はてなキーワード: 分断社会とは
知らないんじゃ目指しようがないし、そういう社会ってどうなの?って話。最終的に選ばないのと、知らなくて検討もできないのでは全然違うと思うんだよね。
この映画についての物議・炎上はいくつかあって個人的にも嫌な印象しかなかったんだけど、どうせ自分一人が見ても見なくても日本での売上は芳しくはないだろうと思って見に行ってきた。
そうしたら頭の片隅でずっと考えつづける映画になったので、思うところを吐き出しとこうと思う。
深夜の書きなぐりだから色々お粗末だろうが勘弁してほしい。
長いぞ!あと普段このサイトをそんなに見ないので空気感も分からない。
一番面白かったのは、ケンがバービーをやっと惚れさせることができた!!と確信して2時間か4時間かギターで弾き語りしてたあたり。
理由はざっくり後述するけど、男社会化したバービーランドで自信満々に振る舞っていたケンが、歌詞では『こんなダメな僕でも愛してくれるかい』みたいな弱気なことを言っていたのが毒っ気があってよかった。
それで、語るに外せないこの映画の社会的な側面についてだけど、当然かなり強いメッセージが感じられる映画ではある。
興味深いのはやっぱり、この映画がフェミニズム映画として評価されているのと同時に、アンチフェミニズム映画としても評価されているところだろう。
実際映画を見てみて自分も納得した。監督は女性で、女性についての映画を撮ることが多いそうだが、実はアンチフェミニズムの厭世観たっぷりなオジサンが撮ってますと言われてもまあ分かるような映画だと思った。
バービーが住んでるバービーランドは、完全な女社会だ。もっと言えば、現実の(従来の、あるいは誇張された形の)男性社会の反転だ。
総理大臣、一番偉い検事、ノーベル賞受賞者、マスコミ、工事現場で働く人、幸せで自由な住民。そのすべてが女性、つまりいろんなタイプのバービー人形である。
バービーランドには男性もいる。いろんなタイプの、と言ってもバリエーションは限られ、全員若い男だけだが、ケン達も住んでいる。
しかし彼らはバービーのおまけだ。バービーににこやかに挨拶して、バービーにかっこいいところを見せて、バービーがいなくては生きていけないと言うためだけに存在している。
夜になって、メインのバービー(以後マーゴット)に、メインのケン(以後ライアン)がキス待ち顔をしてみたり一緒に過ごさないかと提案してみるけど、ライアンはマーゴットに気まずそうに追い払われる。ライアンはもちろん深追いしたりせず笑顔で去る。全く彼を顧みず女子会に赴くマーゴットにいい感情は抱いていないのだろうけど、その国ではそうするしかない。
そう。この映画はバービーの付属品のケンたるライアンの、口に出せない苦しみからはじまっている。
そしてその直後に描かれるのが、バービーであるマーゴットの、バービー社会での初めての違和感だ。
バービーが『死について考えたことは?』と口にした途端、鳴り響いていたEDMが止まりパーティーが凍りつく。バービーランドでは多分、深く暗く考えることは好かれることではない。ライアンも後々深く考えるマーゴットは好きじゃないなどと言う。
ギャグの文脈でもあるだろうが、ちらほら映っていた重役のバービー達の仕事っぷりもそんなに思慮深そうではなかったし。
そんなマーゴットが抱えた違和感を出発点にして、マーゴットは、勝手についてきたライアンと一緒に、バービーランドを出て現実へ旅立つことになる。現実とはそのまま、人間が暮らす現代の社会──もちろんアメリカだ。(この旅の最中も、例えばライアンが料理か何かをしている最中にマーゴットはのんびりコーヒーを飲んでいたり、ちょっとした違和感が散りばめられていた。それともこれを違和感と思う自分の認識の歪みに気付かされるギミックなのかもしれないが)
