家父長制にいじめられたり、大企業に無視されたりしていた。でもそれは、私たちにカネも力も無かった頃の話だ。今や私たちには権力があり、日本の資本主義社会は私たちを標的にするのではなく仲間とみなすのにやぶさかでない。20年前の男性社会は私たちをお茶くみや家庭に押し込めようとしていたけれど、今や私たちが仕事に学術に家庭に多くの選択肢を持つ一方で、文句も言わずに黙々と経済的な後ろ盾になってくれている。
フェミニズムの愛すべき要素の一つに、共感や連帯を大切にするという価値観がある。誰かが泣いている時、証拠や事実検証は、大抵役に立たない。いの一番に、「私もあなたのために怒りたい」と表明し、それを実行しなければ社会は変わらないのだと、痛い目に遭いながら学んできた。これはフェミニズム界隈を通底するルールだ。誰かが被害を表明すれば、ただちに飛んでいって守り合う。客観的なデータに基づく結論は、提示するのに時間がかかるし決まって歯切れが悪い。だからスピードと攻撃力が高い「お前は差別主義者だ。私は傷ついた」と言い切る思い切りが習慣になる。
なのに、フェミニストが自分たちの共感の埒外にある人々へ示す冷酷さには、思わず目を丸くしてしまう。知りうるほとんど全てのフェミニストが、自分より年収の低い男性や、性的魅力に乏しくオタク文化に逃げている(と見なしている)男性を嘲笑し、あるいはそういった言説を窘めもしない。逆に高学歴、高収入な男性や、容姿に優れるなど性的魅力が豊富なタイプは、あらゆるレトリックを用いて養護し、倫理的なお墨付きを与える。収入、学歴、容姿。共感で駆動するフェミニズムは、これら男性のステータスに対してどこまでもプリミティブな接し方をする界隈だ。フェミニズムが世間を席巻し、プレイヤーの絶対数が増えるにつれ状況は悪くなっている。
解決策を知っているというつもりはない。けれどどこかで何かが間違っていると意識することはできる。現に私より若い世代では、女性たちの間ですらフェミニズムへの忌避感が広がっていると感じている。しかし私たち現役フェミニストは、フェミニズムを忌避する女性に対してどんな態度をとってきただろう?ここで口にするのも憚られる、卑劣な言葉を投げつけては、仲間内での連帯を高めてきたのではないか?こう想像するのはおかしな事だろうか――この深く根付いたクソっぷりが、若い世代を遠ざけているのでは?
あたりを見回すと、私たちが育ててきたフェミニズムが、自由への革命から威圧的な権力へと姿を変えたのがわかる。私たちは確かに素晴らしいものを生み出した。けれど私たちは不注意で、普通の人々を傷つけないための安全策を怠った。私たちは不注意で、未来のフェミニストたる多くの若者たちを成長の各段階で追い出してしまった。私たちは不注意で、世界をアップデートしたとき失うものがある人を気にかけなかった。いい目を見る人のことをだけを考えていた。(だいたい自分達のような人々だ。)
古い世代の連中より高潔でありたいと、いつも願っていた。けれど蓋を開けてみれば、力不足ゆえに無害なだけだった。体に染み付いた被害者意識は、私たちがいじめ行為に至る際の非道な言い訳と成り果てた。
だから言いたい。フェミニズムは終わりにしよう。フェミニズムは素晴らしいことを色々してきたけれど、今のフェミニズムは歪んだ復讐心と暴力衝動に駆り立てられる怪物だ。まともな答えは、これを終わらせてもっと良い何かを作り出すことしかない。
もっと良い何かとはどんなものだろう?私たちが攻撃したラブライブには希望を感じる。私たちが巻き込むのに失敗した若い世代の女性をはじめから取り込んでいるからだ。どんな未来が来るにせよ、私たちは良き人物になることを重視する必要がある。今までよりずっと。
弱さへの憎悪と、強いものへの阿諛追従は終わらせなければいけない。これはフェミニズムとあまりにくっつきすぎている。だからこの星からフェミニズムを消し去るしか、確かな方法はないと思う。
と言って細々と説明が必要な人はこのエントリを読んでも得るものはないから説明は省く
メディアにではじめた当時はクルーグマンやスティグリッツのようなリフレ派経済学に親和的な人間と見ていた
しかし、近年のコロナを巡る言動で持って、自分が思っていた以上に自己の利益のみを考えて立ち回る自己中心的で小狡いタイプの人間であると認識を改めた
今思えばリフレ派に親和的であったのも、メディアに露出して顔を売るために都合が良かったというだけであろう
今は緊急事態宣言を巡ってなんやかんや言っているが、基本的なスタンスは緊急事態宣言反対らしい
まあそれ自体はいいとして、ツイッターにて緊急事態宣言についてなぜ反対かを書きました!怒りの記事です!とやっておいて、
あー、こいつはすっかり自己保身最優先、小銭集め最優先モードに入ってるんだな、と思った
その行動の合理性についてはある程度理解するが、人間的には自分に都合良ければ立場も主張もコロコロ変える信用できないやっちゃなーと思ったよ、というお話