そこからはかなり端折って説明する。マーゴットが旅に出たのは自分に起こった変化を治すためだったが、マーゴットは事態を解決する人間を見つけてバービーランドへ戻る。ところがそこは、現実の『男が尊敬される』男社会に感銘を受け、一足先に舞い戻っていたライアンによってケンダム(ケンの王国)に作り変えられてしまっていたのだ。
バービーたちは軒並み『洗脳』されており、大統領がメイド服でビールを運んだり検事がケンにマッサージをしてたりなどなど、変わり果てた有様にマーゴットは絶望するが──『変化』が嫌だと泣きわめいて──しかし、連れ戻った人間がバービー達をその洗脳から解き放つのだ。
バービー達はケンたちによる憲法の改正を食い止め、バービーランドに平和が戻る。
これが大筋だ。
この洗脳の下りは紛れもなく『woke』の比喩。しかも2重に交錯させた比喩のはず。
wokeとはググっていただきたいが、ざっくり説明すれば、直訳で目覚めた人々を意味し、フェミニズムなどの活動家を指している。侮蔑の意味合いで使われることもあるようだ。
表層を見れば、ここで描かれるwokeはバービーたちの方だ。
人間は、ケンダムと化したバービーランドの『おかしさ』をバービーたちにぶちまけて洗脳から解き放つのだが、やってることはひたすら説得である。人間はひたすら女性の生きづらさ──家事や子育てを押し付けられながらも綺麗でいなくてはならないとか、そういう愚痴をバービー達に語りかける。それで、バービー達は突然ハッと目を見開く。まるで今ようやく目が覚めたかのように。それで洗脳はとけ、社会を変革しようと活動し始める。
でも、作品の中で一番最初に『目覚めていた』のは、きっとライアンだ。
ライアンは男が立派な仕事をし、女性に必死にならず、振り回されず、通行人が丁寧に時間を聞いてくる現代社会に感動して、現代社会を作っていると図書館の本に書いてあったらしい、『男社会』の概念をバービーランドに持ち帰った。それは日本で言うところの『海外を見て日本の異常さに気づいた女性フェミニスト』の反転ではないだろうか?
バービーランドで無価値だった自分に気付かされた、ライアンもまたwokeだったのだ。
ライアンが短時間に実際どうやって、ケンたちはともかく、バービーまで男社会に染め上げることができたのか映画の中ではハッキリとは描かれていなかった。(とあるバービーが、バービー達は耐性が無かったのでケンに洗脳されたとは言っていたが、曖昧だ)
正直なところ、ここの急展開は若干違和感だった。まるでこの映画を、フェミニズム映画に仕立てるために無理やり男社会と女の生きづらさのエッセンスを詰め込んだシーンのようにも見えて、見ている間はずっと、制作陣はこれを皮肉のつもりで撮っているのだろうか?と勘ぐっていた。
それに、その違和感は多分全く見当違いなものでもなかったと思う。
結局ケンダムの夢は崩れさったわけだが、マーゴット(それか人間だったかも)は今までのバービーランドに戻るのではいけないと他のバービーたちを諭す。
その中で初めてバービーたちは、ケンたちがどこに住んでいるのか自分たちは知らないという事実に気づく。まあ多分、バービーシリーズの商品展開について詳しくないけど、ケンの家は存在しないんだろう。
その結果、バービーたちはケンたちの人権を認めると言う。ケンたちは大喜びだ。ある一人のケンがバービーに言う。『おれも最高検事になってもいい?』バービーは真顔で即答する。『それはだめ。でも下級検事ならいいよ』ケンはそれに喜び、ナレーションが入る。『ケンたちはまだまだこれからのようです…』
かなりの皮肉だよね?
口では権利を認めながら、実際は希望の職につけるかどうかは既得権益者の許可制なわけだ。明示的なwokeとして描かれた、女性の象徴であるバービーたちがその矛盾、つまり性差別をやらかしてる様をバッチリ描いている。結局変わらない憲法も、制限された自由に気づかず喜ぶ被支配者たちも、いびつだ。
これは、目覚めた過激なフェミニストたちがこのまま突き進んだって女尊男卑が訪れるだけですよ、なんてメッセージなのだろうか?
支障がなければいろんな人にこのシーンを見てほしい。これは、おそらく確実に、どちらとも取れるシーンだ。そしてその違いはきっと、その人が、今世間にあるフェミニズムをどう捉えているのかにかかってくる。
このシーンは現実の『行き過ぎた』フェミニズムの本末転倒差を指摘するものであるとするものと、あくまで現実の女性の苦しみのメタファーであるとするものだ。
前者は先程書いた通り。こういう見方をする人は、きっと『何でもかんでも男女差別だという今のエセフェミニストどもにほとほと嫌気が差している』という昨今なのではないだろうか。正義棒を片手に暴れ回る人々の脅威を感じているので、このメタファーが真に迫って見える。
後者は、きっと現実にはこんな女性優位の場所は存在していない(あるいはひょっとして存在し得ない?)と思っている人だろうか。だからこのメタファーがフィクションとして見れる。現実の女性と男性をただ反転させて描いただけだと読み取れる。性別を反転させて世の歪さを描こうとした作品はそう少なくはないだろうし、その系列だとも十分読み取れると考えられる。
結局変わらないルール。相変わらず性別の偏った管理職の面々。覚えのある話だろう。
はっきり言って、まるで分からない。そして(驕りかもしれないが)分からないのはきっと自分だけではないと思った。現に全く真反対の2つの陣営で評価されているのだし。
映画『バービー』は絡み合った皮肉だ。ただのフェミニズム、もしくはアンチフェミニズム映画だったとして、ここまで現実と比喩とを交錯させる必要はないんじゃないか?制作陣が描きたかったのは果たしてそのどちらかの主張なのか?
多分違うんじゃないかというのが、前置きが随分長くなったが、自分の考えだ。
映画バービーの締めくくりは、なんとマーゴットが人間になるというものだった。
変化の兆しを見せつつあるバービーランドに、マーゴットは上の空だった。あれだけ戻りたがっていた、バービーらしい日常に帰れることへの喜びは見えない。そこへ(詳しくはかかないけど色々あって現実で出会っていた)バービー人形の生みの親、ルースが現れ、マーゴットに手を差し出すのだ。
変化するのが嫌だ!と泣いて嫌がっていたマーゴットが──今思えばこの変化を拒む仕草も既得権益者側の改革を拒む姿勢のメタファーかも──考えが刻々と変わり、喜び、悲しみ、老い、変化していく『生き物』である人間になることを考える。
マーゴットは人間社会に飛び込んだとき、トレーラーにあるとおり警察に捕まったり、男にセクハラされたり、バービーランドとはまるで違う現実の荒波に揉まれるわけだが、その後、座ったベンチから、人間の生活のさまを広く見渡して涙を流すシーンがある。
公園の遊具で遊ぶ子供たち。親子。親密そうに語り合う若い男性二人。老人も。
マーゴットはそこで初めて、人間というものの理解の第一歩を踏み出したのだ。
そしてふと目を開けて、隣に座っていた老女と見つめ合うと、『あなたはきれいだ』と言って涙ながらに笑ったのだった。
流し見たインタビュー記事によれば、ここは監督が決して譲らなかったシーンなのだという。少なくとも監督のコンセプトにおいてかなり重要なウェイトを占める場面のはずで、実際演出も印象的だった。
映画のラスト、マーゴットはルースとの対話の末、人間になることを選ぶわけだが、その決断のときにも、人生というものがとても美しく描かれた。
笑顔の子どもたちが映るホームビデオ風の映像がいっぱい流れたのだが、最近こういうの全般に弱くて泣きかけた。
人生に起こるいろいろな問題に苦悩しながらも、人生の素晴らしさについて描く映画は一種のジャンルだろう。この映画はきっとそれに位置する。
男女差別についてかかれていたのは、勿論テーマ自体は主役扱いで、不誠実な描かれ方はされていなかったが、他の映画における、例えば叶わない夢の話や、恋、はたまた自然環境、仕事、社会問題など、『現代社会に生きる人々において共感を得る悩みごと』としてのテーマでもあったのではないか。
だってそうじゃないと、マーゴットは、他のバービーたちに背を向けて、バービーランドを抜け出さない。理想郷に永遠に住み続けていればよくて、いずれ死を迎える人間になんてならない。この映画が、女性は女性の理想郷で生きる権利がある、なんて事だけを説く映画なら、そんなエンディングにはしないはずだ。
いま分断社会に生きる我々は日々大いにストレスに晒されている。その中でも、人生が素晴らしいのだと思えるようであってほしいと伝える映画だというのが自分の所見だ。
少し話は戻るが、最後のマーゴットのルースとの対話の中で、細かい流れはうろ覚えだけど、特に印象に残った言葉があった。
人間になりたい気持ちの間で揺れるマーゴットが、バービーとして生まれた自分が人間になっていいのか、と産みの親に訪ねる。それに、答えるルースの言葉が、
さっきこれは単なるフェミニズム映画というわけではないとか力説したばっかりだが、テストで作者が考えるフェミニズムとは何ですかなどという設問があったら、自分はこれを抜き出して回答する。
男女差別と、人間賛歌という2つのテーマを包括する答えでもあるだろう。
フェミニズムが女性のためのものか、男性含む人間のためのものなのか。どちらと答えても炎上する今の世の中で、論争を煙に巻いて、たった一つの単純明快なフレーズを残したようなコメディ映画だった。
東京は累計5万人の感染者がいて人口0.5%もの人が既にコロナにかかってるわけだが
あんななめ腐った行動して人にも会いまくってる政治家には一向に感染しない
結局のところコロナに感染するのは夜の街をはじめとした底辺が中心地にいて、その客たちと連鎖して発生してしまったクラスターと、医療従事者。およびこれらの人と接触したような意識の低い人を中心とした範囲くらいまでしか感染が広がっていなくて
政治家のジジイが油断して会食をしたって言ってもそれは高級な上級国民用の店で同じように政治家に会えるだけの階級の高い人間だけで、ウィルスに接触する可能性が低すぎるんだよな。
別に立憲民主党なんか支持していないのだが、共同通信が打った雑な記事のせいであらぬ誤解が広まっているので解説する。
まずこの演説は全容がYouTubeに上がっている。千葉8区の新人・本庄さとしさんの応援演説で、「デジタルは後ろ向き」発言は9分40秒くらいから。
https://www.youtube.com/watch?v=l_fKjRkd9Cs
演説全体の大意は「新自由主義からの脱却」である。枝野さんは現在の社会を〈新自由主義的な社会〉だと捉えていて「競争を促進し、負けた人間は自己責任だと切り捨てる」社会から「支え合い、政府が国民をサポートする」ものに変えたいと言っている。
そのビジョンの具体策として、枝野さんは短期・中期・長期の〈3つの経済政策〉を掲げる。デジタル云々の話が出てくるのはそのうちの「長期」の部分だ。
〈短期〉は、「コロナで景気が壊滅しているので、減税をした上でお金を配れ」というものだ。〈中期〉は「ベーシックサービスの拡張」で、医療・介護・保育所・障害福祉などの勤務条件を改善し、従事者を増やし、国民の老後への不安を軽減することで景気を刺激し、少子化の改善を期待するということを言っている。
〈長期的な経済対策〉は「新たな産業を勃興し、世界をリードするビジネスをして外貨を稼いで豊かになろう」という提案で、具体的には「自然エネルギー産業を勃興させよう」というものだ。「21世紀は温暖化問題などもあり、世界中が自然エネルギーにシフトしていく。日本には太陽光・風力・水力・波力・地熱などの発電技術において世界から抜きん出たものがあるので、これを推進して、自然エネルギー社会へのシフトをリードしよう」というのが枝野さんの主張である。その話がなぜデジタル化に関係があるのかというと、菅政権が〈長期的な経済対策〉を示していないからだと枝野さんは言う。「日本のデジタル状況は世界から取り残されており、そこに注力しても世界に追いつくだけで、日本の未来を輝かせることはできない」「政権が最重要課題としてそれに取り組むのはおかしい、長期的な経済対策のビジョンを出せ」というのが枝野さんの批判の内容なのだ。それを「後ろ向き」という言葉で表現している。
まとめると
というのが表題の発言の真意となる。デジタル化自体は枝野さんも賛成をしているが、優先順位や打ち出しかたがおかしいだろうという話なのだ。
記事の内容を読んでも上記のようなことは伝わらないし、扇動的なリード文がミスリード傾向を加速している。ブコメでも以下のような発言がホッテントリに入っている。
b:id:cu6gane 野党お得意の与党逆張りもここまで来ると呆れる…デジタルの対比で自然エネルギーを持ち出すとか「お前は何を言ってるんだ?」状態やん?よしんば自然エネルギー活用するにしたって今の時代デジタル必須だろ
b:id:ahomakotomahomakotom はい、立憲民主党はデジタル化反対なんですね。話にならないね。
b:id:zataku 「デジタルやITとか言うやつ=なんとなく悪、人間味が無い」と思ってる層のお年寄りを取り込みたいんだろうけど…。相手を無知だと思って馬鹿にしているのでは。
記事だけ読んでいれば、このような理解になるのは当たり前である。ブコメでこれなので、Twitterやヤフコメの惨状は推して知るべしであろう。
現在はコンテンツの消費速度がどんどん上がっている時代だ。みんな忙しいので、15分の可処分時間を使って野党党首の演説を聞く人などという人はおらず、見出しと本文を流し読みして「何いってんだこのバカ」とラベリングをして終わり、となる。
だからこそ、要約を担当するメディアの能力が問われる。そこで発言の肝要を捉えられていない記事を配信したり、PV稼ぎのつもりなのかそこにさらにヘンテコなリードをつけて配信をしてしまうと、誤読が進むどころか社会の分断をどんどんと深めていきかねない。その分断を上手く操れるものこそが為政者になるというような傾向すら、最近は現れてきていると思う。
相手が何を言っているのか正確に理解をして、対話的に批判をすること。分断社会を乗り越えていくにはひとりでも多くの人がそれをやっていくしかないと思うのだが、メディアが率先して無理解と嘲笑を煽って分断を深めてどうするのだ。くだんの記事を書いた記者、リードをつけた編集者はプロ失格である。あなたがたの仕事は、はっきりと社会を悪くしている。自分たちには能力がないのだ、社会人として仕事に向き合うスタンスに問題があるのだということを自覚して、猛省してもらいたい。
「早いうちから留学やインターン等で特別な経験を積んでおきましょう」「既卒は圧倒的に不利なので就留を勧めます」
わおすごい、留学とか就留とかそっちの世界では簡単にできるのね
いや別にしなきゃいけないわけじゃないけどさ、その選択肢が当たり前のように提示できることそのものが、ああもう生きてる世界が全く違うんだなって感じ。すごい。分断社会ってこういうことなのね。大学通うためにはバイトで稼がなきゃいけない私どもとはベースが違うのよ。あなたたち「自己破産した。本当にごめんなさい」って50歳近くの親が泣きながら子どもに謝罪してくる光景見たことないでしょ。それはもうすごい見ものよ。一生忘れられないわ
てか「ガクチカ」ってなによ。こっちが強いられてバイトしてる間に、実家の経済状況気にすることなくインターンとか起業とかボランティアとか留学とかやってる奴らにどうやって差をつけろって言うのよ。無理よ無理。そもそもの自由に使えるリソースが違いすぎるもの。私は勉強するために大学に行って、そのためにお金を稼ぐだけで精一杯
まあ大学行けてるだけ私も幸せ者だけどね。行きたくても行けない人はたくさんいるし。私はこうやってここで喚き散らせるけど、声にならない苦しみがたくさん溢れているし。それを考えると「自分はこんなに幸せなのにこんなこと考えていいのかな?」って思っちゃう。彼らの陰が私の幸せに、背中に、いつものしかかる。でも私は進まなきゃいけない。まずは自分がちゃんとしなきゃ他人だって助けられないしね
まあ私は低所得者層なりに頑張る。絶対誰よりも幸せになって、「やっぱ生きてて良かったわ~」って言いながら死んでやるからな
意外に反応多くてビックリした。やっぱ盛り上がりやすいんだねこういう話。まあ今更追記しても誰も読まないだろうけど、私の思考のログとして残しておきたいので書いておきます
「他人と幸せを比較するな」って色んな人が言ってますけど、知ってます。幸せを相対的なものとしか見れない、「勝ち組」とか「負け組」とか言ってる世の中に合わせてあえて言ってるんですよ。「クソくらえ,ブルジョワジー」なんて本当は思ってません。階級闘争ごっこです。だって怒ったってしかたないじゃん。「社会分断って本当にあるんだね〜」ってノリで書きました
別に終わりにしていいんですよ、この人生。今この瞬間死んでも「生きてて良かったな」って言える自信がありますよ、私には。人気最高潮の真っ只中で引退して伝説にしてもいいんです。でも、”あえて”生きてみたい
私が今回目の当たりにした社会分断なんて、そこら中にあります。それこそ私より貧しくて、私を「ブルジョワジー」だと思っている人もいる。多くの苦しみと屍の上に自分が立っていることを、私は知っている
そして普通は分断されたそれぞれ壁の中で生きて、終わりのない「幸福を追い求める闘争」を続けて、死んでいくんですよ。互いのことを知らぬまま
私は運良くそのゲームから脱した。だからこそ”あえて”生きて、やってみたいんです。低所得層の私が「ブルジョワジー」の中に入って、何が起きるか、どんな化学反応が起きるか、見てみたいんです。まあ何も起きなくてもそれはそれでいい。そういうものだったと諦めて他にやることを探せばいい。後悔する必要はない
「その先」を見てみたくないですか?私は見に行きますよ
「学歴分断社会」という書籍がある。日本社会が「学歴」で分断されているという論の本である。ここでいう学歴は○○卒という「学校歴」のことではなく、大卒かそうでないか(非大卒)ということである。本が出た時点(2009年)で大卒と非大卒はそれぞれほぼ50%ずついたということである。
【参考】
この本にもあるように、近年の大卒つまり高学歴コミュニティからこの層は見えていない。ここ数十年の間、学歴による分断は幼少時から始まるようになった。特に都会においては、40年ほど前から「お受験」が幼稚園から始まるようになり、その傾向はそれ以降地方にも広がっていった。いみじくも以下の日経の記事内で言及されているように、「マイルドヤンキー」という言葉の誕生そのものが格差を示している、と言える。社会の半数を占める非大卒、そのうちそれを再生産している家庭が最近になって「マイルドヤンキー」として「発見」されたのだろう。
【参考】
つまり、今子育てをしている20~30代の高学歴(大卒)コミュニティはこれらの人々をその人生で実際に目にする機会はなかっただろう。本当は昔から存在したこの層に、もしかするとこの騒動で初めて触れたのかもしれない。「あたし」という主語や絵文字は高学歴コミュニティでは非常に未成熟で礼儀正しくないと見られる。また、マイルドヤンキーが共有しているような遵法的ではない価値観には嫌悪感を抱く。
逆にマイルドヤンキーのコミュニティでは高学歴が好む礼儀正しい態度は「スカしている」など不評であろう。男性と同等の権利を主張する女性に対しては「糞フェミ」のような評価を与えるかもしれない。